えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

デメキン

デメキンを観た後は、ラーメンが食べたくなるので食べたいラーメン屋さんをチェックしてから観にいってほしい。あと、そのラーメンめちゃくちゃ美味しいから、十分気を付けてほしい。
私はレイトショーで行ってど深夜に食べたのにスープまでしっかり飲み干して翌日喉の渇きではね起きる羽目になったので、本当に気を付けてほしい。


お笑い芸人、バッドボーイズの佐田さんの実話を漫画化、映画化した作品だ。
デメキン、と虐められていた少年が福岡トップの暴走族の総長になる物語。

私には、主人公佐田と、その親友厚成の物語のように思えた。

所謂、不良が跋扈している福岡。
冒頭から、殴り合い、殴り合い、タイマン、殴り合いの連続だ。
喧嘩が何の意味があるのか、なんて問い掛けがそもそも存在しないかのように、彼等はメンチを切る。
彼女のとなりにいるため、中卒で働くことを選んだ厚成が言う。福岡、統一しろや。

例えば、不良の一番になったらなんかあんのか、とか、暴走族なんて迷惑なだけじゃん、とかそういう、ある意味では至極真っ当なツッコミなんて彼等には届かない。
ただ思うがまま、自分の存在証明でもするかのように彼等は拳を振るう。

子どもが大人になる物語、ではない。

厚成とか、めっちゃくちゃ大人の局面にたってるけど、彼は言う。「あと少しなんよ、もう少し待っとって」
彼女の隣に立つことを決めたのは彼自身だ。大人になって、彼女と過ごすことを選んだのは厚成だ。
だけど、同時に、子どもでいようとするズルさを持ち合わせてるのも、彼自身だ。

自身のツイートを引用するけど、

「前半、厚成が執拗に俺を呼べよ、っていうことも溜まり場に自分が働くラーメン屋をすることも、置いていく癖に置いていかれたくない、あの本当に子どもが大人になる時の苦しみというか切なさがあって辛いし好き」


大人になる、ってのがなんなのか。
なる必要があるのか。
あるとすれば、どうなれば大人なのか。

佐田は、ともかく喧嘩するし、
土手の喧嘩前のやりとりは本当にまさしく子どものそれだし
厚成も店長にたかるし

だからこそ、ミツグとのエピソードがあるんだろうけど。
本当は大人にならなきゃいけない。
そんな焦燥感というか、そんなことは分かってるんだ、と怒鳴り返したくなるような状況に彼等はいる。
突きつけられてる度合いは人それぞれ違えど、きっと誰しもがそうで、物凄い危うさと終わらせなきゃいけないということは分かってるだろう横顔が、見ていて胸を締め付けてくる。

どうにも、青春の終わりという言葉にめちゃくちゃ弱い。
今まさに青春真っ只中のはずの彼等を見ていても、終わりのことばかりを考えていた。

佐田たちの喧嘩って、一歩間違えば、人が死ぬ喧嘩だと思う。
厚成が執拗なまでにボコボコにされるシーンは見ていて、めちゃくちゃしんどかった。
あれは、ある意味、子どもの喧嘩だから、と看過するわけにはいかない。

仲間の為に、で振るえる拳の度合いすら越えてるなんてつい思ってしまうんだけど。

そんなのは若いやつが言うことだ、とか
拳でしか解決できないことはない、とか、仲間なんて言葉を使うのは若くて青臭いとか。

なんか、きっと、そんな「大人」の言い分の届かないところで彼等は喧嘩をしてる。
でもだから、あんな喧嘩の後に今度、ラーメン食いに行こうぜ、なんて言えてしまうのかもしれない。もしかしたら、死んでいたかもしれない、殺していたかもしれないのに。

そのまま、進んでくれと思う。
世界は、こんなに広いんだから君達が好きなことをしても大丈夫なんだから。
きっと、青春は終わらない。
エンドロール、バイクに乗るふたりを見ながら思った。
それはずっと一緒に彼等が過ごせる、とかそういうことではなくて
自分の信じた道をそのまま一本筋を通せるか、それをきっと、青春というのだから。

High&Low THE MOVIE3 FINAL MISSION

ハイローっていうジャンルが一斗缶というか。
生身の人間の凄まじさを、私はハイローを見るとしみじみ考えてしまう。映像なんだけど。たぶん、そういうところが舞台見た気分になる大きな理由のひとつなんだろうな。


そんなわけでHigh&Low THE MOVIE3 FINAL MISSIONを観てきた。


九龍となんでやりあわないとダメなのか
初見時、途中からこの問いが私の頭から離れなかった。
コブラは、自分の街を守りたかっただけだしなんならそれは幼馴染やチームメイトが帰ってこれる場所を作りたかっただけだし、
他のSWORDのチームだってそうで
別に、ヤクザと戦いたいって奴は絶対数ほぼ0だったと思う。
敢えて言うなら、達磨には復讐という意味で九龍に向く感情があったけど、それすらテレビシリーズ1を終え、2を終える頃にはほぼほぼなくなったというかシフトチェンジした局面だったと思うんですよ。

 

なのに、九龍は、圧倒的暴力で蹂躙してくる。
そもそも、ザム2ラスト、彼らが乗り込んでくるのもある意味、勝手に乗り込んでくるようなとこある。USBの件は別として、ザム2でSWORDが対峙してたのはあくまで、Doubtだったわけで。

なんだか、そう思えば思うほど、九龍のしていることは蹂躙、で悔しくて恐ろしくて、初見時ひたすらになんでこうなった、って思い続けてた。

そもそも元を正せば、MUGENの龍也を殺した件もなんでだよって私は思ってる節があります。正直。

ただ、そうして、ひたすらに辛い、と思いながら観てて、現実逃避しがちな私は、九龍は現実そのものみたいだなあ、と思った。
避けられない、理不尽で一方的で、もっともらしい理屈をもって、圧倒的な力を誇示してくる。
逃げたくても、逃げる道なんてほとんどない。


絶望に抗え


そう思うと、このキャッチフレーズの真っ直ぐこちらを見据えてくる言葉に思わず怯みそうになる。
絶望に抗え、立ち止まるな。
それは、ハイローが全編をとおして、相手が強かろうが偉かろうが自分の信念のために、矜持のために戦えと言い続けたことを思い出すメッセージだ。


自分に誇れる自分か
クズ、と言われ続けたとして。
まともじゃない、真っ当じゃない、とコブラが言うところの「人に誇れるような生き方」をせずに(或いは、できずに)後ろ指を指されてきたとして
MUGEN回想で、ヤマトが言ったように、あるいは鬼邪高回で、村山が言ったように。

 

たぶん、SWORDの面々はそれぞれそんな生き方をしてきた。

 

たとえば、日向は、おそらく兄貴分がMUGENに敗れた際、さんざっぱら、バカにされたんだろうなあ、と思う。
日向の名は地に落ちた、とはまさしくそのままで、あんな素人に負けるなんて、と全部引っ括めて、・・・日向紀久も含めて、バカにされながら、過ごしたんだろうなあ。
勿論、作中ではそれが映像として描かれることはない。描かれることと、描かれないことの絶妙なバランスに、ほんと、興奮する。
そうして、復讐に身を投じた達磨一家がじゃあその復讐の先に何があるんだ?と考える、その時間すら、なんならテレビシリーズでは余韻として描かれてる。
テレビシリーズ→映画での大きな変化があったチームナンバー1な気すらしてるんだけど達磨一家
彼等が、あんな晴れやかな顔で花火を打ち上げること、復讐、という単語に何言ってんだてめぇ、と怪訝そうな顔をする。

なんて、痛快だろう。

お前はどう生きたいんだ、と自分に問い掛けた日向のことを想像する。同時に、なんならその時、初めて「生きる」ということを想像したのかもしれない日向を思う。
いつ死ぬか分からないから、今を思い切り好きなことをやって生きる。
誰に言われたからでも、褒められるためでもなく、じゃあお前は何がやりたいんだ?と言われて一番最初に浮かぶことをやり続けろ。

真っ当に生きる、という言葉の曖昧さを思わず考える。
思えば、SWORDのトップをはじめ、ハイローに出てくる人の多くは爪弾き者なんだと思う。


当たり前に、世界の美しさを享受できなかった人たち。
ロッキーのことなんですけど。
ロッキーの過去があまりに辛くて、そしてそれを振り返って生きる彼が口にした自分のような子どもを減らす、という言葉があまりにしんどくて、初見時はそっと一時停止してHuluを再生してるスマホを握りしめた。

 

暴力を振るうことは正しくはないということを、彼等が知っていること。

 

それが、ハイローが好きだと思う理由で、同時にたまらなく苦しく思う部分だ。
ロッキーが望む幸せは何も特別なことじゃない。
彼が回想で見た「幸せな景色」はあまりになんでもない日常のワンシーンだった。
髪を乾かしてくれる、優しいお母さん。その、あったかい手。
何も、特別なことはない。
だけどその景色は確かに暖かで美しかった。

その、美しい世界を、ロッキーは奪われるという形で知らないまま来てしまった。
あんなにしんどい食事のシーンないでしょ、と思う。じっと一点を見つめて食べていた、具材もない恐らく冷え切った焼きそばを思う。
お母さんも、また絶妙なことをするよなあ、と思う。
しんどい、と思いながらも、これを持ってすぐ逃げろ、ではなく、最期に残すものとして、満腹、をおいていくお母さんを思う。
空腹って、だって、あまりにもしんどいし、悲しい。お腹がすいた、ということは本当に切ない。せめて、息子に、その満腹を残そうとしたお母さんは、確かにロッキーの親だなあと思う。

そんな過去がありながらも彼なりの信念を持ってステッキを振るい続けたロッキー。

それは間違いなく真っ白な、何者にも染まらない信念に他ならない。
そして、だからこそ、そのロッキーが達磨の祭りは見てると熱くなる、という描写の優しさが、たまらない。
信念こそが彼の背筋を伸ばし続けたんだと思う。でも、それだけでひとりぼっちで立つ以外の可能性を、達磨をはじめとする他のチームの中に見たのかもしれない。
そして、その可能性は、White Rascalsにも既にあるものじゃないか。
なんか、それに気付いたあるいは実感したからこそ、お前に一番に相談しようと思った、どうだ?の台詞がくるんじゃないかなあ、なんてことを思うのです。

あのシーンで、嬉しそうにするKOOが愛おしい。そして、そんな存在があの場にたくさんいることが本当に本当に、嬉しい。


クズだ、と言われ続けた彼らは。
例えば、私は村山良樹という人は、暴力装置ではあったけど、コブラと出会う前からロクデナシではなかったと思っている。

ガキは巻き込まない、御守りは拾う。

そういう、あのタイマンとは関係ないところに彼の元々持つ真っ直ぐさを感じる。でも、なので余計に思う。彼は今まで、だというのに、クズ扱いされてきたんだろう。
勉強も運動もできない。たぶん、愛嬌のある要領の良い子どもでもなかっただろうし、そこで、唯一人に勝てることとして見つけたのが喧嘩だった彼に「大人」がどんな目を向けたのかは、想像に難くない。
そんな、むやみやたらと振り回してた拳を納めるところを見つけて、振り回す理由を見つけた村山良樹は、むしろその時から、より戦ってるんだろうなあ、と。

ザム3の村山良樹があまりにも「鬼邪高の頭」で、格好良くて、そんなことを思う。

 

戦いに負ける、ということは、価値がないと言われることでもあるんじゃないか。
お前らがやってるのはたかが子どもの喧嘩だ、無意味だ、と言われるとして、
でも例えば対村山良樹とかのタイマンは彼らにとっては無駄じゃないし
当然私たち視聴者にとっては無駄じゃない。
はたから、大人から見れば馬鹿らしい喧嘩の理由かもしれないけど、私たちにとっては譲っちゃいけない一線だったし
何が違うんだよ!って叫びは、ずっと思い続ける言葉だったわけで。
だから、あれを無意味にしない為にも、彼は負けるわけには、いかないじゃないか。
殴られるリスクも、殴る拳の痛みも、背負う。背負って、彼等は喧嘩をしてる。責任をとってる。

 

だれでもない、自分の矜持。
自分の人生に、誇りを持つこと。

 

スモーキーは、最後、どう過ごしたのだろう。
最後まで、生きることを諦めない。
家族のために誰よりも高く飛ぶ。
そう言い続けていた彼が、まさか、何もせず、殺されたとは思えない。勿論あの数の差だから、それはほぼ蹂躙と言えるかもしれないし、普通に見れば、一方的な暴力なようにも見えたと思う。
だけど、そんなはずない。
血を吐こうが、どれだけ身体が病におかされようが、彼が、ただ殴られ続けるはずがない。

そして、たぶん、それは、あの時だけは自分のためだったと思う。だって、これからは、自分の為に生きろって誰より彼自身が言ったんだから。
死ぬという結末は変わらなくても、黙って受け入れたりはしない。
無名街で、スモーキーという名と、家族を得た彼は誰よりも幸せだった。誇れるような生き様でなくても、誰に理解されなくても。そうまでして守りたいと思えるものがある彼は、幸せだった。だって、そこは間違いなく彼の居場所だったわけで。

きっと、最後、彼は彼自身の矜持を護る為に戦い続けたと思う。それは、すごくしんどいことかもしれないけど、それを不幸だとバカだと笑う権利は誰にもない。

街にしがみつくことと、彼等と一緒にいたいということは違う。
彼らは、彼らを、信じて今を生きていかなきゃいけない。


身寄りがないから、家族として生きなきゃいけない、というのがRUDEBOYSのそもそものスタートだとして
その形はシリーズを通して変わったんだなあと思う。
身寄りがないから、ひとりで生きていけないから助け合う為に助けるわけではなく。


シーズン1のエピソード10、最後、それぞれSWORDの頭たちの表情が私はとても印象的だ。


山王連合会という小さくはない組織を幼馴染の為に作ったと言い切って、そしてチームという形を失っても、幼馴染もその他のメンバーも何も変わらないしただこいつらとつるむだけだ、そう言い切る姿を見て、何かを思う描写があるのがシーズン2だと思うし、その後の映画シリーズたちはそれを前提にしてると思う。

その中でスモーキーは、問い掛けたんじゃないか、と妄想する。
なんで、血の繋がらない存在を家族というのか。身体を文字通り削ってまで、この存在を守るのか。

 

それは、ただ単純にそうじゃないと生きていけないからという打算からしか成り立たないのか。

 

その答えは、もう見えてるじゃないですか。
そして、そう思えることの奇跡を思う。
本当に血の繋がった家族あいてにも、絶対にそう思えるとは限らない。なんなら、ハイローは血の繋がりの残酷さ・脆さも描いてる。
ある意味では絶対のはずの血の繋がりを持っている相手でもそんなことになることがあるこの世界で、全くの赤の他人に、なんでそこまで、思えたのか。
そう思える存在がいる彼の人生は、本当に「最高の人生」に他ならないじゃないか。

 

 

彼らの行き着く先について、前回一気見感想で書いた。
そういう意味でいえば、ザム3では彼らの行き着く先、は見えなかった。私にとってはあの結末は清々しいものではなかったし、琥珀や雨宮兄弟の表情もようやくケジメをつけた、というよりもどこか、浮かない表情にすら見えた。
エリが言う。私以外にも、苦しんでいる人はたくさんいました。
ここに行き着くまでに、あまりに大切なものが理不尽に奪われすぎたし、
そして、これからだって、それがないとも限らない。
まだ、彼らはどこかに行き着いたりしていない。
だって、彼らは、これからだって生きていくんだから。
それはあまりに厳しい現実ではあるけど、同時に、たまらなく優しいと思う。
だから、まずコブラは言う。

俺は、俺たちはここにいる。

観ないふりをされた、いらないと言われた彼等は彼等のために、同じようにそんな中でも立ち続ける人のために、宣言する。

 

認めろ、と
俺たちは、ここにいる。


エンドロールの話もしたいんだけど
村山とチハルの、あの会話がたまらなく好きだ。
そもそもテレビシリーズはチハルが鬼邪高を抜け山王に入ることから始まる。
その中で、ある意味では決別したふたりがああして会話すること、いつかの約束をすること。
あれは、ザムの台詞を借りるなら、生きていたからやり直せる明日がきた、というまさしく、そんなシーンに他ならない。
ほんの小さな変化だ。だけど、私はあのシーンの村山の優しい、おう、という返事がたまらなく好きだ。
まだこれからも生き続ける、次へ進む彼等の道はこれからだってしんどいことがあるかもしれないし失うかもしれない。

だけど、きっと、彼等は大丈夫だ。

 


認めろ、とコブラは言った。認めろ、俺たちはここにいる。
あの勝利宣言は清々しいものではない、と思った。清々しくはない、だけど、間違いなく、勝利宣言で、存在の証明だ。

クレプト・キング

いやこれ、2時間15分じゃ尺足りないな?!
案外と、ひとりひとりのキャラクターについて知らないまま終わってることに感想を書こうとして気付いた。

そんなわけで、ENGさんのクレプト・キング、初日に観に行ってきました。


ある『スリ』の噂があった。
貧しい者からは決して盗らず、標的はいけ好かない金持ちだけ。
盗んだ金の全てを貧しい民に施す義賊の青年。
――彼の名は『月斗(げっと)』といった。

ある日、月斗は追われていた財閥の令嬢をかくまったために、警察に捕まり、投獄されてしまう。
そして、何者かの圧力が加わったのか…… 無実の罪を着せられ、死刑が言い渡された。

牢獄で恐怖に震える月斗の前に、見知らぬ少年が現れる。
鍵のかかった鉄格子の扉を開けることをなく、そのままで……
彼は『レン』と名乗った。

「スリごときで義賊を気取って何になる?
 本当にこの世を変えたいと願っているならば――お前に、それを叶える力を与えよう」

月斗は自分の腕にあるものに気付く……

「それは『盗賊の篭手(こて)』――お前が欲するあらゆるモノを、奪う力を持つ。
 この力をもって牢を破ったならば、その時はお前に、もう一つの姿を与えよう……」

新たな噂が街を駆け巡る。
突如現れた謎の怪盗――貴族の館に忍び込み、悪事の証拠を白日の下に晒す……!
幻を盗り払い、闇に潜む真の悪を照らし出す一筋の月光
――その名は『幻盗・ツクヨミ

新たな義賊の登場に沸き立つ人の群れをすり抜け、
彼は都の中心にそびえ立つ楼閣を見上げた
――この国を治める『皇王・芙陽(ふよう)』の城を……

「いつか必ず、お前からも奪ってみせる」

奪うことしか知らぬスリが手に入れたのは、全てを奪う怪盗の姿だった……

 

これでもか!と込められた厨二的な設定、三次元で見てしまうとともすれば浮きかねない設定は、丁寧な役者さんのお芝居、それを生き生きと輝かせるスタッフワーク、そして、それらをまとめる演出で、浮くどころか、真っ直ぐに観客に届く。
小さい頃学校から帰り、ワクワクしながらオープニングを待ったアニメのようなお芝居、それがクレプト・キングだったように思う。

クレキンの不思議な魅力というか、いいなあと思うところは尺が足りなかった、と思いながらも物足りなかった、とは思わないところだ。
このキャラクターは結局なんだったの?とも、あのシーンなんだったの?とも思わないところだ。

ともかく、私はあの2時間15分を、ひたすらに頭を空っぽにして楽しんだ。

語弊を恐れずに言えば、本当に、大きく心をマイナスに持ってかれることなく。楽しい、という感情でずっと観ていた。
キャラクターたちの時に辛い出来事も含めて、どこか、当たり前のように彼らのハッピーエンドを信じたし、そして、結果から言えばそうなったと思う。

お芝居を、例えば仕事終わりとか学校が休みの日とかに行くじゃないですか。
ブログの他の作品の感想とかで、こう、ぐちゃぐちゃになるくらい色んなことを考える、そんな作品が大好きだし、気がつくとそんな風に私は作品に触れがちなんだけど、
このクレプト・キングに関していうと、なんというか、本当にただただ楽しかった。
オープニングが終わった時、なんでか分からない涙が流れたんだけど、あれは今思えば安心感だったのかもしれない。
あーこっからただただ、楽しい時間がくるぞぉ、という。

決して、ただの明るい話というわけでもなければ、まして、軽い話だと言うつもりもない。
台詞にしろ、設定にしろ展開にしろ、しんどさも悲しさも、怒りもある。だからこそ、あのラストシーンにグッときたんだから。
だけど、それ以上に関わる人たちの、笑顔にするような芝居を、という、そんな姿勢があったんじゃないか。


魅力的なキャラクターたちに、もう一度会いたいと思う。
ただ漠然と魅力的だったと思った彼らの、バックボーンを知りたいとも思う。
だけど、例えばなんなら、スピンオフとかで出会わなくても、私はなんとなく、いいかなあ、とも思う。
彼らの台詞や、シーンを思い出した時、あれはこうだったのかな、と思い出す。そうして、彼等のことを想像する、そんな未来の方が私好みだと思う。

それは、昔見たアニメのことをふとした瞬間に思い出す、そんな心強さに似ていると思うのだ。

あゝ、荒野

あゝ、荒野は、新宿信次の物語だ。
もうどうしようもなく、彼の物語だ。

公式サイトからのあらすじ
ふとしたきっかけで出会った新次とバリカン。
見た目も性格も対照的、だがともに孤独な二人は、ジムのトレーナー・片目とプロボクサーを目指す。
おたがいを想う深い絆と友情を育み、それぞれが愛を見つけ、自分を変えようと成長していく彼らは、
やがて逃れることのできないある宿命に直面する。
幼い新次を捨てた母、バリカンに捨てられた父、過去を捨て新次を愛する芳子、
社会を救おうとデモを繰り広げる大学生たち・・・
2021年、ネオンの荒野・新宿で、もがきながらも心の空白を埋めようと生きる二人の男の絆と、
彼らを取り巻く人々との人間模様を描く、せつなくも苛烈な刹那の青春物語。

決して、寺山修司に精通してるわけではないけど、でも時々垣間見える、ああああ寺山修司!な節と、それでもあくまでこれは現代、しかもなんなら今より少し未来の物語であるという事実に頭がくらくらした。
物凄いエネルギー量の映画だ。前編後編をいっぺんに見てみたかった気もするし、それをやったら死ぬほどしんどかったと思うので、1週間開けてみた今回の見方は、正しかったようにも思う。

破れかぶれな人々が、たくさんたくさん出てくる。だけど、破れかぶれじゃない人が、この時代、もしくは、この世界どれだけいるだろう。

今回、しんどい中で、ほっと息をつけたのが、ジムなどでの新次と建二のやりとりなんだけど、
あまりに当たり前な、あたたかな穏やかな時間過ぎて、後から振り返ると泣きそうになるのは私だけだろうか。
新次の獰猛さは、異常なのかもしれないけど、彼自身、どこにでもいる青年なんだ、と思う。屈託無いふたりのやり取りが、ともかく、好きだ。あの空気感が、後編に繋がって、更に熱量を増す。

執拗とすら感じるくらい、あの世界の舞台が新宿であることが、コクーンタワーなどの風景から伝わってくる。
それに、なんとなく似てる。
どこにでもある。
どこかには、必ずある。
彼等は、どこかで、生きてる。

飢え続けた新宿新次と、渇き続けたバリカン建二は、選ばれなかった人たちである。
全く似てないふたりの共通点は、選ばれなかったことだ。
親に、或いは世間に。というか、その、両方に。
チンピラで暴力者の新次。
吃りで赤面症の建二。

字面にして呻いたんだけど、彼等は「2番目」の名前なんだなあ。
次、と二。

そして、因縁を感じるのは、そもそものきっかけである裕二の存在で、彼もまた、二、を名前に持つ人であるということなわけで。
「あんたも、劉輝さんも、俺を見たことなんかなかったろ」
台詞がうろ覚えなのが悔しい上に申し訳ないのだけど、
あの、叩きつけるような苦しい橋の上のシーンが大好きだ。
新次が捕まるきっかけになった殺人未遂事件で、そもそも、新次を、そしてその兄貴分である劉輝をボコボコにした裕二。
ボクシングシーンでも、橋の上などの会話シーンでも、その目の獣のような激しさにハッとする。

たぶん、ボコボコにしても、彼のこちらを見ろ、という痛いほどの叫びは、今も上がり続けてる。

と同時に、新次がもう俺とお前ふたりの問題になってんだよ!という叫びは、ある意味では彼に応えてるようにも思える。思えるんだけど、そうじゃない。悲しいかな、苦しいけど。
新次は、常にそうだと思うけど
誰かに開かれてるような人間に見せて、その実、少しも相手を内側に入れることはない。
芳子との、部屋のシーンを見て思う。
誰より愛情に飢えているのに、触れたがって、実際触れもするくせに、土壇場で扉を閉める。
お前と俺の問題だ、と言いながら、どれだけ裕二のことを見てたんだろう。
私が、そう思ってしまうのは、後編の新次と裕二の試合後、裕二の表情があるからだ。
あの、表情!
映画館だから悲鳴を飲み込んだ。えらい。頑張った。
あんなに、情報量のある表情、なかなか見れない。あんなに、見てて心臓を握り潰されそうになる表情、ある?
裕二の敗北を、恐ろしく思うのは、劉輝の台詞があるからだ。
お天道様の下を歩くやつには、敵わない。
確かに、裕二はお天道様の下を歩く人なのかもしれない。奥さんがいて、子どもがいて。垣間見えるボクシングスタイルにも、真っ当さを感じる。
その、裕二が、負ける。
この事実の、絶望感を思う。
お天道様に勝つことは、なんなら、新次にとってどうしようもない絶望でもあると思う。救いが、あまりにないと思う。あの瞬間、この物語に穏やかな結末なんて、なくなってしまった。

ボクシングは、より強く相手を憎んだ者が勝つ。

そして、負けた人間は、忘れられていく。

その事実を、突きつけられた建二が選んだ、繋がりたいという欲求
穏やかなあのジムでの生活を捨ててでも、新次と戦いたいと思ったこと。初めて、ボクサーとしての目標ができたということ。
新次が、その気持ちを正確に理解して、同時にその手には乗るなよ、と口にすることにしびれながら、物語は終焉に向かう。


書きながら思ったんだけど、
書きたいことは他にもたくさんあるんだよ。
芳子親子のこととか、自殺防止クラブとデモとか、新次のお母さんが叫んだ、私は私の人生が欲しかった、とか。
なんて、熱量の凄い映画だろう。焼き付くように残り過ぎて、いつも以上に纏まりのない文になってる自信がある。
だけど、敢えて、どうしても、書きたいのは、裕二との試合を経た新次と、建二の試合のことなのです。
裕二は、見てもらいたい、少しでもこちらを見て、繋がって欲しいとずっと願い続けてて、
そしてそれはきっと、この映画に出てくる全ての人が願ってる。
願ってるのに、同時に手負いの獣みたいに、近付くな、と威嚇してる人々ばかりだ。
たぶん、裕二はその中で、手を伸ばして或いは伸ばされた手を掴める人だった。それが、お天道様の下を歩く男、という言葉から感じたことだ。
だけど、その裕二でも、どれだけ願っても新次とは、繋がれなかった。お前との問題だ、と執着しながら、勝ってしまった後は、新次はその手を掴まない。決してその存在を自分の中にいれはしない。
だから、言う。兄貴は、俺と繋がろうとしてる。そうはさせるかよ。と。

過去も、未来もないあの世界で、あれだけ丁寧に描かれた試合は、紛れもなく、今、の瞬間だった。


選ばれなかった新次と建二というふたりの男が、ひたすらに、互いを選んだようにあの試合で思った。
僕はここにいる、愛して欲しい、という訥々とした建二の声が蘇る。静かに、新次の拳をカウントする建二の声を、何度でも思い出す。

裕二も、芳子も、母親も、父親も、選ばなかったけど、選びたいと願うこともあった。
選びたい、選ばれたいと、願うことを、たぶん、私たちは知ってる。その切実すぎる願いがたぶん、孤独というのだと思う。
その中で、選べることが、選んで、選ばれてもらえることがどれくらい奇跡的な確率なんだろう。

新次が、叫ぶ。意識を失いかけた建二に、新次が叫んで呼びかける。
あれが、最後のお願いだったように思う。愛してくれ、愛させてくれという、祈りだった。
そして、たぶん、その祈りは聞き届けられると知ってるからこそ、口にできるものだった。


これは、新宿新次という男の物語だ。
日本という美しくて、汚い国で生きる男の物語だ。
或いは、唯一彼と本当に繋がることのできた、バリカン建二という男の物語だ。

選ばれなかったふたりの男が、ようやく、選ばれることを受け入れることのできた、物語だと思うのだ。

キャガプシー

笑わないと、潰れそうだから笑うということ
全く思っていないことをヒトは口にできないということ
世界は、確かに美しいということ

 


キンキラキンの、ラブに溢れたおぼんろさんの物語。その為に生まれた、キャガプシーシアター。
おぼんろさんの物語に、こんなにぴったりな場所はない。
ほんの少し寒かった寒かったんだけど、それ以上にあったかかった気がする。
白くみえる、役者さんの息に。誰かのもとからやってきた物たちがキラキラと輝く光景に。
ずっとずっと、目を奪われていた。

そんなわけで、おぼんろさんのキャガプシー、初日に行ってきた。おおよそネタバレを含みます!ご注意ください!!

清らかな人間から押し付けられた穢れを浄化するため、
壊しあいをする人形、キャガプシー
そしてそれを生み出すめくらの人形師、ツミと
そんな壊しあいを見世物にするネズミ
10年間、ただただ、キャガプシーを壊し続けたトラワレのもとに
ほんの少しどこかがおかしいキャガプシー、ウナサレが産まれたところから、物語は始まる。

キャガプシーの壊しあいのテレビジョン中継。
ただのショーの時以上に多くの人に見守られながら、物語は進む。彼らの関係は変わる。


独特な世界観と言葉選び。だけど、そのどれもがどこか懐かしい。
産まれた瞬間、ウナサレは絶望する。世界は酷いところだと泣き叫ぶ。そんな彼をそれ以上に強い力で、トラワレがさけぶ、話す。

世界が、どれくらい美しいのかを。


4人の登場人物はそれぞれに、絶望を背負ってる。世界の不幸を背負わされて、この世に生きる。
穢れを背負ったキャガプシーは、恐らく清らかな人間にとっては取るに足らない、視界にも入らないもので、だから、それが互いを傷付けても、見世物に過ぎない。
トラワレの表情や、仕草はとても静かだ。穏やかなのではなくて、幾層にも凝縮された何かが、その底にはある。
ただただ、黙って10年、キャガプシーを壊し続けたトラワレの飲み込み続けた言葉を思う。
その彼が、口を開いた時に表された世界の美しさを思う。
ウナサレは言う。全く思ってないことを、口にすることはできないと思うのです。

ネズミ、という男は自分をネズミのようだと自嘲する。
こそこそと、あちこちを駆けずり回るネズミ。
本当は、彼自身がキャガプシーでありながらそれを隠し、人を殺し、自分の願いのため、ツミやトラワレを犠牲にし利用する。穢れを背負ったからと罵りながら、彼はただただ願いを叶える為に生きる。
いや、ほんとに。こんなに見ていて胸が締め付けられる人もいるまいってくらい、見てて苦しい。その塩梅がお上手な方だよなあと惚れ惚れする。
血が滲むような台詞ばかりで、彼を憎みきれない。
誰よりも苦しんでたのは、誰だったのだろう、と思う。と同時に、より、とかそんなん関係ないなあとも思う。誰と比べて、なんて思う必要はなくて、「彼が」苦しんだ、という、ただそれだけでいいのだと思う。
肩代わりし続けていた彼は、同時に肩代わりさせ続けていて、それでも、彼に用意されたラストは重いつみではあったけど、優しい許しでもあったように思う。

ツミは、というか、めぐみさんのお芝居が本当に本当に好きなんです。
あの、周囲の空気諸共色付ける、あの不思議な力はなんなんでしょう。
笑うと嬉しくなる、悲しみに歪んだ表情には心がざわつく。本当に素敵な女性だと思う。
今回は、とてもピュアで悲しいものを背負っていた女性の役だった。
悲しいシーンでもあるんだけど、ウナサレとネズミの話をするシーンが好きで。あのシーンが好きだからこそすごくしんどいんだけど。
本当に、幸せそうに可愛らしくネズミの話を微笑んで聞くもんだから。そう思うと、ネズミは、もしくは、神様はなんて酷いことをするんだろうと思う。
だけど、同時に力強さもあって。危うさと力強さと。思い返すと、彼女はずっと何かを求め続けていたひとだったように思う。その彼女は、きっと、最後、手の中に何かが残ったと、私は信じてる。


ほんで、ウナサレですよ。
もう、冒頭から、本気で心臓鷲掴みにされたと思った。あんな、喉が裂けそうな叫び声さあ。
力強く動き、手をバタつかせて喉の限り叫んだこと、
笑うということ、言葉や世界のこと、何より、力一杯愛していたこと。
いっこいっこの台詞が、嬉しくて切なくて気が付けば泣いていた。
この物語に出会えてよかったと、心の底から、トラワレとウナサレの会話を聞いて思った。
何より愛したいと叫び続けるその姿を、ずっと見たかったんだと思う。

ウナサレが物凄く好きなのは、
彼は生まれた時、心底絶望して怯えてたわけじゃないですか。
こんな世界に生まれてしまったって嘆いてたわけじゃないですか。
だけど、そうじゃないって教えてもらって、その後どんな答えを知っても笑い続けることと、愛し続けることを選んだかれの姿はなんて優しい物語なんだろうと思う。
そして、それは、物語だと現実から切り離してしまうには、あまりに、生々しい温度と勢いで、心に届いた。


笑わないと、潰れそうだから笑うということ
全く思っていないことをヒトは口にできないということ
世界は、確かに美しいということ

そして、物販で購入した写真セットの4人の写真が、家族写真に見えたこと。
なんだか、それがあまりに優しいことのように思えて、どうかこれからの数日の物語がたくさんの幸せと一緒だといいなあ、と思うのです。
だって、私はこの物語に出逢ったので、まず間違いなくこれからもずっと、幸せなのだから。

High&Lowをほぼ一気見した話

ほぼ前情報のないまま、High&Low The MOVIE2 END OF THE SKYを観に行き、何だか分からないままリピートし、気が付けば、Huluに加入していた。
そういう力がある作品っぽいことは、聞いていた。聞いていたが、まあ、楽しんでも熱中しまい、と思っていた。ところが、蓋を開けて見れば極限状況だった試験前、ひたすらに鬼邪高校のテーマを聞き、胃の痛みを抱えながら家村会のテーマを口ずさむことで職場で戦っていた。

そんなわけで、なんでこんなに通称ハイローにドボンしたかを、文にしたいのだ。テーマは、High&Lowにおける救いについてだ。

まずは、ウィキペディアのあらすじ
伝説はとある街から始まる。かつて「ムゲン」という伝説のチームがこの地域一帯を支配していた。その圧倒的な勢力により、かえってその一帯は統率が取れていた。 だが、ムゲンに唯一屈することなくたった2人で互角に渡り合った兄弟がいた。「雨宮兄弟」である。両者の決着は着かないまま、ある事件をきっかけにムゲンは解散し、雨宮兄弟も姿を消した。 その後、その地域一帯に「山王街二代目喧嘩屋 山王連合会」「誘惑の白い悪魔 White Rascals」「漆黒の凶悪高校 鬼邪高校」「無慈悲なる街の亡霊 RUDE BOYS」「復讐の壊し屋一家 達磨一家」という5つのチームが頭角を現した。その地域一帯は各チームの頭文字を取って「S.W.O.R.D.地区」と呼ばれ、S.W.O.R.D.地区のギャング達は「G-SWORD」と呼ばれ恐れられた。さらに、「敵か? 味方か? 謎の勢力 MIGHTY WARRIORS」が出現する。 時はムゲンの解散から1年後、男達のプライドをかけた新たな物語の幕が上がる。


そも、ハイローは格好いいの集合体である。こうありたい、の集合体といってもいい。

理想と矜持、憧れ。
そういったものの集まりがHigh&Lowだ。
SWORD地区の各チームは勿論、九龍会やMWもきっとそうで、ザム2を見る限り、High&Lowで描かれるのはそんな強さのぶつかり合いの世界なのだ。


理想だけでも生きていけないことを知りながら、決して現実に埋れ切らない。

幼馴染の帰る場所の為だけに、山王連合会を作ったコブラやヤマトを初め、彼らにあるのは「こうありたい」の姿でしかない。
その為に、自分が何ができるのかというその一点しか見てない。
そんなチームが、ぶつかり合っているその姿に、そら、はまらないはずがなかった。
例えばこれが、こうありたい、だけなら若さだなあなんて知ったような口をききながら流せたかもしれない。
だけど、彼らはそれが痛みを時に伴うことを知ってる。
理想を守る為に、こうありたいを貫く為に時に痛みを伴う。それは、自身かもしれないし、大切な人かもしれない。そして、あるいは自分がそんな暴力を振るう側にいるかもしれない。
シーズン1でヤマトがチハルにいったとおり、そりゃいてぇよなのだ。
いてぇに決まってるのだ。派手に殴ったりするし、酷い時にはもっと痛いことになる。
だけど、それを失ったらもっともっと、いたいのだ。

なんて、ともすれば青臭いと一蹴されそうなことを、彼らはしてるのだ。
それもめちゃくちゃ格好いい映像とアクション、音楽とともに。
そら、もう、面白いに決まってるじゃないですか。

あと、友人とも話していたけど、ハイローは凄くお芝居的だと思う。演劇的。
演劇の大好きなところは、間違いなく想像力を掻き立ててくれるところだ。
例えば舞台セットのほとんどない素舞台でも、役者さんの動きや照明、音響でそこの景色が見える。
例えば、2時間しかない上演時間の間でも過去にも未来にも、何百年という時間でも過ごせる。
それが、舞台の魅力だ。
それは、たぶん作り込まれたり重ねられた時間や気持ちが幾層にも重なり合って出来上がるものだと私は思ってる。
で、ハイローを見てるとなんだかそんなものを感じる時が度々あるのだ。
時系列や関係性、バックボーンがたとえ語られなくてもなんとなく、感じる。
台詞にはない気持ちや理由が役者さんの眼差し、あるいは仕草、アクションからビシビシに感じるのだ。
あと、アクションがほんとにひとりひとり、戦いのシーン毎に趣が変わる。アクション、はあくまでお芝居の一部なのだ。だから凄くワクワクするし目に焼きつく。その上ビジュアル的にもワクワクできるくらい舞台セットとの合わせ技の演出が凝られてる。凄い。語彙を失う。身体能力の高い役者さん、普段ダンスを初めとするパフォーマーであることを最大限に活かしてる。
そして、どの役者さんの中にも、役の彼らがいるのだ。岩ちゃんのコブラへの思い入れなんかはあちこちで語られてるけど、たぶんどの役者さんも、そんな姿勢であの作品の中で生きてる気がする。
誰よりもその役を愛して向き合う。だから、何気ないアドリブや仕草にわくわくする。
撮影中のエピソードを聞くと、その即興芝居の多さに驚かされる。その、精巧さにも。

お芝居作りの姿勢の魅力と、物語の力強さ。
その両方が、これほどまでにハイローに夢中になった理由だろう。

彼らの、自分たちの理想を通そうとする姿が、
自分たちの大切なものを守る為なら、その痛みを受け入れる危うさが、
たまらなく刺さるのだ。

ところで、ハイローは元々深夜ドラマからのスタートなので、特にドラマ本編には深夜ドラマらしいギャグやテンポ、演出がある。それが、彼らが背負ったり向き合ったりしてるものの重さを和らげる。それだけじゃない安堵をくれる。

喧嘩ばっかり何故するのか、といえばもうそれは、闘うしかないからだ。
闘わなければ、失ってしまうからだ。

投げ出したくなるような現実がある。
だけど、それは投げ出して仕舞えばもっともっと、辛いことが待ってる。
だから彼らは一歩も引かないし、守ること、以外に基準はないのだ。
相手が強かろうが偉かろうが、命の危険があろうが、そこは譲らないのだ。
なんだかそんな姿が、私はたまらなく、好きなのだ。

そして、それでも笑う彼らが好きだ。
現実がどうしようもなくても、彼らは楽しみ笑うことを忘れない。
そして、ハイローの世界ではひとりぼっちじゃないという優しさがある。
SWORDそれぞれのチームが誰かと時間を重ねながら、その毎日を現実を過ごす。だから、彼らは笑えるし、最高の景色が見れる。
笑い飛ばす力強さを彼らは持ってるし、それは誰かといる限り、より強さを増していくのだ。
特に、テレビシリーズの物語の主軸であるMUGENのエピソードはそんなことをより強く思わせる。
ずっとこの時が無限に続きますように、と願ってつけられたチーム名。
変わらないものはない。だけど、変わることと喪うことは違う。変わっても、形を変えても失わない。

なんというか、ハイローは、物語としてのメッセージの力強さを音楽とアクションで、柔らかくドシっと受け取りやすい形で届けてくれる。

全員主役、というキャッチフレーズは、彼らの物語を象徴した言葉でありながら同時に視聴者への真っ直ぐなメッセージだ。そして、そのメッセージは、日々を生きる人たちへの人間賛歌なんだと思う。

どうか彼らの意地が、拳が、痛み以外の何か、できたら優しい何かに行き着いたらいいと思う。

畳屋の女房

じわじわという蝉の声。
近所の人たちの賑やかな笑い声。
うだるような暑さ。

知らない時代の話である。
だけど、たまらなく懐かしい、帰りたいと思う時代の話だ。


本日千秋楽ですが、逸る気持ちが抑えられないためネタバレブログをフライングで。
初日に観劇。初日に、生まれる瞬間に立ち会えたこと含めて、とても幸せだったと思う。

あらすじ
1959年の夏、
僕の精神寿命は後1年でした・・・
若年性認知症

僕は段々と消えて行くのです。
怖くはありません。
妻の中に僕は生きられるのです。
ただ、迷惑をかけますね。
・・・ごめんね、許して下さいね・・

蝉しぐれが聞こえる中・・・
あなたは生きている
自分が自分で無くなって行く、
想像も出来ない恐怖を懸命に、こらえながら
溢れ出るに違いない筈の涙を、胸いっぱいにためて
あなたは生きている

この手も、この顔も忘れないでね
あなたは、私の中で生き続けることが出来るから
あなたのように強くなりたい
あなたのように優しくなりたい
困った時、苦しい時、
歩むことを教えてくれた・・・
泣いても、泣いても、あなたになりたい

夢儚く 命燃ゆる
あなたになりたい


このあらすじと、フライヤーを観て、絶対に観に行く、と決めた。
大阪から東京まで呼ぶフライヤーかあ、と友人に言われたけど、ほんとそれね。
面白いお芝居を前には、距離とか値段とか度外視してしまう。
そんなことより、このお芝居が見れないまま終わってしまうことの方が惜しいと思う。


ひとりの、文筆家(小説家)聡一の話だ。
聡一の家にやってくる大家姉妹や、近所のおじさん、そしていまだに戦争の陰から抜け出せない佐賀さん。
聡一の家のあの賑やかさがともかく愛おしい。

冒頭、おじさんとトモコちゃんと聡一の会話で始まるんだけど、その素朴さと愛おしさにやられた。
このふたりの存在が、またいい。
ご近所さんなので、お話に大きく関わってくるわけではない。ないんだけど、戦争孤児であるトモコちゃんとその子の面倒をみるおじさんはこのお芝居の大切な存在だ。
子どもがいるってのはいいよ、と途中おじさんが佐賀さんに語りかけるシーン。
ハッとした。

このお芝居の人々は佐賀さんを除き、戦争をある程度飲み込んで、戦争が終わった日常を愛している。日々を懸命に生きてる。
その影は、完全になくなりはしないんだけど、それでも、そんなことは過去のことで関係ない、というように見える(たぶん、見えるだけ、だと思う。野暮なことを言えば)
その意味が、このおじさんの台詞に詰まってるような気がする。
男たちは、それぞれ、戦地での記憶があり
女たちも、大切な人を失ってて
それでも、素麺を食べて笑ってふざけてってするのは、一緒に生きる人がいるからだ。
子ども、という明日からの時間を生きる存在が近くにいるから。

冒頭をはじめとして、トモコちゃんとおじさんの会話は可愛らしくて愛おしい。本当の親子のように仲がいい。それは、隣にいる存在がどれだけ大切か知ってるからだと思う。
そして、そのふたりと嬉しそうに話す聡一の愛おしさったら!
トモコちゃんも、とても賢くてでも子どもらしさもあって、本当に素敵だった。笑顔の奥に、聡一たちへの確かなやさしさがあって、本当に本当に幸せになってほしい。


このお芝居を華やかに優しく彩ったのは田之上さんたち姉妹だ。
もー気持ちのいい女っぷり!
大家さんの多恵子さん、大家ですからのやり取りも、気持ちのいい世話焼きも今時なかなか見ることはできない振る舞いだ。だけど、だからこそ、聡一に出世払い、と家を貸していることに深く納得する。
秋子も、血こそ繋がってないが、多恵子さんの妹らしく深い愛情のある素敵な女性だった。一郎を許すこともそうだけど、春さんが利尻から知らない土地で行くあてもないなか、彼女の店で働いていたのはその懐の深さの証だろう。
ふたりの優しさは、向こう見ずな優しさじゃない。無償の、どろどろとした優しさでもない。
当日パンフレットの、一杯の水、とはまさしく彼女たちのことのように思える。
とんでもない幸福や優しさで、埋められないものがあるというか
生活の中の優しさって実はとんでもなく難しくて貴重なものなんじゃないだろうか。

なんか、この畳屋の女房は、ともかくそんなもので満ち溢れてた。
突飛な物語展開があるわけでもなく、
派手な音響照明があるわけでも、ダンスがあるわけでもない。
大袈裟に声を張り上げることなく、ただただそこに等身大のひとがいる。
だから、もう、本当に愛おしい。

多恵子さん、秋子さんが強さの愛おしさとしたら、貴子さんは弱さの愛おしさだ。
彼女のこれまでは、そう多くは語られない。またこの語られなさがいい。
あくまで、聡一を中心に物語は進むからというのもあるし
何も事情全てを家族や友人が共有する必要はない。
そして、貴子さんがその辺りがすごく絶妙なのだ!
言葉では語られないけど、ふとした仕草や目線に彼女のこれまでを思わせる。
原爆の話が出た時、傷んだ彼女の心がほんの少し覗くシーンには、思わず鳥肌がたった。本当に些細なんだけど、だからこそ余計それが苦しい。
それでも、優しく静かに生きてる貴子さんが本当に素敵だ。


戦後という時代、ちょうど東京タワーの建設が進む東京の街。
舞台セットは聡一の部屋一室なんだけど、その街の活気を伝えてくれるのは、絹代さんをはじめとする編集部の人々と、京子さんだ。
絹代さん、三島さんの力強さは、エネルギーに溢れてる。
三島さんの台詞の中、蓋をされた事実があったからこそ、というのが印象的だった。
編集に関わるひと、そしてそれを援助するひとは一度は何かを失ったり傷ついたひとたちだろう。(というか、戦争を越えた人たちはきっと、みんな一様に傷ついた、なのだろうけど。戦争をその身では知らない私には、推察しかできないけど、きっと、それはそうなんだと思う)
傷ついたからこそ、泣くのはやめて、笑うことを選んだ人たち。自分の精一杯を選んだ人たち。

うろ覚えで恐縮だけど、副題にもなってる滑稽という言葉で印象的な台詞がある。

「無理、そうですね、無理かもしれません、しかし人間とは、無理だと分かっていてもやってしまうやらずにはいられないそんなことがあるとは思いませんか。それは、とても滑稽ですが、しかし、そんな姿こそ人間だとも思うんですよねえ。」


この台詞の、愛おしさったらもう!
そして、編集の人々がやろうとしたことは、まさしくこれなんじゃないか。
無理だろうが無茶だろうが、誰に非難されようが、自分が信じたことを精一杯する。
いつか、出来なかった時があったからこそ。
白川先生に近藤くんも、たぶん、そんな思いから協力してるんじゃないだろうか。
特に、白川先生は、たぶん、戦争中も医者で、だからこそ、救える人をできる限り救いたいと思ってるように感じた。
し、聡一へかける言葉が、本当に医者、と思った。
この人を救いたい、という気持ち。
救われたい、と願ってるのは患者自身だと思うけど、医者だって救うことで救われてるのかもしれない。いつかの希望がもてる、そんな文を書いてください、あなたにはそれが書けると思う。すごく、いい台詞だった。


そんな中、佐賀さんをはじめとする公安組、寅吉もリアルなんだ。
そんな風には思えなかった羊飼い。
狼への復讐を捨てられなかった、羊飼い。
それは、誰より部下を救えなかった自身への復讐な気がして心が痛い。
すごく昏い目をしてるんだよね、佐賀さん。
役者さん自身は普通に同じこの平成の時代を生きてる人なんだけど、
あの目が本当に昏くて冷たくて、そんな寒いところ早く出ておいでよ、と涙がでた。
すぐ近くに羊飼いと一緒に生きて生きたいと思ってる人たちがあんなにいるのに。
公安組のふたりと寅吉の印象的なシーンは、爆発をただ見るしかないシーン、そして、佐賀さんへの、敬礼だ。
当たり前に生きていけるからと言って、傷がないわけじゃない。
泣きながら叫ぶその表情に確かに煙や炎を見た気がした。
観劇仲間とも話してたけど、あれこそ、お芝居の醍醐味だと、私は思う。
ただ再現されたセットや映像じゃなくて。
その役者さん、役の気持ちを通した景色を見ることができる。それが、心に何より迫ってくるのだ。

戦争、ということを更に思わせたのは、聡一の広島の親戚、トメさんによしさんだ。
特に、よしさんのそんなに戦争や命や言うんやったら、広島に来てみたらええ、というあの台詞。
墨を飲んだような気持ちになった。
彼女たちが見た景色は、また少し違うものだし、たぶんそれは原爆で喪った人にしか分からないものなんだろう。
だからこそ、トメさんはよしさんにお前も都会にいきんしゃい、と言ったのかしら。
トメさんの包容力というか、生きて来た重みもまた凄かった。春さんにひんやりした対応する度、見ていて心が不安に潰れそうになったんだけど、そこから彼女を受け入れる、と言った時の安心感っていったら!
聡一の根っこの部分の、家族の断片は、彼女たちふたりが見せてくれた。

戦争の香りの中で、また少し印象が違ったのは、鉄川くんだ。そしてもしかしたら、医学生の近藤くんもここに含まれるのかも。
具体的な年齢や設定は、確か物語中、出てこない。
彼らはただただ純朴で目の前のやるべきことに向け真っ直ぐに毎日を生きてる。
戦時中、彼らがどうしていたかは語られない。
だけど、特に鉄川くんが佐賀さんの話をどこか座り心地が悪そうに聞いていたように見えたのは気のせいだろうか。
役者さん自身のご年齢(と、言いつつおふたりの年齢を知らないんだけど)とともに、あのお芝居の中の「若者」の空気感。
いつか、あの戦後の数年を本当にそんな時代があったのかしらと思ってしまうような時代が日本にはくる。
そういう空気が何層にも重なって変わっていく、そんなものをふとふたりの姿に思ったりした。


印象が違うといえば、一郎さんである。
プー太郎、ダメな男という最初の印象は、最後、聡一が唯一、一郎さんは間違えたことがない、と語られるシーンでほんの少しその表情を変える。
シベリアからの引き上げ。
その時、もう、緊張して怯えながら生きなくてもいいんだ、気を張って生きなくてもいいんだと思ったこと。
一郎さんはともかく笑顔が脱力系な方だ。肩の力が抜けるようなあったかいひだまりのような空気を纏ったひとだと思う。
それは、きっと、そう生きることの幸せを知ってるからじゃないか。
聡一さんの台詞で、あの頃は毎日覚悟をして生きていました。でも、近頃はそうじゃない、それが、という、戦時中を振り返る台詞がある。
あの台詞も、とても印象的だったんだけど。
究極の緊張状態をずっと強いられてて、命を取り上げられそうな状況で過ごす中で、
その張り詰め切ってしまったこころを戻せなくなったひとは、決して少なくなかったと思う。作中なら、佐賀さんがそうだ。

そして、なんだかこれは少し大袈裟なのかもしれないけど、
戦争だけじゃなくて、そうなることってあるんじゃないかなあ、と、
少なくとも聡一さんは、いつか失われる記憶に怯えながら気を張り詰めて過ごしてたんじゃないかなあ。とそんなことを思う。
なら、そんな聡一さんにとって、一郎さんの空気は、きっと、息をついてもいいんだと
気を張っても張らなくても生きていけるんだから、生きていくしかないんだから、
それなら、柔らかく日々を受け入れて笑ってていいんだとそう見えたんじゃないかなあ。

そんで、春さん。
もう本当にね、素敵な夫婦だった。
泣いたように笑うお顔が印象的だった。
ふたりが寄り添うその姿の愛おしさ。もう、本当に幸せをひたすらに祈る夫婦だった。
聡一さんの文を嬉しそうに読む姿も。
不安がなかったわけじゃない。
一緒にいることの恐怖もあっただろう。一緒にいる限り、わすれられることを嫌でも実感しなきゃいけない。だからこそ、聡一さんは離婚届を多恵子さんに預けたんだと思う。
生きている、ということは、幸せなことであればいいけど、それ以上に喪う可能性と常に隣り合わせだから。

そんで、畳屋の女房という秀逸なタイトルにしびれながら、春さんはどんな女房だろうね、って言った多恵子さんの台詞をずっと考えてて。
どんな女房だろう?
文筆家の女房?
小説家の女房?
あるいは、若年性健忘症の男の女房?

なんか、色々考えたんだけど、
多々良聡一の女房、以上にしっくりくるものがなかった。
かなしいことを経て出逢った彼らが、本当に本当に幸せな日々を生きてくれますように、と思う。
幸せな部分を見せてくれたお芝居の通り、最期までそうとは、限らないけどそれでも。

そして、最後に多々良聡一さんの話を書きたいんだけど。

春さんの旦那さんとしての、多々良聡一さんもとても魅力的だったんだけど、
胸に沁みたのはやっぱり筆を握る多々良聡一さんなんですよ。

もう、会話劇の塩崎こうせいさんを、しかもこんな役で観れる幸せってある?
芝居という表現に生きる塩崎さんが、文という表現に命を燃やす男の迫力ったら、ない。


聡一さんは、鬼のような気迫で文を書くわけではないけど
文だけはずっと正気だった。
そして何より妹さんのために始めた文章を書くという、その意味を噛み締めると
最後、照明に照らされた原稿の愛おしさたるや、という思いだ。

もう覚悟しなくていい
もう好きなものを書ける。

聡一さんの文を読んでみたかった。
彼は常に、誰かのために筆をとっていたんだなあ。
そうして生み出す文の中で誰か人間を描こうとし続けてて

それは、利尻でひとりきた異国の男かもしれない、その彼が出逢った優しい春さんのような女性かもしれないし、
羊飼いの男や、水俣病に苦しむ誰かかもしれない

その誰もに、聡一さんの優しい目が注がれている。
彼らが生きていることを、喜んでいる聡一さんの目線が。

思えば、
このお芝居こそ、聡一さんが書こうとしていた人間の話、なんじゃないか。
この物語はね、あなたを守りますよ
その強くて優しい台詞が、今も耳の奥に残っている。

いつか薄れてしまうだろう。思い出せる台詞も温度も、減ってしまうかもしれない。
だけど、確かに私はとても幸せなお芝居を観たのだ。それはきっと忘れない。
そして何より、思い出すたびにすきになるから、その自信があるから、大丈夫なのだ。