えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

文を書くことの備忘録

言葉の話をしようと思う。
する必要のあるなしは一旦さておいて、言葉の話をしようと思う。


誰かと話すと間違えることがある。
今、話せば話すほどうまくいかなくなることが多い。
分かり合えた、同じ……ちょっとこれは意地の悪い言い方なので「仲のいい」と言い換える……相手でも、いやむしろそんな相手にこそ、話して傷付いたり傷付けたりする。
傷付きやすくなったから、と言ってしまえばそれまでかもしれないけど、行き場がない・終わりのない環境と、でもその中で全員が同じ状況じゃないことから生まれる差異から傷付かない・傷付けないことは難しい。
傷付ける、という言葉が強すぎるなら「違うんだ」と途方に暮れると言ってもいい。



そういうことを繰り返したり自分は体験せずとも見たりするとだんだん「喋らない・発信しない」を選びたくなる。いやそれでもお前結構しゃべってるよと言われればまあそうなんですが。


何を言えば傷付けるのか、と考えると自然と何を言えば傷付けないのか、になり、そうなるとそれって出来るのか?というドツボにハマって口を閉じるしかないじゃないか、と思う。


例えば、このブログは元々「感想」ブログである。
お芝居の感想を残すために作り、そこに映画やライブ、ドラマなどの感想を書くようになった。そして、一年位前から定期的に「自分の話」をするようになった。



しながら、お前本当に自分のこと好きだなと茶化したくなるし、ということはたぶん、これでいいのか?と思ってる自分もいるんだと思う。
誰がこんな話を聴きたいのか、と思うし多少の自己陶酔があることは否定しきれない気がする。
全くの創作物ならともかくどちらかといえば「私がこう思う」をよくもまあ恥ずかしげも面白みもなく書けるもんだな、と冷静な自分がツッコミを入れてくる。呆れられてんじゃないの、と指摘してくる。お前に求めてるのは「感想」で「自分のこと」を書くことじゃないし、そんなどこまでも自分のためでしかない文は誰にも見せない日記帳にでも書いてろよ、と思う。
ブログでやろうとした、始めたところから遠くに進んでるとしても、やりたいから仕方ないし、楽しい。でもだからこそ、怖いんだと思う。楽しいと思うこれを誰かが呆れて見てたら?ここから自分にがっかりされたら?傷付けたら?
それなら、何もせずに黙っておいたほうが無難でベストなんじゃないか。



それでも書くのが楽しい。
書くことを得意だとも思わないし、人より秀でてるものだとも思えない。でも、自分にとっては必要なものなのだ。
そして、私はそうして書いている・表現していると言われるものが好きだ。物語でも、音楽でも、そういう思いを込められて作られてるものにどうしようもなく惹かれる。
だから自分の書いてるこれも意味があるなんて次元を並べていうことはさすがにできないけれど。


人生のオチのことをずっと考えてる。
遺書のようなもの。そう、はてなブログを呼んでるひとがいた。絶妙な表現だな、と思う。
人が死んだ後、何が残るのかって話をすれば、もちろん、友達や家族の中にだって残る。でも思い出す方法、を残す手段として、このブログは一つ、指標になるのかもしれない。
それこそ、何かを作るわけではない私が「生き続ける」場所をこんなふうに手軽に作れるのはインターネットが発達したからこそで、それはとても恐ろしい部分も多分にあるけれど、でも、面白いな、と私は思うのだ。


自分のやりたいことや、居たい場所を考えると一朝一夕で果たせるものじゃなく、なんならそもそもその場所すらもやがかっているなかで、その途方もなさみたいなものに投げ出したくなる時がある。
その上、元の人間嫌いが顔を出しやすい状況だと、それに乗っかって、無理だとか嫌だとか興味のないふり、上辺だけの辻褄合わせが楽になる。
でも、そんな楽な面白くないことは、やりたくない。全くやらないなんてことはないけど、でも嫌だ、と思う。楽なんかしてたまるか。



創作物が人を傷付けることを考えることが増えた。ずっと考えていたつもりだけど、前以上に「傷付ける」や「伝わらない」を考える。
伝わって欲しい、傷つけたくないし怒られたくない。
でも、そこに「伝わって欲しい」がある限り、言葉を綴ることを止めるわけにはいかない。というか、やりたくない。
伝え続けるしかない、考えて考え続けて、喋り続ける。
私にとって、言葉を使うことは考える方法なんだ。



なんだかそんなことを、ラジオを聴き友達と喋ったなかで思ったので残しておく。
必要があるかないかなんか、分からない。私には必要だったということしか分からないし、知ることはできない。
でも、良いんだ。こうして残しておけば、未来の自分には届くだろう。それにもしかしたら、どこかの誰かにだって、届くことがあるかもしれないじゃないか。