えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

プロジェクター購入のススメ

あ、やばいと思った。
やばいな、これはやばい。やばいぞと仕事からの帰り道、思う。ほんの少し足早に歩く。ついでに厳しいなって思ったので、普段我慢している菓子パンを買った。買って、家に帰ってお湯を沸かして、セッティングをしていく。棚を出し、距離を確認する。そうこうしているとお湯が沸くからスティックのカフェオレを作る。
ジジッと音がして起動すると、眩い光が壁に投影された。
 
 
 
プロジェクターはいると思った。
他の何を削ってもいる。そうその当時一緒に住んでいた姉に宣言していると、誕生日祝いと餞別と言ってプロジェクターを贈られた。
去年、世の中がざわざわと「これは只事ではないぞ」と不安に覆われ出した頃、久しぶりの一人暮らしを始めた。仕事の都合での転勤で、元々住んでた地を遠く離れた場所へと旅立った。
必要なものをリストアップしていく中で、上位にあったのが、プロジェクターだ。
 
 
ブルーレイデッキや、携帯、パソコンをミラーリングできるそのプロジェクターは壁に投影できるタイプである。
小さなワンルーム。その新居の家具配置は、プロジェクターの映像を投影する壁ありきで決めた。
「なんでプロジェクターが欲しいの?」と姉は、いつか私に聞いた。私は、好きな作品を壁にぼんやり流しながら寝たいから、と答えたと思う。
 
 
 
そしていざ手に入れた2020年、想像以上にプロジェクターが大活躍した。
生のエンターティメントが……いや、正確にはおおよそほぼ全てのエンタメが……一度、ほぼ止まった。止まって、新たに「オンライン」という形になって届き出した。
その時、私は物凄く姉に感謝した。
プロジェクターがあると、小さな私の部屋はライブ会場になるのだ。
部屋を暗くして、携帯を操作し、壁に投影する。その大きな画面に映った"推し"の姿に、最初、本当に心臓が震えた。その日、私が「プロジェクターが必要だ」と思ったその伏線を、思わぬ形で回収したのだ。
 
 
 
ところで、実際テレビのモニターに映すのとプロジェクターに映すのを「画質」という側面だけで比べるとプロジェクターを推すのは少し難しい。機種や壁の状態などによっても、画質というのはたぶん、異なってくる。あと、案外距離を取るのが難しくて部屋の状態によっては家具が映り込むことも正直あるのだ。
そう思うと、大きなテレビのモニターの方が綺麗に観ることができるんじゃないか、と思う。
だけど、私は様々な配信ライブ、配信公演をプロジェクターで観た。
その理由の一つは、プロジェクターという機械が部屋の中に非日常を招き入れてくれるからだと思う。
 
プロジェクターを使うためにはどうしても部屋を暗くする必要がある。普段はなにもない壁に向かって光を当て、距離を調整する。これも、ある意味で「非日常」へと進む段取りの一つだ。
そして何よりも、そうして"壁いっぱいに映し出される好きなもの"は夢のように素敵なのだ。
 
どんな物語よりも残酷でくだらなくてどうしようもない、だけどどこか非現実的な未知のウイルスに埋め尽くされた時間の中で、現実空間を夢でいっぱいにすることは大きな意味があった。
 
 
そして話は、冒頭に戻る。
その日、私は色々嫌で、疲れて、そんな自分をどこか俯瞰で見ながらやばいな、と思っていた。
特別何かあったわけじゃなく、いやむしろ何もないからこそイライラもやもやと虚しかった。
ちょっと悪いことしてやろうと心の奥底で底意地悪くつぶやいた。それでも、誰かへの嫌がらせではなくズボラで丁寧な生活の真逆をすることを選ぶのは、単に、これ以上がっかりしないためである。
 
 
その時ふと思い出した。ちょうど、星野源さんのYELLOW PASS限定配信「宴会」のアーカイブ期間ではないか。
更に言えば、私には、プロジェクターがあるじゃないか。
 
 
 
ここでまず、星野源さんの「宴会」という配信について話したい。
宴会、とはその名前のとおり宴会というコンセプトで行われた配信である。ライブパートと、宴会パートがある。配信ならではの曲・人員の構成と演出、そしてライブ後のメンバーでの"宴会"をそのまま見せてくれるというイベントだった。
私がこの宴会が好きなところはたくさんあるんだけど、この「配信だからこそできること」がダントツで好きな理由なのだ。
 
 
ライブパートも、ライブ、ではあるんだけどまるで一緒に遊んでるような距離感、表情で進んでいく。
冒頭で視線を合わせて始まる。楽しい音が一音、弾ける。
 
 
そうだ、宴会があるじゃんか!
 
 
そう思い出した私は、慌てて帰ってプロジェクターを設置し、アーカイブページにログインした。
手には好きな菓子パン、カフェオレ。真っ暗にした部屋に入場曲としてファンからリクエストされた星野源さんの曲たちが流れる。
画面に、源さんの笑顔が映った。
 
 
真っ暗な部屋にひとり。ただ、そこには柔らかな光がぼんやりとあった。
部屋は、好きなものしか存在しない小さな宇宙になる。
私はそれを見届けるために、あえて床に座り込む。ついでにブランケットを被った。
曲が進むごとに、楽しそうに笑う彼らを観てる間に、ぼんやりあった「あ、やばい」は溶けていく。後に残るのは、楽しいと好きだけだ。
 
 
 
 
新生活は、言葉にできないもやもやがすぐ近くにやってくることが多い。だからこそ、好きなものにすぐ手を伸ばせる環境が大切だ。
そしてプロジェクターはボタンひとつで、部屋を好きなもので埋め尽くせるそんな魔法のような機械なのだ。
だからこそ、プロジェクターの購入を、ぜひ私はお勧めしたい。
 

anone

「先生あのねして良い?」

これは私が時々友人に言う言葉である。
先生あのね、とは昔小学生の頃あった連絡帳の俗称だ。先生と児童、あるいは保護者とのコミュニケーションツール。今もそれがあるかは分からない。先生や保護者の負担を考えると無くなったかもしれない。

ともあれ、そのノートにはその日あったこと考えたことを「先生あのね」と書く。だいたいは日々のくだらないことで、時々、言葉にするにはうまくいかないような相談事が混じる。

聞いてくれるだけでいい、ただそこに在るということを「そうなんだ」と相槌を打つように聞いてくれたらいい。そんなニュアンスを込めて、「先生あのねして良い?」と聞く。

それはもしかしたらとびきりの甘えだったのかもな、とドラマを観ながら思った。この甘え、はだから反省したというよりも、そうさせてくれている友人からの愛情を噛み締める気持ちと、感謝の気持ちからくる言葉だ。


そのドラマの名前は、ズバリ、「anone」という。


出てくる登場人物たちはみな、どこか欠けている。欠けているのか、足りないのか。打ちながら少し迷う。

だけど自らをハズレといい日雇いバイトでネカフェを家として生活する主人公ハリカをはじめ、みんな「幸せそうに生きている普通のひと」が歩く道とは少し外れた道を歩いている。

そんな彼らが出会い偽札製造に巻き込まれていく物語はだけど、どこか優しい。優しいのに苦しい。ひたひたと忍び寄る不安ももちろん見ていてしんどいんだけど、それ以上にどれだけ幸せそうに笑っていてもなくなるわけではない「自分の思い通りにはいかない人生」を歩いてる事実は変わらない。


持本さんは余命が短いし、青羽さんは家族に「いらない」と言われてしまったし、亜乃音さんは娘から二度と会いたくないし関わらないで言われる。彦星くんはお金がないから最新医療が受けられない。

よくぞこんなに、と思うほどままならない。うまくいかない。なんでこんなに、と呻きたくなるほど、彼らは「生きづらい」人生を生きている。



しかし、こうとだけ書くとまるでものすごく暗いドラマのようだけど、案外そんなことはない。むしろ結構笑って観るシーンも多かったりする。


ハリカたちは次第に「家族」のように生活を共にする。ご飯を食べる、パジャマを着て眠る。
私が彼女たちを家族、だと感じたのは「あのね、」と話し始める何気ない会話のシーンだった。
日常の中で出会った面白い人、見かけたお店の旗がはためく様、昔あった悲しいこと、おかしなこと。
そんな「だからなに?」とも切り捨てられそうな話を彼女たちはそれはそれは楽しそうにする。
坂元裕二さんの脚本はどこか外れたような会話が多い。例えば、カルテットの唐揚げにレモンをかける、の台詞はまだ私その作品を見てはいないけど強く印象に残る会話のひとつだ。
日常のなか、ありそうないやむしろ台詞でないと言わなさそうな、そんな紙一重のバランス感覚の台詞たち。
その会話は、きっと、相手との信頼感というか近い温度感があるから成立する。


オチなんてない、山だってあるわけじゃないけど、どこか子どもの頃にずっと大事にしていたようななんの変哲もないビー玉のようなきらきらした会話たち。それが、彼女たちの時間の柔らかさを際立たせた。


ところで、ハリカたちを「生きづらい人生を生きてるひと」と随分な書き方をしたけど、そもそも「人生イージーモードでずっと過ごしてます」なんて人を見たことがないんだけど、どうだろう。
例えばはたから見ていて「楽そうでいいな」って思う人がいたとして、そんな人も実は何かに苦しんでるかもしれないし、もし苦しんでなくて実際イージーモードだ、と感じてるとして、もしかしたらとんでもない虚しさと一緒に暮らしているかもしれない。


だとしたらどうしたら生きていけるのか、なんで息をしてられるのか。人生というどうしようもない、途方もない時間をどうやって過ごすのか。どうやってるのか、そんな方法、どっかにあるのか。

作中、そう聞かれたハリカが返した言葉を、私はしばらく考え続けたいと思った。



ままならなくて、どうしようもなくて、それでもそれでもって打ち消しの接続詞を重ねてる。
その接続詞が繋がる先は、何も特別で素敵な毎日じゃない。輝くような毎日でもないのかもしれない。
あのね、から始まるなんでもない会話をうん、と聞いてくれる誰か。そんな時間。そうなんじゃないの、と思ってる。

ラーヤと龍の王国

世界各地で仲間を集めて世界を救う。
そんなある意味で「よくあるお話」の『ラーヤと龍の王国』にものすごく心を揺さぶられた。
全く予想外なくらい綺麗にぶん殴られたような気がした。


よくあるお話、と書いたけど、ラーヤは別に「世界を救いたい」と思っていたわけじゃない。
世界は、人々が自己利益だけを追求した結果、邪悪な魔物が溢れかえり崩壊してしまった。多くの人が石になり、また魔物のせいで人々の移動はかなり制限されている。
そんな中、世界が崩壊するきっかけの場にいたラーヤは父を石にされる。父をはじめ、自分の国の人々を石にされたラーヤは「自分の国」を救う為に危険を犯して旅をして回る。人を信じず、世界のため、というより【自己利益】のために行動する。
信じない、必要なら人を出し抜く。


そんなラーヤが出逢った最後の龍シスーは対照的に無邪気だ。人を信じる、すぐに仲良くなろうとする。贈り物をしようとする。泳ぎが得意以外の特別な力がないと彼女自身は言っていたけど、ある意味「人を信じること」は十二分に特別な力なんじゃないか。そう思わせるほど、シスーは明るく、当たり前のように人を信じる。


その姿に、あるいは世界の各地、ラーヤと同じように傷付いた人たちがラーヤのもとに集いまるで家族のようになっていく姿に、驚くほど揺さぶられたのだ。


ちょっとビックリした。自分でも驚くほど、ラーヤに心を動かされていた。
もともと、観る予定があったわけではなく友人からの「面白かった」に興味が湧いてふらっと観に行った。なんならほぼ徹夜明けで「こんな状態で映画観て大丈夫かしら」と少し心配すらしていたんだけど、観出して、そんな心配は吹き飛んでいった。



ラーヤはコロナの影響で上映期間が延期され、ようやく今年公開された作品らしい。
だけど、むしろまるで「今この時」に公開されるために作られたような気がした。
これは、あちこちで言われていることでもある。正体不明の魔物に翻弄され、失わないようこれ以上傷つかないよう逆毛立つ猫みたいに過ごす人々。信じることのハードルが高く、疑うことの方が簡単で安全で確実だ。


ラーヤを観て、私はなんかこのコロナ禍で色々…敢えてその言葉を選ぶけど…傷付いたのはこんな状況をもってしても人は協力し合えないどころか分断するのか、ということだったんだなあ、と気付いた。
私は、たとえ普段は協力できない人々も大きな敵や危機を前にしたら人々は手を伸ばせる、繋げるという物語をどこかでずっと信じていたのかもしれない。だからこそ、それが間違いだったと気付くことになる世界の様子に傷ついた。
そして、傷付いたということを誤魔化すように「ほら世界は最低なんだ」と嘯いた。良くはならないとどこかで聞いた言葉をそのまま自分のものにした。それはたぶん、物凄く格好悪くて、不幸なことだった。
例え、最終的に「やっぱり世界は変わらない、最低のままだ」と結論を出すにしても、今じゃない。何もしていない、手を伸ばして足掻き切ったわけじゃない今では、絶対にないのだ。



ラーヤでも、人々は大きな敵を前に疑う。人を信じない、助けようとしない。それはそれで「間違ってない」。簡単に人は信じられる、と言いはしない。それがどれだけ怖く難しいことか、ハッキリと描く。
その上で、ラーヤの中で描かれた「信じること」「協力すること」は綺麗事と一蹴するものではないと思うし、どちらかというと切実な祈りで、ほんと、すごくすごく良かった。


ラーヤの冒頭、ラーヤのお父さんは武器を手に取り闘うべきだというラーヤに語りかける。
世界の国々で作られる食材を合わせて作ったご馳走が美味しいこと、それをその世界のみんなで食べることは楽しいこと。
そのシーンの暖かな湯気の様子が、本当に好きだった。




この『ラーヤと龍の王国』は子どもと観に行って欲しい。そしてできたら、観終わった帰り道、手を繋ぎながら世界の分断はいつか繋げることが出来ると言って欲しい。
これは何も、本当の「子ども」のことだけじゃない。私はたぶん、あの時観ながら途中、隣に子どもの自分が座っていた気がする。それは幼少期のトラウマなんて話ではなくて、もっと根本的な「子どもの自分」の話だ。
もちろん、本物の子ども、とも行ってほしい。
いずれにせよ、観終わった時、その子を抱き締めて「まだ世界は信じるのに値する素敵なところだよ」と心から言える。そんな風に思えたのだ。

その女、ジルバ

ああ、大好きだった。大好きなドラマだった。
ひとつ、そんなドラマに出逢えたことはなんて心強いんだろう。


その女、ジルバが完結した。

ここでも2度ブログを書くほど大好きなドラマだった。

あまりに好きで、終わってしまうことがどうしても嫌で13日の最終回から今日までついつい先延ばしにしていた。
そのドラマを、ようやく今日、見届けた。


1話時点で、コロナが彼女たちの世界にやってくることは分かっていた。
だけど、やはり分かっていてもなお、冒頭、苦しくて仕方なかった。同時に、一体どれくらいこうしてなくなってしまった場所があるだろうと思った。そして、すみれちゃんの出産にこの一年、出逢った生まれる瞬間がどれだけ希望だったかをクジラママの台詞に思い出していた。
生きていれば、命があればなんとかなる。
それはまだ私が口にするには、軽くなってしまう言葉だけど、クジラママが言うと確かな実感があった。


ジルバで描かれる毎日は、私にとってこうだったら良いなぁが詰まっていた。
9話でチーママが言っていた言葉を借りるなら、私たちは未来に希望を持てないような毎日のほうが身近だ。歳をとることは怖いことで、生き続けることは不幸にちょっとずつ近付くようなものだ。
若さが全ての幸福だとは思っていないけど、でも年老いることを楽しいと言ってくれることは、本当に少ない。いつだか、Twitterで歳をとることで得られる幸せを教えてほしい、というツイートを見かけたけど、ほんと、そういうの、あると思う。


しかもできたら、若さを失わずにイキイキするとかじゃなくて、いやそれでももちろんすごいことなんだけど、そうじゃなくて。
そう、ぐるぐると喉奥で喚いてた気持ちが掬いあげられるような気がした。



「女はシジューになってから!」
そんな気持ちのいい台詞に言葉が被せられて、なんなら年齢はどんどん上がっていく。
そして、彼女たちは日々積み重ねてきた何気ない、物語にもなり得ないような毎日の先で楽しそうに笑う。
その時間が本当に大好きで、元気をもらっていた。


何がこんなに心に突き刺さるのかと思いながら見ていた。
気が付けば、あの作品に出てくる人たちみんなのことが大好きになっていて、大好きだからなんかもう、みんなが笑ってるだけで、嬉しいんですよ。彼女たちがバラバラの場所で暮らすというだけで落ち込むし、なんかもう、なんだろうな。


ジルバを観ていると、帰る場所についてつい、考え込んでしまう。
白浜さんが特に刺さったのは、なんとなく私自身「帰る場所」にコンプレックスがあるからかもしれない。
というか、なんだろうな、ジルバって帰る場所を作る話、でもあると思うんですよ。
もちろん、アララには帰る故郷がある。
バーオールドジャックアンドローズの人々も、家族が待つ人もいる。
だけど、あのお店は帰る場所なんだ。


最近気付いた。
生きていると、帰る場所ってたぶん増えるのだ。
増やしていけるのだ。
そしてそれは血の繋がりだとか恋情とか、そういうものだけが必要用件じゃないんだ。



気が付けば、このドラマはそんな帰る場所の一つになっていた気がする。私の中で。
そこには楽しい常連さんがいて、ママたちがいて、笑って歌って、踊っている。そうして、教えてくれる。

生きてたら、笑っていたらきっと、楽しい。絶望するようなことも、笑い飛ばして、美味しいお酒を飲んで歌って踊る。


あの日、このままだと自分の人生を嫌いになってしまうと扉を開けたアララが、帰る場所を、一つ作って待っていてくれる。
そのことは、続く明日が何も怖いだけのものじゃないんだと、そう信じられるような、そんな柔らかな希望だ。

missing 〜強がり彼氏と食べちゃう彼女〜

ご飯が食べることは、生きることだ。
だからか、普段ファンタジーに対する解像度が高くない私にも物語がするりと入ってきた気がする。
食べること、その当たり前の生きていく上で絶対に切り離せないその行為を嫌悪する日が来たらどうだろう。嫌悪して、それでも生き物は食べないと生きていけない。食べたいという気持ちと食べたくないという気持ちの真ん中で過ごすのはどれくらい苦しいだろう。


そういうことを考えれば考えるほど、思う。
"食べること"は生きることなわけですが、
それを「最低限」仕方なく、ではなくて"楽しむ"彼女が好きだったな。
そして「人間が"食材"ではない」はたしかにいつから生まれた勘違いなんだろう。


missing 〜強がり彼氏と食べちゃう彼女〜

人を食べるようになってしまったイーター、ハーフ、そして食べられる可能性が生まれた人間。
ファンタジーなその世界観の中で、ひりひり焼き付くような言葉がポツポツあって、考えている。


さて、そんな中でもちろん、食べること食べられること、またこの物語の大切な要素である「足りないこと」「みんな足りないものを求めてる」というメッセージについても当然色々と考える。
ただその中でやっぱり私は作中登場するバンド、crossborderの話をしたい。
私はこの「つよたべ」を観ながら推しとオタク、について考えてしまったのだ。


それは勿論、そのバンドのリーダーを大好きな役者さんである亜音さんが演じているからというのも大きい。
だけど、それ以上に七海とろろさんが演じる「オリヴィエ」の存在が心に刺さったからだと思う。

オリヴィエはこのバンドのファンで、いわゆるオタク、である。そして、その熱量のままに今はバンドのマネージャーをやっている。超行動派のファンだ。
メンバーにどストレートに愛情を伝えて、バンドの為にくるくると動き回るオリヴィエはめちゃくちゃ可愛い。

ところで、こういう「オタク」の役を見ると私は時々そわそわしてしまう。自分がそうだから、というのもあるけどテンプレート的な描かれ方をするとつい苦笑してしまうし、
リアリティがあったらあったで共感性羞恥心みたいなものでゔゔゔと呻いたことも2度や3度ではない。
でも、このオリヴィエはなんか、観ていて全然そんな感情が起こらなかった。なんなら、なんだか、妙に元気にもなった。めちゃくちゃ可愛いな…!ってにこにこしながら、その姿に元気をもらった気がする。

とろろさんご自身が「推し」が、いるからかもしれない。Twitterなどで好きなものの話をする様子をもともと一方的に知っていたことによる先入観なのかもしれない。
それは分からないけど、ともかく、本当にオリヴィエが楽しそうで嬉しそうで、なんか、純度120%のラブがあって、それがすごく、心地良かった。
純度、というとなんか、言葉がズレるけど。

オタクには色んなタイプのオタクがいる。
現場・茶の間、みたいな話ではなくて愛情表現だったり理由だったりは千差万別だ。

そして彼女は、バンドへの愛のままマネージャーになったというのも納得なほど「推しに背筋を正されるタイプ」のオタクである。
しかもそれが言葉としてではなくて、行動や生き方に表れていくタイプだ。もう、そんなの、めちゃくちゃ格好良い。



アクションシーンの中で、オリヴィエがネイサの決め台詞を言うところがほんっとーに好きで。
なんか、無性に泣けた。彼女にとってのcrossborderの大きさが一番あのシーン伝わって泣いた。
大好きなんだな。大好きで憧れで、好きでいるだけでどんどん強くなれるようなそんな存在なんだな。
「こう在りたい」の形で、本当に物凄く好きだ。


ということを考えながらふと「みんな足りないものを求めてる」という言葉がすとんと落ちてきた。更に言えば、竹石さん演じるプロスペールの「繋がりたい」という言葉を思い出した。

欲求、というと自己内で完結するもの、他者に対して、あるいは社会に向かうもの、とかよくある哲学の教科書に載ってた図式を思い出す。難しいことはよく分からないから割愛するけど。
なんか、そういうのだよな、と言葉にならないままのもやのようなものを手で触って確認する。


作中、食べたい食べたくない、繋がりたい、尊い、とか、なんか、色んな「こうしたい」という言葉や感情が描かれる。それは全部、実は一緒なんじゃないか。
私は感傷的なのでそれはつまりあいしたいってことなんじゃないか、と綺麗でそれっぽい言葉に纏めそうになるけど、でもなんか、ちょっとズレるな。

色んなオタクがいるので、それが全てだというつもりはないけど、でももしかしたら「推しが好き」という時、それは足りない何かを求めて、なのかもな、とも思った。
それは自分に足りない、じゃなくて、もしかしたら世界に足りない、の話なのかもしれない。
欲しい、と思うこと。あるいはそれを我慢すること。

なんか、ほんと、つよたべの人たち、みんながみんな愛おしいからさ。その上、観てると心臓がぎゅっとなるような苦しさがある。
それに、意地悪!と叫びたくなるくらい残酷に「解決しない問題がある」ことをつよたべは最後、描いて残した。
し、意地悪!と書いたけど、そんなところが好き。もしあの話がハッピーエンドでみんなが笑ってる、で終わっていたら私はここまで考え込んでなかったと思う。


じゃあその問題が解決するのはいつか、と聞かれたらきっと解決する日はない。綺麗に全て問題がなくなりましたやったー!なんてことはないし、時間薬、なんていうけどそれが全員に当てはまる保証もない。
ハッピーエンド、ではない。終わらない。彼らは、これからもあそこで生きて、ご飯を食べる。できたら、それが少しでも幸せな食事が多いと良いなあと願うけど。



それでも、好きだ!って気持ちを真っ直ぐ表せたら、とオリヴィエの姿に元気をもらった私は思う。そうすることが、美味しい!という幸せを一つでも多く増やすことなんじゃないか。
そんなことをこじつけのように考えるのは、私がオタクだからかもしれない。

すばらしき世界

※映画のネタバレを含みます、お気をつけください
また、題材上『ヤクザと家族』についても触れているためご注意ください


この映画を観た理由は、シンプルだった。
世界は、捨てたものじゃないと思えるか、生きていることは悪いことじゃないと思えるか。
そう思いたい。
そう監督のインタビュー記事を思って、私はこの映画を観た。
すばらしき世界。
観終わって数日、私はこの世界を「すばらしい」と思えるか、ずっと、考えている。


物語は実在したら人物をモデルにしたこの映画は、人生の半分を刑務所で過ごした三上の物語だ。


三上を演じる役所広司さんのお芝居ひとつひとつが、愛おしくて、その分苦しい。
冒頭、彼が出所するところから物語は始まる。罪状は「殺人」。しかし、彼はどうも、反省しているか、と言われると微妙なところだというやりとりが合間に挟まる。
そうして淡々と、三上の新しい生活が始まる。もう二度と、刑務所に戻らないために、「正しい」生活を目指す。


三上は良い人か悪い人か、というのは少し難しい。そもそも、そこを分ける必要もまあないんだけど。
可笑しなくらい素直で真っ直ぐで、だけど時々、凶暴性を覗かせる。
「ヤクザ」である彼は……組に所属すると言うよりかは流すようにあちこちに顔がきいた、ということなのでこの表現が正しいかもわからない……組所属云々は抜きにしても反社会的存在である。
それでも、組に所属していなかったからこそ、反社を取り締まる色んな法律に雁字搦めになることはなく、「やり直す」ことができると彼に関わる『真っ当』な人たちは口にする。



ちょうど、ヤクザと家族を観たのもあってこの辺りの首の皮一枚的な救いに息が詰まった。



この救いがあったなら、とも、この救いがあっても、の両方の気持ちがぐるぐると喉の奥に渦巻いた。
作中も出てくる「人と関わりを持つこと」を考える。孤立しないこと、誰かと関わること。


そのことが、三上の場合、救いにもなるし、
あるいは、彼が堕ちていく危ない落とし穴のようにも思える。


これは反社会的存在の話でもあるけど、実際、そうして「生き辛い」ひと、そこでしか生きていけなかった、反社会という場所が受け皿になった人のことを思う。
そして、それは、長澤まさみさんが演じる女性が言ったとおり、何も「反社会」の話だけじゃない。
たぶん、同じように生きづらく息が詰まってじわじわと死んでいく人が、いくらでもいるんじゃないか。


やり直せるのか、というのはすごく難しくて、それはやり直すことが許されるのか、というのもあるし、本人の性根の部分の話でもある。
そして、性根、というならそうなってしまった元々を辿ると、彼自身の力じゃどうしようもないことがたくさんあるわけで。出自がその人の全てを決めるという考えは、多少色んな人を大きく傷付けると思うし、あまり好ましいとは思わないけど、
事実、そのことでそもそも用意されなかった選択肢はあるんだろう。


じゃあ、どうしたら良かったんだよ、とずっと考えていた。
そもそも、誰もが生きやすい社会、なんて言うけど、「救い」を求めてる誰か、に可愛げはなかったりする。そう書いてたのは誰だったろう。そもそも、救い、なんて人を下に見て、優越感に浸ってるんじゃないか、と酷いことを思いもする。そうなってくると、だんだん、何も分からなくなるけど。


それでも、弁護士の夫婦や、六角さん演じるスーパーの店長、仲野太賀さんが演じるジャーナリストの彼らの関わりを思うと大きく、息を吐いて吸えるような、そんな気がする。
人と関わること、大切だと思うこと。そこにあるのは、同情とか憐れみだとかではなくて、いやもしかしたらその一片はあるのかもしれないけど、そうじゃなくて、そういうのを全部引っくるめた情で、幸せでいてほしいという願いだ。
そしてそのことは、三上自身が生きてきたことで得た、よすがなんじゃないか。


土台、全ての点と接することはできない。
誰かを救おうとするんじゃなくて、自分の腕が届く範囲、大切な誰かの幸せを願うこと。その為に、他人を損なわないこと。そんなことを、画面の中に観た気がする。


たださ、そう思いながら、三上が「堕ちて」いかないために、目を瞑り耳を塞ぐことを彼らが口にした解き、私はやっぱり胸が潰れるような心地がした。
間違っていない。
正義感に駆られて拳を振るえば、また失う。
じゃあ他に方法は……例えば、言葉を尽くすとか、そういうこととか、と考えるけど、
残念ながらきっと『伝わらない』ことがある。
だから暴力に訴えるんだ、というのは、良くないけど。
でも、きっと、言葉を尽くして伝わること全てじゃない。


「変なこと」に遭遇した時。人って笑うんだよな。笑ってバカにして、あの人変だよね、って言う。
それに同意すること、見てみぬふりすることが正しいと言われてるけど、でも、そうして見てみぬふりされて、泣きたくなったことがある。
誰かに何がおかしいの、とか、おかしいとダメなの、って一緒に言って欲しかったことが私はあるよ。
だから余計に、そういうことが全部嫌になるんだけど、ここ最近でも「そうすることが傷付かない方法だよ」と諭されるものだからどうしたもんかな、と思う。
120%の善意だ。私に傷付かないで欲しい、傷付いて消えてしまわないでくれという優しさだ。
だけど、そう私がすることできっといつかの私は今日また一人死んだんだろうな。



キムラさんが演じる姐さんの台詞が、この作中、一番好きだった。
この世界は、生きるのに値するのか。生きるこの世界は、「すばらしき世界」なのか。
まだ私には分からない。
この映画を観て、胸を張って私はこの世界をすばらしき世界だと言うことは、出来そうにもない。
ただそれでも、苦しいだけじゃない愛おしさを噛み締めるみたいに何度も何度も、思い出してる。映った空の青さの美しさが、ずっと、目に焼き付いてるのだ。

 

どこまでいってもひとり

源さんのことを好きだなあ、と、思うと色んなところが浮かぶ。
今日はその中でもとびきりの話をする。


ところで
孤独じゃないひとっているんだろうか。
誰だってだいたい孤独だと思っていたけど違うのか。
それはただの寂しいであって、孤独とは違うって言われるかもしれないけど
その違いが分かるような分からないような気がする。
孤独だ、と大々的に主張するつもりはないし、実際私の場合、恵まれてるところもたくさんある。
だけどどうしようもないあれは、所謂孤独じゃ無いのか、と考える。
孤独なんだね、と言われたいわけでは全くないけれど。
昔から、無性にひとりでいたくなる時がある。
例えば、部活の大会終わり。身体も頭もくたくたで心地良くて、それこそ「ひとつになれた」ような余韻があって、そうすると、無性にひとりになりたくなる。
どれだけハッキリとした誰か、の存在があっても別のなにかだ、ということがむしろ際立って、それにじっと耐えるためにひとりでいたい。
そういう時、誰かとはしゃぐとよりじくじくと痛むような気がして、よくひとりでじっと目を瞑って寝たふりをしていた。今思えば思春期のナルシシズム的なものな気もしているけれど。


源さんは、そんな孤独をどこまでいってもなくならないという。そこが本当に好きなところなんだと思う。
文が好きで、お芝居が好きで、音楽が楽しい。それは間違いなくそれぞれ源さんの好きなところだけどなによりも、きっとそんなところが好きなんだ。


2月27日放送のマツコ会議を観た。
創造以降のインタビューやバラエティなどが本当に楽しくてありがたい。楽しいことがあるの嬉しいなあ。


星野源のすごいところ、孤独をそのままに在るものとしてくれるところなんだけど、同時に「孤独でもいい」とは言わないことなんだよな。
孤独が平気な人、というマツコさんの星野源評には頷いた上で、孤独は寂しいと思ってるし、そこに真っ当に傷付いてるひとなのだ。



孤独に惹かれる……それは孤独な人に、ではなくて孤独でありたいと思うという意味で……ひとはもしかしたら「特別でありたい」からなんじゃないか。
創作活動をする人や、そういう『特別(だと思う)ひと』は少々暴論だけど、孤独な匂いがする人が多い。
そうなると、孤独であることは格好良かったり、そうありたい、と思ってしまうことだってあると思う。
ただ、やはりそこまで考えたとき、最初に書いたようにいやでも孤独じゃない人なんているのか?と思うし、それは孤独の美化じゃないかしら、と居心地の悪さを感じてしまう。
特に美化してしまうと、本人が苦しんでることを無視してるようにも思えるし、なんか、こんがらがってくるんじゃないか。


だから、孤独でもいい、と言わない彼が好きだ。
みんな人は孤独だとして、もしくは、孤独の中に素敵な孤独のようなものがあるとして、
それを良いもの、とは言わないことが誠実だなあと思う。
(そろそろ孤独って打ちすぎてゲシュタルト崩壊してきた。だけど、もう少し打つ)


今回、創造がリリースされて私はセカンドアルバムの中の『変わらないまま』が聴きたくなった。

私はこの曲が大好きだ。

『変わらないまま』が好きなのは、「これでいいわけはないけど 前は見ずとも歩けるの」って歌詞なんですが。
人気者の群れにさらばって言って、音楽や本の中で暮らすことはいいわけはない、でも、前は見ずとも歩いてる。いつか輝く日がくる、とも言ってくれるし、この、このバランスがさ。


孤独を良いものとも悪いものとも言わずに、ただ在るっていう、それを表現する星野源が心の底から好きだ。


孤独ってすごく扱いが難しい。
色んなリアクションがあって当たり前だけど、なんとなくそこにただ在ることを歌う彼が好ましいことから逆算するみたいに考える。
例えば、その孤独はなくすというか、なおさないといけないものなんだろうか。癒やしたり、満たさないといけないものなんだろうか。
孤独に耐える、という時、ひとはついつい「どうしたらそうじゃなくなるか」を考える。
『ケア』をしようとする。
だけど、ただじっと待ちながら追い払わずに過ごすことは、間違いだろうか。


太宰治がいつか「本を読まないということはそのひとが孤独でないことの証明である」と言っていた。
孤独と顔を合わせた時、電話する友達がいればいいけど、という源さんの言葉を聞いてでもそういう時誰かに電話できたとして、そうすると余計に虚しさが増すことがあるよな、と考えながらその言葉を思い出した。
友達だけじゃなく例えば一生ずっと一緒にいようと決めたパートナーがいたら平気か、孤独がやってこないか、と言われたらきっとそうでもないと思う。そういう人がいる相手に、孤独じゃなくて良いですね、なんてとてもじゃないが言えない。



それはつまり、孤独は誰かと一緒にいることで解消するとも限らないし、
孤独だということは誰もいないということともイコールじゃないと、思うんだよなあ。


でも嫌じゃん、ということも分かる。孤独はしんどいじゃん、ということには頷く。
だけど、だから、本を読むしお芝居を観るし音楽を聴くし、映画を観るんじゃないのか。


あーそうかもしれない、と昨日寝る前に思った。
好きなお芝居やライブについて話してて、ああそれ私も好きって笑ってる時例えばよくよく話せば好きの理由は違ったりするんだけど、おなじ、なのが心地良いので、それかもな…。
一緒でいることへの罪悪感も、違うことへの寂しさもないから。
違っても、楽しい、はうそじゃないから。


ああそうか、これが橋か、と思った。
橋なんだよなあ。一緒に過ごすための場所でも方法でもなく、こんにちは、って言い合うために、エンタメがあったらいいな。だったら素敵だな。と、源さんの音楽とかその他もろもろ、表現に触れるたびに思えるから好きだよ。



星野源を「分かる」ことは一生無いし、理解しあうこともしてもらうこともないけど、同じ音楽やお芝居や文章でほんの少し触れ合った時のあたたかみをくれる彼が好きだし、それを橋、と表現するところがさらに好きだなあ、と思った。
ひとりじゃないと言ってくれる人や表現ももちろん優しいけど、その後くる虚しさを考えると、きっと一生孤独だよって言ってくれる方が気が楽だし、その中で時々こんにちは、と言えることの方が心強い瞬間があるんだよなあ。私は身勝手なので。
寂しいからこそ、会った時もっと嬉しい。空腹は最高のスパイスみたいな、そんな感じか。ちょっと違うか。


以上が、私が源さんのことを好きな1番の理由だ。
マツコ会議、最高な上に2021年3月6日の土曜夜までTverで見れるから良ければぜひ。



マツコ会議
初対談!マツコと星野源の本音トーク…孤独と変態性、熱く語る!
#TVer #マツコ会議
https://tver.jp/corner/f0068356