えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

積み重ねた"あの日"

「あの日」という特定の日というわけではない。だけど、最近、ずっと考えている時のことがある。
 
 
 
「覚えといたが良いですよ」
帰りの電車の中、後輩にそう言われた。唐突なその言葉に私はん?と首を傾げて聞き返す。
 
転勤が決まり、好きな人たちと会うことも当分できないと自分のお別れ会を自分で開いた。その帰り道、集まってくれた友人達と電車に乗りながら言いようもないような感覚を頭の中で確認していた、そんな時だった。なんでもないように後輩は淡々と言った。
 
 
「つくさんが集まってほしいって言ったら、こうして集まってくれるひとがいるってこと。忘れちゃダメですよ」
 
 
 
それはとてもうつしくてびっくりする言葉で、そのくせ私はまぬけにそうねえ、とぼんやり頷いた。なんとなく、その時のことを思い出している。
 
 
 
人見知りだと、自分のことを思っている。人付き合いが下手で愛想がなく、友達を作るのも苦手だ。
 
愛想良く喋る、は学生時代・社会人と経て少し得意にはなったし、誰かと話すことは得意だと思えるようにもなった。
だけど「人付き合い」と考えるといつだって変わらず自信がない。
 
 
 
それは学生時代からの根強いコンプレックスで、だから転勤を言い渡された時は、はじめ、居心地のいい場所を離れ、その「苦手」に取り組まなきゃいけない状況に飛び込むのが本当に本当に嫌だった。100%、いや120%の確率で病むと思った。
 
 
しかし同時に、その時の自分の人生でそれもまた予想しなかったくらい居心地のいい環境にいることに焦ってもいた。
そこそこうまくいってる、満足している。満ち足りている。でもそうだと思えば思うほどなんか違うっていう違和感がずっとあった。
 
 
それは、昔からどこにいても感じる居心地の悪さなのか、建前ばかりがうまい自分の嫌悪感か。それとも、人付き合いへの自信のなさからくるものなのか。
 
 
 
少し前、Twitterで見かけた言葉が頭に残っている。
「口ばかりがうまく分不相応な評価を得てる人はいつか痛い目に遭う」というツイートで、それを観て私は、ただただ、はいすいませんと項垂れた。わかってるし、その不安はいつだってあるけど、でもだってと言い訳を重ねたくなり、そうすればするほど、またさらに居心地が悪くなる。
 
 
こんなに居心地の良い場所にいれるのは、どこかズルをしたからじゃないのか。
 
 
そんな不安からか、いつも何か焦っていた。分不相応に手に入れたものが今の居場所だとして、それがいつかぱちんと消えてしまうことがあるとしたら、それは結構、堪えることだと思っていた。
 
 
だから、仕事での内示をきっかけに全く違う環境に飛び込むことにした。
飛び込んだ直後、後悔もしたけど、同時にここでちゃんと、自分の力で立てたなら少し何か変われるような気がした。自分の居心地の良い場所を失わない方法として、いっそ逆に離れてみるのも必要なんだと改めて思う。
 
 
しかし、その時間は覚悟していたものと少し形を変えて私の前に現れる。
この一年と少し「ソーシャルディスタンス」という言葉を合言葉にひとはひとと距離をとった。それはつまり、何かあっても休息のために親しい人たちのもとに帰れないということであり、更に言えば新たな人間関係を築くハードルが自分の性格や努力とはまた違った面で上がる、ということだ。
 
 
そんな時間を過ごす中で、自分が、たったひとりでは何もできないことを知った。できない、というか、想像以上に自分にはたくさんの支えてくれるひとがいるんだと知った。
何度も心が折れたし、胃を痛めた。もう全部面倒だから放り出そうと思ったことは一度や二度じゃない。
でもその度、誰かが話をする時間をくれた。対面でハグをすることはできない代わりに音で繋がり、腰を据えて話をしてくれた。
あるいは、誰かが作ったエンタメが放り出すには惜しい世界を何度も何度も見せてくれた。
 
 
 
不思議な一年だ。大切なひとと物理的に過ごせた時間は、たぶん圧倒的にここ数年の中で少なかった。お別れもあった。
きっと人は決定的に徹底的にずっとひとりなんだろうと諦める年でもあった。
 
 
だというのに、「大丈夫だ」という腹落ちが残ったのだ。
それは、忘れちゃいけない時間の積み重ねでできている。
 
 
 
もうすぐ私は、元いた環境へと戻る。もちろん、世界が落ち着かない間は、以前のように集まり遊ぶことはできないだろう。それでも、落ち着いたその時は大切なひとひとりひとりをハグして回れる場所に、帰るのだ。
そして、この一年過ごした場所もまた、これから私にとって「帰る場所」の一つになる。
 
 
 
うんざりして嫌なことも多い。人間なんて、と自分だってそうなくせに匙を投げたくなる。だけどそんな自分の後ろ髪を引いてくれてるのは……いや、さすがにそれは表現が良くないな、落っこちないように手を握ってくれているのは、私を大なり小なり、大切に思ってくれてる人たちに違いないのだ。
そんな人たちからもらったいろんな「忘れられないあの日」が私の毎日を"簡単に放り出してしまうには惜しい日々"に変えてくれている。
そしてきっとそんな日々がこれからも増えていくんだと信じることは、口ばかりでどうしようもない私にだってあるなけなしの良心からくる果たしたいこと、なのだ。
 
 
 
大切にしてくれてる友達がいること、これからもその人たちと過ごすこと。
それを信じることはもしかしたら自慢っぽいだとか驕りだとかと言われるものなのかもしれない。
だけど、だとすればそれはそれでいい。
自慢だと言われても私はそういう人たちのことを忘れたくないし、謙遜してなかったことにしたくない。そうしてしまうのは、すごく失礼なことな気がする。
もちろん、それでも時々過ぎたるもの、と口にしたくなるし怯えるし持て余すけど、でもそうして手放したりないフリをするよりか、嬉しい!とその手をちゃんと握り返して少しでも大切にして恩を返す方法を探す方がいいんじゃやいか。
 
 
 
大切なひとにただいま、という日のことをきっと私は忘れないだろう。忘れちゃ、いけないと思う。
そして同時にそんな日が当たり前の毎日の中、一日あることが何より本当に奇跡のようだと思うのだ。
 
 

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」のために書きました