えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ボイルド・シュリンプ&クラブが楽しみだという話

ボイルド・シュリンプ&クラブの配信がある!やったー!!!
苦しくなるようなニュースが多い中で、嬉しい告知があった。


「芝居が終わったら観客の心の中で芝居が始まる」をモットーにしている大好きな劇団6番シードさんの最新公演の配信が決まった。
今、様々な声があって、判断があって、その中で私はただの観客なので観たいということ以外の言葉を持ち得ない。
なので、時勢がどうこうではなくて、ただただ、観たいお芝居が観れるんだやったー!ということを言葉にしておきたい。言葉にしておけば、忘れない。ブレたとして、思い出せる。

今公演、劇団員以外の客演の方にも好きな方が多く、また6Cさん(劇団6番シードさんの愛称、以下、この表現をこのまま使う)で出逢うまだ観たことない役者さんにも毎度わくわくさせてもらってきたから、とんでもなくはしゃいでいる。好きな人たちのお芝居は私にとってモンスターやレッドブル以上に効果抜群の栄養ドリンクである。


そして何より、私は冒頭書いたことをモットーにしている6Cさんのお芝居が大好きだ。
観終わって、それから物語が始まる経験を何度もしてきた。
6Cさんの物語の多くは突拍子もない設定というよりかは丁寧な会話劇だ(あえていうならその会話劇は超高速会話劇だったりするけど)
ただ人が出会って、物語が始まる。


そして基本的には笑いがたくさん散りばめられている。コメディ、ということも多い。


ところで私は、笑わせてくれる脚本が好きだ。
これは完全に好みの話だけど、コメディやギャグがたくさん散りばめられた話が好きだ。笑えるという意味で「面白い」は最強だと思う。
だって笑ってると楽しくなるし。
さらに言えば、6Cさんのお話はコメディな上にヒューマンドラマだ。


こういう説明するときに、ヒューマンドラマ、と便宜上使うけど、これって結構難しいな、と思う。
なんか、だって、人が出る時点でヒューマンドラマでは…?とふと疑問が湧いてしまうのだ。でも、確かに自分がヒューマンドラマが好きな自覚がある。人が出ていてもヒューマンドラマ、には分類できないな、と思う作品もある。
とりあえず、ここで言いたいのはひとりひとりがわりと、しっかり生きてるということだ。
しかも、変に物語を背負ってとかではなくて、ただただ、生きてる。
きっとこの人は今日、布団から身体を起こしてご飯を食べたり歯を磨いたりしてここにいるんだな、と思う。もちろん、当然、役者さんの話ではなくて、その人が演じてる役の話だ。


6Cさんの作品の中でも特に私にとって大切な公演がふたつある。
2015年に上演された、「ふたりカオス」と、2016年に上演された「Life is Numbers」という作品たちだ。
私はその時、息を潜めるように、呼吸を忘れるように、舞台を、観た。
生の生きている人の強さと美しさがそこにはあった。

人と人が出会ったことで奇跡は生まれる。
だとしたら、舞台のあの瞬間瞬間、瞬くそれは、たぶん、奇跡そのものなんだと思う。



とはいえ、じゃあ生で観ないと体感できないのかというとここがまた難しい。
間違いなく圧倒的に、絶対、そりゃ、生がいい。というか、生と映像はまた違うものなのだ。私は喫茶店で飲むコーヒーも家で淹れるコーヒーも好きだけど、そういう話というか。同じコーヒーだけど、その二つは絶対的に違う。全く違う。でも、家で淹れるコーヒーも美味しい。
なんなら、私は6Cさんのお芝居に映像でも何度も、嬉しいくらいに出会ってきた。
そもそも、最初は別の劇団の役者さん目当てでDVDを見た。観て、そこに生きる人たちがコロコロと表情を変え、笑い怒り生きてる姿に惹かれて、劇団6番シードさん自体が大好きになったのだ。
生きている人間は最高だと思う。変わる表情とか、呼吸とか。そんな瞬間、人に出会える劇団6番シードさんが好きだ。



そして、劇団6番シードの代表である松本さんの脚本が大好きだらこそ、私は毎公演楽しみなんだと思う。大好きだ、と思う理由は先程書いた、笑えるという面白さは最強だということが一つ。
それから…間違いなくこれが大きい…一番核というか、ああだからだ、と実感した公演があった。

2018年に上演された「劇作家と小説家とシナリオライター」という公演である。
タイトルの通り、物語を描く人々の話だ。劇作家、小説家、シナリオライターが協力しながら一つの物語を描くことでお芝居自体が進んでいく。
その中、大切なシーンで登場人物である劇作家が言うある台詞が私は大好きだ。そしてだから松本さんの脚本を信じているし、大好きなんだと思う。


私がお芝居を観るのは、その時が一番、人間を好きだと思う瞬間だからだ。
そして、そんな私にとってあのワンシーン、人がそこにいて生きて、動くことで変わるということを信じた松本さんの言葉が、たまらなく好きで、だからこそ彼の描く作品を大好きだと思うのだ。


なんで長く書いてしまったけれど、明日から幕が開く「ボイルド・シュリンプ&クラブ」がともかくとんでもなく楽しみだというそれだけの話です。
大好きな劇団の、さらに大好きな人たちが客演で出演しているその舞台は、稽古期間のツイートを見ながらとんでもなく楽しみにしていたものなのだ。そしてその舞台を観たら、私はまた、ああ人間好きだなー!と大きな声で叫びたくなる、そんな気がしている。

手を繋ぐ話

今期、たくさんドラマを観ている。当社比ではあるし見逃してあとでまとめて観ようと決めているのもあるからあれだけど、たくさん見ている。
そして今見ている作品の中には、普段なら「好みじゃないな」と観ていなかっただろうな、と思うものもある。なんなら、ラインナップを眺めていたときにはこれは1話で離脱かなーと思っていた作品もなんだかんだ見続けそうだな、と思っている。
それが物凄く楽しい。これ、ツイートもしているし、なんならブログにも以前書いてるので、何回言うんだと自分に少し呆れるところではあるんだけど、どうしたって嬉しくて楽しいので、何度も言葉にしたくなる。
そうすることで、私はこの感覚を自分のものにしたいんだと思う。


ところで私は人と話をするのがわりと好きなんだけど、こないだ話していてすごく嬉しくなることがあった。話す話題は人それぞれ相手によって様々だけど、やはり、"推し"の話をすることが多い。その中である友人に推しの活動を見る中で「後悔したこと」の話をしてもらったのだ。


(あまり詳細には書けないなか念のため補足しておくとその「後悔した行動」は推しや他のファンに迷惑をかける類のものでは一切なかったし、何かマナー違反だ、と呼ばれることでもなかった。多くのファンが、そうしていることで、でも、その人は自身がやった後、違和感を感じた、という話だった)


推しに限らず、人との向き合い方、というのは人それぞれで、正解の形は人の数ほどあるんだと思う。
だから、私はその人がしたその行動が間違いだった、とは思わない。だけど、その人が自分の行動に違和感を感じた、というのはものすごく、分かる気がした。
し、同時にだからこの人から推しの話を聞くのが好きなんだよなと再認識した。
このコロナ禍においてエンタメや推しとの触れ合い方は今まで以上に多様化した。そして、その結果、今までにはなかった"違和感""間違え方"が生まれたのかもしれない。
これはあくまで、私を通しての結論だから、少しズレるかもしれないけど。
でも、その違和感を覚えたその人がこれからその推しさんの活動を観てどんなことを考えるのか、感じるのか、どうするのか、を私はまた聴いてみたいと思った。
だってそれは、きっとコミュニケーションや人間関係が生まれ続けてるからこそだと思うのだ。


推しだからコミュニケーションでも人間関係でもないでしょ、と言われるかもしれない。直接触れ合ったわけじゃないと言われるかもしれない。だけど、そこに人と人がいて、向き合いたいと思うならそれはもう立派な人間関係でコミュニケーションじゃないのか。
その人の表現が好きで、その表現を受け取ることが好きだとして。その"表現を受け取る"はコミュニケーション以外の、なんだというんだろう。
逆に、どれだけ身近な人でも向き合ってないそこには人間関係もコミュニケーションも存在しない。そんな風に私には思えて仕方ない。



私が後悔した、と聞いて嬉しくなったのは、それが生身のリアルな関係に思えたからだ。
好きな人との間で間違えるのはしんどいし辛いしできれば無い方が良いのかもしれないけど、
人は間違える。でも、その間違える、100点じゃなかったと思うのは相手が好きだからこそ、あり得ることなんじゃないだろうか。
相手にベストなやり方で何かを届けたい、と思っていなければ、あるいは受け取ろうとしなければ、きっと「違った」と気付くことはない。
一方だけの話なら、正解も間違いもなくて、ただそこに消費があるだけだ。するりと通り過ぎる時間があるだけだと、私は思う。
積極的に間違える必要があるかはもちろんまた別の話だけど、試行錯誤して、伝わるように、相手が喜んでくれるように(それは結果的に、そういうのが自分が嬉しいからこそ)することは、本当に、なんか、愛だよなと思う。


そういえば少し前、職場の人にそんなに人に会えなくて寂しいなら出会いに行けばいいのに、と言われた。
今はマッチングアプリもあるし、友達でも恋人でも作ろうと思えば知り合いがいない土地だろうといくらでも相手は作れるよ、と。
確かに、と検討してみて、いやでもこのご時世だし、とか色々考えながら、私はそういうのは必要ないな、と思った。
なんというか、それよりも今はドラマとか映画に出逢う時間にしたい、と相手に伝えた時「変わったこと言うねえ」と返された。


そうか、変わってるだろうか。私はそうは思わないけどな。


その違和感を、ふとその友人と推しの話をして思い出した。聴いた推しの話やドラマを手当たり次第に観ることがとても楽しいということを考えてる時に、蘇った。
そうか、私は、「あ、面白くなかったな」「合わなかったけどここは好きだったな」と思いながら観れる時間が、嬉しかったのか。


それは、後悔したり違った、という100点以外が生まれることが、生身の感覚だと捉えてるからかもしれない。


ドラマを怒涛の勢いで観ながら(本当にこんなにいくつもの作品を一度に観たのはほぼ初めてだと思う)私は、何度も思いがけない瞬間を味わった。面白い!と思ったり、え、なんでと思ったり。違うんだよな、と考え込んだり、その瞬間は言葉にならなくてもずっと小骨のように残る違和感について考え続けたり。

それって、すごく、コミュニケーションに思えた。少し前に放送された作品を観ることも多くて、その当時のことを思い出したり調べたりしながら"出逢い直し"をすることが楽しかった。

寂しいから、で自分の違和感(この時期に人と出会うことへの)に蓋をして動くよりか、よっぽど、正しく間違えたりズレたりしながら、思いがけず、好きなものが増えることの方がずっとずっと嬉しかったのだ。



違った、の中でどうしてだろうって考えたり、手を繋ぐ方法を探すことと、普段観ないドラマを好きになることをイコールにするこの感覚がどれくらい伝わるかは分からない。
私も結局、感覚でしかわかってないのかもしれない。でも、ともかく、普段「好きだろうな」だけでドラマを観ていた時とはまた違う幸せが今私にはある。
そのことに、友人と話していて気付けた気がする。

人は時々間違えるし、うまくいかないことだってたくさんある。そもそも、どれだけ似てても違うし、変わるから重なったりもしないのかもしれない。だけど、その時、手を離したくない・もっとしっかり手を掴みたいと思えることはすごく幸せなんじゃないか。

私は、なんというか、そういうことを考えてると無性に嬉しくなるのだ。

花束みたいな恋をした

これは、花束みたいな恋をした、にコンプレックスをゴリゴリに刺激された人間の感想だ。
誤解を恐れずに言うと、坂元裕二さんの作品を観るのが怖かった。
だってなんか、坂元裕二さんってお洒落な作品の印象が強すぎるのだ。台詞に洒落っ気があって、深みがあって、一つ一つの質量が重い。ちょっと捻ってあって、それこそ、花束みたいな恋をしたに出てくる麦くんや絹ちゃんが好む作品だと思えて仕方なかった。



そして、恥も外聞もなく白状するなら、私はそんな彼らにコンプレックスを抱いていた。
一つ一つのことにこだわれて、流行だとか社会だとかの目を気にせずに自分の好きなものをただ好きだと愛せる。
もう、そんなの、めちゃくちゃ格好良いじゃないか。お洒落じゃないか。
だからこそ、そんな坂元裕二作品を観るのが怖くて、そんな作品を好むふたりのラブストーリーなんて観ようもんなら身悶えしながら死んでしまうんじゃないかと半ば本気で思った。
だって、きっと彼らはお気に入りの音楽があって、古着屋で服を買い、レコードとか聴くのだ。今打ちながら偏見すぎて自分に引くけど、でもだってあれだろ、お気に入りの家具があって、こだわりのちょっとレトロだったりアンティークだったり、なんかカタカナのお洒落な感じのアレでまとめた部屋に住んでるんだろ。


残念ながらこちらは特に何かにこだわれず、と言って流行にも乗れずなんか薄ぼんやりした、どっちつかずの立ち位置でお洒落な人にも世間にも愛想笑いしてる感じですよ。
そんなコンプレックスと偏見にごりごり固まった私は、半ば本気でこの映画を観たら途中で身悶えして死ぬんじゃないかと思っていた。お洒落さや格好良さで人は死ぬ。オーダーメイドな人生を選びたいと思える人間への羨望で絶対に目が潰れる。その上べつに世間にも馴染めてるタイプじゃないから彼らをまたまた、なんて苦笑いすることもできない、確実に死ぬ。やってらんねえってなる。その自信だけはめちゃくちゃある。怖い。


そして、その予感はまあ、もちろん、めちゃくちゃ的中する。もう、なんか、冒頭の出逢って惹かれていくシーン、うわーー!!!!!!!!と羨ましさでハゲるかと思った。なんなら多分、心の中で二、三回禿げた。なんだろう、二、三回禿げるって。
手作りの生活たち、大切なもの、彼らだけの"共通言語"。普通になるのって大変だ、と呟く彼らが羨ましかった。特別な彼らがひたすらに眩しかった。


そして、眩しかったからこそ、生活に飲まれていく麦くんと絹ちゃんに、寂しくなった。
子どもみたいなこと、と言ってしまう言葉に傷付いた。いつかの言葉が届かなくなることが、共通言語が失われていくことが悲しかった。
あと、ほんの少し、悲しい寂しいと思える自分にほっとした。そこで、あのふたりのすれ違いを喜ぶような最低な人間になってなくてよかった。


あとさ、その、これは誰がそう思ったのかというのが難しいんだけど、観終わって数時間経って、思う。
特別、なんかじゃなかったんだよなあ。
たぶん、この話できるあなたが特別、世界で私たちだけなんてことはなくて。
さらに言うと、私と麦くんと絹ちゃんは違う種類の人なんかじゃなくて、
わりと当たり前にあちこちにいる人で、だからこそ羨ましかったし、寂しかったし悲しかった。


語弊をおそれずに言うなら、麦くんと絹ちゃんも、特別でありたかっただけなんじゃないかなあというか。
普通の人だった。
だからこそ、生活に飲まれていく彼らを悲しいと思ったんだな。


絹ちゃん、分かるよ。わかるんだ、でも実用書を読む姿を悲しいなんて思わないでよ。
なんとか二人でいられないかな、とファミレスのシーンで唸って、でも、いられないよなあと思った。
別れなくてもいいじゃん、やっていこうよ、という麦くんの台詞を思い出す。本当に、そうだよ。でも彼らのあの時間が特別であるためには、お別れしかなかったかもな。



私は、ゴリゴリの"労働者"だ。夢のある仕事をしてるわけでもない。よく、仕事で会う就活生に言っていた。憧れる仕事ではないかもしれない、将来の夢で挙げてもらえる仕事なんかじゃない。
でも、私は、毎日が楽しい。

あの頃の自分は、と考えて思う。たぶん、私は、将来こんなふうになりたいなんていう夢もビジョンもずっとなかった。
だけど今日、モーニングを気になった店で食べてのんびり街を歩き、本を読んで、映画を観て、それから昼間酒をする。それは、想像しなかった未来だ。なりたいとも、なりたくないとも思ってなかった。でも、わりと今、こんな生活が嫌いじゃない。


どっちが偉いとかどっちが正しいとか、
大人だ子どものまんまだとか、どーでもよくて、羨ましいとか共感とか、そういうのでも、ないんだよ。


そして、そんなことを考えながら思った。
お洒落で、ポストカードとか部屋に貼ってて色んなことを知っててこだわりがある絹ちゃんや麦くんも、「それっぽい」人なんかじゃないのだ。
それぞれに、彼らだけの人生を生きているのだ。

あの、好きなものを共有した特別な夜も、パズドラしかできないと呻いた日々も、どちらも変わらず、彼らの生活だと思う。
そこに、有利不利なんてなくてそれぞれに大変で、それぞれに幸せなんだろう。そうであって欲しい。彼らは彼らの幸せを、私は私なりの幸せを。まあ、そんなこと言っても、たぶん、生きてる限りどうなるんだ、って生きていくしかない。


だとして、彼らに「楽しかった」「幸せだった」と束ねて飾りたい時間があることは、とても、彼らのこれからにとって、心強いものだと良いと心の底から、願う。
そしてそれは、特別と呼んで、良いんじゃないか。

3年A組 -今から皆さんは、人質です-

先生の言葉は、届いたんだろうか。そんなことを考えるのは、野暮かもしれないけど。

今更だけど、3年A組を観た。
話題になったドラマなので、やんわりは知っていた。なんなら、1番肝になる結論……柊先生の目的は知っていた。そんな中、民王を観たことで菅田将暉さんのお芝居に今更ながら改めて惹かれた私はTverの配信をきっかけに観る機会を得たのだ。



さて、そもそもリアルタイムで刺さらなかったところの理由に配信を見ながらしみじみ思い至った。
リアリティ云々というよりかは大味という方がしっくりくる展開や設定の数々。それはなんというか、こう、絶妙なところだった。好きだな、というのとちょっと合わないな、というのの。
でもなんか、話外れるんだけど
Tverの配信で気になるドラマをわりと片っ端から観ていた。もう、それが物凄く楽しくて。
例えば苦手な役者さんとか、合うかなあと思ってた題材とか。そういうのが、いくつか合ったんだけど、それが面白かったんですよ。
楽しい、めちゃくちゃ楽しい…と噛み締めるように思っていた。楽しいだろうなと予測した作品が楽しいことも嬉しいけど、それ以上に「あ、こんなに面白いんだ?!」とわくわくするのは嬉しい。


もちろん、その面白い!は普段どストレートど真ん中に刺さった時とはちょっと違うんだけど、
それって、ふらっと入った居酒屋で通いてえ、とはならないんだけどあ、今夜ここで飲んだの最高じゃんって笑うような気持ちに似てる。
知ってる世界だけで構成されるより、楽しいんだよな、たぶん。



そんなわけで、私は3年A組をほんの少し、半歩くらい下がった感覚で観ていた。
それは冷めてたとかではなくて、なんか、また違った楽しい感覚だった。
しっくりこないことは時々あったんだけど、それは多かったんだけど、楽しかった。



しっくりこなかったのは
たとえば最初、柊先生の年齢設定が、しっくりこなかった。
余命幾らかだとして、大切な人が傷付いたとひて、その行動をするだろうか。いやでも、この年齢だからこの…言葉を選ばずに言うと突拍子もない、とんでもない…計画を選べたのか。そんなことをずっと考えながら観ていた。
生徒たちが柊先生の"授業"に感化され、影響され、変わっていく。誰にも理解してもらえないと閉じていた生徒たちが開いていく。


それを観ながらそうか、だからこの年齢じゃなきゃだめか、と納得した。
高校の時、果たして27歳の先生を自分が若いと観れていたかは微妙なところだけど、今アラサーと呼ばれる年齢になった、私は27歳が高校生とそう大して変わらない、とすら感じている。いやだって、私、全然あの頃から変われてる気がしないもんな。
それはともかく、だ。
だから、柊先生はこの年齢である必要があったし、きっと、生徒たちにも届いたのだ。
歳だけ重ねて、分かったようなことを口にする"大人"じゃなくて、
柊先生自身正解に迷いながら、方法を探しながら不恰好なくらい無茶苦茶な方法で、道を見つけようとするから。
だから、聴いてみようと思えたんじゃないか。
そうすれば、画面向こう、誰かに届くと思えたんじゃないか。



で、実際届いたんだろうか。
最終回の、弾丸のように湧くコメントともに、血を吐くような柊先生の台詞は、リアルタイム当時も観ていた。観ながらこのやり方って冷めて受け取られるんじゃないのかな、それとも逆にこれくらいのが響くのかな、とぼんやり考えながら。
その頃よりかは、彼の痛みを具体的にイメージしながら、それでも、やっぱり届くのかなあと思っていた。
実際、あれからも、いくらだってそんな「殺人」は日々、あちこちで繰り広げられてる。本当に人というものに心底、うんざりしたくなるくらい。いっそ、最低さは増してるんじゃないの、と思う。
でも、同時に思う。
たぶん、スタッフも、そして菅田さんを始めとするキャストも、分かってる。届かない、世界は変わらない。
実際、3年A組を観てると知り合いと話したときにあれ、サイコパスな感じの序盤は良かったのにと言われ、なんだか悲しくなったりもした。
ほら、届かないじゃん柊先生、と呟きたくもなった。


でも、多分、柊先生はそんなこと、分かってたんだよな。


浮いてるんじゃないのと思うくらいに大味の設定だって、なんか、そのバランスを勝手に感じていた。
なんとなく。
飲み込みやすいように整えられた形の中で、子どものように無邪気に信じてるというよりも、そうしていく中、一筋でも、と諦めすら滲む真剣さで、物語は進んだ。
なんかそれは、うまく言えないけど、すごくよかった。
バズって、届く範囲が広がれば、その先、どこか誰かひとり、手を繋げるんじゃないか。止められるんじゃないか。
大きく届けようとするよりも、全部に伝わると信じるよりも、そんな無謀な賭けにでも出ようとする彼らが、なんか無性に格好良かった。
そうか、柊先生はそうしたかったのか、となんだか斜め上の感想を抱きながら見終えた。少なくとも、ここには届いたと思い続けられたら良いな。

街の上で

※ネタバレがあります

不在を描いてくれるから、好きなんだろうか。
スクリーンの中に映る会話は、時々、思わず目を閉じたくなるほど居心地が良くて大好きだった。


街の上で、を観てきた。
所謂ミニシアターといわれる映画館で公開された作品で、なんか、それがすごく良かった。
街の上では、約一年前に前売券を買っていた作品だ。茶封筒に特典のステッカーと入れてずっと大切にしてきた。
そのチケットをようやく使える。そんなわくわく感を味わいながら映画を観れるのはそれはそれで、とても幸せだった。


この映画は……と打ちつつ、ほかの観たことのある今泉監督の作品もそうなのだけど……あらすじをどう書いて良いか迷う。
大筋の話をするならば、浮気をされ、その上だから別れて欲しいと言われた古着屋の青が学生監督の制作映画に(演技なんてしたことないのに)誘われる話である。ただ、これはあくまで大筋で、そういう話、と言ってしまうとどこか違和感がある。
むしろ、街の記憶の話という方が近いような気もするのだけど、それはそれでなんとなくズレてしまうような気がするのは私だけだろうか。
ただそれでも、やっぱり"下北沢"という街の記憶というか、温度感のようなものが映画のそこらじゅうに溢れていたと思う。


ネットで見かけた今泉監督とラッキーオルドサンのおふたりの対談がとても好きだった。

その中でも語られていたことですが、演劇が好きな地方出身者てある私にとっても下北沢って憧れの街の一つだった。
大学時代お芝居を観るために下北沢に降り立った時、ものすごく言いようもない気持ちになったことを覚えている。
青が生活の中で、あの街にいること。
その風景一つ一つに、いつの間にか馴染みの風景が増えたんだなあとじんわり、心の中、あたたかな気持ちが広がった。あの日、おっかなびっくりいつか降り立った私は気が付けば数え切れないほど、下北沢に行き、お芝居を観た。あるいは、友達とお茶をした。

あーーーあの街が好きだな、と映画の中、歩いたことがある道を見かけるたびに思った。そして、同時にもちろん、下北沢の話なんだけど"下北沢"だけの話ってわけでもないんじゃないか、と思う。


いや、間違いなく下北沢の話なんですが。
さらに言うと、街を歩けばお芝居のチラシを見かけ、すれ違う人はギターを背負い、単館系の映画のチラシが居酒屋には貼ってある。
そんなの、下北沢だろ!な気もするんだけど。
ただ、なんか、下北沢!って物語というよりも、文化が息づく街の気配、というか。


すごいな、今泉監督の作品を観るたびにそうだけど、本当に一つもうまく言葉にならないんですよ。
それは、もしかしたら救われた!感動した!あるいは、爆笑した!号泣した!なんてものとは少し離れたところにいるからかもしれない。


それは、青とイハのあの夜に似てる。
あんな夜が私は大好きだった。飲んだあと、少し話し足りなくて、話すような。
腹を割り切って話す、というと少し違う。ほんの少し気を使うし、でも、なんか時間のせいか柔らかく残ったアルコールのせいか、ふわふわといつもなら栓を締めるところが緩むような、そんか会話が私は好きだった。
お、よかったな、とそんな夜を越えるたびに思った。楽しいな、と思う。人生悪くねえな、なんてにやにやする。そう、にやにやするのだ。



あの眠い時間のなんとも言えない空気の中でしかできない会話は今、どこに行ったんだろうな。
ふとそう、さみしくなった。なりながら、ここにいたのか、とも思った。

なんとなく、街の上でをはじめとする今泉監督の撮る映画の中では、そんな空気の中で息をしているような気持ちになれるのだ。



元関取の人が言った、知らなかったんだ、という言葉。そこにあることとか、全部分かるわけではないけど、たしかにある。あるんだよな。
カメラを通して見ると変わった世界とか。
茶店で話す好きなものの話とか、それを聴いてる人とか。
聖地巡礼なんて言い方にするとズレてしまう、好きなものが存在した街とか。
あと、どれだけ色んな人に愛されてる人でも、本当に愛されたいたった一人とうまくいくかは分からないこととか。


そうか、好きな、手触りのいい(心地いい)ものがたくさんあったから、私は嬉しかったのか。
不在を考えることは、"居た"ことを覚えてることだ。だとしたら、考える時間は本当に愛おしくて私は好きだ。

プロジェクター購入のススメ

あ、やばいと思った。
やばいな、これはやばい。やばいぞと仕事からの帰り道、思う。ほんの少し足早に歩く。ついでに厳しいなって思ったので、普段我慢している菓子パンを買った。買って、家に帰ってお湯を沸かして、セッティングをしていく。棚を出し、距離を確認する。そうこうしているとお湯が沸くからスティックのカフェオレを作る。
ジジッと音がして起動すると、眩い光が壁に投影された。
 
 
 
プロジェクターはいると思った。
他の何を削ってもいる。そうその当時一緒に住んでいた姉に宣言していると、誕生日祝いと餞別と言ってプロジェクターを贈られた。
去年、世の中がざわざわと「これは只事ではないぞ」と不安に覆われ出した頃、久しぶりの一人暮らしを始めた。仕事の都合での転勤で、元々住んでた地を遠く離れた場所へと旅立った。
必要なものをリストアップしていく中で、上位にあったのが、プロジェクターだ。
 
 
ブルーレイデッキや、携帯、パソコンをミラーリングできるそのプロジェクターは壁に投影できるタイプである。
小さなワンルーム。その新居の家具配置は、プロジェクターの映像を投影する壁ありきで決めた。
「なんでプロジェクターが欲しいの?」と姉は、いつか私に聞いた。私は、好きな作品を壁にぼんやり流しながら寝たいから、と答えたと思う。
 
 
 
そしていざ手に入れた2020年、想像以上にプロジェクターが大活躍した。
生のエンターティメントが……いや、正確にはおおよそほぼ全てのエンタメが……一度、ほぼ止まった。止まって、新たに「オンライン」という形になって届き出した。
その時、私は物凄く姉に感謝した。
プロジェクターがあると、小さな私の部屋はライブ会場になるのだ。
部屋を暗くして、携帯を操作し、壁に投影する。その大きな画面に映った"推し"の姿に、最初、本当に心臓が震えた。その日、私が「プロジェクターが必要だ」と思ったその伏線を、思わぬ形で回収したのだ。
 
 
 
ところで、実際テレビのモニターに映すのとプロジェクターに映すのを「画質」という側面だけで比べるとプロジェクターを推すのは少し難しい。機種や壁の状態などによっても、画質というのはたぶん、異なってくる。あと、案外距離を取るのが難しくて部屋の状態によっては家具が映り込むことも正直あるのだ。
そう思うと、大きなテレビのモニターの方が綺麗に観ることができるんじゃないか、と思う。
だけど、私は様々な配信ライブ、配信公演をプロジェクターで観た。
その理由の一つは、プロジェクターという機械が部屋の中に非日常を招き入れてくれるからだと思う。
 
プロジェクターを使うためにはどうしても部屋を暗くする必要がある。普段はなにもない壁に向かって光を当て、距離を調整する。これも、ある意味で「非日常」へと進む段取りの一つだ。
そして何よりも、そうして"壁いっぱいに映し出される好きなもの"は夢のように素敵なのだ。
 
どんな物語よりも残酷でくだらなくてどうしようもない、だけどどこか非現実的な未知のウイルスに埋め尽くされた時間の中で、現実空間を夢でいっぱいにすることは大きな意味があった。
 
 
そして話は、冒頭に戻る。
その日、私は色々嫌で、疲れて、そんな自分をどこか俯瞰で見ながらやばいな、と思っていた。
特別何かあったわけじゃなく、いやむしろ何もないからこそイライラもやもやと虚しかった。
ちょっと悪いことしてやろうと心の奥底で底意地悪くつぶやいた。それでも、誰かへの嫌がらせではなくズボラで丁寧な生活の真逆をすることを選ぶのは、単に、これ以上がっかりしないためである。
 
 
その時ふと思い出した。ちょうど、星野源さんのYELLOW PASS限定配信「宴会」のアーカイブ期間ではないか。
更に言えば、私には、プロジェクターがあるじゃないか。
 
 
 
ここでまず、星野源さんの「宴会」という配信について話したい。
宴会、とはその名前のとおり宴会というコンセプトで行われた配信である。ライブパートと、宴会パートがある。配信ならではの曲・人員の構成と演出、そしてライブ後のメンバーでの"宴会"をそのまま見せてくれるというイベントだった。
私がこの宴会が好きなところはたくさんあるんだけど、この「配信だからこそできること」がダントツで好きな理由なのだ。
 
 
ライブパートも、ライブ、ではあるんだけどまるで一緒に遊んでるような距離感、表情で進んでいく。
冒頭で視線を合わせて始まる。楽しい音が一音、弾ける。
 
 
そうだ、宴会があるじゃんか!
 
 
そう思い出した私は、慌てて帰ってプロジェクターを設置し、アーカイブページにログインした。
手には好きな菓子パン、カフェオレ。真っ暗にした部屋に入場曲としてファンからリクエストされた星野源さんの曲たちが流れる。
画面に、源さんの笑顔が映った。
 
 
真っ暗な部屋にひとり。ただ、そこには柔らかな光がぼんやりとあった。
部屋は、好きなものしか存在しない小さな宇宙になる。
私はそれを見届けるために、あえて床に座り込む。ついでにブランケットを被った。
曲が進むごとに、楽しそうに笑う彼らを観てる間に、ぼんやりあった「あ、やばい」は溶けていく。後に残るのは、楽しいと好きだけだ。
 
 
 
 
新生活は、言葉にできないもやもやがすぐ近くにやってくることが多い。だからこそ、好きなものにすぐ手を伸ばせる環境が大切だ。
そしてプロジェクターはボタンひとつで、部屋を好きなもので埋め尽くせるそんな魔法のような機械なのだ。
だからこそ、プロジェクターの購入を、ぜひ私はお勧めしたい。
 

anone

「先生あのねして良い?」

これは私が時々友人に言う言葉である。
先生あのね、とは昔小学生の頃あった連絡帳の俗称だ。先生と児童、あるいは保護者とのコミュニケーションツール。今もそれがあるかは分からない。先生や保護者の負担を考えると無くなったかもしれない。

ともあれ、そのノートにはその日あったこと考えたことを「先生あのね」と書く。だいたいは日々のくだらないことで、時々、言葉にするにはうまくいかないような相談事が混じる。

聞いてくれるだけでいい、ただそこに在るということを「そうなんだ」と相槌を打つように聞いてくれたらいい。そんなニュアンスを込めて、「先生あのねして良い?」と聞く。

それはもしかしたらとびきりの甘えだったのかもな、とドラマを観ながら思った。この甘え、はだから反省したというよりも、そうさせてくれている友人からの愛情を噛み締める気持ちと、感謝の気持ちからくる言葉だ。


そのドラマの名前は、ズバリ、「anone」という。


出てくる登場人物たちはみな、どこか欠けている。欠けているのか、足りないのか。打ちながら少し迷う。

だけど自らをハズレといい日雇いバイトでネカフェを家として生活する主人公ハリカをはじめ、みんな「幸せそうに生きている普通のひと」が歩く道とは少し外れた道を歩いている。

そんな彼らが出会い偽札製造に巻き込まれていく物語はだけど、どこか優しい。優しいのに苦しい。ひたひたと忍び寄る不安ももちろん見ていてしんどいんだけど、それ以上にどれだけ幸せそうに笑っていてもなくなるわけではない「自分の思い通りにはいかない人生」を歩いてる事実は変わらない。


持本さんは余命が短いし、青羽さんは家族に「いらない」と言われてしまったし、亜乃音さんは娘から二度と会いたくないし関わらないで言われる。彦星くんはお金がないから最新医療が受けられない。

よくぞこんなに、と思うほどままならない。うまくいかない。なんでこんなに、と呻きたくなるほど、彼らは「生きづらい」人生を生きている。



しかし、こうとだけ書くとまるでものすごく暗いドラマのようだけど、案外そんなことはない。むしろ結構笑って観るシーンも多かったりする。


ハリカたちは次第に「家族」のように生活を共にする。ご飯を食べる、パジャマを着て眠る。
私が彼女たちを家族、だと感じたのは「あのね、」と話し始める何気ない会話のシーンだった。
日常の中で出会った面白い人、見かけたお店の旗がはためく様、昔あった悲しいこと、おかしなこと。
そんな「だからなに?」とも切り捨てられそうな話を彼女たちはそれはそれは楽しそうにする。
坂元裕二さんの脚本はどこか外れたような会話が多い。例えば、カルテットの唐揚げにレモンをかける、の台詞はまだ私その作品を見てはいないけど強く印象に残る会話のひとつだ。
日常のなか、ありそうないやむしろ台詞でないと言わなさそうな、そんな紙一重のバランス感覚の台詞たち。
その会話は、きっと、相手との信頼感というか近い温度感があるから成立する。


オチなんてない、山だってあるわけじゃないけど、どこか子どもの頃にずっと大事にしていたようななんの変哲もないビー玉のようなきらきらした会話たち。それが、彼女たちの時間の柔らかさを際立たせた。


ところで、ハリカたちを「生きづらい人生を生きてるひと」と随分な書き方をしたけど、そもそも「人生イージーモードでずっと過ごしてます」なんて人を見たことがないんだけど、どうだろう。
例えばはたから見ていて「楽そうでいいな」って思う人がいたとして、そんな人も実は何かに苦しんでるかもしれないし、もし苦しんでなくて実際イージーモードだ、と感じてるとして、もしかしたらとんでもない虚しさと一緒に暮らしているかもしれない。


だとしたらどうしたら生きていけるのか、なんで息をしてられるのか。人生というどうしようもない、途方もない時間をどうやって過ごすのか。どうやってるのか、そんな方法、どっかにあるのか。

作中、そう聞かれたハリカが返した言葉を、私はしばらく考え続けたいと思った。



ままならなくて、どうしようもなくて、それでもそれでもって打ち消しの接続詞を重ねてる。
その接続詞が繋がる先は、何も特別で素敵な毎日じゃない。輝くような毎日でもないのかもしれない。
あのね、から始まるなんでもない会話をうん、と聞いてくれる誰か。そんな時間。そうなんじゃないの、と思ってる。