えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む

昔、本気で友だちがいなかった。引越しをしたことで価値観や文化背景が全く違う集団に放り込まれ、結果的にうまく馴染むことができず、ともかく友だちができなかった。
当時、みんな友だち、友だち100人できるかな!を地で言っていた私は、生まれて初めて「伝わらない」を知り、どんどん心を閉ざしていった。
だけど、本当に心を閉ざしたのはきっとそのあと。
友だちを作らない、自分は自分のまま生きていく、だと日本の学校生活はしんどくなるので、私は周囲の友だちがいる「普通の人たち」の会話や振る舞いを見て学び、なんとか「友だちができる普通のひと」に擬態した。今思えば、人間に馴染むために人真似をする妖怪みたいだ。
なんだかんだ上手くできたのか友だちは増えたけど、私は虚しい気持ちをいつも抱えていた。

 

 

 

本を読むのが好きだった。

 

 


本は、別に擬態しなくても私がそのまま、本の中の登場人物や作者と仲良くなれたようなそんな気がするからかもしれない。
精一杯普段は人真似の擬態をして疲れるからか、学校が終わるとひたすら本を読んでいた。
ふと、そんな時のことを思い出す。あの頃、本の中の登場人物たちにずっと遊んでいたこと感覚に近いような。そんな気がしたのだ。

 

 


そうして成長し、社会に出てめっきり本を読むのが少なくなっていたある日。
ほとんど衝動的に残業時間に悪態を吐きながら、本屋に向かった。無性にあの本を買わねばと思った。

 

 

 

2022年、Twitterでおすすめされたあの文を読んだ時の衝撃は忘れられなかった。なんだこれは、と思った。
本を読んだことがない成人男性が、初めて友だちに寄り添われながら「走れメロス」を読む。それだけ聞くとどんな内容か想像できないが、読み進めると想像以上にみくのしんさんの「本の読めなさ」に驚く。しかし、それも読み進めて思う。読めないんじゃない、たぶん、この人は読め過ぎてしまうのだ。だから短いお話であっても、情報過多になるし疲れるし集中できない。
だけど、それをかまどさんが寄り添うことで、最後まで読破する。
その時間の中での豊かさによる衝撃は凄まじかった。何より、授業で何度も読んだはずのメロスが全然違う話のように感じて読みながら泣いてしまった。
それは、あの時出会ったよく知る「走れメロス」と出会い直しだったのだと思う。
それから公開された「トロッコ」「オツベルと象」など、その度にわくわくし、何よりなんだか、満たされるような気持ちになった。
みくのしんさんの楽しそうな読書やかまどさんのみくのしんさんの読書への言葉を読んでいるとなんだかワクワクするし、何よりとっても安心する。優しい気持ちでいっぱいになる。
それはあの学生時代、どんどん心を閉じて本を読んでいる時だけは寂しくなかった、あの感覚に少し似ている。

 

 

 

しかもそれを楽しそうに、今まで人類が一度もしたことないような新鮮さを持って楽しんでいる姿をお裾分けしてもらいながら時間を過ごすことができるのだ。
これは、なんて贅沢で幸せなことだろう。

 

 

 

ところで、今回本としてこれを買おうとしたのは、雨穴さんのみくのしんさんへの恩の話を読んだからだった。
雨穴さんによるみくのしんさんへの恩の話で、なんだか私まで、勇気付けられたような気がしたのだ。

 

 

 

「俺は人が惨めな思いをするのが一番嫌なんだ」

 

 

そうみくのしんさんが終電を逃した雨穴さんを家に泊めたこと、そしてそれを今まで忘れず、こうして何かの時に力になりたいと思うこと。

日々、仕事で削られることも多く、なんか色々諦めたいな、と思ってしまいがちの私に、このエピソードはなんだか衝撃のようなものがあった。
そういう風に人って生きてるんだ、生きてていいんだ。
そんかことを繰り返し繰り返し、仕事中も思って、その感覚はあの読書体験を読んでいる時の思いにも通じていて、そんなことを考えているといてもたってもいられなくなった。
買わねば、と思った。
あの本を買おう。私にはあの本が今、必要だ。

 


そのほとんど衝動のような感覚で、私は本屋に走り、そして週末に一気読みした。

 


みくのしんさんの読書の真っすぐさに何故自分は食らわないんだろうと思っう。自分も負けないような読書体験が出来ているからか。
いや、もちろん、勝ち負けではないとは思ってるけど、でも心の底からみくのしんさんの読書の仕方は羨ましいと思ってるからそれは違う気がする。
自分は本を本当に楽しんでいたのか、と思わなくもないけれど、でもそこが、思ったよりも、自分には気になってないようだ。
なんでなんだろう。

 


考えていて、何周目かの読書の中で気付いた。
私はたぶん、感情移入をされている登場人物たちや「分かるよ」と言われる作者側へと自分を投影していたのである。
それは、たぶん、自分が本を読む時に登場人物に感情移入をするタイプだからこそ、その感情移入先にあれだけ心を寄せ、同じように考え、時には行動しながら読書をするみくのしんさんに自分までも、「分かるよ」と言ってもらったような気がするのだ。
しかもそれがとびきり明るく楽しそうに「わかるよ!」と言ってくれるから、だから私は勝手に登場人物や作者に感情移入して、嬉しくなっていたのではないか。
そうしていると、読書の豊かさに嫉妬する隙がなかったのである。

 


それから、この本、文章の魅力に触れる時にかまどさんの相槌について挙げないわけにはいかないだろう。
私は、みくのしんさんの読書の豊かさと同じくらい、かまどさんの相槌一つ一つにも物凄く嬉しくなっていた。
例えば日々「分からない」と言われた時にどこか置いてけぼりにするために「なんで?」と聞いてしまうことがある。
だけどかまどさんはそれはしない。かといって、最短距離の「最適解」を伝えたりもしない。それは、誰よりもかまどさんが「そんな最適解はない」と思ってるからじゃないか。

 

 


また、本の選ぶチョイスもみくのしんさんが「共感することで読書をする」だと考えて、読みやすい、感情移入できるものを選ばれているような気がする。そういう、本の選び方、相槌、そして何より記事一つ一つにかまどさんのみくのしんさんに対してのあたたかな思いがあるような気がするのだ。

 

 

 

何かを好きだ、面白いと思う人の心に触れることは自分にとってこんなにも元気になる時間なんだ。

 

 

最近、落ち込むたびに本を開いた。
みくのしんさんの本を楽しそうに読むところに、かまどさんのあたたかな目線に、雨穴さんの本を書くことの姿に元気をもらうために。

みくのしんさんが本の中で言っていた。

 

 

僕らは本来、生きることが好きなんだ。

 

 


その言葉が、ここ数日、自分にとって、どれだけ支えだっただろう。
みくのしんさんやかまどさんを観ていると、本気でそう思える。そう信じていたいと思う。
またそれを忘れそうになったら、この本を開こう。ああ、読書ってなんて楽しいんだろう。