えす、えぬ、てぃ

お芝居の感想など

劇作家と小説家とシナリオライター

どんな感情になればいいのか分からなかった。観終わって、それは多い情報量に頭が混乱していたというのもあるし或いは今まで観てきた松本さん脚本はシンプルな、というよりかは感情移入の先がハッキリしていてしかし今回は観ている自分の感情がどこにあったか分からずに気が付けば終演していた、というのもあるのかもしれない。
ともかく、分からなくて分からないまま浮かぶ言葉をそのままアンケートに書いていた。書き終わって、ひとまず分かったのはこれは物凄い愛情の籠ったラブレターだ、ということだった。


公式サイトあらすじより
とある会議室に三人の作家が集った。劇作家と小説家とシナリオライター。ジャンルの違う場所で「物語」を作ってきた三人の作家は、企画会議を繰り返しながら、共同で「或る物語」を作ろうと奮闘する。
「ダイナミズムこそ物語の根幹だ」と劇作家は語る。
「言葉のディティールに物語の息吹が芽生える」と小説家は語る。
「リアリティがすべて。その中からしか物語は生まれない」とシナリオライターは語る。
着地点の見出せない「或る物語」の「登場人物」達は、様々な試行錯誤により「物語の中」で右往左往する日々。
締め切りの迫ったある日、三人の作家の前に舞台監督、編集者、ドラマプロデューサーが現れる。追い込まれた三人の作家が生み出す「或る物語」は、三人の想像を超えた世界へと飛躍していくが…。


物語は、制作現場と彼らが描く物語の二つの軸で進んでいく。しかもそれが時々、交差するという複雑な構成になっていく。
ただ、一シーン一シーンの緊迫感が瞬間的に盛り上がり、しかもそのまま次の瞬間にはがらりと色を変える。たぶん、この辺にも私が見終わった時の頭の混乱はあったと思うんだよな、ストーリーが分からなくなる混乱ではなくて、思い切り心が瞬間瞬間、すごい運動をしたので物凄い疲労を感じたのだ。
古本屋の小さな、だけど大きな影を落とす事件。
看板役者が辞めるある劇団の公演。
私の中で、特にこの二つは、心の渦がぐるぐると起きた。

赤川次郎にその値段はあり得ません」

この台詞、すげえ、と思った。
呻きそうだった。
赤川次郎さんは、とてつもなく人気で、素朴で絶対的に面白く親しみやすい作家さんだ。ただ、確かに「買取価格」としてあり得ない。全国展開している古本屋での値段はだいたい100円か、よっぽど綺麗なハードカバーで300円くらいな気がする。感覚の話だけど。
この何気ない台詞が「小説家パート」で出てくるのはすごくないですか。これこんな事細かに書くことではないのかもしれないけど、私はあの台詞で小沢さん演じる小説家、が好きになったのだ。そして同時に、そんな人が働くにはそこは辛いよ、としんどくなった。
「綺麗な言葉を使いませんか」
そういう彼は、現代的ではないというか、ああきっと、そんなの、こんな酷い言葉が溢れてて、しかもその言葉が大した意思を持ってないインスタントなそれだっていうくそったれみたいな(あー綺麗じゃない!)このご時世にきっと辛いんじゃないか、と思った。というか、観てる私は辛かった。
そしてその対称にいる店長と社員の構図が…本当に…。嫌な現実、の見せ方がともかくこの二人凄くて、私はぐるぐる唸ってた。心の中で。黒く、しかもクレヨンみたいなので塗りつぶす感じが、本当にともかく苦しくて。

そして、劇団のパート。
これは、もう、あの、本当にですね。
淳さんが引退するtwoを演じた、というのもあるのだけど。いやまあ、それは「私が観た劇シナ」の話をするなら絶対的に切り離せないんだけど。
土屋さんの言葉一つ一つがさあ。
そうだよな、決めたなら決めたって言うなら覆したり出来ないよな。
それに、何だろう、、もっと引き止めろ、とかあの大学生の子がしたことのようなのって、なんか、追いつかないというか、出来ないよなあと思った。
ただそこにある事実でしかないというか。結局、私はここの感想が全くまとまらない。ただただ、心がぎゅーーーっと締め付けられていた。飲み会終わり、何気ない会話からなく主宰が、そして、それをただ黙ってる彼が、愛おしくて苦しくて仕方なかった。あそこに、きっと彼らの過ごした幾層もの時間があって、それだけが事実だった。

引退公演のカーテンコール、正面席から観た横顔が、忘れられずにいる。ファンを名乗りたい人間として。いやもう、本当に…。

そういう、ものすごく濃厚な、しかしワンシーン切り取られたストーリーが重なっている。ただあくまで「切り取られた」なので、全部を知ることは出来ない。大きく言えばどんな物語も結局はそうなのかもしれないけど、瞬間的な空間だけが描かれてる今回、尚更、そんなことを思った。
そして、それでも物足りなさを感じないのは、劇作家、小説家、シナリオライター、そして「私」が心血を注いで生み出そうとするその熱量にあてられるからだ。
もう、あれは、あてられる、だと思う。
土屋さんのじゃなきゃ登場人物たちが可哀想だ、という台詞をはじめ、彼らは(プロデューサー、編集さん、ぶかんさんも)みんな、虚構の世界である登場人物たちに本気になる。
本気で、幸せにしようとする。全うさせようとする。
それは登場人物たちの世界と響き合って共鳴する。


全ては、受取手に届く瞬間のために。


劇作家や小説家、シナリオライターたちは自分の言葉を信じて感覚を信じて、そしてそれが時折、ぶつかって削られて、ってしながら。
これは、本当に、すごいことですよ。
擬似的に自分たちの大好きなお芝居が生まれていく世界を経験するような形じゃないですか。しかも、擬似的に、なの。感覚に細胞に沁みるみたいにそんなことを思ったんですよ。もう、これは、本当に。
そら、見終わった時どっと疲れてるわけだわ。


言葉、も、物語も大切にされてて、それが受取手の観客をその少し先に置いてくれてて、受け取って、って差し出されることが私はたまらない奇跡みたいに思えた。


そんで、その上で、ですよ。
私が、びっくりしたのは、ラスト。
劇作家が役者にここ一番の見せ場として長台詞を書くシーン。あそこは、もう本当に愛おしくて嬉しくて。
言葉なんて出てこないよな、というか、引き止めたりそんなんじゃないんだよな、とあのなんとも言えない感情を飲み込んで飲み込みきれず苦しいまま息を止めたから尚更。
一緒に芝居を続けたかった、も彼が決めたならそのまま進めばいいと思った、もどちらも本当ででも少し違うくて、じゃあ何かといえば、あのシーンが全てなんじゃないかな、と思った。


そして。
そしてですよ。
ラスト、ゼロの、心が動くシーン。そして、私たちの心が動くシーン。
あれが、台詞が一切なく図師さんのお芝居それだけで描かれた時、もう我慢ができなかった。耳鳴りすらしそうだった。
あれは、もう、ラブレターですよ。
みんなで積み上げたものを図師さんがギュウッてして、渡す感じ。そして、それを「わたし」が受け取って更に色付いて輝くあの、景色。


印象的なことがあって。
前説、夢麻呂さんが「今回アドリブをほとんどしてない」って話をしてて、それを聞いて、観て、ああ、信頼の形なんだな、というか。
それはアドリブがあるお芝居がダメだとか劣るだとかそんなつまんない話をしたいんじゃないのだ。
ただ、今回は少なくとも互いが互いを信じて、それぞれの持ち場を託せるという
それだけあなたが好きだ、というラブレターのように思えたのだ。助けるよ、もラブレターであり愛でもあるけど、そこは君の場所で、そこには君が思う存分やった方がステキなものが生まれる、と信じるのは、本当に、ラブレターじゃん…。


そして、それが観客のために、「わたし」の為に生まれること。
きっとそれは、「わたし」を信じてくれているからだ、ということ。


25年間お芝居を作ってきた劇団の記念公演で打たれるにはなんて優しくて愛おしい公演だろう。
この感覚は言葉にならなくたっていいのだ。あの瞬間、劇作家がここに台詞はいらない、といったように、そんな必要はないのだ。
それでも互いに、伝わっていると。そんな奇跡を、信じられる気がした。