えす、えぬ、てぃ

お芝居の感想など

ホットロード

完全に、役者さん目当てで観ることにしたホットロード
光がとても美しい、愛された映画だった。


あらすじ(ウィキペディアより
悩みを抱えながら、暴走族に憧れ、仲間に入り不良の道を進んでゆく主人公・和希、バイクに命をかけ、死をも恐れず暴走する春山の姿が描かれる。

母から愛されず、自分が誰からも必要とされていないと心を痛める14歳の宮市和希は、学校で周囲と打ち解けられず孤独を抱えていた。そんなある日、学校の友人である絵里に誘われ不良の春山洋志と出会い、しだいに彼らの世界に自らのよりどころを見いだすようになる。少しずつ春山にひかれていく和希だったが、暴走族のリーダーとなった春山は反目し合うチームとの激しい争いにしのぎを削ることとなる。

 

 

最近、ハイロー・デメキンと立て続けに拳という文脈で足掻く人たちの映画を観たというのもあって、なんだか尚更色んなことを考えてしまったり。ホットロードはどちらかといえばそんな文脈を女性目線で読み解いた話だと思う。

 

和希って女の子をのんちゃんが演じてることになんだか、へーーーって思った。

のんちゃんは、あまりトンがってるような印象は受けない。なんならどこか独特な緩やかなリズムで生きてる、そんな印象をどちらかといえば受ける。

和希はそういう意味ではなんとなくちょっと印象が違う。荒い言葉もほんの少し言ってる感じ、があった。最初は。

 

でも、なんとなく。

大人しそうとか真面目そうとか、そういうイメージをともすれば押し付けられかねないのんちゃんが、誰だよそんなこと言ったやつ!と声を荒げたり、春山を殴ったり

なんか、そういう、勝手にきめてんじゃねーよ!と睨みつけるような姿は、それこそ、のんちゃんそんな役もするんだ、と勝手に決めてた私への一喝にも思えて、途中からなんだか小気味好く感じた。

真面目そうとか、やんちゃだとか、思春期特有のどーのこーの、とか、なんか、そういう勝手な思い込みみたいな、押し付けに潰されそうになりながら潰されてたまるか、と生きてるふたりの話だと思った。

だとしたら、こんなに合ってるキャスティングないでしょ、と思う。

 

どことなく、のんちゃんも臣ちゃんも危うさがあって、危ういのに妙にとんがる強さというか、とんがるじゃないな、ブレない軸を持ってて

それはあの和希と春山そのものみたいだった。

 

そのふたりが寄り添うまでも、寄り添ってからも手を繋ぐだけみたいないっしょにいて笑ってご飯食べて寄り添って眠るだけ、みたいなあの空気感をあんなに綺麗な光と共に撮られたらもう、好きじゃん。

かなり、光とか湘南(だったはず)の景色もああ、これは漫画の絵もとても綺麗だったんだろうなあって思わせてくれるカットでたまらなかった。

 

この話を、思春期の話、とは言いたくない。

言いたくないんだけど、たしかに覚えのある痛みに呻く。覚え、とは自分の体験した、という意味でもそうだし、周りで見た、でもそう。

もう私は和希みたいにどうしようもなくなって、春山のアパートの前で座り込まなきゃいけないような思いからは随分離れた気もする。

だから尚更、和希や春山の剥き出しのままの傷の痛さとかを思って何回も再生を止めては呻いてたんだけど。

 

ラストシーン。

春山が、和希と生きたいから死にたくないって言ったこと。

お気に入りのカーディガンをぼろぼろにしても助けたいとお母さんが和希を背負ったこと。

和希が、春山の赤ちゃんを産みたいという夢を見ること。

 

誰かに愛されて、人は自分の命の大切さを知るって言ってたけど

それは親から最初に与えられるって言ってたけど

でも、きっと親からじゃなくても良くて、親から貰ってないから不幸とかダメとかそんな話じゃなくて、と纏まらない気持ちのまま思ってた。なんかもし、それをそうだって言われるとしたらちょっとしんどすぎると思う。

親だから、とかじゃなくて、大切だから、でいいじゃん。というか。親ってすげえってのは思うんだけど。でも、春山から和希の和希から春山への気持ちはなんか、言葉にして関係性に縛って定義付けたくないなあと思う。

あと、死をも恐れず生きてきた春山が、死にたくないって思ったみたいに、投げ出そうとした和希がごめんなさいって生きようとしたみたいに、なんか、勿論、愛されて自分の命の意味を知るってのは間違いないんだけど、

それだけじゃなくて、それくらい大事な相手を愛して知ることもあるんだなあとラスト、肩を組むふたりを見て泣きながら思いました。

たぶん、それを幸せと呼ぶんだと。

 

 

【雑記】お芝居とか魔法とか


キャガプシー初日を見た一週間後の、クレプト・キングの開演前のロビーにて、
観劇仲間の方とキャガプシーの話をしながら、末原さんって妖精っぽい、という話題で盛り上がった。
そしてふと「淳さんの魔法と末原さんの魔法は同じ魔法ではあるけど系統が違う」って話をしたので、
ちょっと文にしてまとめてみる。

常々、演劇は魔法だ、と言っているし高田淳さんは魔法使いだ、と公言しているわけだけど、
それを文にしているので読む場合は、だいぶ頭の中お花畑だなーくらいの気持ちで読んでください。お花畑です。


※いつも以上に好き勝手です
※個人の感覚の話です
※おおよそ妄想であり、事実に基づいてません
※演劇・演技について専門に勉強したことはないので、おかしなところはむしろある前提です

 


高田淳さんについて魔法使いだ!と言い出したのは2015年夏頃からなわけですが、
まずもう言わずと知れたスマートさが印象に残ったのがはじめ。
そして、気持ちいいタイミングで入る台詞!動き!余韻の残る表情!!
かつそれがただ「完璧」というに留まらずチャーミングだからこそ、魔法使いだと思うのです。
余韻というかゆとり感。
完璧だと研究家とかまた違うジョブになるよね。
あれです、イメージRPG錬金術師みたいな感じ。
天然由来の魔法じゃなくて、たぶんこの魔法はこんな意味があって、とか
これとこれを繋ぎあわせたらこうなって、って組み合わされて魔法になったようなイメージがある。
ひとつにはこれは高田さん自身が持つ知的さの印象が先んじて生まれたものだなぁと思うけど。
無から有への魔法というよりかは別のものへと変化させる魔法を使うのが淳さんだと思うのです。


対して、冒頭の話題にあがった末原さんは妖精よりな魔法のイメージ。
ゲームで言うと、淳さんの魔法はジョブ…戦士、司祭、の流れでの魔法使いだけど、末原さんはキャラクター属性としての魔法。


属性っていうか種族…。
なので同じパーティで組んだとしてもジョブが被らないね!(といっても私がそういうゲームしてたの随分前だしそんなにタイトルプレイしてないからわかんないけども)
一括りに魔法って言ってしまうと同じなんだけど、たぶん力の源とかが違う印象。
あの、はがれんで東洋と西洋の錬金術の違いを話すシーンがあるんですがそんなイメージでお読みいただくと分かりやすいと思います。
もっともっと突き詰めれば「お芝居という魔法」が根っこなので結局イコールなんだけど。
ああそうか、アプローチの方法が違うっていうと分かりやすいのかも。

末原さんの魔法は理論というか魔法それぞれの意味、というより単品での魔法。
呪文は使わない気がする。
呪文は使わないけど歌は使いそう(これ絶対作品のイメージに引っ張られてるけど!)
術式を描いて発動させるのが淳さんなら、歌って発動させるのが末原さん。
むしろ、発動させる感覚はあまりないのかもしれない。自然発動型。だから予測不能な感じがする。

ところで、お芝居の世界にはほかにもジョブもちの方がいて
重力使いとか、戦士とか格闘家とか(もちろん、お芝居としてのアクションの印象じゃなくてその人の演技から受ける印象の話
それはたぶんそれぞれがお芝居っていう魔法に対するアプローチが違うからなのかもしれない。

私が言い出した「魔法使い」という話は仕草などから受ける印象だったけど、
出る結論はお芝居が魔法だー!だし、それを根拠付けるいろんな要素がお芝居にあるのが面白い。
いやもう好きだなぁって話なんだけど。

同じ奇跡を起こすって現象に対していろんな起こし方があること。
なんかこれって素敵だなぁって文にして思いました。
オチはね、ないね!

 

ビジランテ

吐きそうになるくらい救われない気持ちもあったのに、なんだか妙に清々しいような気持ちになった気がする。

ビジランテ、観てきたよ!

まずはツイッターから引用のあらすじ。

ビジランテ
幼い頃に失踪した長男。市議会議員の次男。デリヘル店長の三男。別々の道、世界を生きてきた兄弟が、父親の死をきっかけに再会―。深く刻まれた、逃れられない運命は交錯し、欲望、野心がぶつかり合い、凄惨な方向へと向かっていく…。

 

画面から目を背けたくなるような「痛み」の描写の連続。
でも、それ以上に目を背けたくなるのは、閉塞感。常に、それが画面の、台詞の、物語の中にある。

地方都市の、あるいは独裁的な父親の。
その両方が絡みつき、嬲ってくる。
たくさん、痛みや閉塞感を象徴するシーンはあるけど、中でも私が一番ゾッとしたのは自警団の青年が三郎のバンにひたすら小声で、事故れ、事故れ、事故れ、と念じるシーンだ。
自警団の青年は痛みを知っても、人の死に鈍感だ。
火事を起こして誰かが死ぬかもしれないことも、殴り殺すかもしれない可能性もない。
痛みを理解してないわけでもない。
たぶん、もしかしたら、鈍感なわけでもないのかもしれない。

どーでもいいんだ。

繊細な描写も、執拗なまでの描写もあるのに、そしてそれらは全部リアルなのに、どこか感覚が遠い気がした。
後でふと思い出したのは、感情描写が物凄く削げ落とされてるんだなあ、ということなんだけど。
三郎くらいじゃないかな?人間の感情らしいものが描かれてるの。
二郎が思わず三郎を抱き締めたのも、ある意味では感情なんだけど、それを手放し突き放すことを思えば、あれは上げて叩き落とすためのものに思えて仕方ない。

感情や人情が追いつかない。
痛いから、可哀想だから、人として大切にしないといけない、三郎の言う「遺産とか、土地とか、そんなんよりもっと大切なものあるはずだろ」っていう、その大切なものがどんどんこぼれ落ちていく。
もっといえば、たぶん、それじゃあ、追いつかないし、受け止められないし、救えない。

所謂、地方都市の出身なのですが。

自警団の空気感とか、市議会のあの空気感とか、なんとなく覚えがある気がして。
いや、市議会には出たことないけど。
地方都市は、地方都市だけで成立するわけではないのに、なんだか妙にそこだけで完結してる。
そこがなくてもどうとでもなるのにそこでの終わりは完全な終了な気がする。
ギラついてて、でもどこか冷めてて、やっぱりここでも感覚が遠いんだ。


エグいなあ、と思ったのは三郎の店の女の子たちの描写だ。
どん底に決して落ちはしない彼女たち。だけど、私には彼女たちも感覚が遠い気がして。泣き叫びはするけど、どっか他人事。ゆっくり沈んでいく。
だけど、彼女たちが笑うことや、彼女たちを三郎が守ろうとすることが、無性にあたたかくて、それをあたたかく感じること含めて私には頭がくらくらした。それでは人は救えない。
もしかしたら、三郎はあの後、静かに息を引き取るのかもしれない。誰も救えないし、救われないまま。
兄弟の死の上にただひとり、二郎はああして生きていくのかもしれないし、街は何も変わらない。


でも、それもこれも、ただそこにあるだけだ。
どうしようもない痛みも、人の温もりも。
大袈裟に感傷的に解釈できない、圧倒的な事実として。

 

デメキン

デメキンを観た後は、ラーメンが食べたくなるので食べたいラーメン屋さんをチェックしてから観にいってほしい。あと、そのラーメンめちゃくちゃ美味しいから、十分気を付けてほしい。
私はレイトショーで行ってど深夜に食べたのにスープまでしっかり飲み干して翌日喉の渇きではね起きる羽目になったので、本当に気を付けてほしい。


お笑い芸人、バッドボーイズの佐田さんの実話を漫画化、映画化した作品だ。
デメキン、と虐められていた少年が福岡トップの暴走族の総長になる物語。

私には、主人公佐田と、その親友厚成の物語のように思えた。

所謂、不良が跋扈している福岡。
冒頭から、殴り合い、殴り合い、タイマン、殴り合いの連続だ。
喧嘩が何の意味があるのか、なんて問い掛けがそもそも存在しないかのように、彼等はメンチを切る。
彼女のとなりにいるため、中卒で働くことを選んだ厚成が言う。福岡、統一しろや。

例えば、不良の一番になったらなんかあんのか、とか、暴走族なんて迷惑なだけじゃん、とかそういう、ある意味では至極真っ当なツッコミなんて彼等には届かない。
ただ思うがまま、自分の存在証明でもするかのように彼等は拳を振るう。

子どもが大人になる物語、ではない。

厚成とか、めっちゃくちゃ大人の局面にたってるけど、彼は言う。「あと少しなんよ、もう少し待っとって」
彼女の隣に立つことを決めたのは彼自身だ。大人になって、彼女と過ごすことを選んだのは厚成だ。
だけど、同時に、子どもでいようとするズルさを持ち合わせてるのも、彼自身だ。

自身のツイートを引用するけど、

「前半、厚成が執拗に俺を呼べよ、っていうことも溜まり場に自分が働くラーメン屋をすることも、置いていく癖に置いていかれたくない、あの本当に子どもが大人になる時の苦しみというか切なさがあって辛いし好き」


大人になる、ってのがなんなのか。
なる必要があるのか。
あるとすれば、どうなれば大人なのか。

佐田は、ともかく喧嘩するし、
土手の喧嘩前のやりとりは本当にまさしく子どものそれだし
厚成も店長にたかるし

だからこそ、ミツグとのエピソードがあるんだろうけど。
本当は大人にならなきゃいけない。
そんな焦燥感というか、そんなことは分かってるんだ、と怒鳴り返したくなるような状況に彼等はいる。
突きつけられてる度合いは人それぞれ違えど、きっと誰しもがそうで、物凄い危うさと終わらせなきゃいけないということは分かってるだろう横顔が、見ていて胸を締め付けてくる。

どうにも、青春の終わりという言葉にめちゃくちゃ弱い。
今まさに青春真っ只中のはずの彼等を見ていても、終わりのことばかりを考えていた。

佐田たちの喧嘩って、一歩間違えば、人が死ぬ喧嘩だと思う。
厚成が執拗なまでにボコボコにされるシーンは見ていて、めちゃくちゃしんどかった。
あれは、ある意味、子どもの喧嘩だから、と看過するわけにはいかない。

仲間の為に、で振るえる拳の度合いすら越えてるなんてつい思ってしまうんだけど。

そんなのは若いやつが言うことだ、とか
拳でしか解決できないことはない、とか、仲間なんて言葉を使うのは若くて青臭いとか。

なんか、きっと、そんな「大人」の言い分の届かないところで彼等は喧嘩をしてる。
でもだから、あんな喧嘩の後に今度、ラーメン食いに行こうぜ、なんて言えてしまうのかもしれない。もしかしたら、死んでいたかもしれない、殺していたかもしれないのに。

そのまま、進んでくれと思う。
世界は、こんなに広いんだから君達が好きなことをしても大丈夫なんだから。
きっと、青春は終わらない。
エンドロール、バイクに乗るふたりを見ながら思った。
それはずっと一緒に彼等が過ごせる、とかそういうことではなくて
自分の信じた道をそのまま一本筋を通せるか、それをきっと、青春というのだから。

High&Low THE MOVIE3 FINAL MISSION

ハイローっていうジャンルが一斗缶というか。
生身の人間の凄まじさを、私はハイローを見るとしみじみ考えてしまう。映像なんだけど。たぶん、そういうところが舞台見た気分になる大きな理由のひとつなんだろうな。


そんなわけでHigh&Low THE MOVIE3 FINAL MISSIONを観てきた。


九龍となんでやりあわないとダメなのか
初見時、途中からこの問いが私の頭から離れなかった。
コブラは、自分の街を守りたかっただけだしなんならそれは幼馴染やチームメイトが帰ってこれる場所を作りたかっただけだし、
他のSWORDのチームだってそうで
別に、ヤクザと戦いたいって奴は絶対数ほぼ0だったと思う。
敢えて言うなら、達磨には復讐という意味で九龍に向く感情があったけど、それすらテレビシリーズ1を終え、2を終える頃にはほぼほぼなくなったというかシフトチェンジした局面だったと思うんですよ。

 

なのに、九龍は、圧倒的暴力で蹂躙してくる。
そもそも、ザム2ラスト、彼らが乗り込んでくるのもある意味、勝手に乗り込んでくるようなとこある。USBの件は別として、ザム2でSWORDが対峙してたのはあくまで、Doubtだったわけで。

なんだか、そう思えば思うほど、九龍のしていることは蹂躙、で悔しくて恐ろしくて、初見時ひたすらになんでこうなった、って思い続けてた。

そもそも元を正せば、MUGENの龍也を殺した件もなんでだよって私は思ってる節があります。正直。

ただ、そうして、ひたすらに辛い、と思いながら観てて、現実逃避しがちな私は、九龍は現実そのものみたいだなあ、と思った。
避けられない、理不尽で一方的で、もっともらしい理屈をもって、圧倒的な力を誇示してくる。
逃げたくても、逃げる道なんてほとんどない。


絶望に抗え


そう思うと、このキャッチフレーズの真っ直ぐこちらを見据えてくる言葉に思わず怯みそうになる。
絶望に抗え、立ち止まるな。
それは、ハイローが全編をとおして、相手が強かろうが偉かろうが自分の信念のために、矜持のために戦えと言い続けたことを思い出すメッセージだ。


自分に誇れる自分か
クズ、と言われ続けたとして。
まともじゃない、真っ当じゃない、とコブラが言うところの「人に誇れるような生き方」をせずに(或いは、できずに)後ろ指を指されてきたとして
MUGEN回想で、ヤマトが言ったように、あるいは鬼邪高回で、村山が言ったように。

 

たぶん、SWORDの面々はそれぞれそんな生き方をしてきた。

 

たとえば、日向は、おそらく兄貴分がMUGENに敗れた際、さんざっぱら、バカにされたんだろうなあ、と思う。
日向の名は地に落ちた、とはまさしくそのままで、あんな素人に負けるなんて、と全部引っ括めて、・・・日向紀久も含めて、バカにされながら、過ごしたんだろうなあ。
勿論、作中ではそれが映像として描かれることはない。描かれることと、描かれないことの絶妙なバランスに、ほんと、興奮する。
そうして、復讐に身を投じた達磨一家がじゃあその復讐の先に何があるんだ?と考える、その時間すら、なんならテレビシリーズでは余韻として描かれてる。
テレビシリーズ→映画での大きな変化があったチームナンバー1な気すらしてるんだけど達磨一家
彼等が、あんな晴れやかな顔で花火を打ち上げること、復讐、という単語に何言ってんだてめぇ、と怪訝そうな顔をする。

なんて、痛快だろう。

お前はどう生きたいんだ、と自分に問い掛けた日向のことを想像する。同時に、なんならその時、初めて「生きる」ということを想像したのかもしれない日向を思う。
いつ死ぬか分からないから、今を思い切り好きなことをやって生きる。
誰に言われたからでも、褒められるためでもなく、じゃあお前は何がやりたいんだ?と言われて一番最初に浮かぶことをやり続けろ。

真っ当に生きる、という言葉の曖昧さを思わず考える。
思えば、SWORDのトップをはじめ、ハイローに出てくる人の多くは爪弾き者なんだと思う。


当たり前に、世界の美しさを享受できなかった人たち。
ロッキーのことなんですけど。
ロッキーの過去があまりに辛くて、そしてそれを振り返って生きる彼が口にした自分のような子どもを減らす、という言葉があまりにしんどくて、初見時はそっと一時停止してHuluを再生してるスマホを握りしめた。

 

暴力を振るうことは正しくはないということを、彼等が知っていること。

 

それが、ハイローが好きだと思う理由で、同時にたまらなく苦しく思う部分だ。
ロッキーが望む幸せは何も特別なことじゃない。
彼が回想で見た「幸せな景色」はあまりになんでもない日常のワンシーンだった。
髪を乾かしてくれる、優しいお母さん。その、あったかい手。
何も、特別なことはない。
だけどその景色は確かに暖かで美しかった。

その、美しい世界を、ロッキーは奪われるという形で知らないまま来てしまった。
あんなにしんどい食事のシーンないでしょ、と思う。じっと一点を見つめて食べていた、具材もない恐らく冷え切った焼きそばを思う。
お母さんも、また絶妙なことをするよなあ、と思う。
しんどい、と思いながらも、これを持ってすぐ逃げろ、ではなく、最期に残すものとして、満腹、をおいていくお母さんを思う。
空腹って、だって、あまりにもしんどいし、悲しい。お腹がすいた、ということは本当に切ない。せめて、息子に、その満腹を残そうとしたお母さんは、確かにロッキーの親だなあと思う。

そんな過去がありながらも彼なりの信念を持ってステッキを振るい続けたロッキー。

それは間違いなく真っ白な、何者にも染まらない信念に他ならない。
そして、だからこそ、そのロッキーが達磨の祭りは見てると熱くなる、という描写の優しさが、たまらない。
信念こそが彼の背筋を伸ばし続けたんだと思う。でも、それだけでひとりぼっちで立つ以外の可能性を、達磨をはじめとする他のチームの中に見たのかもしれない。
そして、その可能性は、White Rascalsにも既にあるものじゃないか。
なんか、それに気付いたあるいは実感したからこそ、お前に一番に相談しようと思った、どうだ?の台詞がくるんじゃないかなあ、なんてことを思うのです。

あのシーンで、嬉しそうにするKOOが愛おしい。そして、そんな存在があの場にたくさんいることが本当に本当に、嬉しい。


クズだ、と言われ続けた彼らは。
例えば、私は村山良樹という人は、暴力装置ではあったけど、コブラと出会う前からロクデナシではなかったと思っている。

ガキは巻き込まない、御守りは拾う。

そういう、あのタイマンとは関係ないところに彼の元々持つ真っ直ぐさを感じる。でも、なので余計に思う。彼は今まで、だというのに、クズ扱いされてきたんだろう。
勉強も運動もできない。たぶん、愛嬌のある要領の良い子どもでもなかっただろうし、そこで、唯一人に勝てることとして見つけたのが喧嘩だった彼に「大人」がどんな目を向けたのかは、想像に難くない。
そんな、むやみやたらと振り回してた拳を納めるところを見つけて、振り回す理由を見つけた村山良樹は、むしろその時から、より戦ってるんだろうなあ、と。

ザム3の村山良樹があまりにも「鬼邪高の頭」で、格好良くて、そんなことを思う。

 

戦いに負ける、ということは、価値がないと言われることでもあるんじゃないか。
お前らがやってるのはたかが子どもの喧嘩だ、無意味だ、と言われるとして、
でも例えば対村山良樹とかのタイマンは彼らにとっては無駄じゃないし
当然私たち視聴者にとっては無駄じゃない。
はたから、大人から見れば馬鹿らしい喧嘩の理由かもしれないけど、私たちにとっては譲っちゃいけない一線だったし
何が違うんだよ!って叫びは、ずっと思い続ける言葉だったわけで。
だから、あれを無意味にしない為にも、彼は負けるわけには、いかないじゃないか。
殴られるリスクも、殴る拳の痛みも、背負う。背負って、彼等は喧嘩をしてる。責任をとってる。

 

だれでもない、自分の矜持。
自分の人生に、誇りを持つこと。

 

スモーキーは、最後、どう過ごしたのだろう。
最後まで、生きることを諦めない。
家族のために誰よりも高く飛ぶ。
そう言い続けていた彼が、まさか、何もせず、殺されたとは思えない。勿論あの数の差だから、それはほぼ蹂躙と言えるかもしれないし、普通に見れば、一方的な暴力なようにも見えたと思う。
だけど、そんなはずない。
血を吐こうが、どれだけ身体が病におかされようが、彼が、ただ殴られ続けるはずがない。

そして、たぶん、それは、あの時だけは自分のためだったと思う。だって、これからは、自分の為に生きろって誰より彼自身が言ったんだから。
死ぬという結末は変わらなくても、黙って受け入れたりはしない。
無名街で、スモーキーという名と、家族を得た彼は誰よりも幸せだった。誇れるような生き様でなくても、誰に理解されなくても。そうまでして守りたいと思えるものがある彼は、幸せだった。だって、そこは間違いなく彼の居場所だったわけで。

きっと、最後、彼は彼自身の矜持を護る為に戦い続けたと思う。それは、すごくしんどいことかもしれないけど、それを不幸だとバカだと笑う権利は誰にもない。

街にしがみつくことと、彼等と一緒にいたいということは違う。
彼らは、彼らを、信じて今を生きていかなきゃいけない。


身寄りがないから、家族として生きなきゃいけない、というのがRUDEBOYSのそもそものスタートだとして
その形はシリーズを通して変わったんだなあと思う。
身寄りがないから、ひとりで生きていけないから助け合う為に助けるわけではなく。


シーズン1のエピソード10、最後、それぞれSWORDの頭たちの表情が私はとても印象的だ。


山王連合会という小さくはない組織を幼馴染の為に作ったと言い切って、そしてチームという形を失っても、幼馴染もその他のメンバーも何も変わらないしただこいつらとつるむだけだ、そう言い切る姿を見て、何かを思う描写があるのがシーズン2だと思うし、その後の映画シリーズたちはそれを前提にしてると思う。

その中でスモーキーは、問い掛けたんじゃないか、と妄想する。
なんで、血の繋がらない存在を家族というのか。身体を文字通り削ってまで、この存在を守るのか。

 

それは、ただ単純にそうじゃないと生きていけないからという打算からしか成り立たないのか。

 

その答えは、もう見えてるじゃないですか。
そして、そう思えることの奇跡を思う。
本当に血の繋がった家族あいてにも、絶対にそう思えるとは限らない。なんなら、ハイローは血の繋がりの残酷さ・脆さも描いてる。
ある意味では絶対のはずの血の繋がりを持っている相手でもそんなことになることがあるこの世界で、全くの赤の他人に、なんでそこまで、思えたのか。
そう思える存在がいる彼の人生は、本当に「最高の人生」に他ならないじゃないか。

 

 

彼らの行き着く先について、前回一気見感想で書いた。
そういう意味でいえば、ザム3では彼らの行き着く先、は見えなかった。私にとってはあの結末は清々しいものではなかったし、琥珀や雨宮兄弟の表情もようやくケジメをつけた、というよりもどこか、浮かない表情にすら見えた。
エリが言う。私以外にも、苦しんでいる人はたくさんいました。
ここに行き着くまでに、あまりに大切なものが理不尽に奪われすぎたし、
そして、これからだって、それがないとも限らない。
まだ、彼らはどこかに行き着いたりしていない。
だって、彼らは、これからだって生きていくんだから。
それはあまりに厳しい現実ではあるけど、同時に、たまらなく優しいと思う。
だから、まずコブラは言う。

俺は、俺たちはここにいる。

観ないふりをされた、いらないと言われた彼等は彼等のために、同じようにそんな中でも立ち続ける人のために、宣言する。

 

認めろ、と
俺たちは、ここにいる。


エンドロールの話もしたいんだけど
村山とチハルの、あの会話がたまらなく好きだ。
そもそもテレビシリーズはチハルが鬼邪高を抜け山王に入ることから始まる。
その中で、ある意味では決別したふたりがああして会話すること、いつかの約束をすること。
あれは、ザムの台詞を借りるなら、生きていたからやり直せる明日がきた、というまさしく、そんなシーンに他ならない。
ほんの小さな変化だ。だけど、私はあのシーンの村山の優しい、おう、という返事がたまらなく好きだ。
まだこれからも生き続ける、次へ進む彼等の道はこれからだってしんどいことがあるかもしれないし失うかもしれない。

だけど、きっと、彼等は大丈夫だ。

 


認めろ、とコブラは言った。認めろ、俺たちはここにいる。
あの勝利宣言は清々しいものではない、と思った。清々しくはない、だけど、間違いなく、勝利宣言で、存在の証明だ。

クレプト・キング

いやこれ、2時間15分じゃ尺足りないな?!
案外と、ひとりひとりのキャラクターについて知らないまま終わってることに感想を書こうとして気付いた。

そんなわけで、ENGさんのクレプト・キング、初日に観に行ってきました。


ある『スリ』の噂があった。
貧しい者からは決して盗らず、標的はいけ好かない金持ちだけ。
盗んだ金の全てを貧しい民に施す義賊の青年。
――彼の名は『月斗(げっと)』といった。

ある日、月斗は追われていた財閥の令嬢をかくまったために、警察に捕まり、投獄されてしまう。
そして、何者かの圧力が加わったのか…… 無実の罪を着せられ、死刑が言い渡された。

牢獄で恐怖に震える月斗の前に、見知らぬ少年が現れる。
鍵のかかった鉄格子の扉を開けることをなく、そのままで……
彼は『レン』と名乗った。

「スリごときで義賊を気取って何になる?
 本当にこの世を変えたいと願っているならば――お前に、それを叶える力を与えよう」

月斗は自分の腕にあるものに気付く……

「それは『盗賊の篭手(こて)』――お前が欲するあらゆるモノを、奪う力を持つ。
 この力をもって牢を破ったならば、その時はお前に、もう一つの姿を与えよう……」

新たな噂が街を駆け巡る。
突如現れた謎の怪盗――貴族の館に忍び込み、悪事の証拠を白日の下に晒す……!
幻を盗り払い、闇に潜む真の悪を照らし出す一筋の月光
――その名は『幻盗・ツクヨミ

新たな義賊の登場に沸き立つ人の群れをすり抜け、
彼は都の中心にそびえ立つ楼閣を見上げた
――この国を治める『皇王・芙陽(ふよう)』の城を……

「いつか必ず、お前からも奪ってみせる」

奪うことしか知らぬスリが手に入れたのは、全てを奪う怪盗の姿だった……

 

これでもか!と込められた厨二的な設定、三次元で見てしまうとともすれば浮きかねない設定は、丁寧な役者さんのお芝居、それを生き生きと輝かせるスタッフワーク、そして、それらをまとめる演出で、浮くどころか、真っ直ぐに観客に届く。
小さい頃学校から帰り、ワクワクしながらオープニングを待ったアニメのようなお芝居、それがクレプト・キングだったように思う。

クレキンの不思議な魅力というか、いいなあと思うところは尺が足りなかった、と思いながらも物足りなかった、とは思わないところだ。
このキャラクターは結局なんだったの?とも、あのシーンなんだったの?とも思わないところだ。

ともかく、私はあの2時間15分を、ひたすらに頭を空っぽにして楽しんだ。

語弊を恐れずに言えば、本当に、大きく心をマイナスに持ってかれることなく。楽しい、という感情でずっと観ていた。
キャラクターたちの時に辛い出来事も含めて、どこか、当たり前のように彼らのハッピーエンドを信じたし、そして、結果から言えばそうなったと思う。

お芝居を、例えば仕事終わりとか学校が休みの日とかに行くじゃないですか。
ブログの他の作品の感想とかで、こう、ぐちゃぐちゃになるくらい色んなことを考える、そんな作品が大好きだし、気がつくとそんな風に私は作品に触れがちなんだけど、
このクレプト・キングに関していうと、なんというか、本当にただただ楽しかった。
オープニングが終わった時、なんでか分からない涙が流れたんだけど、あれは今思えば安心感だったのかもしれない。
あーこっからただただ、楽しい時間がくるぞぉ、という。

決して、ただの明るい話というわけでもなければ、まして、軽い話だと言うつもりもない。
台詞にしろ、設定にしろ展開にしろ、しんどさも悲しさも、怒りもある。だからこそ、あのラストシーンにグッときたんだから。
だけど、それ以上に関わる人たちの、笑顔にするような芝居を、という、そんな姿勢があったんじゃないか。


魅力的なキャラクターたちに、もう一度会いたいと思う。
ただ漠然と魅力的だったと思った彼らの、バックボーンを知りたいとも思う。
だけど、例えばなんなら、スピンオフとかで出会わなくても、私はなんとなく、いいかなあ、とも思う。
彼らの台詞や、シーンを思い出した時、あれはこうだったのかな、と思い出す。そうして、彼等のことを想像する、そんな未来の方が私好みだと思う。

それは、昔見たアニメのことをふとした瞬間に思い出す、そんな心強さに似ていると思うのだ。

あゝ、荒野

あゝ、荒野は、新宿信次の物語だ。
もうどうしようもなく、彼の物語だ。

公式サイトからのあらすじ
ふとしたきっかけで出会った新次とバリカン。
見た目も性格も対照的、だがともに孤独な二人は、ジムのトレーナー・片目とプロボクサーを目指す。
おたがいを想う深い絆と友情を育み、それぞれが愛を見つけ、自分を変えようと成長していく彼らは、
やがて逃れることのできないある宿命に直面する。
幼い新次を捨てた母、バリカンに捨てられた父、過去を捨て新次を愛する芳子、
社会を救おうとデモを繰り広げる大学生たち・・・
2021年、ネオンの荒野・新宿で、もがきながらも心の空白を埋めようと生きる二人の男の絆と、
彼らを取り巻く人々との人間模様を描く、せつなくも苛烈な刹那の青春物語。

決して、寺山修司に精通してるわけではないけど、でも時々垣間見える、ああああ寺山修司!な節と、それでもあくまでこれは現代、しかもなんなら今より少し未来の物語であるという事実に頭がくらくらした。
物凄いエネルギー量の映画だ。前編後編をいっぺんに見てみたかった気もするし、それをやったら死ぬほどしんどかったと思うので、1週間開けてみた今回の見方は、正しかったようにも思う。

破れかぶれな人々が、たくさんたくさん出てくる。だけど、破れかぶれじゃない人が、この時代、もしくは、この世界どれだけいるだろう。

今回、しんどい中で、ほっと息をつけたのが、ジムなどでの新次と建二のやりとりなんだけど、
あまりに当たり前な、あたたかな穏やかな時間過ぎて、後から振り返ると泣きそうになるのは私だけだろうか。
新次の獰猛さは、異常なのかもしれないけど、彼自身、どこにでもいる青年なんだ、と思う。屈託無いふたりのやり取りが、ともかく、好きだ。あの空気感が、後編に繋がって、更に熱量を増す。

執拗とすら感じるくらい、あの世界の舞台が新宿であることが、コクーンタワーなどの風景から伝わってくる。
それに、なんとなく似てる。
どこにでもある。
どこかには、必ずある。
彼等は、どこかで、生きてる。

飢え続けた新宿新次と、渇き続けたバリカン建二は、選ばれなかった人たちである。
全く似てないふたりの共通点は、選ばれなかったことだ。
親に、或いは世間に。というか、その、両方に。
チンピラで暴力者の新次。
吃りで赤面症の建二。

字面にして呻いたんだけど、彼等は「2番目」の名前なんだなあ。
次、と二。

そして、因縁を感じるのは、そもそものきっかけである裕二の存在で、彼もまた、二、を名前に持つ人であるということなわけで。
「あんたも、劉輝さんも、俺を見たことなんかなかったろ」
台詞がうろ覚えなのが悔しい上に申し訳ないのだけど、
あの、叩きつけるような苦しい橋の上のシーンが大好きだ。
新次が捕まるきっかけになった殺人未遂事件で、そもそも、新次を、そしてその兄貴分である劉輝をボコボコにした裕二。
ボクシングシーンでも、橋の上などの会話シーンでも、その目の獣のような激しさにハッとする。

たぶん、ボコボコにしても、彼のこちらを見ろ、という痛いほどの叫びは、今も上がり続けてる。

と同時に、新次がもう俺とお前ふたりの問題になってんだよ!という叫びは、ある意味では彼に応えてるようにも思える。思えるんだけど、そうじゃない。悲しいかな、苦しいけど。
新次は、常にそうだと思うけど
誰かに開かれてるような人間に見せて、その実、少しも相手を内側に入れることはない。
芳子との、部屋のシーンを見て思う。
誰より愛情に飢えているのに、触れたがって、実際触れもするくせに、土壇場で扉を閉める。
お前と俺の問題だ、と言いながら、どれだけ裕二のことを見てたんだろう。
私が、そう思ってしまうのは、後編の新次と裕二の試合後、裕二の表情があるからだ。
あの、表情!
映画館だから悲鳴を飲み込んだ。えらい。頑張った。
あんなに、情報量のある表情、なかなか見れない。あんなに、見てて心臓を握り潰されそうになる表情、ある?
裕二の敗北を、恐ろしく思うのは、劉輝の台詞があるからだ。
お天道様の下を歩くやつには、敵わない。
確かに、裕二はお天道様の下を歩く人なのかもしれない。奥さんがいて、子どもがいて。垣間見えるボクシングスタイルにも、真っ当さを感じる。
その、裕二が、負ける。
この事実の、絶望感を思う。
お天道様に勝つことは、なんなら、新次にとってどうしようもない絶望でもあると思う。救いが、あまりにないと思う。あの瞬間、この物語に穏やかな結末なんて、なくなってしまった。

ボクシングは、より強く相手を憎んだ者が勝つ。

そして、負けた人間は、忘れられていく。

その事実を、突きつけられた建二が選んだ、繋がりたいという欲求
穏やかなあのジムでの生活を捨ててでも、新次と戦いたいと思ったこと。初めて、ボクサーとしての目標ができたということ。
新次が、その気持ちを正確に理解して、同時にその手には乗るなよ、と口にすることにしびれながら、物語は終焉に向かう。


書きながら思ったんだけど、
書きたいことは他にもたくさんあるんだよ。
芳子親子のこととか、自殺防止クラブとデモとか、新次のお母さんが叫んだ、私は私の人生が欲しかった、とか。
なんて、熱量の凄い映画だろう。焼き付くように残り過ぎて、いつも以上に纏まりのない文になってる自信がある。
だけど、敢えて、どうしても、書きたいのは、裕二との試合を経た新次と、建二の試合のことなのです。
裕二は、見てもらいたい、少しでもこちらを見て、繋がって欲しいとずっと願い続けてて、
そしてそれはきっと、この映画に出てくる全ての人が願ってる。
願ってるのに、同時に手負いの獣みたいに、近付くな、と威嚇してる人々ばかりだ。
たぶん、裕二はその中で、手を伸ばして或いは伸ばされた手を掴める人だった。それが、お天道様の下を歩く男、という言葉から感じたことだ。
だけど、その裕二でも、どれだけ願っても新次とは、繋がれなかった。お前との問題だ、と執着しながら、勝ってしまった後は、新次はその手を掴まない。決してその存在を自分の中にいれはしない。
だから、言う。兄貴は、俺と繋がろうとしてる。そうはさせるかよ。と。

過去も、未来もないあの世界で、あれだけ丁寧に描かれた試合は、紛れもなく、今、の瞬間だった。


選ばれなかった新次と建二というふたりの男が、ひたすらに、互いを選んだようにあの試合で思った。
僕はここにいる、愛して欲しい、という訥々とした建二の声が蘇る。静かに、新次の拳をカウントする建二の声を、何度でも思い出す。

裕二も、芳子も、母親も、父親も、選ばなかったけど、選びたいと願うこともあった。
選びたい、選ばれたいと、願うことを、たぶん、私たちは知ってる。その切実すぎる願いがたぶん、孤独というのだと思う。
その中で、選べることが、選んで、選ばれてもらえることがどれくらい奇跡的な確率なんだろう。

新次が、叫ぶ。意識を失いかけた建二に、新次が叫んで呼びかける。
あれが、最後のお願いだったように思う。愛してくれ、愛させてくれという、祈りだった。
そして、たぶん、その祈りは聞き届けられると知ってるからこそ、口にできるものだった。


これは、新宿新次という男の物語だ。
日本という美しくて、汚い国で生きる男の物語だ。
或いは、唯一彼と本当に繋がることのできた、バリカン建二という男の物語だ。

選ばれなかったふたりの男が、ようやく、選ばれることを受け入れることのできた、物語だと思うのだ。