えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

音楽を聴いて、文を読んでる

MIU404で志摩一未という人に興味を持ち、そのまま夜中に観たライブをきっかけに星野源さんに「ハマって」もうじき1ヶ月くらいが経つ。


気が付けば10月に出るシングルボックスを予約し、エッセイを買い家族に貸してた何故か持っていたエッセイを返してもらい、
更にはなぜかマリンバを買った。
(まあそれについては何故か、というか、マリンバ買ったら面白いと思って、っていう理由が個人的にははっきりしているのだけど)


もう意味が分からないくらいのハマりっぷりだ。意味が分からないっていうか、うん、ただ好きなだけなんだけど。
そして最近、自覚があるけど気を抜くと源さんの話をしてしまう。源さんの歌でさ、とかラジオで源さんがさ、とかともかく気を抜くと名前を出しそうになる。出しそうに、っていうか出してる(友人・フォロワー各位ごめんね、ありがとう)
それはもう、たぶん、気落ちしてる時に好きな曲を口ずさみたいのに似てる。どうしようもないことを考えない方法は好きなもののことを考えることだ。
一瞬たりとも、気落ちする原因になったものに明け渡したりしてはいけない。そいつは簡単にこちらを飲み込んでくるし、飲み込まれると相乗効果的に膨れ上がる。
だから、嫌なことを話したり書いたりすることは効果的な時もあるとは思うけど、個人的には自分には向いてないなあ、と思うのだ。


何より、好きな人や好きなものについて話すのは楽しい。とんでもなく、楽しい。
だから、これは私が「今日」を楽しむために書く、好きな人の話だ。



希望があると言われるのは苦しい。
いきなりなんなんだけど、ということを最近考えててそういや自分がそこそこネガティヴだったことを思い出した。
ここ数年ひたすらお芝居やライブをコンスタントに観れていたおかげで自分のことをポジティブだと勘違いしていたけど、こうしてそういう好きなものに触れられない期間を鬱屈として過ごすと……というか、もう書いてるな、鬱屈と過ごしてしまい自分の根っこが中々にネガティヴな人間だったと思い出した。
もうとなるとネガティヴ120%みたいな思考回路になるし、希望がある、という言葉に屁理屈を捏ねていじけてしまいそうになる。もちろん、とはいえ、この数年触れてきたもののおかげで「希望」に対してボロクソ苔下ろすところまではしていない。さすがにそこまでいったら自分で自分に引くと思う。
例えばこれが一人じゃなければネガティヴの沼に落ちることなくなんだかんだと楽しい、を口にしたんだろう。誰かといるとだいたい元気だし。誰かといる時は楽しい方がいいし、実際に楽しい。
ところが、この一人でいる状況の中でだと「希望の持ち方」を実践できなくなっているのが正直なところなのだ。

そういう意味で、星野源さんの作品にある中指を立てる感じだとか、どうしようもなさ、みたいなものに「希望を持てない自分」をほんの少し、肯定してもらえてるような気がする。
いや、肯定してもらえてる、というのはなんというか、さすがにちょっと甘えすぎてる。でも、「まあそんなこともあるよねえ」くらいの相槌は、勝手に受け取れてしまえてるのだ。

そして、それでも源さんの作品は明るい。明るいというか、あっけらかんとしてる。

なんかちょっとでも隙があると面白いこと、を、しようとする人な気がする。お茶目。笑わせる、の隙を探してる、そんな気がする。
そして私は「笑わせる」人が大好きだ。
もうそれは散々、ブログでもTwitterでも書いてきた好きな人たち、を、思い起こすと我ながらそうね!って感じ。
たくさん笑う人が好きだし、その上、誰かを笑顔にすることが好きな、たくさん笑う人だったら、もう、めちゃくちゃに好きだ。面白いことはすごいのだ。

そして、星野源さんも私にとってはそんな人だ。
どんな題材のものでも明るかったり楽しそうだったり、ともかく笑わせようとしてくれる(それはげらげら笑わせる、の時もあればくすってさせてくれたり、笑顔にさせてくれたり、とか、そういう全体の話)
だから、余計にじゃあ良いか、と思う。
この辺りは前回もブログに書いてて若干重複するけど、落ち込まなくてもいいしハッピーでなくてもいい、どっちも、でもありなのだ、というエアポケット的な場所が今はセーブポイントのように思える。
もう、エッセイとか読んでるとめちゃくちゃ「あーこの人のこのバランス感覚好きだなあ!」と転がってしまう。僻んだり悪口言ったり、かと思えば、なにかを心の底から尊敬したり、いや面白すぎるだろ星野源…!も、思わず敬意のフルネーム呼びをしてしまう。
そしてそのどれもが格好つけて、なんてものでもなく真っ直ぐなそれで、それがたまらなく心地いい。



年始に、恩師を含めた高校の部活のメンバーと新年会をした。数年ぶりに会った人たちもいて、近況報告からこれからやりたいことと広くいろんな話をしたのを覚えてる。
この恩師がそこそこ変わった人でともかく何でも面白がる。し、好奇心の塊みたいな人だ。そこそこ歳上なのに、「高校時代、つくは人懐っこかったよね」と言われ「でしたっけ?どっちかというと『友達を作ると人間強度が下がる』とか言い出しそうな奴じゃなかったですか?」と返せばにこにこと「アララギさん!」と化物語の小ネタに乗っかってくるし、
かと思えば、忌野清志郎の音楽の作詞分析についていろんな意見をくれたりする。
この人の興味の関心幅の広さはとんでもないなあと嬉しくなるので私はその先生と話すのがそこそこ好きだ。
その飲み会の帰り、なんの流れか安楽死の話になった。
「最近の若い人は安楽死を求める人も多いですよ」といった私に目を丸くして「どうして?」と首を傾げていた先生の顔を最近よく思い出す。
その時は確か、昔はあったのかもしれない「生きていればいいことがある」「頑張れば良いことがある」ってことが信じ難いからかもしれませんね、と答えた記憶がある。
し、これは今もわりと私の中で一つの軸だ。だから人は、「頑張れば良いことがある」と信じられるものに出逢えると嬉しいんだと思う。(話は変わってしまうけど、少なくとも私がLDHを好きになった理由の大きな一つは間違いなくそれだ)


と言いつつも私は一方で「死ぬな」という言葉がずっとピンとこない。ともかく死のうとしないでほしい、という言葉について時々なんでだろう、と考え込んでしまう。
ワイルドヒーローズというドラマで「人を殺しちゃダメな理由」を殺人マシンとして生きてきた人物に理解させるシーンがあって私はそれを見た時めちゃくちゃ感動したわけだけど(その理屈に納得して、というよりも伝え方や出す結論がとても誠実で)
それと同じように「死んじゃいけない理由」を誰か説明してくれ、とたまに思う。


これが「死んで欲しくない」なら理解できる。
というか、それはそれを言うその人の感情だ。それは理屈がどうとかではなく「そう」だという事実でしかない。
それはまあ、分かる。そうか、と納得もする。
ただそれは「死んではいけない理由」にはならないと思う。とても近いけど、それはあくまで「近い」だけだ。


とか、いうことを、時々ネガティヴ沼に浸かりながら考える。
そんな沼に浸りながら考えてるのでロクな答えはでないけど、とりあえず考える。
その中で、この間買った星野源さんのエッセイで見つけた言葉はなんとなく私の中で「死んではいけない」理由な気がした。


そのエッセイは『蘇る変態』という。タイトルの通りというか、くも膜下出血によって倒れた前後に書いたエッセイがまとめられている。

このエッセイがまたすごい。当時、連載されていたものなのもあって、星野源さんの状況みたいなのが刻一刻とリアルに刻まれている。私は初見時、これ、連載をリアルタイムで読んでいた読者・ファンは大丈夫だったろうか、と不安になった。それくらい倒れる直前の追い込まれていく様が生々しい。つっても、明るくて笑えるのがほとんどなんだけど。むしろだから余計にエグみを感じちゃうのはさすがに失礼かもしれない。
そしてその私が出逢った言葉は、倒れてから二度目の再発、休養までについて書かれた文に出てくる。
凄まじい痛みとそこからくる不安や気力を奪われていく時間を振り返りながら、源さんは書く。
「生きることは地獄だ」
薄々そうじゃないかと思っていた、と書きながら歯を食いしばり、できれば今すぐ窓の外に飛び降りたいと言いながら、それでも自分の作った曲に鼓舞されて、そうして、彼は綴る。

死ぬことは、一生懸命生きた人へのご褒美だ。

それは、なんだか、一番私にはしっくりくる「死んではいけない理由」な気がした。
ご褒美だとしたら、仕方ない。それは、なんか、いつかもらえるその日まで、生きるしかない。


まあしかし、この世は地獄だ、っていう上でそのご褒美がもらえる日までなんとか頑張って生きるってのはやっぱりしんどい。いや地獄だから当たり前っちゃ当たり前なんだけど。にしたって理不尽じゃないか?とぶつぶつそう決めた誰かに苦情の一つや二つ、言いたくなる。
だけど、生きていくしかない。
だから仕方ないと音楽を聴いてドラマを観て文を読み、映画を観る。

今は少しなかなか触れられないけれど、いつか戻ってきたその日にはお芝居やライブに足を運ぶだろう。
いや、戻ってくるそれまでだってきっと足掻きながら生まれるそれに少しでも手を伸ばしていきたいと思う。
そんなことを、源さんの曲を聴きながら思う。勝手に相槌を打つ。そういうことでも良いっすよね、と言いたくなってしまう。
そして勝手に、そうだよ、という相槌を受け取ろうとしてしまうのだ。

『働く男』というエッセイで、源さんは書いていた。

『人前で歌を歌うようになって、自分の歌で客席で泣いているおじさんを見たときに思った。
どうかこの歌があなたの人生の役に立ちますように。
僕の歌は応援しかできない。
苦しい日々を変えたり、前に進めることができるのは、あなた自身、たった一人でしかできないことなのだ。』


お芝居や、音楽や文や映画、ダンス、その他、大好きなものたちが私の生活を変えてくれることはないだろう。明日もネガティヴ沼はずぶずぶと足を引っ張ってくるだろうし、地獄だなあ、と呟きたくなるような嫌なことはたくさんある。それは解決できもせずのしかかってくる。
だけど、好きなものに触れるその時は受け取った何かを杖にして、ネガティヴ沼に浸っていた片足を楽しいに伸ばすことができる。


どんだけ落ち込んでどうしようもなくなにかを呪いたくなろうが、良いものに出逢ったら私はまたにこにこと生きてて良かったなあなんて簡単に口にしてしまうだろう。でもそんな人生がわりと、嫌いじゃない。地獄だけど、それは確かに楽しい。
そんなことを、今日も源さんの音楽を聴きながら思うのだ。