えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ゴベリンドン

個人的に、おぼんろさんのお芝居は観終わった後にあらすじを読み直して呻くところまでが、一連の流れ。

そんなわけで、観劇三昧でゴベリンドンを観て、あらすじを読んで呻いてきたのでブログを書く。


歪むほどに強い愛はあまりに美しく、絶望的に愚かだった
その村は深い深い鬱蒼とした森の中にひっそりと存在していた。
その兄弟は早くに両親を無くしていた。
兄は心優しく、弟は頭が悪かったが、天真爛漫な笑顔は人々をいつだって幸せにした。兄は弟に話す。
「僕らは永遠に一緒だ。」

本当の幸福とは?愛とは?

おぼんろが世界に贈る、21世紀に生まれた普遍的な童話物語。

ビョードロ→ゴベリンドン、と観て、めぐみさんのお芝居は本当に心にぐさぐさくる、と画面(携帯で見てた)を持つ手が震えた。
めぐみ、はこの物語の中で一番(これが適切な言い方かどうかはさておき)普通だ。
平凡で、だからこそ愛おしい。
普通の些細な家族の幸せを願って怒って笑う。
だから、起こる様々な悲劇に彼女は戸惑うし、そちら側に進んでしまう兄弟に戸惑う。
戸惑って、それでも分かりたいと、笑っててほしいと手を伸ばす彼女の愛おしさったらもう。
抱き締めてあげる、という言葉の切実さを、生で触れてみたかったと思う。
抱き締めてあげるから、こっちにおいで、と
そんな寒い場所にいないでくれ、と理解しようともがく彼女は、ありきたりな言葉を使うなら、おかあさんのようだった。
ひとを一人、戸惑いながらそれでも手を伸ばし育てるのは、誰よりその人の幸せを祈るからだろう。
強いとか弱いとか、ズルイとかズルくないとかではなくて、できるできない、ではなくて、それを誰より強く願ってるひとを、おかあさん、と呼ぶような気がした。


兄弟の話で、親子の話だ。家族の話で、家族が欲しかった人の話だ。
家族、とはそもそも、血縁者のことを言うわけだけど、それは勿論知ってはいるのだけど、
ここで私が言いたい家族、とは単なる血縁者、ではない気がする。
ざっくり言ってしまうと、虹色アゲハと植物のことも、家族、と呼んでしまいたい気持ちなのだ。

ところで、そう言うと、辛くなってくるのがゴベリンドンと死体洗いだ。
特に死体洗いだ。
もしこれが家族の話で、誰かを幸せにしたいと願った、誰かの幸せが自分の幸せだという人たちの話だとするなら、
このふたりはなんて可哀想だろう。
可哀想、というか、彼らのいるその場所は、なんという地獄だろう。
トシモリやタクマが語った楽園からもっとも遠いところに違いない。
ゴベリンドンは、自分の幸福な楽園を死への恐怖から破壊し尽くしてしまった。
でも、死体洗いはどうだろう。
最初から、あの人のもとに、楽園なんて、なかったじゃないか。
しかもそれが、死体洗いの罪だっていうならまだしも、
生まれた時から背負った業だっていうのは・・・。
どうなんだろう、あの物語の中でのあの人の立ち位置はなんだろう。
ゴベリンドンは、喪失、だ。
トシモリやタクマのifの姿だ。
だけどなあ。
ちょっと、一番死体洗いについてが、他の人の感想を聞いてみたいところかもしれない。
皆さんは、あの人をどう思いましたか?


おぼんろさんのお芝居の話を以前知人とした時に、知人がおぼんろさんのお芝居には痛切な自己犠牲がある、と言っていた。
その頃パダラマ・ジュグラマ、ヴルルの島、くらいしか観てなかった私はなるほど、と言いつつちょっとだけ首を捻っていた。

自己犠牲、と言う言葉に私はいつもほんの少し身勝手さとか、自己陶酔のような響きを感じてしまう。
だからか、なんとなく、しっくりこなかった。分かるような分からないような、と思ったけれど。

トシモリは、タクマを悪魔に差し出した。
差し出して、母の健康を祈った。
そのトシモリは、今度はタクマの命のために、村人を殺した。トシモリはそのことの罪の重さや村人たちの嘆きをたぶん、誰より理解してたけど、それが鬼へと堕ちることだとも理解してたけど、殺した。

トシモリに、タクマが言う。
虹色アゲハは、アゲハチョウになるよりも植物といることを選んだんだよ。
ばかだよねーっと。
愛おしそうに、幸せそうに。
自己犠牲といえば、虹色アゲハのタクマの行動はまさにそれだろう。
命を投げ打ってでも、その人と一緒に在りたいと願ったことだろう。
だけど、やっぱり、自己犠牲は美しくなんてない。でも、もしかしたら自己陶酔だってしてないのかもしれない。
自己陶酔なんてものでもなく、ただただ、そうしたかった。
他人からすれば、ばかだよねーっだとしても、彼らの幸せはたぶん、そこにしかなかったんだろう。
ふたりでいること。
それは、笑うための、絶対条件だ。