えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

死が二人を分かつまで愛し続けると誓います


死が二人を分かつまで、愛し続けると誓います。
あらすじを読んで、もう一度、タイトルを見るとその時点で肌がざわつく。
死んでしまってる。死が分かつまで、と決められた期限をこの二人は越えてる。だけど、一緒にいる。

だとしたら、二人はいつ分かたれるのか。
いつまで愛し続けると誓い続けなきゃいけないのか。
そんなことをまず、考えた。


あらすじ
『死が二人を分かつまで愛し続けることを誓います』(主演:小岩崎小恵)
死後、幽霊となって帰ってきた男・大介。妻の夏子は霊感があるゆえに、彼の姿を認識出来るが、もう二度と二人は触れ合うことは出来ない。
幽霊の夫と、幽霊を見ることが出来る妻。それでも変わらぬ愛を誓い今まで通り暮らしていく二人だが、無情にも時間はその関係を歪めていった……。
哀しき宿命を背負い、必死に永遠の愛を模索した夫婦が辿り着く、死と愛のワンダーランド。

 

教授の選択が正しかったのか、それとも大介の選択が正しかったのか。
同じように愛していて、同じような願いを持ってて。
どっちが、正しかったんだろう。


まずは、吹原さんの演じる家族たちの「あーポップンにきたぞー!」という爽快感。
ポップンさんは、わりと遠慮なくえげつなくどうしようもなさを提示してくるけど、こういうとこが大好きで、いやなんでやねんっていう、その心地良さ。
こんな不謹慎さや下ネタで笑うこともないなってくらい笑った。そこでゆきさんが「せめて今の時代大学くらい出てないとね」ってまって、やめて、そんなちょっと前のスペシャルドラマでありそうな台詞言うの頭が混乱する!!!みたいな…その、この、空気感。
ここから、幽霊たちまでひたすら走りっぱなしである。もう何が来ても受け入れるしかない。ポップンさんを観る時の私の基本姿勢は「受け入れる」だ。
目の前でこうだよ、と言われたらどんなトンデモ設定だろうがそっかあ!で受け入れる。これ大事。素直はいいこと。
と、安心(?)しつつも、やっぱり気持ちはざわつきだす。

「こうあるべき」「相応しい」「べき」

実は、このお芝居の根本的なところのぐるぐると考える部分はこのパートで動く心が教えてくれたりする。
こうあるべき、相応しくない。
じゃあ、死んだ人間が生きた人間の近くにいることは「相応しい」ことなのか。

と、言いつつも、私はこのパートがぶっ飛びが楽しいからというだけではなくとんでもなく好きなのです。
吹原さんが喪主をやること、絵が贈られてきたこと。そもそも、それだけ関係を築いた吹原さん→夏子への感情を考えると心臓のあたりがぽかぽかする。
若干前後した感想にはなるけども。
彼が昔、幽霊が見えた頃、唯一受け入れてくれた夏子さんを思うと、あんなに一生懸命走り回った気持ちも分かる気がする。
当たり前に「そう」であることを肯定されたこと。
それは、単純な話に留まらなくて、その人の軸みたいになって支えてくれたりする。そうした人の幸せを祈るのは、自然だし、そうやってお互い、祈りあってるのかもしれない。
ひとりぼっちになったかもしれない、と分かった時の吹原さんの表情が大好きだった。
そんなわけない、「ずっと旦那さんと共に過ごす」幸せの中にあったはずだ、と願う彼が大好きだった。
互いに好きだ、幸せでいて欲しいという気持ちを願い合うの本当に愛おしくないですか。
そして、夏子さんを特別に思う旦那さんの気持ちを理解する奥さん本当に愛おしくないですか。
あの夫婦本当に大好きでした。
ゆきさんと、吹原さんのあの空気感はなんなのか。いや、ポップンマッシュルームチキン野郎の人たちはみんなそういうとこある。そういうとこあるよ…!
なんか、なんだ、信じたくなるあの優しさの形とか温度とか。

大切な人の大切な人を大切にできる人が好きだよ…。

そして、「大切な人の大切な人」を大切にした幽霊の話ですよ。
教授…!もう、あの、教授…!

残酷なのは彼らが幽霊であることなんだよね。原始人の彼も落ち武者の彼も、ギャグとして彼らの死を語りはするけど「彼らは成仏できていない」
生になのか、死になのか、納得がいかずにさまよってる。納得して、巡り会い続ける蝶々とかの話が対になってるの本当に…えぐいことするなあ。

教授の素朴なまでの愛情が可愛くて愛おしくて、だからこそブローチを粉々にするまでの彼の気持ちを思った。そうしてなくなったものにするのは、どれだけ、と思う。
しかも多分、初めての憑依ですよね?
初めて、生きる・死ぬの感覚の違いを理解して、それこそ、もう一度触れられる可能性を理解して徹底的に彼は自身のもし、を叩き潰すわけじゃないですか。
本当に…もう…。
彼女に触れる為じゃなく、彼女を救う(と少なくても彼は思ってる)行動を選ぶ教授が苦しかった。し、だから尚更、彼の本音である「ここにいるよ」が。
幸せになって欲しかった。だけど、死んでしまった彼は、彼が幸せになることは選ばなかったんだな。楽しく過ごすことは選んでも。

悲しいことだし、それを正しいと切り捨てないのは、当然、彼らが成仏しなきゃいけないことの前提があるとして。
死んでもなお、生きてる人間に縋ることは間違ってるかもしれないとして。
それを、さみしく思うのは勝手だろうか。

 

何が正しいか、もう一度考えてごらん、というのは意地悪でも何でもなく、むしろ優しさなんだろうし。
触れられないままそばにいることを無邪気に幸せと呼ぶのも酷いと言えば酷いのかな。


当たり前に、何も変わらず過ごそうって亡くなる前の大介さんと夏子さんは約束してたじゃないですか。
そんで、たぶん、二人は何も変わらず、死後も過ごしてる。ああ、あの約束の延長か、と思った。思って、でも、回想じゃ二人飲み物を飲んでて、大介さんの「一緒にお茶も飲めない」にめちゃくちゃ泣いた。
ワーーーンって泣くんじゃなくて、心がくしゃってしたかんじ。
決定的に、変わってしまった。
大切なものが。

 


だから、大介さんの選択は苦しいけどそうとしかならなくて。
死が二人を分かっても、愛し続けているし、そう誓い続けてるのに、その世界はくっつかない。

 


教授の選択が正しかったのか、それとも大介の選択が正しかったのか。
同じように愛していて、同じような願いを持ってて。
どっちが、正しかったんだろう。


でも、ずっと辛かったわけじゃない。たくさん笑いもした。
何より、不思議と、抉られるような痛みは今回なかった。いい意味で。
死ぬこと、はみんな等しく降ってくるからかな。不思議だ。
くしゃ、とした心はしかし理不尽な暴力にさらされてるわけでもなかったのでしとしとと、寂しかったんだけど。お父さんの言葉に毛布とお茶を差し出された気がした。


好きなら好きでいい。
相応しいとか可笑しいとか、そんなの、どうだっていい。


どっちが正しかったか、なんて、そんなの、無いに決まっていた。結論を出すことでもなかった。
正しいか、なんて何にも意味がない。
ただ、好きだ、と思ってること幸せをたくさんたくさん祈ってること。
そこに、ふたりがいること以上に、意味があることなんて多分ないのだ。
死が二人を分かとうが、愛し続けると誓った二人は何も変わらないのだと。
それを悲劇とも、喜劇ともジャッジする資格なんて無いのだ。むしろそんなの、馬に蹴られてしまえと思う。
ただ、私には。いいよ、と笑って言えるくらい好きなことはとんでもない奇跡で、幸せだと思うのだ。