クレオパトラな女たち。
そのドラマを綾野剛さん目的で観た。放送当時、とびとびでぼんやり誰かが観てるついでで観ていた記憶があって、工場を眺めに行くのとかは覚えていた。でもあれ、誰と観てたんだろう。
そんな薄ぼんやりとした記憶のまま、Tverでの配信を観た。観出して、おおこれはもしかしたら地雷がたくさんあるかもしれないぞ、と逆に清々しいような気持ちになって、見始めた。
ルッキズムの話かと思った。
美容整形外科を舞台にしているから当たり前といえば当たり前だけど。
綺麗になること、容姿で人よりも"優れている"こと。そこに執着すること。
それを良いことと描くのか悪いことと描くのか。
いずれにせよ、ずいぶん尻座りの悪い気持ちで見ることになりそうだなあと思っていた。
それが、どうやら様子が違うぞと気付いたのは数話観た頃だった。
もちろん、やっぱり何度も「美」に執着する話は出てくる。
そしてともすれば、その善悪の話のようにも感じることはある。だけど、そういうことじゃないだろう。たぶん。
主人公は保険外であり大金がかかる美容手術をたびたび下らないと言う。人を救いたいと学んだ医療を私利私欲のために使うことを嫌悪する。
しかし、それは嫌悪されないといけないことだろうか?
例えば他人からすればそんなことで、と言われることがしばしば人生の中で嫌なことだったりする。それが、内面であったり外見であったりは人それぞれだ。
例えば私は鼻がともかくまん丸なんだけど、私はその鼻を化粧をするために鏡を覗き見るたびにははあーとため息を吐きたくなる。それがちりつもになれば、それは「そんなことで」だろうか。
外見で判断されることはない、は美しい物語だけど、そんなもの、物語でしかない。見た目が変われば、と願うことは当たり前に私たちの生活の中にある。
そして、それと内面の悩みはとても身近でくっついているのだ。
しかし、同時にそれって言葉にしようがなかったりとか、例えば好きに生きて良いといえば美しいけど、それが不倫をして家族を置いていく話だとすれば頷きづらくなるし、しかし、その家族内、必要なのは「母」という記号と稼ぎだけだ、と思うとなんだか虚しいし、ならもう、好きな人と一緒に生きなよと背中を押しそうにもなるし、ああもう、ままならないな。
言葉にならない、ままならない、日々降り積もっていくそれを物語にしようとしたからこそ、良くも悪くも煮え切らなかったのではないか。
曖昧に笑うような、あるいは泣くのをごまかすようなそんな微妙な表現を「分かりにくい」と言ってしまうには、少し惜しい。
分かるようで分からない登場人物たちをいつのまにか愛おしく思っていた。それは作中出てきた言葉を借りれば「無様」だからかもしれない。だって確かにそうだ。そつなくこなす、なんてところから程遠いところで彼らが足掻き、もがく姿がたしかに私は愛おしかったのだ。
そして、当初見る目的だった綾野剛さんのお芝居がまた素晴らしかった。叶わないと分かりながらでもほんの少し期待して諦めて、最後にたった一度、ハグされることを望んだ彼の幸せを祈らずにはいられない。
なんというか、彼を通してあの物語を観たのは、絶対に良かった。ままならなさとか、どうしようもなさとかそれでも愛おしい気持ちとかを全部ぜんぶ飲み込んで仕方ないな、と笑う、そんな気持ちが私のこのドラマを観て残った感覚なのだ。
全部をはるかに飛び越えたところに、真実はあると言ったお父さんの台詞をメモしていた。分かるようで、やっぱり分からない。正解はどこにあるんだろう。でもそれもこれも、分かるまで活き活きと無様に足掻くしか無い,と思えばまあそれもそうか、と思うのだ。