えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

あの日の夜のこと

我が家にはHDDがない。
仕事の都合でほぼ仮住まいのように生活しているので、HDDがない。更に言えば、「自分の家具」というものが限られた空間で生活してる。まあ、そんなことはどうでも良い。
ともあれ、我が家にはHDDがなく、結果的にテレビで放映されるものを残しておけないのだ。
だから、私は今繰り返し繰り返し、あの夜に観たことを思い出している。思い出して思い出して、例えその景色そのものや音、言葉を忘れたとしてもその残り香を残したい。そう考えて、ブログを書くことにした。

 


8月2日、深夜。
2019年にニューヨークで行われた星野源さんのライブが、NHKで放送された。

 


そもそもは、MIUの6話がきっかけだった。この春、一番楽しみにしていたドラマであり、
案の定、毎週のように転がりながら観ているドラマだ(推し回は2話で、心臓が未だにバクバク煩いくらい掴まれたのは4話)
星野源さんと綾野剛さんを中心に魅力的なキャスト、スタッフで進んでいくMIU。
6話は、救いの物語だ。1話から張られていた星野源さんが演じる「志摩一未」の過去が紐解かれ、今、に繋がっていく話である。
そして私はその救い、の話を観てのたうち回っていた。優しさだとか救いだとか、これからの希望だとか、もちろんそういうものも感じてはいたけど、なんだか言い表せないような不安感みたいな、どうしようもなさみたいなものにひたすら呻いていた。

 


それから、ぼんやりと反芻しながらも言葉にならず、まあ今そもそも本調子じゃないしな、なんて考えて、それから、その深夜に放送されるというライブを観ることにしたのだ。
我が家には冒頭書いたとおり、HDDがないので深夜の番組はリアルタイムの一択だ。だけど、たぶん、私は例え録画の手段があったとしても、リアルタイムであの番組は観たと思う。
なんだか、そんな気分だった。
もちろんそのライブ時代は去年の話で、リアルタイムで観ようが「彼ら」と時間を共有することにはならないんだけど。

 

とびきりのコーヒーとお気に入りのシフォンケーキを用意しながら、ドキドキそわそわしてその時を待っていた。

 

繰り返す。そのライブは、2019年に行われたライブだ。
だけど、そんな気がしなかった。今この瞬間、星野源さんはそこで歌ってくれるような気がした。
気が付けば、せっかく用意したコーヒーもシフォンケーキもほとんど口をつける暇もなく、画面を見つめていた。


音を楽しむ、と書いて音楽なんて昔の人はうまいこと言うなあ、と思う。そして、星野源さんの奏で、紡ぐそれはそういう意味でまさしく「音楽」だった。そのくせ、どこか台詞っぽいというか、生身の言葉そのままというか。
彼の音楽を聴きながら頭の中に広がるこの感覚を、なんとか言葉にしたいとずっと思ってる。だというのに、全然、言葉が追いつかない。

地獄で何故悪い、が昔から何故か好きだった。何故か、一曲携帯に数年前から入れてある曲だった。その曲を奏でる姿を見て、ああ、何度も聴いたあの曲は、この人から産まれたのか、と震えるように思った。

 


そして、この曲が流れて本当に食い入るように画面を見た。なんなら、音が……音楽に衝撃を受けたときにそんな表現を使うのもどうかなって気もするけど……なくなったような、そんな気持ちにすらなった。


なんか、聴きながら「あーーー、私、疲れてたんだなあ」と思った。
疲れてた。もうなんか、全部に。それはずっとTwitterで悩んでいたことにもそうだし、体調が悪いこともだ。だけど、それ以上にイライラしたり落ち込んだりそういうガッカリ疲れてることにすら、疲れていた。そのくせ、明るく楽しくなんてのも遠いことに苛立ちすらしていた。
だけど、なんか、聴きながら「もういっかあ」と思った。
愛してるもくそったれも、同じところにあって、なんか、もう、そうなんだよな、そうなんだよな、と何に頷いてるか分からないくらい、頷いていた。

 

 


結局、その夜、バクバクとうるさいような、だけどなんかようやくぐっすり眠れるような気持ちで眠った。そのまま仕事に行って、たまらない気持ちで仕事終わり、星野源さんのドームツアーのライブDVDを買っていた。
この分からない気持ちがなんなのか知りたかった。この人の音楽を聴きたかったし、本当に楽しそうに笑う姿を観たかった。


今こうして書きながら思う。もしかしたら、好きなのかもしれない。もしかしたら、なんてつけるのはある意味で熱に浮かされた状態だという自覚があるからだ。だけど、それでも良いと思ってる。だって、だとして、今こうして弾んだ気持ちが嘘になるわけでもあるまいし。

そして、だけどだから、今のこの心臓の音を少しでも文にして残しておきたいと思う。それは考えたり、思い出す手がかりになるはずなので。

 

 

最近の星野源さんは、明るい曲が多いらしい。明るかったり開かれてる曲が多いらしい。
(この辺りはこれから初期のアルバムとかを聴きながらまたじっくり考えたいな、と楽しみにもしてる)
実際、大ヒットした恋をはじめ、明るく聴いてるだけで身体が弾むような音楽が確かに思い浮かぶ。
それでもまるで潜んだ剃刀みたいな言葉があるなあ、と思う。って、書きながらすごい違和感があるんだよ。
剃刀、っていうのが、なんか強すぎて。剃刀、とか毒味、とか、色々、考えて、まあどれもそうなんだけど、でもやっぱりしっくりこない。
なんか、でも、その感じが私がこうして惹かれてる理由なのかもしれない。
別に、どっち、とかどうでも良くて落ち込みながら笑ってもいいし、笑いながら落ち込んでもいい。し、それを悩んでないとか無理してるとか、なんか、そういうの全部しゃらくせえよなあ、と思う。
二個に分けろなんて、誰が決めたんだと思うしもし誰かが決めたんだとしたら私は今、中指でも立ててやりたい心持ちなんだ。

 


MIUの6話に転がりながら、MIU4話について話した星野源さんのオールナイトニッポンの感想やレポを読み漁った(ほんと、聞けば良かったね…radikoに課金するタイミングだったよあれは…)


その中で、「ハッピーエンドがその人の中にしかない」ストーリーの話をされていた。
話しながら、星野さんは大人計画さんのお芝居をはじめとする舞台の話をされていて、お芝居を見て「ああ、自分は生きれる!」と藁みたいなのを掴んだ、と言葉にしてて。
もう、これは勝手な親近感だけど、お芝居がエネルギーの私にとって、もう、ああ、この人好きだなあと思うには十分で。勝手な共感なんだけどね。それこそ、なんだって、主観は入るから。

 


それでも、ドームツアーライブ「POP VIRUS」の「アイデア」前のMCを聴きながら、そんな気持ちは確信に変わっていく。
それからこの人の音楽を好きになれて良かったと思った。こんな風に音楽を作り、奏でる人のことを好きで居続けられますように、と思う。

 

いつだって、例えそれはリアルタイムでなくても、何かに触れるとき、もうどうしようもないくらいの真剣勝負で向き合わさせてくれる人が好きだ。思い込みだって構わない。
ただ、思いきり生み出されたものを抱き締めたいという私の我が儘にも似た、重たい重たい願いだ。そうして、なんだか、抱き締められているようにすら、思ってしまっているのだ。

 

 

今、私の毎日の中に星野源さんの音楽がたくさん溢れていることを嬉しく思う。
ぱらぱらと落ちてくる音と歌詞を思い切り浴びている。そうして手の内に残った柔らかな藁は、毎日に溺れてしまわないための命綱なようにも散歩をしながらご機嫌に振り回すお気に入りの指揮棒のようにも思えるんだ。