えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

anone

「先生あのねして良い?」

これは私が時々友人に言う言葉である。
先生あのね、とは昔小学生の頃あった連絡帳の俗称だ。先生と児童、あるいは保護者とのコミュニケーションツール。今もそれがあるかは分からない。先生や保護者の負担を考えると無くなったかもしれない。

ともあれ、そのノートにはその日あったこと考えたことを「先生あのね」と書く。だいたいは日々のくだらないことで、時々、言葉にするにはうまくいかないような相談事が混じる。

聞いてくれるだけでいい、ただそこに在るということを「そうなんだ」と相槌を打つように聞いてくれたらいい。そんなニュアンスを込めて、「先生あのねして良い?」と聞く。

それはもしかしたらとびきりの甘えだったのかもな、とドラマを観ながら思った。この甘え、はだから反省したというよりも、そうさせてくれている友人からの愛情を噛み締める気持ちと、感謝の気持ちからくる言葉だ。


そのドラマの名前は、ズバリ、「anone」という。


出てくる登場人物たちはみな、どこか欠けている。欠けているのか、足りないのか。打ちながら少し迷う。

だけど自らをハズレといい日雇いバイトでネカフェを家として生活する主人公ハリカをはじめ、みんな「幸せそうに生きている普通のひと」が歩く道とは少し外れた道を歩いている。

そんな彼らが出会い偽札製造に巻き込まれていく物語はだけど、どこか優しい。優しいのに苦しい。ひたひたと忍び寄る不安ももちろん見ていてしんどいんだけど、それ以上にどれだけ幸せそうに笑っていてもなくなるわけではない「自分の思い通りにはいかない人生」を歩いてる事実は変わらない。


持本さんは余命が短いし、青羽さんは家族に「いらない」と言われてしまったし、亜乃音さんは娘から二度と会いたくないし関わらないで言われる。彦星くんはお金がないから最新医療が受けられない。

よくぞこんなに、と思うほどままならない。うまくいかない。なんでこんなに、と呻きたくなるほど、彼らは「生きづらい」人生を生きている。



しかし、こうとだけ書くとまるでものすごく暗いドラマのようだけど、案外そんなことはない。むしろ結構笑って観るシーンも多かったりする。


ハリカたちは次第に「家族」のように生活を共にする。ご飯を食べる、パジャマを着て眠る。
私が彼女たちを家族、だと感じたのは「あのね、」と話し始める何気ない会話のシーンだった。
日常の中で出会った面白い人、見かけたお店の旗がはためく様、昔あった悲しいこと、おかしなこと。
そんな「だからなに?」とも切り捨てられそうな話を彼女たちはそれはそれは楽しそうにする。
坂元裕二さんの脚本はどこか外れたような会話が多い。例えば、カルテットの唐揚げにレモンをかける、の台詞はまだ私その作品を見てはいないけど強く印象に残る会話のひとつだ。
日常のなか、ありそうないやむしろ台詞でないと言わなさそうな、そんな紙一重のバランス感覚の台詞たち。
その会話は、きっと、相手との信頼感というか近い温度感があるから成立する。


オチなんてない、山だってあるわけじゃないけど、どこか子どもの頃にずっと大事にしていたようななんの変哲もないビー玉のようなきらきらした会話たち。それが、彼女たちの時間の柔らかさを際立たせた。


ところで、ハリカたちを「生きづらい人生を生きてるひと」と随分な書き方をしたけど、そもそも「人生イージーモードでずっと過ごしてます」なんて人を見たことがないんだけど、どうだろう。
例えばはたから見ていて「楽そうでいいな」って思う人がいたとして、そんな人も実は何かに苦しんでるかもしれないし、もし苦しんでなくて実際イージーモードだ、と感じてるとして、もしかしたらとんでもない虚しさと一緒に暮らしているかもしれない。


だとしたらどうしたら生きていけるのか、なんで息をしてられるのか。人生というどうしようもない、途方もない時間をどうやって過ごすのか。どうやってるのか、そんな方法、どっかにあるのか。

作中、そう聞かれたハリカが返した言葉を、私はしばらく考え続けたいと思った。



ままならなくて、どうしようもなくて、それでもそれでもって打ち消しの接続詞を重ねてる。
その接続詞が繋がる先は、何も特別で素敵な毎日じゃない。輝くような毎日でもないのかもしれない。
あのね、から始まるなんでもない会話をうん、と聞いてくれる誰か。そんな時間。そうなんじゃないの、と思ってる。