楽しみにしていた本で、だというのに読み始めたらゆっくり読み進めたくなってじっくりじっくり、惜しむようにページをめくった。
「いのちの車窓から2」
約7年半ぶりとなる星野源さんのエッセイは、私の中で不思議な存在の本になった。読み終わり、定期的に思い出す文もある。なのだけど、繰り返し繰り返し読むにはなんだかもったいなくて、不思議な距離感で、私はこの本と向き合っている。
恋のヒットをはじめ、大きく人生が変わりだしていく期間、その中での苦しさや嬉しさ、大切な人たちの話からコロナに入ってからの記憶。人生の変化。
7年半という時間がなんなら短く感じるような密度を綴る文章は、以前の源さんの文と比べても軽やかになったように感じる。
それこそ、繰り返し読んだ「よみがえる変態」とはまた違う肌感覚なのだ。それは、おそらく、「俺の話」を聴いてほしいと思うよりもただただ、そこにある自分の見た景色、心の中を映し出す文章たち。だから、そこに自分の心や思考が重なってまるで自身の心身を通って体験したような、そんな気がしてしまう。
実際、自分の心と重なるようなことも、たくさんあったのだ。
ふとこの本を思い出すとき。その多くは「なんで伝わらないんだろう」と思う時が多い。仕事をしながら、あるいは会社のひとと話をしながら、友だちに伝わらなかったと落ち込みながら、そしてその「落ち込むこと」をなんで、と苦笑されながら。
そういう時、私は「いのちの車窓から2」の中で出会った文を思い出す。
一度、飲み会帰り、同僚に言われたことがあった。アルコールで滑った口が日々の中で傷付いたこと、怒りを覚えたことをぺらぺらと喋ってしまった時だった。
「つくさんは、色々考えちゃうんでしょうね」
そうかなあ、と思う。もっと考えている人はいるし、やっぱりまだ考えは浅かったと自己嫌悪することも多い。なのに「考えちゃうんでしょうね」と言われ「考えすぎ」と指摘される。
あなたがもっと考えてくれたら、と詰りそうになって、それこそ、傲慢だと思って口を閉じた。
でも、確かに勝手に傷付いてるんだよな、と落ち込みそうになった時、「いのちの車窓から2」の文を思い出す。
こんな世の中で、ちゃんと怒ったり落ち込んだりするのは当たり前だといい、そのことを押さえつけるんじゃなく、「言葉の排泄」をすることを提案してくれる。
それを思い出しながら「やるじゃん」と落ち込み出した自分を源さんの言葉を借りながら褒める。褒めて、慰めて落ち着くのを待つ。
この本の中で、源さんは自分の喜怒哀楽を描く。喜怒哀楽を描きながらその熱量は適温で、その瞬間を切り取って、というよりかはそれをぎゅっと形をとり、ふれやすい温度へと変えていく。そんな感覚を受ける。
だからこそ、激情に揺さぶられはしないのだけど(逆に私は初期の源さんのエッセイは心がずぶずぶになり、結構な勢いで泣いてしまうことがあった)ただ、気が付けば心の錆びた部分をつるりとされる、そんな気がする。
だから、読んでいて気が付いたら静かに泣いていたりしたのだろう、と思う。
きっと源さん自身、その最中にあって文を綴っているというよりかは粗熱をとり、少し落ち着いた上で書いているからこそ、少し俯瞰のような、それでいて鮮明な描写があったのかもしれない。
削ぎ落とした文章と色んなひとが表現していたとおり、読んでいて心地のいい静けさがこの本にはあった。
そしてその静けさが優しかった。読みながら自身をその静かな空間に預けているとほっと安心できる。そんな気がした。
そうして思う。
ああ、この人は、人の優しさに気付けるひとだった。私が好きだと思い、この4年、何度も何度もその言葉で表現で「面白い」と「楽しい」を教えてくれたひとは、そんな人だった。
星野源は、とびきりに優しく、心のあたたかな人だと思う。それはしかも、ただ優しさをたくさん持っているからそうなのではない。それ以上に誰かのもつ優しさや向けられた好意をそっと受け止め大切に抱きしめることができる。
源さんの優しさ、強さは、そんなもののように思うのだ。
そしてその想いはこの本の中で友だちや恩人、そして家族に向けて綴られた文に触れてより強くなった。ああ、この人が好きだ、と改めて思ったし、こんな風に素敵なひとたちと一緒にいることを自分のことのように(勝手ながら)嬉しく感じた。
出入口だけは開けておこう。
それは数年前からなんとなく思ってる感覚である。自分が内向的な人間だからかもしれない。
ついつい気を抜くと内側にしか目がいかなくなる。新しいことを取り入れることが苦手で、誰かと積極的に関わるのも得意ではない。
だけど、そうも言ってられない。そう思ってる。特に社会に出てからはなるべく社交的にならねば、自分の感覚以外を遮断するのではなく、受け入れねば、と思った。
実際、そうしていると面白いもの、人にもたくさん出会う。
それを意識しすぎていることを「無理しなくて良いんじゃない」と友だちに言われてからはそうか、とほんの少し扉を閉じたつもりだけど、それでもいまだにたまに「開けなきゃ」と開きすぎて疲れたり、今度は閉じすぎて誰も自分の内側にいないことに気付いて愕然としたりする。
塩梅はなかなかうまくいかないが、ともかく、閉じ切る、ということだけはせずにいよう、とずっと思ってる。
思ってるけど、これが難しい。
源さんのこのエッセイへのエゴを削ってという言葉を聞いた時も思った。
俺が俺が、としてしまう。自我もエゴも、あまりにも身近で、そして、そうしているうちは自分の内側に自分しかいないのだ。
私は、そのことが寂しい。少なくない年月生きてきたはずで、大切なものも、恩ももらってきた愛情もいくらもあるのに、自分の内側、自分しかいないんじゃないか。
このエッセイに触れて、私はそのことに本当の意味で気付いた気がする。
この文の中、源さんの優しい眼差しが色んなところに向けられる。私たちはその削ぎ落とした文を通して、まるで源さんの視界を借りたような感覚で、世界を、源さんからの景色を見た。そんな気がしている。
その世界は、クソなことはたくさんあったけど、愛おしくて、生きていく価値があるような感じた。とても、美しい車窓だった。
そうか、と思っている。今もまだ、人は圧倒的にひとりだ、と言ってくれることにほっとして、そして同時に、それでも、誰かと手を繋ぐことはできるのだ、ということにとても嬉しくなってる。
この秋、「星の数ほどハッピーエンド」というただひたすら星野源さんが、その表現が好きだ、という話をするためだけの本を作った。その時、LIGHTHOUSEを、感想を書くために見返しながら思ったのだ。
好きな人が笑っていると、嬉しい。好きな人には幸せでいてほしい。それは当たり前で、身近な感覚だった。そのことを克明に意識した。
それは、自分の世界に他人がいる、ということだった。しかも、たぶん、開かれた状態で。
私の中、まだ「他人がいる」とまでは思い切れない。私はすぐに自分の扉を閉めてしまうしこうして感想を書いていてもすぐに自分の話が顔を出してしまう。だけど、源さんの目を通して見た車窓の景色を愛おしい、と思ったのは、それこそ、私もまた、その誰かが内側にいることで見れる景色を見たことがあったからじゃないか。
時々遊びにきてくれる色んな大切なひとたち、面白いもの。そういうものが心のうちにお邪魔しにきてくれた時の弾む感じ、美しさ、嬉しさ。そのことを、源さんの嬉しいという気持ち、愛おしさを綴る文に思い出した。
今回、初めての感覚だったのだけど、何度か源さんと目が合ったような、語りかけられたような、そんな気がした。
人は、もらった愛情で生きていける。結局ひとは、どこまでも一人だ。どれだけ幸せなことがあっても、すぐに出口のない空間へと追い詰められる。
だけど、いやむしろだからこそ、手を繋いだあたたかさの尊さを知るのだ。そのぬくもりがどれくらい、今日を繋いでいく力を持つか、実感している。それがあるから、歩いていける。
そしてこの大切な文たちも、ある意味で一人たつ私の手を握ってくれる、そんな存在のように思う。だから、きっと私はこの本を何度も繰り返し読み返すだろうと、確信しているんだ。