えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

アイネクライネナハトムジークと、日常を特別に変える方法


日常を愛せる瞬間がどれだけあるか?そんなことを伊坂さんの本を読むたびに思う。そして、映画「アイネクライネナハトムジーク」を見ながら、ずっと考えていた。
日常、愛しかないじゃん。


あらすじ(公式サイトより)

あの時、あの場所で出会ったのが
君で本当に良かった。


時を越えて気づく、
〈出会い〉よりも大切なことー。
思いがけない絆が巡りめぐって、
奇跡のような瞬間を呼び起こす、
10年越しの恋の物語。

 

アイネクライネナハトムジーク、とはモーツァルトによって作曲された曲らしい。小さな夜の曲、という意味なんだそうだ。
小さな夜。
特別でもなんでもない夜。それを特別と呼ぶのはその人次第だ。

伊坂さんの作品は、最早私がいうまでもないことだけど、思いがけない点と点がつながっていく心地よさが魅力の一つだ。
そういう意味で、アイネクライネナハトムジーク、はその魅力が詰まった作品である。お話の内容だけではない、「伊坂幸太郎×斉藤和義×今泉力哉」という組み合わせが成立したのも、このお話が生まれたのも、そんな点と点の繋がった結果だというから堪らない。

斉藤和義さんの音楽は、意識せずとも聞いたことがある人が多いと思う。し、私もその程度の認識だった。ただ、先日行ったフラワーカンパニーズのライブを一緒にやっていたのが斉藤和義さんで、おかげで、初めて生で斉藤和義さんの音楽を聴いた。

その日、私はほどほどに疲れていて、仕事で嫌なこともあってぐったりしていた。その上、ライブに間に合うかギリギリな中、走ったのもあってライブが始まる前からそこそこ疲れ切っていた。少し、ライブを楽しめるか不安ですらあった。
無理矢理着替えた喧しい柄のシャツでなんとかイカしてるぞ、と自分を奮い立たせて立っていた私の耳に、初っ端、アレという曲が流れた。

「引っ掻き傷は残せたかい 自分だけが知ってるアレだよ」
「皆さん今日もおつかれさん 大変だったような
そうでもないような」

なんか、それを聴きながら気が付けばへら、と笑っていた。今回の映画の主題歌である「小さな夜」もその日のセトリに入っていた。
聴いてすぐさま、アイネクライネの曲だ!と悟った。歌詞のあたたかさや何気なさ、何気ないのに愛おしくてたまらない感じは、たしかに伊坂幸太郎ワールドでたくさん味わってきたそれである。

私が伊坂さんの本を読むタイミングは決まっていて、気持ちのチューニングがうまくいかなくなった時だ。
もちろん、普通に読みたければ読むけど、チューニングがうまくいってないな、と気づいたら絶対に読む。読んで、ぼんやり考え事をするとあんだけズレてた感じがしたのが、しっくりくる場所に落ち着いているのだ。

そして、今泉監督は私の好きな映画監督で、
インタビューを読めば読むほど、こんな奇跡ってあるか?!と大興奮していたのだ。

一真に伊坂作品の醍醐味であるあの独特の台詞を集約した、というインタビューを事前に読んでいて、なるほど!と膝を打ったんですが
にしたって、一真、愛おしくないですか。
伊坂さんの台詞って生身の人間の音にしてしまうとわけわかんねえ!なこともあるんだ、と思うんだけど(文字で読むとほとんどないのに)(不思議だ)一真の台詞は何言ってるか分からないけど、何が言いたいかは分かる、というとても愛おしい感じだった。
惚気かよ、って佐藤が笑うシーンがすげーーーー好きだったんですよ。というか、あの3人の空間が大好きだったんです。
今泉監督の食卓は、だいたい美味しそう(愛がなんだの味噌煮込みうどんは美味しくなさそう…ってなったけどあれはそういうシーンなので……)で大好きなんだけど、それって、食べてる人たちの表情が魅力的に光るからだなあとある意味で当たり前のことを思ってしまう。
あそこの、ふたりの空気感と、佐藤の空気感が大好きで、それが惚気!って感じで、すごくすごく良かった。
そして、大学やめる、と話す過去の回想シーン。
「ベリーベリーストロング」
見終わって、何度も心の中で繰り返してる。ベリーベリーストロング。
あんななんでもない人が格好いいと思う、愛おしいと思う瞬間があるだろうか。
同時に思う。
ラッキーだと、話す彼の言うことは奇跡でもなんでもない。連続性のある惚気話である。だけど、佐藤も私たちも知ってる。それが、どれだけ、貴重でステキなことか。

情けないことが、こんなに格好良いと思っていた。
一真もだけど、佐藤も。
例えば、バスのシーン。何一つ格好良くない。レイトショーの映画館、私が見ていた映画館では、笑いすら、起きていた。おいうそだろ。それが、映画館に満ちていた空気だった。
ビシ、と決まらず、ズレていて、分かってなくて、なのに、私は何故か泣いていた。
嬉しかった。
子どもができて、大学を辞める一真が一緒にいれるんだ、一緒にいる理由が強固になったのだ、ということに
追いかける佐藤が子どものためにUターンして、それから、ちゃんと、帰れるように送ることに
なんか、そういうの全部が嬉しかったのだ。

誰かに託すことの話をしたいのですが、
貫地谷しほりさん……そう、めちゃくちゃ可愛かった……の、告白する時に誰かに託すのずるくないですか?!から、繋がる、物語を思っていて
確かに、例えば自分の努力の関係ないところで決まる結果に自分の思いを託す、ズルさは理解しつつも愛おしい、と思った。
逆に言えば、託された小野さんのジムのワンシーンが愛おしくて
今泉監督の、静止画が好きです。コインランドリーや、そういう、ある、網膜に焼き付くような意味があるんじゃないかと考えさせてくれない静止画が、ジムで映って
もちろん、たしかに、自分はなんの努力もしないのだけど、
小野さんがあの試合の時、彼を見つけて動く目が、すごく、すごくしあわせで。
あれ、めちゃくちゃ、伊坂さんだったと思うんですけど、どうですか。
愛おしさというか、どんどん、否が応でも沸き立つ血というか。
そういう、なんだろう、生きてるから起こりうる感情の……ある作品のバイク音に似た興奮をめちゃくちゃ覚えてですね。
そして、最近「誰かを好きでいること」について思いを馳せがちな私には、あの描写は尚更にたまらなかったのです。
決定的な何かにはなれなくても、
というか、この映画ほとんど決定的、も、大きな盛り上がりもないんですよ。
それが、あまりに心地よかったです。それでも、あの綺麗なライトが嬉しくて愛おしくて、それは、結果がどうあっても良いなんて残酷な話ではなくて、でも、決定的に、変わったと思う。
例えば、小野さんへ送られる歓声が演出として走り出す佐藤に贈られたみたいに、そういう奇跡的な、そのくせ、何気ない瞬間で私たちの日常はできてるんじゃないか、そんなことを思う。

 

振り返って、ツイてたとおもうこと、
そして実はわざとだったこと
それが作中、描かれたわけですが、
例えばそれが日常を愛する方法なのでは、と思う。逆説的な話ではあるけど。
ツイてた、と思うのは、少なくとも結果を愛おしく思うからなので。
そう思うと、たいぞうさんのいう、ラストわざとだった、という「今わかる真実」のすごさが際立ってくる。
だって、出て行ってしまった奥さんは、それでも当時、奇跡を自分から起こそうとして選んで、行動したんだ。それって、すごくないですか。
なんか、そんな簡単に奇跡って起こるのか、とへんな意味ではなく、思った。何気ない奇跡の連続に見逃してしまいそうですらあった。それくらい何気なく、描かれていた。

ところで、ずいぶんと支離滅裂な感想になっている自覚はあるんだけど、一番奇跡的で愛おしかったシーンの話をしたい。
プロポーズが幸せで泣いた話だ。
今年は、応援している役者さんは結婚し、応援してるパフォーマーの熱愛報道がありの一年で、それぞれにいろんなリアクションをしつつ、結婚などに思いをはせることも、多かったんだけど、
佐藤さんたちが、いいよ、と言った後に、あまりに幸せそうで私は目を丸くした。
あの空気はなんて言ったらいいんだろう。あの撮影の時、どんな顔をスタッフさんたちはしていたんだろう。
優しくて柔らかくて甘くてあったかくて、そのくせ、弾力のあるものを思い切り抱き締めたような気がした。
大切な人に、思いを告げること、ずっと一緒にいたいということ、そしてそれが(一旦は少なくとも)叶うということ
それに、人があんなに嬉しそうに笑うのだと私は今更ながらに知ったのだ。

 


大きな盛り上がりがどうこうとか、映画の文脈だとか、そういうもので私は語る術をもたない。
ただ、揺蕩うみたいな幸せの中にいたと、思い出す度に思う。だから、私はアイネクライネナハトムジークが好きだ、という話がしたい。


そうして、私の大切な誰かにこの映画が届けばいいと思う。

振り返って、きっとあの映画をあのタイミングで観たなんてツイてるな、そうにやり、としてもらえると思うのだ。だから、こうしてブログを書いた。
そして、身近な人に「この間、映画観てさ」と話そうと思う。今泉監督がいつかツイートした通り、ツイートやブログ以上に顔が見える誰かの言葉はもっと、映画館に誰かを誘ってくれると思うので。


私が好きな伊坂さんの作品で好きな台詞、言葉はたくさんある。
その一つがある作品で出てくる「あなたには特別な力があるのよ、例えば、奥さんを幸せにするとか」という台詞だ。(本を見ずに打っているのでニュアンスしか合ってないだろうことを許していただきたい)
それに倣って言えば、私は日常を特別にするとっておきの方法を知っている。

目の前の日常を思い切り愛することだ。愛してるものを抱き締めることだ。
そんなことを、私はこの映画を観ながら考えていたような気がするのだ。

その獣道のいく先が、幸せなものでありますように


敬浩さんの第一印象は失礼ながら、ああこの人は女の子にモテるだろうなあ、だった。

ハイローからLDHを観だしたので、当然……もちろんそれまでも存在は知っていた……雨宮兄弟が初めて意識してみた敬浩さんになるのだけど、もう、だってあんなんみんな好きでしょ、と笑ってしまった。悪い意味ではなく。
明らかにハイブランドで決めた全身黒の、顔がシュッとしてる(関西弁)バイクに乗ったなんかよく分からないけどめちゃくちゃ強い兄弟。
酔った勢いでミリしら状態でザム2を観たわけですが、観ながらはーーーこのふたり人気なんでしょう?分かります分かります、くらいの見方をしていた、黒いのと茶色いので見分けが着けやすいのは良いですね、みたいな、妙に距離のある感じで。
特にレッレを観てなければなんであんなにUSB取り合ってるかもちょっとよく分からないですからね、ギリギリお兄さんに託されたっぽいし、お兄さんは亡き人になったっぽい、くらいで。いやそれでも分からないままにバイクレースで泣いてるので本当によく分からない最初の印象だな。しかもそのうわあ女の子にモテるイケメン兄弟だ、うわあって思ってた片方がラスト銃口に狙われるという、もう、頭の限界値越えてるんで一旦落ち着いてください、みたいな感じだったので、最初はどうやらあの人気のありそうなのの茶色い方がかの有名なTAKAHIROという人らしい、みたいな、印象だった。


それが、直人さんが気になったのもあって聴きだした三代目の曲で登坂さんを気になりだし、となると何故かよく見かける(まあ兄弟役だしな)敬浩さんが目に入るようになって、
「女の子にモテるイケメン」の印象はどんどん変わっていった。
もちろん、イケメン、とか女の子にモテる、は事実今もそう思ってるけど、
なんか、それよりももっと人間臭い人なのでは?と、ちょうど、その頃道の駅の頃で、レポがたくさん回ってきて思い出した。
あんな大きなステージで、堂々と、それこそ
「自分がモテる」ということを自覚して過ごせるだろうルックスと才能とオーラを持ちながら、
そんな人でもたくさん悩んだのか、とほとんど知らないままに、ちょっと気になりだして
そして、道の駅のスタッフからのサプライズのペンライトの話を読んでちょっと泣いたりしながら、じわじわ気になりだした。

 


あれだけ「格好良い」という賞賛が似合いながら、何年も苦しんでたという敬浩さんという人は、どんな人なんだろう。

 


決定的に、ああこの人好きだ、と思ったのはワイルドヒーローズだった。
ちょうど当時登録していたアプリで配信していて、気になるな、と呟いたらつくさんきっと好きですよ、とフォロワーさんから勧めてもらって、
そんな時、インフルエンザに生まれて初めてかかった。しかも、熱が出なくてただただ緩やかにしんどいやつに。
朦朧としつつも、寝込むことも出来なかった私は、あーじゃあ、せっかくだし積んでたドラマを観よう、と再生した。


ぶん殴られた。


1話を観ながら、ぼろぼろ泣いたのを覚えてる。
当時、私自身が全然うまく成績が上がらない営業でキー坊の冒頭の様子に「うわーーーーやめてくれーーーーー」と叫びながら観ていたのもある。
私自身、学生時代に「絶対後悔する」と分かりながら後悔する選択をしたことが、キー坊の100対6の決闘に行かなかったことで大切な仲間とギクシャクしてることに重なったというのもある。


俺も殴られたかったよ、と吐くように言うキー坊に、最後、俺、負けてなかったんすね、と子どもみたいに泣く姿にああもうこんな芝居するのか、この人、と愕然とした。


……怒らずに聞いていただきたいのですが、敬浩さんはお芝居畑の方ではないし、特にワイヒの時は初の主演でまだお芝居自体、そんなに回数を重ねてないのもあって、
がむしゃら感というか、不器用さ、がたくさんあったとは思うんですよ。
あああー台詞ぎこちないー!ってなる瞬間は、失礼ながら何度かあって
だけど、そんなん、関係ないというか
少なくとも私には、このお芝居、この役、この台詞をあの熱量で生み出す敬浩さんが好きだった。


上手いとか下手とか、そんなんどうでも良くて、ああこの人はキー坊だ、キー坊が生きてる、と思った。


私はお芝居が好きで、それは生身の人間だから起こりうる色んな奇跡が大好きだからなんだけど、
敬浩さんの演じるキー坊にはそんな奇跡の瞬間が何度もあってパチパチと綺麗なスパークが目の前に弾けるみたいで、
インフルエンザなのに、ほぼ一日で一気見した。おかげでめちゃくちゃ回復した。良いドラマはインフルエンザを倒す。

 


それから、敬浩さんファンの友人さんからいろんな話を聞いたり、SOWに行ったり、AOSに行って、どんどんそんなスパークは増していく一方で、人柄を知れば知るほど、この人面白いなあー好きだなあー幸せでいてくれーと思い出し(オタクすぐ幸せ祈りがち)
僕に、会いたかった、でもっともっともっとこの人のお芝居が観たい、と思って


で、こんなブログを書いてるのは、モニタリングですよ。
モニタリングが、もう、本当に、最高で
普段、あんまりバラエティ得意じゃないんですけど、美容師とかそんなん見たいやん……って薄目で見ることを決めて見たんですけど
愛じゃん、と、いまだに放映から二日経っても繰り返し繰り返し脳内再生を繰り返している。

 


SOWで、ファンサとして花道の女の子たちにどーん!ってしていくのを見た時も、泣いた人間なんですけど
暗い出口のないトンネルを歩いていた人が、こうして誰かの愛情を受け取るの、なんて優しいんだろう、と思うし
私は愛情を渡すこともだけど、それ以上に受け取ること、が難しいこともあると思っているから、ああして受け取っている姿を見ると、もう、ダメなんですよ、めちゃくちゃ泣いちゃうんですよ。
モニタリングではこっわ…!ってしたけど(笑)お戯れがすごい……THE EXILE TAKAHIROって感じだ……。


そして、歌うことの話をしているのが、ああこの人は、自分の仕事や表現に真っ直ぐで、それに関わる全てのものに感情や愛情を向ける人なんだなあ、と思った。
Ti Amoのメイキングの時も思ったけど、人間の感情というものに対して、純粋な振る舞いを度々……これはトライブの人たちの特徴の一つでもあるけど……するもんだから
その度に私はおうマジかよ、となってしまうし、
少なからず、彼の「表現」を好きだと思った人間としてああして自分の表現に纏わるものを、愛している姿はなんて嬉しい、綺麗な光景だろう、と思う。


そして、その表現は彼が「生きた人」だからなんだなあ、と思う。
別に綺麗で品行方正で間違えない人、ではなく
迷うし間違えるし、悩んだきた一人の同じ人間だからこそ、あんな表現をするんだなあ、と思うと私はたまらない気持ちになるんだ。

 


仕事をサボって、EXILEのライブに行った彼が、美容師の仕事を諦めた夢、というのもなんとも、人間臭くて愛おしいなあ。全部を叶えるなんて土台人間には無理で、でもそこで精一杯もがいて手を伸ばして、ずっと進んでいく、彼を好きだと思う時間が少しでも、長く続いて欲しいと思う。


our promiseで書いていた、彼が自分で決めて進む獣道のいく末が、どんな場所なのか、見ていたいと思うので。

 

 

 

UNDERDOGに2日行って、愛を知る人について考えた話

愛を知る人は、健やかだ。

SHOKICHIさんのライブに行ってきた。
アンダードッグ、成り上がり、と銘打たれたライブを見た。


SHOKICHIさんは、愛情を受け取るのも注ぐのも全力でかつ幸せそうですごい。そんな姿にめちゃくちゃ励まされるから本当にすごい。

愛情を、もらうんじゃなくてあげる幸せに早く気付けると人生は生きやすくなる、というツイートを、以前見た。もちろん、一概には言えないし、あげることが全部が全部「良いこと」とは言えないと私は思っているのでアレだけど、でも、一般的に愛情が欲しいと思う人が多くて、かつ、もらうよりもあげる方が、能動的にできる分、幸せになりやすいのかもな、と思ったり。
でもこれ文にするとすげえ打算的ですね……?そんな話じゃなかったのかもしれない。

ともかく、愛を注ぐことで幸せだ、と感じる人がいる。

UNDERDOGでは、将吉さんの音楽の幅広さを堪能することができた。これはアルバムでも分かっていたことだけど、視覚化されてパフォーマンス、ステージ演出が加わることでより際立った。
音楽は音を楽しむと書くけど、本当にそれを体現するライブだった。いつだって表情豊かに全身全霊で音に乗っかって奏でていくのだ。

誰かの背中を押したことを、あんなに嬉しそうに話していたこと。
あれ、本当に、すげえ、って思った。
our promiseの将吉さんの項にあったとおり、彼にとっては見つけ出した自分の役割、立ち位置が音楽を作ることだったわけだけど、
したいこと、なんだなあ、と改めて思って、グッときてしまう。したいこと、を彼は役割で、立ち位置と呼んだことに、呼ぶまでの道のりに、ぐるぐるする。
「いつかの悲劇」や、「あ、ここにいるの、自分じゃなくていい」って思いながら、それを「自分」に引き寄せる力について考える。


真っ白なライトが照らす将吉さんは、とてもとても綺麗で、きっと、それが答えなんだろうと思う。

ないものはなくて良いもの、という言葉について考える。
私は、このライブはなくても良いものだったかもしれない、という彼の話を聞きながら「そんなことない」とは言えない。
無くて良いものでは無くなった、必要なものに変えた、と思うから。
そしてそれは、将吉さん自身が手繰り寄せて築き上げた結果、なんだと思う。それが、こんなに美しく、優しい光景なことにいつまでも浸っていた。

SALUくんがリリックで言ったように「去った人」もいくらでもいるのだ。
そしてたぶん、これからも。

だから私は、何度も何度も思った。
無くても良かったものかもしれない、そしてそれをあなたがこんなに素敵なものに変えたんだって。
見せてくれて、ありがとう。

賢い人だと思った、天然ではあるけど物事を真っ直ぐ見据えて、決してブレない人なんだと思う。それこそ、our promiseにあった通り、自分の立ち位置を冷静に捉えて役割をこなす。
そして、どうしようもなく淡々と、しかし熱くその道を進んでいくのだ。
その道が、悲劇だろうが。

賢い、というか聡明だな、と思ったのはファンとのコーナーのやりとりだった。
もちろん独特の言葉選びではあるんだけど、
ファンからの感情を当たり前とせず、でも謙遜しすぎず、きちんと寸分狂いなく、受け取って見せた。かつ、その人が会場の人たちから「祝福されるように」祝う。
いや、これ、ほんと、めちゃくちゃすごいことだと思うんですよね。
そうして、でもしっかり、愛情を受け取ってもらって、そうしてありがとうの言葉とともに返されるファンの人たちを見て、2日ともめちゃくちゃに泣いてしまった。
愛、ってすごい。
それが、受け取られて、渡されることはなんて優しいんだろう。
きっとあそこに座った人たちは何度だって、あの場所からの景色を思い出すんだなあ。そして、その景色を作ったのはみんなだよ、って将吉さんは言うわけで、いや、もう、ねーーーーすごい。

 


愛を知る人は健やかだ。
将吉さんはたぶん、受け取ってもらう嬉しさや幸せを知っているのだと思う。だから、受け取ってくれるんだな、と思う。もちろんこれは卵が先か鶏が先かの話にはなるけど。
そうして、そんな美しく優しい空間は、紛れでもないあなたが作ったものなんだ、とひたすら拍手を、送っていた。送りながら、そんな場所に居合わせることができる幸福について、考えていた。


そして、これからきっと彼が生きていけば生きていくだけ生み出される音楽が、私はとても待ち遠しい。

夢を願い続けたらミュージシャンが最高の景色を見せてくれた

お前の愛を信じろよ、と愛情たっぷりの空間で歌うその人たちは、私に初めてロックバンドというのを教えてくれた人たちだった。

プッシュプレイで幕が開いた途端、あ、これはやばい、と初日思った。
「勝負の見えてきた現代は立ちはだかる壁も探せない」
その歌詞にずるずる引っ張られるように心が動いた。あ、これ、今日と明日全力で殴られるやつだ。

ここ数日、めちゃくちゃ好きなものに自信がなかった。
私には好きなものがたくさんあって、好きな人もたくさんいて、それを誇りに思ってるしおかげで良い人生だとも思ってる。
だけど急に「あれ、私の好きなものってなんだ?」と思った。し、「もし、私が好きだ、って言うことでなにかを損なってたらどうしよう」と思った。

なんだ?と思ってしまったのは「好きなら○○くらいするでしょ」という文脈で考えた時、好きなもののどれも、その必要要件を満たせないな、と気付いたからだ。
時間やお金や体力を、私は私の生活と、好きなものそれぞれになるたけ分け分けして使っている。好きなもののためなら、と私生活などを犠牲にできないし、かと言っていわんやその逆をや、って感じだし
例えば、お芝居観たいからEXILEさん我慢できるか、とかEXILEさんのためにお芝居観ないか、とか、その他諸々、とどのつまりは、「第一優先」を決められない。
好きなものが私の名刺だ、と言いながらふと昨日、ポルノさんの音楽を聴きながら、私の名刺には実は何も書いてないんじゃないか、と思った。

いつだって私の日常のすぐ隣にあった音楽は、当時の記憶を見事に再生してくれるし、何より思考回路に寄り添われすぎて繕う隙を与えてくれない。
n.t.を初日聴きながら、ああ私は大人になったのかもなあ、と思った。
この所謂「アラサー」と言われる歳になって「大人になれない」という話をむしろよく聞くようになった。上司の言うことを飲み込めない、とか家族、結婚のこととか。そういう話をする折々で「大人になれない、少年少女の気持ちが暴れる」なんて話を良くするんだけど、

昨日、n.t.の間、

いや私たぶん、めちゃくちゃ「物腰は柔らかく」「感情は出さずに」「目の前で起こっているさまざまな現状を冷静に噛み砕く」してないか?!と思った。
20年というポルノグラフィティの時間とそのうち何年かの私も聴いてきた今日までの時間を思って、例えばカルマの坂を聴いてたあの頃、大人を遅い、って思いながら走れてたような頃と比べたら、なんか、いや、なってしまってるやん……と愕然とした。
そして、だから手元から落ちていってしまうもののことを考えて、そうしていると「好きだって言い張りたいだけなんじゃないか」と思った。
少しも変われない、小さくなった自分をなんとか否定したくて、必死に好きでいようとしてるんじゃないか、と思った。


今年、何回か……3回か……私自身の感情でめちゃくちゃ揺さぶられることがあって、たまたまその時の話をソラちゃんに全部聞いてもらいながら「あ、私は私の私だけの感情感覚が苦手だし、それについて考えるのすげー下手だぞ!」と気付いた。
それもあって尚更思った。もしかして、私は自分のそういう苦手を隠したくて、エンタメに肩代わりさせてんじゃないの、って。だとしたらそれってなんかずるくないか、サボってるだけじゃん。そんなことを、昨日、考えながら聴いてた。

好きって言われて嫌な人なんていない、が夢物語であるということくらいはさすがにもう知ってる。
私にとって、登坂さんの影響だけじゃなく元々、伝えるということはとても大切なことで、相手が大事なら愛情表現として言葉を尽くしたいと思っていた。だからこそ、好きだ、とも伝えたいし、伝えるし、でもその上で伝え方には気を付けような、と思い続けてきた。
自分にとっては宝物を渡したつもりが、とんでもない荷物を渡したことになる可能性を忘れたくなかった。

だから、好き、の対象には最大限の敬意と感謝を、と思ってたのに、もし肩代わりさせてしまってたなら、それは酷いなあ、と思って
そして、もしかしたら傷付けたかもしれない、伝わってなかったかもしれないことにここ最近直面してしまってなんだか無性に寂しくなっていた。
自信がどんどん萎れて、何が好きだったかなあって考えながら、だとしたら、こんなの、そら、受け取ってもらえないよな、と思ったりして報われるわけないし、報われて良いわけがないんだよ。

とか、思ってたのにさあーーーー
もう、今日めちゃくちゃライブ前に一人でマクドで月見パイ食べながら駄々こねて、それでもさあそれでもさあって理屈もこねて、フォロワーさんのリプにまためそめそして好きな人たちに会って、おっしゃなんとか立ち直したぞって思ったら帰りの新幹線なくなるわですげーーー不安な中2日目のライブ始まったらさあ、

も、センターですごく幸せそうに歌ってたの、ポルノグラフィティさん。

報われなくて当たり前じゃん、と言いながら
私は私の好きが何度も報われたことを知ってた。受け取ってもらって、好きな人たちの笑顔を何度ももらっていた。
なのに不安になるのは、変わってしまうからだ。
変わった時に失くした、と思うのが嫌なのも、きっとあったのだ。だし、変わった、と言われるのが怖かった。
だけど、1日目とは違う彼らは2日目の最高を届けてくれた。1日目も凄まじかったのに、更に、とんでもない熱量で
それを、心待ちにしていたファンの目の前で。
6万人の観客たちはきっとおもいおもいの「ポルノグラフィティとの思い出」があって、その×6万がこの大きな揺れなのだ、そしてその1つに私はいるんだ、と思ったら、
もうなんか、胸張れよって思った。
何回だって、昭仁さんは言ってくれたじゃろ、って思った。

そして、n.t.がバンドverになってたんですよ、2日目
ああ、ひとりじゃないじゃん、と思った。
ひとりになんて、なってない。
ひとりで胸を張れなくても、一緒に演奏してくれる人がいる。今この瞬間じゃなくても、次の瞬間は分からない。
明日の忘れ物は、今日にあるんだから。

なんか、

ポルノグラフィティの歌詞が、毎度私の前できらきらと弾けてはその時欲しかった言葉として降ってくる。
それは今まで何遍も聞いて言葉としてではなく音としてそばにいてくれた言葉が、意味を持ってやってきてくれてるからかもしれない。
お前何回迷うんだよって泣きながらダッセーの、って呆れていたらすかさず聞こえてきた「揺れてる君でいいよ」という歌詞にビックリした。


「キミが夢を願うからミュージシャンも張り切って」
ここの、昭仁さんの言葉にああくそ、好きだ、と思ったしそれを私は胸張って良いんだ、と思った。


晴一さんが、嬉しそうに客席を見ながら演奏する表情を見てああ良いんだ、と思った。

 


しんどかったのは、ハッピーエンドになるか不安だからだ。
このままこうすることが正解か分からなくて、それが怖くて仕方なかった。今のハッピーが失くなることを考えていた。
だけど、20年音楽をやってきた彼らが、こんな日を迎えられたから今までは全部正解だった、と言ったのだ。教えてくれたのだ。
だとしたら、私にだって、いくらでも好きな正解を作れるはずなんだ。
もちろん、結局、エンド、ではない。死ぬ瞬間にしか来ない。
きっとしんどいこともある。
だけど、その時は帰っておいで、と歌ってくれるのだ。帰って、歌って踊って、泣いて笑えば良い。
これからも何回だって、ああそうだ、と思う。ああ大丈夫だ、って思う。同じ数不安になるということの裏返しだ。だけどそれは不幸なんかではない。ちっとも。
だって、ハッピーエンドの途中だ。終わらないならもういっそ、気楽にやろう。
大丈夫、私たちには最高の音楽がついている。

 

 

ドラマ きのう何食べた?

このドラマの感想を、私はまずどう書いていいか分からなかった。
淡々と進む物語だという印象は原作時点であった。
大きく感情移入しすぎることはなく、それでも何か確かな肌触りで物語が通り過ぎていく。
それは、ある意味で描かれる軸が「美味しい料理」にあるからかもしれない。
しかもその料理たちは何か特別なもので作れらたものじゃなく
むしろシロさんが目を光らせ買ったお特品たちで作られたお手軽料理たちだからこそ、だ。


シロさんとケンジはゲイである。
ふたり暮らしながら色んな食事をし、色んな人と話す。
それは私たちの日常と同じように淡々と過ぎる。


私が特に印象的だと最初に思ったのは一話目、ケンジが泣いたシーンだ。

「なんで、俺は一緒に住んでる大好きな人の話をしたらいけないの」


内野さんによる繊細で色鮮やかなお芝居は見ている私たちの胸を深く深く突き刺した。
(と同時に、いやでも異性のパートナーだったとしても夜の生活について話されたら怒ると思うぞとツッコミつつ)
ケンジの愛おしさとケンジからシロさんへの愛情。
それをワンシーンで見せた大好きなシーン。

その上、だ。
特に分かりやすく感動的な台詞なんて一切こないのだ。

シロさんは一切、このケンジを慰めるでもなく更に喧嘩を悪化させるでもなく、
少しなんなら逃げるくらいの感じでご飯を作り出してしまう。
ケンジもそれを誤魔化した!となじりつつ、なんだかんだ一緒にご飯を食べ始めるのだ。

この空気感。

話は変わるけど、先日友人たちと話をした際「喧嘩をしたことがない」という話になった。
びっくりした。
私は、自分の学生時代の恥ずかしい話、とかだとだいたいくだらない喧嘩とかが浮かぶ。
あの時あんな怒り方したの幼かったな、とか。
逆にこいつと何で一緒にいるんだろうなって思う相手とは「ああそうか、あんときちゃんと喧嘩したからだな」って思うことがあるくらい、今まで喧嘩って身近な事象だったんだけど。
喧嘩をしない、したことがない人もいるのだ。
でも、たしかによくよく考えれば大人になって、自然と喧嘩は減る。
(私は本当に恥ずかしながらゼロにできずにいるけど)(まあ受け止めてくれる相手がいる幸せだと感謝するようにしてる)

などなどと考えると、このシロさんとケンジのやりとりはとんでもなくリアルなのだ。


また、一話でいくと触れずにいられないのがラスト(おそらくはアドリブの)ハーゲンダッツを食べながらのひょんなことから、の会話だろう。
きっと次の日になれば忘れてしまいそうなやりとりを彼らは心底楽しそうにするのだ。
だけどなるほど確かに、そんな「忘れてしまいそうな会話」で私たちの毎日はできている。

そして、そう考えるときのう何食べた?の中で描かれる食事の多くは(ふたりの思い出の料理であるクリスマスディナーなど例外はあるが)
そうした「忘れてしまいそうな食事」なのである。


そんな何でもない日常を殊更に愛おしく描くでもなく、かといって素っ気なくもなく描いていく。
一つには、西島さん内野さんをはじめとする役者さんたちの「生きている人間の温度」がドラマの奥行を生んだんだと思う。
聞いているだけ、見ているだけでも楽しいころころと変わる表情やテンポ。
そのイキイキとした表現が30分の優しい時間を生み出した。
(漫画版を思い返しても、また違った優しさ、生きている感じがある)(よしながさんの描く線の美しさったら!)(そういう意味で、それぞれのメディアだからこそ、の表現を楽しめるという意味でも贅沢で幸せな作品だった)

そんな生きている人たちが、明日には忘れてしまいそうな、だけどだからかけがえのない日常を生きる。
その中に時々何とも言えない苦みを見せながら。


シロさんは、わりと「しょーのない人」だったりする。
これは、シロさん目線で物語が描かれることが多いからこそ尚感じるんだと思うけど
「いやもうお前!」と何度叫んだか分からない。
自意識過剰で、見栄っ張りで、素直じゃない。
そんなシロさんにちょっと顔をしかめつつ、応援しつつみていた。
その中でも過剰にケンジが「良い人」と描かれない優しさにほっとしながら、彼らの日常を見守る。

シロさんが、ケンジについて佳代子さんと話すシーンで大好きだったのは、

もし俺と別れた時、泣いて過ごすのはケンジだ、とした上で、でも本当に困るのは自分だ、というシーン。
ケンジは情が深いからまた新しい誰かを探せるし見つけられる、それにひきかえ、自分が今から付き合ってずっと過ごしたいと思える相手を探すのは難しいし面倒、と話すシロさん。

だからこそ、なんとか「一緒にいる努力」がいるのだ、と話すシーン。
ゲイだから結婚という契約も子どもも(少なくとも現行の法律では)(厳密にいえば、養子縁組という手段はあるけど)ともあれ、そういう相手を繋ぎとめておく手段が少ないからこそ必要だ、って話すシーンだけど
そんなの、きっとゲイだとかいやそもそも恋人同士だとか関係なく、人と人が一緒にいる以上必要なことで、した方がいい努力だ。
した方がいい、っていうのはなんとなくしっくりこない。

そうして一緒にいたい、と思える相手がいることを私は幸せと呼ぶんだと思う。

最終回、シロさんの家に行ったケンジは両親の誤解を解くことなく、そんなことはどうでもいい、まさか自分が好きな人の両親に挨拶して、一緒にご飯を食べられる日がくるなんて思わなかった、と泣く。いっそ今、死んでもいいと。
それに、死ぬなんて言うな、と返すシロさんが好きだった。生きるんだよ、と口にしてだから油に気を付けて、運動もして、そうして一緒に生きていこう、と。


こんな優しい話があるだろうか。


それから、髪を切ってバックハグするときも、カフェにもういいかな、と一緒に行くときも。
きっと彼らは生きてきて、そしてこれからも一緒にいるための努力をしながら一緒に生きていくのだ。
それが、とても優しく、その三十分は毎週の私の大切な時間だった。
ささくれだたなくても、無理に優しくならなくてもいいのだ、というのは、なんともあたたかな話じゃないか。


この感想を書くのが難しかったのは明日には忘れてしまうくらいささやかな毎日の話だったからである。そしてそのささやかさが、私にとってたまらなく大切だったからこそ、どう書いていいか分からなくても私はこの感想を書きたかったのだ。

魍魎の匣


※原作未読、一度のみの観劇の記憶のまま書いてます。曖昧な部分やフィーリングが多いかと思いますが、ご了承ください。

一度は、興味を持ったのに忙しさに読み切れず見送った京極堂の世界にまさかこのタイミング、この形で触れることになると思わなかった。
読み切れなかったのに、京極堂は気になる存在だった。たまたま、本屋で見かけた戯曲の落語、死神(あれはどういうコンセプトの本だったんだろう、忘れてしまった、惜しいことしたな、今もっかい読みたい)のお話がたぶん、とても好きだったからだと思う。
たぶん、戯曲だったのだ。だから、どれどれ、と思ってページをめくり、気が付けば引き込まれていた。印刷されただけのはずの文字は、音になりぐるぐると自分の周りを取り囲んでいるようだった。ぞっとするのに、心地いい。
ふと、そのことを観ている間思い出した。
そして今まだ、私はまだあの匣の中にいるのかもしれない。

 

関口くんと、久保くんの話をしよう。
冒頭の彼らのやりとり。
これは、彼ら二人に限ったことではないけど、出てくるひとたちが……それはかなこちゃんたちを含めて……強烈な個性がある。これは別に、何か奇想天外ななにかを持ってるというわけではなくて、持っている人もいるけど、というよりかは、凛とした存在感や人間臭さがダイレクトに漂ってくるようなシーン構成と、キャラクターだった。
(そういう意味で雨宮は没、という個性をある意味で持ってたのかもしれないし、それが更に後々効いてくるのだから痺れる、すき)

ところで、関口くんが好きである。
何故か猛烈に惹かれている。
彼は、ある意味で、京極堂さんでもエノさんでも木場さんでもなり得なかった人だ。ある意味で「ただの人」だった人で、それは久保くんとのシーンで痛切に感じた。
や、ほんと、あんな、あああああやめたげてーーーーってなるシーンあります……?
残酷さと嫌味ったらしさがすごい。
しかもあれ、原作だと更に色々言うそうですね?やめたげて、関口くんのライフはもう0よ。
しかも、姑獲鳥の夏で色々あったから情緒不安定だった頃が魍魎の匣、という感想を読みまして、あの

やめたげて…!!!!!


対する久保は圧倒的な文筆家としての才能があり、その自覚も自負もあり、それを見る関口くんの目たるや、なかなかに心に迫るものがあった。
関口くんはきっと、天才ではないんだろう。とびきりどうのということもなく、ただただ文を書く人なんだろう。
だけど良いじゃん…と私的な思い入れをつい持ってしまって思う。自分のために文を書く人間だから尚更、それでも仕事として求められてる文をどんな形であれ書いているわけで、関口くんだって、関口くんだってなあ……と、関口くんについて、ほぼほぼ知らないのに、勝手に熱くなっていた。


と、いうのに。
そんな、関口くんから見れば非凡な才覚の持ち主であり、「満ち足りている」彼がしてきたこと、彼の生い立ち。そして、匣に魅入られたこと。


なんか、胃の中のものがひっくり返るような痛さがあった。
久保くんが回想の中でお父さんに叫ぶ、そんな奴を慰めるなら!という台詞が蘇る。口の中が苦い。
幸せを比較することはできない、持ち物を比較することはできない、定規が違う。
だけど、それでも、関口くんの痛みを思ってしまう。自分が焦がれるような才覚を持った人間がどうしようもなく「渇いて」「飢えて」「足りない」としたら。
その時浮かぶのは、絶望だろうか、怒りだろうか、悲しみだろうか。
いずれにせよ、きっとその時生まれたひどく暴力的でどうしようもない感情がもしかしたら、「おはこさま」(漢字がでない)を生み出した久保の感情の形かもしれなかった。

ところで、さ。私は関口くんの、あのお母さんの家に行った時、はあーって最後、念を送る様子が好きだった。
彼はどうしようもなく平凡で善良でなんでもない人間で、だから好きだなあと思った。
関口くん……

 


そして、そう思うと雨宮のことがしんしんと悲しくなるのだ。更に。悲しくて、そのくせ、どこかで良かった、と思ってしまう。
なるほど確かに、人が幸せになるのは簡単で、人を止めることなんだろうと思う。
人をやめた彼のようにただ彼の中に存在するかなこちゃんと一緒にいること。
誰と比べるでもなく、驕るでもなく。
いや本当に、あのラストの演出は素晴らしかったなあ。

 


めちゃくちゃ物語に浸ったんだけど、それもこれも全て、もとの物語の圧倒的な力はもちろん、それを演劇としてこれでもか!ってくらい堪能させてくれる土壌があったからだな、嬉しいな、幸せだな、と思う。
舞台上に現れた匣、匣、匣。
くるくる回る椅子、背中あわせ。
背景の舞台美術、開く窓、映し出される文字。
いつのまにか現れてるセット、まるで「生きてるみたいに」
匣の中で、演じられていること。


いやもう……すごくない……?
演劇という力をフルで使い切って、昇華してぶつけてきましたね……?
あの物量のある物語を2時間に納めたのも納得の凄技だった。


そして、そしてですよ。
私は「生の演劇」という生身の人間がリアルタイムで演じる表現でこの話をした一番の強みだ、と思ったのが


橘ケンチさん……


いやもう、天才かと
天才なのではないかと。キャスティングした人、美味しいハムなどをお中元でもらってほしい。

 


京極堂、というキャラクターへの勝手な先入観からもっと陰鬱とした人嫌いをイメージしていた。
もちろん、それは全く見当違いなわけでもないんだろうな、、と台詞の端々から感じる。
感じるけど、観る前と観た後の印象が一番変わったのは彼だ。
京極堂、という名前をぼんやり認識していた存在が「中禅寺秋彦」という人間として、目の前に現れた。


(感傷的になるのは私の悪い癖なので、かなり思い込みなどは、あるかもしれない)


だけど美馬坂とのあの言い合いのシーンを観ながら、この人は人を諦めない、言葉と生きる人なのだな、としみじみと考えた。なるほど、だから古本屋をしているのだろうか、と思ったりもした。
憑き物が落ちなくなってしまった、というシーンの声の温度を覚えている。
そして、彼が彼だからこそかけられた呪いを考えて、そして、橘ケンチというパフォーマーがこの役を演じた奇跡に震えてしまう。


EXILEさんのパフォーマンスは本当に、命全部を燃やすみたいだ、と思うことが何度かある。
その人が、中禅寺秋彦を、しかも「生で」演じること。それは、それだけでなんて美しい物語だろう。
ともすれば、人が嫌になる、人をやめたくなる、どうしようもない、とがらんどうな気持ちになる中で、彼の静かで熱い台詞運びと気迫は、とてもとても良かった。
本当に。


あの台詞の応酬、本だとどんな印象を受けるんだろうな、と思った。京極堂さんの本だから、きつと凄まじい量とエネルギーが、そのページにはあるんだろう、きっと。


それが


演劇、というメディアにのっかって、人が演じ、形にして立体化する中で、ああした形、空気、音になったのは、とんでもなく好きだった。
たぶん、それもあって私は匣の中から帰ってきていない。

 


そして、だから余計にその中禅寺秋彦が、静かに言った「幸せになるのは簡単だよ」という言葉が、耳の奥から離れないのだ。
もしも、「幸せになりたい」と思ってしまった時、と考える。その時、あの「ほう」という声を思い出してしまいそうで、私はなんとも背筋が寒くなる。

トリコロールスター

近頃、クエストさんを観ていると不思議な感覚になる。
物語の深く深くに沈んでいって、最終的に自分とにらめっこするみたいなそんな感覚だ。
うまく言えないけど、私は何となくその感覚ってどうなのかな、と思っていた。

お芝居が好きなつもりだ。
だから、なんか、それは違う、と思った。少なくとも私にとっての話だけど自分のことや演じ手(役者さん、というよりも、そして、というだけでなく、その背景とかへの)…私がやる場合は…邪推みたいな感情移入が何とも妙に、言葉を選ばずにいえば、気持ち悪かった。自分で自分のそういうのが、嫌だった。

だから案の定、トリコロールスターを観て一日どっぷりお芝居に浸って幸せで幸せで仕方なくて、ぐるぐる自身の中の感覚に浸っていたら、やっぱりその自己嫌悪と向き合うことになった。なんかが違う。
その違和感で、見終わって数日、うまく感想が文となって整わないまま、今日を迎えたわけだけど、四天王をDVDで観たらなんとなく言語化まで漕ぎ着けそうなので、書こうと思う。しばらくしたら忘れてしまいそうな些細な感覚だから、尚更に。

 


トリコロールスター
鬼せつない、明日への活力、問題演劇。
驚異の3本立てのお芝居の話をしようと思う。

 


ベニクラゲマン、金と銀の鬼がラインナップに入ってるのを観た時の心臓の跳ねっぷりったらなかった。
ベニクラゲマンは、わりと本当にどん底の時にミハルの人魚と一緒にずっと観ていたお芝居だし、金と銀の鬼は何と言っても初めて生で観たクエストさんの作品だ。
思い入れがすごい。いや、クエストさんの作品で思い入れのない作品なんて、幸いなことに、ないのだけど。


ベニクラゲマン、ほんと、一番しんどかったのが「ああじゃあもう死んじゃおう、寝てる間に死ねますように」(一度しか観てない上に、その台詞の時に心ん中がざわざわして、どうしようもなかったので台詞に自信がないです)ってところで
覚えてられない彼のことを苦しくなった完結編だった。ケイのことも、ピノキオのことも、覚えてないんだなあって思うと悲しくて、何より、それを持たないベニクラゲマンにそわそわしてしまった。

 

 

プリウスだとか、そういうメタな要素が入ったせいもあるけど、一時期たくさん見た「死ぬなら一人で死ねよ」って言葉も思い出して、ものすごく悲しいというかどうしようもない気持ちになって、今も打ってると、うううう、って心臓のあたりが痛くて仕方ないんだけど、
だから、老齢フォルムが俺がもらうよ、引き受けるよ、と言うのにも、覚えてないベニクラゲマンがそれでもケイだけは助けようとするのにも、なんか、スコン、と晴れ間を見たような気がした。
ブラックベニクラゲマンやリュウグウツノカイマンたちのお母さん!って叫びとかにも、なんか、あーそっかあ、とワケもわからず、に近い感覚で泣いてしまった。

 


ベニクラゲマンって、たぶん、めちゃくちゃコメディに見えるし、ギャグっぽいというか、なんだろう、うまい言葉が見つからないんだけど、すごく、あっけらかんとしているんですよね、私の中で。描かれるテーマや主人公たちが抱えてるものって実はわりと重たいのに。重たくて、どうしようもなかったりするのに。
だけど、あのフォルムのベニクラゲマンがもう迷わない!って戦ってくれるから、なら、もう、大丈夫だ、なんて、根拠のないことを毎度思ってしまう。分からないのに。言語化できない感情そのままに、なんか、根っこの部分が、スッキリする。

 


どだい、生きてる限り、生きていくしかなかったんだな、と思う。生きていくために、忘れても許したり憎み続けたりしながら、いずれにせよ、たぶん、生きていくしかない。

 

 

 

 

そして、金と銀の鬼ですよ……。


シロガネのあの、コンジキを連れて行くシーンからずっと、ほんと、顔ぎゅってしながら見てた。というか、トリコロールスター、たぶんほんとに表情筋の運動かな?みたいな顔で見てた気がする。変な顔しててすいません。
金と銀の鬼、大好きなんですが、あのコンジキとシロガネの互いの寂しいの共鳴とか、その上での互いの意味とか、本当に、心が苦しくなるくらい考えて感じて大好きなわけですが、

 

 

シロガネーー!!!!!!
おま、おまえ、シロガネーー!!!!!!!
シロガネーー!!!!!!

 

 

 

もう、ほんと、人形と一緒にコンジキ傷付けたら許さんからな、と心の中でめちゃくちゃ思った。
あとトリコロールスター、鬼の怖さとか倍増してましたね。いろんなシーンを濃縮する中、あえて、村をああして蹂躙するシーンをそれぞれ入れたのがグッとくる。あと、人を殺すとこのクロガネさん顔が怖くてびっくりしました。表情も動作も冷酷すぎてもう。あれは鬼ですね……そしてその鬼にあれはもう人ではない、鬼より恐ろしい、と言われる助佐よ……。
人形も助佐も、増えたシーンで心を寄り添わせてしまって、どちらも心臓がやっぱりぎゅっとした。

 

 

助佐のいらねえよおー!!ってぐるん!って桃太郎たちの顔を覗き込むシーン、怖くて可笑しいから尚怖くてですね…。
あのシーンほんとに…竹内さんの空気ぐるんってするのが……刺さり方がエゲツない。
助佐と緑丸のシーン、もっともっと見たかったなぁって思うくらい、ふたりが揃ってるシーンの空気の、確固たる感じが凄まじくてですね。
語られた言葉は少ないのに、表情が、伝えてくる。
というか、やっぱり、緑丸と一緒にいる時の助佐の柔らかさを思えば思うほどに……語りのシーンの度に思うけど、助佐って別にバカな人でもなくてむしろ理知的な人なんですよね、その人がああして緑丸と無邪気でいたことについて考えて泣いてしまう……迎えが……なかったのが……
なかった、よね?どうですか、ありましたか、むしろあってくれ、なかったように思ってる私の勘違いであってくれ、私は助佐の緑丸……ごめん、が悲しくて悲しくて仕方ないんだ。

 


金と銀の鬼は特に、誰かと一緒にいること、の物語なんだな、と感想を書きながら思う。

 


緑丸と助佐みたいに、コンジキとシロガネみたいに、最高のライム兄弟たちみたいに。
誰かと一緒にいたい、と願って一緒にいる時間を楽しい時間だ、って呼ぶ彼らの話なんだな、と思う。
そして、そう思うと、見ていることしかできなかった人形や動物たちの言葉が分からなくなる桃太郎に、なんとも言えない気持ちになってしまうのだけど。

 

 

 

コンジキの心を勝手に慮って、頼むから、連れて行ったその時言った通り、絶望に叩き落とすようなことは、この無邪気に笑っていた彼を傷付けるようなことは最後の最後、してくれるな、と願って願って、もう半ば祈るように思ってたんだけど

 

そりゃ、そうだよなあ、と最後、殺陣の途中くらいから、思っていた。

 

シロガネの、あのシーンが入ろうがひとりが寂しく、兄とコンジキを慕って生きた彼の魂が変わるわけではないんだよなあ。
そしてそれを、コンジキは全部分かってたんだなあ、と思って、さらに泣いてしまう。
これで良かったといい、弟と村を襲っていた頃を一番楽しい時という、コンジキを想うと、途方に暮れながらそれでも必死に取れてしまったツノを戻そうとする小さな背中が蘇る。

 

 

少し話は逸れるけど、今回「ツーノ!」を聞くたびに、to know、で聞こえていて(もともとどのバージョンでもあった掛詞だと思うけど、わたしには今回が一番刺さるto knowだった)(クエストさん楽しい、と思うのは見るその時の状況、私自身でも全然気になる部分が万華鏡みたいに変わることだ。楽しい、世界は広い)知ること、知るため、とtoの使い方についての中学の英語の授業を思い出していた。知る為のツノ。だとしたら、誰が何を知る為の、だったんだろう。その答えはそれぞれに、優しいと思う。

 

 

 

そして、白である。
なにもない空間の男、である。
自分自身でも、既に観た友人からも、これを見たら大変なことになるのでは、と思っていた作品だった。

 


なにもない空間には、全てがある。

 


観終わって、こんな優しいキャッチコピーがあるだろうか、と思う。


お芝居を作る劇作家の男が語る、物語たち。そしてそこに入る、彼自身の話。
リング舞台でお芝居のワンシーンが生まれ、消えていく。彼の語る、お芝居の話。
あんな贅沢な時間、ほんとに……。
幸せだった、あまりに。
もうまず、大好きな役者さんの喋りを、綺麗な台詞運びをあんなに堪能するというのが最高に幸せで、この時間がずっと続いてくれ、と思わず思ったんだけど、なによりも

 


あの、お芝居が目の前で繰り広げられるのを見る淳さんの表情が、大好きだったんですよ。
お芝居の話をする表情とか、声の穏やかさとか、本当に。
あーお芝居が、好きなんだなあ大切なんだなあ嬉しいなあ、と思ってたらほぼほぼ泣く形になった。

 


例えばプロジェクションマッピングと.5舞台の話なんかも出てきたけど、
あれって別にプロジェクションマッピングや.5舞台が、って話ではないじゃないですか。


お芝居の好きなところなんですけど、私は海だ!って言えば、海が広がる、みたいなお芝居の懐の広さなんですよ。
(話は変わるけど、ちょうど昨日劇シナを観てたら、劇シナにもそんな話がありましたね、好みではあるよね、私はそういう、海だ!って台詞で世界を広げる想像力フルで使うお芝居がより好きです、という話です)


ただ、それをせず、プロジェクションマッピングで説明!だけなら勿体ないなあ、とはたしかに思ってしまう。大好きなんだけどね、プロジェクションマッピング!!お芝居でもイベントでもはしゃぐんだけどね!


だけど、お芝居だから、の何かが欲しくて、.5もただ舞台にあげた、じゃなくて、だから舞台化したのか!と膝を打ちたくなるというか……実際、そういう.5舞台もたくさんある……なんか、そういうことを考えてることがあって、そういう意味で、私はあの台詞たちにそうだなあ、と思った。色んな捉え方があって、あの台詞たちについて話すのも楽しかったなあ。


ともかく、役者がひとりいると、それだけで舞台が生まれることがあるという
そんな、演劇の話の舞台のキャッチコピーが、なにもない空間にはすべてがある、なのは、とてもとてもとても、優しい。あたたかい。

 

 


語られる彼の半生は、苦しかった。
土田さんの穏やかな声で紡がれたとおり、明確な暴力ではなく、その穏やかでしかし間違いなく虐待だったその日々を思う。
識字障害についての、違和感として描かれるシーン。占いや、店の予約。誓約書を読むこと。
あのシーン、彼の表情は空白、だった。嫌悪でもなく、隠したいという気持ちでもなく、空白。存在しない。
表情豊かに芝居について語り、嬉しそうに見ていた彼と同一人物とは思えないほどに。

 


もしも、彼が
お芝居のことを、その生い立ちから憎んだらどうしようと過ぎった。
高田淳という、本人名でのお芝居だったから尚更、そんな描写があったら、ちょっと、かなり、辛いな、と思った。
でも、と同時にそんなことにはならないだろうな、という気持ちもどこかにあった。
それは別に淳さんが演じているから、なんていうファンの勝手な妄想でも贔屓目でもなく、思い入れでもなく、ただただ、舞台上にいる高田淳(役の方)が楽しそうだったからだ。

 


識字障害を指摘された時の、彼の台詞が焼き付いてる。
シェイクスピアをはじめとする彼の中で生きている、彼を生かした物語たち。
演劇、お芝居という、そのもの。

 


それを、才能だと、魔法だと言った、あの光景の光が本当に綺麗だった。
嬉しかった。
私もそう思ってきた。そう思って、何回も幸せだ、と思ってきた。生きてて良かった、と泣いたことだってあった。

 


そうして踊られた、伸びやかで朗らかなダンス。
劇中言われていたとおり、言葉にならないものを伝えてくれるパフォーマンスが、私も大好きだ。
隣で見ていた友人が後半、つくの気持ちがくしゃくしゃになっていくのが横で見てても気配で分かったよ、と言われたんだけど(友人のは好意的だったけど、迷惑かけてないといいな、声とかは出してないと思う……たぶん……気配はうるさかったと思う…ごめんなさい……)
ほんとに、あんなくしゃくしゃに心がされると思わなかった。
そしてそれを、あんな優しい言葉で包んでくれた、あれはきっと、奇跡だったように思う。

 

 


エストさんの物語はわかりやすくない。
なんとなく、見え方が見た人でも少しずつ変わるように思う。もちろん、それはクエストさんの作品に限らず、どんな物語でもそうなんだけど、クエストさんは特に非言語表現が多いことや明文化されない物語の傾向からより、そう思う。
だからこそ、観客である私たちは、自分たちの経験にもとづき、自分の中にある言葉に照らし合わせ、物語を紐解いていく。自分の中に、息づかせていく。
そう思うと、私がここ最近、見れば見るほどに、自分とにらめっこしていたのはそりゃそうか、と腑に落ちる。

 


私は、だけど


よく、気持ちも嘘をつくし考えることを放棄したがるし、それっぽい、で終わらせることもある。
だけど、クエストさんのお芝居を観てる時は幾分か、心が素直に動くように思う。それに、それが、嬉しい。

 

 

音を聞き、色を見て、光に目を細め、風を感じていく中で自分の中の言葉を探していく。

 

 

そもそも、神芝居でウサギさんも言っていた。言葉にすれば、主観が入る。そりゃそうだ。ならば、にらめっこ上等、自分の中に落とし込んで、これからも共に、このお芝居たちが在って欲しいと思う。

 


だってそれは、とんでもなく、優しいことのように思えるのだ。