えす、えぬ、てぃ

お芝居の感想など

クレプト・キング

いやこれ、2時間15分じゃ尺足りないな?!
案外と、ひとりひとりのキャラクターについて知らないまま終わってることに感想を書こうとして気付いた。

そんなわけで、ENGさんのクレプト・キング、初日に観に行ってきました。


ある『スリ』の噂があった。
貧しい者からは決して盗らず、標的はいけ好かない金持ちだけ。
盗んだ金の全てを貧しい民に施す義賊の青年。
――彼の名は『月斗(げっと)』といった。

ある日、月斗は追われていた財閥の令嬢をかくまったために、警察に捕まり、投獄されてしまう。
そして、何者かの圧力が加わったのか…… 無実の罪を着せられ、死刑が言い渡された。

牢獄で恐怖に震える月斗の前に、見知らぬ少年が現れる。
鍵のかかった鉄格子の扉を開けることをなく、そのままで……
彼は『レン』と名乗った。

「スリごときで義賊を気取って何になる?
 本当にこの世を変えたいと願っているならば――お前に、それを叶える力を与えよう」

月斗は自分の腕にあるものに気付く……

「それは『盗賊の篭手(こて)』――お前が欲するあらゆるモノを、奪う力を持つ。
 この力をもって牢を破ったならば、その時はお前に、もう一つの姿を与えよう……」

新たな噂が街を駆け巡る。
突如現れた謎の怪盗――貴族の館に忍び込み、悪事の証拠を白日の下に晒す……!
幻を盗り払い、闇に潜む真の悪を照らし出す一筋の月光
――その名は『幻盗・ツクヨミ

新たな義賊の登場に沸き立つ人の群れをすり抜け、
彼は都の中心にそびえ立つ楼閣を見上げた
――この国を治める『皇王・芙陽(ふよう)』の城を……

「いつか必ず、お前からも奪ってみせる」

奪うことしか知らぬスリが手に入れたのは、全てを奪う怪盗の姿だった……

 

これでもか!と込められた厨二的な設定、三次元で見てしまうとともすれば浮きかねない設定は、丁寧な役者さんのお芝居、それを生き生きと輝かせるスタッフワーク、そして、それらをまとめる演出で、浮くどころか、真っ直ぐに観客に届く。
小さい頃学校から帰り、ワクワクしながらオープニングを待ったアニメのようなお芝居、それがクレプト・キングだったように思う。

クレキンの不思議な魅力というか、いいなあと思うところは尺が足りなかった、と思いながらも物足りなかった、とは思わないところだ。
このキャラクターは結局なんだったの?とも、あのシーンなんだったの?とも思わないところだ。

ともかく、私はあの2時間15分を、ひたすらに頭を空っぽにして楽しんだ。

語弊を恐れずに言えば、本当に、大きく心をマイナスに持ってかれることなく。楽しい、という感情でずっと観ていた。
キャラクターたちの時に辛い出来事も含めて、どこか、当たり前のように彼らのハッピーエンドを信じたし、そして、結果から言えばそうなったと思う。

お芝居を、例えば仕事終わりとか学校が休みの日とかに行くじゃないですか。
ブログの他の作品の感想とかで、こう、ぐちゃぐちゃになるくらい色んなことを考える、そんな作品が大好きだし、気がつくとそんな風に私は作品に触れがちなんだけど、
このクレプト・キングに関していうと、なんというか、本当にただただ楽しかった。
オープニングが終わった時、なんでか分からない涙が流れたんだけど、あれは今思えば安心感だったのかもしれない。
あーこっからただただ、楽しい時間がくるぞぉ、という。

決して、ただの明るい話というわけでもなければ、まして、軽い話だと言うつもりもない。
台詞にしろ、設定にしろ展開にしろ、しんどさも悲しさも、怒りもある。だからこそ、あのラストシーンにグッときたんだから。
だけど、それ以上に関わる人たちの、笑顔にするような芝居を、という、そんな姿勢があったんじゃないか。


魅力的なキャラクターたちに、もう一度会いたいと思う。
ただ漠然と魅力的だったと思った彼らの、バックボーンを知りたいとも思う。
だけど、例えばなんなら、スピンオフとかで出会わなくても、私はなんとなく、いいかなあ、とも思う。
彼らの台詞や、シーンを思い出した時、あれはこうだったのかな、と思い出す。そうして、彼等のことを想像する、そんな未来の方が私好みだと思う。

それは、昔見たアニメのことをふとした瞬間に思い出す、そんな心強さに似ていると思うのだ。

あゝ、荒野

あゝ、荒野は、新宿信次の物語だ。
もうどうしようもなく、彼の物語だ。

公式サイトからのあらすじ
ふとしたきっかけで出会った新次とバリカン。
見た目も性格も対照的、だがともに孤独な二人は、ジムのトレーナー・片目とプロボクサーを目指す。
おたがいを想う深い絆と友情を育み、それぞれが愛を見つけ、自分を変えようと成長していく彼らは、
やがて逃れることのできないある宿命に直面する。
幼い新次を捨てた母、バリカンに捨てられた父、過去を捨て新次を愛する芳子、
社会を救おうとデモを繰り広げる大学生たち・・・
2021年、ネオンの荒野・新宿で、もがきながらも心の空白を埋めようと生きる二人の男の絆と、
彼らを取り巻く人々との人間模様を描く、せつなくも苛烈な刹那の青春物語。

決して、寺山修司に精通してるわけではないけど、でも時々垣間見える、ああああ寺山修司!な節と、それでもあくまでこれは現代、しかもなんなら今より少し未来の物語であるという事実に頭がくらくらした。
物凄いエネルギー量の映画だ。前編後編をいっぺんに見てみたかった気もするし、それをやったら死ぬほどしんどかったと思うので、1週間開けてみた今回の見方は、正しかったようにも思う。

破れかぶれな人々が、たくさんたくさん出てくる。だけど、破れかぶれじゃない人が、この時代、もしくは、この世界どれだけいるだろう。

今回、しんどい中で、ほっと息をつけたのが、ジムなどでの新次と建二のやりとりなんだけど、
あまりに当たり前な、あたたかな穏やかな時間過ぎて、後から振り返ると泣きそうになるのは私だけだろうか。
新次の獰猛さは、異常なのかもしれないけど、彼自身、どこにでもいる青年なんだ、と思う。屈託無いふたりのやり取りが、ともかく、好きだ。あの空気感が、後編に繋がって、更に熱量を増す。

執拗とすら感じるくらい、あの世界の舞台が新宿であることが、コクーンタワーなどの風景から伝わってくる。
それに、なんとなく似てる。
どこにでもある。
どこかには、必ずある。
彼等は、どこかで、生きてる。

飢え続けた新宿新次と、渇き続けたバリカン建二は、選ばれなかった人たちである。
全く似てないふたりの共通点は、選ばれなかったことだ。
親に、或いは世間に。というか、その、両方に。
チンピラで暴力者の新次。
吃りで赤面症の建二。

字面にして呻いたんだけど、彼等は「2番目」の名前なんだなあ。
次、と二。

そして、因縁を感じるのは、そもそものきっかけである裕二の存在で、彼もまた、二、を名前に持つ人であるということなわけで。
「あんたも、劉輝さんも、俺を見たことなんかなかったろ」
台詞がうろ覚えなのが悔しい上に申し訳ないのだけど、
あの、叩きつけるような苦しい橋の上のシーンが大好きだ。
新次が捕まるきっかけになった殺人未遂事件で、そもそも、新次を、そしてその兄貴分である劉輝をボコボコにした裕二。
ボクシングシーンでも、橋の上などの会話シーンでも、その目の獣のような激しさにハッとする。

たぶん、ボコボコにしても、彼のこちらを見ろ、という痛いほどの叫びは、今も上がり続けてる。

と同時に、新次がもう俺とお前ふたりの問題になってんだよ!という叫びは、ある意味では彼に応えてるようにも思える。思えるんだけど、そうじゃない。悲しいかな、苦しいけど。
新次は、常にそうだと思うけど
誰かに開かれてるような人間に見せて、その実、少しも相手を内側に入れることはない。
芳子との、部屋のシーンを見て思う。
誰より愛情に飢えているのに、触れたがって、実際触れもするくせに、土壇場で扉を閉める。
お前と俺の問題だ、と言いながら、どれだけ裕二のことを見てたんだろう。
私が、そう思ってしまうのは、後編の新次と裕二の試合後、裕二の表情があるからだ。
あの、表情!
映画館だから悲鳴を飲み込んだ。えらい。頑張った。
あんなに、情報量のある表情、なかなか見れない。あんなに、見てて心臓を握り潰されそうになる表情、ある?
裕二の敗北を、恐ろしく思うのは、劉輝の台詞があるからだ。
お天道様の下を歩くやつには、敵わない。
確かに、裕二はお天道様の下を歩く人なのかもしれない。奥さんがいて、子どもがいて。垣間見えるボクシングスタイルにも、真っ当さを感じる。
その、裕二が、負ける。
この事実の、絶望感を思う。
お天道様に勝つことは、なんなら、新次にとってどうしようもない絶望でもあると思う。救いが、あまりにないと思う。あの瞬間、この物語に穏やかな結末なんて、なくなってしまった。

ボクシングは、より強く相手を憎んだ者が勝つ。

そして、負けた人間は、忘れられていく。

その事実を、突きつけられた建二が選んだ、繋がりたいという欲求
穏やかなあのジムでの生活を捨ててでも、新次と戦いたいと思ったこと。初めて、ボクサーとしての目標ができたということ。
新次が、その気持ちを正確に理解して、同時にその手には乗るなよ、と口にすることにしびれながら、物語は終焉に向かう。


書きながら思ったんだけど、
書きたいことは他にもたくさんあるんだよ。
芳子親子のこととか、自殺防止クラブとデモとか、新次のお母さんが叫んだ、私は私の人生が欲しかった、とか。
なんて、熱量の凄い映画だろう。焼き付くように残り過ぎて、いつも以上に纏まりのない文になってる自信がある。
だけど、敢えて、どうしても、書きたいのは、裕二との試合を経た新次と、建二の試合のことなのです。
裕二は、見てもらいたい、少しでもこちらを見て、繋がって欲しいとずっと願い続けてて、
そしてそれはきっと、この映画に出てくる全ての人が願ってる。
願ってるのに、同時に手負いの獣みたいに、近付くな、と威嚇してる人々ばかりだ。
たぶん、裕二はその中で、手を伸ばして或いは伸ばされた手を掴める人だった。それが、お天道様の下を歩く男、という言葉から感じたことだ。
だけど、その裕二でも、どれだけ願っても新次とは、繋がれなかった。お前との問題だ、と執着しながら、勝ってしまった後は、新次はその手を掴まない。決してその存在を自分の中にいれはしない。
だから、言う。兄貴は、俺と繋がろうとしてる。そうはさせるかよ。と。

過去も、未来もないあの世界で、あれだけ丁寧に描かれた試合は、紛れもなく、今、の瞬間だった。


選ばれなかった新次と建二というふたりの男が、ひたすらに、互いを選んだようにあの試合で思った。
僕はここにいる、愛して欲しい、という訥々とした建二の声が蘇る。静かに、新次の拳をカウントする建二の声を、何度でも思い出す。

裕二も、芳子も、母親も、父親も、選ばなかったけど、選びたいと願うこともあった。
選びたい、選ばれたいと、願うことを、たぶん、私たちは知ってる。その切実すぎる願いがたぶん、孤独というのだと思う。
その中で、選べることが、選んで、選ばれてもらえることがどれくらい奇跡的な確率なんだろう。

新次が、叫ぶ。意識を失いかけた建二に、新次が叫んで呼びかける。
あれが、最後のお願いだったように思う。愛してくれ、愛させてくれという、祈りだった。
そして、たぶん、その祈りは聞き届けられると知ってるからこそ、口にできるものだった。


これは、新宿新次という男の物語だ。
日本という美しくて、汚い国で生きる男の物語だ。
或いは、唯一彼と本当に繋がることのできた、バリカン建二という男の物語だ。

選ばれなかったふたりの男が、ようやく、選ばれることを受け入れることのできた、物語だと思うのだ。

キャガプシー

笑わないと、潰れそうだから笑うということ
全く思っていないことをヒトは口にできないということ
世界は、確かに美しいということ

 


キンキラキンの、ラブに溢れたおぼんろさんの物語。その為に生まれた、キャガプシーシアター。
おぼんろさんの物語に、こんなにぴったりな場所はない。
ほんの少し寒かった寒かったんだけど、それ以上にあったかかった気がする。
白くみえる、役者さんの息に。誰かのもとからやってきた物たちがキラキラと輝く光景に。
ずっとずっと、目を奪われていた。

そんなわけで、おぼんろさんのキャガプシー、初日に行ってきた。おおよそネタバレを含みます!ご注意ください!!

清らかな人間から押し付けられた穢れを浄化するため、
壊しあいをする人形、キャガプシー
そしてそれを生み出すめくらの人形師、ツミと
そんな壊しあいを見世物にするネズミ
10年間、ただただ、キャガプシーを壊し続けたトラワレのもとに
ほんの少しどこかがおかしいキャガプシー、ウナサレが産まれたところから、物語は始まる。

キャガプシーの壊しあいのテレビジョン中継。
ただのショーの時以上に多くの人に見守られながら、物語は進む。彼らの関係は変わる。


独特な世界観と言葉選び。だけど、そのどれもがどこか懐かしい。
産まれた瞬間、ウナサレは絶望する。世界は酷いところだと泣き叫ぶ。そんな彼をそれ以上に強い力で、トラワレがさけぶ、話す。

世界が、どれくらい美しいのかを。


4人の登場人物はそれぞれに、絶望を背負ってる。世界の不幸を背負わされて、この世に生きる。
穢れを背負ったキャガプシーは、恐らく清らかな人間にとっては取るに足らない、視界にも入らないもので、だから、それが互いを傷付けても、見世物に過ぎない。
トラワレの表情や、仕草はとても静かだ。穏やかなのではなくて、幾層にも凝縮された何かが、その底にはある。
ただただ、黙って10年、キャガプシーを壊し続けたトラワレの飲み込み続けた言葉を思う。
その彼が、口を開いた時に表された世界の美しさを思う。
ウナサレは言う。全く思ってないことを、口にすることはできないと思うのです。

ネズミ、という男は自分をネズミのようだと自嘲する。
こそこそと、あちこちを駆けずり回るネズミ。
本当は、彼自身がキャガプシーでありながらそれを隠し、人を殺し、自分の願いのため、ツミやトラワレを犠牲にし利用する。穢れを背負ったからと罵りながら、彼はただただ願いを叶える為に生きる。
いや、ほんとに。こんなに見ていて胸が締め付けられる人もいるまいってくらい、見てて苦しい。その塩梅がお上手な方だよなあと惚れ惚れする。
血が滲むような台詞ばかりで、彼を憎みきれない。
誰よりも苦しんでたのは、誰だったのだろう、と思う。と同時に、より、とかそんなん関係ないなあとも思う。誰と比べて、なんて思う必要はなくて、「彼が」苦しんだ、という、ただそれだけでいいのだと思う。
肩代わりし続けていた彼は、同時に肩代わりさせ続けていて、それでも、彼に用意されたラストは重いつみではあったけど、優しい許しでもあったように思う。

ツミは、というか、めぐみさんのお芝居が本当に本当に好きなんです。
あの、周囲の空気諸共色付ける、あの不思議な力はなんなんでしょう。
笑うと嬉しくなる、悲しみに歪んだ表情には心がざわつく。本当に素敵な女性だと思う。
今回は、とてもピュアで悲しいものを背負っていた女性の役だった。
悲しいシーンでもあるんだけど、ウナサレとネズミの話をするシーンが好きで。あのシーンが好きだからこそすごくしんどいんだけど。
本当に、幸せそうに可愛らしくネズミの話を微笑んで聞くもんだから。そう思うと、ネズミは、もしくは、神様はなんて酷いことをするんだろうと思う。
だけど、同時に力強さもあって。危うさと力強さと。思い返すと、彼女はずっと何かを求め続けていたひとだったように思う。その彼女は、きっと、最後、手の中に何かが残ったと、私は信じてる。


ほんで、ウナサレですよ。
もう、冒頭から、本気で心臓鷲掴みにされたと思った。あんな、喉が裂けそうな叫び声さあ。
力強く動き、手をバタつかせて喉の限り叫んだこと、
笑うということ、言葉や世界のこと、何より、力一杯愛していたこと。
いっこいっこの台詞が、嬉しくて切なくて気が付けば泣いていた。
この物語に出会えてよかったと、心の底から、トラワレとウナサレの会話を聞いて思った。
何より愛したいと叫び続けるその姿を、ずっと見たかったんだと思う。

ウナサレが物凄く好きなのは、
彼は生まれた時、心底絶望して怯えてたわけじゃないですか。
こんな世界に生まれてしまったって嘆いてたわけじゃないですか。
だけど、そうじゃないって教えてもらって、その後どんな答えを知っても笑い続けることと、愛し続けることを選んだかれの姿はなんて優しい物語なんだろうと思う。
そして、それは、物語だと現実から切り離してしまうには、あまりに、生々しい温度と勢いで、心に届いた。


笑わないと、潰れそうだから笑うということ
全く思っていないことをヒトは口にできないということ
世界は、確かに美しいということ

そして、物販で購入した写真セットの4人の写真が、家族写真に見えたこと。
なんだか、それがあまりに優しいことのように思えて、どうかこれからの数日の物語がたくさんの幸せと一緒だといいなあ、と思うのです。
だって、私はこの物語に出逢ったので、まず間違いなくこれからもずっと、幸せなのだから。

High&Lowをほぼ一気見した話

ほぼ前情報のないまま、High&Low The MOVIE2 END OF THE SKYを観に行き、何だか分からないままリピートし、気が付けば、Huluに加入していた。
そういう力がある作品っぽいことは、聞いていた。聞いていたが、まあ、楽しんでも熱中しまい、と思っていた。ところが、蓋を開けて見れば極限状況だった試験前、ひたすらに鬼邪高校のテーマを聞き、胃の痛みを抱えながら家村会のテーマを口ずさむことで職場で戦っていた。

そんなわけで、なんでこんなに通称ハイローにドボンしたかを、文にしたいのだ。テーマは、High&Lowにおける救いについてだ。

まずは、ウィキペディアのあらすじ
伝説はとある街から始まる。かつて「ムゲン」という伝説のチームがこの地域一帯を支配していた。その圧倒的な勢力により、かえってその一帯は統率が取れていた。 だが、ムゲンに唯一屈することなくたった2人で互角に渡り合った兄弟がいた。「雨宮兄弟」である。両者の決着は着かないまま、ある事件をきっかけにムゲンは解散し、雨宮兄弟も姿を消した。 その後、その地域一帯に「山王街二代目喧嘩屋 山王連合会」「誘惑の白い悪魔 White Rascals」「漆黒の凶悪高校 鬼邪高校」「無慈悲なる街の亡霊 RUDE BOYS」「復讐の壊し屋一家 達磨一家」という5つのチームが頭角を現した。その地域一帯は各チームの頭文字を取って「S.W.O.R.D.地区」と呼ばれ、S.W.O.R.D.地区のギャング達は「G-SWORD」と呼ばれ恐れられた。さらに、「敵か? 味方か? 謎の勢力 MIGHTY WARRIORS」が出現する。 時はムゲンの解散から1年後、男達のプライドをかけた新たな物語の幕が上がる。


そも、ハイローは格好いいの集合体である。こうありたい、の集合体といってもいい。

理想と矜持、憧れ。
そういったものの集まりがHigh&Lowだ。
SWORD地区の各チームは勿論、九龍会やMWもきっとそうで、ザム2を見る限り、High&Lowで描かれるのはそんな強さのぶつかり合いの世界なのだ。


理想だけでも生きていけないことを知りながら、決して現実に埋れ切らない。

幼馴染の帰る場所の為だけに、山王連合会を作ったコブラやヤマトを初め、彼らにあるのは「こうありたい」の姿でしかない。
その為に、自分が何ができるのかというその一点しか見てない。
そんなチームが、ぶつかり合っているその姿に、そら、はまらないはずがなかった。
例えばこれが、こうありたい、だけなら若さだなあなんて知ったような口をききながら流せたかもしれない。
だけど、彼らはそれが痛みを時に伴うことを知ってる。
理想を守る為に、こうありたいを貫く為に時に痛みを伴う。それは、自身かもしれないし、大切な人かもしれない。そして、あるいは自分がそんな暴力を振るう側にいるかもしれない。
シーズン1でヤマトがチハルにいったとおり、そりゃいてぇよなのだ。
いてぇに決まってるのだ。派手に殴ったりするし、酷い時にはもっと痛いことになる。
だけど、それを失ったらもっともっと、いたいのだ。

なんて、ともすれば青臭いと一蹴されそうなことを、彼らはしてるのだ。
それもめちゃくちゃ格好いい映像とアクション、音楽とともに。
そら、もう、面白いに決まってるじゃないですか。

あと、友人とも話していたけど、ハイローは凄くお芝居的だと思う。演劇的。
演劇の大好きなところは、間違いなく想像力を掻き立ててくれるところだ。
例えば舞台セットのほとんどない素舞台でも、役者さんの動きや照明、音響でそこの景色が見える。
例えば、2時間しかない上演時間の間でも過去にも未来にも、何百年という時間でも過ごせる。
それが、舞台の魅力だ。
それは、たぶん作り込まれたり重ねられた時間や気持ちが幾層にも重なり合って出来上がるものだと私は思ってる。
で、ハイローを見てるとなんだかそんなものを感じる時が度々あるのだ。
時系列や関係性、バックボーンがたとえ語られなくてもなんとなく、感じる。
台詞にはない気持ちや理由が役者さんの眼差し、あるいは仕草、アクションからビシビシに感じるのだ。
あと、アクションがほんとにひとりひとり、戦いのシーン毎に趣が変わる。アクション、はあくまでお芝居の一部なのだ。だから凄くワクワクするし目に焼きつく。その上ビジュアル的にもワクワクできるくらい舞台セットとの合わせ技の演出が凝られてる。凄い。語彙を失う。身体能力の高い役者さん、普段ダンスを初めとするパフォーマーであることを最大限に活かしてる。
そして、どの役者さんの中にも、役の彼らがいるのだ。岩ちゃんのコブラへの思い入れなんかはあちこちで語られてるけど、たぶんどの役者さんも、そんな姿勢であの作品の中で生きてる気がする。
誰よりもその役を愛して向き合う。だから、何気ないアドリブや仕草にわくわくする。
撮影中のエピソードを聞くと、その即興芝居の多さに驚かされる。その、精巧さにも。

お芝居作りの姿勢の魅力と、物語の力強さ。
その両方が、これほどまでにハイローに夢中になった理由だろう。

彼らの、自分たちの理想を通そうとする姿が、
自分たちの大切なものを守る為なら、その痛みを受け入れる危うさが、
たまらなく刺さるのだ。

ところで、ハイローは元々深夜ドラマからのスタートなので、特にドラマ本編には深夜ドラマらしいギャグやテンポ、演出がある。それが、彼らが背負ったり向き合ったりしてるものの重さを和らげる。それだけじゃない安堵をくれる。

喧嘩ばっかり何故するのか、といえばもうそれは、闘うしかないからだ。
闘わなければ、失ってしまうからだ。

投げ出したくなるような現実がある。
だけど、それは投げ出して仕舞えばもっともっと、辛いことが待ってる。
だから彼らは一歩も引かないし、守ること、以外に基準はないのだ。
相手が強かろうが偉かろうが、命の危険があろうが、そこは譲らないのだ。
なんだかそんな姿が、私はたまらなく、好きなのだ。

そして、それでも笑う彼らが好きだ。
現実がどうしようもなくても、彼らは楽しみ笑うことを忘れない。
そして、ハイローの世界ではひとりぼっちじゃないという優しさがある。
SWORDそれぞれのチームが誰かと時間を重ねながら、その毎日を現実を過ごす。だから、彼らは笑えるし、最高の景色が見れる。
笑い飛ばす力強さを彼らは持ってるし、それは誰かといる限り、より強さを増していくのだ。
特に、テレビシリーズの物語の主軸であるMUGENのエピソードはそんなことをより強く思わせる。
ずっとこの時が無限に続きますように、と願ってつけられたチーム名。
変わらないものはない。だけど、変わることと喪うことは違う。変わっても、形を変えても失わない。

なんというか、ハイローは、物語としてのメッセージの力強さを音楽とアクションで、柔らかくドシっと受け取りやすい形で届けてくれる。

全員主役、というキャッチフレーズは、彼らの物語を象徴した言葉でありながら同時に視聴者への真っ直ぐなメッセージだ。そして、そのメッセージは、日々を生きる人たちへの人間賛歌なんだと思う。

どうか彼らの意地が、拳が、痛み以外の何か、できたら優しい何かに行き着いたらいいと思う。

畳屋の女房

じわじわという蝉の声。
近所の人たちの賑やかな笑い声。
うだるような暑さ。

知らない時代の話である。
だけど、たまらなく懐かしい、帰りたいと思う時代の話だ。


本日千秋楽ですが、逸る気持ちが抑えられないためネタバレブログをフライングで。
初日に観劇。初日に、生まれる瞬間に立ち会えたこと含めて、とても幸せだったと思う。

あらすじ
1959年の夏、
僕の精神寿命は後1年でした・・・
若年性認知症

僕は段々と消えて行くのです。
怖くはありません。
妻の中に僕は生きられるのです。
ただ、迷惑をかけますね。
・・・ごめんね、許して下さいね・・

蝉しぐれが聞こえる中・・・
あなたは生きている
自分が自分で無くなって行く、
想像も出来ない恐怖を懸命に、こらえながら
溢れ出るに違いない筈の涙を、胸いっぱいにためて
あなたは生きている

この手も、この顔も忘れないでね
あなたは、私の中で生き続けることが出来るから
あなたのように強くなりたい
あなたのように優しくなりたい
困った時、苦しい時、
歩むことを教えてくれた・・・
泣いても、泣いても、あなたになりたい

夢儚く 命燃ゆる
あなたになりたい


このあらすじと、フライヤーを観て、絶対に観に行く、と決めた。
大阪から東京まで呼ぶフライヤーかあ、と友人に言われたけど、ほんとそれね。
面白いお芝居を前には、距離とか値段とか度外視してしまう。
そんなことより、このお芝居が見れないまま終わってしまうことの方が惜しいと思う。


ひとりの、文筆家(小説家)聡一の話だ。
聡一の家にやってくる大家姉妹や、近所のおじさん、そしていまだに戦争の陰から抜け出せない佐賀さん。
聡一の家のあの賑やかさがともかく愛おしい。

冒頭、おじさんとトモコちゃんと聡一の会話で始まるんだけど、その素朴さと愛おしさにやられた。
このふたりの存在が、またいい。
ご近所さんなので、お話に大きく関わってくるわけではない。ないんだけど、戦争孤児であるトモコちゃんとその子の面倒をみるおじさんはこのお芝居の大切な存在だ。
子どもがいるってのはいいよ、と途中おじさんが佐賀さんに語りかけるシーン。
ハッとした。

このお芝居の人々は佐賀さんを除き、戦争をある程度飲み込んで、戦争が終わった日常を愛している。日々を懸命に生きてる。
その影は、完全になくなりはしないんだけど、それでも、そんなことは過去のことで関係ない、というように見える(たぶん、見えるだけ、だと思う。野暮なことを言えば)
その意味が、このおじさんの台詞に詰まってるような気がする。
男たちは、それぞれ、戦地での記憶があり
女たちも、大切な人を失ってて
それでも、素麺を食べて笑ってふざけてってするのは、一緒に生きる人がいるからだ。
子ども、という明日からの時間を生きる存在が近くにいるから。

冒頭をはじめとして、トモコちゃんとおじさんの会話は可愛らしくて愛おしい。本当の親子のように仲がいい。それは、隣にいる存在がどれだけ大切か知ってるからだと思う。
そして、そのふたりと嬉しそうに話す聡一の愛おしさったら!
トモコちゃんも、とても賢くてでも子どもらしさもあって、本当に素敵だった。笑顔の奥に、聡一たちへの確かなやさしさがあって、本当に本当に幸せになってほしい。


このお芝居を華やかに優しく彩ったのは田之上さんたち姉妹だ。
もー気持ちのいい女っぷり!
大家さんの多恵子さん、大家ですからのやり取りも、気持ちのいい世話焼きも今時なかなか見ることはできない振る舞いだ。だけど、だからこそ、聡一に出世払い、と家を貸していることに深く納得する。
秋子も、血こそ繋がってないが、多恵子さんの妹らしく深い愛情のある素敵な女性だった。一郎を許すこともそうだけど、春さんが利尻から知らない土地で行くあてもないなか、彼女の店で働いていたのはその懐の深さの証だろう。
ふたりの優しさは、向こう見ずな優しさじゃない。無償の、どろどろとした優しさでもない。
当日パンフレットの、一杯の水、とはまさしく彼女たちのことのように思える。
とんでもない幸福や優しさで、埋められないものがあるというか
生活の中の優しさって実はとんでもなく難しくて貴重なものなんじゃないだろうか。

なんか、この畳屋の女房は、ともかくそんなもので満ち溢れてた。
突飛な物語展開があるわけでもなく、
派手な音響照明があるわけでも、ダンスがあるわけでもない。
大袈裟に声を張り上げることなく、ただただそこに等身大のひとがいる。
だから、もう、本当に愛おしい。

多恵子さん、秋子さんが強さの愛おしさとしたら、貴子さんは弱さの愛おしさだ。
彼女のこれまでは、そう多くは語られない。またこの語られなさがいい。
あくまで、聡一を中心に物語は進むからというのもあるし
何も事情全てを家族や友人が共有する必要はない。
そして、貴子さんがその辺りがすごく絶妙なのだ!
言葉では語られないけど、ふとした仕草や目線に彼女のこれまでを思わせる。
原爆の話が出た時、傷んだ彼女の心がほんの少し覗くシーンには、思わず鳥肌がたった。本当に些細なんだけど、だからこそ余計それが苦しい。
それでも、優しく静かに生きてる貴子さんが本当に素敵だ。


戦後という時代、ちょうど東京タワーの建設が進む東京の街。
舞台セットは聡一の部屋一室なんだけど、その街の活気を伝えてくれるのは、絹代さんをはじめとする編集部の人々と、京子さんだ。
絹代さん、三島さんの力強さは、エネルギーに溢れてる。
三島さんの台詞の中、蓋をされた事実があったからこそ、というのが印象的だった。
編集に関わるひと、そしてそれを援助するひとは一度は何かを失ったり傷ついたひとたちだろう。(というか、戦争を越えた人たちはきっと、みんな一様に傷ついた、なのだろうけど。戦争をその身では知らない私には、推察しかできないけど、きっと、それはそうなんだと思う)
傷ついたからこそ、泣くのはやめて、笑うことを選んだ人たち。自分の精一杯を選んだ人たち。

うろ覚えで恐縮だけど、副題にもなってる滑稽という言葉で印象的な台詞がある。

「無理、そうですね、無理かもしれません、しかし人間とは、無理だと分かっていてもやってしまうやらずにはいられないそんなことがあるとは思いませんか。それは、とても滑稽ですが、しかし、そんな姿こそ人間だとも思うんですよねえ。」


この台詞の、愛おしさったらもう!
そして、編集の人々がやろうとしたことは、まさしくこれなんじゃないか。
無理だろうが無茶だろうが、誰に非難されようが、自分が信じたことを精一杯する。
いつか、出来なかった時があったからこそ。
白川先生に近藤くんも、たぶん、そんな思いから協力してるんじゃないだろうか。
特に、白川先生は、たぶん、戦争中も医者で、だからこそ、救える人をできる限り救いたいと思ってるように感じた。
し、聡一へかける言葉が、本当に医者、と思った。
この人を救いたい、という気持ち。
救われたい、と願ってるのは患者自身だと思うけど、医者だって救うことで救われてるのかもしれない。いつかの希望がもてる、そんな文を書いてください、あなたにはそれが書けると思う。すごく、いい台詞だった。


そんな中、佐賀さんをはじめとする公安組、寅吉もリアルなんだ。
そんな風には思えなかった羊飼い。
狼への復讐を捨てられなかった、羊飼い。
それは、誰より部下を救えなかった自身への復讐な気がして心が痛い。
すごく昏い目をしてるんだよね、佐賀さん。
役者さん自身は普通に同じこの平成の時代を生きてる人なんだけど、
あの目が本当に昏くて冷たくて、そんな寒いところ早く出ておいでよ、と涙がでた。
すぐ近くに羊飼いと一緒に生きて生きたいと思ってる人たちがあんなにいるのに。
公安組のふたりと寅吉の印象的なシーンは、爆発をただ見るしかないシーン、そして、佐賀さんへの、敬礼だ。
当たり前に生きていけるからと言って、傷がないわけじゃない。
泣きながら叫ぶその表情に確かに煙や炎を見た気がした。
観劇仲間とも話してたけど、あれこそ、お芝居の醍醐味だと、私は思う。
ただ再現されたセットや映像じゃなくて。
その役者さん、役の気持ちを通した景色を見ることができる。それが、心に何より迫ってくるのだ。

戦争、ということを更に思わせたのは、聡一の広島の親戚、トメさんによしさんだ。
特に、よしさんのそんなに戦争や命や言うんやったら、広島に来てみたらええ、というあの台詞。
墨を飲んだような気持ちになった。
彼女たちが見た景色は、また少し違うものだし、たぶんそれは原爆で喪った人にしか分からないものなんだろう。
だからこそ、トメさんはよしさんにお前も都会にいきんしゃい、と言ったのかしら。
トメさんの包容力というか、生きて来た重みもまた凄かった。春さんにひんやりした対応する度、見ていて心が不安に潰れそうになったんだけど、そこから彼女を受け入れる、と言った時の安心感っていったら!
聡一の根っこの部分の、家族の断片は、彼女たちふたりが見せてくれた。

戦争の香りの中で、また少し印象が違ったのは、鉄川くんだ。そしてもしかしたら、医学生の近藤くんもここに含まれるのかも。
具体的な年齢や設定は、確か物語中、出てこない。
彼らはただただ純朴で目の前のやるべきことに向け真っ直ぐに毎日を生きてる。
戦時中、彼らがどうしていたかは語られない。
だけど、特に鉄川くんが佐賀さんの話をどこか座り心地が悪そうに聞いていたように見えたのは気のせいだろうか。
役者さん自身のご年齢(と、言いつつおふたりの年齢を知らないんだけど)とともに、あのお芝居の中の「若者」の空気感。
いつか、あの戦後の数年を本当にそんな時代があったのかしらと思ってしまうような時代が日本にはくる。
そういう空気が何層にも重なって変わっていく、そんなものをふとふたりの姿に思ったりした。


印象が違うといえば、一郎さんである。
プー太郎、ダメな男という最初の印象は、最後、聡一が唯一、一郎さんは間違えたことがない、と語られるシーンでほんの少しその表情を変える。
シベリアからの引き上げ。
その時、もう、緊張して怯えながら生きなくてもいいんだ、気を張って生きなくてもいいんだと思ったこと。
一郎さんはともかく笑顔が脱力系な方だ。肩の力が抜けるようなあったかいひだまりのような空気を纏ったひとだと思う。
それは、きっと、そう生きることの幸せを知ってるからじゃないか。
聡一さんの台詞で、あの頃は毎日覚悟をして生きていました。でも、近頃はそうじゃない、それが、という、戦時中を振り返る台詞がある。
あの台詞も、とても印象的だったんだけど。
究極の緊張状態をずっと強いられてて、命を取り上げられそうな状況で過ごす中で、
その張り詰め切ってしまったこころを戻せなくなったひとは、決して少なくなかったと思う。作中なら、佐賀さんがそうだ。

そして、なんだかこれは少し大袈裟なのかもしれないけど、
戦争だけじゃなくて、そうなることってあるんじゃないかなあ、と、
少なくとも聡一さんは、いつか失われる記憶に怯えながら気を張り詰めて過ごしてたんじゃないかなあ。とそんなことを思う。
なら、そんな聡一さんにとって、一郎さんの空気は、きっと、息をついてもいいんだと
気を張っても張らなくても生きていけるんだから、生きていくしかないんだから、
それなら、柔らかく日々を受け入れて笑ってていいんだとそう見えたんじゃないかなあ。

そんで、春さん。
もう本当にね、素敵な夫婦だった。
泣いたように笑うお顔が印象的だった。
ふたりが寄り添うその姿の愛おしさ。もう、本当に幸せをひたすらに祈る夫婦だった。
聡一さんの文を嬉しそうに読む姿も。
不安がなかったわけじゃない。
一緒にいることの恐怖もあっただろう。一緒にいる限り、わすれられることを嫌でも実感しなきゃいけない。だからこそ、聡一さんは離婚届を多恵子さんに預けたんだと思う。
生きている、ということは、幸せなことであればいいけど、それ以上に喪う可能性と常に隣り合わせだから。

そんで、畳屋の女房という秀逸なタイトルにしびれながら、春さんはどんな女房だろうね、って言った多恵子さんの台詞をずっと考えてて。
どんな女房だろう?
文筆家の女房?
小説家の女房?
あるいは、若年性健忘症の男の女房?

なんか、色々考えたんだけど、
多々良聡一の女房、以上にしっくりくるものがなかった。
かなしいことを経て出逢った彼らが、本当に本当に幸せな日々を生きてくれますように、と思う。
幸せな部分を見せてくれたお芝居の通り、最期までそうとは、限らないけどそれでも。

そして、最後に多々良聡一さんの話を書きたいんだけど。

春さんの旦那さんとしての、多々良聡一さんもとても魅力的だったんだけど、
胸に沁みたのはやっぱり筆を握る多々良聡一さんなんですよ。

もう、会話劇の塩崎こうせいさんを、しかもこんな役で観れる幸せってある?
芝居という表現に生きる塩崎さんが、文という表現に命を燃やす男の迫力ったら、ない。


聡一さんは、鬼のような気迫で文を書くわけではないけど
文だけはずっと正気だった。
そして何より妹さんのために始めた文章を書くという、その意味を噛み締めると
最後、照明に照らされた原稿の愛おしさたるや、という思いだ。

もう覚悟しなくていい
もう好きなものを書ける。

聡一さんの文を読んでみたかった。
彼は常に、誰かのために筆をとっていたんだなあ。
そうして生み出す文の中で誰か人間を描こうとし続けてて

それは、利尻でひとりきた異国の男かもしれない、その彼が出逢った優しい春さんのような女性かもしれないし、
羊飼いの男や、水俣病に苦しむ誰かかもしれない

その誰もに、聡一さんの優しい目が注がれている。
彼らが生きていることを、喜んでいる聡一さんの目線が。

思えば、
このお芝居こそ、聡一さんが書こうとしていた人間の話、なんじゃないか。
この物語はね、あなたを守りますよ
その強くて優しい台詞が、今も耳の奥に残っている。

いつか薄れてしまうだろう。思い出せる台詞も温度も、減ってしまうかもしれない。
だけど、確かに私はとても幸せなお芝居を観たのだ。それはきっと忘れない。
そして何より、思い出すたびにすきになるから、その自信があるから、大丈夫なのだ。

ロクな死に方

フライヤーを観たからか、それとも感想を読んだからか。
ちょっと今定かじゃないが、上演当時なんで観なかったんだろう、と猛烈に後悔したのを覚えてる。
お芝居に対して観なかった後悔をつらつら書くのはとても失礼なことだけど、ともかく、私にとってこのお芝居はある意味、未練、となって残っていた。
なので、ほぼ初めましてのこの作品に手をつけたのは、そんな未練からだった。


あらすじ
水野チサトは元恋人・毬井(マリイ)という男の死をどうしても受け入れられずにいた。彼の死後、体調を崩し、店長として務めていた飲食店も辞めてしまった。そんな彼女がある日、「やっぱり毬井くんは生きている」と主張しはじめる。毬井が生前に書いていたブログが、今も更新されている、というのだ。しかし、確かに毬井が死んだことは事実である。

チサトの姉・ハルカは、そんな妹とどう向き合うべきかに困り果て、職場の友人・生方(ウブカタ)という男に助けを求める。自宅に彼を招待し、妹と話をさせてみることにしたのだ。はじめは激しく生方を拒絶していたチサトだったが、彼の落ち着いた人柄に触れるうちにだんだんと心を開いていく。生方はチサト・ハルカと相談の上、毬井のブログを現在も更新し続けている「なりすまし」の犯人を特定することを決心し、独自の調査を始めることにした。

物語はもう一方の側からも展開する。つまり、その「なりすまし」の「犯人」武田の側からである。武田は結婚願望の強い恋人や、気のいい後輩に囲まれて安定した日々を過ごしていたのだが、そこへ突然、学生時代の友人・毬井の死の知らせが届く。やがて武田は、毬井の意志を継ぐかのように、毬井が生前に残した「手記」をブログにアップしはじめる。武田には生前の毬井と交わした約束があったのだ。

そして生方が武田を探してあて、ブログの更新は止まる。ゆっくりとだが、確かにチサトも毬井の死を受け入れていく……。


凄いのが、もうこの話、ほぼこのあらすじの通りなのだ。
勿論あらすじに語られないことはある。
あるんだけど、観終わって改めて読んで、え、ここまで書いちゃって大丈夫?ってくらい、詳細が書いてある。


シンプルな舞台である。
始まり方も衣装も、そして机や椅子に見立てられる装置も小道具も。
かといって、抽象に走りまくってもない。当たり前のものを当たり前にきて、使い、普通の会話をする。
だけど、その肌触りは何度もやすりにかけて磨かれたようなつるりとした、そして同時に鋭利なものだと思う。
変哲のない会話だったりする。
わざとらしく、言葉の繰り返しがあったり変わった題材を話したりすることなく、もしかしたら、電車や居酒屋で耳をすませば聞くこともありそうな会話たち。
だけど、違うのはそれらが全て隙がないのだ。
隙がないだけで、余裕がないわけじゃない。
動きもそう。
なんだろう。
真空状態ってあんな感じなんだろうか。

ともかく、なんだかよく分からない興奮と、ビリビリと痺れるような空気感の中、だけど変哲もなく、物語は進んでいく。

男が女に話している。
ある死んでしまった男と、その男の周りの人々の話。
話の内容は、あらすじのとおりだ。
死んだことを受け入れられない元恋人。
その妹を案じる姉と、その知人。
なりすましを続ける男。

そして、死んでしまった男。

メインの流れは、なりすましの男が書くブログを軸に進んでいく。


どんでん返しがあるわけではない。
男は死んでしまっている。
それは変わらない。
劇的に何か、救われたりあるいは絶望したりするわけではない。
かといって、全く平気なわけではない。
ピリリとした会話の端々に、彼らの悲しみや生活が覗く。

本当に、シンプルなお芝居なのだ。

男が死んでしまった、
死んでしまったからもう会えない。
誰かを好きだと思う、好きだからこれ以上好かれることはないと、嫌われるかもしれないと恐怖する。
どこか曖昧な、死んでしまったという感覚、それを信じたくないと思うこと。
死んでしまった。
死んでしまったからもう会えない。
だから、かなしい。
だけど、生きていけばそれは確実に、過去へと変わる。


印象的な台詞がある。
「呪われたいと思うこともあるんだよ。
そうして残るんだったら。呪い大歓迎、みたいなさ」

記憶頼りに書いてるから違うかも。雰囲気で覚えがちだよね!

人が死ぬという事実は、どうやら変わらないし
時間は止められない。
シンプルだ。
変わらない事実なんだから。
そして、それが人によってはこない、なんてものなら話は違うのだけど、残念ながら全員にいつかやってくる。
自分の死だけでもちょっと持て余しそうなのに、大切な人の死ってのもやってきて、往々にして、それを乗り越えて踏みつけて、生きていかなきゃいけないのがだいたいの流れらしい。
そんな、あんまりだー!とよくよく考えれば叫びたくなるような事実を、このお芝居は削げ落とした音と光の中、告げる。

死んでしまう。死んでしまえば、かなしい。
だけど、生きていけば、それは過去になってしまう。

だけど、それは絶望ではないんだと思った。
とんでもなく悲しい、胸が塞がれるような事実なんだけど、それは、絶望ではない。

お芝居の感想というより、もはやなんか、体験メモみたいになっているけど、
本当にあの、研ぎ澄まされた空気が好きだった。
次こそ、生で出会いにいくんだ。

ゴベリンドン

個人的に、おぼんろさんのお芝居は観終わった後にあらすじを読み直して呻くところまでが、一連の流れ。

そんなわけで、観劇三昧でゴベリンドンを観て、あらすじを読んで呻いてきたのでブログを書く。


歪むほどに強い愛はあまりに美しく、絶望的に愚かだった
その村は深い深い鬱蒼とした森の中にひっそりと存在していた。
その兄弟は早くに両親を無くしていた。
兄は心優しく、弟は頭が悪かったが、天真爛漫な笑顔は人々をいつだって幸せにした。兄は弟に話す。
「僕らは永遠に一緒だ。」

本当の幸福とは?愛とは?

おぼんろが世界に贈る、21世紀に生まれた普遍的な童話物語。

ビョードロ→ゴベリンドン、と観て、めぐみさんのお芝居は本当に心にぐさぐさくる、と画面(携帯で見てた)を持つ手が震えた。
めぐみ、はこの物語の中で一番(これが適切な言い方かどうかはさておき)普通だ。
平凡で、だからこそ愛おしい。
普通の些細な家族の幸せを願って怒って笑う。
だから、起こる様々な悲劇に彼女は戸惑うし、そちら側に進んでしまう兄弟に戸惑う。
戸惑って、それでも分かりたいと、笑っててほしいと手を伸ばす彼女の愛おしさったらもう。
抱き締めてあげる、という言葉の切実さを、生で触れてみたかったと思う。
抱き締めてあげるから、こっちにおいで、と
そんな寒い場所にいないでくれ、と理解しようともがく彼女は、ありきたりな言葉を使うなら、おかあさんのようだった。
ひとを一人、戸惑いながらそれでも手を伸ばし育てるのは、誰よりその人の幸せを祈るからだろう。
強いとか弱いとか、ズルイとかズルくないとかではなくて、できるできない、ではなくて、それを誰より強く願ってるひとを、おかあさん、と呼ぶような気がした。


兄弟の話で、親子の話だ。家族の話で、家族が欲しかった人の話だ。
家族、とはそもそも、血縁者のことを言うわけだけど、それは勿論知ってはいるのだけど、
ここで私が言いたい家族、とは単なる血縁者、ではない気がする。
ざっくり言ってしまうと、虹色アゲハと植物のことも、家族、と呼んでしまいたい気持ちなのだ。

ところで、そう言うと、辛くなってくるのがゴベリンドンと死体洗いだ。
特に死体洗いだ。
もしこれが家族の話で、誰かを幸せにしたいと願った、誰かの幸せが自分の幸せだという人たちの話だとするなら、
このふたりはなんて可哀想だろう。
可哀想、というか、彼らのいるその場所は、なんという地獄だろう。
トシモリやタクマが語った楽園からもっとも遠いところに違いない。
ゴベリンドンは、自分の幸福な楽園を死への恐怖から破壊し尽くしてしまった。
でも、死体洗いはどうだろう。
最初から、あの人のもとに、楽園なんて、なかったじゃないか。
しかもそれが、死体洗いの罪だっていうならまだしも、
生まれた時から背負った業だっていうのは・・・。
どうなんだろう、あの物語の中でのあの人の立ち位置はなんだろう。
ゴベリンドンは、喪失、だ。
トシモリやタクマのifの姿だ。
だけどなあ。
ちょっと、一番死体洗いについてが、他の人の感想を聞いてみたいところかもしれない。
皆さんは、あの人をどう思いましたか?


おぼんろさんのお芝居の話を以前知人とした時に、知人がおぼんろさんのお芝居には痛切な自己犠牲がある、と言っていた。
その頃パダラマ・ジュグラマ、ヴルルの島、くらいしか観てなかった私はなるほど、と言いつつちょっとだけ首を捻っていた。

自己犠牲、と言う言葉に私はいつもほんの少し身勝手さとか、自己陶酔のような響きを感じてしまう。
だからか、なんとなく、しっくりこなかった。分かるような分からないような、と思ったけれど。

トシモリは、タクマを悪魔に差し出した。
差し出して、母の健康を祈った。
そのトシモリは、今度はタクマの命のために、村人を殺した。トシモリはそのことの罪の重さや村人たちの嘆きをたぶん、誰より理解してたけど、それが鬼へと堕ちることだとも理解してたけど、殺した。

トシモリに、タクマが言う。
虹色アゲハは、アゲハチョウになるよりも植物といることを選んだんだよ。
ばかだよねーっと。
愛おしそうに、幸せそうに。
自己犠牲といえば、虹色アゲハのタクマの行動はまさにそれだろう。
命を投げ打ってでも、その人と一緒に在りたいと願ったことだろう。
だけど、やっぱり、自己犠牲は美しくなんてない。でも、もしかしたら自己陶酔だってしてないのかもしれない。
自己陶酔なんてものでもなく、ただただ、そうしたかった。
他人からすれば、ばかだよねーっだとしても、彼らの幸せはたぶん、そこにしかなかったんだろう。
ふたりでいること。
それは、笑うための、絶対条件だ。