えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

キネマと恋人

キネマと恋人を観てきた。
フォロワーさんに勧めてもらってこのお芝居に出逢えた、まずもう、それがなんともこのお芝居に合ってて、最高に幸せなことだと思う。ハッピー!

公演概要

世田谷パブリックシアターが、KERAとタッグを組んでお届けするのは、シアタートラムの小さな空間での、ひとつひとつを大切に紡ぐ、手作り感覚いっぱいの作品。『キネマと恋人』は、ウディ・アレン監督の映画「カイロの紫のバラ」にインスパイアされた舞台である。設定を日本の架空の港町に置き換えて、もう少しだけややこしい展開にすると――。
映画への愛あふれる、ロマンティックでファンタジックなコメディが、息づきはじめる。


ほとんど前情報なしで見ることにした。
映画好きの女性がでること、妻夫木さんが出てること。
最初に知ってたのは、それのみ。

まず、もう、ケラさんお洒落ー!が一幕の感想。
映像と、振付で進んでいく物語や舞台転換。
最高にわくわくする。
そして、お洒落。もう、圧倒的に、お洒落。
私の中で、ケラさんお洒落なイメージが更に確立した。
あと、世田谷の劇場は行ったことがないんだけど、
キャパ250の劇場だそうで。あーそれはこのお芝居に合ってただろうな、と羨ましくもなった。梅田芸術劇場は広い。
しかし、天井が高いので、照明が美しかった。幸せ。
役者さんにスッと降りる照明の美しさ。


映画に毎日を色付けられながら生きる、主人公ハルコ。

彼女に自身を投影して観たお客さんは多そうだな、と思ったし
実際感想を見てると、とても多い。
そのハルコが、映画への愛情を受け止められ、彼女自身を愛されていくストーリーは心がきゅっとなる。
もちろんそれは自己投影以上に、方言や仕草、表情の可愛らしさと、
彼女の薄幸さに幸せになってー!と叫びたくなるような愛おしさを感じるからなんだけど。
特に好きだったのがふたつ。
ひとつが、紐で表現された枠とともに、ハルコがゆらゆらと揺れる演出。
乱暴者の亭主に詰られ、浮気され、彼女は揺れる。
世界を模る紐とともに、ゆらゆら。
それは世界の揺らぎで、歪みだ。
だけど、彼女は活動写真とともにその形や線を取り戻し、笑う。
この感じ。
おそらく、共感した人も多かっただろうな、と思う。
少なくとも私は共感した。
世界がゆらゆらと揺らいで自身も分からなくなる、その瞬間。
世界の線を取り戻せるのは、人によってはとるに足らないものかもしれないけど、彼女(あるいは、私たち)にとってはかけがえのない映画や物語だ。
もう、本当、愛おしい。

そしてもうひとつ。
嵐山に弄ばれたと諭され、泣き喚くハルコの妹のシーン。
もう死んでやる!と泣き喚く彼女が、ハルコに娘のきみこの名前を出され、
きみこの話はしないで、と言うところ。
ハルコは悪戯っぽく笑って、きみちゃんがいれば大丈夫だから、
お姉ちゃんいくね、という、そのシーンのあたたかさ。
どうしようもない失恋、大きな彼女の世界の悲劇が
生活で、戻っていく。
その感じ。もう、たまらなく好き。

映画や物語、お芝居という非日常がかたどって、
娘や姉という家族にその手を繋がれる人たちのなんと愛おしいことか。


ハルコは劇中言う。
現実はみんな悲しかったりしんどかったりすることばかり。
映画の中の人たちは最高。
その、象徴のような、物語のラスト。
乱暴者の亭主の言う通りだ。
現実は活動写真のようにはいかない。
高木が言った台詞のような言葉は、そのまま、台詞のように偽物として、果たされない約束として落ちていく。
だけど、それでも、ハルコは傷付いても、また活動写真を観て笑うのだ。
それは自分たちの生活と地続きで、ほんの少し、私たちの背中を押してくれる。


そういえば、妻夫木さんの映画に一時期ハマり、
その出演作をひたすらレンタルショップで借りたことがある。
そう言う意味では私にとって妻夫木さんはまさしく映画の憧れの人だ。
その人がこの物語を演じるところに、生で触れられたのはなんとも幸せなことだな、と帰り道ちょっとだけ思った。

この世界の片隅に

この世界の片隅に、を観てきた。
小さめの映画館ということもあるんだろうけど、立ち見が沢山出てた。
でも、この作品は、こういう映画館で観たいな、と思った。


あらすじ
18歳のすずさんに、突然縁談がもちあがる。
良いも悪いも決められないまま話は進み、1944(昭和19)年2月、すずさんは呉へとお嫁にやって来る。呉はそのころ日本海軍の一大拠点で、軍港の街として栄え、世界最大の戦艦と謳われた「大和」も呉を母港としていた。
見知らぬ土地で、海軍勤務の文官・北條周作の妻となったすずさんの日々が始まった。

夫の両親は優しく、義姉の径子は厳しく、その娘の晴美はおっとりしてかわいらしい。隣保班の知多さん、刈谷さん、堂本さんも個性的だ。
配給物資がだんだん減っていく中でも、すずさんは工夫を凝らして食卓をにぎわせ、衣服を作り直し、時には好きな絵を描き、毎日のくらしを積み重ねていく。

ある時、道に迷い遊郭に迷い込んだすずさんは、遊女のリンと出会う。
またある時は、重巡洋艦「青葉」の水兵となった小学校の同級生・水原哲が現れ、すずさんも夫の周作も複雑な想いを抱える。

1945(昭和20)年3月。呉は、空を埋め尽くすほどの数の艦載機による空襲にさらされ、すずさんが大切にしていたものが失われていく。それでも毎日は続く。
そして、昭和20年の夏がやってくる――。


もはや、良さ、についてはたくさん話されている映画だけど、せっかくなので、このぎゅっとした胸のいたさを残していたいから感想を書こうと思う。
魅力はたくさんある。
柔らかな絵柄、優しくて悲しい音楽、美しい背景、ころころ表情の変わる愛おしい登場人物たち。
そして、クラウドファンディングで作られた、という、この物語を私たちが選んだ、というのもきになる人が多い理由なのかな、とも。勿論、今劇場に足を運ぶ人の多くは、私も含め、映画ができてからその存在を知ったんだけど。
でも、この物語を選んで切望した人がいる、っていうのはこの作品の大きな魅力なんだろうな。
その上で、だけど、これは特別視される話ではなくて、もっと、当たり前の隣にある優しい話、とも思いたくあるんだけど。

「どこにでもある毎日のくらし。
昭和20年、広島・呉。
わたしはここで、生きている。」

ポスターのキャッチフレーズ。なんて素敵で、この映画の魅力のぎゅっと詰まった言葉だろう。
戦争がテーマではある。
しかも呉だ。大和の母港で、空襲もたくさんあった街。そして、広島、は原爆が落とされた街。
ただ、あくまで、戦争はメインのテーマではなくて、すずさんの生活がメインテーマであり、その中にどうしても関わってくる、そこにあるのが戦争、という印象だった。
多くの人が喪われ、喪う描写もある。し、それがとてつもなく(登場人物たちが魅力的なのも相まって)心を締め付ける。
だけど、それらはすべて、すずさんの生活の中にあって、観てるひとたちはその生活を愛おしく思ったから、きっと、胸があんなに痛んだんだと思う。
主演ののんさんが、私は生活をするのがとても下手だけど、生活するっていいな、と思った、とあるインタビューで答えていた。
作中で描かれる食事や洗濯、ご近所付き合いはすごく丁寧で、懐かしくてあたたかい。
優しい絵にあてられた声はどれも体温があって、優しく生きていた。
戦争、というと凄惨で非日常なイメージがついて回るけど、あの映画は圧倒的に日常が描かれていて、だからこそ、それを時々急に黒く黒く塗り潰す戦争が憎い。
そして、塗り潰されても、続く日常が悲しくて愛おしい。

劇的な台詞がたくさんあるわけではないけれど、じわっと染み込む映画だった。
し、これは映画館のたくさんの人のたくさんの気持ちの中で観れてよかったな、と思う映画だった。
たぶん、私は、あの生きてる人たちに会いに、映画館に行ったんだと思う。

レプリカ

ディー・コンテンツ
「レプリカ」


「あなたの命は本物ですか?」

一人の高校生ボクシングチャンピオン。
その彼に密かに想いを寄せる少女。
過去に娘を亡くした一人の刑事。
そしてある日突然流れるニュース。
そこで伝えられる驚愕の『催し物』

翌日行われるのは、
本物の人間であるかの全国民検査。

もしも突然、
大切な人間を失ったらどうしますか?
涙を流して悲しみますか?
少しでも早く忘れて生きていきますか?
その選択肢の
どちらを取ることも出来なかった、
何組かの男女の物語。

 

飛ぶ鳥を落とす勢いの劇団
「企画演劇集団ボクラ団義」主宰久保田唱。
ドラマ、そしてロジックを大胆に組み合わせるその作風は、多くの演劇ファンを魅了し続ける…。

そんな久保田唱が今より十年以上前、
ボクラ団義結成以前に書き上げた幻の作品
「レプリカ」。

数年前に上演されながらも、
本人が更にそれを大胆に大幅リライトの上、
自ら演出。
彼の現在の創作活動の源流とも言うべき作品が、無くなりゆく劇場笹塚ファクトリーにて
上演決定!
はじまりと終わりの交錯、御期待下さい!


上演当時も、ものすごく、評判がよくて
観にいった人たちも本当に絶賛してたので、楽しみにしてた。
結果、想像以上だった。


レプリカ、人間じゃないのに、人間だと思い込んで
死んでるのに生きてると思い込んで生きている偽物。
偽物は排除しなきゃいけない、偽物なのに本物だと思い込んでいるのは不幸だ。
少しSFのような設定だけど、それはもっと身近な何かに置き換えられるような気がして、観てる途中何度も一時停止して、いったん落ち着こう、と白湯を飲んだ。DVDで観てるとそういうことができて便利ですね。

まず、メインの高校生たちがキラキラしている。
ビジュアル発表当初から、ご本人たちが高校生だってーー?!!というようなツイートをされていたけど、
やっぱり、動いてる姿を見ると「高校生」なんだよなあ。
ボクシング部の男子三人。
たとえば、竹石さん。途中、自分がレプリカだと知って、叫んだり泣いたりするシーン。
ボクラ団義さんのお芝居で、竹石さんのそういうお芝居を観たことはあるけど、
今回の、叫んだり泣いたりは、高校生のそれだった。
わけわかんなくて、エネルギーが内側にこもっちゃってて、それをなんとか発散させようとして、でもそのうまい発散のさせ方が分からなくて。
熱血な演技が魅力的な加藤さんも、すごい気迫とひょうきんさの使い方がいつもグッとくる宗さんも。
いつもの魅力はそのままなんだけど、でも、表現は高校生だった。すごいなあ。


そして、親組の役者さんがまた、いい。
親の葛藤。エゴ。
愛情。
死んでしまった子どもへの執着や、レプリカという偽物に変えてしまった後悔。
それが吐露されるシーンの、エネルギー。
苦しくて苦しくて。もう、炬燵に潜ったね。
あと、印象的なのが、「あなたは罰せられることはない、罪を償うことはできない」という、かみくらさん(漢字を確認できないため、平仮名で失礼します)の台詞。
ボクラ団義さんの、さよならの唄という作品、あと、つい先日まで上演されていた今戻の冒頭でも印象的な罪と罰、償い、という言葉が出てきた。
久保田さんの中で、ひとつのテーマなんだろうか。

沖野さんの身を切るような台詞は、そのまま彼の中にある葛藤を伝えてくる。
そして、それに返す台詞が優しくて。
そのままで、良かったんじゃないか。
優しい分、辛い。

何が正しいのか、何が「人間」なのか。
誰が、不幸で、幸せなのか。

観てる人が、それに苦しくなった頃、物語は佳境を迎える。
きーぼーさんの、台詞が優しくて悲しい。もう、この、台詞。すごい。きーぼーさんの台詞、なんであんなに沁みるのか。

この物語をお芝居で観れてよかったなあ、と思うのは
お芝居が、観て触れて時間を重ねるからだと思う。
言葉では追いつけない、言えない、分からなくなることも
理屈でがんじがらめになることも。
触れ合ってしまえば、案外簡単に通じたりするのかもしれないなあ、と
最後、触れ合う二人や、抱き締めた親子を見て、思ったり。

そして、最後のじゅんさんの台詞がまたお洒落だ。
他人を思いやれる唯一の生き物。
物語の途中の、色んな人の言葉や行動を思い出す。
し、そんな神様、が人間臭いっていうのが、また絶妙に素敵。

いいお芝居観たなあ( ´ ▽ ` )

1月のRe:callも、楽しみになりました。期待!

備忘録を備忘録らしく使うことにする

今戻の話をさせてほしい。
するかどうか、していいかどうか迷ったけど、このブログを作った目的が、そもそもお芝居とかを見て何を考えたか思い出しやすいように、なので、書く。

 

いかんせん、頭がほわほわしてる人間が書いてるので、若干、言い回しが鬱陶しくなってしまってます。ただ、私の頭の整理・今考えてることを忘れない、のためなので、ご容赦願いたい。

 

 

ツイッターでたくさんみた、舞台がうてるということは、当たり前じゃないという言葉。同時にそれは、好きな舞台を観れるということは、当たり前じゃないということなんだと思った。
好きな舞台があることは、奇跡なんだ。

 

 

初日に、私は今戻を観に行った。
実質の、初日ではなくて、本当の初日、途中で中止になってしまった方の初日。

まず、本当に誠実で、あの時できる最善の対応をしていただいたと思う。当たり前かもしれない、だけど、当たり前、は難しい。
当たり前に舞台が打たれることが実はすごい奇跡であるのと同じで。
その日中の返金(一部、システム上不可能な人がいたとはいえ)振替公演。
もっとこうしたら、はあったかもしれないが、私は本当にありがたいな、と思った。ありがたいな、というか、すごいな、安心して見てられるな、と。

 


終わった直後、私は怪我人がいなくて良かったばかり動揺してたので繰り返してたけど、本当に、それがまず良かった。し、それはあのタイミングで止まったからだ。本当に、英断に感謝する。
もー、怖かったもの。
好きなお芝居で、誰かが物理的に傷付く恐怖は、もうできたら味わいたくはないし、味わわないでほしい。ただ、友人も言ってたけど、改めて、舞台は人を殺すんだ、ということを思い出した。

 

 

ごめんなさい、と役者さん、スタッフさんは口にしたけど、
それ以上に私は怪我人がいなかったことにホッとしてたし、
舞台を本当の意味で続けるための対応に感謝かつ、本当にあとはよろしくお願いします。と思った、し、確か、動揺のままそんなことを言ってた気がする。姉に言ったら意味わからんと一蹴された。たしかにー!

 

いやでも、本当に、あの瞬間、1番悲しかったのは、感傷的な言い方をするなら、先述のことと、あとは、お芝居がそのままになってしまったことだった。
そして、それを深く悲しんでいる役者さんやスタッフさんを見てるのが辛かった。
綺麗事、というより、なんだろう、これはむしろわがままな気持ちに近い。なんで悲しいことがこの世にあるねん!!!という、理不尽な気持ちに近い。けど、これはなんかうまく伝えられない気がする。言葉って難しいー。
だから、このまま宙ぶらりんで物語が終わらないように、誰かの元に届きますように、と思って、お願いします、と言ってたんだと思う。

 

 

 

私は、お芝居が好きだ。
というより、お芝居で毎日楽しく過ごさせてもらってる恩がある、と思ってる。
勝手に。一方的に。
お芝居がなかったら、もう少し淡々とつまらなく過ごしてたろうな、と思っている。

 

そのお芝居が非常事態にあることに、心がキシキシいってた気がする。

 

 

バスに乗って、ようやく、私は観れないということに頭が追いついて。
まー泣いた。そらぁもう泣いた。
なんとか落ち着いて、モーニング食べて、友人に心配かけたお詫びとお礼のラインをしながら、そんでまた、泣いた。

 

なんで観させてくれないの!という気持ちというより(つまり、誰かを責めたいという気持ちというより)
観れないんだ!っていう、事実だけの悲しさだったっていうのだけ、私の名誉のために言いたい。
し、悲しませてほしい、と思った。大好きで、楽しみなお芝居が観れないことを、ちゃんと悲しまないといけないな、と思った。
それを、なんだかんだ、理屈をつけて悲しまないのはもっと鬱屈するなにかが生まれた気がする。

 

 

そんで、たくさん泣いてる間に、実質の初日の幕があがり、閉じた。カーテンコールがあった。そのツイートが、流れてきた。
やーーーもうねーーーー、あんな嬉しいと思うなんて思わなかったくらい、嬉しかった。
すごい、舞台がうたれる。
うれしい。
もうね、私の大好きな舞台がこの世に生まれたんですよ、はしゃがずにいられないですよ。綺麗事と言われればそれまでだけど、私にとって生まれる生まれないは切実な話なんだ。


公演中止、を何度か観たことがある。
そのお芝居は、生まれなかった。
今回も、もしかしたら、とよぎらなかったわけじゃない。ネガティヴだから、正直、悪い考えばっかり浮かんだ。

 

 

だけど、いろんな人の不断の努力で、今日も今戻が上演されてる。
もう、ほんと、うれしい。ありがとうございます、って思う。

私は、振替公演を予約できない。初日以外は、どうしても遠征できなかった。
けど、誰かが今戻を見る。それがうれしい。
し、もうね、台本をね、買ってきていただいてね、先に読んで、この間観れた1時間弱をヒントに想像するんだ。そしていつか、舞台が映像化されたとき、答え合わせするんだ。それは、今回じゃないとできない、最高に贅沢な楽しみ方だと思うわけです。


あとね、これは、個人的になんだけど。
私は、今戻を、途中までは観たので、観たんですよ。わお、すごい日本語不自由な文!
最後まで観られていないのに、観た、という無礼さは、本当に申し訳ないんだけど、でも、だって、私はあの1時間と少しで、笑ったりほほう?ってなったり、ドキドキワクワクしたんだよ。もうこれは、観た、んだよ。私にとっての初日はやっぱりあの日なのです。
んで、これ全部見たらもっとワクワクドキドキできるんでしょ?!最高かよ!
楽しみしかない。

 

と、DVDをワクワクしつつ、千秋楽までの成功をお祈りしつつ、書き終わろうと思います。好き勝手書いてすいませんでした!

パダラマ・ジュグラマ

パダラマ・ジュグラマ


おぼんろさんを初めて知ったのは、確かTwitterで流れてきたいいね公演だった。
料金設定が面白くて、corichのページを観にいって、それを呟いたらリプライを頂いたのである。
それからも度々、Twitterで話を聞くたびに、気になっていた劇団さんだった。
路上のパフォーマンスから始めた、という話を聞いたときは、なるほどなーとどこか納得したのを覚えてる。
物凄い愛情と、熱意をネットからでも感じた。

で、そんなおぼんろさんが期間限定配信をされてたので、見てみた。
パダラマ・ジュグラマ。

(あらすじが見つけられなかったので、割愛)

悲しい世界の、お腹を空かせたキツネとニワトリの話。
映像で見てもワクワクする舞台セット。セットっていうか、舞台空間。もっといえば、物語空間。
衣装も素敵、それに照明がのれば、もう、夢の世界。


食べるものと、食べられるものが出逢って、仲良くなってしまう・懐かれてしまう、って、時々見かけるけどそこに生まれる葛藤とか結末は、当然ながら違う。
もう、ハラハラしながら見るよね、それはもちろん。
そして、何よりもう、一人一人が愛おしいから彼らがみんな幸せになれー!!って叫びながら見る。
おかまのニワトリ、リンリンは特に心に残った。パッと目を引くお芝居はもちろんのこと、くるくる変わる表現、華やかさ。見てて、わくわくするとはこのこと!
そして、工場長への切ない恋心。もう、好きになるしかない。
今日は綺麗だね、の言葉に涙がでた。恋をする人は、綺麗だ。

で、そこなんです。

恋をする人は綺麗だったり、
世界は絶望じゃない、とか
何があっても笑っていよう、とか

こうだったらいいのにな(けど、そうじゃないな)っていう台詞、設定がたくさん出てくるこのお芝居。
特に、純粋なタックがそれを口にするたびに、そうじゃない現実が苦しくなる。
印象的だったのはドンドンドン様の話を聞いて、暗かったニワトリたちに希望が見えるところ。
食用の自分たちが、もしかしたら助かるかもしれない、ドンドンドン様が助けに来てくれるかもしれない。
その話にわくニワトリたちは見えはしないんだけど、パッとその場が明るくなるので、どれだけ喜んだのか伝わってくる。
もっとも、ドンドンドン様はとしもろの作り話で、それがわかったニワトリたちはまたすぐに暗いニワトリたちに戻ってしまう。
そうだよなあ、と思う。
そうだったらいいのにな、は大抵、そうじゃないし、
そうだったらいいな!ってわくわくした気持ちは、案外簡単に萎むどころか、
わくわくした分、落ち込んだりするわけで。

ただ、そこで、タックの台詞に痺れる。
信じないひとのところに、ドンドンドン様はやってこない。


テイストとしては、御伽噺なんだと思う。
優しい話だと思う。
だけど、それは笑い飛ばしたくない御伽噺で、できたらそうでありますように、と願いたくなる御伽噺だ。たぶん、それはくたびれた星にタックが願った願い事に似てる。死にたくないと、必死に誓った言葉に似てる。

そして、たぶん、それは叶うのだ。
信じてれば。
そんなことを、ラストシーンを見て、かたく掴んだ手を見て、思う。

あーーー!!おぼんろさんが生で観たい!

ムサコジ

1年前、youtubeでダイジェストを見てからずっと観たかったムサコジを買った。
ダイジェストで観た時から、塩崎さん演じる武蔵の台詞がすごく好きで、ずっと気になっていた。

ようやく観れた。

なので、感傷的度がいつもより増しましです。思うままに書いてます。悪しからず。

 

公式サイトからのあらすじはこんな感じでした。

型破りの武蔵&小次郎!
巌流島で一騎打ち!

悪鬼ムサシvs地獄の掃討人コジローが
時空を超えて血の抗争に決着をつける!

北千住の特設リングにて(客席四方囲み舞台)火花を散らし、踊るように繰り広げられる斬り合いと立ち廻り!
で実際踊る!

時代につき動かされた2人の、我々が預かり知らぬ絆と結びつきと関係をフォークダンスで表す!
全く新しいエクスクエスト2011サマーパフォーマンスは
尋常じゃないSFバトルコメディ!

そして一目惚れしたダイジェストがこちら
http://www.youtube.com/embed/fjueGpHczp0

 

クエストさんの、殺陣やダンスが好きだ。
前、ツイートしたこともあるんだけど、
クエストさんが以前アイビス・プラネットさんの上映会でブラック西遊記を上映したときに、ともかくうちは無駄に踊るし殺陣をします。ともかくします。みたいな話をしていた。
本当に、たくさん踊るし、殺陣をする。
特に今回のムサコジは武蔵の話なのでたくさん殺陣をする。たぶん、台詞を交わしている時間より殺陣の方が多かったと思う。少なくとも、体感として、見ていてそう思った。
だけど、たぶん、クエストさんのお芝居はそうじゃないと感じられない。
それは台詞が弱いとかそういうことじゃなく(むしろ、台詞はめちゃくちゃ強いと思う。だいたい観た後、ひとつふたつの台詞が刺さって抜けなくなる)ただただ、クエストさんの熱量の1番の象徴が殺陣やダンスなんだろうな、という話で。
だから、クエストさんを生で見るのはわくわくする。汗や空を切る音を聞きながら空気が震えるのを感じながら超高速の殺陣やダンスは見ていて心臓が震える。
映像でも、心は震えるけどな!!!
人間って、こんなに凄いんだなあと、クエストさんの作品を見るたびに思う。
人間、こんなことできるんだ。
それは、たぶん、役者さんたちが死力を尽くしてくれているからこそ、感じられることなんだろうけど。
その、時間がムサコジはさらにたくさんあるのである。もう、贅沢。すごく贅沢。なんなら観てるとき、途中で心臓が痛くなって何回か止めた。
あと、オクラホマがすごくおしゃれ。
そして、殺陣やダンスが格好いいのは勿論なんだけど、楽しそう。中には殺し合いなので、怖い顔をしているところもたくさんあるし、恐ろしく体力を使うことのはずなので、ただ楽しそう、というのもなんだか違う気がするけど、いやでも、本当に、楽しそう。
格好いいんだ。フルって、格好いい。
もう、だって、紛れもない全力、なんだ。しかも、それが楽しそう。そんなの、格好いい以外の、表現を私は知らない。


そして、何より。
うるせえ!やろう、の台詞だ。
クエストさんのお芝居は、飛び出す絵本みたいで、すごく分かりやすいわけではない。わけではないんだけど、いくつかの台詞が真っ直ぐ刺してくる。
お通殿に、小次郎に、武蔵が言う。
やりたいから、好きだから、やる。
御託やもっともらしい言葉はどうでもよくて、なんならそれはうるさい「外野」だ。
凡人の自分が、神的な何かを感じる瞬間が、好きなものにはあるんだ。

もう、そんな、こんな台詞、言えるのがすごい。
言って、嘘じゃないのがすごいし、その、台詞を書いたトクさんは何者なんだろう、って思う。
武蔵が挙げる、好きなもの、は色々だった。賭け事やものづくり、女や友達。
仕事、の話ではない。形がはっきりしてるものだけじゃない。だけど、好きなもの、だ。
こんなに勇気が出て、嬉しくなる台詞と出逢えたことが本当に嬉しい。
し、こんな台詞を、人間は言えるんだなってことが、本当に幸せだと思う。
(すぐオーバーな物言いになってしまうのは、私の修行の足りなさなのかもしれないけど、正直な感想なのです)

この台詞を言える人たちだからこそ、あんな殺陣やダンスができるのか。
あんな殺陣やダンスをできるからこそ、この台詞が言えるのか。

ともあれ、

ムサコジを見て、ああだから、私はクエストさんが好きだなあと改めて実感したのである。

ミラージュインスチームパンク 最終兵器ピノキオ、その罪と罰

あらすじ
上空より投下されたピノキオが
地面に堕ちる数十秒の間に、
垣間見る3つの冒険物語───。

 

───気がつくと白い霧の中にいた。

自分は何者か?ここは何処なのか?なぜ誰もいないのか…?

朦朧とした意識もままならぬうち、不意に落下する身体。

「そうだ、ボクは兵器だ。人類を滅ぼす最終兵器。
ここは雲の上。
ボクは地表に落下する。するときっと…!」

ピノキオが覚醒した時!急激に物語に突入する。
そこは過去か?未来か?夢か?現か?

疾走する恍惚とめくるめくくるくるファンタジー!

ピノキオは人類を滅ぼすのか!?

真実は蜃気楼の向こうに──!

 

 

今回はDVDで観た作品。
つい先日まで再演という名のハイパーバージョンが上演されていた。その初演作品、「ミラージュ・イン・スチームパンク 最終兵器ピノキオ、その罪と罰
もう人気な作品なのでどこがどう面白いか素敵か、なんて私が言うまでもない。むしろ何も聞かずに見てほしい。
にもかかわらず、ブログを書きたいと思ったのは初演のDVDを見ていていくつかの台詞に布団ローリング(興奮している様)しながらここがこういう意味な気がするんだ!って話がしたくなったからです。そしてかつ、それをうんうんって流しつつ聞いてくれる友人たちにとうぶん会う予定がないからです。

残念ながら、最終兵器ピノキオは観れずだったのでそことの食い違いにはどうか目をつぶってほしいです。

それはさておき。
以下ネタバレを含みます。むしろネタバレしかありません。
もし見ていない方は、初演はYouTubeに全編アップされてるので見てほしい。
https://youtu.be/5pzJmEN7cAE
一つ目。
ちなみに、分かれて見て一気に観たい!ってなった人は公式サイトでもDVD通販してるので見て欲しい。見て欲しい。メイキングも副音声もついてるよ!お得だよ!

そんでもって。

クエストさんの魅力として、ひとつにはその詰め込まれた要素がある。
なんのお話?と聞かれて即答できない理由もここ。ミラピも、ピノキオとシンキローの話でありながら、妖精たちの話でもあり、シンデレラと王子の話でもあり、大佐とビビアンの話でもある。
そんな中で今日はシンキローとピノキオ、そしてジュンキロウの話がしたい。
の!まえ!に!
クエストさんのお芝居で好きな要素のひとつとして音楽や台詞が入るきっかけの気持ち良さがある。
たとえば、クリンケットをブルーフェアリーが助けにくるシーン。もうあのシーンの台詞の気持ち良さったら!
DVDで観るときは自由なので、全力で合いの手を入れながら観たい。よっブルーフェアリー!みたいな。

本題に戻る。

シンキローとピノキオが気になってくるのはもう、主人公なので、当然だ。
当然なんだけど、あのお話がこんなに愛される理由として、誰しも心の中にピノキオみたいな、オモチャの友人がいるからだろうなあ、と思う。
後々、ジュンキロウの話でも触れたいんだけど、シンキローはピノキオを庇って死んだことを微塵も後悔してない(それがまた、切なくもあるんだけど
それは、ピノキオが友人だからだ。しかも、ただの友人じゃなくてオモチャの友人。心の根っこが繋がった、そんな友人がピノキオなんだろう。その人を喪う方が自分が死んでしまうことより、心を冷やすことがある。そう思うとシンキローはきっと、後悔していない。危ないよ、ピノキオ。の台詞を思うとちょっと自信なくなるけど。
ただ、ピノキオは逆にそんな友人を喪ってしまった。しかも、自分のせいで。
その気持ちはどれほどのものだったろうか。

そういえば、ミラピを貸した友人が感想で何故ピノキオが作った世界なのに彼は思い出さなきゃいけなかったのか、と言っていた。私は、それはピノキオが罪を犯しているし、だから、罰を受けるからなんじゃないか、と答えたのだけど、
友人はそれから副音声を聞いて、ラストのダンスシーンで衝撃を受けたらしい。曰く、このお芝居がジュンキロウの見ていたものな可能性がある。
いやまあ、最終兵ピ、パンフにてそれはないというか、ピノキオが見ていた物語だってわりとハッキリ示されたんですけど。
でも、確かに彼はこの物語の重要人物だなあとその話を聞きながら思った。
だって、もし、彼が見てるならピノキオが罰を受けるのもストンと納得するのだ。そりゃ、そうなんだ。だって、許せるはず、ないんだから。
シンキローが後悔していなくても、そんなの、受け入れられるはずないのだ。
そんなことをぼんやり考えながら、ただ、ピノキオもジュンキロウも、シンキローが亡くなってしまったからそこから本当に救われるのは、難しいなあ、と哀しくなる。

そして、話は戻ってピノキオが罰を受けなきゃいけなかった理由である。
というか、いったんジュンキロウがというのは置いておいて、ピノキオが自分で綴ってる物語で、つまりは自分が神様であるはずの世界でわざわざ思い出す苦しみを味わった理由についての妄想だ。もちろん、これは私のひとつのこうかなあ、の可能性の一つとして聞いてほしい。

そんなことを書きたくなったきっかけの一つは
「なんでこんなことになっちゃったかなあこの世界」
「この、世界?」
という、シンキローとピノキオの台詞だ。
さっきも書いたけど、ピノキオはこの世界では神様だ。ピノキオが事実を曲げ、自分に都合よく、シンキローと遊び続けられる世界を作ったのだ。
自分のために。
でも、そのピノキオの存在理由は間違いなく、シンキローな訳で。そして、シンキローは、そういう意味ではピノキオにとっては神様と同義だったわけで。
その、神様からの世界の否定。
ふとそんな風にこの会話が思えて、そうだとしたらピノキオが作った世界は崩壊に向かうなあ、と納得したのであります。かなしい。


死んだ人は生き返らない。心の中で生きている、なんて詭弁だと一蹴してしまいたくなるような哀しさが、ある。
んだけど、でも、やっぱり、根本の解決じゃなくても、どこか救われてほしい。救い、なんていうと大げさだけど。シンキローの物語を綴り続けること。事実を曲げるのではなく、忘れないでいること、そうして話すこと。それは、確かに残された人の心を優しく包み込む。それこそ、人間最大の力、創造力の使い方なんじゃないだろうか。