好きな人々が、好きな作品を映画化する。
それは本当にすごいことなんだけどたぶん私が嬉しいのはそういうことじゃないんだよな。
マイブロークンマリコ。
ある日Twitterで読み、単行本が出ると聞いて迷いに迷いやっぱり三軒はしごして買ったコミック。
その、大好きで大切な物語とまたもう一度、違う形で出会えたことをずっと反芻している。
ある日、親友が死んでしまった。しかもただ死んでしまったのではなく、自分に一切連絡も寄越さず、自分の手で自分の人生を終わらせてしまった。
この物語は、ある日勝手にいなくなったマリコの遺骨を連れて、シイノが最初で最後の旅に出る物語である。
ところで、これはどこまでもシイノの物語だ。
パンフレットなどでも言及されていたとおり中心にはマリコがいるのに、それでもどこまでもシイノの物語で、マリコの物語にはなり得ない。
不在はずっと不在のまま、勝手に物語の一部にしてしまいながら、シイノの物語がただただ、続く。
シイノが、それを望む望まぬに関わらず、だ。
映画で生身の同じ次元のひとが演じる繰り返し見返した物語に触れて、ふと思った。
居なくなってしまった、いや、「死んでしまった」人にマイナスの感情を持つことは難しい。
恨んだり、憎んだり、うんざりしたり、もっと言うなら「うざいな」「面倒だな」と思うことはきっと、相手が生きていてくれないとできないんじゃないか。ある日生まれた不在はそのまま、その人を美化する。物語にどんどん変えていく。嫌なのに。
あなたのことが大切だったというのは事実だとして、それが一点の曇りない感情だと呼ぶのは、さすがに、別物になっちゃってるでしょうよ、と苦々しい気持ちになった時のことを思い出した。
弔いも後悔も、全部が生きた人間のためだけに存在してしまう理不尽さが、美化されてどんどん零れ落ちていくその人の輪郭が、そのまま映画の中にあるものだから驚いたな。
死んでしまった理由の解明でも、残された言葉を探す旅でもない、ただただうんざりするような長い長い一生つけることもできない折り合いを身体の中に入れて深く深く息を吐く、その苦く苦しい時間を私はこの物語で見た気がする。でもそれが悲劇でもなく、かといって希望なんてものも見せずに。
生きることも死ぬこともどちらも平等にみっともなく惨めで汚くて、柔らかい。
私は原作の平庫ワカさんの絵が大好きなんですが、その絵の感覚と生身の好きな役者さんたちの表現をどちらも今、噛み締めることができる贅沢について、ずっと考えてる。
大好きなマリコのお父さんの再婚相手のおばさんを演じた吉田羊さんのお芝居を観た時もなんだか無性に泣きたくなった。
人間のあのなんでもない感じが画面のあちこちに滲んでいて、だというのに美化も劣化も苛烈な脚色もなく、ただただ、そこにいることが、そこにいて普段飲み込んで蓋をしたものをそのままにストレートに出すことが、私はずっと、好きだったな。
マリコのことを面倒だとも思ったこと。
誰かがいれば死なないなんてことないんだということ。「この人がいてくれれば生きていける」なんてないんだ。そんな感情はあったとして、そんな事実はたぶん、どこにも存在しないのだ。
「死んでちゃ分からないだろ!」と叫んだ、永野芽郁さんの言葉が、歯ブラシを差し出した窪田正孝さんの言葉が、ずっと頭から離れない。
それから、奈緒さんのそうじゃないならなんで、と尋ねる声が。そういうのが全部頭の中に反芻してて、でも映像のひとつひとつがその記憶まるごと、抱き締めてくれているような気がする。
生きてることの肯定なんて話でも、ないんだろう。
大丈夫じゃない、ズタボロのなか、やぶれかぶれのなか、それでもそうやって見えてる私たちが大丈夫に見えたらいいな。
生身の人間が作ったからこそ滲んだいい意味での生臭さは、そのままどうしても生きてしまう私たちのそばにいてくれるのだ。
ところで。
私は、自殺しないと決めている。
日頃の私の言動を知る人からすると苦笑いされるかもしれないが、ずっとや必ずはないとすぐ言う私にしては珍しくぶれず、ずっとずっと、そう決めている。
(そういやこないだ友人にどうしようもなく落ち込んだままでいることを詫びたら、「でもつくは自分で死にはしないから良いよ」と言われた。自分だけの中のルールを誰かに信じてもらえるのは嬉しい)
それは、私の中で絶対で、それを覆すとしたらともかく酒で前後不覚にするくらいの正気を失う必要があるし残念ながら酒にそこそこに弱いのでそこまで綺麗に酔えもしないと思う。だからやっぱり、私は、自殺はしないと決めている。
タナダ監督の作品はいつも、なんとか生きようと思わせてくれる。大丈夫じゃない、破れかぶれだし酷いことばっかりだ、ということは誤魔化さないのに、それでもいつも、生きようと思う。
元々、生きる気しかなかったけど、マイブロークンマリコを観て心底私はああ何とかどうにか、生きていこうと思ったのだ。