えす、えぬ、てぃ

お芝居の感想など

FULL MOON埼玉ライビュで夢みたいな景色と共に愛で満たされたので幸せを噛み締めてる話

LDHのパフォーマンスを観ていて、ダンスや歌って、きっと感情を表したりそういう、言葉じゃ追いつかないものを表すためのものなんだって感動してからもう1年くらいが経ってるんですが、登坂さんの歌は、本当に、それなんだなあ、と昨日の埼玉FULL MOONをライビュで観ながらひたすらに考えていた。

愛されてて、そしてなによりも愛してる人だ、とずっと思っていた。
それは、太陽に照らされて輝く月、をモチーフに掲げる登坂さんらしくて、そう思うとこのライブのコンセプトはなんて素敵なんだろう、と思う。

今月8公演目だったという昨日のFULL MOON。
歌い出しや途中、あれ、今日ちょっとしんどそうだな、と過ぎった。

登坂さんにとっての音楽が、生きてることそのままの気持ちとか思い出とか記憶とか言葉とかそんなもの全部をのっけるものなんだ、と思ったのはどのタイミングでだったろう。
歌、は彼自身に寄り添う友人なのかもしれなかった。そんなことを、本気で思った。
いつも通り、っていう歌い方をそもそも登坂さんがするのかどうかパフォーマンスとしてライブ、で歌うところを観るのが2回目なので判断がつかないけど、途中、「今日の登坂さん」の歌い方に変わった、と思った。
歌うことを仕事にしてる人だけど、それ以上に歌うこと、を血肉にしてる、と思って、ぐすぐすになってしまった。
そもそもそれは静岡でFULL MOONを見た時の衝撃が忘れられないからかもしれない。ハモりと、メインパートの歌い方というか、ああ、音楽についての知識とか見識がなさ過ぎてもどかしいんだけど、ともかく「彼が今日歌う曲」だとどの曲を聴いても思って、私にはそれが衝撃的だった。音楽は、そんなこともあるのか、と震えた。

メロディも歌詞も決まってはいるんだけど、それでも、同じようになぞることが歌うこと、ではないんだろう。

お芝居が、とここでまたお芝居の話をしてしまうけど、とんでもなく好きだ、観れて良かった、と心が震える瞬間はいつも「その時」しか存在し得ない表現に触れた時だ。
相手が変わっても、演じるその時が変わっても、普遍的に供給されるものではなく、何か一つが少しでも変われば色合いも表情も変わる。私はそういうことが好きで、お芝居が好きなんだけど
FULL MOONで、登坂さんの歌を聴いて、それだ!と思った。この人のこの音楽は今この瞬間にしか、聴けないんだと思った。
だから、出にくいのかな、と過ぎるような表情を見ても不思議と心地良いというか、いや、苦しそうなのは心臓がギュッとするんだけど。そうじゃなくて。
生きてるその人にしか奏でられない音楽で、その時の「最高」を詰め込んだものが、登坂さんの音楽だ、と心の底から感じるのだ。
それは、彼にとっての音楽という存在の尊さを感じさせるし、そんなに大切なものをこうして触れさせてもらえる幸せに心の奥があったかくなった。

そして、です、ね。

ゲストが出てきた瞬間、ですよ。
色が増えて、表情が変わって、なんだろう、あれ。
ああ、彼は三代目J soul brothersのボーカルなんだ、と鳥肌が立った。音楽だけじゃなく、そこにパフォーマンスが加わって互いに輝いてきた、そのステージに立ち続けた人の音楽だった。誰かと歌い続けた人だった。
もう、それは「月」そのものだった。
ああ、この人の作るものが全て誰かと共有するものなんだ、というか。
ひとりぼっちじゃ存在しないものなんだなあ、と思って嬉しくなった。それはひとりで歌える歌えないの話じゃなく、全く感覚の話で、うまく言えないんだけど。

なんというか、愛で全部成立するようなそんな気がしたのだ。
前回、静岡でそこにはいない一緒に歌う相手を想っている姿があまりに美しくて、これは彼が相手をリスペクトしているからだな、みたいなことを書いたけど、それは突き詰めれば愛だよな、と思ったのだ。

そんで、歌われる「君となら」なんだけど。
あれ歌えるようになってたらいいと思う、と勧められて静岡前にひたすら聴いてたおかげで大好きになったこの曲の歌詞を初めて読んだとき、これ歌う登坂さんを観たら泣いちゃうのでは、と思ったわけですが(そして初見はこの曲に限らずほぼその全てで泣いたわけですが)
あの歌詞を、埼玉公演はより深く感じてしまった。
あの時、胸に手を当てて歌える限りの力で、疲れとか緊張とか諸々をねじ伏せてでも伝えようとするみたいな表情で、あの歌詞を、歌ってる姿を見て、みんなとなら、って言い換えるのを見て
あの、記憶違いなら恥ずかしいんだけど、あれ、みんな、の回数増えた?って思ったら、もう、ダメだった。
一緒に本気で最高の思い出を作ろうとしてくれてるし、私たちと一緒ならそれが出来るって信じてくれてるんだ、と思った。
そんなん、愛じゃん…あの瞬間ライビュ含めてみんなで綺麗な海見ながらキャンプファイヤーやったでしょ…(アコースティックの演出イメージ、キャンプファイヤーってのを聞いた瞬間、最高すぎて泣き崩れそうになった)(と言いつつ、昨日のライビュは本当に、頭がずーーーーっと処理中!って叫びそうな感じだったので、延々とタオル口元にあててフリーズしていた)


もう、ずっとどの瞬間、どこを切り取ってても登坂さんが愛されてて、そして彼自身の愛をそこら中に感じた。

 


TAKAHIROさんがでてきて、柔らかく楽しそうに歌ってて、ああデビュー前に憧れた人とこうしてアンコールでふたり、映画のあの曲を歌うのは素敵で奇跡みたいな構図だな、と思った。
「俺たち雨宮兄弟!」の名乗りの格好良さよ…。


いつか、終わる瞬間の話や、愛されてるんじゃないかな、と登坂さんが口にしたこと。それが、この青くて美しい海みたいな星空みたいな景色の連続した先にあることが、とんでもなく、嬉しい。
生きて、誰かと笑いあって、だから余計一人になる瞬間が切り取られることもあるんだろうけど、それでも、ああして優しく柔らかく笑うところを観たら、ああ生きるのって最高だ、と思った。
そして、やっぱり、この人の音楽がついてる、と思えることの心強さよ。きっと、本当の寂しさなんてこない。きても、大丈夫だ。
音楽も、パフォーマンスも、きっと、その為にあるんだ。
願わくば、それをこんな美しい奇跡と一緒に教えてくれたこの人の音楽を一秒でも長く、好きでいれますように。そして何より、登坂さんが沢山沢山笑う幸せな毎日でありますように。

 


そんな、ポエムなことを本気で、思ってる。

 

 

 

何事にも理由があって欲しい


小岩崎小企画の告知を見た時から私は妙にこの公演を楽しみにしていた。なんだか、無性に、ワクワクしてた。
うまくも言えないし、理由も分からないけど、別にそのどちらも別に必要ないか、と思う。


下北沢亭は役者さんとの距離が近い。目の前でお芝居が観られるから涙が徐々に目に薄い膜を張るのとか、そういうのが事細かに見えて、なんだか堪らない気持ちになる。


「白い象のような山並み」
核心の台詞はなかなか来ないんだけど、その台詞の端々にあるふたりの事情に心臓をぎゅっと掴まれたまま進む話。
台詞が核心に触れない分、仕草がすごく雄弁。貧乏揺すりとか、相手への目線とか。
あ、これ最前列で観れるのやばいな、と思った。それを1発目、このお話だからガツンと実感する感じ。
「あなたはもう私が面白いと思うことで面白いと思わないのね」って台詞(うろ覚えだけど)がとても綺麗で、切ない。嫌いなのね、とか終わりなのね、よりもよっぽど、ぽろぽろ落ちていく彼女の気持ちが迫るような。
太田さんがまた綺麗な方なんです。この方、初めてお芝居拝見したんだけど、作品で綺麗、の理由ががらりと変わる、佇まいの愛おしい方だな、と思った。
そして野口さんの苛々のお芝居が、ね、も、最前列で苦しいくらいだったんだけど、目が好きだなあ、とずっと思っていた。


「解体」
楽しみにしていた一人芝居!ヤッター!!
真田ともっくんがほんとにいたような気がする、振り返ると。
ラストの数分の小岩崎さんの美しさ…!
黒バックのシンプルな舞台だから、役者さんだけがダイレクトに飛び込んでくるのすっっっごく贅沢で最高だった。
未練あるやん、ってよぎったからこそ(いやもちろん、ありもするんだろうけど)ぽつり、と漏れた台詞に心がぎゅっと跳ねた。小岩崎さんの美しさは知るたびにぶん殴られるような途方に暮れるような気持ちになる。

 


「物騒な話」
大好き過ぎた。話が、もう、大好きすぎた。
殺しちゃったら忘れられなくなるよってのも、勿体ないよ、ってのも、あーーーーもーーーーーって叫びだしたくなるくらい愛おしかった。
竹岡さんが、竹岡さんがですよ(この方も初めてお芝居拝見した、初めまして、って最高に幸せ)神様、とか背骨直すやつで笑ったあとで、ラストのシャツのシーンが…!
短編集だからか、ほんと、ラストシーンの美しさがどの話も堪らなくて、これは凄えなあ、ってハッとした。
みんなで美味しく生姜焼き食べて欲しい。
彼はいなくなってしまったけど、素敵な友人ができた、というので、どうだろう。幸せってことにならないかな。

 


「殴る蹴る」
そして私はこの話でダダ泣きしてしまったんですよ。
この話、途中でお母さんとお腹の中の子の会話だ、って気付く仕掛けになってるじゃないですか、もう、気付いた瞬間から涙がダラダラ出て仕方なかった。止まらないんだもん、どうしたって。
小岩崎さんと野口さんの、優しいお芝居と静かさを堪能するお話。これはすごい。
お母さんの台詞が優しくて大好きだ。産まれる、ってずっと思ってて、思いながらこの公演が産まれて良かったなあって思って更にべそべそに泣いた。
空気感がたまらなく好きで、ふたりの不安への震えだったり目の潤みだったり、すごい、生で間近で観るにはとんでもなく、奇跡的に美しくて優しい。
このお話はあまりに優しくて心のポケットにしまってたい。居て欲しい、ポケットの中に。どうしようもなくなった時に出てきて欲しい。

 

 


「何事にも理由があって欲しい」
野口さん竹岡さんにノックアウトである。
そもそも、殴る蹴るのラストでまだ気持ちがぐちゃぐちゃだったのに、そのまま笑って笑って最後にヒッて締められた感じ。
短い話のテンポの良さとか瞬発感がまず観てて楽しいな、ったのが全体の感想なんだけど、そしてでも地に足がついてて、ひとつひとつがじわじわ浸み出してく感じ。伝わってください。
「分からないからこうして調書をとって聞いてるんです」「でも本当は薄々どこかで分かってるんです、自分で考えて感じたことじゃないと意味ないって」
どこまでもうろ覚えで申し訳ないのですが、小岩崎さんの描く台詞の胸の奥にいきなり飛び込んでくる響きはなんなのか。
私にとってお芝居を観る、のは、調書なのかもな、としとしとと切なくなった。
彼らが、それでも調書を取り続けるのを見ながら、あー私も、お芝居見続けよう、と思った。

 


昔、母に連れられた喫茶店に3000円のコーヒーがあった。それは何となく私の憧れだった。そこで飲むふつうのコーヒーが、まず、とんでもなく美味しかったので。いつか、あのコーヒーを買うぞ、買って飲んで幸せになるぞ、と思って居た。企んでいた。
途中、ぐるぐるとお芝居の空気に飲まれながら私はあのコーヒーのことを思い出した。図らずも、今回のお芝居は3500円、うち500円はドリンク代なので、実質、3000円なのだ。
あ、こんな素敵な味なのかもしれない。と、ぼんやり思って、今度実家に帰ったらあの喫茶店に行けたらいいな、と思った。
ひとりきりの贅沢というか、誰かが大切にしているものに触れさせてもらえる幸せはとんでもなく、優しかったので。

 

FULL MOON静岡1日目に浸っている話

FULL MOON静岡1日目に行ってきた。私にとっては初参戦ふるむんであり、初めて生で観る登坂さんだった。


生で、観れて聴けて、全身で彼の作る音楽を、そしてライブという表現を体感できて本当に良かった、と思う。


登坂さんの音楽は生で聴くとCD音源と全く違った。歌い方も、表現も、歌うところも違った。
それは自身のハモリ音声を流しつつ歌ってるから、という物理的な違いもあるんだけど、表現が違った。

彼は彼自身のエッセイ「NOBODY KNOWS」で音楽・ライブについて、毎回違う音楽であって欲しい、音源通りに歌えるアーティストのライブでは、すげえ!とはならない、それより音を外しててもその日しか聴けない音楽が聴きたいし自分が作るものもそうでありたい、と言っていた。(出先で打っているので要約である、もっと熱量のある良い文なのでみんなそっち読んで…)
そして、上手に歌うことよりも何かを伝えられるその時の感情とか想いを伝えられる歌を歌いたい、って、書いてあったわけですが。

それを、ここまで体現するのか、と。
も、頭が途中痛くなるというか熱量が凄まじくてあれ?これ熱出てない?私もしかして??って困惑した。立ってた私偉い。
歌詞がですね、全然違うように聞こえたんですよ。恋の歌だ、と思っていた曲が、あの会場にいた私たちに手渡す曲に変わるんですよ。いやもう、あの、これからSmile Moon Night聴く度思い出して泣いちゃうじゃないか、って打ってたらタイミングよく流れ出すのやめて、出勤しながら打ってるから化粧崩れるからほんとやめて。

「星のない夜には君を照らす為」
とか、さ。
たぶん、本当にこの人の曲はずっと、そこにあって私たちのことを見ててくれるんだな。この夢みたいな時間はたぶんそこに在り続けてくれるんだな、って信じられると思った。それだけでなんか、大丈夫だな、って思ってしまった。
というか、登坂さんあんな優しい顔で歌を歌う方なんですね…いやもうそこそこ遠かったんですけど、モニターで見たからというより、空気感全部が優しい曲の時柔らかくて優しくて、なんか、ほんと、さあ…!
あなたの曲を、好きで良かったって心の底から思った。し、あの時私はこの人の音楽が好きで、そこに反映される彼の人となりが好きで、アーティストの登坂広臣が何より(あの整いまくった顔とか言葉とか部分としてというよりその全てが集結したものとして)好きなんだなあ、と悟ったというか、腹落ちしたのでした。

そして、LUXEをはじめとする他の人と一緒に歌う曲がですね、映像で本人を流しつつ音声を流しながら歌う演出だったんだけど

いた。
もう、いた。
召喚していた、登坂広臣。召喚魔法使える系の人だった。

いやだって見えたもんCrazy Boy!トトロみたもんの勢いで主張したい!Crazy Boyいたもん!
ほんとに、多分、相手の呼吸や音を体に染み込ませてるんだなあ、と思った。
相手のパートを聴く時の楽しそうなあの様子ですよ…足でリズムとってるの死ぬほど可愛かった…音楽が本当に好きなんだなあって幸せになったし、一緒に音楽を作ってきた人たちのことを心底リスペクトしてるそんなところが大好きです。

本当にね、ずっと楽しそうなんですよ。音楽っていう表現が楽しくて楽しくて仕方ないみたいな顔で歌い続けてるんですよ。
しかもそれが最高に気持ち良さそうなんですよ。
そんなん、そんなん、さあ…。
全力で歌ってる姿を見てたらもう全然、頭ぐるぐるしてしまって延々と泣いてた。久しぶりにほぼ全曲で泣き続ける羽目になった。ぐすぐすうるさくてごめんやで。
いやでも本当に。この表現があって良かった。そしてそれに、こうして触れられることが奇跡に思えて仕方なかった。
ああいう奇跡が起こるから、私はなんとなく人生とか世界とかにうんざりしきれないんだよ、って思った。すぐ人生規模で考えるぅー。

人生で、初めてペンライトを振ったんだけど。
すげー近くで観たい(見れたら嬉しいけど)ということにこだわるわけでもないし、こっち観て欲しい、ってのも人よりあんまり思わないと思うんだけど、
でも、ああして楽しそうに歌う彼の目に映る青色の一つで表現できることは最高に幸せですね、と思った。なるほどなペンライト文化…素敵じゃねえの…。


登坂さんが、ENDofLINEの時のMCで言った言葉をずっと考えている。
私はあのMCがとんでもなく嬉しかった。音楽やお芝居や映画が、小説がだから好きなんだ、と思った。
個人としての彼は知らないし、知りたいとも思わないけど。
アーティストとしての彼の作品が自分の人生の中にあること。
それは別に例えば職場の面倒な人間関係を解決してくれるわけでも、ぎくしゃくした友人と仲直りさせてくれるわけでも素敵な恋人を生み出すわけでもないし、家庭円満なんてものをもたらしてはくれないんだろうけど(まあ、きっかけになることはあるかもしれないけどね)
人生のそういう遣る瀬無さの直接的な解決ではないんだけど、でも、登坂広臣さんの音楽があることは、確実に私の人生を最高にしてる要素の大切な一つなんだ、と思った。
別に私一人がどうこうということは当然ないんだけど、あのとんでもなく美しい青色の一つではたしかにあったのだ、というのが、物凄い幸せなことなように思えるのだ。
そして、それは当たり前じゃなくて、ああしてライブにいることも当たり前じゃなくて、だから、忘れずにいたい。忘れずに、忘れそうになったならまた音楽を聴いて、自分の人生に胸を張って、そうして、一日でも長く、あの人の音楽を好きでいられたらいいな、と思うのだ。

 


なんか、アーティストとファンってそう思うとすげえ関係だな、と思う。
一と一として関わることはないし、関わりたいとも思わないけれど、でも確実に沁み入るみたいに影響しながら、何かを残していく。そうでありたいな、と思う。受け取れるように受け取って、またちゃんと自分の人生を自分の足で、歩けるように。

止められるか、俺たちを

ラストのエンドロールで、気が付けば目元が湿っていた。私はこの監督のことを知らないしつまりは作品も観たことがないし、さらに言うとめぐみさんのことは知らなかったわけなんだけど。それでもとんでもなく、刺さって、刺さったのか分からないけど、なんだかどうしようもない気持ちになった。


なりながら、私は今勝手に身勝手というまさしくその言葉通り映画を食べたなあ、と思ったのだ。

 


あらすじ(公式サイトより)


物語

吉積めぐみ、21歳。1969年春、新宿のフーテン仲間のオバケに誘われて、"若松プロダクション"の扉をたたいた。当時、若者を熱狂させる映画を作りだしていた"若松プロダクション"。 そこはピンク映画の旗手・若松孝二を中心とした新進気鋭の若者たちの巣窟であった。小難しい理屈を並べ立てる映画監督の足立正生、冗談ばかり言いつつも全てをこなす助監督の ガイラ、飄々とした助監督で脚本家の沖島勲、カメラマン志望の高間賢治、インテリ評論家気取りの助監督・荒井晴彦など、映画に魅せられた何者かの卵たちが次々と集まってきた。 撮影がある時もない時も事務所に集い、タバコを吸い、酒を飲み、ネタを探し、レコードを万引きし、街で女優をスカウトする。撮影がはじまれば、助監督はなんでもやる。現場で走り、 怒鳴られ、時には役者もやる。 「映画を観るのと撮るのは、180度違う…」めぐみは、若松孝二という存在、なによりも映画作りに魅了されていく。 しかし万引きの天才で、めぐみに助監督の全てを教えてくれたオバケも「エネルギーの貯金を使い果たした」と、若松プロを去っていった。めぐみ自身も何を表現したいのか、何者に なりたいのか、何も見つけられない自分への焦りと、全てから取り残されてしまうような言いようのない不安に駆られていく。 1971年5月カンヌ国際映画祭に招待された若松と足立は、そのままレバノンへ渡ると日本赤軍重信房子らに合流し、撮影を敢行。帰国後、映画『PFLP世界戦争宣言』の上映運動の為、 若松プロには政治活動に熱心な若者たちが多く出入りするようになる。いままでの雰囲気とは違う、入り込めない空気を感じるめぐみ。 ひとり映画館で若松孝二の映画を観ているめぐみ。気付かない内に頬を伝う涙に戸惑う。 「やがては、監督……若松孝二にヤイバを突き付けないと…」

 

 

 

青春、って言葉が沢山使われてるし、事実勧められた時も

あの青春を送ってた、飲めない酒飲んで、

絶対何かになれるって馬鹿みたいに信じてた人には刺さるって感想を

もらったんだけど。

実際あーーーーそーーーですね、と思ったんだけど。

私は、めぐみ視点でずっと物語を観ていて、

ズレてるのかもしれないけど、あの世界で女、であることの

クソッタレみたいな、そういうことを考えてしまった。

そんな可能性全部捨ててうっせーなって中指たてて、

でも、衝動でヤったら子どもができる、みたいな、その、さあ…!

いや考えれば考えるほど、この物語で女とか男とか言いたくないんですよ。

どうあっても解釈違いですよ、んなん。

でも、どんだけ焦がれてもサウナでのぼせながらだらだら一緒には喋れないし

世界に放尿、なんて出来ないわけじゃないですか。

なんか、その、遣る瀬無さがさ。

それがしたいしたくないじゃなくて選択肢を持っていない苦味はそれこそ、あの青春を過ごした人間、だから知ってるように思った。

し、それを否定したくて、もがきながら映画を見ていたもんだから、

めぐみの選択に途方に暮れてしまった。

そもそも自殺の表現が苦手ってのもあるけどな。惨い殺人シーン見せられるよりたまにダメージを食らう。

でも、ラスト、止められない彼らがいるあの場所に彼女の写真があって、

めぐみさん、分かんないけど、もしかしたら、あなたはただのめぐみ、だったのかもよ、とか。

言葉を尽くしても尽くしきれないけど。

それこそ、刃突きつけるつもりで描き続けなきゃいけないことなのかもしれなかった。

誰かが死のうが、綺麗事だけじゃ描けなかろうが、信念だけじゃ取れなかろうが。

いやーーーーわかんねえ!

もしかしたら、私がもう少し歳を重ねたら分かるだろうか。まだオバケやめぐみに寄り添いたくなる歳だからだろうか。

キャッチコピーが、いちいち刺してくるから、刺さったまま、突っ走りたいな、と思う。

ともかく、主題歌のなんだっけ?を聴きながら、なんだっけなあ、と考え込んでしまったのだ。

だけど、それはたぶんこれです、なんて今簡単に答えを出すのは野暮すぎて、ちげーよな、とも思うのです。

 

 

 

 

Today is Fine day

行ったことのない場所を懐かしいと思った。
思い出すたびにふくふくと幸せになるようなそんな舞台に出逢った。
お芝居を観に行くと時々そういうことがあって、理屈を通り越して抱き締めたくなるみたいなそんなお芝居に出逢う。と、もう、ひたすらそのことばかり繰り返し思い出してしまう。

Today is Finedayはそんな私がお芝居が好きな理由が詰め込まれたみたいな舞台だった。


あらすじ(corich公演情報より)
田舎の商店街を舞台におバカ登場人物たちが語る、心温まる小さなメッセージ。
団子屋を営む桜井将人は、父・庄治に一つの報告があった。
…結婚するということ…
一方、「桜井不動産」を経営する庄治にも、将人に一つの話があった。
…自分の会社を継いで欲しいこと…
しかし父と息子の再会は、なんと10年ぶり。まともに話ができるのだろうか?
そんな大事な日に巻き起こるひとつの事件!
久々の父と子の再会は…「嵐」の始まりだったか!?

『親の心子知らず…でも、親はなくとも子は…でしょ?』

親と子の関係をテーマに家族の想いをドタバタストーリーで綴るC2コメディ決定版!


前説が初日を観たため、遠藤さんと淳さんの前説だったわけですが、ともかく緩い!漫才みたいなのに緩い!漫才っていうか、面白くてテンポの良い会話をする人たちの会話を見てる感じ!
この時点で、楽しみ度はぐんぐん増していく。なんとなくだけど。あ、でも途中、劇中みたいな会話してるってやりとりがあって、あ、このままな空気感なんだ!とほっこりしたのもある。

そっからは、ノンストップなわけです。
これでもか!ってくらい笑わせにかかってくる。コッテコテなギャグも含めて、ともかくひたすら笑わせてくる。
前説で笑うとこだなーって悟ったら少し増しで大袈裟に笑ってくださいね、って謂れだけど少し増しで、なんてするまでもなくわりと腹筋痛え!ってなるくらい笑うことになる。ちょっと笑い声うるさくないかなって途中口抑えたくらいだった。


笑いは人それぞれ好みがあると思う。ブラックジョークがダメな人もいれば下ネタがダメな人がいるように。
もちろん、C2さんの笑いも好きずきが全くないわけじゃないだろう。ないだろうけど、色んな人に届くような柔らかい(いや笑いの威力としてはそんな柔らかいなんてものじゃない、油断すると腹筋をやられる)笑いに満ちていたように思う。
アドリブはほとんどないらしい、というツイートを見て、ははあなるほど、と思ったりした。
これは完全に好みな話だけど私は完全なるアドリブ、が苦手だ。役者が自由にボケますコーナーが本当に、なんとなく、もぞっとなる。分かってる、好みの話だ。
なんだけど、あーだからこのお芝居の笑いは好きだったんだなあ、と思った。アドリブがまるっきり嫌いなわけじゃないしこれまで、私だってアドリブにきゃいきゃい楽しんだことだってある。
なんとなく、お芝居と地続きのアドリブなら好きなんだろうな、と思う。お芝居の延長にある即興やアドリブは楽しい、そこに役者さん、を出されるとしんどい。
それはさておき。
ともかく、Today is Finedayは愛に満ち溢れた笑いだったのだ。
いやもう。
本当に、あ、笑うって楽しいー!ってなった。楽しい、笑うのめっちゃ楽しい。
なんか、あ、これだわ。私があのお芝居好きな一つの理由。楽しかったのですよ、ひたすら笑うのが。
役者がここは笑うシーンですよ、って雰囲気出すので、って前説で言ってはったけど、
なんか、それ。それです!
楽しかった!遠慮なく笑わせてくれるし、楽しいでしょ!!ってしてくれるし、それが本当に楽しいし。なんか、楽しいことってすごいよね。そしてそれが役者さんも私たち観客も同じって最高よね。
あーあの空間が好きだったのそれでした。感想書いてまとまった。
本気で笑わしに来てくれるし、それが物語と浮いてないし、私たちにとっても楽しいし。
楽しかったです、本当に。
そう、帰り際、色んな役者さんに目があうたびに楽しかったです!ありがとうございます!を繰り返し言う不審者になってたんですけどね、
なんか、本当に、嬉しかったんですよね。


楽しいことは、優しいことだと思う。

さて、そんで、物語の話を少ししたくて。
あの物語、出てる人みんなのこと好きになるね。なった。


将人さんは、もうね、好きになってしまうでしょう。こんな、こんな、ね。
あーこの人は良い人だなあってしみじみした。あんな愛のあるツッコミをする人に悪い人はいない。
し、なんか、あーこの人はみんなが好きなんだな、と思ってそれが相乗効果でね、ずっとね、嬉しかったわけですよ。すっごく素朴なんだけど、それがいい。聴く人なんだなあ、と思ってて、思ったので、日によって彩りも変わるんだろうなあ、とにこにこした。好きなお芝居だった。


お父さんの夢さんは、もう、堪能ですよ。
まず笑いが本当に好きなんだな、っていう楽しさもあるんだけど、それ以上に、ああこの人は父親なんだなっていう。
あの潤む目や感情が滲む目をあんな間近で見れたことは贅沢以外のなにものでもないと思う。
もちろん、芝居なのだ。作ってきた作り込まれたそれなんだけど、あのお芝居は夢麻呂さんにしかできないんだよな、かっけえ。好き。


松嶋のお母さんは、塩梅がすごく好きで。いるよね、ああいうお母さん。お母さんってついつい愛情深く描かれがちで、いやもちろんこの松嶋のお母さんも愛情深いんだけど。
ただ、なんか、リアルな雑さもあって。それがね、たまらなく好きだった。
リアルな雑さがあるからこそ、抱き締めたり心配する仕草が母親そのもので、なんか、実家に帰りたくなる感じすらした。


松嶋麻弥さんは、え、あれ、あ、わかはさんだ?!!って途中パニックになった。わかはさん、役によって漂う空気とかお顔があまりに変わりますよね…?その人になっちゃうから、なかなか気付かない…いや私の顔面識別能力の低さもあるんだろうけど…。
細かい表情の変化が愛おしい役だったなあ。将人とお父さんの間での表情がともかく良くて、そんなところにいかに彼女が将人が好きか見えて、そういうの、めっちゃ愛おしい、好き。


翔太はね、なんか、謎のあーこいつはそういうことしちゃうな、ってのがあって。
私自身が田舎出身なのもあるけど、田舎に錦を飾るというか、都会で一旗上げてくるわ、みたいな。そういう、だから尚更どうしようもないとこいっちゃうバカだなあ、みたいな、そういう田舎感…!あるよね…。
それ含めて苦しいやら愛おしいやら…役に対しての幸せになってくれ、はある意味翔太に一番感じた。


刑事コンビ、いやもう、刑事コンビ!!!!!!!!!!!!
出てくる間ひたすらもう腹筋への総攻撃ですよ、分かりますか。石部さんほんと、なんか、びっくり箱なのではないか、この人。
そして、それに応戦する真貝さんよ。応戦するというか、最早騎馬戦か何かか、そうなのか。ふたり相乗効果で高め合っていくのか、そうなのか。
いやもう、まじで、この、ボケとツッコミという枠にすら収まってくれないこの感じ。しゃいしゃいしゃーい!が好きすぎたあの感じ。コンビとしてのバランス最強か…?


とくると、屋代商会ですよ。そもそもこの芝居、笑いの飛び道具な方多過ぎませんか?もしかして観客の腹筋を鍛えるのが目標だったりしますか?
CRさんの、この、ね、トリオになった時の強さ。タケ、ウメと三人のバランスの良さは良かった。何よりこれは刑事コンビにも言えるんだけど、ともかくずっと楽しそうで、それが楽しくて仕方なかったんだよね。いやもう、あの衣装やポーズをあんなノリノリでされたら、最高でしょ。とんでもな展開もどれもひゅーひゅーですよ。そして憎めないあの小悪党感。ギャグとして成立させつつも物語が展開していくそのバランス感覚が最高。


すずさんは、あの、謎の台詞あるじゃないですか。言えてない言えてない!みたいな。
なんか、あのママがいるスナックで飲みたさしかない。いやそもそもこの商店街常連になりたい店が多過ぎ。勘弁してくれ好き。
程々な色っぽさと漂う場末感の、あの、田舎の商店街にいそうな感じ。いる、いるわ、地元に。
マスターもそうだけど、ああいう、バックに居てくれる人、の存在が大きいよね、こういうお芝居って。


マスターとすずさんが、わりと、こう、商店街の日常を想像させてくれるというか。あのふたりの冒頭のやりとりとかもそうなんだけど。入れる茶々とかの、関係性というか。どこまでは野次が飛ばせて、どこから優しくなるのか。そういうさじ加減がともかくすずさんとマスターは心地いい。


木津さんはね、商店街の面々の空気感に触れての表情が最高なんですよ。あんまりね、押し付けてもこないじゃないですか、商店街の面々の仲の良さとかそういうこと。でも、ちゃんと伝えてはくれるじゃないですか。それを、一番感じたのが木津さんの表情だったんですよ。あーいいなぁ、みたいなちょっとだけ揺れるの。でも、社長にとやかく口出しするほどじゃないの。その!空気感!それが!また!更に商店街への(観客の)愛着を増してくれた気がするんだ。だから、思い出してる。


石ちゃんはスタートダッシュでこれは笑うお芝居ですよ、って示してくれて、ほんと、大好き。可愛すぎる。
コンビ、トリオの飛び道具の中で、完全なる鉄砲玉ポジション。
石ちゃんさ、みんな好きになりませんか。そしてそのまま桜井団子のこと好きになりませんか。ああいう子が笑ってるってことの幸せ半端ない。愛されてるところが幸せとかどういうこと。好き。
コロコロ変わる表情と飛び道具的思い切りの良さが好き。


へーちゃんはもう、ほんと、ちょっと好き過ぎて長くなる。淳さん今後ともコメディを、コメディをぜひ。え、てか、ほんとに、淳さんのコメディ天下一品過ぎませんか、めっちゃくちゃ好きだったんですが!知ってたけど!元々好きだけど!
そして、夢さんとのサシのシーン。なんだろう、あれは。
受け取るって話を最近よく考えてて、あの2人は互いが受け取るってことを知ってるのかな。言葉にならないあの空気感。観るのは2作目(ですよね?)なんだけど、その度、言葉に出来ない思いにきゅっとなる。ちょっとこれは消化したい。


大森小林さん、コウさん。物販からね、愛が溢れてたんです。ほんとにね、すごく開演前の物販で嬉しくなったんです、それと地続きな、お芝居だった。
玩具屋は部外者なんだけど、すごくあったかくあの商店街を見てて。その人が茶化したりふざけたりするからなおのこと面白いし、愛おしい。
(話は全く変わるけど、このお芝居は空気を変える特殊スタンド使える人多くて、最高に最高だった。ガラって色を変えるその景色の美しさたるや!)
コウさんと夢さんのサシのシーンも最高なんですよね。淳さん夢さんのがお互い受け取ることを知ってる人たちの遠慮ないキャッチボールだとしたら、コウさん夢さんは共鳴みたいに見えて、あーーー思い出しても心地良かった。


ともかく、このお芝居は、全体的にそんな幸せな空気と音に包まれてたんですよ。


そんで、お話として、今もまだ考えてるシーンなんですが。

頑張ってるよ、と頑張ってるなんて言われたくてやってきたわけじゃないこと。
ってのが、私の中でとても刺さってて。
へーちゃんが、お父さんにひたすら、まぁくんは頑張ってるよ、って言ったあのシーンが優しくて愛おしくて、ダメだったんです。好き過ぎて。情けないことに、うわーこのおでん屋さん行きてえーって思ってしまった。頑張ってるからこそ頑張ってるよ、と言われるんですけどね、そこんとこ忘れちゃダメなんだけどね。
ともかく、あのシーン。父の息子への歯がゆさも、ひとりの人として接してるからこそへーちゃんが感じてる歯がゆさも絶妙な空気の中にあって、だけど互いにたぶん、分かってたんだよね、へーちゃんはそれを父親にへーちゃんが押し付けても仕方ないってことを、父さんは多少父眼鏡(不甲斐なく見えちゃう方にね)を、かけてる自覚が。
その、あの、なんとも言えない、少なくとも私の頭の中にはない空気感に、そしてそれを空気感で見事に表現しちゃうことにあああああってカオナシ化してた中からの、まぁくんの、頑張ってるって言ってもらいたくてしてるわけじゃないっていう、この、、完璧な…流れ……。


コメディなんですよ、コメディなのに、普段私たちがお腹の底に持ってる感情をしかも、一番自然な形で差し出してくるんですよ、Today is Fine day。
コッテコテな笑いで笑わしてきながら、普段の生活の中の言葉に出来ない、するタイミングもない感情を言葉にしてくるんですよ。しかもたくさん笑わしてきた流れで差し出してくるもんだから…拒絶もできず、痛みもなく、受け取れちゃう受け取って思わずしげしげとそれと向かい合っちゃう。ほんと、なんてこったですよもう…。

 


と、いう中で。だから、私はあのお芝居のラストシーンが好きなのだ。あそこまでたくさん笑える非日常で、そして、日常に地続きな感情の中で彼らの言葉と表情に私は今も泣き出したくなるのだ。泣いて、そんで、笑いたくなるのだ。
繰り返しツイートしてる、それくらい、好きなお芝居だった。たくさん笑って、何に対してか分からないけど、大丈夫だって思ったし、思えるからって言い続けてる。
だって、そうでしょ。きっと、明日は晴れるに違いないのだ。これだけたくさん笑った今日の、次に来る日なんだから。

普通にしろとか自分のありのままでとかうるせえ世の中で生まれたふたつのドラマ

大変だ、と思う。ぼくらは奇跡でできている、が火曜にあって
獣になれない私たちが水曜にある。
いやもう、週間の予定としてこんな見事な並びがある…?って震えるレベルである。

 


ぼくらは奇跡でできている、は普通ではない主人公相河が、みんなの普通を少しずつ変えながら奇跡を起こす話であり
獣になれない私たち、は有能で人当たりがよすぎる主人公晶と何でも正直に言う毒舌な恒星のラブコメだ(今のところ、ラブコメみは感じられていないけど、きっとここからラブコメになるんだろう。たぶん。


一見、関係ないようなドラマの感想を並べて書いてるのは理由がある。あるのだ。

 


たまたま録画の関係でぼくらは奇跡でできている2話→獣になれない私たち1話を続けて観た私はびしゃびしゃに泣いてしまった。


「普通」というのは、私たちのすぐ隣にある。
そうするのは当たり前でしょ、なんで分からないの、なんで「普通」に「みんなと同じように」できないの。

 


使い古された言葉だけど、そんなことに揉まれてあるいは私たち自身も誰かにそれを求めて毎日過ごしてる。
けもなれの晶はそれを読むことが演じることがとんでもなくうまい人なのだ。そして、うまいのは「そうじゃないこと」がどういうことか他の人よりも強く明確に分かってるからじゃないか。なんか、そんなことを思う1話だったんですけど…!
まんぷく(現在の朝ドラ)の感想でも言い続けてるけど、笑える人ほど、穏やかな人ほど、そうやって空気を読んで、なんか、なんかさあ…と思う。


じゃあ、それを止めればいいなんてことを、時々言いますけどね。
むしろね、最近はそれがトレンドなんだろうな、とちょっと剣のある言い方しちゃいますけど、空気読んで顔色伺ってそういうのしなきゃいいじゃん、ありのままでいきましょう、みたいな、そういう、やつさあ!
そりゃそうできたら良いわけですが、それを突き詰めた結果があの晶の働く会社の人々じゃん???!
それをサイテー、って感じながら、同じ口で「好きに生きて良い」とか言われると待て待て待て、と思うわけですよ。待て待て待て、困るやろがーい、困ってるやろがーい。

 


しかし、じゃあおし殺せ、とも思えないのだ。思えなくなってきてるのだ、みんな。だから、好きに生きようがトレンドになるのだ。
そもそも、ドラマだけの話をするなら、もう晶ちゃんに人の目なんて気にせず自分の好きな服着てブーツ履いて生きて欲しい気持ちになっちゃってるのだ。


で、ここで、ぼくらは奇跡でできている、ですよ。
「普通」じゃない彼の登場ですよ。
普通じゃない変人で常識が通じない人間が、じゃあ、傷付かないかと言われればそんなわけなく、イー!!!と夜中寝る前に叫んだらその日あった嫌なことは消えるのだ、と相河さんはおじいちゃんに教えてもらったおまじないを大きくなった今も続けている。
「好きに生きてるあなたには、分からないでしょうね」と投げつけられる相河先生だって、傷付いてはいるのだ。傷付いて、嫌だと思って、それでも、ああして自分のまま生きる。


もう、この、八方塞がり感。それを、ぶち壊すことを、相河先生が2話で言ったものだから、私はこうしてブログを、書いてるのです。どうしよう、寝かせたけど全然まとまらなかったよ、とりあえず好きだって現象まとめるだけになってるよ、でもほんと、観て欲しいっていうか、観なくても良いんですけど、私は今期このドラマにどストレートにぶん殴られながら抱き締められてるよって話なのだ。
相河先生は、ずっと普通じゃなくて、だから誰かと仲良くなるのが苦手で、それがとんでもなく苦しかったけど大嫌いだったある人と、仲良くなれたから好きになれたからもう良い、と焼肉を「ひとりで」食べながら言う。
隣に座ってるだけの、歯医者さん水本さんが焼肉を「ひとりで」食べながら皮肉みたいに言う。それは良かったですね、誰と仲良くなれたんですか。


「僕です」

 


もう、本当に。
途中、大嫌いで仕方なかった人と、仲良くなれたからって言った時点で、なんとなく、過ぎった答えが最高の間と温度感で来てしまった。
別に、相河先生だって、自分が「普通」にてきないことも、だから人や世間とうまくやれないことくらい、分かっているのだ。分かっていて、だから嫌いで、だけど、変われなくてもっと大嫌いになって、そうやってきたのだ。
好きに生きてて良いですね、なんてことはないのだ。たぶん。だけど。それでも、自分と仲良くなれたから、良い、って相河先生は言うのだ。
もしかしたら、まだ時々は嫌いなのかもしれないけど。

 


「普通」に生きろとか「人と同じように過ごせ」とか、
かと思えば「自分のありのままで生きろ」とか色々あるけど、


もしかしたら、自分と仲良く過ごせるように生きろ、が1番しっくりくるのではないか?


そんなことを思う。もちろん、ドラマはそれぞれまだ序盤も序盤なのでもしかしたらこっから印象は変わっていくのかもしれない。それも含めて、楽しんでいきたい。まずは、この時点での感想を。

 

 

DTC 湯けむり純情編


あの頃の自分はイケていた、という思いほど苦い思いは無いと思う。

アクション0と銘打ちながら、DTCはハイローが描いてきた物語のど真ん中を走り切った。その爽快さにもやられている。とんでもない映画を観てしまった。
アクション0、笑い80、感動20の映画はハイロー120%だった。

 

九龍との喧嘩の後のあのなんとなくな気怠い感じ。そもそも、DTCの結成のタイミングのことをずっと考えていて、いやお前、コブラがめちゃくちゃしんどかった時に何してんねーん!とわりと、結成のタイミングを知ってからずーーーっと突っ込んでたんだけど。いや分かる、分かるよ、しかしDTCのあのショート作品たちがザム2からザム3の間だとしたらお前、と思ってたんだけど

しかし、しかしですよ、DTCを観たら、なんか、それすら愛おしくなるというか。
サウナのシーンや、配達するダンさん、空っぽの銭湯にいるテッツやヘルパーをするチハル(ところで、ここでヘルパーを選んでいるのがらしい、過ぎて何とも…絶妙なチョイスと表情のセンスすぎる)
大事なものが、何かって話はザム2から延長して続いてるのかもしれなかった。

ヤマトがあまりにも優しい顔して、SWORDの外を見てこいって言うじゃないですか。DTCっていうチームを見守ってるじゃないですか。ここで既に涙腺はだいぶヤバくてですね。
コブラやヤマト、琥珀さん九十九さん、雨宮やRUDE、ロッキーの護るものがブレない人たちがいる一方で、これで良いのかって立ち止まってしまったり、痛みに怯む人たちもいる。とんでもなく格好いい特別じゃなくても、そこにいて、足掻いて、毎日頑張っちゃいるんだよ、って呟くこともあるというか。どっちがいい悪いじゃなくてね。更にどっちが上なんて話でもなく。

ダンさんたちDTCが広いところを見てくることにワクワクするヤマトって、なんか、ああほんと山王って良いチームだな、と思うしその山王はMUGENと地続きなわけじゃないですか。

今回、演出や歌やダンス、そもそもの脚本の段階でかなり見やすくフランクな作品に仕上がってる。頭を空っぽにして楽しめて、まさしく、喧嘩0笑い80感動20だ。どんな相手と見に行っても、楽しめるような。
だけど、同時に、彼らがこれまで何年も掛けて描いてきた核みたいなものがそこかしこに散りばめられていてやられてしまう。

ここまで打ってて気付いたんですけどね、DTCって、まさしく、全員主役、を銘打つハイローがスクリーンの前にいる我々に君たちもだよ、って手を差し伸べてくれる作品なんじゃないですかね。
拳も握らない、仲間が痛かったり悲しい思いをするならどんなそうするべき、の前だとしても立ち止まってしまう。
なんとなく毎日仕事してて、家族とか大事な人はいるし幸せなんだけど、そんなもんだよって現実を知ったような言葉に納得がいかなくてでも何よりそれに言い返せない自分がダサくてもやもやして、
そんな我々の代わりに、DTCが旅してくれて、俺らと一緒やでって手を引っ張ってくれる映画じゃないか。
あの頃はイケてたって自分の立ってる場所に虚しくなんかなる必要はないんだよな。

世代を引き継ぐ話をするテッツとチハル、そしてそのふたりと一緒にいるダンさん
DTCほんと、明確に度々ぶん殴ってくるんですけど、そして彼ら俳優陣の普段の会話のまんまだっていう、だからこそ出せる空気感がたまらなく好きなんだけど、ほんと、ダンさんのバランス感覚よ…
格好良いやつじゃなくていい、ってダンさんの打ち合わせの時に健二郎さんが言ったってエピソードがたまらなく大好きなんですけどね。ダンさんは両方にいける人、なんだよな。
コブラやヤマトのそばに俺もいるやろ!って気軽に肩叩けて、テッツとチハルと一緒にバカやれて。それはまさしく格好良くない格好良さで、そして、とんでもないバランスで起こる奇跡だと思うというか、ほんと、ほんとダンさん好きだよ…。
強くない人間の気持ちを理解できて、そして「評価してもらえるなんてわかりやすくていい」なんてことも言えるんだよ。やべーよダンさん。
問答無用の格好良さにも憧れるけど、ああして笑える人の強さには、もう黙って心が震えるしかない。ああいう人が近くにいるだけで、なんか、大丈夫な気がしてしまうよね、だから、愛ちゃんの気持ちがすげーーーーわかるんだよね。あれは脚本の説得力とかだけじゃ描けない絵の説得力だよ。と、思う。
健二郎さんのお芝居の彼自身だからこその表現に今年は何回打ちのめされればいいのか。好きだ。

というか、ハイローは、そういうとこが大好きなんだよ。
EXILEってデッカいグループに後から入ったメンバーや、「弟分」と他所から言われるグループ、団体に所属しているからこそ言える台詞とか、
いつまでも夢を追い続ける立場にいるからこその台詞とか。
彼らの生理に沿った台詞が心地よくて、お芝居なんだけど、お芝居だからこそ、堪らない空気感があって。特にDTCは、彼らのライブのことを思わず思っちゃうような瞬間があって(明確にどこっていうか、ライブ中の心臓と同じ動き方するとこ、って感じ)改めてハイローという作品の作りに悶絶するしかなかった。

間違ってもやり直せることを描き続ける姿勢
が、ハイローの大好きなところベスト3なんだけど、
愛ちゃんのまだ間に合う?にダンさんが応えることもそしてオープニングに繋がることもなんだけど、ダンさんが!ダンさんがですよ!!
掴めなかった手をもっかい掴みにいけるように背中押してあげるわけじゃないですか!!!!!!!!!あのダンさんが!!!!!


あの、コブラの手を取れなかったダンさんが!!!!!!!!!


山王を一度は離れたこととか、なんならその間にDTCを結成したこととか、なんかそれを後悔はしてても、間違えた、とは思って欲しくないというかなんか違うな、悪いと思って欲しくない、かな。
うーん、表現が難しいぞ。
コブラたちのそばを離れなかったら、のもしとか例えばコブラの窮地で冷えた心臓と同じとこにテッツたちの為に離れることを選んだその感覚は変わらずあって良くて、そしてその上で「山王で九龍と喧嘩をすること」を選んだんじゃないかなって。
だからこそ、愛ちゃんの手を取ってまだ間に合うって言えるんじゃないか。生きてたらやり直す明日が来るからな。

そして、1番、ああこれは今までのハイローの続きの世界なんだ、と思ったのがですね
宮崎さんの「突然いなくなるな」の言葉なんですよ。
なんか、あの台詞聞いた時に龍也さんや兄貴や、スモーキーや、なんならノボルや、彼らの前から「突然いなくなってしまったひと」のことを思い出してしまって。
憎んでも、口を利かなくてもいいから、突然いなくなるな。
いや勿論、これは前のシーンのいなくなった愛ちゃんのシーンの踏襲だってのは分かってるんだけど、でも私の頭の中では、
突然いなくなるな、とは誰の言葉だったのか
ってのがぐるぐるしてしまって。そうだなあ、望むとしたら、それだけなのかもしれないなあ。


ダサくて格好悪くてお節介な彼らは、結局そうなんじゃないの、っていうか。
なんとなく、突然終わってしまうものとか、気が付けばなくなったような錯覚に陥ることって大人っていう世界ではあって
これは最近思うんだけど、でもそれって「錯覚」なんだよね、何にも変わってねーんだよ。
喧嘩に似てる、何かをやり切った時のあの心持ちについて、彼らがおんなじ、思い出したっていうシーンが愛おしくて
なんか、お題目はいいから、目の前の人に笑ってて欲しくていなくならないでほしくて、そんな毎日が大好きで続いたらいいなって思ってるんじゃないのかって、ことを、考えていた。


別に大人だとか子どもだとか仕事だとか喧嘩だとか、そんな線引きほんとはありはしないのだ。


そうやって続く毎日を愛おしく思うのだ。
そして、続く、と銘打ってくれる優しさですよ。あの、ラストにTo be continueって出てきた時、そもそも鬼邪高がスピンオフってあるって知ってるのに胸が熱くなった。
いつか終わりは来るのだろうけど、変わらず彼らの日常が続いてて、彼らはいい意味で変わらなくてそれがほんとに、この映画で1番嬉しかったことかもしれなかった。