えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ドラマ きのう何食べた?

このドラマの感想を、私はまずどう書いていいか分からなかった。
淡々と進む物語だという印象は原作時点であった。
大きく感情移入しすぎることはなく、それでも何か確かな肌触りで物語が通り過ぎていく。
それは、ある意味で描かれる軸が「美味しい料理」にあるからかもしれない。
しかもその料理たちは何か特別なもので作れらたものじゃなく
むしろシロさんが目を光らせ買ったお特品たちで作られたお手軽料理たちだからこそ、だ。


シロさんとケンジはゲイである。
ふたり暮らしながら色んな食事をし、色んな人と話す。
それは私たちの日常と同じように淡々と過ぎる。


私が特に印象的だと最初に思ったのは一話目、ケンジが泣いたシーンだ。

「なんで、俺は一緒に住んでる大好きな人の話をしたらいけないの」


内野さんによる繊細で色鮮やかなお芝居は見ている私たちの胸を深く深く突き刺した。
(と同時に、いやでも異性のパートナーだったとしても夜の生活について話されたら怒ると思うぞとツッコミつつ)
ケンジの愛おしさとケンジからシロさんへの愛情。
それをワンシーンで見せた大好きなシーン。

その上、だ。
特に分かりやすく感動的な台詞なんて一切こないのだ。

シロさんは一切、このケンジを慰めるでもなく更に喧嘩を悪化させるでもなく、
少しなんなら逃げるくらいの感じでご飯を作り出してしまう。
ケンジもそれを誤魔化した!となじりつつ、なんだかんだ一緒にご飯を食べ始めるのだ。

この空気感。

話は変わるけど、先日友人たちと話をした際「喧嘩をしたことがない」という話になった。
びっくりした。
私は、自分の学生時代の恥ずかしい話、とかだとだいたいくだらない喧嘩とかが浮かぶ。
あの時あんな怒り方したの幼かったな、とか。
逆にこいつと何で一緒にいるんだろうなって思う相手とは「ああそうか、あんときちゃんと喧嘩したからだな」って思うことがあるくらい、今まで喧嘩って身近な事象だったんだけど。
喧嘩をしない、したことがない人もいるのだ。
でも、たしかによくよく考えれば大人になって、自然と喧嘩は減る。
(私は本当に恥ずかしながらゼロにできずにいるけど)(まあ受け止めてくれる相手がいる幸せだと感謝するようにしてる)

などなどと考えると、このシロさんとケンジのやりとりはとんでもなくリアルなのだ。


また、一話でいくと触れずにいられないのがラスト(おそらくはアドリブの)ハーゲンダッツを食べながらのひょんなことから、の会話だろう。
きっと次の日になれば忘れてしまいそうなやりとりを彼らは心底楽しそうにするのだ。
だけどなるほど確かに、そんな「忘れてしまいそうな会話」で私たちの毎日はできている。

そして、そう考えるときのう何食べた?の中で描かれる食事の多くは(ふたりの思い出の料理であるクリスマスディナーなど例外はあるが)
そうした「忘れてしまいそうな食事」なのである。


そんな何でもない日常を殊更に愛おしく描くでもなく、かといって素っ気なくもなく描いていく。
一つには、西島さん内野さんをはじめとする役者さんたちの「生きている人間の温度」がドラマの奥行を生んだんだと思う。
聞いているだけ、見ているだけでも楽しいころころと変わる表情やテンポ。
そのイキイキとした表現が30分の優しい時間を生み出した。
(漫画版を思い返しても、また違った優しさ、生きている感じがある)(よしながさんの描く線の美しさったら!)(そういう意味で、それぞれのメディアだからこそ、の表現を楽しめるという意味でも贅沢で幸せな作品だった)

そんな生きている人たちが、明日には忘れてしまいそうな、だけどだからかけがえのない日常を生きる。
その中に時々何とも言えない苦みを見せながら。


シロさんは、わりと「しょーのない人」だったりする。
これは、シロさん目線で物語が描かれることが多いからこそ尚感じるんだと思うけど
「いやもうお前!」と何度叫んだか分からない。
自意識過剰で、見栄っ張りで、素直じゃない。
そんなシロさんにちょっと顔をしかめつつ、応援しつつみていた。
その中でも過剰にケンジが「良い人」と描かれない優しさにほっとしながら、彼らの日常を見守る。

シロさんが、ケンジについて佳代子さんと話すシーンで大好きだったのは、

もし俺と別れた時、泣いて過ごすのはケンジだ、とした上で、でも本当に困るのは自分だ、というシーン。
ケンジは情が深いからまた新しい誰かを探せるし見つけられる、それにひきかえ、自分が今から付き合ってずっと過ごしたいと思える相手を探すのは難しいし面倒、と話すシロさん。

だからこそ、なんとか「一緒にいる努力」がいるのだ、と話すシーン。
ゲイだから結婚という契約も子どもも(少なくとも現行の法律では)(厳密にいえば、養子縁組という手段はあるけど)ともあれ、そういう相手を繋ぎとめておく手段が少ないからこそ必要だ、って話すシーンだけど
そんなの、きっとゲイだとかいやそもそも恋人同士だとか関係なく、人と人が一緒にいる以上必要なことで、した方がいい努力だ。
した方がいい、っていうのはなんとなくしっくりこない。

そうして一緒にいたい、と思える相手がいることを私は幸せと呼ぶんだと思う。

最終回、シロさんの家に行ったケンジは両親の誤解を解くことなく、そんなことはどうでもいい、まさか自分が好きな人の両親に挨拶して、一緒にご飯を食べられる日がくるなんて思わなかった、と泣く。いっそ今、死んでもいいと。
それに、死ぬなんて言うな、と返すシロさんが好きだった。生きるんだよ、と口にしてだから油に気を付けて、運動もして、そうして一緒に生きていこう、と。


こんな優しい話があるだろうか。


それから、髪を切ってバックハグするときも、カフェにもういいかな、と一緒に行くときも。
きっと彼らは生きてきて、そしてこれからも一緒にいるための努力をしながら一緒に生きていくのだ。
それが、とても優しく、その三十分は毎週の私の大切な時間だった。
ささくれだたなくても、無理に優しくならなくてもいいのだ、というのは、なんともあたたかな話じゃないか。


この感想を書くのが難しかったのは明日には忘れてしまうくらいささやかな毎日の話だったからである。そしてそのささやかさが、私にとってたまらなく大切だったからこそ、どう書いていいか分からなくても私はこの感想を書きたかったのだ。