えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

魍魎の匣


※原作未読、一度のみの観劇の記憶のまま書いてます。曖昧な部分やフィーリングが多いかと思いますが、ご了承ください。

一度は、興味を持ったのに忙しさに読み切れず見送った京極堂の世界にまさかこのタイミング、この形で触れることになると思わなかった。
読み切れなかったのに、京極堂は気になる存在だった。たまたま、本屋で見かけた戯曲の落語、死神(あれはどういうコンセプトの本だったんだろう、忘れてしまった、惜しいことしたな、今もっかい読みたい)のお話がたぶん、とても好きだったからだと思う。
たぶん、戯曲だったのだ。だから、どれどれ、と思ってページをめくり、気が付けば引き込まれていた。印刷されただけのはずの文字は、音になりぐるぐると自分の周りを取り囲んでいるようだった。ぞっとするのに、心地いい。
ふと、そのことを観ている間思い出した。
そして今まだ、私はまだあの匣の中にいるのかもしれない。

 

関口くんと、久保くんの話をしよう。
冒頭の彼らのやりとり。
これは、彼ら二人に限ったことではないけど、出てくるひとたちが……それはかなこちゃんたちを含めて……強烈な個性がある。これは別に、何か奇想天外ななにかを持ってるというわけではなくて、持っている人もいるけど、というよりかは、凛とした存在感や人間臭さがダイレクトに漂ってくるようなシーン構成と、キャラクターだった。
(そういう意味で雨宮は没、という個性をある意味で持ってたのかもしれないし、それが更に後々効いてくるのだから痺れる、すき)

ところで、関口くんが好きである。
何故か猛烈に惹かれている。
彼は、ある意味で、京極堂さんでもエノさんでも木場さんでもなり得なかった人だ。ある意味で「ただの人」だった人で、それは久保くんとのシーンで痛切に感じた。
や、ほんと、あんな、あああああやめたげてーーーーってなるシーンあります……?
残酷さと嫌味ったらしさがすごい。
しかもあれ、原作だと更に色々言うそうですね?やめたげて、関口くんのライフはもう0よ。
しかも、姑獲鳥の夏で色々あったから情緒不安定だった頃が魍魎の匣、という感想を読みまして、あの

やめたげて…!!!!!


対する久保は圧倒的な文筆家としての才能があり、その自覚も自負もあり、それを見る関口くんの目たるや、なかなかに心に迫るものがあった。
関口くんはきっと、天才ではないんだろう。とびきりどうのということもなく、ただただ文を書く人なんだろう。
だけど良いじゃん…と私的な思い入れをつい持ってしまって思う。自分のために文を書く人間だから尚更、それでも仕事として求められてる文をどんな形であれ書いているわけで、関口くんだって、関口くんだってなあ……と、関口くんについて、ほぼほぼ知らないのに、勝手に熱くなっていた。


と、いうのに。
そんな、関口くんから見れば非凡な才覚の持ち主であり、「満ち足りている」彼がしてきたこと、彼の生い立ち。そして、匣に魅入られたこと。


なんか、胃の中のものがひっくり返るような痛さがあった。
久保くんが回想の中でお父さんに叫ぶ、そんな奴を慰めるなら!という台詞が蘇る。口の中が苦い。
幸せを比較することはできない、持ち物を比較することはできない、定規が違う。
だけど、それでも、関口くんの痛みを思ってしまう。自分が焦がれるような才覚を持った人間がどうしようもなく「渇いて」「飢えて」「足りない」としたら。
その時浮かぶのは、絶望だろうか、怒りだろうか、悲しみだろうか。
いずれにせよ、きっとその時生まれたひどく暴力的でどうしようもない感情がもしかしたら、「おはこさま」(漢字がでない)を生み出した久保の感情の形かもしれなかった。

ところで、さ。私は関口くんの、あのお母さんの家に行った時、はあーって最後、念を送る様子が好きだった。
彼はどうしようもなく平凡で善良でなんでもない人間で、だから好きだなあと思った。
関口くん……

 


そして、そう思うと雨宮のことがしんしんと悲しくなるのだ。更に。悲しくて、そのくせ、どこかで良かった、と思ってしまう。
なるほど確かに、人が幸せになるのは簡単で、人を止めることなんだろうと思う。
人をやめた彼のようにただ彼の中に存在するかなこちゃんと一緒にいること。
誰と比べるでもなく、驕るでもなく。
いや本当に、あのラストの演出は素晴らしかったなあ。

 


めちゃくちゃ物語に浸ったんだけど、それもこれも全て、もとの物語の圧倒的な力はもちろん、それを演劇としてこれでもか!ってくらい堪能させてくれる土壌があったからだな、嬉しいな、幸せだな、と思う。
舞台上に現れた匣、匣、匣。
くるくる回る椅子、背中あわせ。
背景の舞台美術、開く窓、映し出される文字。
いつのまにか現れてるセット、まるで「生きてるみたいに」
匣の中で、演じられていること。


いやもう……すごくない……?
演劇という力をフルで使い切って、昇華してぶつけてきましたね……?
あの物量のある物語を2時間に納めたのも納得の凄技だった。


そして、そしてですよ。
私は「生の演劇」という生身の人間がリアルタイムで演じる表現でこの話をした一番の強みだ、と思ったのが


橘ケンチさん……


いやもう、天才かと
天才なのではないかと。キャスティングした人、美味しいハムなどをお中元でもらってほしい。

 


京極堂、というキャラクターへの勝手な先入観からもっと陰鬱とした人嫌いをイメージしていた。
もちろん、それは全く見当違いなわけでもないんだろうな、、と台詞の端々から感じる。
感じるけど、観る前と観た後の印象が一番変わったのは彼だ。
京極堂、という名前をぼんやり認識していた存在が「中禅寺秋彦」という人間として、目の前に現れた。


(感傷的になるのは私の悪い癖なので、かなり思い込みなどは、あるかもしれない)


だけど美馬坂とのあの言い合いのシーンを観ながら、この人は人を諦めない、言葉と生きる人なのだな、としみじみと考えた。なるほど、だから古本屋をしているのだろうか、と思ったりもした。
憑き物が落ちなくなってしまった、というシーンの声の温度を覚えている。
そして、彼が彼だからこそかけられた呪いを考えて、そして、橘ケンチというパフォーマーがこの役を演じた奇跡に震えてしまう。


EXILEさんのパフォーマンスは本当に、命全部を燃やすみたいだ、と思うことが何度かある。
その人が、中禅寺秋彦を、しかも「生で」演じること。それは、それだけでなんて美しい物語だろう。
ともすれば、人が嫌になる、人をやめたくなる、どうしようもない、とがらんどうな気持ちになる中で、彼の静かで熱い台詞運びと気迫は、とてもとても良かった。
本当に。


あの台詞の応酬、本だとどんな印象を受けるんだろうな、と思った。京極堂さんの本だから、きつと凄まじい量とエネルギーが、そのページにはあるんだろう、きっと。


それが


演劇、というメディアにのっかって、人が演じ、形にして立体化する中で、ああした形、空気、音になったのは、とんでもなく好きだった。
たぶん、それもあって私は匣の中から帰ってきていない。

 


そして、だから余計にその中禅寺秋彦が、静かに言った「幸せになるのは簡単だよ」という言葉が、耳の奥から離れないのだ。
もしも、「幸せになりたい」と思ってしまった時、と考える。その時、あの「ほう」という声を思い出してしまいそうで、私はなんとも背筋が寒くなる。