えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

TRUSH!

とんでもない一年になる、と思った。劇団6番シード25周年記念公演第1弾TRUSH!はもう、ここからの劇団6番シードはすごいぞ!と確信とワクワクをくれる最高の公演だった。

 


公式サイトから引用の公演あらすじ


「ゴミ(TRUSH)の中を突っ走れ!(RUSH)」
劇団6番シード結成25周年記念公演第一弾は、ごみに埋もれた西部の街で繰り広げられる最高にHAPPYなダンス☆ダンス☆カーニバル!
陽気な未亡人達が、駆け落ちした令嬢と庭師が、伝説のガンマンが、荒野のならず者が、トロッコが走るウエスタンワールドで踊る!踊る!踊る!

 

 


もう、なんか、怒涛の展開なのだ。これが。
最初のオープニングアクトで、あ、これは完全に目で追うのは無理だ、と確信して観たものをそのまま楽しもうと決めた。これ、一回きりしか舞台観れない人間のライフハックなんですけど、無理やり一つに絞ろうとするんじゃなくて空間全部を焼き付けるってのが一番。空気全部を吸い込む感じ。
怒涛の生演奏に、生歌、ジャグリングにすごいダンスやタップダンス、そして、足踏み。
も、これはすごいぞ、と。
これでもか!ってくらい繰り出されるのでずっと楽しい。一瞬たりとも気を抜かずずーーーっと楽しい。脳にアドレナリンぶち込まれてるような感覚に陥る。


私が特に好きだったのが足踏みだ。
もうこれは完全に好みの話なんだけど、足踏みが好きだ。あの、言葉にならないだけどダイレクトにその感情を叩きつけてくる足踏み。
六行会ホールは広い上に音が広がる構造っぽいので、こう、真ん中らへんで見てるとさすがに音はそんなに殴ってこない。殴ってこないんだけど、むしろ殴ってこないからこそ、その音の鬼気迫る感じというか、彼女たちが、あるいは大地に眠る彼女たちを思う男たちが何を感じ、思ってるのかが肌に刺さる。
それは、リアルタイムで起こっている本物、だと思った。

 


この公演すげー!と思ったのは、この本物って奴です。

 


とんでも設定やとんでも展開が、それはもう殴りかかってくるのです。
ちょいちょいちょーい!とツッコミたくなるようなことも、ちょこちょこ起こるわけです。
でも、コメディとシリアスの空気感の変化とか役者さんたちの佇まいや表情が、も、その人でしかなくて、信じちゃう。
というか、本当にあの空気感のぴりっとした変化の心地良さ!!!
もう安心してジェットコースターにずっと乗ってる感じ。というか、オープニングアクトで、あ、これ絶対好きで楽しいやつ!って確信してからはもう完全に身と心を委ねてひたすら楽しんだ。
なんか、あらすじとかストーリーとか、勿論それもなんだけど、このお芝居は肌に残ってる感じがする。

 


ワイヤーで飛んだり、歌ったり踊ったり演奏したり。


演劇って、平気で何百年って時間を行き来したり、色んな場所に行ったり、するじゃないですか。
それって、生身の人がやるからこそ起こせる奇跡って気がこの公演を観ててしたのです。


なんか、書こうとしてるんだけど、ただただ楽しくて楽しいって気持ちは紛れも無いのに、それ以外うまく言葉にならない笑
と思ってたら、松本さんの終演後のブログ読んで、あ、これがある意味で正解なのか!と納得してしまった。
ほんと、どんな人でも楽しめるお祭りだったと思う。


それは、キャストスタッフの総力戦っぷりと、全力で楽しい、を突きつけた結果なのだろう、とたまらなく嬉しくなるのです。
(ツイートもしたけど、照明が最高に好きでした)(めっちゃストレートで、だけど雄弁で、かつ、役者さんが最高に輝く最高の照明でした大好き)


ある意味で、そのお祭り感って、6Cさんらしからぬ、なんだけど、


ゴミって言われたマシューやロックが立ち上がったり、女たちが今度は大切なものを失わない、と立ち上がったり、
なんだか、そういう人の底力というか。
立っている人の格好良さ、は6Cさんならではの大好きな表現でした。中でも、アール役の宇田川さんの言葉で語り過ぎず、だけどその背中でガンガンに魅せてくれるそのお芝居は、あーーー大好き!って叫びたくなるものでした。


絶妙な遊び心と非現実感、それに本気の感情が乗っかる。あれは、6Cさんならではのお芝居だったと思います。


たぶん、とらっしゅへの気持ちは観た直後のこのツイートが一番表現できてたと思う。


「お芝居は、どこにでも行けて時間の流れだって自由自在で色んな奇跡を、生身の人間が起こす魔法なんだな。最高に元気出るので、ほんと、ほんと #とらっしゅ すごい。好き。」

 


本当に、夢のようで幸せな大好きがたくさん詰まった舞台だったんです。それは、たぶん、生で触れたからこそ、そう思うんだ、と思いました。良かったー!


楽しかった!!!!!!!!!!

 

 

ここから始まる25周年記念公演が、そして、26年以降の劇団6番シードさんがとんでもなく楽しみだ。

崖っぷちホテル8話がたまらなかった話

崖っぷちホテルが面白い。
まずあのドラマが日曜日にやってるっていう奇跡を、いやもうこれを奇跡と呼んじゃうんだけど、なんかそういうのを褒め称えたいくらい最高だと思ってる。

経営も従業員のやる気も崖っぷちなホテル「ホテル グランデ インヴルサ」を風変わりな客、宇海がやってきて、自信のない支配人佐那と共に大逆転へと盛り上げていくストーリー。
1話ごとに各従業員を味方につけていくストーリーは鉄板なんだけど、

もう本当にワクワクしませんか?って宇海さんの台詞だけで私はこのドラマを大好きだと叫びたくなる。

 


で、6月3日の崖っぷちホテルがあまりに最高だったので(正直いうと、他の回も最高だったんだけど)感想を書きたい。


七人の王女をもてなすことになったホテル一行。王継承で揉める彼女たちは仲が悪い上に、何故かいきなり帰りたい、と言い出した。
日本の滞在先にホテルグランデインヴルサを選んだのは王である父が忘れられない食事をしたからだと言う七女と協力しながら、果たして王女たちが満足できる思い出を作ることができるのか?


崖っぷちホテルが、日曜にあって嬉しいと思うのは、これがお仕事、のドラマだと思うからだ。


お仕事のドラマはいつのクールでも一定数あって、どれもこれも基本的に格好良く、諾々と飲み込んでしまってる日頃のもやもやを口にしたり、自分の道を信じたりする姿にスカッとしたり、明日から自分も頑張ろうと思える。そんなドラマが多いような気がする。
だが、崖っぷちホテルはこれらとは少し違う気がする。そもそも、コメディである。社会派ドラマでは、間違っても、ない。


更に、登場するのは自分で総支配人をすると一度は覚悟しながら自分には向いてないんじゃないかって悩む主人公や(まあでも、こういう主人公はある意味ではお仕事ドラマの鉄板な気もする)仕事をすぐサボろうとする従業員、それにどう考えても「向いてない」仕事をして人に迷惑をかけている従業員たちなのだ。
ただ、こうして文にしながらだから、ある意味で、共感しやすいドラマなのかも、と思う。まあでも正直、ドラマの分析がしたいわけじゃないんだ。だから好きって話なんだ。


この仕事が天職だ、と思えたり、或いは誰かの為になってるんだ、と実感しながら働いてる人がどれくらいいるだろう。
よくテレビやネットではキラキラ輝く仕事人が出てくるけど、そうじゃない人の方が圧倒的に多い。
し、ドラマ、アンナチュラルであった通り、どちらかといえば「労働は罰」って言葉の方がしっくりくるんだ。
だから、ああして向いてないなんて百も承知だけど、生きていく為に生活の糧を得るために「仕方なく」働いてる姿って、覚えがあるものなんだ。


そして、6月3日放送の8話の崖っぷちホテルである。
8話は、なんとか王女たちが来てよかったと思えるような夕食を振る舞えるかどうか、が鍵になるので、厨房組である江口さん、ハルちゃんがキーパーソンだ。特に、王女と仲良くなったハルちゃんが、鍵を握っていた。


私は、このハルちゃんが大好きだ。
常に明るくて、楽しそうで。ちょっとトンチンカンなことをよく言うけど、でも、そのどこにも悪意がなくて。見ていて元気になる。
宇海さんとハルちゃんはこのドラマの二大癒しキャラだと思ってる。


そんなハルちゃんが、王女と話した明るい系民族の話。もう、心臓ぎゅっとなって、愛おしさが込み上げた。
ちょうど、7話をTVerで見逃し視聴してから8話に臨んだので、尚更だった。7話の感想を私はツイッターでこう呟いていた。

 


「宇海さんは「笑うことに決めた」「楽しむことに決めた」人だと個人的には思っていて、その姿はなんというか、憧れでしかないっていうか、そうありてえなあーーー」


「1話の時は正直何故そんなにデフォルメ芝居を選んだんだろう、と思ってたんだけど、なんか、あれは「それを選んだ宇海さん」っていう宇海さんの生き方なんじゃないかな、と思えてきたよ。」


「9歳児で演じてる、ってのにも最初はそれ映像でやるといくら岩ちゃんさんの顔面偏差値を持ってしてもしんどくないですかね、って思ってたんだけど、最早私はちげえんだよ、ちげえんだよな、概念としての9歳児というか、むしろあの芝居を映像でやるのがさあって芋焼酎片手に語りたくなってます」


宇海さんや、ハルちゃんたち明るい系民族の人たちも、きっとそうなんじゃないか。わーーーーって思いながら自分がどんどん空っぽになるような気持ちになりながら、じゃあ明るい系民族を辞めてしまうんじゃなく、なんなら無理せず楽しく・・・ワクワクし続けられるのか、って考えたんじゃないか。
そう思うと、なんて、愛おしくて優しい人たちだろうと思った。

 


そんで、ハルちゃんはずっとそうだったな、と思い、ああだから彼女を総料理長にしたのか、と改めて納得したのです。


今回、どうしたら王女を怒らせないかを考え始めたメンバーに宇海さんが言う「それは当たり前です、どうしたらワクワクするか、考えるのはそれです」(意訳

 


なんだって、こうしなきゃ、と思うと途端に息苦しくなるし、わーーーーってなる。
変な緊張感はミスを引き起こしがちだし、無駄に疲れる。
だけど、ワクワクするか、を考えた彼らはどんどん、お客様を笑顔にしていく。
それは、楽しいからいくらでも考えられる、からじゃないか。
宇海さんにどうしたら、と聞いた大田原さんに答える。
「それは、考えるんです」


人間、嫌なことは考え続けられない。だから、ワクワクすることを考える。
向いてないってわーーーーってなるようなことを考えるんじゃなくて。


もう、そんなん、好きじゃん。
楽しくていい、そうしてワクワクしてやったことはきっと、誰かの嬉しいになる。
誰かの「嬉しい」に繋がるなんて、そんなん、ワクワクするじゃないか。

 


そんな、とんでもなく優しくて愛おしいことを言ってくれるドラマが、崖っぷちホテルだと思うんだ。


いよいよ、大逆転、への一歩を踏み出したホテルインヴルサ。
彼らが次はどんなお話を見せてくれるのか、私はワクワクしながら待ってる。そのお話で元気になって、また誰かをワクワクさせられたらいいなあ、そう思う。

キャガプシー

キャガプシー、あの幸せなテントに初日に出掛けた。

"世界は本当に美しい場所なのか?"

 

一年の時間が過ぎて、もう一度あの美しくて悲しい物語を観たんだけど。
人間のケガレを押し付けられたキャガプシーたちの壊しあいを取り巻くそれぞれの物語。
なんだか、振り返ると出てくる4人ともが、目がうるうるしてた気がして振り返ってるこちらまで目がうるうるしてしまう。
初演以上に見やすくかつ、飲み込みやすくなっていた。
悲しみは変わらずにありながらもさまざまな表現がポップに変わっていた。

 

色、のことをずっと考えてて。
ツミが色について口にする度、お父さんのキャガプシーへの言葉を聞くたび。
ネズミの衣装がほぼ単色で、地味な色で作られていることが本当に悲しかった。
キャガプシーを作る人形師も虐げられていた、というし、そもそも、人形師みんながキャガプシーに対して愛情を持っていたわけじゃないだろう、と思う。なんでこんなもの作らないといけないんだ、と思っている人形師もいるかもしれないし、もっと事務的に淡々と作ってる人もいるかもしれない。
なんか、そういうのをネズミの姿は想像させてくる。し、そのネズミが、あのウナサレの色を塗った事実に、彼を憎みきれない、と思う。心を与える、その儀式をキャガプシーである彼が担ってたこと、そして、あの色を塗ったこと。


初演からそうなんだけど、私はネズミに寄り添いたいと思う。というか、一番共感できるのがネズミなんですよ。
世界の美しさを、信じられずになんどでもこの世はどうしようもない、と口にするネズミ。

 

トラワレの世界の美しさについて語った言葉を宝物のように心の金庫にしまったウナサレの目が、本当に潤んで見えて。
なんでしょう、ひたすらに無邪気に真っ直ぐに笑うことを選んだのが初演ウナサレなら、そうしたいのだ、と常に言い続けたのが今回のウナサレのように思った。
どこのシーンか思い出せないんだけど、ウナサレの笑顔がぎこちなく見えて心臓がぎゅうっとなったんだよ。
ああああこの人、まだあの悪夢に魘されてるんだなって思って、それでも、大好きなお兄がそういうから、それを信じたいと、信じられると思ってるんだなあと思って、もう、あの、愛おしすぎる。

ツミもさ、世界のこと、そこそこ好きだった、って言うじゃないですか。
キャガプシーに出てくる人たちはみんな、必死に世界が美しいんだって思おうとしてるんだなあって。しかも、言い方は変ですが、むしろそこそこに不幸な彼らが。それが、あまりに愛おしくて。
あと、世界のことがそこそこに好きで不幸は量が決まってるから幸せになるはずだ、と思ってたツミちゃんが、不幸になりながらも、一緒にいてくれるネズミを好ましく思って(それがとんでもない絶望だとしても、ネズミの言う通りいたたまれない事実だとしても)いるツミちゃんの柔らかさが好きだ。
今回入った歌、素晴らしかった。ほんとに。
優しくて悲しくて沁み渡るような。
これはヴルルの島の感想でも書いた気がするけど、何かを受け取れる人というのは優しいなあと思うんだけど、ツミはまさしく受け取る人で、だから、台詞の一つ一つがぽつんと、沁みていく感じがして、愛おしい。


今回のトラワレはとても弱い存在だ、と思った。言葉を選ばないなら。ふにゃ、と折れてしまいそうなギリギリのところに立ってるような。
ほかのキャガプシーと喋らないことがモチベーションの彼は、初演も今回もそれは身を守る為の防御方法なんだけど、今回は特に切実に見えた。切実、というか、きっと、少しでも言葉を交わしてしまえば彼は溢れて溢れてぼろぼろになっちゃうんじゃないかっていう危うさというか。
その上、そうして喋らずひとりでいることが更に彼を追い込んでるように見えて(だから、ウナサレと喋りながらどんどん色鮮やかになっていくんだよね、それもまた苦しくて愛おしいね)そして、その危うさがそのままネズミへの依存に繋がるんだよなあ・・・。
溺れかけた人を助けると、溺れたくないという強い気持ちでそのまま助けにきた人も一緒に溺れさせちゃうことがあるっていうじゃないですか。なんか、今回のトラワレはそんな感じがした。したからこそ、ウナサレの弱いこともこの世界は相変わらず悲しいことも受け止めて「無理矢理にでも笑う」姿に惹かれて、そして、最後には彼自身も無理矢理にでも笑うことを選んだんだなあ、と。

私は、ネズミを許せないって思ったんだ。
ふたりを騙し、どんな事情があれ、ズルい方法でウナサレを壊させたことも、彼から言葉を奪ったことも。そもそも言葉を奪わないと勝てないことを確信しているのが、また、また・・・ネズミ・・・。
だから、トラワレの、ゆるすって言葉にガツンと殴られた。知ってたのに。知ってたから。
トラワレの絶望はとんでもなくて、きっとその心は痛いはずで痛過ぎて痛いってことも認識できないんじゃないかって心配になるくらいで、でも、トラワレはその痛い、のまま、絶望も飲み込んで味わいながら、ゆるすって言うじゃないですか。
私は、あの許すって言葉を聞いたネズミの絶望を想像したんですけど。許されてしまうことの絶望と、優しさ。どっちもあると思うんだけどどうですか。許してしまえるんだ、許されてしまうんだ、っていうか。


僕にはお兄しかいないから、お兄も僕を選んでって台詞も、
外の世界はネズミと見た夢だったってのも、
ツミを置いていくっていうウナサレも
なんか、ひたすら、心臓がぎゅっとされ続けたんだけど。
ただただ優しいだけの話じゃないですよね。
誰かを選んで、選ばない話だし。ずっと、一緒にはいられないし。
ただ優しいとか愛情とかだけで成立する関係じゃなくて、なんか、この、この・・・。


きっと、みんな、世界が美しいだなんて本当にただそれだけを信じられているわけじゃないのかもしれない。それをただ信じるには、悲しいことが多過ぎる。

お別れがある、一生一緒にはいられない。一生ずっと一瞬の隙もなく相手のことを愛おしく思うことすら、できない。それを、私たちは知ってる。

振り絞るような声で、ウナサレの青色を顔に塗り世界の美しさを語ったネズミの声を覚えてる。
ウナサレが世界にガッカリしたツミにたどたどしく語った世界の美しさを覚えてる。
それは、どちらもそもそもはトラワレが捨てきれなかったこうであってほしい美しい世界だ。
そして、それをツミは受け止める。そっかあ、と微笑む。

そうして語られる世界を、私たちはあのテントで大切な人たちと見た。
聞いて、想像した美しい世界の話を隣にいる人に話すその姿はそのままおぼんろさんの世界そのものだと思った。


悲しくても、無理矢理にでも、笑うべきだ。

 

笑うために、大好きな世界の話をしよう。大袈裟に愛おしくて優しい、あの時みた世界の話をしよう。
お別れしても、なくなっても、その時があったことはどうしようもなく一等大切な事実に違いないんだから。

 

 

 


初演の感想:http://tsuku-snt.hatenablog.com/entry/2017/11/09/191810
見た直後に殴り書きした短いお話もどき:
トラワレとウナサレ「空色、何色、幸せ色」
http://privatter.net/p/3431488
トラワレとネズミ「葬送」
http://privatter.net/p/3433720

あなたは夢麻呂さんという人を知ってるか


夢麻呂さんという、役者さんがいる。
役者で、演出家で、脚本家。
そんな、芝居人がいる。


初めて観たのはボクラ団義さんの十七人の侍だった。だけど、何より私の中で特別な彼の作品は、SANETTY produceの2016年上演のロストマンブルースだ。
そもそも、ロストマンブルースが大切だった私にとってあの作品は特別だ。
(観劇後上げた感想ブログの熱量が今読んでも凄まじい。大興奮かよ。大興奮だよ)
http://tsuku-snt.hatenablog.com/entry/2016/12/28/172838

ちょうど、上演1ヶ月前に観に行った舞台が途中で中止になってしまったこと、だからどうしても今度はカーテンコールまで観たかったこと。
初めてロストマンブルースを観た時、仕事で体調を崩してギリギリな中、踏ん張るために何度も何度も、DVDを観ていたこと。
公演が発表された当時、ツイッターで見た色んな話。
そういう諸々が詰まりに詰まって、特別・・・もうそれは、特別重く、というのがしっくりくるような・・・な公演だった。
それを、受け止めて吹き飛ばしてキラキラにしてくれたのが、あの公演だった。その中央に立っていたのが、夢麻呂さんだった。

今日、仕事中その時の景色とかを思い出して、話したくなったので、夢麻呂さんの話をしようと思う。

 

夢麻呂さんはともかく熱い。
ロストマンブルースの頃、主演でかつ叫ぶシーンや感情が振り回されるシーンが多いなか、毎日、遅くまで感想ツイートに返信をしていた。
それは、シェリーを満員にしたい朝倉(ロストマンブルースの主人公)の姿に重なって毎晩こっそり泣いてた。
んだけど、何も、それは朝倉だったからではない。ロストマンブルースだったからでも、主演だったからでもない。

いつだって、彼はそうだ。

役の大小でも、脚本演出でも、ゲスト出演でも。
見つける限り、丁寧に観劇への感謝を返す。
役名や演出であることを添え、ほぼ毎日。
いやもう、これって、凄いことだと思うんですよ。
良ければサインをって告げて、お礼を言って、また良ければ劇場に来てくださいって言い続ける。


周囲の舞台の宣伝をリツイートし、時には自分の言葉を添えて勧めて。

夢さんは、わりと、ストレートなツイートが多い。
劇場に来て欲しいってことも、集客についても、演劇はあくまで、自分の仕事だってことも。

たぶん、それは人によっては好きずきあるだろうなあ、と思うのだ。
色んな受け止め方だってあると思うのだ。
だけど、私は夢さんのやり方は全力で好きなのだ。
それがそれだけが絶対的に正しいって話じゃなくて、そういう「夢麻呂さん」を見るのが好きなんだ。

それは多分、そんなによく知らない私ですら彼にとってそれが本当でずっとそうやって真っ正面から向き合って作って来たんだ、と信じられるからだと思う。そこに意地とか誇りとかを見る気がして好きなんだ。


役への本人の投影、ってのはなるべく私がしないようにしたいことの一つで、
それと同じように舞台に立つ人の色んな背景とか事情を、推測なんてできたらしたくない。
そんな野暮天なこと、したくない。
あくまで、私はって話だけど。


ただ、夢麻呂さんのストレートで真っ直ぐなツイートはそういう気持ちすら吹き飛ばしちゃうのだ。本当に私の中で朝倉一義過ぎる。
えーもうそんなんずるいじゃん!って思うのだ。格好良過ぎるじゃん。
キラキラした格好良さじゃなくて、ただぼんやり過ごしてるだけじゃ手に入らない重厚な格好良さすぎる。
そんで、何より、ああこの人はお芝居が好きなんだな、と思うのだ。
仕事で、だからこそ、そこに狡いこととか一切持ち込まないんだなって、たぶんこの人は私の大好きなお芝居ってのを傷付けず愛し抜いてくれるんだろうな。
そう思えるのが、どれだけ幸せかって話なんですよ。


だから思わず堪らなくなってこんなブログを書いちゃってるのです。
つーか、去年のメトロノウムを最後に観に行けてないんだ。そろそろあの熱い芝居が観たいんだ。
観に行けない行けてないって話を書くことの不誠実さについては本当に申し訳ない。
ただ、どうしても夢麻呂さんのお芝居の話を書きたかった。


だって、そこには間違いなく私の大好きな愛されてるお芝居があるんだから。

 

R老人の終末の御予定

例えば何日も何ヶ月も経って、あああの人が言いたかったことはこういうことだったのか、と思い至ったり、唐突に昔のことを思い出してその時間の愛おしさに喉が詰まるような気持ちになることがある。
R老人の終末の御予定への気持ちが何かに似てる、と考えていたんだけど、たぶん、それだ。
じわじわと自分の中にある気持ちとか、きっとそういうのが時間と一緒にどんどん、色付いていくんだ。

 


逆説的な人間らしさ、というパンフレットの吹原さんの言葉を思い出す。
ほとんど人間が出てこなかった今回のお芝居を観終えて、なのに人が愛おしいと思った。
それは動物としての人間というより、たぶん、心の話なんだと思う。

 

 


これは、地球上で初めて結婚したロボット夫婦の物語。

 


そもそも、原案となったふたりは永遠にという作品が大好きだ。
余命を悟った天才的科学者が妻を看取るため自分とそっくりなAIを作るお話。しかし、実は同じく天才科学者だった妻も同じように愛する人を看取る為、自分そっくりなAIをもう随分前に開発していたのだ、という何とも切なく優しい話。10分くらいのそのお芝居を私はPMC野郎さんに出逢って間もない頃、YouTubeで知り何度も何度も再生した。
大きな何かが起こるわけではないけど、夫婦それぞれの気持ちが優しくそしてその秘密を唯一知るふたりの友人の台詞が優しくて悲しくて。


吹原さんの作品は奇抜な設定やキャラクターが出てくるけど、その根っこにいつも素朴な気持ちがあって、その素朴さにいつもいつも私はノックアウトされる。


今回、それが元になりもう一つの軸としてエレキギターと電子ポットの恋が描かれる。本来仇同士のマフィアの子どもたちである彼らの恋。

 


トリッキーな被り物の彼らの姿はだけど、淡々と人間のそのままの姿みたいだ。
家柄を気にしたり、なんだか分からないということを理解しながら殺しあったり。
それは、ロボットのアダムとイブであるふたりは永遠に、の彼らがひとつひとつ「人間」のそれを習得していったからだ。


恋をして、誰かを思い、人を傷付け、自ら命を絶つ。

 

 


私は、終わった直後、悲しくて仕方なかった。
ポットさんを助ける何かがあると思ったんだ。
おじいさんの記憶の先にポットさんを助ける何かがあって、それはもしかしたらふたつのマフィアの争いすらなくしてくれないかって私はどこかで願ってた。だから、呆気なく死んでしまったおじいさんにも、それと同じように死んでしまうグレコにも、呆然とした。うそでしょ、と思った。
人間に近付いてしまったばっかりにフリードリヒの言う通り本当は滅ぼし合わない理想的な生命体だったはずの彼らが、言葉を選ばないなら、どうしようもなくなってしまったように思えて、かなしかった。どうしようもなく、ってのは、言葉が悪過ぎるな。
ただただ、人間が悲しいと思った。


R老人、横見さんの演じる花嫁姿のケイコが人間を殺すシーンが恐ろしくて悲しくて、そして美しかった。


鍛え抜かれてる横見さんだからこその静かなんだけど物凄いパワー(あのロボットの馬力感!ミシミシって音を聞いた気がした!)での殺戮にはぞっとしたし、表情は最小限なんだけど深い悲しみと怒りが見えて。。あのシーン、心臓が震えた。
無表情の人間への恐怖ではなくて、心を持ったロボットが殺す、ことを手段としてえてしまう、実行してしまう心の動きが怖かったのかな。
じゃあ、美しく感じてしまったのはそれが心が動いたからなのか。
あの一連のシーンの喜怒哀楽の詰まってる感じ、すごい。
結婚、という喜びから、大切な人を失う悲しみを経て、最後に怒り。
ぎゅっとしたあの、喜怒哀楽がさ。
でも、それを得た彼らが愛おしくてさ。
フリードリヒ!!!!!!!!って怒りすら湧いたし、ただその彼もきっとそうしてただ無抵抗に殺されるロボットたちの姿に沢山傷付いたんだろうな。考えることが仕事のフリードリヒが、もっとあたたかくて幸せなことを考えられる世界ならよかったのにな。


あそこで、ひいおじいちゃん・ひいおばあちゃん、と呼ぶことに最初はくそ・・・ってなったんですよ。悪意すら感じるというか、ああ、そこでその関係をちらつかせるのはさ、というか。
うまく言えないな。
フリードリヒのことを考えると、というかあの辺りのシーンは、ほんと、人間の悲しさというか。どうしようもなさについて考えてしまって雁字搦めになる気がする。
でも、もっと素朴に呼んでた可能性もあるのかもしれない。いらない、と一方的に人間に捨てられそうになった彼らが、彼らを守るために一生懸命考えた結果なのかな、とか。自分も同じそして自分たちを生み出すきっかけになったふたりにひいおじいちゃん、ひいおばあちゃん、って呼ぶのは彼なりに心のやり場だったのかな、とか。


物語は、一色じゃないので、悲しいも愛おしいも同時にやってくる。


フリードリヒが考えるのが仕事だ、と言ったことを思い出す度に、ごめん、って思う。人間がどうしようもなくて、悲しいこととか考えさせてしまってごめん、って思う。

 


吹原さんの話は、だけど、いつも残酷なことを隠したりはしない。痛いことも悲しいことも、ただただそのまま描く。
独りぼっちのブルースレッドフィールドも、うちの犬はサイコロを振るのをやめた、もほかの作品だって、それはブレなかった。


あと、もうひとつ、とんでもなく悲しかったのが、辰郎とグレコの選択なんだけど。自殺っていう。
自殺ってのがどうにも苦手だ。創作上でも、叶うならなるべく見たくない。どんな理由があろうが、何があろうが、這いつくばってでも生きてくれ、と思ってしまう。死んだら、何もならない。
死んで向こうで、なんて詭弁だと思ってしまう。
だから、ほんとに、どうしようって思ったんですよ。勘弁してくれ、その選択はやめてよってめちゃくちゃ思って。
でも彼らにとっては生きてたら何とか、とか生きてたら味わうだろうほかの幸せとかそんなんじゃなかったのかな。
人間の方の正田辰郎の紹介文で、ただただ彼女が笑うことだけを考えてたんだな、と思った。
彼女が悲しむところを見たくない、というそれだけが基準でそれ以上もそれ以下もなく、善悪の判断とかたぶん、関係なかったんだよね。
辰郎を看取りたいであろう彼女の気持ちよりも彼女が悲しむところを見たくないっていうある意味でとんでもなく身勝手でがむしゃらな愛情が辰郎や、メカ辰郎の根っこだとしたら、そりゃ、仕方ないか。それをやいやい言えないか。
グレコもきっと、そういうところが、辰郎に似ててだからこそのメモリーチップとの出会いだったのかなあ。

 


そんなわけで、私はカーテンコール、呆然としてたんだけど、その途中、グレコの曲を思い出して、ハミーとの会話を思い出す。音楽は作り出すことは出来ないんだと言ったこと、その彼が約束の彼女の為の曲を作ったこと。

 

あとね、羊羹がね、羊羹のエピソードがね、最高だったの。メカ夫婦がふたりで初めて美味しいって思ったものだもんね。だから一緒に食べたいよね。美味しかったのはきっと好きな人と食べたからだよ、なんてロマンチックなことも言いたくなるよ。
そんでさ息子がさ、事故じゃなかったよって言うじゃん。事故じゃなかったよ、父さん僕、長生きしたよって。あそこ、愛おしくてたまらなかった。みんなみんな、背負って生きてきたんだなあ。


好きだ、大事だ、笑ってて、幸せでいてって一生懸命みんな祈ってて。
ジェニーと清二さんのエピソードも大好きなんだけどね、なんか、もう、そうだよなーーー。
人間を看取る為に生まれた、誰かの為に誰かの気持ちを背負って生まれた彼らがだんだん自身の気持ちとか思いも一緒に背負って生きていったことを考えてる。できたら、優しくてあったかい気持ちだけ背負って欲しかった。だけど、そうはいかなくて、でも優しくてほんとなあ。
結局、いつも、シンプルなところに行き着く。


唐突にああそうだ、心とはこんなに美しくて優しいものだったんだ。と、そこで思い至って泣き出したくなった。抉り取って抱き締める、その言葉の有言実行っぷりに、泣き出したくなった。


どうしようもない残忍さも、身勝手さも優しさも美しさも、全部心の部分から始まる何かだった。


R老人の大好きだった台詞、「魂とは、知性に宿る」って言葉の優しさ、本当に大好きでした。何度も何度も、この数日思い出していました。
魂が知性に宿る、というなら肉体的生命に関係なく、それはそうなんだと思う。とどのつまり心臓が動いていても、知性を失っちゃったらきっとそれは魂を失うことなんじゃないかしら。
どうしようもないところもあるし、傷付けるし傷付くけど、例えば森山のついた嘘のように知性、が優しさを生むこともあって、それを魂って呼びたい。
そんでそれは、きっと、残るんだと思いたい。

 


今回、あと、吹原さんの台本ト書きの世界がひっくり返る、という表現の愛おしさすごくないですか?って思った。というか、ひっくり返っていたのだ、ということにガツンときた。そうか、場転って世界がひっくり返る、か、そうか、そうかって。
森山がさ、料理焦がしちゃうじゃないですか、「ひっくり返せなくて」世界がひっくり返る、とト書きで書かれるあの物語でひっくり返せなかった、彼についてなんだか妙に悲しくなってしまって、八重子にあなたとなら事故の前のように話せる気がする、と言い募る姿が悲しくて、しくしくする。
森山の世界は事故でひっくり返ってしまったんだ。ひっくり返って、戻らなくなってしまったんだ。その逆さの世界で、唯一逆さじゃない、メカ夫婦。


死んだ後の世界はあるのかな。死んだ人は何もできない、といった森山は自分を見守る人にも会えるのかな。


あの、弟(台本では家族全員、でおおおあってなった)を食べてしまった彼。そして、あの瞬間のお芝居で、その弟、がどんな顔をしてそばにたってるか。が伝わってきた。
死んだ人が、見守るとはよく言うけどそら、恨んで呪ってる人もいるはずなんだよな。死んだ人は何もできない、というふたりの「面白い」話を考えるとさ、でも、この見守る、もそうなんだよね。
見守る、守ってくれる、も呪ってる、許してくれない、ってのもぜーんぶ、何もできない、なんだよね。生きてる人間がどう思うかで、それに救われたり苦しんだりするんだよね。

 


死んだ後、彼らが再会できるというのがひとつ、この物語においての救いだった。
死後の人々を見ることができる森山の存在はあの物語にとってとんでもなく優しかったけど、私がもう一つ優しいな、吹原さんありがとう、と思ったのは老人森山の死が近くなって、の台詞。長い時間や生きてきたという事実が人に穏やかなものを与えてくれるんだってのはやさしい。


(だから、生きてて欲しかった、と思っちゃったけど)

 


かなしかったけど優しかった、という話を終演後、淳さんにお伝えしたら、優しい話だからこそ、森山がいるんだ、という話を聞いて、もっかいタライが落ちてきたような気持ちになった。
そうだった。
死んだ人が見える彼がいたこと、死んでしまったグレコとハミー、そして夫婦がいたこと。
(ところで、森山のあの短いシーンで彼が普段見ている死んだ人間がいる世界の恐ろしさと八重子の存在に気づいた時の森山の心境に想いを馳せてしまって物凄く苦しいやら切ないやら愛おしいやらで忙しいんですけど)
R老人は、なんか、幸せな話としてとっても悲しい話としてとってもいいよ、という懐の広さが好きだ。し、やさしい話だと思うよ、と聞けたから尚、輪をかけて好きだ。

一寸先はネバーランド、とパンフなどに書いてある。
ネバーランド、永遠の、世界。

 


死んでしまうけど、どこかで会えるかもしれない。
そこはもしかしたら、ふたりは永遠に、過ごす世界なのかもしれない。

 


それは、ひとがどうしようもないものととんでもなく美しいものを持ち合わせた存在だ、と動かない悲しくて優しい事実を突きつけてくれたこのお芝居が見せてくれた優しい「もしかしたら」の世界を私は願わずにはいられないんだ。

LDHのパフォーマンスに感動した話


EXILEが好きだ、というと顔だろって言われて腹が立って、話を聞いて頂いてスッキリしながらも結局考えてるとそこに行き着くので、文にすることにする。
正直ハイローから入っただけだし、まだ好きになって日も浅いので、そうじゃないよ、の部分もあると思うけど、これはあくまで、私の話として、書く。

EXILELDHの好きなところはたくさんあるんだけど、何よりパフォーマンスが大好きなんだよ、という話だ。


ダンスや、パフォーマンスが好きだ。
それはもしかしたら一番最初に好きになった劇団さんの影響かもしれない。
ともかく、アクションとか、パフォーマンスとか、ダンスとか、そういう身体表現が好きだ。
できたら抽象的なものよりバリバリのパワー系やスピード感があるものが好きだけど、でも、ともかく、まず全般的に好きだ。知識があるわけでもないけど、むしろないからこそ直感的に好き、と思う。
そんなわけで、ハイローを観たきっかけも(色んな要素があるけど)アクション、が大きかったし、RUDEBOYSのパルクールを用いたアクションが私をリピートへ導いたと言っても過言ではない。

じゃあ得意かというと、それはもう、悲しいことに全くだ。ダンスの授業が取り入れられた世代ではあるけど、楽しいと思ってても得意だと思ったことは一度もない。し、楽しくても振り覚えるのはともかく遅かったし、よくなんかちょっと違う、と首を捻られた。漢字とダンスをオリジナルに変えることに定評があった。
どうしたらダンスが格好良く見えるようになるか聞いた時、だいたい私の周りのダンスが好きでうまい人たちは止める、の見せ方だ、と答えた。で、そこに筋肉がいるし、神経を使う、と。本当かどうかは分からないけど、たしかにそこを意識してるという彼女たちのダンスはめちゃくちゃ格好良かった。今でも覚えてる。


そんなことを、HiGH&LOW THE LIVEを初めて観たときに思った。
正直にいえば、EXILEに苦手意識が全くなかった、とは言えない。なんかよく分かんないけど怖い、とまさしくナイトヒーロー の栞ちゃんみたいなことを確か学生時代言ってたと思う、さすがに全員が沖縄出身なんでしょ?とは思ってなかったけど。
何より不思議だったのは、なんでそんなに人数いるのに2人しか歌わないんだ?何故ほとんとのメンバーが踊ってるんだ?だった。ジャニーズとかも良くは知らないけどだいたいみんな歌うよね、と歌番組に出演してるのを見るたびに首を傾げてた。
格好いい、という評価は知ってた。
ただ、私はあまり人の顔の美醜が分からないというか、え、表情筋次第じゃない?と思ってるのでイケメン、と言われてても、へえそうなんですね、そうか、こういう顔の人たちが所謂イケメンなんですね、とぼんやりしてた。
人の顔の見分けがなかなかつけられないので、その辺はどうかご容赦くださいって感じだ。その人の表情筋の動き方を覚えてたぶんようやく人の顔を認識するんだと思う。この機能については我ながら早く改善されてほしい。

そんな私が、だ。

びっくりしたんだ、ザラ冒頭のハイグラで。

格好いいな、とは思うようになってた。ハイロー完走後だったのでこの役の人、と解説されればしっかり認識できるようになってたし、何人かは明確にこの人好き!と言えた。
だけど、そんなことより何より、あのパフォーマンスで、え、と思った。

めちゃくちゃ格好いいやんけ。

も、最高に格好良かった。あ、と思い出した、止める筋肉。ただ振りを覚えてリズム数えてもどうしても見てるダンスに近付けなくてポイントを聞いた時に教えられた、止める、だ。
そんで思い出した。ダンスって、すげえ筋肉を使うんだ。
殺陣について、とあるお芝居のスタッフさんが、斬られて止まる瞬間が一番命を削るように体力を消耗するのだ、といつだか言っていた。止める、ってそういうことだ、と私の中には刷り込まれてた。

も、すげえの、バシバシ止まるし、その次の瞬間にはしなやかに動いてんの。
そんで、表情。
どんな凄い動きも死んだ顔でされたらたぶん何一つ残らずさらさらと消えちゃうんだけど、生き生きした表情だと何万倍にもなって届くんだよね。
あーーーーこの人たちは、パフォーマー、なんだ、とその時ようやくなんでボーカル以外が歌わずただ踊ってる、パフォーマンスしてるかを理解した。それぞれがそれぞれのフィールドで、それぞれの表現をぶつけ合うのがこの人たちなんだ。それが合わさってすげえもの作ってるのがEXILEを初めとするこの人たちなんだ。

すげえ、と何回も言っていた。
顔もいい人たちだと思った。持て囃されるオーラも顔立ちもスタイルもある、と思った。でも、それだけじゃなく、それ以上にこの人たちはこの表現があって、何よりそれをこんなに生き生きしながらやるっていうことが魅力的で、だから、こんなに人気なんだ。
THE LIVEでそれを理解した。

顔が良いだけで、作れるような立てるようなそんな生易しい場所にはとても思えなかった。
何より筋肉ってそんな簡単につかないし、よしんば体質的についたとしてもそんな簡単に、魅力的に使いこなせるようには思わない。
それをこんな笑顔で楽しそうにやってのけるこの人たちは一体何者なんだ、と画面を見つめながら思った。

パフォーマンスって、見る機会あります?
ダンスは?
たぶん、ほとんどないと思う。

ほとんどない、というと語弊があるんだけど、でも、その機会や触れることができるフィールドってすごく限定的だと思う。
だからこそ、歌の力も味方につけて、あのパフォーマンスを身近なものにしたLDHって人たちに私は感動した。
色んなエンタメの門戸はそれぞれ限られてる、ってよくいうけど、例えばクラブミュージックとか、そこで行われてるダンスやパフォーマンスって、少なくとも私は縁のない、遠いものだった。だけど、あ、こんなに格好いいんだ、と受け取りやすい形で出会わせてくれたのがLDHだった。
パフォーマンスを観ることは好きだけど、例えばそれを観に行くのに友人を連れて行くのはなかなか難しい。とっつきにくい、と思われる確率も高い。だけど、ランニングマンの話は別にパフォーマンスに興味がない人ともできるのだ。もしかしたら、そこからパフォーマンスやダンスに興味を持ってもらえるかもしれないし、更にもしかしたら、いいなって思ってもらえるかもしれないのだ。
その可能性がどんなに嬉しかったか、私にはうまく言葉にする自信がない。だけど、好きになってから数週間、その可能性の事実を噛み締めてニヤニヤしたりぐすぐすした。

まさかEXILEのこと好きになると思わなかったなあーと呟いた私に友人が言った言葉を覚えてる。
つくさん、アクションもダンスもすごく好きなんだからいくらでも好きになる要素あるでしょ、むしろなんで今まで好きじゃなかったのかって感じですよ。
いやほんと、それなって感じだ。
それくらい、大好きな表現、が詰まってた。
それがテレビやDVDで気軽に見れて誰かと共有しやすい規模で存在する、正直それは凄い奇跡に思えた。

なので、私は彼らのパフォーマンスが好きだ、と言いたい。何回でも言いたい。たぶん、ここをわざわざ読んでくれた人たちはもう知ってるよ、と受け止めて下さってる方も多くいるんだろうけど。
彼らの音楽も勿論大好きだ。
そして、パフォーマンスがダンスが大好きだ。
たぶん、これからも何度も何度も、そのパフォーマンスに感動し続けると思うのだ。

 

 

ニワトリ★スター→三十路女はロマンチックな夢を見るか?

たまには、変則的な感想の書き方を。
こないだツイッターで情熱の賞味期限は短いから、と聞いてたしかに書きたい感想が溜まる一方で、たぶん観た直後ほどの言葉をもって書けないから、とお蔵入りした感想がたくさんあるので、今日は書きやすい書き方で、書きたいように、感想を書く。


人の形を忘れがちなので、劇場や映画館に足を運ぶのだと思う。
ニワトリ★スター→三十路女はロマンチックな夢を見るか?をハシゴしたのでした。

どちらも、なんだか少しファンタジーでザラザラしててでもどこかボヤけてて痛くて、愛おしくて、心当たりがあって。たまたまなんだけど、このタイミングでこの組み合わせ順番で観たのあまりに出来すぎてんじゃねーのって笑ってしまう。

ニワトリ★スターの草太は幸せな子どもでだからわざと不幸になりたがるようなところがある、なんて思う。30半ばで半端なヤクの売人をしながらぶっ飛んだ楽人と二人暮らし。
途中、というか、オープニングからわりと痛い描写とか可哀想な描写が多くて、エログロというかエググロな連続で、あまりそういう描写が得意ではない私はウェエエってなりながら見ていた。ああこれ、結構覚悟して観なきゃだ、と思っていた。そのくせ妙に冷めてて、なんか、あー草太、と思った。

世の中なんか下らねえし、人なんて冷たいし、ヤクを売り捌いて頭吹っ飛ばして、アウトローに決めた気になって。

ゲラゲラ笑い合う草太と楽人にホッと一息つくたび、ああこれ、絶対かなしくなるんだなって覚悟してた。だって、きっと、幸せにはなりきれない。それは作中漂いまくる空気感で、悟っていた。
楽人が、すごくフラットでフラットなのにフラットだから哀しそうで。
結局酷い目を受けた女子高生を想像して傷付いて草太は吐いちゃう、吐けちゃう。真っ当な感覚をたぶん、彼は失わない。おはようとおやすみで、育ってるから。
でも、楽人はそうじゃなくてそうじゃないけど、でも、楽人は、吐いてぐったりしてる草太のそばで本当に心細そうで手も震えて怯えきってて。なんか、あれは、たぶん、彼が心の底から大事にしたい、守りたいって思ったもので、例えば彼自身幸せとかあったかいとかそういうものは知らなくても、感じることは出来んだよなあーと色んなシーンを見て思った。

楽人がねえ、本当に愛おしかったんですよ。

俺こんなんだしさって笑ってみせるけど、いや君自身、めっちゃ優しくて柔らかくて、誰もそれを大事にしてこなかったかもしれないけど、それはこれからもそうとは限らないし、大事にしてこなくても、君は大事にできるじゃん、みたいな。

草太はぎゃくにそういうのをたぶん見失って見失ったから放り出したくなって「東京」とか「売人」とか分かりやすい記号に頼りたくなったのかな。なんか、そういうことってあるじゃないですか。いっそ痛い方が楽、みたいな。痛いって知らないからそういうこと言えちゃうんだけど。

夜空を見るシーンと、電話のシーンが優しくて哀しくて、愛おしくて。

過剰な暴力シーンも、挟まるエピソードも、ぐちゃぐちゃになって死んでいくひとたちも
草太の楽人の名前を呼ぶ優しい声もオーバードーズした月海にお粥を食べさせる楽人の優しい表情も、ティーダの名前も
全部同じ世界で、なんか、あーそうだよね、そうなんですよね、って何度も噛み締めてた。
どうしようもなく、ロクでもないのに許せないものだってあるのに、幸せだって思って大事だって思えちゃう相手がいることは、なんてクソッタレな幸せなんだろう。


こんな酷い目に遭うよ、痛い思いをたくさんするよ、そう言われても、出逢いたい誰かの為に私たちが生まれてきたならなんかそれは、仕方ないな、なんて酷い愛おしい幸せなんだろうな。


なんてことを思いながら、三十路女はロマンチックな夢を見るか?を観たわけですよ。物凄い温度差覚悟ですよ。


あ、ベタだなーと最初に思って、でもああいう夢への嫌悪感というか気怠さとか、スキンシップと言う名のきっしょいセクハラとか、
なんか、そういうものがベタに、内包されまくってて。

映画を撮る彼に合わせてなのか、物凄く、こう、ガッツリ「お話」感がして

たまにガツンとうっわ、となる台詞が来るのにどっか遠くて、それは単純に共感が出来なかったからだった。
理解できないから、じゃなくて、なんか、うまく言えないんだけど。ヒロインに。
いや、分かるって何回も思ったんだけど、年齢も近いし。なんだけど、いやいやいや、でもその選択はしねえわ、って思ってて。あーこういうヒロインが一番苦手なんですよね、って思って。犯人がね、格好いいってのはめっちゃ分かるからね、余計にね。いやいやいやいやってね、なったね、そういう意味ではめちゃくちゃ共感してたのかもしれないね。

それを、こう、見事に、ひっくり返されだしたのがお風呂場での過去の自分と話すシーン。

観てる途中、だいたいお風呂のシーンの度にBUMPの才悩人応援歌、が頭の中に流れてたんだけど。隣人は立派、将来有望才能人、そんな奴がさ、がんばれってさ、ってやつ。
夢を見続けるのだって才能だ、と思うんだけど
そことは全く別の話として、好き、という感情を競っての劣等感、の描き方が、ああ、なんてこった、と思って。
好きなら好きでいいじゃん、と思いながら、彼女の言葉を借りれば誰か1人の幸せとか夢のために他の人が泣くみたいな、なんか、そういうこと、あるじゃん、ってここでものすごく思って。
好きなら好きでいいんですけどね、あ、この人私より好きじゃんなんかすいません、みたいなこと、思っちゃう時ってあるよね。でも、好きなのも本当だからそう思ったことが嫌で不快感が凄くて、それっきりバイバイしちゃうというか。

そう思うと、あの共犯の女性ふたりの設定のいい意味で悪意のある感じ、最高だな。あれ、主人公が切り離したいつかの自分の可能性なのかもな、それぞれ。それを「殺した」描写が入るの、とりようによっては、いくらでも深読みできるよな。

で、ここで上がったテンションは、ヒロインがしていく選択で、どんどん下がったんですよ。
え、まじで、そうしちゃう?え、ほんとに?え、え、うそでしょ、なんで?分かるけどなんで?
納得いかねーーーーーーーーわ!!!!!って、叫んで、え、これ実はぜーんぶ映画でしたってオチ?撮影でした、で締める?そうじゃなきゃ納得できないし、いやでもそうなったらすげえモヤモヤするーーーえーーーーーーーーって、叫んで、
で、ラスト、やられたーって笑ってしまった。
そうきたか、って気持ちのままエンドロールに突入した。


なんか、幸せになるっていうか、毎日ご機嫌に過ごすって、結局その人次第だし他人の目なんか知るかって感じだよね、自分で幸せかどうか決めなよって楽人と那奈に言われた気がした。勝手に分かりやすく不幸ヅラしてるより、そっちの方が百倍楽しいし、案外、おはようもおやすみもそんなに言えないから一回一回大事にしなよ、って。
夢の叶え方、なんてなん万通りもあるんだよな、と那奈に笑わされてしまったので、
ニワトリ星にいくその日まで、楽しくご機嫌に過ごそう。なんてことを人の形を取り戻した私は、思ったのでした。


サイテーなことは沢山あるけど、映画や劇場にサイコーが沢山あるように、たぶん、私の毎日にも、あるはずなので。