2年前の夏、お芝居を観に東京に行った私は高校時代の友人の家にお世話になってた。
あの頃から職が変わった今では考えられないが2泊3日の遠征旅行。夏を乗り切るために握りしめてたチケットがようやく舞台へと変わるドキドキとともに、大好きな友人と過ごせる、謂わば、夏のご褒美的な旅行だった。
泊めてくれた友人とは、その間色んな話をした。彼女は、高校時代、一緒にお芝居を観ていた仲である。熊本にゲキシネが上陸した時、誰よりも早く観に行き、私にあれは行った方がいい、と勧めてくれた友人である。
彼女がある時ぽつり、と言った「最近は、お芝居観るの、疲れちゃったんだよねえ」
友人は、2泊も私を泊めてはくれたが、旅行中、一緒にお芝居は観なかった。
その時の疲れた、についてよく私は考える。
確か、その時の会話では、スケジュールを把握するのが大変だ、ということが挙げられていた。
映画等とは違い、お芝居の情報は入ってき辛い。(もっとも、映画だって全ての情報が入ってくるわけではないけど
能動的に動いて追いかけて、ようやく情報が入る。面白いかどうかは、蓋を開けてのお楽しみだ。
ただその理由は私の中ではしっくり来なかった。好きなものについてだらだら考えていたい私は追いかけるのを苦だと思えないせいだと思う。勿論、これは個人差があると思うし、だから、それは理由にならない、と切り捨てるわけにもいかずそうかぁとその時は頷いたと思う。
スッキリはしなかったので、私はそれについて時々考える。
それからも私は幾つもお芝居を観に行った。仕事が変わって弾丸遠征にはなったけど、弾丸なことより、好きなお芝居が見れない方が数倍辛いので、やっぱり観にいった。好きな作品も、好きな劇団も、好きな役者さんも増える一方だった。
あの時泊めてくれた彼女は、そんな様子を見て笑いつつ、最近はご飯の代わりに芝居じゃなくて、普通に楽しそうだからなによりだ、と言われた。おかんか!
お芝居を観るたび、色んなことを考える。考えるのは、触れた感情や出来事が私の中で大切だからだと思う。そんで、幸いなことに、そんなことを話す友人たちも、書く場所もある。ので、尚更に、考える。
それで、思ったんだけど。
彼女の疲れた、は距離が近過ぎたせいじゃなかろうか。
お芝居、特に、小劇場は距離が近い。感想を届けられ、受け取ってもらえる(これは、本当に、奇跡に近い幸せなことだと思う。
いつかtwitterで書いたその瞬間を、生きてる人が目の前にいること、をお芝居が好きな理由に挙げたことがあったけど、ほんと、もう、目の前!なんだよなあ。
ただ、観ていると、感想以外も届きやすい。
要望やここがもっとこうなればいいのに、がとどくことは正直、良いも悪いもどちらもあると思う。いい面が、圧倒的に多いと思いたいけど。
やってない、ということがシャットアウトにも責任逃れにもなってしまうことがある。
お芝居に向き合ってないくせに、と言われて仕舞えば観客は黙るしかないし、
観客の、意見です、はある意味、通りやすいというか。
そんなことばかりではないだろうけど。
とか、言うと、近いからダメなのか、という結論に行ってしまいそうだけどそうじゃなく
なんというか、そういうの考えるのはそらぁ疲れるよなあ、ということなのだ。
お芝居は娯楽だ。娯楽だからこそ、強い。
と、私は思う。
楽しいことや、面白いのことの何が悪いんだろう。楽しんでいるから真剣じゃない、なんてのは、あまりに暴論じゃないか。
結局は、近ければ我が事として考えがちよね、ということで。
そんでそういうの、疲れるって気持ちはめっちゃ分かるっていう、
でも、疲れる、以外の感情が見えなくなるの勿体無いなあというか、
疲れるってのを忘れるくらいお芝居にワクワクしたいし、同じ疲れるならお芝居そのものに心を持ってかれて振り回されて疲れたい。
心底お芝居の世界に溺れて、疲れたい。
んだなあ、と、とりあえずなんで疲れてしまったのか、の仮説が立てれて満足したのでブログに書いた。
別にだからどうこうというわけではなく。
ただ、なので、いつか彼女をワクワクで疲れてしまうようなお芝居に連れて行きたい。
お芝居は、疲れる。
だって、目の前で人があんなに揺れ動くんだから、それに合わせて、こちらだって突き動かされるんだから。
どうせなら、そんな疲れたなー!って話が、大切な友人としたいのだ。
大丈夫、そんな話ができる自信のあるお芝居がこの世界にはたくさんある。それを私は、知ってる。