えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

夢を願い続けたらミュージシャンが最高の景色を見せてくれた

お前の愛を信じろよ、と愛情たっぷりの空間で歌うその人たちは、私に初めてロックバンドというのを教えてくれた人たちだった。

プッシュプレイで幕が開いた途端、あ、これはやばい、と初日思った。
「勝負の見えてきた現代は立ちはだかる壁も探せない」
その歌詞にずるずる引っ張られるように心が動いた。あ、これ、今日と明日全力で殴られるやつだ。

ここ数日、めちゃくちゃ好きなものに自信がなかった。
私には好きなものがたくさんあって、好きな人もたくさんいて、それを誇りに思ってるしおかげで良い人生だとも思ってる。
だけど急に「あれ、私の好きなものってなんだ?」と思った。し、「もし、私が好きだ、って言うことでなにかを損なってたらどうしよう」と思った。

なんだ?と思ってしまったのは「好きなら○○くらいするでしょ」という文脈で考えた時、好きなもののどれも、その必要要件を満たせないな、と気付いたからだ。
時間やお金や体力を、私は私の生活と、好きなものそれぞれになるたけ分け分けして使っている。好きなもののためなら、と私生活などを犠牲にできないし、かと言っていわんやその逆をや、って感じだし
例えば、お芝居観たいからEXILEさん我慢できるか、とかEXILEさんのためにお芝居観ないか、とか、その他諸々、とどのつまりは、「第一優先」を決められない。
好きなものが私の名刺だ、と言いながらふと昨日、ポルノさんの音楽を聴きながら、私の名刺には実は何も書いてないんじゃないか、と思った。

いつだって私の日常のすぐ隣にあった音楽は、当時の記憶を見事に再生してくれるし、何より思考回路に寄り添われすぎて繕う隙を与えてくれない。
n.t.を初日聴きながら、ああ私は大人になったのかもなあ、と思った。
この所謂「アラサー」と言われる歳になって「大人になれない」という話をむしろよく聞くようになった。上司の言うことを飲み込めない、とか家族、結婚のこととか。そういう話をする折々で「大人になれない、少年少女の気持ちが暴れる」なんて話を良くするんだけど、

昨日、n.t.の間、

いや私たぶん、めちゃくちゃ「物腰は柔らかく」「感情は出さずに」「目の前で起こっているさまざまな現状を冷静に噛み砕く」してないか?!と思った。
20年というポルノグラフィティの時間とそのうち何年かの私も聴いてきた今日までの時間を思って、例えばカルマの坂を聴いてたあの頃、大人を遅い、って思いながら走れてたような頃と比べたら、なんか、いや、なってしまってるやん……と愕然とした。
そして、だから手元から落ちていってしまうもののことを考えて、そうしていると「好きだって言い張りたいだけなんじゃないか」と思った。
少しも変われない、小さくなった自分をなんとか否定したくて、必死に好きでいようとしてるんじゃないか、と思った。


今年、何回か……3回か……私自身の感情でめちゃくちゃ揺さぶられることがあって、たまたまその時の話をソラちゃんに全部聞いてもらいながら「あ、私は私の私だけの感情感覚が苦手だし、それについて考えるのすげー下手だぞ!」と気付いた。
それもあって尚更思った。もしかして、私は自分のそういう苦手を隠したくて、エンタメに肩代わりさせてんじゃないの、って。だとしたらそれってなんかずるくないか、サボってるだけじゃん。そんなことを、昨日、考えながら聴いてた。

好きって言われて嫌な人なんていない、が夢物語であるということくらいはさすがにもう知ってる。
私にとって、登坂さんの影響だけじゃなく元々、伝えるということはとても大切なことで、相手が大事なら愛情表現として言葉を尽くしたいと思っていた。だからこそ、好きだ、とも伝えたいし、伝えるし、でもその上で伝え方には気を付けような、と思い続けてきた。
自分にとっては宝物を渡したつもりが、とんでもない荷物を渡したことになる可能性を忘れたくなかった。

だから、好き、の対象には最大限の敬意と感謝を、と思ってたのに、もし肩代わりさせてしまってたなら、それは酷いなあ、と思って
そして、もしかしたら傷付けたかもしれない、伝わってなかったかもしれないことにここ最近直面してしまってなんだか無性に寂しくなっていた。
自信がどんどん萎れて、何が好きだったかなあって考えながら、だとしたら、こんなの、そら、受け取ってもらえないよな、と思ったりして報われるわけないし、報われて良いわけがないんだよ。

とか、思ってたのにさあーーーー
もう、今日めちゃくちゃライブ前に一人でマクドで月見パイ食べながら駄々こねて、それでもさあそれでもさあって理屈もこねて、フォロワーさんのリプにまためそめそして好きな人たちに会って、おっしゃなんとか立ち直したぞって思ったら帰りの新幹線なくなるわですげーーー不安な中2日目のライブ始まったらさあ、

も、センターですごく幸せそうに歌ってたの、ポルノグラフィティさん。

報われなくて当たり前じゃん、と言いながら
私は私の好きが何度も報われたことを知ってた。受け取ってもらって、好きな人たちの笑顔を何度ももらっていた。
なのに不安になるのは、変わってしまうからだ。
変わった時に失くした、と思うのが嫌なのも、きっとあったのだ。だし、変わった、と言われるのが怖かった。
だけど、1日目とは違う彼らは2日目の最高を届けてくれた。1日目も凄まじかったのに、更に、とんでもない熱量で
それを、心待ちにしていたファンの目の前で。
6万人の観客たちはきっとおもいおもいの「ポルノグラフィティとの思い出」があって、その×6万がこの大きな揺れなのだ、そしてその1つに私はいるんだ、と思ったら、
もうなんか、胸張れよって思った。
何回だって、昭仁さんは言ってくれたじゃろ、って思った。

そして、n.t.がバンドverになってたんですよ、2日目
ああ、ひとりじゃないじゃん、と思った。
ひとりになんて、なってない。
ひとりで胸を張れなくても、一緒に演奏してくれる人がいる。今この瞬間じゃなくても、次の瞬間は分からない。
明日の忘れ物は、今日にあるんだから。

なんか、

ポルノグラフィティの歌詞が、毎度私の前できらきらと弾けてはその時欲しかった言葉として降ってくる。
それは今まで何遍も聞いて言葉としてではなく音としてそばにいてくれた言葉が、意味を持ってやってきてくれてるからかもしれない。
お前何回迷うんだよって泣きながらダッセーの、って呆れていたらすかさず聞こえてきた「揺れてる君でいいよ」という歌詞にビックリした。


「キミが夢を願うからミュージシャンも張り切って」
ここの、昭仁さんの言葉にああくそ、好きだ、と思ったしそれを私は胸張って良いんだ、と思った。


晴一さんが、嬉しそうに客席を見ながら演奏する表情を見てああ良いんだ、と思った。

 


しんどかったのは、ハッピーエンドになるか不安だからだ。
このままこうすることが正解か分からなくて、それが怖くて仕方なかった。今のハッピーが失くなることを考えていた。
だけど、20年音楽をやってきた彼らが、こんな日を迎えられたから今までは全部正解だった、と言ったのだ。教えてくれたのだ。
だとしたら、私にだって、いくらでも好きな正解を作れるはずなんだ。
もちろん、結局、エンド、ではない。死ぬ瞬間にしか来ない。
きっとしんどいこともある。
だけど、その時は帰っておいで、と歌ってくれるのだ。帰って、歌って踊って、泣いて笑えば良い。
これからも何回だって、ああそうだ、と思う。ああ大丈夫だ、って思う。同じ数不安になるということの裏返しだ。だけどそれは不幸なんかではない。ちっとも。
だって、ハッピーエンドの途中だ。終わらないならもういっそ、気楽にやろう。
大丈夫、私たちには最高の音楽がついている。