えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

その女、ジルバ

ああ、大好きだった。大好きなドラマだった。
ひとつ、そんなドラマに出逢えたことはなんて心強いんだろう。


その女、ジルバが完結した。

ここでも2度ブログを書くほど大好きなドラマだった。

あまりに好きで、終わってしまうことがどうしても嫌で13日の最終回から今日までついつい先延ばしにしていた。
そのドラマを、ようやく今日、見届けた。


1話時点で、コロナが彼女たちの世界にやってくることは分かっていた。
だけど、やはり分かっていてもなお、冒頭、苦しくて仕方なかった。同時に、一体どれくらいこうしてなくなってしまった場所があるだろうと思った。そして、すみれちゃんの出産にこの一年、出逢った生まれる瞬間がどれだけ希望だったかをクジラママの台詞に思い出していた。
生きていれば、命があればなんとかなる。
それはまだ私が口にするには、軽くなってしまう言葉だけど、クジラママが言うと確かな実感があった。


ジルバで描かれる毎日は、私にとってこうだったら良いなぁが詰まっていた。
9話でチーママが言っていた言葉を借りるなら、私たちは未来に希望を持てないような毎日のほうが身近だ。歳をとることは怖いことで、生き続けることは不幸にちょっとずつ近付くようなものだ。
若さが全ての幸福だとは思っていないけど、でも年老いることを楽しいと言ってくれることは、本当に少ない。いつだか、Twitterで歳をとることで得られる幸せを教えてほしい、というツイートを見かけたけど、ほんと、そういうの、あると思う。


しかもできたら、若さを失わずにイキイキするとかじゃなくて、いやそれでももちろんすごいことなんだけど、そうじゃなくて。
そう、ぐるぐると喉奥で喚いてた気持ちが掬いあげられるような気がした。



「女はシジューになってから!」
そんな気持ちのいい台詞に言葉が被せられて、なんなら年齢はどんどん上がっていく。
そして、彼女たちは日々積み重ねてきた何気ない、物語にもなり得ないような毎日の先で楽しそうに笑う。
その時間が本当に大好きで、元気をもらっていた。


何がこんなに心に突き刺さるのかと思いながら見ていた。
気が付けば、あの作品に出てくる人たちみんなのことが大好きになっていて、大好きだからなんかもう、みんなが笑ってるだけで、嬉しいんですよ。彼女たちがバラバラの場所で暮らすというだけで落ち込むし、なんかもう、なんだろうな。


ジルバを観ていると、帰る場所についてつい、考え込んでしまう。
白浜さんが特に刺さったのは、なんとなく私自身「帰る場所」にコンプレックスがあるからかもしれない。
というか、なんだろうな、ジルバって帰る場所を作る話、でもあると思うんですよ。
もちろん、アララには帰る故郷がある。
バーオールドジャックアンドローズの人々も、家族が待つ人もいる。
だけど、あのお店は帰る場所なんだ。


最近気付いた。
生きていると、帰る場所ってたぶん増えるのだ。
増やしていけるのだ。
そしてそれは血の繋がりだとか恋情とか、そういうものだけが必要用件じゃないんだ。



気が付けば、このドラマはそんな帰る場所の一つになっていた気がする。私の中で。
そこには楽しい常連さんがいて、ママたちがいて、笑って歌って、踊っている。そうして、教えてくれる。

生きてたら、笑っていたらきっと、楽しい。絶望するようなことも、笑い飛ばして、美味しいお酒を飲んで歌って踊る。


あの日、このままだと自分の人生を嫌いになってしまうと扉を開けたアララが、帰る場所を、一つ作って待っていてくれる。
そのことは、続く明日が何も怖いだけのものじゃないんだと、そう信じられるような、そんな柔らかな希望だ。