えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

LDHのライブに行きたい

ライブが好きだ。
LDHが好きだ。


しかし元々、LDHが好きだったか、と問われるとそうでもない。
EXILEが好きな同級生や、三代目が好きなお客さんの話を「へえ〜!」と聞きながら
私には関係のない、交わることのない世界だなあと思っていた。
それが気が付けばこんな風に好きになって、もうすぐ、何度目かのファンクラブ更新の時期を迎える。わりとこのブログでもその話をしてきてるから、今更、そのハマった経緯を書く必要もないかもしれない。
でも、そうして何度もしてしまうくらい私にとってLDHを、また彼らが作るエンタメを好きになったことはひとつ、人生の大きな転機だった。


そんなことをここ一年と少し、よく考える。
LDHのライブだけではなく、もともとの自分の生活になくてはならなかった芝居や友人との時間が軒並みなくなったから、というのはあるけれど、
本当に面白いくらい調子が悪くなった。
体調を崩した、というよりかは、気が付けばネガティヴなことが頭を過ぎる。
そういう思考回路が随分久しぶりな気がした。

もともと私は捻くれ者だしどちらかといえば皮肉屋だし悲観主義な人間だという自覚がある。
しかしぐるぐると後ろ向きなことを考えた時、
「あ、これなんか懐かしいな」と思ったことにびっくりした。それが「久しぶり」なことにもびっくりした。



その中で、友人と話していて、それだー!と叫びそうになったので、今こうして文を書いている。

この前友人と、LDHのライブに行かなくなって、LDHに出逢う前の自分に戻ったような気がする、という話をした。いかんせん、その言葉は私を通って解釈されているし、その時リモート飲み会でお酒も入っていたからニュアンスの話にはなるけれど。
LDHのライブが無くなって、昔に戻った気がする。
もとの、世界のいろんなことに腹が立って、すぐに皮肉を言いたくなるような、無理じゃん、と口走りそうになるような、
そんな自分に私は久しぶりに再会した。



LDHにハマってからそんな自分とはお別れしたような気がしていた。
絶対負けねえ、と何があっても前を向く彼らに刺激を受けて
世界がどれだけ素敵なところか歌う彼らに感動して、
私は「変わった」と思っていた。
しかし、コロナによってライブが軒並み中止になりもうまる一年。あの、当日の中止を知らされたその時から、ライブというものに触れていない。
もちろん、彼らは無観客でのオンラインライブを4シーズンに分けて実施、
それはただネットでライブを配信するのではなく、「オンラインライブ」だからこその表現で私たちを驚かせ、物凄く楽しませてくれた。
だけどそれは「オンラインライブ」であって、
一年おあずけのままの「ライブ」とはまた別の素敵なものなのだ。
だから、生のライブ、に一年触れていない。


そうして一年過してるうちに、
お別れしたつもりのネガティヴで世界のことが嫌いで色んなことが許せない自分がひょっこり顔を出す。不安なことがたくさんあると膝を抱える。


そんな自分を持て余してもいるんだけど、
なんというか、ライブが失くなってからなんか前みたいに戻った感じする、と友達と話して、あ、だよな?!とちょっとほっとした。
なんでこうなんだよって正体不明の、たぶん世間だとかそういうものに怒って、クダを巻きながら一緒に悪態を吐いてきた友人と、ライブに行って、それから「変わった」こと、そしてライブに行けなくなって、「戻った」こと。
そういうことを「だよな?!」と確認できて、なんなら一周回って私はほっとした。


ああそうだ、ライブってやっぱり、私や私たちには必要だったんだ。
そんなことは去年からもう何度も確認してきたけれど、こういう発見はまた一つ、実感をもって私にその大切さを教えてくれた。



LDHの……特に、直人さんのパフォーマンスを観て、私はハイローという作品だけでなく事務所全体に興味を持った。

(詳しくは去年、直人さんの話をブログに書いたときに書いた)


ダンスに詳しいわけじゃないけれど、彼らのパフォーマンスが物凄いトレーニングの積み重ねがなければ成立しないことだけは画面から伝わる熱量で想像できた。
そして、実際にライブ会場に足を運び、私は何度も何度も、その熱を直接浴びてきたのだ。
何万人をも熱狂させるパフォーマンスが、歌が、彼らの全部がいつもビシバシに届く。
少しも手を抜かず、届きますように、と作り込まれてやれるだけのことを全部やってぶつけられる、あの熱が大好きだ。


そしてあの場所で、ステージ上にいる彼らと
客席にいる私たちが、もうしっちゃかめっちゃかに、楽しい!最高!!をぶつけ合うのが、本当に、心の底から好きだ。
あの言葉にはなりようもない唸るような熱が、私にとって大袈裟でもなく、人間のことを好きだなあと思える数少ない瞬間だと思う。


だってそれは、理屈ではなく、もう、信じられる何かだった。
皮肉屋に「それでも世界は素敵だ」と「ぜってえ負けねえ」と信じさせるだけの説得力と有無を言わせなさがあった。
そうして思い切り幸せにしてもらうと、もうちょっと頑張ってみよう、と自然と思えてたんだよなあ。
ほら、不要不急なんかじゃないじゃん、エンタメ。絶対いるじゃん。


ふとこのことをここ数日考えてて、そんなことを思う。そうして、私めちゃくちゃ「不要不急」って言葉に腹が立ったし、なんなら今も腹が立ち続けてるんだな、と気付く。

この記事では、LDHのエンタメに特化して書いてるけど、とどのつまり、私はそういう色んな……ライブだけじゃなく、お芝居や音楽や映画によって、背筋を真っ直ぐにしてたんだなあ、と思う。そしてそれを作ってくれる人たちに向けられる「不要不急」という刃物みたいな言葉に、もう、めちゃくちゃ、腹が立って仕方ない。


だってすごくないですか。
どうしようもなくネガティヴだった人をすげえポジティブ人間にしちゃうんですよ。
なってねえじゃん、元に戻ったんだろって言われそうだけど、そうじゃないんだよ。
別にドーピングとかってわけでもなくて、
なんか、カルシウムとって骨を強くする、みたいな、そういうものと一緒なんじゃないか。
一回の摂取じゃ意味ないでしょ、生きてるんだから。
ご飯だってどれだけ美味しいものを一回食べようが、ダメなんだから。生きていくために、毎日食べる必要があるんだから。


なんか、今回、改めて私にとってあのライブはそういうものだったんだな、と気付いた。そのことが、すごく、嬉しい。
そして同時にだから、早くまたライブに行きたい。彼らと楽しいね、最高だね、と熱をぶつけ合いたい。


2021年、LDHは生での有人観客のライブの復活を掲げている。
そして、それはきっと本気で「実現する」のだろう。安全に、全員が幸せになれる、幸せにするつもりで彼らはその方法を模索してくれているんだな、と思う。
そう思うのは、去年末に開催されたカウントダウンライブの様子がまるで反撃の狼煙のように感じたからかもしれない。各グループの魅力をそれぞれに存分に魅せ、かつ、それは去年「不要不急」と言われた中で道を探し、オンラインライブを重ねながら培ったものの結晶のように私には見えた。



負けたって決めなきゃ、それはまだ勝つ途中だ。



彼ららしいそんな言葉が、たしかに聞こえる。
どうか、彼らのステージが早く帰ってきますように。客席とステージで、熱のぶつけ合いがまた実現しますように。
私が行けるのはきっとまだ当分先だろうが、そんなことを心の底から願う。
そして、いつか私も足を運べたその時はきっとまた何倍もの力で「人生って最高じゃん!」と叫べるような、そんな気がしているのだ。

あの頃。

推しは、人生の全てで
人生の一部なんだよな。


そんなことを考えながら映画を観ていた。
冒頭「あやや」に出逢うシーンから目頭が熱くなったのは、もう何年も所謂「推し」がいる人間として過ごしているから仕方ないだろう。

この映画のキャッチフレーズは

"推し"に出会って
"仲間"ができた

だ。
観る前から予告をみて、これはまた全オタク(特に三次元を対象にする人の)へ強烈なボディブローを喰らわせそうな映画だな、と思っていた。
また、何より大好きな今泉監督の作品ということもあってかなり楽しみにしていた映画だ。
特にこの時期、楽しみな映画が一つ上映されるということは大きな奇跡でとんでもない喜びである。そんなわけで、今日観に行くことを本当に心から楽しみにしていた。


まず素直に感想を一つ述べると「思ったよりボディブロー決まらなかったな」というものがある。
それは、何も映画の出来や物語の良し悪しの話ではなく、劇中描かれるオタクのコミュニティが絶妙に自分の経験とは違うものだったからだ。

ハロプロ……特にあややが推しである釼さんとその仲間たち。彼らの楽しそうな日常に「あるある」の共感と「あ、そういうのもあるんだ?!」の驚きが交互に訪れた。
男性ファン・女性ファンの違いかもしれないし、時代や、対象ジャンルが微妙に違うからかもしれない。
所謂男子校的なノリに分かるような分からないような、という気持ちになり、そういう意味では一歩俯瞰して観たのかもしれなかった。



それでも。
あややに目を奪われ、なんだか無性に泣けたこと
走り出して買いに行ったCD、
同じ「オタク」たちと観た映像、ライブについてのお喋り
それから付随して、だんだんと「推し」と関係ない話をしていく時間すら、愛おしくなること。
それらは、例えば性別・時代・ジャンルが違えど、どこか馴染みがある瞬間ばかりだった。


最近は抵抗なく「推し」という表現を使うようになった。これは、そこにある共通認識的なニュアンスが伝えやすいのと、素直に好きな人、としての言葉を重ねていくと、ちょっと重たくなるのもあってネットスラング的なノリで、推し、と私は言っている。


実際、「推し」と同じように呼ぶ人々の中で、その「推し」の定義は様々だったりするんだろう。
し、そう呼ぶひとたちにはいろんな人たちがいる。


劇中の「馬場さん」とのシーンが物凄く好きだった。
その人にとって、推し、は色んな意味があるんだろう。そして、同じ「推し」を推していても、色んなひとがいる。同じように視線を向けていて、同じように熱狂していても、違う人たちだ。


劇中、ありがとうって伝えろよ、って会話があまりにも覚えのある会話だった。今思い出しても呻いてしまう。


ライブのアンコール前、ありがとう!と叫びたくなることや、
お芝居の面会で面白かったです、とありがとうございました、しか出なくなることを、思い出す。

あれ、客観的に観るとなんのありがとう?って言われないか不安になることもあるんだけど、
でも、本当に、ありがとう、なんだよな。



推しのステージを観るために乗り切れることって絶対にあるじゃないですか。
あと数日であの舞台がある、ライブがある。円盤が発売される、音源が出る。
そうして越えてきた夜がどれだけあるのかって話なんだよ。
あややに向ける釼さんの言葉ひとつひとつが、そういう意味では、分かる、わかる…!と泣けていた。


あなたに会うために、あなたがステージで輝く姿を観るために、今日まで過ごしてきました。過ごせました。
そして、その裏側にも私の人生はあって、
そこにもあなたのおかげで出逢った仲間たちがいるんです。


もうそんなの、ありがとう、しか言えること、ないじゃんか。


今泉監督の、日常シーンが私はすごくすごく好きで、なので今回も、本当に何気ないようなシーン一つ一つが温泉みたいに心地良かった。
し、なんか、今改めて考えながら、あの頃。の好きなところは、ずっと「推し」の話をしてるんじゃなくて、
なんならだんだん、推し「以外」の瞬間も増えていくところで、それがまた丁寧で、なんか、好きな温度感で描かれていて、それが、本当にすごく、好きだった。
推しだけで、生活してるわけじゃなくて、推し以外の人生も大切な人生の一つで、
なんかそれって別に分けてする話じゃないんだよな。
釼さんとナカウチさんの、あのライブハウス終わりの会話がすごく、好きだった。あのシーン、ずっと観ていたかったな。



同じようにオタクな私だけど、当然、釼さんたちとは違うから、あれは彼らの「あの頃。」だ。
だけど、どこか懐かしくて恋しくて、
そしてだからこそ、彼らが楽しそうなこととか、そういう色んなことが無性に嬉しかった。
嫌な奴なところもたくさんあるし、共感できないこともたくさんあるんだけど、
なんだか総じて、そうなんだよな、推しがいること、そこで出逢えた人たちがいること、そして、そこから今があること、全部ぜんぶ、最高なんだよな、と思っていた。思えた。



あの頃、はよかったなんて言うつもりはない。
生きている今が1番だと、推しはいつだって教えてくれたからだ。
びっくりするくらい唐突に、私たち「オタク」の毎日を、色鮮やかに変えた「推し」が、そこで出会った「仲間」が、
毎日の楽しいこと、をくれたのだ。
その毎日は、今日と続く「あの頃。」なんだと、なんか、そんな気持ちになって帰ることができたことが、すごく、嬉しかった。



それはそれとして、また「オタク」と「推し」の話をしながらバカみたいにたくさん、笑いたいな。

そこのみにて光輝く

知人のおじさんが亡くなったらしい。
小学生、いやもしかしたら中学生だったかもしれないが、やさぐれた気持ちの時に決まって遊びに行く家のおじさんだった。白い犬を飼っていた。賢い犬だった。その犬も、大学で実家を出た少し後、亡くなったと聞いた記憶がある。
体調が優れず病院に行き、大きな病気が見つかって、それからはあっという間だったらしい。

私は、その知らせを母から受けた時、なんとも言えない気持ちになった。言葉にしてはいけない気持ちになった。

子どもの頃のような親しみはなかったけど、関係も悪化していたわけじゃない。少し記憶に曖昧なところがおじさんは出てきていたけど新たにきた犬の散歩を良くしていて、実家に帰ると愛犬の散歩をするのが好きな私も、何度かすれ違っていた。
だというのに、私はその知らせを聞いて言葉にしたくない気持ちになった。



そこのみにて光輝く、は函館を舞台にした話だ。
事故により山に戻れなくなった達夫が怠惰な生活を送る中で、パチンコ屋で拓児に出逢う。ライターをあげたことをきっかけに家に呼ばれ、拓児の姉、千夏と互いに惹かれあっていく。


覆うような閉塞感か、その中でももがく様か。
なんだかよく分からない感情が喉奥でぐるぐると鳴っていた。



惹かれあっていく様子は、可愛らしくて愛おしくて、それでいてどこか寂しい。惹かれてるのか、なんでなのかも言葉少なに、何度かにわたる二人の時間が描写されていく。
それでも、目を合わせて心底嬉しそうに笑う二人が好きだ。それまでどこか昏い目をしていた達夫が少しずつ生き返っていく。


人の目ってこんなふうに生き返るんだなあと思った。光の具合か、それとも嬉しそうに動くからか、表情が変わるからか。
なんでかは分からないけど、あるシーンを境に彼の目ははっきりと生き返る。血が流れる。生きようと大きく息をする。
本当に、あの絶妙な温度をなんで綾野剛は演じられるんだろう。
定期的に、彼の芝居が観たくていくつかの作品を見るけど、オタク的に言うと、綾野剛さんってよく「村を焼かれる」じゃないですか。
地べたを這いずるような中で生きる姿があまりに似合いすぎる。それが似合うからそういう役がくるのか、そういう役をやるから似合うと感じるのか。
それは最早、卵が先か鶏が先かに近い話な気もする。
ただ、一つ思うのはそうしたどうしようもなさ、苦しさの中にあっても彼は根本的には目が死なない。前述と矛盾してしまうけど、決して死なない。生きようとする。
どんな地獄も、そこで苦しむのはある意味で生きようとするからじゃないのか。



ところで、拓児の屈託なさとか、なんか、そういうのもすごく好きで。でも、わりとクズじゃないですか。
良いだけの人も悪いだけの人もいないことが最近好きになる作品の条件の一つな気もする。
し、それが言葉ではなくて表情とか仕草ひとつひとつで描かれると言いようもない気持ちになる。


達夫が、拓児を殴って抱き締めるシーン。
本当にたまらなく、好きだったんですが。
二回目観て、殴る姿にあー、と思った。悪いことをした子どもを叱る(もちろん、それで暴力は振うべきでは絶対にないけど)ようにも、親友を殴るようにも見えて。
なんというか、家族になるということについても考えてしまうし
なんだろうなあ、なんか、ああ、大切にしたいだけなのになあって私はこの映画を観てる間ずっと頭の中で考えていた。ただ、それだけなのに。それは本当なのに。
でもどうしてか一つ、うまくいかない。
いかないならいかないで、放り出せればいいのにぎりぎり、踏ん張ってしまう。踏ん張れてしまう。
それなら、大切にできたらいいのに。


この映画を見終わったとき、私は手帳にこう書いていた。


「映画を観ていて巻き戻したいと
生まれて初めて思った。
時が戻るなら変わるなら巻き戻したい」



ただ、もうなんというかそれ以上言える気もしなかった。達夫と千夏の、拓児の言葉になる前の感情や行動に、私の持つ言葉は足りそうにもない。
そしてこの感覚は、この三人に限った話ではなく中島にも抱く。彼が千夏に執着する様は狂気的にも見えるし、何より醜くもある。んだけど、なんだか妙に苦しくなる。
し、そもそも、彼が何故千夏にあれほど執着してるのかは、言葉としては描かれない。理由は分かるように分からないような、その、言葉の一歩手前でぐるぐると渦巻いている。


こうしてブログをしょっちゅう書いてるので全く説得力はないけれど、言葉にしなくていい人が時々、心底羨ましい。
言葉はいつも、追いつかない。そこにある微妙なニュアンスや色や温度が落ちていく。言葉は、と括るのは自分の表現力のなさを棚上げしてるな、と思うけど。
でも、どうしても思う。例えば、演技や音楽や、料理や絵が選べたなら。そこにしかない、それでしかできない絶妙な表現があるのに。


そう言いながらもブログで感想を書こうと思ったのは、そこのみにて光輝くの脚本家が『武曲』の脚本と同じ方だと知ったからだった。
武曲も私は綾野剛さん目当てで観た。
あの映画も、本当にすごく、良かった。
何が一番良かったかってきっと、そこにあったもの、そこから自分の中に入ってきたものを言葉で表しようがないことが一番良かった。


あのお終いがなんなのか、タイトルの意味はやはり、言葉にならない。
ただあのレンズに焼き付いた、息遣いや汗や空気だけがそれそのものだった。そんな得難いものが煮詰まったものを私は愛おしいと思う。


そして、武曲とそこのみにて光輝くの脚本が同じだと知った時、なるほど、という納得とともにどうしても言葉に表したくなった。
表す余地もない、どれだけ言葉を重ねても蛇足にしかならないと分かってはいるけれど。
言葉が追いつかない、あの瞬間瞬間の彼らに一歩でも近付く方法が私にはこうして言葉にしてし尽くせないことなんてものは百も承知で、そうし続けることしか浮かばないのだ。

創造

また大好きな曲が増えたぞ。
最高が増える、やばい、本当にワクワクする。
0時の解禁からずっと、そわそわと落ち着きなく、頭の中でメロディがなってる。

星野源さんの「創造」もう聞かれました?
MV見られました?
もうなんか、ヤバい。



0時に友達と通話しつつ、MV解禁を目撃したわけですが、
なんかこう、極彩色が頭の中にぶち込まれたというか、言いたいことや最高なことや好きな瞬間がありすぎて逆に言葉にならない。
観終わってまじで何言っていいか分からなさすぎて最終的に言葉になったのが「ニセさん!!!!!」でしたからね。
ニセさん、本当になんであんなに愛おしいんだろう。見てると落ち着く謎の魅力がある。なんなんでしょうね、彼ね。本当に不思議だ。


で、一旦落ち着いて眠って、YouTubeで観てコメント欄での任天堂リスペクトの色んなオマージュについて触れてへえー!と叫び、また寝て、YouTubeで見て、を、今日一日繰り返していた。
繰り返してるんだけど、ほんと、全然言葉にならないんだよな。
なんかとりあえず、本当に楽しくてワクワクして嬉しい。楽しい、が聴いてる間、MVを観てる間続く。



入場曲にしてえ、と気がついたら呟いていた。別に、野球選手でもレスラーでもないので、入場曲をかける機会ってないんだけど。
更に言うと、結婚式で、とかじゃなくて、そういうのじゃなくて、なんか入場曲なんです。
どっかに一歩踏み出す時とか、歩いてどこかに向かう、ばばーんと登場する瞬間にこの曲が流れてたらきっと楽しい。
そこから始まる全部を、楽しくできる気がする。


源さんを好きになって色んな表現に触れるたび、毎回わくわくしている。
お芝居も、音楽も文章も「わあ楽しい!」ってはしゃいでしまうし、あー良かったなあって大きな声を出しそうになる。
なんか、良かった、こんな楽しいことに出逢えたのってすげえ最高じゃん、嬉しいなってお腹の底から声が出る。


思ってること、感じてること全部を言葉に変えれなくてなんとなく焦ったい。
例えば歌詞の色んなここが好きだって話をしたくもあるんだけど。
うまく言葉になってくれそうになくて、そうなると毎度毎度、YouTubeに戻ってMVを観てしまう。



源さんの創造についての言葉の中で
創作を「自己と他者との間に流れる川に橋をかける行為」って言ってたのが本当にものすごく好きだ。



今回、創造がリリースされて、色んな人とこの曲いいね、って話をするのも楽しくて
「同じ」が欲しいかと言われるとそうでもないし、「繋がり」を声高に叫ばれると億劫になるなあ、と考えている中で
なんか、橋を渡れるような、こんにちは、って挨拶できる感じのそういうの、本当にハッピーだ、と思った。



楽しいが先立って、わくわくして、きっとこれからも、繰り返し繰り返し、聴くんだと思う。
入場曲だ、ってどっかに行く時、頭の中でかけることもあるんだろう。
その時、きっと楽しいが溢れるんだと思う。
その中でああこの歌詞!とかこの音!とか、腹落ちして悶絶したりするのが、今から楽しみで仕方ない。



なんか、創り出そうぜ、と楽しそうに弾む声にまるで、春がきたみたいにわくわくしている。ああもう、思い切り遊びたいな。遊ぶぞ。

「その女、ジルバ」を観て欲しい

フォロワー!頼む!このドラマを観てくれー!!
頼むー!!!!


今期、本当に本当にドラマが豊作ですごい。
1月に入ってから延々と嬉しい悲鳴を上げ続けている。すごい。ドラマが複数楽しみだと何がすごいかって、週に何度も「今日はこれがある」の楽しみがあるのだ。これってなかなかにすごいことだ。
去年、色んなことがあった時、ドラマを好きになって思い出した。
1週間で、この日、楽しみがある。
その約束は、お守りとなって1週間、元気をくれる。



そんなわけで、ドラマを毎日楽しみにしているんですが、その中でも特に今期推してるドラマがある。
土曜ドラマ「その女、ジルバ」である。
始まる前、ほぼノーマークだったこの作品を、本当に始まる直前ネット記事で知り、観て衝撃を受けた。
ドンピシャで好みだった。
なんだか焦がれるように観た初回から、毎週欠かさず、本当に楽しみにして観ている。

そんな大好きなドラマ、「その女、ジルバ」が今、期間限定で1話から見逃し放送をTver、FODでやっている。
そんなわけで、どうかフォロワーさんに観て欲しいという気持ちを込めて、ブログを書いている。元々、見逃し配信があると知って、書こうかなあどうしようかなあと思っていたけど、13日放送分を観て、もう、衝動的に書いている。



どっか、大好きな友人を紹介するような心持ちだ。
ような、というか、大好きな友人なのだ「その女、ジルバ」は。私にとって。
だからこそ、私はこのブログで「その女、ジルバ」について書こうと思う。


「その女、ジルバ」は夢なし貯金なし恋人なし、そんな40歳の新の物語だ。
こう書くと、なんだか観ていてしんどくなりそうな、或いはメッセージ性の高い、そういうお話に聞こえるかもしれない。
確かに、新が40歳以上のホステスしかいない……なんなら40歳なんてあのお店ではギャル、という扱いだ……『OLD JACK&ROSE』で働き出しどんどん輝いていく様は、
人生を肯定してくれたり、歳を重ねることの素晴らしさを伝えてもくれる。
だけど、なんというか、それが主題じゃないというか。
いや主題には違いないし、実際そのメッセージに励まされてもいるんだけど、だから私はあの作品を好きだ、というわけではない気がする。


優しい話を紡ごうとしてるわけじゃないのかもしれない。優しくしたいとかいう、そういうのでもなくて
いや、優しくはしようとしてるのかもしれないけど、
なんだろうな。そうあるべき、とかの話じゃないんだよなあ。
優しくありたいと思うことと、優しくすることはちょっと違う気がするんだ。
難しいな。



なんというか、「その女、ジルバ」に出てくるひとたちはみんな楽しそうなのだ。
色んな嫌なことを越えてきて、もしくはその瞬間直面したりしていても、ずっと楽しそうだ。
それは、まさしくバー『OLD JACK&ROSE』のお店の在り方そのものかもしれない。
美味しいお酒と料理、歌と踊り、お喋り。
お客さんもホステスもオーナーも、その場所ではただただ楽しそうに過ごしている。
馬鹿騒ぎ、というには穏やかな楽しい時間は見ているだけで優しいし楽しい。
私は、そんな時間を観ることが何より楽しみなのだ。


あと、手のひらをくるんと返すようなんですが
この先、どっか居場所はあるんだろうか、みたいなことを、考えてしまうことって結構あって
家族とか友達とか恋人とか、その他諸々の人間関係について思いながらどうしようもなく不安になることも、あるんですよ。
そういう時があるので、余計に、「その女、ジルバ」を観ながら人間関係の種類って色々あるよなあ、と思えることにホッとする。
さらに言えば、その人間関係はいつまででも、生きてる限り、きっと増え続ける。
もう増えない、なんて決めてしまうこともなくて、いくらだって、人は人と関わることができる。
そして、そうする限り、楽しいことはいくらだって起きるのだ。たぶん。


ひとの帰る場所ってきっと、たくさんあるんだと思う。
心の奥底、思う人がいることがうれしい。
その関係に名前を付けられるかどうか、互いに特別であるかどうかはどうだって、いいんだよ。

ああそうか、誰よりも、ジルバが帰りたいからか。だから、あの場所は居心地が良いのかな。帰ってきたと思っても良い。まるで、そう言ってもらってるような気がする。


今回、こうしてブログに私は大好きな友人を紹介するつもりで、「その女、ジルバ」のことを書いた。
それは、私がこのブログのことがとても好きだからだ。6話のシーンを観ながら、考えていた。
ここで、好きなものの話や考えてることの話をするのが、好きだ。読んでくれている方がどれくらいいて、何を思ってるかまでは分からないけど、少なからず、私はこの場所で文を書くことが好きだ。
そう思うと、なんか「その女、ジルバ」のことを書きたくなった。特定の誰かに、というよりかは、なんというか「あなた」に向けて。

それはきっと、あの『OLD JACK&ROSE』に好きな人を連れて行きたくなる、その感覚に近い気がする。


ひとが、ひとをただ大事にする。
その1時間1時間が大好きで、私はこの週1の時間を待っている。
できたら、その大好きな友人に、大好きなあなたが出逢ってくれたら私はとてもとても、嬉しいと思う。

箱入り息子の恋

「叫ぶ」描写が気持ち良すぎてびっくりした。
星野源の叫ぶ、の芝居はどうしてあんなに心地いいんだろう。


思えば、「逃げるは恥だが役に立つ」も、「11人もいる!」もそうだが、
『うまくやれないひと』を演じる星野源さんはともかく魅力的だ。
不器用だったりコミュニケーション能力に難があったり、ともかく、なんとなくどこか生きづらいひと。
あるいは、彼の作る音楽にも「うまくいかないこと」に寄り添ってくれるような柔らかさがある。
毒みを含んだとしても、それは「毒として存在すること」をそっと肯定してくれるような、そんな感覚。



何を隠そう私も、そんな「うまくいかないこと」に寄り添ってくれる源さんの表現が大好きなひとりである。
そして冒頭、叫ぶ、と書いたけど健太郎は正しくは叫ばない。叫べない。身の内を裂かれるような怒りに駆られても、彼は初め、唸るだけだ。
私はそのシーンが、切なくて苦しかった。大好きな「うまくいかない」表現だったけど、むしろだからこそ、苦しかった。



箱入り息子の恋は代理見合いパーティをきっかけに出会った男女が恋に落ち、紆余曲折を経てなんとか結ばれようとする物語である。
箱入り息子は、人とコミュニケーションをとるのがともかく苦手で普段職場と家の往復しかしていない。
そして、お相手の女性も8歳から徐々に視力を失う病気に罹り、今では完全に目が見えなくなっている。

ふたりはそれぞれに「できない」ことがある。
主人公健太郎に母は、普通に生きてほしいだけ、と言う。



普通に生きて、普通に友達と遊び、普通に結婚をして普通に家庭を築く。


「普通」というそのことが、実際とんでもなく難しいことだというのは、わざわざ私が書くまでもないだろう。
そしてそれが「普通」のことだからこそ、辛い。
これがとんでもない偉業だとしたら、できないことはそんなに辛くないのだ。世界を救えないとか大金持ちになれないとかスーパースターになれないとかなら。だってそれは「すごいこと」だから。
でも、一般的に「すごいこと」とはされない、「普通のこと」がとんでもない偉業と同じように「すごいこと」な場合がある。
そうなると「どうしてこんなことができないの」と周囲から責められる。し、何より自分が自分を責める。



どうして、こんなことくらいのこともできないんだろう。



健太郎も菜穂子もそれぞれ、理由は違えど、そんな普通のこと、が出来なかったひとたちだ。
出来なくて、その上、周りから「お前には無理だ」と決められて、自分を諦める。


選ばれなかった、諦めるしかなかった人のラブストーリーは古今東西、愛される類のものだと思う。
それは、可愛らしく見えて応援したくなるのかもしれないし、
もしくはきらきらのラブストーリーよりも自己を投影しやすいからかもしれない。
なんにせよ、一定の人気がある。私も、好きだと思う。
でも、なんか、それって苦しいなと見合い後の叫べないまま暴れる健太郎を見て思った。少なからず、そのシーンに心を寄せてスカッと……っていうと、語弊はあるが……したからこそ、なんだかなあと思った。
決めつけてしまったような、そんな気がしたからだろうか。


健太郎も菜穂子も、どんどん惹かれていく。
こうあるべき、なんて形でも「お前はこうだから」という決めつけでもなく、心が言うまま、惹かれるまま、お互いに手を伸ばす。
その姿が、柔らかく愛おしくて、なんだかそんなことにも泣けてしまった。
あれはなんでだろうと数日考えてたけど、もしかしたらどっかそんなことあるわけないよーあったらいいのにーちくしょーの苦しさだったのかもしれない。
ないわけでも、ないとも思うんだけど。
あとやっぱりなんか、肩代わりさせてしまった居心地の悪さもあるのかもしれない。決めつけて、他人に任せてしまった罪悪感みたいな。
それは、お父さんが菜穂子にしたような「お前はこういう人だから」と決めつける行為にすごく似ているような気がする。


笑われたことのある、他人から決めつけられたことがある、
そんな人たちが箱から飛び出して"自分の手"で相手に触れる。
そんな泣き出したいような幸福感を目に焼き付けたかった。
だってそれは、一生にそう何度もないような出来事だと思う。だからこそ、健太郎が最後に叫べて、良かったな。本当に。彼らが、彼らのために、何よりも相手が必要なんだと手を伸ばす。その格好悪くてだけどとんでもなく最高のシーンを、思い出してる。

一生に、一度くらい。

配信限定の公演。
舞台装置は病院の待合室にあるような長椅子ひとつだけ。そこで、ある姉弟たちの会話が繰り広げられる。

一生に、一度くらい。
そのタイトルのことを、ずっと考えてる。



余命僅かの父親の病室を見舞う次女と末っ子のもとに、数年前、ある事件をきっかけに家を出て行った音信不通の姉が帰ってくる。
ブログで感想を書きたくて、ずっとなんで好きだったかを考えていた。
姉弟の話なので、その会話の中には取り止めもないことも多い。たとえ、父が危篤でも十数年ぶりに姉が帰ってきても、小さい頃の何でもない思い出話やショッピングモールのアイスや、ゲームアプリの話をする。

日常のなんでもない空間、会話の中に、時々本音が混じり合うような感覚。
そのざらりとした手触りが私は好きだったのかもしれない。



見終わった後の感想ツイートで、喫茶店で隣の会話をこぼれ聞いたような、と書いた。なんとなく、そんな感覚があった。
大仰な会話というよりかは、つい漏れ聞いてしまったような、そういう会話を私は聞いていた気がする。
しかも、それは喫茶店で繰り広げられるのだ(舞台は、病院の待合なんだけど)
きっと話してる本人たちも、肩肘張って覚悟して、準備しての会話というよりも、するすると口からこぼれていったような、そんな会話だったような気もする。
その中で、家族が欲しかったのかも、や、ここまで生きててくれてありがとう、って言葉がこぼれたことが私は本当に好きで。
会いたくて会いたくて仕方なくて、手を尽くして会った、というわけではなくて
そうじゃなくて、勢いで唐突に訪れた再会で、目的のメインというよりかは、流れで生まれたような会話の中で、
生きててくれて、ありがとうって言葉がでるの、なんというか、良いなあと思ってる。


なんか、大袈裟じゃないんだけど、
でも感情は確かに揺れ動いてて、あーうん、そうだな。
なんというか、人と会話するってそういうことかもしれない。相手がこういうだろうなって予測して、とかじゃなくて
その人と同じ空間にいて、空気が揺れて表情が動いて、そういう一つ一つに気持ちが動いて、その先が自分にも予想できないものだったりして、それでひとつ、溢れるような。
なんか、そういう、ああ好きだなあの瞬間が詰まっていて、私は好きだった。
人と話すのが、好きだなあと思ったし、人と話してるひとたちを観るのが、好きだなあと思った。


私が購入した公演は、千秋楽だった。
そのカーテンコールで小岩崎さんが言った。


このお芝居を観た、あなたの幸せを確約します。



その言葉は、私の生きてきた中でのお守りのひとつだ。大阪で上演されたポップンマッシュルームチキン野郎の殿はいつも殿の千秋楽。
そこでも、小岩崎さんはそう言ってくれた。私は、その言葉がとても大好きで、お守りのように大切にもっているものの一つだ。
その言葉と、思いがけず再会して、変わらず、小岩崎さんがそう言いながら、お芝居を作っていてくれることが嬉しかった。
いつかとおなじように言った彼女は、脚本の中で言った。今日まで、生きていてくれて良かった。
基本的にネガティブな私だけど、その時、そうか、いつか、そんな日がくるかと、思えたし思いたかった。一生に、一度くらい。



実は、まだこの公演はアーカイブが購入可能です。千秋楽だと2021年2月20日まで、視聴可能。
ざらりとした手触りの会話が聴きたい方、ぜひ。