えす、えぬ、てぃ

お芝居の感想など

R老人の終末の御予定

例えば何日も何ヶ月も経って、あああの人が言いたかったことはこういうことだったのか、と思い至ったり、唐突に昔のことを思い出してその時間の愛おしさに喉が詰まるような気持ちになることがある。
R老人の終末の御予定への気持ちが何かに似てる、と考えていたんだけど、たぶん、それだ。
じわじわと自分の中にある気持ちとか、きっとそういうのが時間と一緒にどんどん、色付いていくんだ。

 


逆説的な人間らしさ、というパンフレットの吹原さんの言葉を思い出す。
ほとんど人間が出てこなかった今回のお芝居を観終えて、なのに人が愛おしいと思った。
それは動物としての人間というより、たぶん、心の話なんだと思う。

 

 


これは、地球上で初めて結婚したロボット夫婦の物語。

 


そもそも、原案となったふたりは永遠にという作品が大好きだ。
余命を悟った天才的科学者が妻を看取るため自分とそっくりなAIを作るお話。しかし、実は同じく天才科学者だった妻も同じように愛する人を看取る為、自分そっくりなAIをもう随分前に開発していたのだ、という何とも切なく優しい話。10分くらいのそのお芝居を私はPMC野郎さんに出逢って間もない頃、YouTubeで知り何度も何度も再生した。
大きな何かが起こるわけではないけど、夫婦それぞれの気持ちが優しくそしてその秘密を唯一知るふたりの友人の台詞が優しくて悲しくて。


吹原さんの作品は奇抜な設定やキャラクターが出てくるけど、その根っこにいつも素朴な気持ちがあって、その素朴さにいつもいつも私はノックアウトされる。


今回、それが元になりもう一つの軸としてエレキギターと電子ポットの恋が描かれる。本来仇同士のマフィアの子どもたちである彼らの恋。

 


トリッキーな被り物の彼らの姿はだけど、淡々と人間のそのままの姿みたいだ。
家柄を気にしたり、なんだか分からないということを理解しながら殺しあったり。
それは、ロボットのアダムとイブであるふたりは永遠に、の彼らがひとつひとつ「人間」のそれを習得していったからだ。


恋をして、誰かを思い、人を傷付け、自ら命を絶つ。

 

 


私は、終わった直後、悲しくて仕方なかった。
ポットさんを助ける何かがあると思ったんだ。
おじいさんの記憶の先にポットさんを助ける何かがあって、それはもしかしたらふたつのマフィアの争いすらなくしてくれないかって私はどこかで願ってた。だから、呆気なく死んでしまったおじいさんにも、それと同じように死んでしまうグレコにも、呆然とした。うそでしょ、と思った。
人間に近付いてしまったばっかりにフリードリヒの言う通り本当は滅ぼし合わない理想的な生命体だったはずの彼らが、言葉を選ばないなら、どうしようもなくなってしまったように思えて、かなしかった。どうしようもなく、ってのは、言葉が悪過ぎるな。
ただただ、人間が悲しいと思った。


R老人、横見さんの演じる花嫁姿のケイコが人間を殺すシーンが恐ろしくて悲しくて、そして美しかった。


鍛え抜かれてる横見さんだからこその静かなんだけど物凄いパワー(あのロボットの馬力感!ミシミシって音を聞いた気がした!)での殺戮にはぞっとしたし、表情は最小限なんだけど深い悲しみと怒りが見えて。。あのシーン、心臓が震えた。
無表情の人間への恐怖ではなくて、心を持ったロボットが殺す、ことを手段としてえてしまう、実行してしまう心の動きが怖かったのかな。
じゃあ、美しく感じてしまったのはそれが心が動いたからなのか。
あの一連のシーンの喜怒哀楽の詰まってる感じ、すごい。
結婚、という喜びから、大切な人を失う悲しみを経て、最後に怒り。
ぎゅっとしたあの、喜怒哀楽がさ。
でも、それを得た彼らが愛おしくてさ。
フリードリヒ!!!!!!!!って怒りすら湧いたし、ただその彼もきっとそうしてただ無抵抗に殺されるロボットたちの姿に沢山傷付いたんだろうな。考えることが仕事のフリードリヒが、もっとあたたかくて幸せなことを考えられる世界ならよかったのにな。


あそこで、ひいおじいちゃん・ひいおばあちゃん、と呼ぶことに最初はくそ・・・ってなったんですよ。悪意すら感じるというか、ああ、そこでその関係をちらつかせるのはさ、というか。
うまく言えないな。
フリードリヒのことを考えると、というかあの辺りのシーンは、ほんと、人間の悲しさというか。どうしようもなさについて考えてしまって雁字搦めになる気がする。
でも、もっと素朴に呼んでた可能性もあるのかもしれない。いらない、と一方的に人間に捨てられそうになった彼らが、彼らを守るために一生懸命考えた結果なのかな、とか。自分も同じそして自分たちを生み出すきっかけになったふたりにひいおじいちゃん、ひいおばあちゃん、って呼ぶのは彼なりに心のやり場だったのかな、とか。


物語は、一色じゃないので、悲しいも愛おしいも同時にやってくる。


フリードリヒが考えるのが仕事だ、と言ったことを思い出す度に、ごめん、って思う。人間がどうしようもなくて、悲しいこととか考えさせてしまってごめん、って思う。

 


吹原さんの話は、だけど、いつも残酷なことを隠したりはしない。痛いことも悲しいことも、ただただそのまま描く。
独りぼっちのブルースレッドフィールドも、うちの犬はサイコロを振るのをやめた、もほかの作品だって、それはブレなかった。


あと、もうひとつ、とんでもなく悲しかったのが、辰郎とグレコの選択なんだけど。自殺っていう。
自殺ってのがどうにも苦手だ。創作上でも、叶うならなるべく見たくない。どんな理由があろうが、何があろうが、這いつくばってでも生きてくれ、と思ってしまう。死んだら、何もならない。
死んで向こうで、なんて詭弁だと思ってしまう。
だから、ほんとに、どうしようって思ったんですよ。勘弁してくれ、その選択はやめてよってめちゃくちゃ思って。
でも彼らにとっては生きてたら何とか、とか生きてたら味わうだろうほかの幸せとかそんなんじゃなかったのかな。
人間の方の正田辰郎の紹介文で、ただただ彼女が笑うことだけを考えてたんだな、と思った。
彼女が悲しむところを見たくない、というそれだけが基準でそれ以上もそれ以下もなく、善悪の判断とかたぶん、関係なかったんだよね。
辰郎を看取りたいであろう彼女の気持ちよりも彼女が悲しむところを見たくないっていうある意味でとんでもなく身勝手でがむしゃらな愛情が辰郎や、メカ辰郎の根っこだとしたら、そりゃ、仕方ないか。それをやいやい言えないか。
グレコもきっと、そういうところが、辰郎に似ててだからこそのメモリーチップとの出会いだったのかなあ。

 


そんなわけで、私はカーテンコール、呆然としてたんだけど、その途中、グレコの曲を思い出して、ハミーとの会話を思い出す。音楽は作り出すことは出来ないんだと言ったこと、その彼が約束の彼女の為の曲を作ったこと。

 

あとね、羊羹がね、羊羹のエピソードがね、最高だったの。メカ夫婦がふたりで初めて美味しいって思ったものだもんね。だから一緒に食べたいよね。美味しかったのはきっと好きな人と食べたからだよ、なんてロマンチックなことも言いたくなるよ。
そんでさ息子がさ、事故じゃなかったよって言うじゃん。事故じゃなかったよ、父さん僕、長生きしたよって。あそこ、愛おしくてたまらなかった。みんなみんな、背負って生きてきたんだなあ。


好きだ、大事だ、笑ってて、幸せでいてって一生懸命みんな祈ってて。
ジェニーと清二さんのエピソードも大好きなんだけどね、なんか、もう、そうだよなーーー。
人間を看取る為に生まれた、誰かの為に誰かの気持ちを背負って生まれた彼らがだんだん自身の気持ちとか思いも一緒に背負って生きていったことを考えてる。できたら、優しくてあったかい気持ちだけ背負って欲しかった。だけど、そうはいかなくて、でも優しくてほんとなあ。
結局、いつも、シンプルなところに行き着く。


唐突にああそうだ、心とはこんなに美しくて優しいものだったんだ。と、そこで思い至って泣き出したくなった。抉り取って抱き締める、その言葉の有言実行っぷりに、泣き出したくなった。


どうしようもない残忍さも、身勝手さも優しさも美しさも、全部心の部分から始まる何かだった。


R老人の大好きだった台詞、「魂とは、知性に宿る」って言葉の優しさ、本当に大好きでした。何度も何度も、この数日思い出していました。
魂が知性に宿る、というなら肉体的生命に関係なく、それはそうなんだと思う。とどのつまり心臓が動いていても、知性を失っちゃったらきっとそれは魂を失うことなんじゃないかしら。
どうしようもないところもあるし、傷付けるし傷付くけど、例えば森山のついた嘘のように知性、が優しさを生むこともあって、それを魂って呼びたい。
そんでそれは、きっと、残るんだと思いたい。

 


今回、あと、吹原さんの台本ト書きの世界がひっくり返る、という表現の愛おしさすごくないですか?って思った。というか、ひっくり返っていたのだ、ということにガツンときた。そうか、場転って世界がひっくり返る、か、そうか、そうかって。
森山がさ、料理焦がしちゃうじゃないですか、「ひっくり返せなくて」世界がひっくり返る、とト書きで書かれるあの物語でひっくり返せなかった、彼についてなんだか妙に悲しくなってしまって、八重子にあなたとなら事故の前のように話せる気がする、と言い募る姿が悲しくて、しくしくする。
森山の世界は事故でひっくり返ってしまったんだ。ひっくり返って、戻らなくなってしまったんだ。その逆さの世界で、唯一逆さじゃない、メカ夫婦。


死んだ後の世界はあるのかな。死んだ人は何もできない、といった森山は自分を見守る人にも会えるのかな。


あの、弟(台本では家族全員、でおおおあってなった)を食べてしまった彼。そして、あの瞬間のお芝居で、その弟、がどんな顔をしてそばにたってるか。が伝わってきた。
死んだ人が、見守るとはよく言うけどそら、恨んで呪ってる人もいるはずなんだよな。死んだ人は何もできない、というふたりの「面白い」話を考えるとさ、でも、この見守る、もそうなんだよね。
見守る、守ってくれる、も呪ってる、許してくれない、ってのもぜーんぶ、何もできない、なんだよね。生きてる人間がどう思うかで、それに救われたり苦しんだりするんだよね。

 


死んだ後、彼らが再会できるというのがひとつ、この物語においての救いだった。
死後の人々を見ることができる森山の存在はあの物語にとってとんでもなく優しかったけど、私がもう一つ優しいな、吹原さんありがとう、と思ったのは老人森山の死が近くなって、の台詞。長い時間や生きてきたという事実が人に穏やかなものを与えてくれるんだってのはやさしい。


(だから、生きてて欲しかった、と思っちゃったけど)

 


かなしかったけど優しかった、という話を終演後、淳さんにお伝えしたら、優しい話だからこそ、森山がいるんだ、という話を聞いて、もっかいタライが落ちてきたような気持ちになった。
そうだった。
死んだ人が見える彼がいたこと、死んでしまったグレコとハミー、そして夫婦がいたこと。
(ところで、森山のあの短いシーンで彼が普段見ている死んだ人間がいる世界の恐ろしさと八重子の存在に気づいた時の森山の心境に想いを馳せてしまって物凄く苦しいやら切ないやら愛おしいやらで忙しいんですけど)
R老人は、なんか、幸せな話としてとっても悲しい話としてとってもいいよ、という懐の広さが好きだ。し、やさしい話だと思うよ、と聞けたから尚、輪をかけて好きだ。

一寸先はネバーランド、とパンフなどに書いてある。
ネバーランド、永遠の、世界。

 


死んでしまうけど、どこかで会えるかもしれない。
そこはもしかしたら、ふたりは永遠に、過ごす世界なのかもしれない。

 


それは、ひとがどうしようもないものととんでもなく美しいものを持ち合わせた存在だ、と動かない悲しくて優しい事実を突きつけてくれたこのお芝居が見せてくれた優しい「もしかしたら」の世界を私は願わずにはいられないんだ。

LDHのパフォーマンスに感動した話


EXILEが好きだ、というと顔だろって言われて腹が立って、話を聞いて頂いてスッキリしながらも結局考えてるとそこに行き着くので、文にすることにする。
正直ハイローから入っただけだし、まだ好きになって日も浅いので、そうじゃないよ、の部分もあると思うけど、これはあくまで、私の話として、書く。

EXILELDHの好きなところはたくさんあるんだけど、何よりパフォーマンスが大好きなんだよ、という話だ。


ダンスや、パフォーマンスが好きだ。
それはもしかしたら一番最初に好きになった劇団さんの影響かもしれない。
ともかく、アクションとか、パフォーマンスとか、ダンスとか、そういう身体表現が好きだ。
できたら抽象的なものよりバリバリのパワー系やスピード感があるものが好きだけど、でも、ともかく、まず全般的に好きだ。知識があるわけでもないけど、むしろないからこそ直感的に好き、と思う。
そんなわけで、ハイローを観たきっかけも(色んな要素があるけど)アクション、が大きかったし、RUDEBOYSのパルクールを用いたアクションが私をリピートへ導いたと言っても過言ではない。

じゃあ得意かというと、それはもう、悲しいことに全くだ。ダンスの授業が取り入れられた世代ではあるけど、楽しいと思ってても得意だと思ったことは一度もない。し、楽しくても振り覚えるのはともかく遅かったし、よくなんかちょっと違う、と首を捻られた。漢字とダンスをオリジナルに変えることに定評があった。
どうしたらダンスが格好良く見えるようになるか聞いた時、だいたい私の周りのダンスが好きでうまい人たちは止める、の見せ方だ、と答えた。で、そこに筋肉がいるし、神経を使う、と。本当かどうかは分からないけど、たしかにそこを意識してるという彼女たちのダンスはめちゃくちゃ格好良かった。今でも覚えてる。


そんなことを、HiGH&LOW THE LIVEを初めて観たときに思った。
正直にいえば、EXILEに苦手意識が全くなかった、とは言えない。なんかよく分かんないけど怖い、とまさしくナイトヒーロー の栞ちゃんみたいなことを確か学生時代言ってたと思う、さすがに全員が沖縄出身なんでしょ?とは思ってなかったけど。
何より不思議だったのは、なんでそんなに人数いるのに2人しか歌わないんだ?何故ほとんとのメンバーが踊ってるんだ?だった。ジャニーズとかも良くは知らないけどだいたいみんな歌うよね、と歌番組に出演してるのを見るたびに首を傾げてた。
格好いい、という評価は知ってた。
ただ、私はあまり人の顔の美醜が分からないというか、え、表情筋次第じゃない?と思ってるのでイケメン、と言われてても、へえそうなんですね、そうか、こういう顔の人たちが所謂イケメンなんですね、とぼんやりしてた。
人の顔の見分けがなかなかつけられないので、その辺はどうかご容赦くださいって感じだ。その人の表情筋の動き方を覚えてたぶんようやく人の顔を認識するんだと思う。この機能については我ながら早く改善されてほしい。

そんな私が、だ。

びっくりしたんだ、ザラ冒頭のハイグラで。

格好いいな、とは思うようになってた。ハイロー完走後だったのでこの役の人、と解説されればしっかり認識できるようになってたし、何人かは明確にこの人好き!と言えた。
だけど、そんなことより何より、あのパフォーマンスで、え、と思った。

めちゃくちゃ格好いいやんけ。

も、最高に格好良かった。あ、と思い出した、止める筋肉。ただ振りを覚えてリズム数えてもどうしても見てるダンスに近付けなくてポイントを聞いた時に教えられた、止める、だ。
そんで思い出した。ダンスって、すげえ筋肉を使うんだ。
殺陣について、とあるお芝居のスタッフさんが、斬られて止まる瞬間が一番命を削るように体力を消耗するのだ、といつだか言っていた。止める、ってそういうことだ、と私の中には刷り込まれてた。

も、すげえの、バシバシ止まるし、その次の瞬間にはしなやかに動いてんの。
そんで、表情。
どんな凄い動きも死んだ顔でされたらたぶん何一つ残らずさらさらと消えちゃうんだけど、生き生きした表情だと何万倍にもなって届くんだよね。
あーーーーこの人たちは、パフォーマー、なんだ、とその時ようやくなんでボーカル以外が歌わずただ踊ってる、パフォーマンスしてるかを理解した。それぞれがそれぞれのフィールドで、それぞれの表現をぶつけ合うのがこの人たちなんだ。それが合わさってすげえもの作ってるのがEXILEを初めとするこの人たちなんだ。

すげえ、と何回も言っていた。
顔もいい人たちだと思った。持て囃されるオーラも顔立ちもスタイルもある、と思った。でも、それだけじゃなく、それ以上にこの人たちはこの表現があって、何よりそれをこんなに生き生きしながらやるっていうことが魅力的で、だから、こんなに人気なんだ。
THE LIVEでそれを理解した。

顔が良いだけで、作れるような立てるようなそんな生易しい場所にはとても思えなかった。
何より筋肉ってそんな簡単につかないし、よしんば体質的についたとしてもそんな簡単に、魅力的に使いこなせるようには思わない。
それをこんな笑顔で楽しそうにやってのけるこの人たちは一体何者なんだ、と画面を見つめながら思った。

パフォーマンスって、見る機会あります?
ダンスは?
たぶん、ほとんどないと思う。

ほとんどない、というと語弊があるんだけど、でも、その機会や触れることができるフィールドってすごく限定的だと思う。
だからこそ、歌の力も味方につけて、あのパフォーマンスを身近なものにしたLDHって人たちに私は感動した。
色んなエンタメの門戸はそれぞれ限られてる、ってよくいうけど、例えばクラブミュージックとか、そこで行われてるダンスやパフォーマンスって、少なくとも私は縁のない、遠いものだった。だけど、あ、こんなに格好いいんだ、と受け取りやすい形で出会わせてくれたのがLDHだった。
パフォーマンスを観ることは好きだけど、例えばそれを観に行くのに友人を連れて行くのはなかなか難しい。とっつきにくい、と思われる確率も高い。だけど、ランニングマンの話は別にパフォーマンスに興味がない人ともできるのだ。もしかしたら、そこからパフォーマンスやダンスに興味を持ってもらえるかもしれないし、更にもしかしたら、いいなって思ってもらえるかもしれないのだ。
その可能性がどんなに嬉しかったか、私にはうまく言葉にする自信がない。だけど、好きになってから数週間、その可能性の事実を噛み締めてニヤニヤしたりぐすぐすした。

まさかEXILEのこと好きになると思わなかったなあーと呟いた私に友人が言った言葉を覚えてる。
つくさん、アクションもダンスもすごく好きなんだからいくらでも好きになる要素あるでしょ、むしろなんで今まで好きじゃなかったのかって感じですよ。
いやほんと、それなって感じだ。
それくらい、大好きな表現、が詰まってた。
それがテレビやDVDで気軽に見れて誰かと共有しやすい規模で存在する、正直それは凄い奇跡に思えた。

なので、私は彼らのパフォーマンスが好きだ、と言いたい。何回でも言いたい。たぶん、ここをわざわざ読んでくれた人たちはもう知ってるよ、と受け止めて下さってる方も多くいるんだろうけど。
彼らの音楽も勿論大好きだ。
そして、パフォーマンスがダンスが大好きだ。
たぶん、これからも何度も何度も、そのパフォーマンスに感動し続けると思うのだ。

 

 

ニワトリ★スター→三十路女はロマンチックな夢を見るか?

たまには、変則的な感想の書き方を。
こないだツイッターで情熱の賞味期限は短いから、と聞いてたしかに書きたい感想が溜まる一方で、たぶん観た直後ほどの言葉をもって書けないから、とお蔵入りした感想がたくさんあるので、今日は書きやすい書き方で、書きたいように、感想を書く。


人の形を忘れがちなので、劇場や映画館に足を運ぶのだと思う。
ニワトリ★スター→三十路女はロマンチックな夢を見るか?をハシゴしたのでした。

どちらも、なんだか少しファンタジーでザラザラしててでもどこかボヤけてて痛くて、愛おしくて、心当たりがあって。たまたまなんだけど、このタイミングでこの組み合わせ順番で観たのあまりに出来すぎてんじゃねーのって笑ってしまう。

ニワトリ★スターの草太は幸せな子どもでだからわざと不幸になりたがるようなところがある、なんて思う。30半ばで半端なヤクの売人をしながらぶっ飛んだ楽人と二人暮らし。
途中、というか、オープニングからわりと痛い描写とか可哀想な描写が多くて、エログロというかエググロな連続で、あまりそういう描写が得意ではない私はウェエエってなりながら見ていた。ああこれ、結構覚悟して観なきゃだ、と思っていた。そのくせ妙に冷めてて、なんか、あー草太、と思った。

世の中なんか下らねえし、人なんて冷たいし、ヤクを売り捌いて頭吹っ飛ばして、アウトローに決めた気になって。

ゲラゲラ笑い合う草太と楽人にホッと一息つくたび、ああこれ、絶対かなしくなるんだなって覚悟してた。だって、きっと、幸せにはなりきれない。それは作中漂いまくる空気感で、悟っていた。
楽人が、すごくフラットでフラットなのにフラットだから哀しそうで。
結局酷い目を受けた女子高生を想像して傷付いて草太は吐いちゃう、吐けちゃう。真っ当な感覚をたぶん、彼は失わない。おはようとおやすみで、育ってるから。
でも、楽人はそうじゃなくてそうじゃないけど、でも、楽人は、吐いてぐったりしてる草太のそばで本当に心細そうで手も震えて怯えきってて。なんか、あれは、たぶん、彼が心の底から大事にしたい、守りたいって思ったもので、例えば彼自身幸せとかあったかいとかそういうものは知らなくても、感じることは出来んだよなあーと色んなシーンを見て思った。

楽人がねえ、本当に愛おしかったんですよ。

俺こんなんだしさって笑ってみせるけど、いや君自身、めっちゃ優しくて柔らかくて、誰もそれを大事にしてこなかったかもしれないけど、それはこれからもそうとは限らないし、大事にしてこなくても、君は大事にできるじゃん、みたいな。

草太はぎゃくにそういうのをたぶん見失って見失ったから放り出したくなって「東京」とか「売人」とか分かりやすい記号に頼りたくなったのかな。なんか、そういうことってあるじゃないですか。いっそ痛い方が楽、みたいな。痛いって知らないからそういうこと言えちゃうんだけど。

夜空を見るシーンと、電話のシーンが優しくて哀しくて、愛おしくて。

過剰な暴力シーンも、挟まるエピソードも、ぐちゃぐちゃになって死んでいくひとたちも
草太の楽人の名前を呼ぶ優しい声もオーバードーズした月海にお粥を食べさせる楽人の優しい表情も、ティーダの名前も
全部同じ世界で、なんか、あーそうだよね、そうなんですよね、って何度も噛み締めてた。
どうしようもなく、ロクでもないのに許せないものだってあるのに、幸せだって思って大事だって思えちゃう相手がいることは、なんてクソッタレな幸せなんだろう。


こんな酷い目に遭うよ、痛い思いをたくさんするよ、そう言われても、出逢いたい誰かの為に私たちが生まれてきたならなんかそれは、仕方ないな、なんて酷い愛おしい幸せなんだろうな。


なんてことを思いながら、三十路女はロマンチックな夢を見るか?を観たわけですよ。物凄い温度差覚悟ですよ。


あ、ベタだなーと最初に思って、でもああいう夢への嫌悪感というか気怠さとか、スキンシップと言う名のきっしょいセクハラとか、
なんか、そういうものがベタに、内包されまくってて。

映画を撮る彼に合わせてなのか、物凄く、こう、ガッツリ「お話」感がして

たまにガツンとうっわ、となる台詞が来るのにどっか遠くて、それは単純に共感が出来なかったからだった。
理解できないから、じゃなくて、なんか、うまく言えないんだけど。ヒロインに。
いや、分かるって何回も思ったんだけど、年齢も近いし。なんだけど、いやいやいや、でもその選択はしねえわ、って思ってて。あーこういうヒロインが一番苦手なんですよね、って思って。犯人がね、格好いいってのはめっちゃ分かるからね、余計にね。いやいやいやいやってね、なったね、そういう意味ではめちゃくちゃ共感してたのかもしれないね。

それを、こう、見事に、ひっくり返されだしたのがお風呂場での過去の自分と話すシーン。

観てる途中、だいたいお風呂のシーンの度にBUMPの才悩人応援歌、が頭の中に流れてたんだけど。隣人は立派、将来有望才能人、そんな奴がさ、がんばれってさ、ってやつ。
夢を見続けるのだって才能だ、と思うんだけど
そことは全く別の話として、好き、という感情を競っての劣等感、の描き方が、ああ、なんてこった、と思って。
好きなら好きでいいじゃん、と思いながら、彼女の言葉を借りれば誰か1人の幸せとか夢のために他の人が泣くみたいな、なんか、そういうこと、あるじゃん、ってここでものすごく思って。
好きなら好きでいいんですけどね、あ、この人私より好きじゃんなんかすいません、みたいなこと、思っちゃう時ってあるよね。でも、好きなのも本当だからそう思ったことが嫌で不快感が凄くて、それっきりバイバイしちゃうというか。

そう思うと、あの共犯の女性ふたりの設定のいい意味で悪意のある感じ、最高だな。あれ、主人公が切り離したいつかの自分の可能性なのかもな、それぞれ。それを「殺した」描写が入るの、とりようによっては、いくらでも深読みできるよな。

で、ここで上がったテンションは、ヒロインがしていく選択で、どんどん下がったんですよ。
え、まじで、そうしちゃう?え、ほんとに?え、え、うそでしょ、なんで?分かるけどなんで?
納得いかねーーーーーーーーわ!!!!!って、叫んで、え、これ実はぜーんぶ映画でしたってオチ?撮影でした、で締める?そうじゃなきゃ納得できないし、いやでもそうなったらすげえモヤモヤするーーーえーーーーーーーーって、叫んで、
で、ラスト、やられたーって笑ってしまった。
そうきたか、って気持ちのままエンドロールに突入した。


なんか、幸せになるっていうか、毎日ご機嫌に過ごすって、結局その人次第だし他人の目なんか知るかって感じだよね、自分で幸せかどうか決めなよって楽人と那奈に言われた気がした。勝手に分かりやすく不幸ヅラしてるより、そっちの方が百倍楽しいし、案外、おはようもおやすみもそんなに言えないから一回一回大事にしなよ、って。
夢の叶え方、なんてなん万通りもあるんだよな、と那奈に笑わされてしまったので、
ニワトリ星にいくその日まで、楽しくご機嫌に過ごそう。なんてことを人の形を取り戻した私は、思ったのでした。


サイテーなことは沢山あるけど、映画や劇場にサイコーが沢山あるように、たぶん、私の毎日にも、あるはずなので。

 

 

 

義経ギャラクシー

すべての始まりから、終わりを見よう

お芝居、としての感想は前回書いたので、今回はストーリーについて。もぐもぐから口を離して、書く。それは、私が書きたいから、書きたくて書きたくて、堪らないので、書く。

エストさんは、解釈が幾通りにもあるというかその仕掛けに気付いたかどうかで分かる話が変わる、みたいなところがあるので、
もしかしたら、観た方によっては何言ってんだこいつ、かもしれない。私の目を通して見たのはこれ、くらいで読んで頂けたら幸いです。
そして、もしこうじゃない?ってのがあったらご連絡ください。あなたの目を通した義経ギャラクシーの話も、したいと思う。

(前回のブログから引用)
物語は、義経と弁慶の、そして何より義経と頼朝のお話だ。
義経って結局どんな人だったの、ということを軸に彼自身が或いは彼を演じるある女優が、物語を紡ぐ男が、辿る。

銀河鉄道の夜は途中色んな駅、というか街並みを見る。銀河鉄道999では、色んな星を回る。なので、それにあやかって、順々に書こう。

 

・義仲と、巴御前

オラオラ度が増したふたり。
当て書きされるトクさんの脚本らしく、演じる役者が変わればキャラクターや表現が変わるし、となると初演と同じ役を演じていても当然、変化が生まれる。すごいね!お芝居って愛おしいね!!生きてる!
義仲の「お前らの描く天下に俺がいないのが気にくわない」の台詞が初演から好きで、そして今回、更になんだか切実な響きを孕んでるように思えてぐっときた。

なんか、あのふたりは可愛くて仕方ない。

可愛いからこそ、義仲の目指していたはずのものがどんどん変わっていってしまったことが切ない。どこで間違えたのか、どうしたら良かったのか。
オラオラのシーンもそうなんだけど、すごくこのふたりってピュアというか純粋で、だからこそ権力なんてものに目が眩んだのかな、とか。

つかこうへいシーンもすごく好きでした。ジャージ!笑

 

静御前義経

静御前ーー!!!!!!!!!
いやもう、絶対的ヒロインすぎるでしょう。
ずるい。ファンキーフォームも幻フォームもずるい。
弁慶のからかいも可愛いし、ムカつく!っていう義経もかわいい。もう全体的にかわいい。

宗さんのお芝居ってとてもチャーミングだなあ、と思う。チャーミングって言葉がこんなに似合う人がいるだろうか。
そして、野地さんのダンスはもう、やっぱり、すごい。熱量というか、こう、ガツンとした熱量というかしなやかな鞭みたいな強さがある。
それがまた、宗さんの静御前と相まって、めちゃくちゃいい。ふたり合わせてのダンスシーンは圧巻。

基本、ギャグとしての役割をふたりは担っていたんだと思うんですが、それでもやっぱり義経を慕う舞やラストの遺された女性たちのシーンではぐっとくる。ギャグじゃないんだよね、本当に、静は義経様のことが好きだったんだよね。

 

・きつね、たち

キツネ、こと佐藤忠信が愛おしい。
初演から愛おしい愛されキャラ担当、みたいなところがあったんだけど、竹内さんはまた、違った愛されキャラできたなあ、という印象。
ぴょんぴょん飛んでる渡辺さんの佐藤忠信に対して、竹内さんのはくるくる走り回ってるというか。
今回、改めて竹内さんのお芝居の可愛らしさと強さの同居した感じにめろめろになった。ちょうど、少年社中さんをお借りしてウワアアアアってしていたばかりだったので、それはもう、めろめろだ。

好きだったのは、名乗りのシーン。
いざという時は、俺の名前を名乗れと言われた佐藤忠信佐藤忠信、と名乗るシーン。
彼は義経様のことが大好きで、その忠臣である「佐藤忠信」が大好きだったんだな、とひたすらに泣いたシーン。その後、ギ ツネの話を知って、まさかもう一度泣くことになるとは思ってなかった。義経様のキツネだったんだね。


・奥州平泉と、平家の滅亡、もし、の話

コメディタッチなシーンが加わったことで、より明確に本当はあなたと共に行きたかった、という奥州の気持ちの切実さが増した。
無邪気なかどしょーさんのお芝居がそのまま義経がそこで過ごした穏やかで優しい時間を示すみたいで切ない。お兄ちゃんお兄ちゃん走り回るかどしょーさんはかわいい。
歴史物あるあるではあるけど、どこかひとつ、ボタンが掛け違えられればあったであろういくつかの未来についてこのパートではついつい思いを馳せてしまう。

そして、物凄い武器を携え、そして本気のアンサンブルさんたちの殺陣フルコースの平家滅亡。壇ノ浦だもんね!豪華じゃないとね!!!
エストさんのこういうシーンが大好きです。理屈なしに、さいっこうに格好いい。
やっぱりすげえ殺陣を観れるの幸せだな。最高だったな。格好いいんだよーめっちゃくちゃ。そしてトクさんの殺陣はワクワクするんだよー。
便利棒同士の戦いだって心踊るのに、更に騎馬戦とか最終兵器見られたらもう、最高に決まってるじゃないですか。


義経という人と、ミエテルという男
ヒーローとしての、や、弁慶の1番の友としての義経という人もですが、ここでは父親としての義経を思う。
ミエテル、は初演当時もかなり衝撃的で思い入れの深いキャラクターだった。
飄々として、メタ要素満載の女によく似た男、見えてる見えてない。
その彼が、由比ヶ浜にて斬り捨てられた義経の子どもであり、彼が義経を旅へと誘う。

僕はただ、父さんと遊びたかっただけなのに!!!!!

初演の悲痛なかつあどけない声が耳に残っていて、ハギーさんが演じられると聞いた時驚いた。私の中のハギーさんは、龍騎やPMC野郎さんの独りぼっちのブルース・レッドフィールドのハギーさんで、どちらかというと闇の色が濃かったり大人の色気が武器な人な気がしていたからだ。
しかし、ミエテルは子ども、のキャラクターだと思う私はそれはもうドキドキした。どうなるんだ?と一番思っていた要素だと言っても過言ではない。

前半のミステリアスさ、雲を掴むようなあのオーラ!
あーーーーなるほどこういうミエテルさんか、と前半しみじみと見てたんだけど

後半。
子どもとしてのミエテル。
前述した僕はただ、の台詞よりも私が今回ああああ、となったのは、その表情だった。
義経の、最後の台詞。
それを聞くミエテルの表情。なんて、優しい表情をするんだ、と呻きたくなった。うそでしょ、とも思った。

義経は、少なくとも義経ギャラクシーにおいては自分の思うまま、感情のままに生きた男だった。好きな時に、好きな人と好きなことをした男だった。
ある意味で、父親という像からは遠いのかもしれない。
だけど、子どもであるミエテルはめちゃくちゃ優しい顔で、なんなら嬉しそうに義経の台詞を聞くんですよ。
何度も繰り返した彼ら、は、ミエテルも一緒だったのかな。そんなことないかな。もし、一緒だったらいいなあ。
思うような、ただ父さんと遊ぶ、の旅とは程遠くても、一緒に旅をできたなら、出来なくても、その姿を近くで観れて、だからあの表情なら、こんなに優しいことはないって思う。


・頼朝という人と、それを見ていた北条政子という女
さて、初演と変わって、というならば、私個人としては頼朝さんに思いがけずぶん殴られたような気持ちになったのが、1番の変化だった。
あの、Nゲージの断捨離シーン。リア充になるとはこういうことか、と叫ぶシーン。
頼朝さん、ずるくないですか。
冒頭も白鳥の湖で笑わせにきたと思いきや、リア充、の台詞だって一見すればギャグのはずなのに、実際、笑ってるお客さんも多かったのに。
当たりどころによっては致命傷まで持っていかれるような、あの、熱量。台詞に込められた感情。
込められた感情もなんだけど、そっから一歩先、の意味合いがしんどいんですよ、しんどかったんですよ。
だって、あの台詞とその感情だけなら、そういう気持ち、で、リア充として割り切ってってなりそうじゃん。
でもそうじゃなくて、そんなんあまりに幸せってものから遠いでしょ、そりゃ義経も兄さんは何がしたかったのって聞くよ。
ところで、でもそれを不幸と切り捨てるには北条政子の愛情が優しくてというか切実で、そこもなんともにくいところですね。

死んでしまえば、何もない。

あの台詞の切なさは、今回、残された人々の舞も相まってぶん殴られた気がします。
交互に読まれる平家物語雨ニモマケズの一節。
木偶の坊と呼ばれ、じゃないけど、それで良かったのにね、と思う。
天下を取らせたかったのも一緒に過ごす時間の為というか、長く幸せに生きてて欲しかったからか。
天下を引き継ぐのは、彼が生きた証をなるべく幸せな最高の形で示し続けたかったからか。
百点満点の幸せの、なんと難しいことかって思う。

 

・演じられる彼らと演じる彼ら
柔らかさが増した気がする現在の祭りパートの義経と弁慶、を演じる大女優とそのファン。
荻窪さんのお芝居は柔らかくて、繋ぐようなイメージが強い。客席と舞台を繋ぐ、繋いで、連れて行ってくれる。
そこに、土田さんも加わったのでその印象が更に増した。
ひとつひとつのキーワードはぽつぽつと降ってきて、だけど大袈裟すぎず、沁み込んでいくみたいな。
あと、ラスト泣くので、尚更、彼らのあっけらかんとした語り口に晴れ晴れとした気持ちにしてもらうというか。
どっちでもいいか、って言い放つ荻窪さんも、それを見る土田さんもめちゃくちゃ素敵だった。さわやかな青みたいだった。

そして、そこに加わるリーさん演じる宮沢賢治風の男。

彼が今回再演されるにあたって、正確には義経ギャラクシーハイパーになるにあたって登場した理由を考える。
それは、ラストの諸説あり、の流れに加わった物語の受取手が、それにメッセージを加え発信することができる(少し記憶が曖昧なので私なりに噛み砕いた表現)という言葉を考える。
銀河鉄道の夜では、実際に起きた事件が旅の途中、出てくる。
そういう意味では、宮沢賢治はああした事件や事故を受け止め、メッセージを加えて発信したひとだ。

どうありたかったの、何がしたかったの、と聞いた義経の言葉を思い出す。
荻窪さんのどっちでもいっか、という言葉を思い出す。

宮沢賢治は、あの物語でこうあればいいな、を描きたかったのか。
義経ギャラクシーは、トクさんは、義経ギャラクシーでこうあればいいな、を描こうとしたのか。
なんて、つい、飛躍したことを考えたくなってしまう。
だけど、それだってありなんじゃないかな。ねえ、どうでしょう。

義経と弁慶

私は初演で弁慶は義経の執着に縛られてるんだと思ってた。
定家葛という能がある。
百人一首の選者でもある定家に愛された式子内親王が身分違いの恋に死後も悩まされ、霊となってしまったことにも焼かれるように苦しんだ彼女を成仏させる話。
なんか、私はてっきりそういう気持ちなのだと、初演を観ながら思っていた。
執着され、何度も何度も繰り返し、契りおきし、その執念を嬉しく思いながらも思うからこそ、その運命の輪を断ち切ろうとするラスト。
(そこで、友としてっていう弁慶が好きだ。部下ではないし、忠臣でもないんだよね、友として、なんだよね)

ところが、再演で、あれ、これ弁慶がループさせてるのか、と思い至ってハッとした。
んんんん、弁慶がループさせてるっていうとなんか語弊があるぞ。

メーテルで、魔女は、弁慶だったのか。

義経が死なない未来がほしくてだけどそのせいで何度も何度も繰り返し、義経を死なせてしまった弁慶の気持ちを思う。もうお前にはなにもあげるものはない、と叫んだ弁慶の姿が目に焼き付いてる。
そして、お前に殺されたい、と口にした義経の姿も。

お前に殺されたい、って台詞を聞いた時ああとうとう言ってしまった、と雷に打たれたような気持ちになった。初演にはない台詞だった。
死なない未来が欲しかったわけでも、死にたくなかったわけでも、天下が欲しかったわけでもない。
欲しくなかったわけでは、勿論ないけど。


どうしたいの?何がしたいの?と義経が頼朝に聞くシーンがある。どんな天下をとりたいのか、と続けて、兄さんは本当は何がしたいの?と。
なんか、それを聞いた義経がお前に殺されたい、と言ったのが、すごく、なんだか心に刺さってしまって。
互いがあまりに大切で一番で、だけど、義経と頼朝がそうなように、義経と弁慶も、ずっと一緒にはいけなくて。

泣きじゃくる義経を見る弁慶の静かな表情が印象的だ。
もう、たぶん、ふたりは運命なんだな。運命なんだか、宿命なんだか分からないけど、もうその袂は別てないんじゃないかな、というか、袂を分ける気なんてないでしょう。分けようと、少なくとも弁慶はその手を離そうと何度も踠いても結局その手を選んじゃうんだよね。それを静かに受け入れるような、弁慶の表情が好きでした。

動けないながらも弁慶、義経様を殺させていただきます、ってするんだけど。
もうあれ、ずるいよね。手を引いて走り出してしまうの、弁慶、ほんとずるいよね。ああザネリ!って私はあのシーンを見るたびに思います。ただここで銀河鉄道の話まで始めるといよいよ収集がつかないから、割愛するよ。
あそこで、動けてしまうのも、本当に義経の「ヒーローパワー」を思わせるな、と考えたけど、違うか、そんなんじゃないか、あれはただただ、義経と弁慶の人としての思いの力かな。そう思った方が、私は幸せだな。

 

諸説あり、と物語は受取手によって想いを添えられ、語り継がれるという話。

以上が、私にとっての義経ギャラクシーだ。私の想いを添えた、義経ギャラクシーという物語だ。あなたには、どんな物語に見えましたか。

義経ギャラクシー

人って生きてるんだ、という物凄くシンプルなことを時々忘れることがある。
ので、クエストさんを観ると私はいつも、あ、人って生きてた!かっけーんだった!とビックリする。人ってどうしようもないとこもあるけど、すっげー格好良くてきらきらしてて優しいんだ!と堪らない気持ちになる。

これは、だいたい義経ギャラクシーへのラブレターです。
ネタバレもあるかもしれません。でも、どうか、もし気になったら明日王子にある北とぴあを訪ねてください。
ネタバレ読んだのにか!って言われそうですけど、たぶん、ネタバレにならないです。
だって、生きてるその人が口にするその台詞はその時にあなたが聞いた唯一の台詞だからです。


物語は、義経と弁慶の、そして何より義経と頼朝のお話だ。
義経って結局どんな人だったの、ということを軸に彼自身が或いは彼を演じるある女優が、物語を紡ぐ男が、辿る。


エストさんが、すっげー好き、と思うのは
どんな物語も真っ直ぐでシンプルで、例え時事ネタを放り込もうが何しようがただ、そこにはシンプルな、事実とその役のその瞬間しか存在しないことだ。
ありきたりな言い方をするなら、説教くさくない。だから、素直にぽんと受けとれて、うん、そうなんだよって呟いちゃう。
で、なんでそう思うのかなってのを考えたんだけど。
単純に、いやこの人たちもう限界のリミットギリギリのとこでやってんじゃん、と思うからなのです。ギリギリってのはギリギリ越えてんじゃん!のほう。
そんか極限状況の、ブラック西遊記風に言うなら「リミッター解除ォッ!!!!!!!!」の彼らが口にする言葉に変な建前とか格好つけとかあるわけなくて、あるわけないのに、ないから、あんなに格好いいんですよ。

あれって、生きてる人間だから、出せるものだと思う。出せるものであってほしいし、出せる、ということが私は嬉しくて仕方ない。
で、その、出逢ったのは私も映像なのでアレなんですけど、映像でも伝わるものはあると思うんですけど、生で観れるってのはまた、意味がプラスαされるんですよ・・・。
いや映像で観るのも格別なんだ。体調悪すぎた時にひたすらベニクラゲマン観てたら治った私が言うんだからそれはもう、間違いないんだけど。


だって、サンタさんに生で会えたら嬉しいじゃないですか。河童と本当に相撲とれたら楽しいと思うし、もう目の前で人が人の力だけで空飛んだり指パッチンして花を咲かせたら、それだけで人生って最高って思うでしょ。

 

そういうことなんですよ。
奇跡って、あ、ちゃんと起こるんだ、そっか。みたいな。やべーな、まじか、みたいなそんな気持ちになると思うんだ。私はなるんだ。

そして、今回の義経ギャラクシーはあなたはどうありたいの?って話な気がするんだ。
気がするかーい!ってかんじですね。でも、感じたものを今むりくり言語化してるので。。寝かしたらまた変わるかもしれないし。
でも、とりあえず今はそう思う。
どうありたいの、何がしたかったの。
それぞれが見つけるものは、色々で、そのどれもが正解だ。

たぶん、観た人たちもそれぞれ見つけてるんだと思う。私はそれが聞いてみたい。だから、尚のこと、こんなブログを書いてる。

結局ストーリーには触れられそうにもない。なんか、書いてて気付いたけど、まだ消化できてない。というか、消化したくないんだと思う。美味しいものずっともぐもぐしてたいってのに近い。
ただ、観終わって客席が明るくなっても私はひたすら泣いてたかったし、嬉しいなーと思っていた。すげー人が生きてるし、私も生きてる、すげえ色んな物語がたくさんあって、そこにも人がいて、すげえ、みたいな、なんか、そんなことがひたすら頭の中を駆け巡ってた。それが、すごく、幸せだった。

そんな舞台に、出逢えてよかった。どうか、明日も、たくさんの人があの舞台に出会えますように。
私も消化して、ストーリーについて書く!書きたいことは!たくさん!あるんだ!スケッチブックに殴り書きしてからにします!!!!

犬猿

私には姉と弟がいる。所謂、真ん中っ子だ。
だから私は妹で姉なわけで、そんな私は犬猿をひたすら呻きながら観ていた。途中、映画館を出たいとすら思った。


映画.comさんの解説から、あらすじ。

「ヒメアノ~ル」の吉田恵輔が4年ぶりにオリジナル脚本でメガホンをとり、見た目も性格も正反対な兄弟と姉妹を主人公に描いた人間ドラマ。印刷会社の営業マンとして働く真面目な青年・金山和成は、乱暴でトラブルばかり起こす兄・卓司の存在を恐れていた。そんな和成に思いを寄せる幾野由利亜は、容姿は悪いが仕事ができ、家業の印刷工場をテキパキと切り盛りしている。一方、由利亜の妹・真子は美人だけど要領が悪く、印刷工場を手伝いながら芸能活動に励んでいる。そんな相性の悪い2組の兄弟姉妹が、それまで互いに対して抱えてきた複雑な感情をついに爆発させ……。


人って、その人自身の人生しか生きられないんだ、という事実に愕然とした。
当たり前のことを言ってる。自覚はある。だけど、この映画を見た直後、そんなことを叩きつけられた気がした。

出てくる4人はそこそこに最低で、平凡で隣にいる誰かで、そして自分だった。
和成はまともに見えてそんなことなく、卓司はそのままどうしようもない。
由利亜は物分かり良く見えてめちゃくちゃイタイ、し、真子は可愛いけどどうしようもない馬鹿だった。

対称的な4人を描いた映画なのでところどころ、対称さを際立たせる演出がたくさんある。
シンプルで、その分悪意のある映画だと思う。

私が、この映画を観ようと思ったのはそれでも自分の兄姉を馬鹿にされて不快感を滲ませるシーンを予告で見て、ああとノックアウトされたからだ。
ちゃちな所有欲なのか、それとも下の子特有の兄姉への憧れか。たぶん、その両方なんじゃないか。

私は、姉と弟がとても好きだ。敵わないと思ってる。何でも器用にこなすし、人付き合いだってうまくてしっかりしてて。自分にないものばかり持ってるふたりを尊敬すると同時に、粗を探したくなることがある。


マウントの取り合い、とは最近よく聞くようになった言葉だけど、エゲツないそれは血縁関係ほど起こりやすいんじゃないか、と思う。

そのくせ、バカにされたくないのだ。
バカにされれば、お前に何が分かるんだよ、なんて分かりやすい敵意を相手に出しちゃう。

生々しいと思った。
人殺しみたいな目をして運転席に座った和成も、真子がデート場所にあえてあの遊園地を選ぶのも。

生々しさって時々、ゲージュツみたいなものに昇華されちゃってほらこんなに惨いでしょ、汚いでしょと見せられることがあってそういう時私はうげえって思ってしまう(ので、圧倒的にエンタメが好き)なんだけど、犬猿は昇華なんて一切してくれてなくて、ほい、みたいな手軽さで渡してくる。
ので、思わず受け取っちゃって、そんで呻くことになるのだ。

なんか、ダメだな。うまく文になりません。というか、感想を書こうとすればするほど、感覚の話になるし、自分の話になる。


どこにでもある、目の背けたくなるようなイタさとかズルさがそのままに横たわる映画だった。
親の介護とか、しみったれた空気感とか、ほんの少しの昇給を喜ぶしかないままならなさ、とかあいつの方が自分よりうむくいってるっていう妬みとか、醜さとか、なんか、そういう、どうしたって纏わりついてくるもの。
そういうのを、全部捨てたいって思ってるのに思えば思うほどにぴったりと寄り添ってくるような。それをただただ見続けてるみたいな。

由利亜の勘違いした恋愛行動がすごく辛かった。
一喜一憂して、勝手に深読みして好かれてるって妄想して。恋をすれば女の子は綺麗になるなんて戯言でしかない、みたいな。
でも彼女も決していい子ではないのでただただ悲しくなるというよりかは、なんだろう、あの不思議な感じ。

ひたすら、一言で纏めると「人は自分の人生を生きるしかないんだ」っていう、ただそれだけなんだけど。

和成は決していいやつじゃなくて、というよりむしろ、私の中で一番最低だなこいつ!と思ったのは和成だった。
直接的な残酷な行動をほとんどしないからこそ、酷い。
絶対由利亜の気持ちに気付いてて、気持ち悪いとだってきっと思ったことがあって、なのにふつうの顔をして、いい人だよとか宣うのだ。監督の一番嫌いな人間を描いたってインタビューに、思わずですよね、って呟いた。でもいるよね、こういう人、こういう自分。

いい人でいたくて、好かれる自分を妄想していたい。
好かれるってのは恋愛感情だけじゃなくてなんかもっと普遍的な日常的な感じ。
いい人って思われたい、褒められたい。承認欲求、なんていうとちょっとズレちゃう気がする。もっともっと、みっともない気持ちだ。


悪意とかイタさとか憎しみとか侘しさとか悲しさとかそういうの全部引っくるめたそんなアレコレが物凄いし、そのくせ、ああいう時そうだし、その時何を言うかもそうだし、笑っても許したわけじゃないし、許してなくても笑えないわけじゃないよな。


見捨てたいって思って、死んでしまいたいって死んでしまえって思って、そう行動する彼らがボロボロに泣くことも、
だって、私たち仲が良かったじゃんってお前、俺のこと大好きだったじゃんって言うあの数分間。
とんでもなく、幸せだと思った。
なんだって連続してて、だけど、きっと明日にはまたあの目で睨み合ったりするのだ。消えて無くなってくれって願ったりするのだ。

人はその人の人生しか生きられなくて、もしかしたら一生ダサくてみっともなくて勘違い甚だしくて迷惑なのかもしれないけど、
どこかの瞬間、大切だ、って思える日がくる。その日が例え過ぎて、また睨んでも、その睨む日だって、大切だって気付いたその日の続きだ。

 

なんかもう、諦めるしかないなーと私は笑ってしまいたいような泣き崩れたいような気持ちに、なったのです。

ワイルド・ヒーローズ

2015年に放映されたドラマをHuluで一気見した。
熱くてかっけードラマが、大人ってかっけーんだぜ!って背中を叩いてくれたような気がする。

 

あらすじはこちら(wikiより
「主人公と、高校時代の悪ガキ仲間による7人の友情」をテーマに、かつてヤンキーだった主人公が、6人の仲間とともに少女を救うというストーリーである。

10年前、100人vs6人の2つのグループの抗争にて、先方に果たし合いを申し込んでおきながら対決の当日に姿を見せなかった6人のグループのひとり、キー坊。その一件でグループの絆は大敗と共にバラバラとなった。

10年後、敵も味方もそれぞれの人生を歩んでいた。サラリーマンとなったキー坊は転勤で、苦い思い出のあるかつての地元に戻ってきた。そんなキー坊に謎の少女が助けを求めてきた。窮地に陥ったキー坊は、かつての仲間に助けを求める。それは、少女を救う戦いと同時に、バラバラになったかつての絆をつなぎ直す戦いの始まりでもあった。

 

 

裏切りから始まった物語において、こんなに見事な展開、結末があるだろうか。

1話、うだつのあがらない多分そんなに仕事ができるわけではない営業マンのキー坊の姿はお世辞にも格好いいとは言えない。ちょっとズレてるし、空回ってるし、そして何やら伝説のヘタレ、なんて呼ばれてるし。
そんなキー坊が記憶喪失の少女をヤクザから守ろうとすることから物語は加速する。

 

 

勝つまで負けるな、とキー坊は少女に言う。自分で負けたって思わなきゃそれはいつでも勝つ途中だ。

 

 

キー坊が伝説のチーム風愛友のリーダーで、かつ、100対6という無謀でしかない喧嘩でひたすらに待たれていたのは、その心が理由だ。キー坊がいれば、負けっこない。彼は勝つまで、諦めないから。

 

と、同時に彼の喧嘩にこなかった理由がミッキーから語られる。
空っぽの背中については、映画デメキンでも散々考えたんだけど、ここでもまた「背中が空っぽでいていいのはガキだけ」という事実が叩きつけられて、呻いた。

情けなく見えた冒頭のイメージは完全に後半覆る。それどころか、前半で情けない、と見えたからこそその格好良さは際立つ。


つまんねえな、とかつて総長と呼ばれ慕われたヤクザにキー坊が言う。つまんねえな、こんなもんなのかよ。大人って、こんなにつまんないもんなのかよ。


青臭いと一蹴されそうな台詞なんだけど、私はこの台詞にめちゃくちゃ打たれた。
キー坊は、だって風愛友時代めちゃくちゃに格好良かったのだ。100対6だろうが、そいつがいたら勝てるって言われるくらい。その人が、情けなく見えたこと、だけど今でも知らない少女ひとり守る為に身体を張れること・・・再会したばかりの友人を、信じ切れること。

 

格好いい人がただ格好いい以上の、優しさがそこにあると思った。

 

そう思ったのは、ミッキーのキー坊と再会した時を振り返る台詞も刺さったからだ。
ミッキーの何で今なんだちくしょう、という言葉はキー坊のつまんねえな!と張るくらい、グサグサぐらぐらくる台詞だ。


ボケたお婆ちゃんを介護するミッキー。
お婆ちゃんを背負う彼の背中は曲がってるし、見ようによってはあの年齢の彼がああして介護に関わることを「可哀想」という人もいるのかもしれない。
ミッキーはかよちゃんが好きで、だからそれを不幸だなんて思ってない。私も、そして当然風愛友のメンバーもそんなことを思いはしないだろう。
だけど、同時に「不幸」「可哀想」と言われてしまう現実を知っている。
そして、やっぱり、好きだから大変じゃない、なんてことは絶対にないのだ。
そう思うと、友人との再会で見られた姿がこの姿だったことをちくしょう、と思うミッキーの気持ちは苦しくなるほど、分かる気がするのだ。

 

 

大人ってつまんねえな、ダセェな、なんて気持ちは私たちの日常にも転がっててそれじゃ頑張ってきたはずの今までがあまりにも可哀想でなんとかできないかって足掻いてる気がする。
そんな気持ちを、キー坊のつまんねえな!って言葉や俺だってあの時殴られたかったよ!というストレートすぎる台詞に気付かされた。

 

 

ワイルド・ヒーローズは大人の為の物語だ。
一回は負けたことがある大人がもう一度勝つ為の、勝つまで負けない物語だ。

 


そうして、日花里と出会ったことでかつての友達とまた友達、に戻ったキー坊はひかりを守る為に色んな相手と戦うことになる。

かつての、少年時代の恩人である刑事と。
警察やヤクザ、謎の宗教団体を語った人殺し集団。

 

どのエピソードも大好きなので思いつく限り感想を書きたい。
ストレートな台詞や展開が多くて、どれも真っ直ぐに殴られ続けたので、もう、本当に!だからこのドラマ大好きなんですけど!!

 

キー坊が、赤木さんに言った、
大人は格好つけろ、というのは残酷なように見えてめちゃくちゃ優しいメッセージだと思う。
人間「大人」として過ごす時間の方が長いんだから。格好つけろ、格好いいぞっていわれることがどれくらい背筋を正してくれるかって話ですよ。
赤木さんに言う台詞はとんでもない子どもの我儘にも思えるんだけど、あれを「つまんねえ大人」でもあり、かつ日花里に背中を見せてる彼らが言うのはある意味、宣誓じゃないですか。
というか、なんか、楽になりたいってのはあるけど、格好付けるからこそ立てることってきっとあって。だから、あそこで最後まで格好付けろ!って言うのはすげえ優しくて大切なことなんじゃないかなあと思う。し、赤木さんの嬉しそうな笑顔がすごく好きでした。
自分が「格好いい大人」だったからこそ、キー坊たちがあんな風に格好つけれる大人になったっていう事実は、物凄くすごくて幸せなことだと思う。
し、それを生きた意味って呼んでもいいんじゃないですかね。
自分の生きた意味を決めるのはきっと自分だし。

 

 

さて、そんな赤木さんを殺し独特な存在感を示した前田公輝が演じた殺人鬼について
まず、彼の名前がまもる、なのが脚本家の確信犯っぷりをかんじて、いやーーーずるいよーーー!!!!
まもると日花里のやりとりが緊迫感もあるんだけどそれ以上に可愛い。ぴーぴーラムネが愛おしくなる。
そして、彼のエピソードでもっとも殴られたのは「何故人を殺したらダメか」のやりとりだ。
この問いには古今東西、色んな答えが色んな表現で提示されてる。
その中でワイルド・ヒーローズでこの問いを語りかけられたまもるは言う。彼にとってはきっと世界の中で唯一の母親を撃たれた彼は言う、「悲しいからだ」
まもるが実際に自分も大切な人を喪うかもしれない、という局面で知った「悲しい」というシンプルすぎるでも絶対的な事実。
それまで意思の疎通、思いの言語化をほとんどしなかった彼が、かなしい、ということ。
もう、ほんと、説得力!というか。
経験を持っての言葉すぎて、それをありきたりだとか綺麗事だとか、そういうの全然追いつかない感じ。
だって、あの瞬間ほんとにまもるは傷付いてて、悲しいって思ってて、もうそんなん画面があるとかないとか関係ないじゃないですか。

 

ワイルドヒーローズの彼らは、作中色んな経験をして考えて感じて、言葉を吐く。
そんなことを、私は見ながら何度も思った。

 

テンテンの、父親としての台詞がそれを踏まえてもすんばらしくて、すごい。
どこまでも語彙がない感想だな!
奥さんに言う、俺たちの子どもがもし記憶喪失になって俺たちと離れ離れになっちゃったら、のもしの話をするテンテンが愛おしい。
その祈りを、俺は受け止めたいんだよ。
なんで日花里を守るのかってのが、こんなに優しい答えで提示されるワイルドヒーローズが大好きだ。
それは前述した綺麗事、にも繋がるんだけど、
日花里の笑顔を守るのが彼らにとって幸せになること。この世界をちょっとはマシだと思えること。いつか、大事な人を守る何かになるかもしれないこと。
お父さんなんだなあ、テンテンは。すごくお父さん。背中の重みについてはさっきも書いたのでここでは割愛する。だけど、その背中が大きくてそれが物凄く幸せで、格好良かった、と書きたい。

 

ポンジャラとピーちゃんの、名脇役っぷり。
このふたりのコンビ感と、ちょうどいい存在感は一体なんなのか。
おバカキャラで、わりとけらけら笑ってる気のいいお兄ちゃんなふたり。
彼らの生活パートも、ふたりでふざけてるところもすごく好きなんだけど、それ引っくるめて最終回の台詞に痺れずにはいられなかった。

 

 

ダサくてもいいと思っていた。
その方が楽だった。
格好悪いんだって諦めた方が、楽だった。

 

 

おバカコンビなんだけど、このふたりには嫌味がない。当然、へんな卑屈さもない。屈託無く笑い、ふざける。
自己卑下もなく、誰かをバカにもしないから私は安心して彼らの笑顔が観れた。
その、彼らが言った「諦めた方が楽だった」
もう、あの、フルコースか。
フルコースなのか。
大人になるまでに置いてきたり見て見ぬ振りしてきた色んなものを大事に拾って見せてくれるコースなのか。
ふたりの俺たちはすげー格好いい!の台詞に強く強く頷くしかないじゃないか。
格好いいんだ、めちゃくちゃ格好いいよ。

奥さんが寂しくないようにポチらせてあげて自分は天ぷら我慢するピーちゃんも。
万引きを、注意するんじゃなくて目の前の人そのものと話そうとして怒られて頭下げてするポンジャラも。

も、めっちゃ格好いいよ。
何よりそうして笑ってきたふたりはすっげー強いよ。

 

 

最終回の台詞の流れで、私的もうひとりのこのドラマの主人公チョコの話をする。
この岩ちゃんさんはもう、すごい。
さっきからすごいと格好いいしか言ってないことには薄々気付いています大丈夫です。
ひりひりしたどうしようもなさと、それを覆い隠せる陽の空気感を作り出す表現。
そこから生み出される悲しさったら。

背中で背負うものがあるからこそ、生きていけることについて。もうひとりの主人公のように、チョコが見えたこと。愛ですよ、愛せてますよ、チョコさん。

 

自分のせいだ、と何かを失った時に思うことはしんどい。
自分のせいだ、と思いながらそこから目を逸らさないことはまるで生き地獄のようなものなのかもしれない。どこを見てるか分からない目で、あの幸せの記憶を聞くチョコを見ながら思う。
俺といても寂しいでしょ、というチョコのチョコにとっての彼の命の重さ。どこにいても、宙に浮いてるみたいでそれがそのまま自分の命の価値だと思ったこと。

 

チョコが無茶なことする時って決まって仲間の為なんですよね。とか言いつつ、1話でキー坊を売ろうとするのも彼なんですよ。
何が言いたいかというと、無駄な自殺行為、自傷行為をする人ではないということ、なんだけど。そして、投げ出すとしたら仲間の命のためだってことで。
もうそれはそのまま、彼の命の意味で、仲間の命の意味じゃん、というか。
それは、ミッキーたちがいう通り悲しいし、そんなに軽くねえよ、なんだけど。
でも私はこうして文にしながらいやでもやっぱり、自分にとって大切な人の命と天秤にかけること、の時点でかなり、チョコの心の柔らかさに触れるようで愛おしいけどな。もちろん、その上でそこそこ重いんだよ俺たちにとっては、というミッキーの言葉を受け取って欲しくはあるけど。

 

いったん、ちゃんと寂しくならないと、といったことも。
そうして、向き合おうとすること、守ろうとすること。考えること。
それはもう、愛ですよ、チョコさん。

 

 

「あなたに褒められたくて、喜んで欲しくて、そうすれば生きていてもいいんだと思えるような気がして」


生きる、がなんでかみたいなことがこのドラマの中には何度か描かれる。
美史さんが言った死にたくなる時のこともそうだけど。
なにもかも考えたくない聞きたくない見たくない。
その対になるような。
生きてていいと思うこと、生きててくれてありがとうということ。その理由を誰かの中に見つけていく彼らが愛おしい。そして、誰かに見つける以上、自分もそんな風に思われてるんだ、とチョコが理解するまでの流れが愛おしくて切なくて、めちゃくちゃ泣いた。


キー坊がメロスに言った助けてくれるから仲間じゃねえ、助けたいと思うから仲間なんだ、という言葉を考える。
仲間を知らないメロスが、仲間を失ったことがあるキー坊と、同じように仲間、を知っていく。
メロスはいい子だ。
し、ああしてメロスが心配したり怒ったり泣いたり喜んだりすることの、生きてる!みたいな動くぞ!みたいな感覚はなんだろう。
あそこの空気が淀むことはない。
それは彼だって新鮮な空気を吸うことだけど、間違ってないぞって背中を押してることでもあるんじゃないか。
赤木さんが、キー坊の名刺を見て笑ったみたいに。
そのあたり、メロスって絶妙なバランス感覚で立ってる。仲間で、同時に指標となる子ども。自分の背中は見せるに値するのか、恥ずかしくないのかの定規みたいに。

 

 

何度もキー坊が裏切られたのはある意味で物語の本質があるというか。

最初に「裏切った」のはキー坊だ。
事情はどうあれ。それは変わらない事実た。
その上で、その彼が裏切られ続ける。


裏切りごと信じられるか。
信じてもらえるということ。
それが、どういうことなのか。


100対7の喧嘩に最後追い詰められる。それは、いつかの記憶の続きで、絶対的な変化だ。

特攻服を着たこと
総長も、あの頃の服を持ってると言っていた。当たり前だ、捨てられるはずがない。
ダサくて、素直に着るにはちょっと恥ずかしい。
だけどそれは変わらずに、彼らの手の中にある。


お前は、お前だ。
お前は誰だ。
俺は、俺だ。