えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

jam

どこかで無料配信があるたび、TLで話題になる映画だった。
また、単純に「見て欲しい」という呻きだけではなく、そこに纏わる自分の感情を克明に呟く人が多いことになんだか面白いなあ、と思いながら観ていた。そんな映画を、ようやく見た。



jam。
それは、三つの物語の軸が交錯したりしながらゆっくりと進んでいく。
その中でも特にTLで話題になるのは場末の演歌歌手「ヒロシ」とそのファン、まさこの物語である。
そして、この物語がTLで話題になる一つの要因としてこの二人は切っても切り離せない。
狂気とも言えるMASAKOの「推し」への感情に共感し、あるいは共感できずに、Twitterという媒体で「推し」について話すことの多い人たちは、自分の言葉を紡ぎたくなるんだと思う。



なのでそれに倣って私も、……ご多分に漏れず、話したくなったので……「推し」と私というフィルターを通して見た『jam』について書こうと思う。
(ちなみに、映画としてのjamという意味では理解は及んでなくても鈴木伸之さんの纏った空気感が本当に本当に好きだった)



まず、大前提になるのだけど私は自分を誰かのファンだ、と自称するのが苦手だ。それに伴って「この人のことが好きだ」と自覚するのもハードルが高い。
それは何もツンデレ的な「別にあんたのことなんか好きじゃないんだからね!」みたいなノリなわけじゃなく(当たり前ですけど)なんか「いや私なんぞが好きとかそんなそんな」という居た堪れなさがあるのだ。
この「なんぞ」という表現を使うとまるで自己肯定感の低い人のそれにも思われるけど、
そうではなくて自分が移り気なこととか一途ではないことに対しての引目と
「そんなくらいでファンって言わないで!」なんていう言われるか分からない批判に対して先回りして「ええファンじゃないですよ」と逃げを打ちたがってるだけだったりする。


そんな私にとってMASAKOは「こうはなれないなあ」という象徴そのものである。
もちろん、彼女のやり方は異常だし、「不正解」だろう。肯定する余地はたぶんない。
とはいえ、人を拘束してまで「自分を見てくれ」と迫れるのはすごいなあと感心すらしてしまう。それが正しいファンかは別として。


そしてここで、そもそも「正しいファン」とは?という話にもなる。


この正しいファン、1番のファン、の話は劇中のアバウトトークのシーンでも根底に漂っていた。

もーーーー!このイベントシーン、めちゃくちゃしんどかった!

1番恐怖を感じたと言ってもいい。私が片足突っ込んでるあえて沼、という表現を使うけど小劇場という沼で、あの光景ってぜんっっっぜんリアルにありえる。
なんならあるよね?!アバウトトークみたいなイベント!(イマジナリー同士に話しかけるオタク)
もうキリがない。キリがないのだ、正しいファンだとかどっちが偉いとか理解してるとか、もう、そんな学級会、開催された瞬間にハッピーエンドはなくなり、残るのはマウントの取り合い殴り合いである。
私はもう、そういう状況を見ると早々に白旗を振って「あ、大丈夫デス」と退散したくなる。



正しいファンって言われてどうするんだろう。それを決めるのはきっとファンの先にいるアーティスト…歌手なのか、役者なのか、演奏家、なのか、入るのはいくらでもあるけどともかく好意や憧憬、その他諸々の大きな感情を向けられるその人なわけで。
だとしたらファン同士でああだこうだ言っても仕方ないし、
夢のない話をするなら、「あなたは1番のファンです」とその存在から言われたとして、
それを120%信じられるっていうのは、なんというか、かなり奇跡的というか
これは私の性格が捻じ曲がってるからなんだけど、それすら「ファンサービス」の可能性が頭を過ぎらないわけにはいかないだろうし、
だとしたら、そんな称号が担保してくれるものなんて何一つない。



から、私は勝手に自分が自分に対して「あの人が好きです」と胸を張って言えるか、を一つのハードルにしている。
使ったもの(お金/時間/感情)の量だとか、図る尺度は人それぞれたくさんあるわけだけど、
言い出すともうキリがないので。
自分が「あの人のことを好きだ」と言った時に、恥ずかしいと感じないか、「そうだね、好きだよね」と頷いてあげられるか。
もう他人を巻き込んでもキリがないどころか面倒だしまどろっこしいので、そこはもう自分とタイマン張る方が早くて分かりやすいな、が、私の結論だ。
ともすれば認知だなんだと賑やかになる界隈に片足身を数年置いてる中で出した私なりの対処法でもある。
もちろん、それも揺らぐことはあるし痩せ我慢という見方もあるだろう。実際、あのイベントシーンで胃が痛くなるあたり、結局割り切りきってはないのかもしれない。
まあ迷うことがあろうが何しようが、このスタンスを変えるつもりもないんですが。


話を映画に戻そう。
ヒロシは場末の歌手だ。そしてきっといい歌手なんだろうと思う。

彼の歌について話すファンの人たちの様子を思い出すたびにそう思う。
ヒロシの音楽を聴いて救われたり、抱きしめられたり、大丈夫だ、と思ってきた人がたくさんいるんだろう。
それは彼が心遣い、を小遣い、と言い間違える人であろうが、関係ない。なんなら良いんだよ、別に、それを最低だと謗る気にはならない。だって「仕事」だし。私だってムカつくお客様に、「よく喋る給料袋だなあ」って心の中で悪態吐いたことくらいあるよ。それを態度に出しちゃダメだけど。
ファンに、あるいは自身の表現に誠実であれ、というのはきっとどこまでも「ファン」のこちら側、の願望なのだ。
(それでも願ってしまうし、それを願うことに苦しくもなるから「応えてもらえた」時たまらなく嬉しくなるというジレンマを抱えながら、そう思う)


MASAKOがファンという枠組みを越えて「まさこ」という人間を見て欲しいと願ったことに思いを馳せずにはいられない。
彼の音楽に抱き締められたように「ヒロシ」に抱き締められたいと願ってしまったことを、気持ち悪いって笑えない。そんな風に私は思わないけど、でも一人の人間として対話したい、と思うことってそんな異常でもないんですよね…。
MASAKOはとった行動が異常だっただけで。
誰かが、止めてあげたならよかった。発露のやり方さえ間違えなければ良かった。
あるいは、ヒロシがそこまでの愛情をかけるに値するような(これは前述のことと矛盾する、めちゃくちゃ勝手なジャッジだけど)人で、それは間違えてるよ、と線をきちんと引いて口にできる人だったらよかった。

あの、セトリを変えてもらえなかった時のMASAKOの表情が忘れられない。
キスしたり、恋人であるような振る舞ったり、そういう一線を越えてしまった「彼女」の行動を描きながら、
あの時「ファン」として傷付くMASAKOのカットを入れることに唸ってしまう。
あの子どもみたいな顔を観て、もう叫びそうになったんですよ…。別に、それはセトリ変えてやれよ!なんて単純な話ではなくて
変えなくても良いんですよ、それはもう彼の領域だと思うんですよ。
だけど、大好きな彼の表現で口だけの対話をされたMASAKOの孤独感が私は苦しい。
それを願ったあの人が悪いと言われればもうそれまでなんだけど。ヒロシにその重たい感情を受け止める義務も責任もないんだけど。


きっと私は、この長いブログをまさこの為に書いた。まさこになれない自分ともしかしたらまさこになりえた自分の為に書いた。
やり方は間違えたと思う。
だけど、SWAYさん演じる見習いが演じる彼が舞台上で歌う、何故か切なくなる愛おしい姿を見ながら、思ってしまうのだ。
それでも、まさこの……あなたの心の全てを否定されることはないと思う、そう、願ってしまう。「ファン」なんて生き物の身勝手さに唸りながら。