えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

昨夜のカレー、明日のパン

いなくなってしまった人の不在について延々と考えてしまう日がある。
何故いないのだろう、と考えてると向こうって良いところなのかなあ、と思うし、向こう側にいる人たちのことを思うとすごく魅力的に思えてくる。
最近の時勢だとそんなことは出来なくなったけど、一昨年とか、よく飲んだ帰りにいなくなった友人のことを思い出していた。楽しく飲めば飲むほど、帰り道、友人のことを思い出した。別段、そいつとお酒を飲んだ記憶はほとんどないにも関わらず、だ。


なんでだろう。楽しい時間と不在の空間のアンバランスさが、どこか居心地が悪かったからだろうか。

そんなことを思っていると、テツコさんの"全部嘘みたい"という言葉が妙に耳に残った。


昨夜のカレー、明日のパンは数年前に夫である一樹を亡くしたテツコさんがギフとふたり暮らしをしている物語である。
広い一軒家でふたりは暮らしている。毎日、一緒にご飯を食べて、ご近所さんと関わりあーだこーだ言いながら、ふたりは暮らす。


数年経って、テツコさんには恋人はいる。恋人はいるけれど「前になんて進みたくないのさ」と言う。結婚は考えられない、と1話でテツコさんは口にして、ギフとふたり、過ごす。
ふたりの周りにはいろんな人が出てくる。CAをしていたけど笑えなくなったムムムや、テツコさんの恋人でありマイペースで優しい岩井さん、顔面神経症を患った元産科の先生のサカイくん。まだまだ、たくさんの登場人物たち。
ただその誰も彼もがどこか憎めない空気感とともにある。



ちょっと変わった登場人物と美味しそうなご飯で日々は続いていく。どこかあべこべな会話をしながら。
基本的な大軸は安っぽくあえて言うなら「テツコが一樹の死を悼む話」であり、「死から進む話」である。だけど、どうしたってそう表現すると違和感が付き纏うしこのドラマの軸を外してしまうような気がする。
死んだ人を悼む話でもある、だけど当たり前ながら死んだ人のことをずっと話したりしないのだ。


釘付けになってこのドラマを観ていた一つ大きな要素は「ご飯が美味しそう」なことにある。
そして、劇中、それとともに繰り返し「ご飯はどんな時も食べなければならない」と口にして、かつ、本当に美味しそうに登場人物たちは食事をする。
ただそれだって、毎回ではない。
仏さんに出して硬くなったご飯を苦労しながら口にするシーンもあるし、
喪ったばかりの空気感に押し潰されそうになりながら、なんとかインスタントラーメンを食べるシーンもある。

それでも、いつだって、彼らはご飯を食べるのだ。誰かが、自分が作ったご飯を。


ご飯を食べて笑い、話し、働き、彼らは生きていく。
そうして前になんて進みたくないのさ、と口にしたテツコさんもそれでも本当にゆっくりと変わっていく。
笑えなくなったムムムはパワースポットというお惣菜屋さんを始める。
それぞれに訪れる「生き続けていくための変化」あるいは、生きていくことそのものの積み重なった時間を愛おしく紡いでいく。


パワースポットという店を開く時、サカイくんは言う。

「好かれようとか、うまくやろうとか、良いんだよそういうの。うん、そういうの、もう良いんだ。
俺はもういい。自分ができることだけを精一杯毎日やっていく。
そうやって生きていく」

今こうして、メモっていた彼の台詞を打ち込みながらわかった。そうか、そうだ。
さっき、死から進んでいく、とか死を悼む、と書きながらあった違和感はこれだ。
別にテツコさんは「一樹の死を乗り越えよう」としていたわけじゃない。
ムムムも「失くしたものを取り戻そう」としたわけじゃない。
ただただ、生きているのだ。生きていくのだ。

それは、結果として同じに見えるかもしれないが、過程が……気持ちが違う。全く、全然、違うのだ。

そこに大きな「感動的な」物語を持ってくるわけでもなく感情爆発!なんてことをするわけでもなく、
ただただ、淡々と彼らは生きていくのだ。
生きていくしかないのだ。
それは何も、悲観的な話なんかじゃない。


そして、一樹の描き方も物凄く優しい眼差しで描かれる。
傷が開いたらすぐ駆け付けてしまいたいくらい今もまだ好きだったとしても
「生きていない」彼は触れられない。
一樹のいる場所から一歩一歩進んでいくテツコたちを描きながら、エンディングでは一樹との思い出を描く。
エンディングのたびに、泣いていた。
本当に愛おしくて大切な記憶で、だけどこれをおいていかないといけないのか。そうして、生きていくことが正しいのかと子どもみたいな気持ちで駄々をこねたくなった。

代わりを見つけられてしまう、生きていけてしまう。それは、幸せというか、正しいのかもしれないけど、嫌だ、と思ってしまった。


んですけど、別に「代わり」じゃない、上書きじゃない。
描き足していくのだと、昨夜のカレー、明日のパンは言う。そうして、暮らしていくのだと。忘れる必要も置いていく必要もないのだ。


仕事をしてご飯を食べて、それが暮らしていくことだ。


暮らしていくことは難しい。実は誰にでもできることじゃないんだと最近思っている。暮らしの時間は本当に貴重なのだ。
仏壇のご飯を食べるシーンが印象的だったんだけど、あれもそういうことなのかもしれない。
生活の中に、みんないるんだ。
消えていなくなることと生きていくことは違うのか。


木皿さんの作品が高校時代から好きだ。
特にこの昨夜のカレー、明日のパンは検索をかけるとサジェストに「名言」が出てくるくらい、手元に残しておきたくなる素敵な台詞が多い。
それは人によっては「説教くさい」と感じるのかもしれない。「優しすぎる御伽噺」と取ることができるかもしれない、と先回りして思う。
それくらい、まるで大きな絆創膏に包まれるような錯覚があった。ご飯があまりにも美味しそうだったからかな。
それでも、思う。
優しい物語があっても良いじゃないか。
誰かに届けたくて抱き締めるように届けられた優しい言葉が、私は好きだ。

11人もいる!

語弊を恐れずに言う。しょうもない人たちが好きだ。ろくでもない人たちが好きだ。
それは「悪い人たち」への憧れというニュアンスではない。
なんかちょっとだらしなかったり、おいおいお前ー!と呆れてしまうような、そんな人たちのことである。
11人もいる!は大家族の話で、そしてそんなしょうもないところもある、愛すべき人々の話だ。


真田家は10人の大家族だ。父親の実はカメラマンだがほとんど仕事がない。なんなら生活能力もない、しかし生殖能力が高いため(弟である真田ヒロユキ談、あのシーンのテンポの良さが好きだ)ともかく子どもが多い。
カフェ日だまりを経営する妻、恵の前にはストリッパーだったメグミという妻がいたが死別。
今はメグミの子どもである長男一男をはじめとする子どもたちと恵と実の子どもである才悟の10人家族は楽な暮らし向きではないが楽しく暮らしている。長男一男はひとり、生活費や学費を稼ぐために苦労してるけど、それにだって父親の実はバカだなあと笑ってる。
ろくでもないやつだ。
なんならそこに追い詰められたおじ…なんなら作中で無職宿無しになる…ヒロユキが加わったり、幽霊のメグミ…彼女が干渉するのは基本的には才悟だけだけど…が加わったり、ともかくもう、しっちゃかめっちゃかである。

その上、台本的にも1話の中にこれでもか、というくらい要素が詰まってる上に「要素」になり得ない小ネタが次から次に飛び出してくるものだから、例え、リアルタイムで見ていて各話感想を書いていたとしても、正しく見ている時の気持ちを言葉に表すのは難しかっただろう。


なんせ本当にまるで煙に巻きたいのか?!と聞きたいくらい話がふらふらと動くのだ。
さらに言うと途中まであった「いつものご飯のレシピ」タイムも途中からは消えてしまう。自由か!とツッコミたくなる。え、なくなってたよね?


とはいえ、まとまってないとか分かりにくいなんてことはない。どころか、ストレートでめちゃくちゃ分かりやすい。きっと、それこそ小さな子どもまで楽しめそうな雰囲気がこのドラマにはある。
ただそうして油断してふはふは笑っているとそれはそれは綺麗なボディブローが決まるのだ。


ヒロユキおじさんの現状に自分が重なり、一男のなんだか追い立てられるような不安感に覚えがあって、
なんて、そんなのも全部、でももしかしたら実に言わせれば「やらなくても良いことまでやった」なのかもしれない。



11人もいる!では、誰も「改心」しない。成長、なんてものもない。
もちろん、変化はある。登場人物たちも「努力しない」わけではない。
だけど、なんというか、綺麗な起承転結におさまるような「こうあるべき」みたいなものは全部蹴散らしてしまう。
そのくせ、終わりに流れる「家族のうた」を聴くとだよなあ、なんてじんわり落ち着いてしまうので、いっそ悔しい。
ある意味でそれは「家族」ってことで納得したりもする。
1話目の歌詞を借りれば

助けあったり励ましあったり
しなくていい
それが家族なんです

みたいな、なんだろう、良いことなんて言わなくていいし、
教訓だとかそんなものを言いたいドラマでもないのだ、たぶん。
もちろん、「教訓」を受け取ってもいいんだろうけど。
でも、ドタバタと賑やかで、楽しくて笑ってしまうようななのに不意打ちで泣けてしまうような、そんな空気感全部が全てだろうとも思う。


「お父さんの写真とお母さんの料理があればうちは貧乏なんかじゃないんです!」
それは、1話で恵さんが言う言葉だ。
観終わって、なるほど、と思う。
貧しく乏しい。
たしかに、真田家はそんなものとは正反対だ。
どうしようもないところもたくさんある彼らだけど、気が付けば会いたくなる。


彼らはそこそこにだらしなくて、どうしようもないところもあるんだけど、でもずっと、楽しそうなのだ。
「正しい」だとか「常識的に考えて」だとかそんな枠に無理やり自分を押し込んでるのがバカらしくなるくらい。


そうして楽しそうに毎日を過ごしている彼らのことが、大好きなんだよなあ。

あばよ2020年

いやあああ、2020年、ほんと、びっくりするくらいしんどかったですね。
もうなんか、ここ数日ひたすら好きなドラマとライブだけ摂取していたのでまるでよかった一年、と、言いそうなんだけど
そんな終わり良ければ全てよしという慣用句でも誤魔化し切れないくらい本当にしんどかった。


推しのライブは当日に中止になり、それでもと待ち望んでいた舞台にはいけず、大好きなひとはいなくなり、友人にも家族にも会えなくなる。



いや本当に、なんというかここまでの生き地獄を味わう想定はさすがに人生悲観的な私にも持ってなかった。
なんなら、それで早々に夏頃から体調を崩し、
いやまじで身体限界なんでなんとかなりませんか、と会社に打診するもなんか何とかなってしまう丈夫さで今もなんとかする、の尻尾を掴んでるような掴んでないような、みたいな現状である。


ここやTwitterに書いて甘えたこと、書けなくて飲み込んだこと、飲み込もうとしてる途中のこと、本当に色んなことがあった。



限界だ、しんどいというみっともなさは分かりながらもそうやってのたうち回らないとやってらんねえよ、とやさぐれてもいた。
ハイローを見て、前を向いたオタクのひとりなわけですが
そんな私も、どうにも「明日がくること」に嫌気がさして何をどうやっても前向きに考えられなくなったとき、
情けなくて申し訳なくて、そんな気持ちからLDHのエンタメに触れられない時期もあった。



とはいえ、だ。

そんなどうしようもなく苦い毎日の中でも、楽しいことはあった。出逢ったひともいた。
新しく好きだと思う「推し」も増えた。
そして何より、こうして誰にも会えないからひたすら書いた文に、たぶん誰より私が救われていた。
感想を書くために、このブログは作った。
たくさん呟く人間だからこそ、感想として振り返れる場所をと作った場所が
気が付けば個人的な想いを綴るようになった。
それに対して恥ずかしさやどうなんだ?という疑問を感じながらも、優しい言葉に支えられ、何より自分がそうして文を書くことで残しておきたいものがたくさんあって、こうして1年(50本も書いたらしいですよ!びっくりだよね!)文を書いていて、読み直すと忘れていた楽しいや嬉しいに出会う。
やさぐれながらでも動いた心の軌跡が、ブログのあちこちに残っていた。


死ぬことだけが決まった世の中で生きるということのハードルがやけに高い。
そうは思うのだけど、でも生きてる限り面白いや楽しいを一つでも探していきたい。


源さんに出逢った2020年だったわけだけど、
彼の倒れる前後の創作物に特に私は心を寄せていた気がする。
自分の人生や感情全てを創作物に昇華するようなその姿勢に背中を支えられてきた。
そしてその上で、倒れた後の源さんの姿勢に自分のあり方を問いかけ続けた数ヶ月だった。


無理や無茶をするべきじゃないだろう。
その通りだ。
倒れた後の源さんの姿勢を見ながら何度もそうだよな、と思った。
ただ、まだ私はその境地に辿り着けていない。


今のところ、来年ものたうち回らなきゃいけないような未来が見えている。


無理や無茶をしないとできないことがある。それ自体、そのものがなのかはともかく、往々にしてその「できないこと」の先に欲しいものがある気がしているのだ。


なんというか、しんどかったんだけど、私はそれはそれで色んなことを考えるこの時間で得たものもたぶんめっちゃあった気がするんだよな。
それを面白いなって思ってもいる。
これからもたぶんたくさんエンタメを見る。そしてたくさん文を書く。書きたいものがたくさんあるんだ。


世界はどうしようもないし、毎晩寝るとき明日目が覚めなければいいと思う。なんでもかんでも嫌になるし、嫌いなこともどうしようもないことも多い。
だけど大丈夫だ。そんなことに心を折らなくても平気だ。むしろ折れても普通だし当たり前だ、折れてもいい。またぐるぐる、セロハンテープでも貼ろう。どうせ、続けるしかないのだ。だったら、面白がれる時だけ面白がって、嫌な時はとことん落ち込み倒そう。
大丈夫だ、生きてる。生きてしまってる、かもしれないけど、生きてる。
今年一年、お疲れ様でした。
本当に心の底からお世話になりました。こうして、文を書ける今日を、私は幸せだと思う。

Clear

演劇が好きだと思う。
演劇を食べるみたいに観る時期が定期的にあって、ご飯よりもお酒よりも寝ることよりもお芝居を観ていたいと思う。
勿論、そんなことを本当にすると倒れてしまうのでしない。
しないけれど、タイムラインに流れてくる言葉を見ていてそんな気持ちをこのお芝居は満たしてくれるような気がした。
そうして、何度か考え配信チケットを購入した。


Clearは、ガラス越しの面会室で起こる話だ。
三人、話す。ひとりは男を殺した容疑者の女性、ひとりはその家族、もうひとりは弁護人。
クリスマス間際に起こった遣る瀬ない事件の話を、彼らはしている。



男を殺した容疑をかけられている曽川さんには、言葉が悪いが「殺す理由は十分にある」
同じ状況にあったなら、殺すかどうかはさておき、絶対に殺したいと思うだろう。だからこそ、弟である連は、弁護士の矢野に、姉の減刑……なんなら、無罪を主張する。
矢野はそんな弟を諫めつつ、事件の違和感を紐解こうとするが、曽川さんはなかなか自供してくれない。


こうしてストーリーを書いているとそこそこ落ち込む設定である。なんなら、曽川さんには一人息子がいて、何年も意識の戻らない夫がいる。
もう、ひたすら落ち込む。
しかし、重たい空気はあるものの、重苦しく観ていて物凄くしんどかったか、と言われるとそんなことはないのだ。
いや、辛いんだけど。遣る瀬なくて呻きもしたんどけど(配信観劇のいいところは迷惑をかけないので呻いたりができることも一つあると思う)


それは、彼らが必要以上に重たく重々しく話していないからだ。いや、もちろん彼らは苦しんではいるし、それは十分に伝わってきて、苦しくもなる。
ただ、うーん、難しいんですが、どうしようもなく悲しくて苦しくて、どうしようもないとしても、軽口は飛ぶ。なんというか、ずっと苦しそうにはしていられない。


いや、むしろ、だからこそその内側にあるどうしようもない気持ちが垣間見えて、苦しくなる。
なんでもないことのように話す、笑うことだってある、それでもきっと、彼らが持つ苦しさや絶望感は少しも減ることはないのだ。それに途方に暮れる余裕すら、ずっと感情的になることすら、できないくらいに。
(だからいっそ、感情的に話すシーンにどこか私は安心してしまった)


不思議な感じだ。
ストーリーとして好きなところ、好きな台詞を挙げるのは難しい。それはなかった、というよりも言語化できない、というのが近い。
お芝居全体に漂う、空気感のようなものが手元に残っていて、それがすごく好きで私はふわふわとあのお芝居を反芻している。
照明が、ものすごく好きでそのきらきらとした柔らかな光が目蓋の奥に残っているような気もする。
何より、彼らが話す、その空気が好きだった。



心を開き、あるいは閉ざし話す黙る。
感情的になることもあれば、隠すこともある。そうして、「会話をする」



そんなことがたまらなく好きだったな、と考える。
そうか、人がそこにいるから、私は演劇が好きなんだな、と思った。演劇が好きな理由は人の数だけあるだろう。私にとっては、きっとそれだ。
人にがっかりしすぎないよう私の生活の中には、演劇があるのかもしれない。
そんなことにふと思い至って、そっかそっか、とひとり頷いている。
決して、明るいお芝居ではないけれど、暗いだけの作品でももちろんない。
作中の季節にぴったりなくらい、優しく苦しくなるような愛おしいお芝居は、柔らかな光を心の内に灯してくれた気がする。

ほんとうにかくの?

ほんかくは、コメディだ。
約2時間。その時間、ひたすら軽快に進む。
もちろん、その中でも起承転結はあるし転があるので登場人物たちが大変なことにもなったりする。
さらにいえば、コメディ、とは書いたけどそれは爆笑必須!みたいなコメディではなくて、
なんかずっとふわふわと楽しい、というコメディである。

心をぐちゃぐちゃにされる、とか
何かを物凄く考え込まされたり、誰かに強く共感したりするわけではない。

だけど、2時間、なんだかずっと楽しい。
それって、結構すごいことだ。コメディってすごいな。


あらすじ

書いたことが何でも現実になる漫画家。
実は、無意識化の中で現実になりそうなことを書き、非現実は否定していた。

つまりは、これから起こるだろうことしか書けない漫画家。

とは言え、暴かれることのない社会悪を暴いたり、
未然に防ぎたいと誰もが思う大災害を予知するなどならまだ使い道はあるが、

彼が描くのは大抵身近で起きる、ご近所界隈の大きな事件。
例えば、誰々が不倫しているとか、誰々が病気を患うとか。

男には並外れた洞察力があった。
流行り言葉で言えばメンタリスト。だから彼の描くことは決して予言ではなく、
当たって然るべきこと。

彼は担当編集者がどんなに望むべき展開であっても、
人が抱く感情的に整合性がなければ「書けない」と言い、
どんなに突拍子も無いことでも、
身近なモデルでリアルを感じられれば「描けるよ?」と言う。


とは言え、いや、だからこそ、身近なことしか予言が当たらない彼は、ニュースに取り上げられることはないが、
身近な者たちからは大迷惑の注目の的。


「あんたもう、自分のことだけ書きなさいよ」


書いたことが現実になる漫画家が、ついに自分をモデルにストーリーを描く。
それが事実になることはわかっている中、彼が描く世界とは?


自分の将来これからの全てを握る数々のできごと。
自分の手で、ほんとうにかくの?



このあらすじ、というか、ほんかくのあらすじって難しくて(ある意味それは久保田さんの作品らしいなあとも思うんだけど)
あらすじから想像していた話とは少し違った。
主人公である扉絵さんの能力は言葉で説明されるよりも物語のなかで実際見た方がしっくり理解しやすいし。

ともかくテンポ良く物事が進んでいく。し、そこそこテンションが高く進むものも絶妙なリアルさがなんとなくおかしい。
たぶん、楽しかったのはその辺りが大きいと思う。


このお話は決定的な悪人が出てこない。
いや屑雄とか屑子とかいるけど(笑)
ただ、この屑雄、屑子をはじめとするたすき組の人々がすごく良くて。
財産が、とかわりとドロドロしかねなかったりする話とかをたすき組が「漫画」として表現することで、重くなりすぎず「ギャグ」として楽しめた気がする。


そしてこの感覚はなんというかほんかくの世界の中での、扉絵さんにとっての「漫画」についてつい思いを馳せてしまうな。
漫画、にすることで現実を少し受け入れやすくする。漫画にしたから「本当になってしまった」わけではないのだ、実際。
漫画が引き金になってることもたくさんあるから難しいけど。でも、漫画が引き金を引かなくても実際「見えないだけでそこにある」ものなわけで。
だとしたら扉絵さんにとってはそれは描こうが描かまいが同じこと、なのか。
そう思うとライトに……なんならギャグ寄りで描いた扉絵さんのこと、すごく好きになってしまうな。


話がズレた。
ともかく、悪人がいないのだ。悪人がいないから良い、というわけではないけど
大神さん今出さんペアの主人公たちと対立するひと、すら愛せる構図、役になってて、だから余計に2時間楽しい。
なんせ、好きな人しか出ていないのだ。
(特に、絵に対してのやりとりが本当に好きだ。めちゃくちゃ好きだ、あそこでああいう振る舞いをする彼が、すごく本当に好きだと思う)


ひとつだけ。
物語のなかで大きなキーとなる瀬古田さんの羊一への恋心、そしてそれに羊一が応えること、がどうしても唐突感があってしっくりこなかったのだけがちょっと残念。
唐突というか、「え、恋愛的には好きではなくない…?おうちのため…?」とすら思えてしまって、なんとなくしっくり来なかったんだよなあ。とはいえ、別に恋愛感情!!!ってエピソードが入るのもなんとなく(キャラクター的にも物語的にも)違うとも思うし、そこが本筋ではないか、とも思う。
おうちのための打算でも応えてもらえるなら、じゃないといいな、と瀬古田さんが好きだったから思ってしまうけども。
更にちょっと蛇足になってしまうけど一瞬「あ、瀬古田さんの気持ちをそういう感じに描いちゃうのか」とひやりとしたんだけど、
その辺はすごく平山さんを中心に丁寧に描かれてたので(なんならそのひゃっと感も後々そういう意味では回収もされてた気がする)良かったなあ、と。
とはいえ、もう少しその辺りはちゃんと描かれてたらもっと好きになったな、とも思うしいやでも尺的にも大筋の流れ的にも違うのか…とも思うし。うーん。


ただその上で
扉絵羊一という人は観察眼もあるし、まるで未来を予見するみたいな能力すらあるけど
ちょっと自分の気持ちをそのまま表すのは苦手なのかもなあ、とも思う。そう考えると、じゃあそういう「あ、好きなのか」がしっくりこなくてもそれはそうか、とも思うわけで。
だからこそ、漫画に描いて消化していたのかもしれない。
漫画という自分が好きなものの力を借りてなら、描けたととると、なんだか最後の「暴露漫画」も含めてしっくりと、その不器用な人柄が腑に落ちる。
綺麗さっぱり消えてみたいと思ったことがある彼が、一旦出し切った「漫画じゃないと描けなかったこと」の次、何を描くのか。
ついそんなことを想像してしまうくらい、劇中、色んな人が愛おしくなるようなそんな2時間だった。


2時間ずっと好きな人しか出てこないと書いた。

かつこれは、お話としての話だけじゃない。
そしてもちろん「推してる役者さんが出てる」という話でもない。いや、実際たくさん出てるんですけどね、好きな役者さん。めちゃくちゃ幸せなくらいでてるんですけどね。
キャストさんも全て、なんというか、ストレスなく、ずっと楽しめるように張り巡らされている。
なんというか、そういうのすごくこう、居心地が良いんだよなあ。
お芝居の感想で居心地がいいっていうのもおかしな表現かもしれないけど。
なんだか、本当に、そういう、ああ楽しいなの詰め込まれた時間の幸せをついつい噛み締めてしまう。うん、やっぱり、コメディって凄い。

30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい 11話

"心に触れる"ってなんだろう?
手当、という言葉もあるし実際"触れる"というのは(条件はあるものの)ヒーリング効果があるんだと思う。
それはリモートやオンラインがスタンダードになった今、尚更思う。ちょっと違うかもしれないけど、心に触れるってのはそう考えるとすごいことだし、幸せなことだな、と思う。
ただ、でもだから、改めて

"心に触れる"ってなんだ?



30歳まで童貞だとなれるらしい…通称チェリまほは、30歳を童貞のまま迎えた安達が「触れた人の心を読めるようになる」物語だ。
その魔法の力で自分とは同期で性別が同じということ以外共通点がないと思っていた黒沢の自分への恋心を知り、惹かれ、結ばれる。
11話ではそうして結ばれたからこそ「心を読めること」でじわじわ10話から生まれていた「本当にこれでいいのか?」という戸惑いがハッキリと形になる回だった。

この戸惑いとは「心を読んで知ること」はそれでいいのか?という戸惑いだ。
そしてそれについては、一足先に魔法使いを卒業した友人、柘植も同じように口にする。心が読めるから相手の心の機微を読む方法を忘れてしまう。どうしたらいいか分からなくなる。魔法に頼りすぎるな。


で、冒頭の「心に触れる」ってなんだろう?という問いに戻る。
安達は人に触れることで人の心が読める……つまり、人の心に触れることができる。
実際、過去の話の中で安達は黒沢とのやり取りの中で「俺はこいつの心に触れるために魔法使いになったのかもしれない」と思っていた。
が、が、しかしですよ。
実は黒沢も安達に「心に触れられた」と思った瞬間があった。それは黒沢自身が安達を意識するようになったきっかけの出来事の時である。
「心に触れられた」そう思った黒沢は、安達のことが気になり出した。



この「心に触れた」と感じたタイミングがちょっとずつ違うんですよ。



当たり前なのかもしれないけど、私はこれが、もう、物凄いことだなあ、と思っていて。
「思いが通じ合う」なんて言葉があるけどそこに籠る幾層もの愛情とか願望とか、なんだかそんなことを考えてしまう。通じ合う、と言ってもぴったり同じ、じゃない。違っても、「通じ合う」んだよなあ。



11話、観ながらずっと苦しかった。安達の「ズルだ」と思う気持ちは確かに、分からなくもない。知り得なかったことを知って、うまく立ち回れる。それは確かに「ズル」という人もいるだろう。
魔法で得た奇跡を、得たからこそ失う。
触れ合ったからこそ知ったことを「触れ合いたい」から一緒にいられない。もう、なんか、なんだ、そのままならなさ。
すごく好きで、大切でだから「終わりにする」って分かるけど、いや、分かんねえよなんでだよ。ちょっと苦しすぎて布団に潜って考えていた。


そもそも、だ。

安達は「魔法で得た」と思ってるけどそうじゃない。黒沢の件だけじゃなくて、他の色んなこともそうだ。魔法はきっかけでしかなかったはずなのだ。
だから、「魔法があったから特別」なんかじゃない、そうじゃないんだよ安達。


そして、そんな雁字搦めになった安達への黒沢の言葉の、表情の素晴らしさたるやですよ。



「嘘じゃない」って安達が言うじゃないですか。
あれ、魔法が使えるという「突拍子もないこと」が嘘じゃないってことなんだってわかってるんだけど
私には安達の黒沢のことを好きだって思う気持ちとか好き合えているという奇跡やその他諸々、そういう「これまで」が、嘘じゃない、と言ってるように思えて仕方なかった。
だって、そうじゃないですか。嘘じゃないもの。
嘘じゃないんだよ、奇跡じゃないんだよ。奇跡なんだけど、それは偶然的にラッキーで起こったんじゃなくて、君や黒沢が自分の手で掴んだそれなんだよ。


そんなことを黒沢だって当然わかってて、分かってるのに、安達がしんどくない方でいい、笑っててほしいとあんなに優しい顔で言える黒沢の幸せを祈らずにいれるだろうか。
黒沢は本当に愛情が深くて賢い人なんだよなあ。
しかもそれが自己犠牲とか、なんかそういうのじゃなくてすごく丁寧に見た幸せ、の形を選べる人なんだと思うんだけど。

黒沢の恋愛感情がとても心地いいと思う。
黒沢の安達への気持ちは紛れもなく恋愛感情で、なので欲だってあるし「俺がしたいこと」もあるだろうし、それと同じくらい「笑っててほしい」「幸せでいてほしい」があるんだよな。
それがどっちが上とか多いしとかではなく、どっちも、なんだよ。


ツイートもしたんだけど、このご時世恋愛最高!いえーい!!!みたいなのってそうないじゃないですか。
これは私の個人的な感覚かもしれないけど。
少なくとも私はいえーい!とは思えないんだけど、ただ、黒沢の安達への恋心見ながらそうだよな、と思っていた。
恋愛って別に高尚に祀りあげることも、下に落とすこともなく、ただただそこにあるんだよな。
大切な人が笑っててほしくてできたらそれが自分の隣でなら嬉しくて、そんなささやかで柔らかででもちょっと欲張りになるような、そうだよな、そういう気持ちだったよな、恋愛って。


完璧な自分でいることは素の自分を好きになってもらうための方法だった、とさらりと言ってのけた黒沢は、そんなことを私に教えてくれた。
チェリまほ、本当に、なんか受け取りやすい温度感と表現ですごく大切なものを手渡してくれるから毎週必死に、でも無理なく観てしまう。ああなんて、幸せなドラマに出会ったんだろう。


なあ安達、安達なんか、じゃないんだよ。嘘なんて一つもなくてズルもないんだよ。
安達は魔法を使っていたけどそれ以上に黒沢のことを考えて考えて考えて、動いて、話したから、ああして一緒にいる道にたったんだよ。


心に触れるという、それはもう曖昧で、きっと自分しか持ってない、だけど相手がいないと成立し得ない奇跡は複雑だ。
それでも今まで何度も何度も、彼らはそんな奇跡があったんだ。魔法なんて関係なく。
ちょっとタイミングがずれようが「想いが通じた」ふたりだから、だから大丈夫だ。


そんなことをずっと思ってる。いつの間にか、まるで友人を応援するみたいにチェリまほ観てるな。

プラージュ 〜訳ありばかりのシェアハウス

許せないことってあるだろうか。
私は考えてみたんだけど、許せない、以上に「あーきっと、許してもらえてないな」の方が多い。もしくは許されないだろうな、だ。
いずれにせよ、許す・許さないを考えると思い切り呻きそうになるな。



プラージュはサブタイトルに「訳ありばかりのシェアハウス」とついているように、『プラージュ』というシェアハウスに住む「犯罪者」たちの物語だ。
主人公、貴生が思わぬことから覚醒剤に手を染めてしまい犯罪者に
更に追い討ちをかけるように住んでいたアパートが火事になり、
プラージュに住むことになることから物語は始まる。


貴生くんもそうなんだけど、みんな住人の誰もが好き好んで罪を犯したわけではない。
どうしようもなく、あるいは咄嗟にとった行動一つで「犯罪者」になってしまっただけだ。
それでも、彼ら彼女らが犯罪者であるという事実は、大きくそれぞれの人生をねじ曲げ、影を落とす。


でも確かにそれってきっと、多くの「犯罪者」がそうじゃないのか。ふと、そんなことを思ってしまう。
そうしたくてそうしたんではなく、
「そうしないといけなかった」「そうなってしまった」から、そうした。
だとして、罪を許されることにはならないんだけど。


プラージュに住む人たちはそこそこ癖は強い。でも、まあ普通の人たちだ。どこにでもいる。
更にその中でも主人公の貴生はめちゃくちゃ普通の人だ。なんなら、「犯罪」や「覚醒剤」というところから縁遠そうないい意味での「しょうもなさ」がある(ギリギリ褒めてる)
物凄く良いやつではないし、かと言って極悪人でもない。そこそこに小心者で、ちょっとダメなところもある、だけど優しい「普通の青年」なのだ。


WOWOWドラマらしく結構容赦ない暴力シーンもあったりするんですが、
でも、一気見してしまったのはそれ以上に描かれる日常や人々が丁寧に優しく描かれてたからだ。
プラージュはカフェ兼定食屋さんのようなこともしているので、朝と夜にご飯が出る(羨ましい、めちゃくちゃ住みたい)
そこで住人たちは喋ったりご飯を食べたりする(楽しそうだし羨ましい、やっぱりすげえ住みたい)



その様子は本当に、どこまでも穏やかで「普通」で楽しそうなのだ。
だからこそ、その合間に落ちてくる「前科者」の影が息苦しくなる。
普通に生きていく。
"ご飯を食べて笑って"生きていく。


ただ、彼らが罪を犯したことは変わらない。
そしてその「罪」には被害者がいる。
失ってしまった人が、傷付けられた人がいる。
事情を知ると「それは殺されても仕方なくない?」と思ってしまう。プラージュの住人たちを知ってるから尚更。
だけど、同時に「殺されても仕方ない」人間なんていないはずなのだ。
作中出てきた「誰も、遺族の気持ちなんてなれるわけないんですよ」という台詞が耳に残ってる。
本当に、喪ってみないとわからない。想像しようが寄り添おうが、それは「こうなんだろうと思った」でしかなくて、「遺族の気持ち」ではないのだ。
そしてそれは、何も遺族に限った話じゃない。
誰に対してもそうで、本当の意味で「誰かの気持ち」を知ることはない。そりゃそうか、自分の気持ちだって分からなくなるんだから。



だけどそんな「気持ち」を考えてるとますます、じゃあ、人はいつ許されるんだろう、と思う。


許されていいのか、とも。だけど許されて欲しいし、許されたい。自分が許せるかは分からないくせに。それでも。



どうしても題材的にアンナチュラルやMIU404を思い出してしまうんだけど、
「どこなら間に合えたか」を考えれば考えるほど、どこなら、が分からなくなる。
だって時々、「生まれた瞬間」から所謂詰み、に入ってしまうことだってある。

それだって紐解いていけば「この時こうしていれば」が見つかるかもしれないんだけど、でも同時に「こうしていれば」っていくら考えても、「こうする」ことはもうできない。過去は変えられないんだから。
そんな無力感というか、虚無感に襲われてしまうことがある。


潤子さんの台詞を考える。私は人を信じることができるだろうか。ご飯を食べて、笑って生きていけるか。生きていってほしいと思えるか。



プラージュの人たちを好きになったのは、
きっと貴生が「コミュニケーション」を取ったからで
私はきっと貴生の目を通して彼らのことが好きになったのだ。
だとしたら、コミュニケーションをとれば、とも思うけどそれだって毎回必ず、うまくいくわけじゃない。いくら心を砕いてもコミュニケーションが取れない人間はいるし、
ついでに言えば「いつだって誰にだって」心を砕いてコミュニケーションを取ることができる人間だ、とも自分に対して思えない。
そうありたい、とは思うけど、そうあれないから、変な話「そうありたい」のだ。


最後、どんどん物語が進んでいくにつれ
その苦しさは大きくなって目の前が暗くなるような気持ちになっていく。


観ながら、どうしようもなく苦しくなって書き殴ってた感想に
「もうさ、許せる人同士でやっていきませんか。
ダメか ダメなのか。
全部は無理でもダメか」
ってのがあって
なんか、もう、わかんないなー!!!!
そう放り出したくなったんだけど。
貴生が選んだ言葉や行動、表情を見ながら
それでも、正しくあろうとすることをやめるわけにはいかないか、と思った。


答えは見つからない。
許せるか、許されるか、わからない。
きっと答えなんて、ない。万能で全てにぴったり当てはまる定規なんてこの世のどこにもない。
それでも、なんか食べて笑って綺麗なものを見て、生きていくしかない。


プラージュ、好きなドラマだったな。
とりあえずあれだ、今日も、美味しいご飯を食べて誰かの優しいに気付けたらいいな。