えす、えぬ、てぃ

お芝居の感想など

川を眺めていたオタクが、エンタメに心を預けて生きるようになるまでの話

ザワでぶん殴られて、なんか、諸々考え込みながら、いっそ棚卸しでもやるか、と思った。
最近、棚卸しなブログをよく読んだというのもあるけど
元々このブログは主にお芝居を観た時、自分が何を考えたのか思ったのか感じたかを記録するようでしているので、なら、ザワをきっかけに棚卸ししたい、と思ったならやってみようと思う。

多くの人が言う通り、ザワは普通にはちゃめちゃにアクションが最高で、大人も子どもも格好良いエンタメ作品であり、
この刺さり方はたぶんおかしいので(笑)ザワの感想的要素は少ない。

 

私は、新卒で入社した会社で身体をぶっ壊した。今時珍しくもない話だ。
最初におかしくなった、と諦めたのは本屋でだった。足どころか、指一本動かせなくなった。
ただ、私は昔から頭の使い方が下手で思考回路がフル回転すると立ち止まって動けなくなる(物理)があったので、そんなに動揺しなかった。そういう時は落ち着いて、違うことを考えながら空でも見上げればなんとかなる。
ただ、その時は店内だったのでそうもいかず、どころか人の気配と密室感に立ちくらみを起こしていたので、ああこれはまずいことになったなあ、と思った。
その後、友人と約束していたので現状を報告して、合流できたのは予定より一時間以上過ぎてからだった。
なんで追い込まれたか、なんて仕事のノルマで怒鳴られ続けて毎日終電、休みもほぼ無し、みたいな生活続けてれば当たり前っすよねえってへらへらしてたことぼんやり覚えてる。それからめちゃくちゃ怒られて、辞めろ、と言われたのも。その頃、趣味で忙しくてたまの休みの日もなんとか朝から晩まで動き続けてたのもまずかった。
だけど、思考回路を他で埋める、くらいしかあの時の私の地獄から逃げる手段はなかったのだ。

それから繁忙期に入り、なんとか転職したいなあと更に予定を詰めて動き続けてどうにかこうにか生活していた。
お芝居があったので、ギリギリなんとかなると思っていた。
深夜バスで東京に行き、日常を離れていれば笑うことも泣くこともなんら変わりなく出来ていた。だから、平気だと思っていた。なんだかんだ、丈夫にできてる、と感心していた。

そんな中、それはある日突然やってきた。

朝起きてから、足の動きが悪くて、その日は営業会議が予定されていた。ブロックで集まって、成績の確認と原因究明をする。その時、ほぼほぼ、予算の達成は難しいこと、そしてエリアが予算未達なのも「あいつが足を引っ張るから」と発表されることは決まっていた。


人ごとみたいに、動かない足に分かるよー、と声をかけた。分かるよ、行きたくないよな、動きたくもないよな、でも頑張ろうな。そうだ、帰って観るDVDは何が良い?
それでも、部屋の廊下へ続く敷居が跨げなかった。困った、トイレ行けねえじゃん。
仕方ない、ととりあえず着替えることにして、ワイシャツに腕を通そうとする。できない。あ、やべえ、と気付いたころ、じわじわ息苦しくなる。
昼からの会議に合わせて早起きはしていたけど、時間が間に合わなくなる。その時、ツイッターでネタにさえすれば何とか動いてくれないか、と現状を書き込んだ。ウケる、こんな、まんまブラック企業で働く社畜みたいなこと、あるんだな。息はできないし足も腕も動かないし困ったなあとぼんやりしていたら、休め、と友人たちに説得されて、会社に泣く泣く電話した。


「ワイシャツ着れへんのやったら、Tシャツ着てくるか?そういうわけにもいかんか」


いくかよばーーーーか!!!!!
ってギリギリの理性で怒鳴らなかったの、めちゃくちゃえらいと思う。何とか、いかないですねえ、と答えて、それから数時間、気絶していた。していた、と気付いたのはたまたまその日仕事が休みだった友人が連絡の取れない私に鬼電をかけてくれたからだった。

それから、病院に行き、案の定適応障害と軽度の鬱の診断をもらった。その間も、会社からは休んだことへの叱責の電話がかかってきた。
付き添いの友人を見つつ、いやこれ、この子いなかったらさっさと道路飛び出してたなあタイミングだなあと思いながら、作ってもらったご飯を食べて、なんとか好きなお芝居をかけながら電気を消すことで眠った。

それからも、仕事には行った。胃潰瘍になった。ご飯は食べられないけどノルマはあるので、アイスコーヒーに死ぬほどガムシロップを飲んだ。お客さんに、頼むから休んで、と頼まれた。仕事に出ると、友人や同期が電話を、かけてくれた。帰りの電車、ちゃんと乗り込んだと分かるまで同期は何度か電話を繋ぎっぱなしにした。死ねないもんだなあ、とぼんやり思いつつ、有難いなあと思っていた。
会社に、休ませてくれ、と言っていたけど、奇跡的に数字が伸びてしまって、だから大丈夫だと言われた。甘えてる、と叱責されたかと思えば期待してるからだ、好きだからだ、と言われてこれ、気を狂わせる実験とかでよく聞くやつだ、といっそ面白かった。

相変わらず、お芝居でバランスを取っていた。その頃には家にはたくさんDVDがあったから泣くべき、笑うべきに合わせてDVDを見ていた。こんな素敵なものがあるから、世の中捨てたもんじゃない、ほんとは、そんなこと信じられなくなってきていたけど、意地のように念じて、好きなものの話をツイッターでしていた。

あれはたぶん、意地だった。

そんなある時、淳さんのお芝居の話をしていた。
聴き心地のいい台詞回しも、目を張るようなアクションやダンスも、そして何より細部まで意識の配られたお芝居も見ていて、すごくすごく美しいと思ってて、

その頃、それを魔法みたいだ、と思った。

きっと、どんなことでもこの人が言えば、舞台上どは本当になるんだろうな、と思った。
そんなことを呟いていた。私は、淳さんがもし実は魔法使いなんです、ってある日公表しても驚かない、やっぱり!っていうと思う。

そんな時、リプライをいただいた。魔法使えますよ。その一言を見て、めちゃくちゃ泣いた。
泣いたし、お礼を言った。なんだか、それはギリギリ信じようとしてることの背中を押してもらえたような気がした。

演劇が魔法なんですよ、と付け加えられた言葉を心のそこから信じようと思ったのは「時をかける206号室」だった。
あんなに楽しそうに稽古をしていて、そして、あんなに美しくて幸せな舞台を、生で観たこと。
それを、生身の人が作ったこと。
仕事辞めよ、と決めた。たぶん続けたらいつか、身体をぶっ壊して死ぬんだろう。だとしたら、こんな芝居が観られなくなる。それは絶対やだ。さっさと辞めよう、私には観なきゃいけない景色がまだまだたくさんある。

たまたま飲みに行った友人がどんどんゲッソリしていく私を見て言ったことを思い出していた。つくが、もし、好きなものの為に死ぬなら私は良かったって言うよ、でも今の仕事のために死んでも葬式にだって行かないからね。

で、休みを捥ぎ取り(最初、退職は聞き届けられなかった、ひたすら説得して説得して、の生活が始まった)なんとか病気を治すことから始めた。病気を治すこと、仕事を辞めること、それがひとまずの目標だった。
ただ、わりとポジティブだった。鬱は治らねえとか知るかよ、決めてんじゃねーよ私はまだまだ芝居観るんだからな、と思っていた。
それで、とりあえず眠ることをなんとかしようと思って毎日毎日外に出た。背広をきた男性を見ると身が竦むことがあったから携帯に好きな芝居のワンシーンを録音した。それを聴きながら、三時間くらい歩いたり、時には自転車に乗ったりして梅田に向かった。電車には、乗れそうにもなかった。
それから、ひたすら、日向ぼっこをするといいと聞いたので好きな本を持って河原にずっといた。日暮れまで。川は普通に流れてるのになあ、とかこの人たちは普通に生活してるのになあ、と思いながら、なんとか、生きてるけどさっさと死ねたら良かったのになあ、とか考えてるから完治は遠いんだなあ、とか

そういうことをひたすら考えて考えて、お芝居にもがっかりしかけて、それもふたりカオスを観て乗り越えたりして

背広を着てるひとを見ても息切れしなくなった、夜眠れるようになった、体温調節ができるようになった、知らない人と話せるようになった、知り合いに連絡が取れるようになった

そういう、出来るようになった、をたくさん重ねて、お芝居を食べていなくても、ただ普通に楽しむこと、が出来るようになって、仕事も見つかった。そこでも色んなことがあったけど、感情を芝居に任せ切らなくても働けるようになった。

この頃くらいから、自分の思考回路の暴走との付き合い方を見つけた。
エンタメに振り切らせるのだ。
お芝居を見て感覚を研ぎ澄ます方に全部持っていく。質量保存の法則じゃないけど、そうして心を預ければ、足が止まってしまうこともなくなった。
そこで考えたり出逢ったりしたことが背骨を支えてくれるようになった。
「なんでそんなに感情移入してるの」と言われることが多いけど、たぶん、私は元々日常に満遍なく置いていた感情に関するエネルギーを全て、エンタメに振り切ってるからだと思う。
そうしたいと思った、思えるものに出会えた。


川を眺めて眠ることができるのを待つだけのオタクは心をエンタメに預けることでなんとかこんな毎日でも過ごす方法を見つけた。

依存じゃないと祈りたかった。だから、余計頑張ろうと思った。

任せてしまってる感情や心が重たいなら、その任せたことで得たエネルギーを何かに変換できればチャラにできないかと願った。
そんな頃、ハイローやLDHに出会った。搭載されるエネルギーはどんどん強大になっていって、出来ることは無限に増えるようにも思えた。

 


ザワを観て、楓士雄が持つ人、であることにものすごく苦しんだ。あれは「私がもたない人」だからこその劣等感だった。
彼に惹かれる人の気持ちは分かった。痛いくらいに。
でもだから、尚更苦しかった。


ハイローは、私にとって持たない人たちの話だった。
失くした人たちがもう一度見つける話だと思っていた。もしくは、持てなかった人が見つける話だと。


そんな私にとって楓士雄くんは異端児だった。
圧倒的に光の主人公であり、持っている人で、救う側の人だった。それが、持たない人間の僻みであるということは、重々分かっている。
彼の強さが初めからそうだ、ということでもないかもしれない。そこを決めることはできない。


あと、あの、弁解をすると私だってたぶん「持ってない」わけじゃない。
棚卸しなんてしなくても、私はいかに都度都度、人に支えられてきたか、わかってる。
助けてくれる友人達がたくさんいて、そもそも、だからここまで生きてる。
気を狂わせる実験であるやつ!と前職の上司たちの叱責と甘言の交互の詰めに耐えれていたのだってこの人たちがいくら私を大事だと言おうが、本当に大事にされること、がどういうことか知ってる私を壊したりはできねえんだよなあと思ったからこそだ。


それでも。
間違えたことや、失くしたことがいくらでもある。一度は本気で、世界が終わればいいと思いながらそれができないことくらい分かってるからだれかころしてくれって思いながら過ごしてしまったからこそ、ああして完全な光の強さを見るのが、辛かった。
間違えた人間が敵わないこと、をもう一度見せられた気がした。そんなことないんだって、分かってもいたけど。


人生は要約できねえんだよ、とは伊坂さんの作品中の言葉なんだけど、結局どこを切り取るかで、なんだって変わる。
最強と言われてる村山さんだって勝てない、と叫んだことがあった。
その人たちが生きてること、観て、聞いて、考えてること。
ハイローは、繰り返し、それでもその時々を精一杯生きることしかできないと言っていた。
そうすれば、ちょっとでもマシな未来がくることを信じるしかないんだ、と。

 

 

今の私の人生をここできりとったら、どんな形をしてるんだろうか。川を眺めるしかなかったあの頃より、ちょっとはマシになってるだろうか。
相変わらず、少しくらい扱い方を知ったところで、私の感情は役立たずのピンボールみたいに、こうして映画一本でぐちゃぐちゃに考え込んで暴走する。だけど、私はそうして預けることだって、悪くないって思ってる。
そのおかげで、知ったこともある。出逢えた人もいる。
なら、せめて胸張ってけ、と思う。焼き鳥ビルまでは建てられなくても、小さいお店出せるくらい、それくらい、かっけー大人に、なりたい。その為に私はこうしてぐちゃぐちゃに考え込むのだって、悪くないと思うのだ。たとえ、遠回りに見えても、これが私には似合いの歩き方だ。

 


川を眺めていたオタクは、今日もエンタメに心を預けて、面白おかしく生きている。

 

 

 

 

ザワ初見時感想:楓士雄くんにタイマンでボコボコに負けた話


救われても良いんじゃないのってことなのかもしれない。

 

楓士雄くんを見てて、そんな、と思った。
どうあっても彼は「主人公」で「持っている」「愛される人」だった。
メタとしての発言をするならテンポ的にもストーリーを尺的に考えても、楓士雄くんにこれ以上のエピソードとしての説得力を持たせる必要はない、たしかに描いたら説得力は増すけど、そんなの無くても多分、演者である川村くん自身の持つ魅力も含めて、彼についていきたい、と思わせる説得力は画面中にあふれていた。
し、それは何も役者による補強なんて話でも無くて、例えば鳳仙とやりあった後に「お前が本当の相手じゃなかったことが分かっただけで充分だ」と笑うふたり、とかさっちーにしろ楓士雄くんにしろそれだけで「頭を張る」素質を見せつけて、納得させてくれてるんですよ。


かつ、ザワオでのじいちゃんとの別れもあるし、そもそも、誠司くんも口にした通り、知りもしないで、なんですよ
彼が何を見て、聞いてその上でああして笑ってるか知りもしないで、なんだけど

 


あの、ちゅんちゅん組が、下につくって言った時、ものすごくマジか、と思ってしまった。
それは信じらんねえってことでは無く、むしろ圧倒的に納得していた上で、しんっっっっど、と呻きそうになっていた。
王になるべくしてなる人だ、とめちゃくちゃに納得した上で、息を詰めてた。

 


それを、持たない人はどうすりゃ良いんだよ、とすっげーーーーーーーしんどかったんだと思う。

 


終わった直後、映画館出た後も、ツイッターでも動揺してしまうくらい、しんどかった。
持ってる人だった。
彼のこれまでを知らない上に、そうして他人を羨むことはお門違いでみっともないことだと分かってても、彼があまりにも眩しくて、じゃあそうじゃないならどうすれば良いんだよ、と苦しかった。

 


いやもうこの感想書きながらますます自分が嫌いになってきたな。


楓士雄くんは目を逸らさない人だったし、村山サンの言う通り、彼よりも強い轟がそれでも持っていないもの、を持ってる。
ザワオでじいちゃんが言っていた仲間の意味も分かってる。
実質、映画スタート時からレベル100みたいなもんですよ、楓士雄くん。


新太くんは大切な人の為にお金が欲しかったわけですが、
私もちょうど今、大きく事情は違えど、もし悪いことして助けられるなら助けたい、と思うことがあって
でもなんか、それっていっそ助かりたくもないことなのかもな、とふと思った。
新太くんのこれまでとかを、これもまた知らないけど、想像して、それからレッドラムを作るに至った経緯を思うと、助かりたくもないよ、終わってしまえよ、って思うなあ、と間違った方に共感してしまった。
だから、あの時、助けに来られた新太くんが、ぐしゃぐしゃの色んな意味で汚いお金を集めていて泣いてしまった。
助かりたくなんてないよな、とめちゃくちゃ泣いて、泣きながらそれでも楓士雄くんは正しいよ、ってめっちゃ泣いて
正しくて良いんですよ、そりゃ楓士雄くんだってチャリパクったりしたけど、それでもだからって「正しいことを言ってはいけない」わけがなくて、その都度、正しいことをしようとする、がハイローなんだよ。
琥珀さんやコブラちゃんが言った通り、何度だって間違えても生きていかなきゃいけないし、そうやってその度に正解を必死に探すしかないんだから。


our promiseであったとおり、勝てない戦いも叶わない夢もある。それでも、進むしかない。

 


あと、あの、その上でオロチ兄弟めちゃくちゃ優しいよね……叩きのめさないでいてくれてありがとう。そして、あのポジションに「大人」を置いてくれてありがとう、HIROさん……
あそこで、思い切り泣くことができた新太と、その彼を見る楓士雄くんの表情が愛おしくてめちゃくちゃに沁みてしまった。
どうしようもなくて、そのままどうしようもない、失くしていく不器用なひとたちを描いてきたハイローが、ああして、間に合う人を描く優しさに、ふとこうして感想を書きながら気付いた。うう……そうか、優しいな……。


正しさでぶん殴り通してないんですよ、ザワ。
圧倒的太陽に当てられて死にかけてたんですけど、でも、たしかにぶん殴り通してはないんです。

 


つまんねえ大人なんだなあって自分にガッカリしながら悲しくてめちゃくちゃ泣いてたんですけどね、
なんか、楓士雄くんや鳳仙のみんながあまりに軽やかにそうして立ち尽くしてる横を軽やかに走り抜けるからさあ……も、鈴蘭の話する時も、最後のタイマンも、こっちの感傷や苦さなんて御構い無しで楽しそうで、それにもまたベソベソに泣いてたんですよ。
軽やかに走り抜けられる子どもではなくなったのに、そのくせ、そうして走っていく子どもたちが走り続けられるように道を守る大人にすらなれてないから私はめちゃくちゃに、しんどかったのかもな。

 


それでも、新太の投げ出したいって痛みも理解して止めてくれるオロチ兄弟や理不尽どうこうじゃねえんだよ、というパルコの姿とか、
あと、コブラちゃんに電話する村山サンとか


あの、あそこで今度話聞いてよ、と言えた村山さんが優しくて愛おしくて、例えばもうSWORDは第一線バリバリでやることはなくても、彼らは彼らとして大人だからできること、をいくらでもやっていくんだろうし
それは子どもと形は違うけど、それで良いんだって話なのかもしれなかった。


なんだ……すげえ優しいじゃん、ハイロー。

 


轟くんが、いじめられてて、それからクソみたいな不良を叩きのめす、でここまできて、村山サンと出会って、という経緯を考えると
頭になんかなれっこないよな、、と思う反面、
それでも彼だってさ、とめそめそしてたけど
最後、ああして楓士雄くんの手を取るのが優しくて、そうか、彼はようやく友達、ができたのか、と思ったし
そのシーンはあの関ちゃんの背中の上でキラキラと舞い降る紙を見る村山サンに似ていた。
鬼邪高は自ら入学して、自分でゴールを…というかつぎの道を見つけるまでのそのまま「モラトリアム」の世界なんだけど、
そこを出る条件は次の道を見つけることと、それから仲間を見つけることなんだな。

 


これはもう、完全にザワで死ぬほど苦しくて自分を嫌になったことを慰めるつもりで書くけど、
あれだけ太陽な主人公がいる中で大人が格好良くて、間違えてもやり直せるってやっぱり描いてくれてるんだから、救われてもいいんじゃないのっていうか、最後、頭下げてから、大人というこれまでとは違う手段を選んだ村山サンたちが最高に格好良かったんだから、そういうことだろうよ、気合い入れてけ、と思う。

 


ザワ、私にとってタイマンだったのか?って終わった後めちゃくちゃグッタリしてたけど、そしてだとしたら完封負けなんですけど、
それでもやっぱりハイローは最高だったし、いつか、胸を張って楓士雄くんにそのまま進め!って言いたい。
同じように眩しくは過ごせないかもしれないけど、大人だって悪くねえぞって思ってるから、そのままに私なりの方法で歩きたいな……。
とりあえず、放映期間中にあと何回かタイマン申し込みに行こうと思います。

 

アイネクライネナハトムジークと、日常を特別に変える方法


日常を愛せる瞬間がどれだけあるか?そんなことを伊坂さんの本を読むたびに思う。そして、映画「アイネクライネナハトムジーク」を見ながら、ずっと考えていた。
日常、愛しかないじゃん。


あらすじ(公式サイトより)

あの時、あの場所で出会ったのが
君で本当に良かった。


時を越えて気づく、
〈出会い〉よりも大切なことー。
思いがけない絆が巡りめぐって、
奇跡のような瞬間を呼び起こす、
10年越しの恋の物語。

 

アイネクライネナハトムジーク、とはモーツァルトによって作曲された曲らしい。小さな夜の曲、という意味なんだそうだ。
小さな夜。
特別でもなんでもない夜。それを特別と呼ぶのはその人次第だ。

伊坂さんの作品は、最早私がいうまでもないことだけど、思いがけない点と点がつながっていく心地よさが魅力の一つだ。
そういう意味で、アイネクライネナハトムジーク、はその魅力が詰まった作品である。お話の内容だけではない、「伊坂幸太郎×斉藤和義×今泉力哉」という組み合わせが成立したのも、このお話が生まれたのも、そんな点と点の繋がった結果だというから堪らない。

斉藤和義さんの音楽は、意識せずとも聞いたことがある人が多いと思う。し、私もその程度の認識だった。ただ、先日行ったフラワーカンパニーズのライブを一緒にやっていたのが斉藤和義さんで、おかげで、初めて生で斉藤和義さんの音楽を聴いた。

その日、私はほどほどに疲れていて、仕事で嫌なこともあってぐったりしていた。その上、ライブに間に合うかギリギリな中、走ったのもあってライブが始まる前からそこそこ疲れ切っていた。少し、ライブを楽しめるか不安ですらあった。
無理矢理着替えた喧しい柄のシャツでなんとかイカしてるぞ、と自分を奮い立たせて立っていた私の耳に、初っ端、アレという曲が流れた。

「引っ掻き傷は残せたかい 自分だけが知ってるアレだよ」
「皆さん今日もおつかれさん 大変だったような
そうでもないような」

なんか、それを聴きながら気が付けばへら、と笑っていた。今回の映画の主題歌である「小さな夜」もその日のセトリに入っていた。
聴いてすぐさま、アイネクライネの曲だ!と悟った。歌詞のあたたかさや何気なさ、何気ないのに愛おしくてたまらない感じは、たしかに伊坂幸太郎ワールドでたくさん味わってきたそれである。

私が伊坂さんの本を読むタイミングは決まっていて、気持ちのチューニングがうまくいかなくなった時だ。
もちろん、普通に読みたければ読むけど、チューニングがうまくいってないな、と気づいたら絶対に読む。読んで、ぼんやり考え事をするとあんだけズレてた感じがしたのが、しっくりくる場所に落ち着いているのだ。

そして、今泉監督は私の好きな映画監督で、
インタビューを読めば読むほど、こんな奇跡ってあるか?!と大興奮していたのだ。

一真に伊坂作品の醍醐味であるあの独特の台詞を集約した、というインタビューを事前に読んでいて、なるほど!と膝を打ったんですが
にしたって、一真、愛おしくないですか。
伊坂さんの台詞って生身の人間の音にしてしまうとわけわかんねえ!なこともあるんだ、と思うんだけど(文字で読むとほとんどないのに)(不思議だ)一真の台詞は何言ってるか分からないけど、何が言いたいかは分かる、というとても愛おしい感じだった。
惚気かよ、って佐藤が笑うシーンがすげーーーー好きだったんですよ。というか、あの3人の空間が大好きだったんです。
今泉監督の食卓は、だいたい美味しそう(愛がなんだの味噌煮込みうどんは美味しくなさそう…ってなったけどあれはそういうシーンなので……)で大好きなんだけど、それって、食べてる人たちの表情が魅力的に光るからだなあとある意味で当たり前のことを思ってしまう。
あそこの、ふたりの空気感と、佐藤の空気感が大好きで、それが惚気!って感じで、すごくすごく良かった。
そして、大学やめる、と話す過去の回想シーン。
「ベリーベリーストロング」
見終わって、何度も心の中で繰り返してる。ベリーベリーストロング。
あんななんでもない人が格好いいと思う、愛おしいと思う瞬間があるだろうか。
同時に思う。
ラッキーだと、話す彼の言うことは奇跡でもなんでもない。連続性のある惚気話である。だけど、佐藤も私たちも知ってる。それが、どれだけ、貴重でステキなことか。

情けないことが、こんなに格好良いと思っていた。
一真もだけど、佐藤も。
例えば、バスのシーン。何一つ格好良くない。レイトショーの映画館、私が見ていた映画館では、笑いすら、起きていた。おいうそだろ。それが、映画館に満ちていた空気だった。
ビシ、と決まらず、ズレていて、分かってなくて、なのに、私は何故か泣いていた。
嬉しかった。
子どもができて、大学を辞める一真が一緒にいれるんだ、一緒にいる理由が強固になったのだ、ということに
追いかける佐藤が子どものためにUターンして、それから、ちゃんと、帰れるように送ることに
なんか、そういうの全部が嬉しかったのだ。

誰かに託すことの話をしたいのですが、
貫地谷しほりさん……そう、めちゃくちゃ可愛かった……の、告白する時に誰かに託すのずるくないですか?!から、繋がる、物語を思っていて
確かに、例えば自分の努力の関係ないところで決まる結果に自分の思いを託す、ズルさは理解しつつも愛おしい、と思った。
逆に言えば、託された小野さんのジムのワンシーンが愛おしくて
今泉監督の、静止画が好きです。コインランドリーや、そういう、ある、網膜に焼き付くような意味があるんじゃないかと考えさせてくれない静止画が、ジムで映って
もちろん、たしかに、自分はなんの努力もしないのだけど、
小野さんがあの試合の時、彼を見つけて動く目が、すごく、すごくしあわせで。
あれ、めちゃくちゃ、伊坂さんだったと思うんですけど、どうですか。
愛おしさというか、どんどん、否が応でも沸き立つ血というか。
そういう、なんだろう、生きてるから起こりうる感情の……ある作品のバイク音に似た興奮をめちゃくちゃ覚えてですね。
そして、最近「誰かを好きでいること」について思いを馳せがちな私には、あの描写は尚更にたまらなかったのです。
決定的な何かにはなれなくても、
というか、この映画ほとんど決定的、も、大きな盛り上がりもないんですよ。
それが、あまりに心地よかったです。それでも、あの綺麗なライトが嬉しくて愛おしくて、それは、結果がどうあっても良いなんて残酷な話ではなくて、でも、決定的に、変わったと思う。
例えば、小野さんへ送られる歓声が演出として走り出す佐藤に贈られたみたいに、そういう奇跡的な、そのくせ、何気ない瞬間で私たちの日常はできてるんじゃないか、そんなことを思う。

 

振り返って、ツイてたとおもうこと、
そして実はわざとだったこと
それが作中、描かれたわけですが、
例えばそれが日常を愛する方法なのでは、と思う。逆説的な話ではあるけど。
ツイてた、と思うのは、少なくとも結果を愛おしく思うからなので。
そう思うと、たいぞうさんのいう、ラストわざとだった、という「今わかる真実」のすごさが際立ってくる。
だって、出て行ってしまった奥さんは、それでも当時、奇跡を自分から起こそうとして選んで、行動したんだ。それって、すごくないですか。
なんか、そんな簡単に奇跡って起こるのか、とへんな意味ではなく、思った。何気ない奇跡の連続に見逃してしまいそうですらあった。それくらい何気なく、描かれていた。

ところで、ずいぶんと支離滅裂な感想になっている自覚はあるんだけど、一番奇跡的で愛おしかったシーンの話をしたい。
プロポーズが幸せで泣いた話だ。
今年は、応援している役者さんは結婚し、応援してるパフォーマーの熱愛報道がありの一年で、それぞれにいろんなリアクションをしつつ、結婚などに思いをはせることも、多かったんだけど、
佐藤さんたちが、いいよ、と言った後に、あまりに幸せそうで私は目を丸くした。
あの空気はなんて言ったらいいんだろう。あの撮影の時、どんな顔をスタッフさんたちはしていたんだろう。
優しくて柔らかくて甘くてあったかくて、そのくせ、弾力のあるものを思い切り抱き締めたような気がした。
大切な人に、思いを告げること、ずっと一緒にいたいということ、そしてそれが(一旦は少なくとも)叶うということ
それに、人があんなに嬉しそうに笑うのだと私は今更ながらに知ったのだ。

 


大きな盛り上がりがどうこうとか、映画の文脈だとか、そういうもので私は語る術をもたない。
ただ、揺蕩うみたいな幸せの中にいたと、思い出す度に思う。だから、私はアイネクライネナハトムジークが好きだ、という話がしたい。


そうして、私の大切な誰かにこの映画が届けばいいと思う。

振り返って、きっとあの映画をあのタイミングで観たなんてツイてるな、そうにやり、としてもらえると思うのだ。だから、こうしてブログを書いた。
そして、身近な人に「この間、映画観てさ」と話そうと思う。今泉監督がいつかツイートした通り、ツイートやブログ以上に顔が見える誰かの言葉はもっと、映画館に誰かを誘ってくれると思うので。


私が好きな伊坂さんの作品で好きな台詞、言葉はたくさんある。
その一つがある作品で出てくる「あなたには特別な力があるのよ、例えば、奥さんを幸せにするとか」という台詞だ。(本を見ずに打っているのでニュアンスしか合ってないだろうことを許していただきたい)
それに倣って言えば、私は日常を特別にするとっておきの方法を知っている。

目の前の日常を思い切り愛することだ。愛してるものを抱き締めることだ。
そんなことを、私はこの映画を観ながら考えていたような気がするのだ。

その獣道のいく先が、幸せなものでありますように


敬浩さんの第一印象は失礼ながら、ああこの人は女の子にモテるだろうなあ、だった。

ハイローからLDHを観だしたので、当然……もちろんそれまでも存在は知っていた……雨宮兄弟が初めて意識してみた敬浩さんになるのだけど、もう、だってあんなんみんな好きでしょ、と笑ってしまった。悪い意味ではなく。
明らかにハイブランドで決めた全身黒の、顔がシュッとしてる(関西弁)バイクに乗ったなんかよく分からないけどめちゃくちゃ強い兄弟。
酔った勢いでミリしら状態でザム2を観たわけですが、観ながらはーーーこのふたり人気なんでしょう?分かります分かります、くらいの見方をしていた、黒いのと茶色いので見分けが着けやすいのは良いですね、みたいな、妙に距離のある感じで。
特にレッレを観てなければなんであんなにUSB取り合ってるかもちょっとよく分からないですからね、ギリギリお兄さんに託されたっぽいし、お兄さんは亡き人になったっぽい、くらいで。いやそれでも分からないままにバイクレースで泣いてるので本当によく分からない最初の印象だな。しかもそのうわあ女の子にモテるイケメン兄弟だ、うわあって思ってた片方がラスト銃口に狙われるという、もう、頭の限界値越えてるんで一旦落ち着いてください、みたいな感じだったので、最初はどうやらあの人気のありそうなのの茶色い方がかの有名なTAKAHIROという人らしい、みたいな、印象だった。


それが、直人さんが気になったのもあって聴きだした三代目の曲で登坂さんを気になりだし、となると何故かよく見かける(まあ兄弟役だしな)敬浩さんが目に入るようになって、
「女の子にモテるイケメン」の印象はどんどん変わっていった。
もちろん、イケメン、とか女の子にモテる、は事実今もそう思ってるけど、
なんか、それよりももっと人間臭い人なのでは?と、ちょうど、その頃道の駅の頃で、レポがたくさん回ってきて思い出した。
あんな大きなステージで、堂々と、それこそ
「自分がモテる」ということを自覚して過ごせるだろうルックスと才能とオーラを持ちながら、
そんな人でもたくさん悩んだのか、とほとんど知らないままに、ちょっと気になりだして
そして、道の駅のスタッフからのサプライズのペンライトの話を読んでちょっと泣いたりしながら、じわじわ気になりだした。

 


あれだけ「格好良い」という賞賛が似合いながら、何年も苦しんでたという敬浩さんという人は、どんな人なんだろう。

 


決定的に、ああこの人好きだ、と思ったのはワイルドヒーローズだった。
ちょうど当時登録していたアプリで配信していて、気になるな、と呟いたらつくさんきっと好きですよ、とフォロワーさんから勧めてもらって、
そんな時、インフルエンザに生まれて初めてかかった。しかも、熱が出なくてただただ緩やかにしんどいやつに。
朦朧としつつも、寝込むことも出来なかった私は、あーじゃあ、せっかくだし積んでたドラマを観よう、と再生した。


ぶん殴られた。


1話を観ながら、ぼろぼろ泣いたのを覚えてる。
当時、私自身が全然うまく成績が上がらない営業でキー坊の冒頭の様子に「うわーーーーやめてくれーーーーー」と叫びながら観ていたのもある。
私自身、学生時代に「絶対後悔する」と分かりながら後悔する選択をしたことが、キー坊の100対6の決闘に行かなかったことで大切な仲間とギクシャクしてることに重なったというのもある。


俺も殴られたかったよ、と吐くように言うキー坊に、最後、俺、負けてなかったんすね、と子どもみたいに泣く姿にああもうこんな芝居するのか、この人、と愕然とした。


……怒らずに聞いていただきたいのですが、敬浩さんはお芝居畑の方ではないし、特にワイヒの時は初の主演でまだお芝居自体、そんなに回数を重ねてないのもあって、
がむしゃら感というか、不器用さ、がたくさんあったとは思うんですよ。
あああー台詞ぎこちないー!ってなる瞬間は、失礼ながら何度かあって
だけど、そんなん、関係ないというか
少なくとも私には、このお芝居、この役、この台詞をあの熱量で生み出す敬浩さんが好きだった。


上手いとか下手とか、そんなんどうでも良くて、ああこの人はキー坊だ、キー坊が生きてる、と思った。


私はお芝居が好きで、それは生身の人間だから起こりうる色んな奇跡が大好きだからなんだけど、
敬浩さんの演じるキー坊にはそんな奇跡の瞬間が何度もあってパチパチと綺麗なスパークが目の前に弾けるみたいで、
インフルエンザなのに、ほぼ一日で一気見した。おかげでめちゃくちゃ回復した。良いドラマはインフルエンザを倒す。

 


それから、敬浩さんファンの友人さんからいろんな話を聞いたり、SOWに行ったり、AOSに行って、どんどんそんなスパークは増していく一方で、人柄を知れば知るほど、この人面白いなあー好きだなあー幸せでいてくれーと思い出し(オタクすぐ幸せ祈りがち)
僕に、会いたかった、でもっともっともっとこの人のお芝居が観たい、と思って


で、こんなブログを書いてるのは、モニタリングですよ。
モニタリングが、もう、本当に、最高で
普段、あんまりバラエティ得意じゃないんですけど、美容師とかそんなん見たいやん……って薄目で見ることを決めて見たんですけど
愛じゃん、と、いまだに放映から二日経っても繰り返し繰り返し脳内再生を繰り返している。

 


SOWで、ファンサとして花道の女の子たちにどーん!ってしていくのを見た時も、泣いた人間なんですけど
暗い出口のないトンネルを歩いていた人が、こうして誰かの愛情を受け取るの、なんて優しいんだろう、と思うし
私は愛情を渡すこともだけど、それ以上に受け取ること、が難しいこともあると思っているから、ああして受け取っている姿を見ると、もう、ダメなんですよ、めちゃくちゃ泣いちゃうんですよ。
モニタリングではこっわ…!ってしたけど(笑)お戯れがすごい……THE EXILE TAKAHIROって感じだ……。


そして、歌うことの話をしているのが、ああこの人は、自分の仕事や表現に真っ直ぐで、それに関わる全てのものに感情や愛情を向ける人なんだなあ、と思った。
Ti Amoのメイキングの時も思ったけど、人間の感情というものに対して、純粋な振る舞いを度々……これはトライブの人たちの特徴の一つでもあるけど……するもんだから
その度に私はおうマジかよ、となってしまうし、
少なからず、彼の「表現」を好きだと思った人間としてああして自分の表現に纏わるものを、愛している姿はなんて嬉しい、綺麗な光景だろう、と思う。


そして、その表現は彼が「生きた人」だからなんだなあ、と思う。
別に綺麗で品行方正で間違えない人、ではなく
迷うし間違えるし、悩んだきた一人の同じ人間だからこそ、あんな表現をするんだなあ、と思うと私はたまらない気持ちになるんだ。

 


仕事をサボって、EXILEのライブに行った彼が、美容師の仕事を諦めた夢、というのもなんとも、人間臭くて愛おしいなあ。全部を叶えるなんて土台人間には無理で、でもそこで精一杯もがいて手を伸ばして、ずっと進んでいく、彼を好きだと思う時間が少しでも、長く続いて欲しいと思う。


our promiseで書いていた、彼が自分で決めて進む獣道のいく末が、どんな場所なのか、見ていたいと思うので。

 

 

 

UNDERDOGに2日行って、愛を知る人について考えた話

愛を知る人は、健やかだ。

SHOKICHIさんのライブに行ってきた。
アンダードッグ、成り上がり、と銘打たれたライブを見た。


SHOKICHIさんは、愛情を受け取るのも注ぐのも全力でかつ幸せそうですごい。そんな姿にめちゃくちゃ励まされるから本当にすごい。

愛情を、もらうんじゃなくてあげる幸せに早く気付けると人生は生きやすくなる、というツイートを、以前見た。もちろん、一概には言えないし、あげることが全部が全部「良いこと」とは言えないと私は思っているのでアレだけど、でも、一般的に愛情が欲しいと思う人が多くて、かつ、もらうよりもあげる方が、能動的にできる分、幸せになりやすいのかもな、と思ったり。
でもこれ文にするとすげえ打算的ですね……?そんな話じゃなかったのかもしれない。

ともかく、愛を注ぐことで幸せだ、と感じる人がいる。

UNDERDOGでは、将吉さんの音楽の幅広さを堪能することができた。これはアルバムでも分かっていたことだけど、視覚化されてパフォーマンス、ステージ演出が加わることでより際立った。
音楽は音を楽しむと書くけど、本当にそれを体現するライブだった。いつだって表情豊かに全身全霊で音に乗っかって奏でていくのだ。

誰かの背中を押したことを、あんなに嬉しそうに話していたこと。
あれ、本当に、すげえ、って思った。
our promiseの将吉さんの項にあったとおり、彼にとっては見つけ出した自分の役割、立ち位置が音楽を作ることだったわけだけど、
したいこと、なんだなあ、と改めて思って、グッときてしまう。したいこと、を彼は役割で、立ち位置と呼んだことに、呼ぶまでの道のりに、ぐるぐるする。
「いつかの悲劇」や、「あ、ここにいるの、自分じゃなくていい」って思いながら、それを「自分」に引き寄せる力について考える。


真っ白なライトが照らす将吉さんは、とてもとても綺麗で、きっと、それが答えなんだろうと思う。

ないものはなくて良いもの、という言葉について考える。
私は、このライブはなくても良いものだったかもしれない、という彼の話を聞きながら「そんなことない」とは言えない。
無くて良いものでは無くなった、必要なものに変えた、と思うから。
そしてそれは、将吉さん自身が手繰り寄せて築き上げた結果、なんだと思う。それが、こんなに美しく、優しい光景なことにいつまでも浸っていた。

SALUくんがリリックで言ったように「去った人」もいくらでもいるのだ。
そしてたぶん、これからも。

だから私は、何度も何度も思った。
無くても良かったものかもしれない、そしてそれをあなたがこんなに素敵なものに変えたんだって。
見せてくれて、ありがとう。

賢い人だと思った、天然ではあるけど物事を真っ直ぐ見据えて、決してブレない人なんだと思う。それこそ、our promiseにあった通り、自分の立ち位置を冷静に捉えて役割をこなす。
そして、どうしようもなく淡々と、しかし熱くその道を進んでいくのだ。
その道が、悲劇だろうが。

賢い、というか聡明だな、と思ったのはファンとのコーナーのやりとりだった。
もちろん独特の言葉選びではあるんだけど、
ファンからの感情を当たり前とせず、でも謙遜しすぎず、きちんと寸分狂いなく、受け取って見せた。かつ、その人が会場の人たちから「祝福されるように」祝う。
いや、これ、ほんと、めちゃくちゃすごいことだと思うんですよね。
そうして、でもしっかり、愛情を受け取ってもらって、そうしてありがとうの言葉とともに返されるファンの人たちを見て、2日ともめちゃくちゃに泣いてしまった。
愛、ってすごい。
それが、受け取られて、渡されることはなんて優しいんだろう。
きっとあそこに座った人たちは何度だって、あの場所からの景色を思い出すんだなあ。そして、その景色を作ったのはみんなだよ、って将吉さんは言うわけで、いや、もう、ねーーーーすごい。

 


愛を知る人は健やかだ。
将吉さんはたぶん、受け取ってもらう嬉しさや幸せを知っているのだと思う。だから、受け取ってくれるんだな、と思う。もちろんこれは卵が先か鶏が先かの話にはなるけど。
そうして、そんな美しく優しい空間は、紛れでもないあなたが作ったものなんだ、とひたすら拍手を、送っていた。送りながら、そんな場所に居合わせることができる幸福について、考えていた。


そして、これからきっと彼が生きていけば生きていくだけ生み出される音楽が、私はとても待ち遠しい。

夢を願い続けたらミュージシャンが最高の景色を見せてくれた

お前の愛を信じろよ、と愛情たっぷりの空間で歌うその人たちは、私に初めてロックバンドというのを教えてくれた人たちだった。

プッシュプレイで幕が開いた途端、あ、これはやばい、と初日思った。
「勝負の見えてきた現代は立ちはだかる壁も探せない」
その歌詞にずるずる引っ張られるように心が動いた。あ、これ、今日と明日全力で殴られるやつだ。

ここ数日、めちゃくちゃ好きなものに自信がなかった。
私には好きなものがたくさんあって、好きな人もたくさんいて、それを誇りに思ってるしおかげで良い人生だとも思ってる。
だけど急に「あれ、私の好きなものってなんだ?」と思った。し、「もし、私が好きだ、って言うことでなにかを損なってたらどうしよう」と思った。

なんだ?と思ってしまったのは「好きなら○○くらいするでしょ」という文脈で考えた時、好きなもののどれも、その必要要件を満たせないな、と気付いたからだ。
時間やお金や体力を、私は私の生活と、好きなものそれぞれになるたけ分け分けして使っている。好きなもののためなら、と私生活などを犠牲にできないし、かと言っていわんやその逆をや、って感じだし
例えば、お芝居観たいからEXILEさん我慢できるか、とかEXILEさんのためにお芝居観ないか、とか、その他諸々、とどのつまりは、「第一優先」を決められない。
好きなものが私の名刺だ、と言いながらふと昨日、ポルノさんの音楽を聴きながら、私の名刺には実は何も書いてないんじゃないか、と思った。

いつだって私の日常のすぐ隣にあった音楽は、当時の記憶を見事に再生してくれるし、何より思考回路に寄り添われすぎて繕う隙を与えてくれない。
n.t.を初日聴きながら、ああ私は大人になったのかもなあ、と思った。
この所謂「アラサー」と言われる歳になって「大人になれない」という話をむしろよく聞くようになった。上司の言うことを飲み込めない、とか家族、結婚のこととか。そういう話をする折々で「大人になれない、少年少女の気持ちが暴れる」なんて話を良くするんだけど、

昨日、n.t.の間、

いや私たぶん、めちゃくちゃ「物腰は柔らかく」「感情は出さずに」「目の前で起こっているさまざまな現状を冷静に噛み砕く」してないか?!と思った。
20年というポルノグラフィティの時間とそのうち何年かの私も聴いてきた今日までの時間を思って、例えばカルマの坂を聴いてたあの頃、大人を遅い、って思いながら走れてたような頃と比べたら、なんか、いや、なってしまってるやん……と愕然とした。
そして、だから手元から落ちていってしまうもののことを考えて、そうしていると「好きだって言い張りたいだけなんじゃないか」と思った。
少しも変われない、小さくなった自分をなんとか否定したくて、必死に好きでいようとしてるんじゃないか、と思った。


今年、何回か……3回か……私自身の感情でめちゃくちゃ揺さぶられることがあって、たまたまその時の話をソラちゃんに全部聞いてもらいながら「あ、私は私の私だけの感情感覚が苦手だし、それについて考えるのすげー下手だぞ!」と気付いた。
それもあって尚更思った。もしかして、私は自分のそういう苦手を隠したくて、エンタメに肩代わりさせてんじゃないの、って。だとしたらそれってなんかずるくないか、サボってるだけじゃん。そんなことを、昨日、考えながら聴いてた。

好きって言われて嫌な人なんていない、が夢物語であるということくらいはさすがにもう知ってる。
私にとって、登坂さんの影響だけじゃなく元々、伝えるということはとても大切なことで、相手が大事なら愛情表現として言葉を尽くしたいと思っていた。だからこそ、好きだ、とも伝えたいし、伝えるし、でもその上で伝え方には気を付けような、と思い続けてきた。
自分にとっては宝物を渡したつもりが、とんでもない荷物を渡したことになる可能性を忘れたくなかった。

だから、好き、の対象には最大限の敬意と感謝を、と思ってたのに、もし肩代わりさせてしまってたなら、それは酷いなあ、と思って
そして、もしかしたら傷付けたかもしれない、伝わってなかったかもしれないことにここ最近直面してしまってなんだか無性に寂しくなっていた。
自信がどんどん萎れて、何が好きだったかなあって考えながら、だとしたら、こんなの、そら、受け取ってもらえないよな、と思ったりして報われるわけないし、報われて良いわけがないんだよ。

とか、思ってたのにさあーーーー
もう、今日めちゃくちゃライブ前に一人でマクドで月見パイ食べながら駄々こねて、それでもさあそれでもさあって理屈もこねて、フォロワーさんのリプにまためそめそして好きな人たちに会って、おっしゃなんとか立ち直したぞって思ったら帰りの新幹線なくなるわですげーーー不安な中2日目のライブ始まったらさあ、

も、センターですごく幸せそうに歌ってたの、ポルノグラフィティさん。

報われなくて当たり前じゃん、と言いながら
私は私の好きが何度も報われたことを知ってた。受け取ってもらって、好きな人たちの笑顔を何度ももらっていた。
なのに不安になるのは、変わってしまうからだ。
変わった時に失くした、と思うのが嫌なのも、きっとあったのだ。だし、変わった、と言われるのが怖かった。
だけど、1日目とは違う彼らは2日目の最高を届けてくれた。1日目も凄まじかったのに、更に、とんでもない熱量で
それを、心待ちにしていたファンの目の前で。
6万人の観客たちはきっとおもいおもいの「ポルノグラフィティとの思い出」があって、その×6万がこの大きな揺れなのだ、そしてその1つに私はいるんだ、と思ったら、
もうなんか、胸張れよって思った。
何回だって、昭仁さんは言ってくれたじゃろ、って思った。

そして、n.t.がバンドverになってたんですよ、2日目
ああ、ひとりじゃないじゃん、と思った。
ひとりになんて、なってない。
ひとりで胸を張れなくても、一緒に演奏してくれる人がいる。今この瞬間じゃなくても、次の瞬間は分からない。
明日の忘れ物は、今日にあるんだから。

なんか、

ポルノグラフィティの歌詞が、毎度私の前できらきらと弾けてはその時欲しかった言葉として降ってくる。
それは今まで何遍も聞いて言葉としてではなく音としてそばにいてくれた言葉が、意味を持ってやってきてくれてるからかもしれない。
お前何回迷うんだよって泣きながらダッセーの、って呆れていたらすかさず聞こえてきた「揺れてる君でいいよ」という歌詞にビックリした。


「キミが夢を願うからミュージシャンも張り切って」
ここの、昭仁さんの言葉にああくそ、好きだ、と思ったしそれを私は胸張って良いんだ、と思った。


晴一さんが、嬉しそうに客席を見ながら演奏する表情を見てああ良いんだ、と思った。

 


しんどかったのは、ハッピーエンドになるか不安だからだ。
このままこうすることが正解か分からなくて、それが怖くて仕方なかった。今のハッピーが失くなることを考えていた。
だけど、20年音楽をやってきた彼らが、こんな日を迎えられたから今までは全部正解だった、と言ったのだ。教えてくれたのだ。
だとしたら、私にだって、いくらでも好きな正解を作れるはずなんだ。
もちろん、結局、エンド、ではない。死ぬ瞬間にしか来ない。
きっとしんどいこともある。
だけど、その時は帰っておいで、と歌ってくれるのだ。帰って、歌って踊って、泣いて笑えば良い。
これからも何回だって、ああそうだ、と思う。ああ大丈夫だ、って思う。同じ数不安になるということの裏返しだ。だけどそれは不幸なんかではない。ちっとも。
だって、ハッピーエンドの途中だ。終わらないならもういっそ、気楽にやろう。
大丈夫、私たちには最高の音楽がついている。

 

 

ドラマ きのう何食べた?

このドラマの感想を、私はまずどう書いていいか分からなかった。
淡々と進む物語だという印象は原作時点であった。
大きく感情移入しすぎることはなく、それでも何か確かな肌触りで物語が通り過ぎていく。
それは、ある意味で描かれる軸が「美味しい料理」にあるからかもしれない。
しかもその料理たちは何か特別なもので作れらたものじゃなく
むしろシロさんが目を光らせ買ったお特品たちで作られたお手軽料理たちだからこそ、だ。


シロさんとケンジはゲイである。
ふたり暮らしながら色んな食事をし、色んな人と話す。
それは私たちの日常と同じように淡々と過ぎる。


私が特に印象的だと最初に思ったのは一話目、ケンジが泣いたシーンだ。

「なんで、俺は一緒に住んでる大好きな人の話をしたらいけないの」


内野さんによる繊細で色鮮やかなお芝居は見ている私たちの胸を深く深く突き刺した。
(と同時に、いやでも異性のパートナーだったとしても夜の生活について話されたら怒ると思うぞとツッコミつつ)
ケンジの愛おしさとケンジからシロさんへの愛情。
それをワンシーンで見せた大好きなシーン。

その上、だ。
特に分かりやすく感動的な台詞なんて一切こないのだ。

シロさんは一切、このケンジを慰めるでもなく更に喧嘩を悪化させるでもなく、
少しなんなら逃げるくらいの感じでご飯を作り出してしまう。
ケンジもそれを誤魔化した!となじりつつ、なんだかんだ一緒にご飯を食べ始めるのだ。

この空気感。

話は変わるけど、先日友人たちと話をした際「喧嘩をしたことがない」という話になった。
びっくりした。
私は、自分の学生時代の恥ずかしい話、とかだとだいたいくだらない喧嘩とかが浮かぶ。
あの時あんな怒り方したの幼かったな、とか。
逆にこいつと何で一緒にいるんだろうなって思う相手とは「ああそうか、あんときちゃんと喧嘩したからだな」って思うことがあるくらい、今まで喧嘩って身近な事象だったんだけど。
喧嘩をしない、したことがない人もいるのだ。
でも、たしかによくよく考えれば大人になって、自然と喧嘩は減る。
(私は本当に恥ずかしながらゼロにできずにいるけど)(まあ受け止めてくれる相手がいる幸せだと感謝するようにしてる)

などなどと考えると、このシロさんとケンジのやりとりはとんでもなくリアルなのだ。


また、一話でいくと触れずにいられないのがラスト(おそらくはアドリブの)ハーゲンダッツを食べながらのひょんなことから、の会話だろう。
きっと次の日になれば忘れてしまいそうなやりとりを彼らは心底楽しそうにするのだ。
だけどなるほど確かに、そんな「忘れてしまいそうな会話」で私たちの毎日はできている。

そして、そう考えるときのう何食べた?の中で描かれる食事の多くは(ふたりの思い出の料理であるクリスマスディナーなど例外はあるが)
そうした「忘れてしまいそうな食事」なのである。


そんな何でもない日常を殊更に愛おしく描くでもなく、かといって素っ気なくもなく描いていく。
一つには、西島さん内野さんをはじめとする役者さんたちの「生きている人間の温度」がドラマの奥行を生んだんだと思う。
聞いているだけ、見ているだけでも楽しいころころと変わる表情やテンポ。
そのイキイキとした表現が30分の優しい時間を生み出した。
(漫画版を思い返しても、また違った優しさ、生きている感じがある)(よしながさんの描く線の美しさったら!)(そういう意味で、それぞれのメディアだからこそ、の表現を楽しめるという意味でも贅沢で幸せな作品だった)

そんな生きている人たちが、明日には忘れてしまいそうな、だけどだからかけがえのない日常を生きる。
その中に時々何とも言えない苦みを見せながら。


シロさんは、わりと「しょーのない人」だったりする。
これは、シロさん目線で物語が描かれることが多いからこそ尚感じるんだと思うけど
「いやもうお前!」と何度叫んだか分からない。
自意識過剰で、見栄っ張りで、素直じゃない。
そんなシロさんにちょっと顔をしかめつつ、応援しつつみていた。
その中でも過剰にケンジが「良い人」と描かれない優しさにほっとしながら、彼らの日常を見守る。

シロさんが、ケンジについて佳代子さんと話すシーンで大好きだったのは、

もし俺と別れた時、泣いて過ごすのはケンジだ、とした上で、でも本当に困るのは自分だ、というシーン。
ケンジは情が深いからまた新しい誰かを探せるし見つけられる、それにひきかえ、自分が今から付き合ってずっと過ごしたいと思える相手を探すのは難しいし面倒、と話すシロさん。

だからこそ、なんとか「一緒にいる努力」がいるのだ、と話すシーン。
ゲイだから結婚という契約も子どもも(少なくとも現行の法律では)(厳密にいえば、養子縁組という手段はあるけど)ともあれ、そういう相手を繋ぎとめておく手段が少ないからこそ必要だ、って話すシーンだけど
そんなの、きっとゲイだとかいやそもそも恋人同士だとか関係なく、人と人が一緒にいる以上必要なことで、した方がいい努力だ。
した方がいい、っていうのはなんとなくしっくりこない。

そうして一緒にいたい、と思える相手がいることを私は幸せと呼ぶんだと思う。

最終回、シロさんの家に行ったケンジは両親の誤解を解くことなく、そんなことはどうでもいい、まさか自分が好きな人の両親に挨拶して、一緒にご飯を食べられる日がくるなんて思わなかった、と泣く。いっそ今、死んでもいいと。
それに、死ぬなんて言うな、と返すシロさんが好きだった。生きるんだよ、と口にしてだから油に気を付けて、運動もして、そうして一緒に生きていこう、と。


こんな優しい話があるだろうか。


それから、髪を切ってバックハグするときも、カフェにもういいかな、と一緒に行くときも。
きっと彼らは生きてきて、そしてこれからも一緒にいるための努力をしながら一緒に生きていくのだ。
それが、とても優しく、その三十分は毎週の私の大切な時間だった。
ささくれだたなくても、無理に優しくならなくてもいいのだ、というのは、なんともあたたかな話じゃないか。


この感想を書くのが難しかったのは明日には忘れてしまうくらいささやかな毎日の話だったからである。そしてそのささやかさが、私にとってたまらなく大切だったからこそ、どう書いていいか分からなくても私はこの感想を書きたかったのだ。