えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

FULL MOON静岡1日目に浸っている話

FULL MOON静岡1日目に行ってきた。私にとっては初参戦ふるむんであり、初めて生で観る登坂さんだった。


生で、観れて聴けて、全身で彼の作る音楽を、そしてライブという表現を体感できて本当に良かった、と思う。


登坂さんの音楽は生で聴くとCD音源と全く違った。歌い方も、表現も、歌うところも違った。
それは自身のハモリ音声を流しつつ歌ってるから、という物理的な違いもあるんだけど、表現が違った。

彼は彼自身のエッセイ「NOBODY KNOWS」で音楽・ライブについて、毎回違う音楽であって欲しい、音源通りに歌えるアーティストのライブでは、すげえ!とはならない、それより音を外しててもその日しか聴けない音楽が聴きたいし自分が作るものもそうでありたい、と言っていた。(出先で打っているので要約である、もっと熱量のある良い文なのでみんなそっち読んで…)
そして、上手に歌うことよりも何かを伝えられるその時の感情とか想いを伝えられる歌を歌いたい、って、書いてあったわけですが。

それを、ここまで体現するのか、と。
も、頭が途中痛くなるというか熱量が凄まじくてあれ?これ熱出てない?私もしかして??って困惑した。立ってた私偉い。
歌詞がですね、全然違うように聞こえたんですよ。恋の歌だ、と思っていた曲が、あの会場にいた私たちに手渡す曲に変わるんですよ。いやもう、あの、これからSmile Moon Night聴く度思い出して泣いちゃうじゃないか、って打ってたらタイミングよく流れ出すのやめて、出勤しながら打ってるから化粧崩れるからほんとやめて。

「星のない夜には君を照らす為」
とか、さ。
たぶん、本当にこの人の曲はずっと、そこにあって私たちのことを見ててくれるんだな。この夢みたいな時間はたぶんそこに在り続けてくれるんだな、って信じられると思った。それだけでなんか、大丈夫だな、って思ってしまった。
というか、登坂さんあんな優しい顔で歌を歌う方なんですね…いやもうそこそこ遠かったんですけど、モニターで見たからというより、空気感全部が優しい曲の時柔らかくて優しくて、なんか、ほんと、さあ…!
あなたの曲を、好きで良かったって心の底から思った。し、あの時私はこの人の音楽が好きで、そこに反映される彼の人となりが好きで、アーティストの登坂広臣が何より(あの整いまくった顔とか言葉とか部分としてというよりその全てが集結したものとして)好きなんだなあ、と悟ったというか、腹落ちしたのでした。

そして、LUXEをはじめとする他の人と一緒に歌う曲がですね、映像で本人を流しつつ音声を流しながら歌う演出だったんだけど

いた。
もう、いた。
召喚していた、登坂広臣。召喚魔法使える系の人だった。

いやだって見えたもんCrazy Boy!トトロみたもんの勢いで主張したい!Crazy Boyいたもん!
ほんとに、多分、相手の呼吸や音を体に染み込ませてるんだなあ、と思った。
相手のパートを聴く時の楽しそうなあの様子ですよ…足でリズムとってるの死ぬほど可愛かった…音楽が本当に好きなんだなあって幸せになったし、一緒に音楽を作ってきた人たちのことを心底リスペクトしてるそんなところが大好きです。

本当にね、ずっと楽しそうなんですよ。音楽っていう表現が楽しくて楽しくて仕方ないみたいな顔で歌い続けてるんですよ。
しかもそれが最高に気持ち良さそうなんですよ。
そんなん、そんなん、さあ…。
全力で歌ってる姿を見てたらもう全然、頭ぐるぐるしてしまって延々と泣いてた。久しぶりにほぼ全曲で泣き続ける羽目になった。ぐすぐすうるさくてごめんやで。
いやでも本当に。この表現があって良かった。そしてそれに、こうして触れられることが奇跡に思えて仕方なかった。
ああいう奇跡が起こるから、私はなんとなく人生とか世界とかにうんざりしきれないんだよ、って思った。すぐ人生規模で考えるぅー。

人生で、初めてペンライトを振ったんだけど。
すげー近くで観たい(見れたら嬉しいけど)ということにこだわるわけでもないし、こっち観て欲しい、ってのも人よりあんまり思わないと思うんだけど、
でも、ああして楽しそうに歌う彼の目に映る青色の一つで表現できることは最高に幸せですね、と思った。なるほどなペンライト文化…素敵じゃねえの…。


登坂さんが、ENDofLINEの時のMCで言った言葉をずっと考えている。
私はあのMCがとんでもなく嬉しかった。音楽やお芝居や映画が、小説がだから好きなんだ、と思った。
個人としての彼は知らないし、知りたいとも思わないけど。
アーティストとしての彼の作品が自分の人生の中にあること。
それは別に例えば職場の面倒な人間関係を解決してくれるわけでも、ぎくしゃくした友人と仲直りさせてくれるわけでも素敵な恋人を生み出すわけでもないし、家庭円満なんてものをもたらしてはくれないんだろうけど(まあ、きっかけになることはあるかもしれないけどね)
人生のそういう遣る瀬無さの直接的な解決ではないんだけど、でも、登坂広臣さんの音楽があることは、確実に私の人生を最高にしてる要素の大切な一つなんだ、と思った。
別に私一人がどうこうということは当然ないんだけど、あのとんでもなく美しい青色の一つではたしかにあったのだ、というのが、物凄い幸せなことなように思えるのだ。
そして、それは当たり前じゃなくて、ああしてライブにいることも当たり前じゃなくて、だから、忘れずにいたい。忘れずに、忘れそうになったならまた音楽を聴いて、自分の人生に胸を張って、そうして、一日でも長く、あの人の音楽を好きでいられたらいいな、と思うのだ。

 


なんか、アーティストとファンってそう思うとすげえ関係だな、と思う。
一と一として関わることはないし、関わりたいとも思わないけれど、でも確実に沁み入るみたいに影響しながら、何かを残していく。そうでありたいな、と思う。受け取れるように受け取って、またちゃんと自分の人生を自分の足で、歩けるように。

止められるか、俺たちを

ラストのエンドロールで、気が付けば目元が湿っていた。私はこの監督のことを知らないしつまりは作品も観たことがないし、さらに言うとめぐみさんのことは知らなかったわけなんだけど。それでもとんでもなく、刺さって、刺さったのか分からないけど、なんだかどうしようもない気持ちになった。


なりながら、私は今勝手に身勝手というまさしくその言葉通り映画を食べたなあ、と思ったのだ。

 


あらすじ(公式サイトより)


物語

吉積めぐみ、21歳。1969年春、新宿のフーテン仲間のオバケに誘われて、"若松プロダクション"の扉をたたいた。当時、若者を熱狂させる映画を作りだしていた"若松プロダクション"。 そこはピンク映画の旗手・若松孝二を中心とした新進気鋭の若者たちの巣窟であった。小難しい理屈を並べ立てる映画監督の足立正生、冗談ばかり言いつつも全てをこなす助監督の ガイラ、飄々とした助監督で脚本家の沖島勲、カメラマン志望の高間賢治、インテリ評論家気取りの助監督・荒井晴彦など、映画に魅せられた何者かの卵たちが次々と集まってきた。 撮影がある時もない時も事務所に集い、タバコを吸い、酒を飲み、ネタを探し、レコードを万引きし、街で女優をスカウトする。撮影がはじまれば、助監督はなんでもやる。現場で走り、 怒鳴られ、時には役者もやる。 「映画を観るのと撮るのは、180度違う…」めぐみは、若松孝二という存在、なによりも映画作りに魅了されていく。 しかし万引きの天才で、めぐみに助監督の全てを教えてくれたオバケも「エネルギーの貯金を使い果たした」と、若松プロを去っていった。めぐみ自身も何を表現したいのか、何者に なりたいのか、何も見つけられない自分への焦りと、全てから取り残されてしまうような言いようのない不安に駆られていく。 1971年5月カンヌ国際映画祭に招待された若松と足立は、そのままレバノンへ渡ると日本赤軍重信房子らに合流し、撮影を敢行。帰国後、映画『PFLP世界戦争宣言』の上映運動の為、 若松プロには政治活動に熱心な若者たちが多く出入りするようになる。いままでの雰囲気とは違う、入り込めない空気を感じるめぐみ。 ひとり映画館で若松孝二の映画を観ているめぐみ。気付かない内に頬を伝う涙に戸惑う。 「やがては、監督……若松孝二にヤイバを突き付けないと…」

 

 

 

青春、って言葉が沢山使われてるし、事実勧められた時も

あの青春を送ってた、飲めない酒飲んで、

絶対何かになれるって馬鹿みたいに信じてた人には刺さるって感想を

もらったんだけど。

実際あーーーーそーーーですね、と思ったんだけど。

私は、めぐみ視点でずっと物語を観ていて、

ズレてるのかもしれないけど、あの世界で女、であることの

クソッタレみたいな、そういうことを考えてしまった。

そんな可能性全部捨ててうっせーなって中指たてて、

でも、衝動でヤったら子どもができる、みたいな、その、さあ…!

いや考えれば考えるほど、この物語で女とか男とか言いたくないんですよ。

どうあっても解釈違いですよ、んなん。

でも、どんだけ焦がれてもサウナでのぼせながらだらだら一緒には喋れないし

世界に放尿、なんて出来ないわけじゃないですか。

なんか、その、遣る瀬無さがさ。

それがしたいしたくないじゃなくて選択肢を持っていない苦味はそれこそ、あの青春を過ごした人間、だから知ってるように思った。

し、それを否定したくて、もがきながら映画を見ていたもんだから、

めぐみの選択に途方に暮れてしまった。

そもそも自殺の表現が苦手ってのもあるけどな。惨い殺人シーン見せられるよりたまにダメージを食らう。

でも、ラスト、止められない彼らがいるあの場所に彼女の写真があって、

めぐみさん、分かんないけど、もしかしたら、あなたはただのめぐみ、だったのかもよ、とか。

言葉を尽くしても尽くしきれないけど。

それこそ、刃突きつけるつもりで描き続けなきゃいけないことなのかもしれなかった。

誰かが死のうが、綺麗事だけじゃ描けなかろうが、信念だけじゃ取れなかろうが。

いやーーーーわかんねえ!

もしかしたら、私がもう少し歳を重ねたら分かるだろうか。まだオバケやめぐみに寄り添いたくなる歳だからだろうか。

キャッチコピーが、いちいち刺してくるから、刺さったまま、突っ走りたいな、と思う。

ともかく、主題歌のなんだっけ?を聴きながら、なんだっけなあ、と考え込んでしまったのだ。

だけど、それはたぶんこれです、なんて今簡単に答えを出すのは野暮すぎて、ちげーよな、とも思うのです。

 

 

 

 

Today is Fine day

行ったことのない場所を懐かしいと思った。
思い出すたびにふくふくと幸せになるようなそんな舞台に出逢った。
お芝居を観に行くと時々そういうことがあって、理屈を通り越して抱き締めたくなるみたいなそんなお芝居に出逢う。と、もう、ひたすらそのことばかり繰り返し思い出してしまう。

Today is Finedayはそんな私がお芝居が好きな理由が詰め込まれたみたいな舞台だった。


あらすじ(corich公演情報より)
田舎の商店街を舞台におバカ登場人物たちが語る、心温まる小さなメッセージ。
団子屋を営む桜井将人は、父・庄治に一つの報告があった。
…結婚するということ…
一方、「桜井不動産」を経営する庄治にも、将人に一つの話があった。
…自分の会社を継いで欲しいこと…
しかし父と息子の再会は、なんと10年ぶり。まともに話ができるのだろうか?
そんな大事な日に巻き起こるひとつの事件!
久々の父と子の再会は…「嵐」の始まりだったか!?

『親の心子知らず…でも、親はなくとも子は…でしょ?』

親と子の関係をテーマに家族の想いをドタバタストーリーで綴るC2コメディ決定版!


前説が初日を観たため、遠藤さんと淳さんの前説だったわけですが、ともかく緩い!漫才みたいなのに緩い!漫才っていうか、面白くてテンポの良い会話をする人たちの会話を見てる感じ!
この時点で、楽しみ度はぐんぐん増していく。なんとなくだけど。あ、でも途中、劇中みたいな会話してるってやりとりがあって、あ、このままな空気感なんだ!とほっこりしたのもある。

そっからは、ノンストップなわけです。
これでもか!ってくらい笑わせにかかってくる。コッテコテなギャグも含めて、ともかくひたすら笑わせてくる。
前説で笑うとこだなーって悟ったら少し増しで大袈裟に笑ってくださいね、って謂れだけど少し増しで、なんてするまでもなくわりと腹筋痛え!ってなるくらい笑うことになる。ちょっと笑い声うるさくないかなって途中口抑えたくらいだった。


笑いは人それぞれ好みがあると思う。ブラックジョークがダメな人もいれば下ネタがダメな人がいるように。
もちろん、C2さんの笑いも好きずきが全くないわけじゃないだろう。ないだろうけど、色んな人に届くような柔らかい(いや笑いの威力としてはそんな柔らかいなんてものじゃない、油断すると腹筋をやられる)笑いに満ちていたように思う。
アドリブはほとんどないらしい、というツイートを見て、ははあなるほど、と思ったりした。
これは完全に好みな話だけど私は完全なるアドリブ、が苦手だ。役者が自由にボケますコーナーが本当に、なんとなく、もぞっとなる。分かってる、好みの話だ。
なんだけど、あーだからこのお芝居の笑いは好きだったんだなあ、と思った。アドリブがまるっきり嫌いなわけじゃないしこれまで、私だってアドリブにきゃいきゃい楽しんだことだってある。
なんとなく、お芝居と地続きのアドリブなら好きなんだろうな、と思う。お芝居の延長にある即興やアドリブは楽しい、そこに役者さん、を出されるとしんどい。
それはさておき。
ともかく、Today is Finedayは愛に満ち溢れた笑いだったのだ。
いやもう。
本当に、あ、笑うって楽しいー!ってなった。楽しい、笑うのめっちゃ楽しい。
なんか、あ、これだわ。私があのお芝居好きな一つの理由。楽しかったのですよ、ひたすら笑うのが。
役者がここは笑うシーンですよ、って雰囲気出すので、って前説で言ってはったけど、
なんか、それ。それです!
楽しかった!遠慮なく笑わせてくれるし、楽しいでしょ!!ってしてくれるし、それが本当に楽しいし。なんか、楽しいことってすごいよね。そしてそれが役者さんも私たち観客も同じって最高よね。
あーあの空間が好きだったのそれでした。感想書いてまとまった。
本気で笑わしに来てくれるし、それが物語と浮いてないし、私たちにとっても楽しいし。
楽しかったです、本当に。
そう、帰り際、色んな役者さんに目があうたびに楽しかったです!ありがとうございます!を繰り返し言う不審者になってたんですけどね、
なんか、本当に、嬉しかったんですよね。


楽しいことは、優しいことだと思う。

さて、そんで、物語の話を少ししたくて。
あの物語、出てる人みんなのこと好きになるね。なった。


将人さんは、もうね、好きになってしまうでしょう。こんな、こんな、ね。
あーこの人は良い人だなあってしみじみした。あんな愛のあるツッコミをする人に悪い人はいない。
し、なんか、あーこの人はみんなが好きなんだな、と思ってそれが相乗効果でね、ずっとね、嬉しかったわけですよ。すっごく素朴なんだけど、それがいい。聴く人なんだなあ、と思ってて、思ったので、日によって彩りも変わるんだろうなあ、とにこにこした。好きなお芝居だった。


お父さんの夢さんは、もう、堪能ですよ。
まず笑いが本当に好きなんだな、っていう楽しさもあるんだけど、それ以上に、ああこの人は父親なんだなっていう。
あの潤む目や感情が滲む目をあんな間近で見れたことは贅沢以外のなにものでもないと思う。
もちろん、芝居なのだ。作ってきた作り込まれたそれなんだけど、あのお芝居は夢麻呂さんにしかできないんだよな、かっけえ。好き。


松嶋のお母さんは、塩梅がすごく好きで。いるよね、ああいうお母さん。お母さんってついつい愛情深く描かれがちで、いやもちろんこの松嶋のお母さんも愛情深いんだけど。
ただ、なんか、リアルな雑さもあって。それがね、たまらなく好きだった。
リアルな雑さがあるからこそ、抱き締めたり心配する仕草が母親そのもので、なんか、実家に帰りたくなる感じすらした。


松嶋麻弥さんは、え、あれ、あ、わかはさんだ?!!って途中パニックになった。わかはさん、役によって漂う空気とかお顔があまりに変わりますよね…?その人になっちゃうから、なかなか気付かない…いや私の顔面識別能力の低さもあるんだろうけど…。
細かい表情の変化が愛おしい役だったなあ。将人とお父さんの間での表情がともかく良くて、そんなところにいかに彼女が将人が好きか見えて、そういうの、めっちゃ愛おしい、好き。


翔太はね、なんか、謎のあーこいつはそういうことしちゃうな、ってのがあって。
私自身が田舎出身なのもあるけど、田舎に錦を飾るというか、都会で一旗上げてくるわ、みたいな。そういう、だから尚更どうしようもないとこいっちゃうバカだなあ、みたいな、そういう田舎感…!あるよね…。
それ含めて苦しいやら愛おしいやら…役に対しての幸せになってくれ、はある意味翔太に一番感じた。


刑事コンビ、いやもう、刑事コンビ!!!!!!!!!!!!
出てくる間ひたすらもう腹筋への総攻撃ですよ、分かりますか。石部さんほんと、なんか、びっくり箱なのではないか、この人。
そして、それに応戦する真貝さんよ。応戦するというか、最早騎馬戦か何かか、そうなのか。ふたり相乗効果で高め合っていくのか、そうなのか。
いやもう、まじで、この、ボケとツッコミという枠にすら収まってくれないこの感じ。しゃいしゃいしゃーい!が好きすぎたあの感じ。コンビとしてのバランス最強か…?


とくると、屋代商会ですよ。そもそもこの芝居、笑いの飛び道具な方多過ぎませんか?もしかして観客の腹筋を鍛えるのが目標だったりしますか?
CRさんの、この、ね、トリオになった時の強さ。タケ、ウメと三人のバランスの良さは良かった。何よりこれは刑事コンビにも言えるんだけど、ともかくずっと楽しそうで、それが楽しくて仕方なかったんだよね。いやもう、あの衣装やポーズをあんなノリノリでされたら、最高でしょ。とんでもな展開もどれもひゅーひゅーですよ。そして憎めないあの小悪党感。ギャグとして成立させつつも物語が展開していくそのバランス感覚が最高。


すずさんは、あの、謎の台詞あるじゃないですか。言えてない言えてない!みたいな。
なんか、あのママがいるスナックで飲みたさしかない。いやそもそもこの商店街常連になりたい店が多過ぎ。勘弁してくれ好き。
程々な色っぽさと漂う場末感の、あの、田舎の商店街にいそうな感じ。いる、いるわ、地元に。
マスターもそうだけど、ああいう、バックに居てくれる人、の存在が大きいよね、こういうお芝居って。


マスターとすずさんが、わりと、こう、商店街の日常を想像させてくれるというか。あのふたりの冒頭のやりとりとかもそうなんだけど。入れる茶々とかの、関係性というか。どこまでは野次が飛ばせて、どこから優しくなるのか。そういうさじ加減がともかくすずさんとマスターは心地いい。


木津さんはね、商店街の面々の空気感に触れての表情が最高なんですよ。あんまりね、押し付けてもこないじゃないですか、商店街の面々の仲の良さとかそういうこと。でも、ちゃんと伝えてはくれるじゃないですか。それを、一番感じたのが木津さんの表情だったんですよ。あーいいなぁ、みたいなちょっとだけ揺れるの。でも、社長にとやかく口出しするほどじゃないの。その!空気感!それが!また!更に商店街への(観客の)愛着を増してくれた気がするんだ。だから、思い出してる。


石ちゃんはスタートダッシュでこれは笑うお芝居ですよ、って示してくれて、ほんと、大好き。可愛すぎる。
コンビ、トリオの飛び道具の中で、完全なる鉄砲玉ポジション。
石ちゃんさ、みんな好きになりませんか。そしてそのまま桜井団子のこと好きになりませんか。ああいう子が笑ってるってことの幸せ半端ない。愛されてるところが幸せとかどういうこと。好き。
コロコロ変わる表情と飛び道具的思い切りの良さが好き。


へーちゃんはもう、ほんと、ちょっと好き過ぎて長くなる。淳さん今後ともコメディを、コメディをぜひ。え、てか、ほんとに、淳さんのコメディ天下一品過ぎませんか、めっちゃくちゃ好きだったんですが!知ってたけど!元々好きだけど!
そして、夢さんとのサシのシーン。なんだろう、あれは。
受け取るって話を最近よく考えてて、あの2人は互いが受け取るってことを知ってるのかな。言葉にならないあの空気感。観るのは2作目(ですよね?)なんだけど、その度、言葉に出来ない思いにきゅっとなる。ちょっとこれは消化したい。


大森小林さん、コウさん。物販からね、愛が溢れてたんです。ほんとにね、すごく開演前の物販で嬉しくなったんです、それと地続きな、お芝居だった。
玩具屋は部外者なんだけど、すごくあったかくあの商店街を見てて。その人が茶化したりふざけたりするからなおのこと面白いし、愛おしい。
(話は全く変わるけど、このお芝居は空気を変える特殊スタンド使える人多くて、最高に最高だった。ガラって色を変えるその景色の美しさたるや!)
コウさんと夢さんのサシのシーンも最高なんですよね。淳さん夢さんのがお互い受け取ることを知ってる人たちの遠慮ないキャッチボールだとしたら、コウさん夢さんは共鳴みたいに見えて、あーーー思い出しても心地良かった。


ともかく、このお芝居は、全体的にそんな幸せな空気と音に包まれてたんですよ。


そんで、お話として、今もまだ考えてるシーンなんですが。

頑張ってるよ、と頑張ってるなんて言われたくてやってきたわけじゃないこと。
ってのが、私の中でとても刺さってて。
へーちゃんが、お父さんにひたすら、まぁくんは頑張ってるよ、って言ったあのシーンが優しくて愛おしくて、ダメだったんです。好き過ぎて。情けないことに、うわーこのおでん屋さん行きてえーって思ってしまった。頑張ってるからこそ頑張ってるよ、と言われるんですけどね、そこんとこ忘れちゃダメなんだけどね。
ともかく、あのシーン。父の息子への歯がゆさも、ひとりの人として接してるからこそへーちゃんが感じてる歯がゆさも絶妙な空気の中にあって、だけど互いにたぶん、分かってたんだよね、へーちゃんはそれを父親にへーちゃんが押し付けても仕方ないってことを、父さんは多少父眼鏡(不甲斐なく見えちゃう方にね)を、かけてる自覚が。
その、あの、なんとも言えない、少なくとも私の頭の中にはない空気感に、そしてそれを空気感で見事に表現しちゃうことにあああああってカオナシ化してた中からの、まぁくんの、頑張ってるって言ってもらいたくてしてるわけじゃないっていう、この、、完璧な…流れ……。


コメディなんですよ、コメディなのに、普段私たちがお腹の底に持ってる感情をしかも、一番自然な形で差し出してくるんですよ、Today is Fine day。
コッテコテな笑いで笑わしてきながら、普段の生活の中の言葉に出来ない、するタイミングもない感情を言葉にしてくるんですよ。しかもたくさん笑わしてきた流れで差し出してくるもんだから…拒絶もできず、痛みもなく、受け取れちゃう受け取って思わずしげしげとそれと向かい合っちゃう。ほんと、なんてこったですよもう…。

 


と、いう中で。だから、私はあのお芝居のラストシーンが好きなのだ。あそこまでたくさん笑える非日常で、そして、日常に地続きな感情の中で彼らの言葉と表情に私は今も泣き出したくなるのだ。泣いて、そんで、笑いたくなるのだ。
繰り返しツイートしてる、それくらい、好きなお芝居だった。たくさん笑って、何に対してか分からないけど、大丈夫だって思ったし、思えるからって言い続けてる。
だって、そうでしょ。きっと、明日は晴れるに違いないのだ。これだけたくさん笑った今日の、次に来る日なんだから。

普通にしろとか自分のありのままでとかうるせえ世の中で生まれたふたつのドラマ

大変だ、と思う。ぼくらは奇跡でできている、が火曜にあって
獣になれない私たちが水曜にある。
いやもう、週間の予定としてこんな見事な並びがある…?って震えるレベルである。

 


ぼくらは奇跡でできている、は普通ではない主人公相河が、みんなの普通を少しずつ変えながら奇跡を起こす話であり
獣になれない私たち、は有能で人当たりがよすぎる主人公晶と何でも正直に言う毒舌な恒星のラブコメだ(今のところ、ラブコメみは感じられていないけど、きっとここからラブコメになるんだろう。たぶん。


一見、関係ないようなドラマの感想を並べて書いてるのは理由がある。あるのだ。

 


たまたま録画の関係でぼくらは奇跡でできている2話→獣になれない私たち1話を続けて観た私はびしゃびしゃに泣いてしまった。


「普通」というのは、私たちのすぐ隣にある。
そうするのは当たり前でしょ、なんで分からないの、なんで「普通」に「みんなと同じように」できないの。

 


使い古された言葉だけど、そんなことに揉まれてあるいは私たち自身も誰かにそれを求めて毎日過ごしてる。
けもなれの晶はそれを読むことが演じることがとんでもなくうまい人なのだ。そして、うまいのは「そうじゃないこと」がどういうことか他の人よりも強く明確に分かってるからじゃないか。なんか、そんなことを思う1話だったんですけど…!
まんぷく(現在の朝ドラ)の感想でも言い続けてるけど、笑える人ほど、穏やかな人ほど、そうやって空気を読んで、なんか、なんかさあ…と思う。


じゃあ、それを止めればいいなんてことを、時々言いますけどね。
むしろね、最近はそれがトレンドなんだろうな、とちょっと剣のある言い方しちゃいますけど、空気読んで顔色伺ってそういうのしなきゃいいじゃん、ありのままでいきましょう、みたいな、そういう、やつさあ!
そりゃそうできたら良いわけですが、それを突き詰めた結果があの晶の働く会社の人々じゃん???!
それをサイテー、って感じながら、同じ口で「好きに生きて良い」とか言われると待て待て待て、と思うわけですよ。待て待て待て、困るやろがーい、困ってるやろがーい。

 


しかし、じゃあおし殺せ、とも思えないのだ。思えなくなってきてるのだ、みんな。だから、好きに生きようがトレンドになるのだ。
そもそも、ドラマだけの話をするなら、もう晶ちゃんに人の目なんて気にせず自分の好きな服着てブーツ履いて生きて欲しい気持ちになっちゃってるのだ。


で、ここで、ぼくらは奇跡でできている、ですよ。
「普通」じゃない彼の登場ですよ。
普通じゃない変人で常識が通じない人間が、じゃあ、傷付かないかと言われればそんなわけなく、イー!!!と夜中寝る前に叫んだらその日あった嫌なことは消えるのだ、と相河さんはおじいちゃんに教えてもらったおまじないを大きくなった今も続けている。
「好きに生きてるあなたには、分からないでしょうね」と投げつけられる相河先生だって、傷付いてはいるのだ。傷付いて、嫌だと思って、それでも、ああして自分のまま生きる。


もう、この、八方塞がり感。それを、ぶち壊すことを、相河先生が2話で言ったものだから、私はこうしてブログを、書いてるのです。どうしよう、寝かせたけど全然まとまらなかったよ、とりあえず好きだって現象まとめるだけになってるよ、でもほんと、観て欲しいっていうか、観なくても良いんですけど、私は今期このドラマにどストレートにぶん殴られながら抱き締められてるよって話なのだ。
相河先生は、ずっと普通じゃなくて、だから誰かと仲良くなるのが苦手で、それがとんでもなく苦しかったけど大嫌いだったある人と、仲良くなれたから好きになれたからもう良い、と焼肉を「ひとりで」食べながら言う。
隣に座ってるだけの、歯医者さん水本さんが焼肉を「ひとりで」食べながら皮肉みたいに言う。それは良かったですね、誰と仲良くなれたんですか。


「僕です」

 


もう、本当に。
途中、大嫌いで仕方なかった人と、仲良くなれたからって言った時点で、なんとなく、過ぎった答えが最高の間と温度感で来てしまった。
別に、相河先生だって、自分が「普通」にてきないことも、だから人や世間とうまくやれないことくらい、分かっているのだ。分かっていて、だから嫌いで、だけど、変われなくてもっと大嫌いになって、そうやってきたのだ。
好きに生きてて良いですね、なんてことはないのだ。たぶん。だけど。それでも、自分と仲良くなれたから、良い、って相河先生は言うのだ。
もしかしたら、まだ時々は嫌いなのかもしれないけど。

 


「普通」に生きろとか「人と同じように過ごせ」とか、
かと思えば「自分のありのままで生きろ」とか色々あるけど、


もしかしたら、自分と仲良く過ごせるように生きろ、が1番しっくりくるのではないか?


そんなことを思う。もちろん、ドラマはそれぞれまだ序盤も序盤なのでもしかしたらこっから印象は変わっていくのかもしれない。それも含めて、楽しんでいきたい。まずは、この時点での感想を。

 

 

DTC 湯けむり純情編


あの頃の自分はイケていた、という思いほど苦い思いは無いと思う。

アクション0と銘打ちながら、DTCはハイローが描いてきた物語のど真ん中を走り切った。その爽快さにもやられている。とんでもない映画を観てしまった。
アクション0、笑い80、感動20の映画はハイロー120%だった。

 

九龍との喧嘩の後のあのなんとなくな気怠い感じ。そもそも、DTCの結成のタイミングのことをずっと考えていて、いやお前、コブラがめちゃくちゃしんどかった時に何してんねーん!とわりと、結成のタイミングを知ってからずーーーっと突っ込んでたんだけど。いや分かる、分かるよ、しかしDTCのあのショート作品たちがザム2からザム3の間だとしたらお前、と思ってたんだけど

しかし、しかしですよ、DTCを観たら、なんか、それすら愛おしくなるというか。
サウナのシーンや、配達するダンさん、空っぽの銭湯にいるテッツやヘルパーをするチハル(ところで、ここでヘルパーを選んでいるのがらしい、過ぎて何とも…絶妙なチョイスと表情のセンスすぎる)
大事なものが、何かって話はザム2から延長して続いてるのかもしれなかった。

ヤマトがあまりにも優しい顔して、SWORDの外を見てこいって言うじゃないですか。DTCっていうチームを見守ってるじゃないですか。ここで既に涙腺はだいぶヤバくてですね。
コブラやヤマト、琥珀さん九十九さん、雨宮やRUDE、ロッキーの護るものがブレない人たちがいる一方で、これで良いのかって立ち止まってしまったり、痛みに怯む人たちもいる。とんでもなく格好いい特別じゃなくても、そこにいて、足掻いて、毎日頑張っちゃいるんだよ、って呟くこともあるというか。どっちがいい悪いじゃなくてね。更にどっちが上なんて話でもなく。

ダンさんたちDTCが広いところを見てくることにワクワクするヤマトって、なんか、ああほんと山王って良いチームだな、と思うしその山王はMUGENと地続きなわけじゃないですか。

今回、演出や歌やダンス、そもそもの脚本の段階でかなり見やすくフランクな作品に仕上がってる。頭を空っぽにして楽しめて、まさしく、喧嘩0笑い80感動20だ。どんな相手と見に行っても、楽しめるような。
だけど、同時に、彼らがこれまで何年も掛けて描いてきた核みたいなものがそこかしこに散りばめられていてやられてしまう。

ここまで打ってて気付いたんですけどね、DTCって、まさしく、全員主役、を銘打つハイローがスクリーンの前にいる我々に君たちもだよ、って手を差し伸べてくれる作品なんじゃないですかね。
拳も握らない、仲間が痛かったり悲しい思いをするならどんなそうするべき、の前だとしても立ち止まってしまう。
なんとなく毎日仕事してて、家族とか大事な人はいるし幸せなんだけど、そんなもんだよって現実を知ったような言葉に納得がいかなくてでも何よりそれに言い返せない自分がダサくてもやもやして、
そんな我々の代わりに、DTCが旅してくれて、俺らと一緒やでって手を引っ張ってくれる映画じゃないか。
あの頃はイケてたって自分の立ってる場所に虚しくなんかなる必要はないんだよな。

世代を引き継ぐ話をするテッツとチハル、そしてそのふたりと一緒にいるダンさん
DTCほんと、明確に度々ぶん殴ってくるんですけど、そして彼ら俳優陣の普段の会話のまんまだっていう、だからこそ出せる空気感がたまらなく好きなんだけど、ほんと、ダンさんのバランス感覚よ…
格好良いやつじゃなくていい、ってダンさんの打ち合わせの時に健二郎さんが言ったってエピソードがたまらなく大好きなんですけどね。ダンさんは両方にいける人、なんだよな。
コブラやヤマトのそばに俺もいるやろ!って気軽に肩叩けて、テッツとチハルと一緒にバカやれて。それはまさしく格好良くない格好良さで、そして、とんでもないバランスで起こる奇跡だと思うというか、ほんと、ほんとダンさん好きだよ…。
強くない人間の気持ちを理解できて、そして「評価してもらえるなんてわかりやすくていい」なんてことも言えるんだよ。やべーよダンさん。
問答無用の格好良さにも憧れるけど、ああして笑える人の強さには、もう黙って心が震えるしかない。ああいう人が近くにいるだけで、なんか、大丈夫な気がしてしまうよね、だから、愛ちゃんの気持ちがすげーーーーわかるんだよね。あれは脚本の説得力とかだけじゃ描けない絵の説得力だよ。と、思う。
健二郎さんのお芝居の彼自身だからこその表現に今年は何回打ちのめされればいいのか。好きだ。

というか、ハイローは、そういうとこが大好きなんだよ。
EXILEってデッカいグループに後から入ったメンバーや、「弟分」と他所から言われるグループ、団体に所属しているからこそ言える台詞とか、
いつまでも夢を追い続ける立場にいるからこその台詞とか。
彼らの生理に沿った台詞が心地よくて、お芝居なんだけど、お芝居だからこそ、堪らない空気感があって。特にDTCは、彼らのライブのことを思わず思っちゃうような瞬間があって(明確にどこっていうか、ライブ中の心臓と同じ動き方するとこ、って感じ)改めてハイローという作品の作りに悶絶するしかなかった。

間違ってもやり直せることを描き続ける姿勢
が、ハイローの大好きなところベスト3なんだけど、
愛ちゃんのまだ間に合う?にダンさんが応えることもそしてオープニングに繋がることもなんだけど、ダンさんが!ダンさんがですよ!!
掴めなかった手をもっかい掴みにいけるように背中押してあげるわけじゃないですか!!!!!!!!!あのダンさんが!!!!!


あの、コブラの手を取れなかったダンさんが!!!!!!!!!


山王を一度は離れたこととか、なんならその間にDTCを結成したこととか、なんかそれを後悔はしてても、間違えた、とは思って欲しくないというかなんか違うな、悪いと思って欲しくない、かな。
うーん、表現が難しいぞ。
コブラたちのそばを離れなかったら、のもしとか例えばコブラの窮地で冷えた心臓と同じとこにテッツたちの為に離れることを選んだその感覚は変わらずあって良くて、そしてその上で「山王で九龍と喧嘩をすること」を選んだんじゃないかなって。
だからこそ、愛ちゃんの手を取ってまだ間に合うって言えるんじゃないか。生きてたらやり直す明日が来るからな。

そして、1番、ああこれは今までのハイローの続きの世界なんだ、と思ったのがですね
宮崎さんの「突然いなくなるな」の言葉なんですよ。
なんか、あの台詞聞いた時に龍也さんや兄貴や、スモーキーや、なんならノボルや、彼らの前から「突然いなくなってしまったひと」のことを思い出してしまって。
憎んでも、口を利かなくてもいいから、突然いなくなるな。
いや勿論、これは前のシーンのいなくなった愛ちゃんのシーンの踏襲だってのは分かってるんだけど、でも私の頭の中では、
突然いなくなるな、とは誰の言葉だったのか
ってのがぐるぐるしてしまって。そうだなあ、望むとしたら、それだけなのかもしれないなあ。


ダサくて格好悪くてお節介な彼らは、結局そうなんじゃないの、っていうか。
なんとなく、突然終わってしまうものとか、気が付けばなくなったような錯覚に陥ることって大人っていう世界ではあって
これは最近思うんだけど、でもそれって「錯覚」なんだよね、何にも変わってねーんだよ。
喧嘩に似てる、何かをやり切った時のあの心持ちについて、彼らがおんなじ、思い出したっていうシーンが愛おしくて
なんか、お題目はいいから、目の前の人に笑ってて欲しくていなくならないでほしくて、そんな毎日が大好きで続いたらいいなって思ってるんじゃないのかって、ことを、考えていた。


別に大人だとか子どもだとか仕事だとか喧嘩だとか、そんな線引きほんとはありはしないのだ。


そうやって続く毎日を愛おしく思うのだ。
そして、続く、と銘打ってくれる優しさですよ。あの、ラストにTo be continueって出てきた時、そもそも鬼邪高がスピンオフってあるって知ってるのに胸が熱くなった。
いつか終わりは来るのだろうけど、変わらず彼らの日常が続いてて、彼らはいい意味で変わらなくてそれがほんとに、この映画で1番嬉しかったことかもしれなかった。

四天王 エレメンタルフィクサー

こんな展開を待っていた、というトクさんの台詞に大きく頷いた。そうだ、クエストさんはいつも、大好きで切望してる物語を、予想を遥かに超えるエネルギーで届けてくれるのだ。


(あらすじ:公式メルマガより)
孫悟空、桃太郎、アラジン、ピーターパン──異なる絵本の主役たちが力を合わせて戦う物語。

電子書籍の氾濫により紙の本は滅亡の危機に瀕していた。
ある時、世界中で広く親しまれていた童話のデータが書換えられていた。
物語を侵蝕する“悪意”を駆逐すべく結成された絵本アベンジャーズ“四天王”──果たして【カミのセカイ】を取り戻すことができるのか?
物語の境界線を破壊するフルアクション琴線エンターテイメント!


フライヤーでも印象的だったスーツ姿の「四天王」のそれぞれの物語を話すシーンから始まる。まずね、ここのね、スタートの照明がね、最高なんですよ。客席の照明の落ち方含めて心臓が震える。物語が、お芝居が始まる。もう、そっからは彼らの独壇場な訳ですよ。カラフルな衣装もオープニングからぶっ放していくキレのあるダンスも、どんな人かは分からなくても既に目を奪ってくるキャラクターも。

やーーーーもう、こっから、ひたすらに、ああああ好きだ、って思いながら見ていた。否が応でも、物語に引き込むあの力に何度、って感じ。本当に。

夢を壊すようなその後を歩むピーターパンや、なんとなく矛盾した生活を送る桃太郎や、大事なものを全部は持っていられないアラジンや、そして、旅を終わらせ決別を選ぶ孫悟空や。
矛盾した生活を送る、って書いたけど、あれか、あの、夢というか書き換えられた物語を思うと、そもそもあったものなのか。どうなんだろう。それとも、桃太郎が冒頭口にした通り、物語は幾つも分かれて形を変えてその人の物語に変わっていくから、というだけの話なのか。

 

ブラック西遊記が大好きだ。祈りの歌を何回再生したかわからないし、どうしようもないとき、何度口ずさんだか分からない。
だから、今回の悟空の姿が。
あのトクさん、本当に、ベニクラゲマン→ミラピの時のピノキオの時もそうなんだけど、そういう意味ではまさしくアベンジャーズ、なんだけど、
こうだったかもしれない世界線の話は本当に。
ブラック西遊記がお別れしたくなかった三蔵法師の話だとしたら、四天王はその逆なのかもしれない。
沙悟浄が一緒にいてくれて良かった。沙悟浄がどうしてそうしたか、とかそんなに描かれていないけど、描かれていなくても、沙悟浄猪八戒もどんな気持ちだったのか(猪八戒の、こうなることは、のところ本当にやばかった。それぞれが、こうなるかもしれないと思いながら必死に留めようとしてたんだなあ、そうなるだろうことを知ってたから尚更。

なんか、あまりにそれぞれが全部出すみたいに台詞を言うもんだから、その瞬間みたいな台詞ばっかりだから。現実もお芝居も全部引っ括めて、ぶん殴られるみたいな気持ちだったよずっと。
トクさんの台詞が好きだ。トクさんの描く心にぴったりくっつくみたいな台詞が好きだ。
命賭けて舞台で飛んで叫んで笑ってる人たちに出逢えるX-.QUESTさんが好きだ。命懸けで、舞台に立ってる姿があまりに格好良すぎて大好きで、気が付けば、引っ張り上げられちゃう、そんな舞台が大好きだ。


リミッター、解除!
あの叫びを聞いた時の気持ちを、うまく言葉にできない。叫び出しそうな、泣き出しそうな。
そこからのあの、今までの彼らの作品の音楽と、そして作品の中に登場する殺陣の手と。

便利棒での牽制や、あの段々と決まっていく殺陣はブラック西遊記
走り入って、空気をガラリと変えるのはベニクラゲマンの
軽快なリズムで舞う剣の舞は金と銀の鬼の
弓や八双飛び、そして四方から刺すのは義経ギャラクシーの
キャラクターが次々と殺陣を繰り出すのはミラピの

いや、あれは、本当に。
覚えてる、と思った。彼らが演じてきたいくつもの物語を覚えてる。何度も手を伸ばしてもらって、笑わせて泣かせてくれた物語たち。
ちょうどこの前書いたブログでお腹割いて今まで受け取った好きが出てきたらいいなあ、なんて話をしたんだけど、
言うまでもなくだった。詰まりまくってた。
覚えてる。飛ぶ方法が、楽しいことを考えることだと言うなら私は何回も、飛んでいたし飛び方はちゃんと、覚えてる。

ブラック西遊記を、初めてDVDで観た頃。
社会に出たばかりで力の抜き方も入れ方も分からずに、全然ダメダメでそんな中、リミッター解除!って叫んで、とんでもなく格好良い殺陣を観て、もっと頼れよ深いところで!と叫ぶ悟空の姿を何回も見た。観て、観続けて、気が付けば色んなことが楽しくなっていた。
体調を崩した頃、何をしていいか分からないって思ってた間、ずっとブルーアップルを観てた。真剣にベニクラゲを飼おうかと考えたこともある。
生で初めてクエストさんに触れた金と銀の鬼は、ここに来れば、どこまでも走れるパワーがもらえることを知った。明日からも、って思う背中のひと押しをくれた。だから、私はあれから、落ち込んだ友人に会うと、クエストさんを見せるようになった。
義経ギャラクシーで、人間が好きだ、と思った。どうしようもなくても、抱き締められる人間が好きだった。初演も再演も、それぞれ大好きな友人と観た全部引っ括めて幸せだった。


私はいつも、勝手に受け取って、勝手にクエストさんのお芝居に何度だって人生を救われてきた。
つーか、そんな、大袈裟な話じゃなくて、ずっと、旅をさせてもらってたんだなあ、と思ったんだって話なんだよ。
だからあの、栞の台詞は苦しかった。三蔵法師の諭すような台詞が苦しかった。だけど、いつか、例えばあそこのシーンからあと少しでお芝居自体は終わるけど、それはずっと寄り添っててくれてるって、思った。思ってもいいでしょう…?
いやだって!ほんと!こんなに沁み込んでるよー!!!!ってのを!実感しちゃう芝居だったんだよ。ずるいよ、くっそ大好きだよ。
だって、私たちは、物語を心に抱えて成長するんだよ。

 


出逢えてよかった。クエストさんを観に行ける時代に、その年齢で、出逢えて本当に良かった。そして、塩崎さんも、そして胸元さんの台詞でも続ける、ということに想いを馳せた。続けてくれたから、くれるから、出逢えた。
その旅路がしんどいものだったとしても、続けてくれてたから。
感謝しかない。そうして、私もここまで来れた。
だから、これからの旅路が少しでも幸せがたくさんあるものだといいと心の底から願ってる。まずは、明日の舞台が、全ての人にとって、幸せなものでありますように。

 

SOW大阪2日目を観て彼等の表現に想いを馳せた話

今日を一生懸命生きるしか、できることなんてないんだなあということをひたすらに考えていたような気がする。


3年ぶりとなるEXILEのツアーライブ、そのスタートダッシュの大阪公演に急遽行ってきた。
奇跡みたいな巡り合わせで観に行って友人には感謝しかない。座席についてもしばらくは二人とも信じられなかった。

3年間のそれぞれの映像が流れ、始まった希望の星、と名付けられたライブ。

 

ハイロー、しかもザム2から入ったのでど新規もど新規な人間の感想というよりも、既に真っ白になりつつも、少しでも残していたい感覚の記録です。次が、2月でそれまで少し空いてしまうので。そして、私なりに今日浮かんだ、EXILEをはじめとするLDHについて考えたことたちです。履修速度が遅い人間なので、知識不足のせいでトンチンカンなことを書いてる可能性は大いにあります。広い心でお読みいただくか、あるいはそっとページを閉じて忘れてください。


セカンドさんのファイナルをライビュで観て、そこで今回のツアー発表を観て
私は私なりに色々と思ったり考えたりして、
そしてアルバムを聞いたりしながら過ごしてきた。
ライビュのラストfor EXILEというセカンドさんをはじめ、待っていた彼らの数年について考えたことも何度もあった。そんなことを思い出して、あの3年の映像で、あ、こいつはヤバいぞ、と悟った。
直人さんがラスト、語ったようにEXILEという場所がなんなのか、というのは青春という言葉がしっくりくる。立っている彼らが1番あの場所に憧れ続けている。そんな気がする。

それは長く、J soulを受け継ぎながらグループやメンバーを増やし作ってきた結果生まれた文化なのかもしれなかった。一度は客席で、テレビの向こう側で、観て目を輝かせたことのあるメンバーたちがいるからこそかもしれなかった。
そんなことを考えるくらい、彼らがそこに立っている姿が楽しそうで、キラキラとしていて、なんか、たまらなかった。
変わらないなんてことはなく、だけど一緒にい続けるという途方も無い夢を見るための人たちなのかもしれなかった。
憧れてその場所に立つ。それはどんなに羨ましいことだろう。
あんな大きい舞台に、なんて話でもなく、いろんな人に愛されて好きなことが出来る場所にいるなんて、なんて話ではもっとなく。というより、それはしんどいことも多いだろう、と思うし。そんなことではなくて。
大切な憧れを、踏みにじることはきっとなかなか無いと思うのだ。そうやって、みんなが自分の場所を決めれるなら、きっともっと幾分、世界は優しくなるだろうと思う。
ただ、とか、言いながらですよ。
世界はひとりぼっちじゃないから、例えばすげえ憧れて焦がれて立ったその場所だって、百点満点の幸せがずっと続くわけじゃないじゃないですか。そんなん、みんな、薄々わかって、なんなら経験したこともあったりして、うんざりしてたりするじゃないですか。
憧れたぶん、反動に苦しむことはどんだけだってあると思うんだよ。
なのに、EXILEの人たちはとんでもなく幸せそうに、あの場所に立ってるどころか、立ちつづけてて、これからも立ち続けたいっていうんだよ。

いやなんか、ほんと、全く纏まってないな。たぶん、もっと、こう例えばメンバーの絡みとか演出の話とか、たぶん、ライブの感想とかってそういうことだと思うけど、いつまでたってもそんな文書ける気がしないんだけどさ。
すげー楽しくて、夢みたいで途中何度か、あ、これもしかして夢かな、と思って、でも現実で今もまだちょっと驚いてる。現実なんだって!

STEP UP聞いて、とか、なんか、色んな曲聴いてパフォーマンス観てちょうど今真っ只中にいる色んなことの背中押された感じが半端なかった。そうだった。夢見てたんだったってめっちゃ思った。
うるせえうるせえ!しんどくてもそこにいきたいんだ!って思ったし、
浪漫の地球で、汚れてもないって歌うTAKAHIROさんにめちゃくちゃ泣けてしまって
あの、表現ってすげーなーと思うんだけど。
ほんとに。
や、だってこんな前向きに、なるんですよ。

言葉が、ただ言葉がもともと辞書的にもつ言葉の意味だけじゃなく、
たぶん、誰がいつ言うか、なんてことにものすごく左右されるものだったなんてことをちょっと思って。


ちょうど昨日、フォロワーさんたちと飲みながら、EXILEさんたちの創り出すエンタメや表現が彼らの人生に直結し過ぎてる話をしていて
八王子ゾンビーズとか今日のFANTASTICのデビュー決定からのTurn back Timeの流れとか。
悲劇商法だなんて心無い言葉もあるらしいけど、いやちげえじゃん。
だって、彼らの表現ってパフォーマンスも歌も彼らが感じて考えて思ったことの発露じゃん。
ちょっと話はズレますけどね、Ti Amoのケンチさん直人さんとか観た時思ったんだけど、
パフォーマンスの悲しい、とか叫ぶ、とかの激情とのマッチ感というか相性は一体なんなのか。心が揺さぶられること、の結果生まれるからなのか。教えてくれー。パフォーマンスって、いったい、いったい・・・。
感情の結晶じゃんと思うことがよくあって、言語化できないものが形になって表れてるんだ、とよく思う。
彼らのこれまでがあるからこそ、なんか1つ変われば全く変わってしまうもの。それがパフォーマンスなんじゃないのか、表現なんじゃないのか。
そう考えると、翔太さんの存在は彼らの中にも、なんなら私たちの中にもあってだって、今日の私は昨日の私の続きなわけで。
昨日の先に今日があるんだということ。
そんなことに今日のライブで今更のように気付いてビックリしていた。え、じゃあ昨日の私より良くなってたいし、明日の私が格好いいかって今日の私にかかってんじゃん?!って思った。
やべーぞ、今を全力で生きてる彼らが常に最高を叩き出して昨日の彼らを越えてるのを見続ける限り、私も一切全くこれっぽっちも負けたくないぞ。
あと、今回結構後ろの席だったんだけど、なのでスクリーンなかったら表情分かんないし場合によっては(わちゃって出てきた時とか)花道でも若干誰か分かんなくなる時もあったんだけど、
でも、直人さんとたぁさんはあ!って気づいて、そりゃ、まあ、めっちゃDVDとかでガン見したもんね。動きとかそういう癖とか、覚えてるもんね、と思いつつ、ああ私あの2人が好きなんだなあ、としみじみ考えてた。たぁさんが最推しか?って話をしたばかりだったので。いや、2人ですね、色々考えましたがたぶん2人ともめっちゃ好きです。楽しそうなのがね、見てて、すげえ好き。みんな楽しそうだけどね。バイブスがより合うんだと思うな。感覚の話なので正解はないです。好きだってだけです。
最近よく、私の腹を割いたら、今までの好きが全部出てくればいいなーなんてことを考えることがありまして。
好きなものが多過ぎるのとすぐ増えるし、となると、お前の好きは軽い、と言われがち(興味の示し方とかのせいかもしれない)なんだけど、それはもうそう見えてるのであればそっかーって思うけど、でも、なので私は尚更、そういうアホみたいなことを考える。
興味を失ったように見えるかもしれないけど、それは実は私の血肉になってて離れないんすよ。すげーすよね。なんつって。
なんか、彼らの表現が、確実に色んなものを(それが私自身なのか、もしかしたら目の前の世界の可能性もあるんだけど)変えていくのを見ると、そんなんも、考えてしまうよね。


私にとって、大切なお芝居にそんな台詞が出てくる。死んでいなくなってしまったその人はいなくなったわけではなく。周りに次々と死なれてしまう不幸な女にその兄が言う。
お前は、彼らと出会う前のお前とは決定的に違って、海は、お前と出会ってまた違う海になる。
ニュアンス。戯曲手元に置いとくべきだったな。
なんか、そんなことを、考えてるので
今日の音楽やパフォーマンスに出会った私はそれまでの私と決定的に違うのではないか、とそんなことを考えている。
そんで、、とその続きを夢みたいに考えてしまうのだ。あんなに、夢に溢れた、戦う人たちを観ていると。
ひとまず、次にまたライブに行く時、更に格好良くなってる彼らに負けじと明日の私をかっけーにしたい、と今日の私は思うのでした。