えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

デメキン

デメキンを観た後は、ラーメンが食べたくなるので食べたいラーメン屋さんをチェックしてから観にいってほしい。あと、そのラーメンめちゃくちゃ美味しいから、十分気を付けてほしい。
私はレイトショーで行ってど深夜に食べたのにスープまでしっかり飲み干して翌日喉の渇きではね起きる羽目になったので、本当に気を付けてほしい。


お笑い芸人、バッドボーイズの佐田さんの実話を漫画化、映画化した作品だ。
デメキン、と虐められていた少年が福岡トップの暴走族の総長になる物語。

私には、主人公佐田と、その親友厚成の物語のように思えた。

所謂、不良が跋扈している福岡。
冒頭から、殴り合い、殴り合い、タイマン、殴り合いの連続だ。
喧嘩が何の意味があるのか、なんて問い掛けがそもそも存在しないかのように、彼等はメンチを切る。
彼女のとなりにいるため、中卒で働くことを選んだ厚成が言う。福岡、統一しろや。

例えば、不良の一番になったらなんかあんのか、とか、暴走族なんて迷惑なだけじゃん、とかそういう、ある意味では至極真っ当なツッコミなんて彼等には届かない。
ただ思うがまま、自分の存在証明でもするかのように彼等は拳を振るう。

子どもが大人になる物語、ではない。

厚成とか、めっちゃくちゃ大人の局面にたってるけど、彼は言う。「あと少しなんよ、もう少し待っとって」
彼女の隣に立つことを決めたのは彼自身だ。大人になって、彼女と過ごすことを選んだのは厚成だ。
だけど、同時に、子どもでいようとするズルさを持ち合わせてるのも、彼自身だ。

自身のツイートを引用するけど、

「前半、厚成が執拗に俺を呼べよ、っていうことも溜まり場に自分が働くラーメン屋をすることも、置いていく癖に置いていかれたくない、あの本当に子どもが大人になる時の苦しみというか切なさがあって辛いし好き」


大人になる、ってのがなんなのか。
なる必要があるのか。
あるとすれば、どうなれば大人なのか。

佐田は、ともかく喧嘩するし、
土手の喧嘩前のやりとりは本当にまさしく子どものそれだし
厚成も店長にたかるし

だからこそ、ミツグとのエピソードがあるんだろうけど。
本当は大人にならなきゃいけない。
そんな焦燥感というか、そんなことは分かってるんだ、と怒鳴り返したくなるような状況に彼等はいる。
突きつけられてる度合いは人それぞれ違えど、きっと誰しもがそうで、物凄い危うさと終わらせなきゃいけないということは分かってるだろう横顔が、見ていて胸を締め付けてくる。

どうにも、青春の終わりという言葉にめちゃくちゃ弱い。
今まさに青春真っ只中のはずの彼等を見ていても、終わりのことばかりを考えていた。

佐田たちの喧嘩って、一歩間違えば、人が死ぬ喧嘩だと思う。
厚成が執拗なまでにボコボコにされるシーンは見ていて、めちゃくちゃしんどかった。
あれは、ある意味、子どもの喧嘩だから、と看過するわけにはいかない。

仲間の為に、で振るえる拳の度合いすら越えてるなんてつい思ってしまうんだけど。

そんなのは若いやつが言うことだ、とか
拳でしか解決できないことはない、とか、仲間なんて言葉を使うのは若くて青臭いとか。

なんか、きっと、そんな「大人」の言い分の届かないところで彼等は喧嘩をしてる。
でもだから、あんな喧嘩の後に今度、ラーメン食いに行こうぜ、なんて言えてしまうのかもしれない。もしかしたら、死んでいたかもしれない、殺していたかもしれないのに。

そのまま、進んでくれと思う。
世界は、こんなに広いんだから君達が好きなことをしても大丈夫なんだから。
きっと、青春は終わらない。
エンドロール、バイクに乗るふたりを見ながら思った。
それはずっと一緒に彼等が過ごせる、とかそういうことではなくて
自分の信じた道をそのまま一本筋を通せるか、それをきっと、青春というのだから。