えす、えぬ、てぃ

お芝居の感想など

EXILE PERFECT LIVE 2001→2020

今回、いつものフラッグと一緒に無線での演出ライトがグッズの一つとして出た。
座席情報を入力し、ぱちぱちと光るライトを見ながらドキドキしつつ開演のその時間を待った。


ペンライトを初めて使ったのは登坂さんのFULL MOONの時で、次は敬浩さんの道の駅だった。どちらもその時観たステージの上はもちろん、客席の光も含めて目に焼き付いてる。
だから、今回の演出はとてもとても楽しみだったのだ。

呼吸するように、或いは、少しずつ広がって。もしくは盛り上がりや興奮をステージにいるEXILEさんたちに伝えるみたいに。ぴかぴかと光るライトが本当に美しかった。

 

2001→2020のツアータイトルの通り、セットリストとしてはメジャーどころを押さえながら、さまざまなEXILEさんの魅力を伝えてくれる。
そんなライブの幕開けが「愛のために」スタートなのは、なんて優しくて素敵なんだろう。


https://www.youtube.com/playlist?list=RD6ONNY2xn5Bo

もう私、この曲のMVが発表されてからとてもとても大好きなんですよ。
歌詞がとても優しくて、それを歌ってパフォーマンスするみんなの顔が優しくて。なんか、聴くたびに元気になるし、ああこの人たちはこういうことがしたいんだなって心の中がじんわりあったかくなる。
Love Dream Happinessなんて、最初はすげえ会社名だなって困惑したんだけど、ずっとたぶん、それがしたいんだろうなあってこの曲を聴くたびに思う。綺麗なものを信じる人たちが、とてもとても好きだと思う。
テレビでがっつりパフォーマンスを観てから、更に好きになって、直人さんが特に大好きなのでじっと目が追いがちなんだけど、
ここにいるよって言うみたいに胸を叩く姿に毎回泣いてしまう。


それが、生でパフォーマンスされるのがさ、本当にさ。
しかもたくさんの子どもたちと一緒で、綺麗なステージで、それを何万の「今日」を楽しみにしてた人が見つめてて、嬉しそうにしてて。
あの時間、本当に幸せだったな。


それから大好きだったのはLover Again→Ti Amoの流れですよ……。
もともと、悲しみを表現するダンスの雄弁さに毎回痺れてはいるんだけど、今回の「お芝居」寄りの演出とSECONDメンバーの良さを活かしきった構成……もう……本当に……天才……。
歌声×演奏×パフォーマンス×お芝居が掛け合って何倍にもなっていく。その姿が、本当に…!
LDHの、色んなことにチャレンジしていくメンバーが大好きなんですが、その良さを感じる演出でもあったなあと思う。色んなことができるの、すごい。
そして、そんな中でパフォーマーの切ないくらいの熱量が本当に……耳がきいんってなるくらい大好きでした。伝える、って本当に凄いことだな。
大好きなTi Amoも、敬浩さんをめちゃくちゃ堪能できて幸せだった。歌い方の感情の豊かさもだけど、表情が大好きで。


あれだな、ステージ観てる間、ずっと好きだ、と思っていたな。
最初観に行った時は、なんで好きなんだろうってずっと考えてたんだけど、あれもたぶん、なんか、あまりに好きで不思議だったからだと思う。
とても、好きだと思うことは幸せなんですが、幸せだから余計にこれが変わってしまうことを(それは相手ではなく自分が)怖いというか寂しいと思うし、だから余計に「なんで好きか」を知りたいと思ってしまうのかもしれない。
理由が分かれば、好きで居続けるための方法もわかる気がして。
でもさあ、そんなん、たぶん無いんですよ。無いというか、そんな、言葉が追いつくわけがないんですよ。
だって、めちゃくちゃ幸せだったし、好きだったし、格好良くて綺麗で、最高だったし。
語彙力がなくなるとかじゃなくて、たぶん、そこに在ることが嬉しいんだ。そんでたぶん、それはいつか失くなってしまうからこんなに愛おしいんだな。

そんなことを、誰かを苦しいくらい想う曲を聴きながら思っていた。だって、好きなんだもんな。好きだけじゃ、しょうがないって知っても「もし」って考えちゃうくらい。


それから、パフォーマータイムが、もう、最高で。なんか、逆に最高じゃない時あったんか?ってくらいなんですけど。ないわ。
各兼任グループの曲を使いながら「彼らのパフォーマンス」を堪能するの、やばくないですか。
ああ、この人らすげえぞ!とめちゃくちゃに興奮してしまった。たくさん持ってるカードを見せてもらったというか、その上、ステージ上のパフォーマーのみんながめちゃくちゃ格好良くて楽しそうなんですよ。
EXILEさんって、すげえな。格好良い人がたくさんいるな。
それぞれに良さがあって、楽しいことが詰まってて、大好きだな。


昨日から、振り返ってて。
詳細に書けるような記憶力はないけど、思い出す光景全部が幸せでした。
演出ライトの光がステージに届いて、それを楽しそうに見つめる彼らがいて、本当にあんなに優しい光景はないね。
「こんなにも大きな愛になって包まれてる僕がいたよ」なんだな……。

ステージって、本当に一瞬で消えてしまうし、
形として残るものは心の中にある幸福感を表すにはどれも足りない。
ただ、あの時あの瞬間、あそこにいた私たちの気持ちの中にはずっとずっとあるんだな。大好きで、大切な時間だったな。

だとかを考えたら君との思い出離さない、という歌声に強く強く、肯く。忘れないし、離さない。
例え、記憶として薄れてもなくなるわけじゃない。ああもう、幸せだったなあ。

mellow

別に、映画に救われなくて良い。
劇的に何かが起きなくたって良い。
ただ約2時間くらい、優しくて可笑しくてあたたかな空気の中にいた。それだけで、十分、奇跡的みたいな話じゃないか。


なんとも不思議な心地になったので、ゆっくり煮詰めて考えていたらそんな結論が出た。

公式サイトより、あらすじ

 

オシャレな花屋「mellow」を営む夏目誠一。独身、彼女無し。好きな花の仕事をして、穏やかに暮らしている。姪っ子のさほは、転校後、小学校に行けない日がたまにある。そんな時、姉は夏目のところにさほを預けにやってくる。

さほを連れていくこともある近所のラーメン屋。代替わりして若い女主・木帆が営んでいる。亡くなった木帆の父の仏壇に花を届けるのも夏目の仕事だ。

常連客には近くの美容室の娘、中学生の宏美もいる。彼女はひそかに夏目にあこがれている。

店には様々な客がいて、丁寧に花の仕事を続ける夏目だが、ある日、常連客の人妻、麻里子に恋心を打ち明けられる。しかも、その場には彼女の夫も同席していた…。

様々な人の恋模様に巻き込まれていく夏目だが、彼自身の想いは……。


観に行った帰り道、田中圭さんのことを好きになる映画だったねえと話しながら帰っていた。
小さな民家のような花屋さん。
そこで働く夏目さんは、色んな人に好かれている。そして夏目さんを好いている人もまた、誰かに好かれてる。
重なったり重ならなかったりする想いは「片思いの恋愛ストーリー」と言ってしまえばそれだけだけど、なんとなく、そういうとむずむずとする心地もあるのだ。


伝えて、ありがとう、でもごめんね、と言って物語は進んでいく。

穏やかで淡々としていてそのくせ少し可笑しい。
例えば私が今まさしく片想いの真っ最中で、しかもそれが視界に笑ってる顔が映っただけでその日一日幸せになるような恋だとしたらまたこの映画への印象は変わっただろうか。
ただ別につまらなかったわけじゃもちろんなくて、むしろ心地良さに微睡むように私はこの映画を観てたんだけど。

玄関に花を飾る夫婦と、閉店のお知らせのシーンが特に好きだ。

なんか、好きなんだから仕方ないよなあと夫婦のシーン思ってて
コメディにも似た、とんちんかんさもあるんだけど、でも好きだから黙って夏目さんに想いを伝えられずに(そうして自分が抱いた気持ちを罪、なんて呼んだりして)あるいは、ままならない気持ちを抱えて苦しむ相手に伝えなよ、なんて言ったりして(結果、自分が一人ぼっちになっちゃうとしてもだ!)
いやもう、可笑しいだちゃ可笑しいんですけど、でもだいたい、誰かを好きだって想う気持ちって可笑しいもんな。

それで、閉店のお知らせ、の木帆さんの台詞、めちゃくちゃ、そうなんだよ、と思って聞いてて。
そんな今更、って思っちゃうことがあってだったら、とか思われるんじゃないかって動けないこともあって。そういうのをあのテンポで話されるのすごく好きで、当たり前みたいに「情じゃダメですか」って言ってのけるものだから、笑ってしまった。
そうだなあ、ダメじゃ、ないなあ。
同情だって、立派な情だったな、そういやな。
その上、最終日のにこにこと薔薇を持って帰るお客さんの笑顔を見てると、私までにこにこ笑ってしまう。

「ブス」という言葉についての今泉監督のツイートを私は時々思い出すんですけど(人の言葉を思い出すのは最早癖なので)
もしも、とびきりの愛情をもって、その言葉を使うとしたら。
私はその言葉が嫌いなので、もっと違う言葉を探して欲しかったと悲しくなったり分かり合えないんだろうなあってそっと身を引くような想像ばかりしてたけど、もしかしたら、それもありって思える瞬間がくるかもしれない。
私はその言葉は使わないけど、でもその言葉を使って伝えようとしたその人の愛情とかは、否定せずにありがとうって、言いたいなあと思う。
でもごめんね、傷付いたよって言うかもしれないけど笑

話がズレたんだけど、ともあれ、mellowはなんだかそんなぼんやりと「優しく」っていうと少しズレちゃうような空気で時間が過ぎていった。

在るというのは、ホッとするものなんだな。

劇的に何かは起こらないけど、ただふくふくと空気の中に漂うような時間を過ごすことも、
映画を観る幸せっていうのかもしれない。

 

 

アースクエイクバード


人生に意味があることなんて起きない。最近よくそんなことを思う。
意味は勝手に生きてる人間が生きてるうちに拵えるだけで、その実結局、意味なんてたぶん、無い。


アースクエイクバードの後半の展開を観ながらそんなことを考えていた。

 

 


あらすじ(Netflixより)
1980年代の東京で、日本人写真家と恋に落ちた外国人女性。だが、やがて彼女は三角関係に心乱され、行方不明だった友人殺しの容疑までかけられる。

 


淡々と進んでいく物語の中で、モノローグも台詞も少ない。また時間軸もジグザグと進む展開で、途中、あ、これ真っ直ぐ時間が進むわけじゃないんだな、と気付いた。


陰影が美しいと思った。それは、写真が題材の一つだったからだろうか。
水とか、黒の艶感、重たさが酷く印象的な映画だった。


こうして感想を書きながら、たぶん私はあの映画に込められたものの何万分の一かにようやく触れてるか触れてないかなような気がする。
キャッチコピーを今改めて読んで、しっくり来なかったから、というのが一番そう思う理由ではある。し、なのでレビューなどを読んで自分の感想を整理したいような気がする。
だけど、私にとってのラストシーンの意味は私にしか書けないし、きっとそれは他の感想を読んじゃうとブレるので、このまま書く。

 


ジグザグと進む時間軸と、語られたり語られなかったりする心境、切り取られる表情のもと、物語は行ったり戻ったりを繰り返す。


この映画に興味を持ったのは直己さんのお芝居が観たい、と海風を観て思ったからだけど、
インタビューで語られていた、「禎司」という男へのアプローチが面白いと思ったからだ。


物語はだいたい、登場人物たちの人生を切り取って語られるわけだけど、その中で彼は語ること語らないことがあり、その中にはわざとなこともあれば、そうでない(無意識)もある。
そして、それは何も禎司に限った話ではなく、ルーシーやリリーもそうだ。

 


その中で分かること推測することを繋ぎ合わせながら、映画を観ていた。

 


なんなら私はルーシーが何を考えているか感じているか、分かるようでわからない心地がしていたから必死に目を凝らしていたような気がする。


結局私はどれくらいあの映画が分かったかなんて分からないし、なんなら少しも分かってないのかもしれないけど、


ラストシーン、数分がとんでもなく頭をぐらぐらと揺さぶってる。


自分には死がついて回ると言ったルーシー。
禎司が言った「いつか話して」という言葉。
禎司はなんで、ルーシーに惹かれたんだろう。
ルーシーが感じたこの人だけは私の全てを受け入れてくれた、は本当だったのか。
リリーと地震の後のあのシーンは「リリーの中ではなかったこと」になっちゃったのか。
(花のくだり、怪我したはずの指の傷がないことを思うと彼女の幻覚の可能性もある……?)


ただ、そのどれもが、ラストシーンのあの女性との会話で、スコン、と落ちたような気がするというか、
上に並べたことへの疑問は私が「意味がある」と思ってるから感じたことだ。
ルーシー自身が周囲で起こった死には意味があり、それは自身が引き起こしたと思っていることだ。


ただ、それは本当にそうだろうか?
山本さんの死、は誰のせいなのか。その死の意味はなんなのか。


たぶん、ないんだよなあ、と思った。
ない。少しも。人生にも、その中で起こりうる死にも意味も責任も、ほとんど、無い。残念ながら。


ただ、それは、残念ながら、と言いながらなんかそうだよな、と妙にほっとした。
意味は勝手に生きてる人間が作る。たぶん、そもそも、この映画の感想もそうだ。勝手に受け取って、勝手に飲み込んでいくか、吐き出すかするだけだ。


地震の後のあの鳥の鳴き声は、本当だったんだろうか。本当だとしたら、その意味はなんだろう。
もしかしたら、それだって無い、と言われたらああそうかもしれない、と思う。
そこに意味を持たせたいなら勝手に持たせたらいいんだろう。

 

 

Who Are You?

 


※ショーケースでWho Are You?のMVの続きについて語られそうだったのでその前にアルバムまでで感じた感想を思うままに書き殴ってます。
※長いし要約すると「おみさんめちゃくちゃ格好良くて好きだなあ!」ってだけのブログです。

 

 

ライブで、歓声を聞くたびに怖くなる。
これはもう全くもって、私の悪癖としか言いようがないけど、何度行っても慣れない。なんなら自身もその歓声を上げながら。
いつも、ふと冷静になってしまう。
この歓声は、彼らは怖くないんだろうか。

人の愛情を無邪気な善意って呼べない人間だからかもしれない。でも、やっぱりどうしたって強過ぎる感情は怖いと思うし、
偶像崇拝というか、投影できてしまう、熱狂に晒される彼らは強い、と思ってしまう。
それはもしかしたら私こそ「投影するファン」だからかもしれない。彼らの表現や、発言・行動に自身の在り方を照らして軌道修正したがる。
それは、酷く歪んだ「好き」なんじゃないか、気持ち悪くないか、と自問自答しながらもこうしてるから尚更に、怖くないのか、と、好かれててしんどくないか、と変な気持ちになるのかもしれなかった。

そんな私にとって、今回出たアルバムWho Are You?のコンセプトメッセージは心臓のど真ん中を突き刺すものだった。

「自分自身ですら本当の自分を見失いそうな時もあったり、
メディアやファンの方々が理想として作り上げた自分の存在に、

誰なのか?と思う事も、
戸惑うことも過去にはありましたが、

どの面も全てが自分自身であり、
自問自答して真の姿を探していくストーリー。
そんなアルバムとコンセプトになっています」


いやもう、こんなん、ねえ。


おみさんのことを好きだ、とハッキリ自覚したのはFULL MOONの静岡公演だった。
ただ、まあわざわざ遠征してまでライブを観に行くわけだから、ここでいう好きだ、と自覚というのは私にありがちな「もう降参!」って叫びたくなるくらい自分が相手のことを好きだ、と観念した時、だ。
そもそもその時に手元にはアルバムも写真集も買ってたわけで、どう考えても好きだろうと呆れてしまう(まあこの癖はもう直らんとも思ってるけど)
なので、少し更に遡って最初に好きだ、と思った時について考える。
たぶん、それはLUXEのMVをYouTubeで見た時だと思う。もっと遡れそうな気もするが、鮮烈なまでに惹かれたのはLUXEのMVだ。


https://youtu.be/kXKonpal-iw


荒々しい曲調と、過激な映像、それから格好良いダンス。
あの曲とMVが発表された時のそれまでのファンの一部からの批判の声も含めて「完成」されてると思った。
彼に向かう悪意も、なんなら好意すら含めて「So what?(だから何?)」と言ってのける登坂さんの作品にめちゃくちゃ惹きつけられた。


推し、という存在は「ものすごく自分に似てる」か「全く似ていない」存在だという話を以前友人がしていた。
それでいくと、私にとって登坂さんはどっちなんだろう。なんとなく後者な気もする。私は登坂さんのその強さに惹かれたし憧れた。


こうなりたい、と思った。


そしてそんな人がFULL MOONで優しく慈しむように音楽を奏でるのを見てたまらなく好きだ、と思った。語りかける言葉に嬉しくて幸せで、ああ好きだなあこの人の作るものをなるべく長く好きでいたいなあと思ったのだ。


少し前、こんなことを呟いた。


https://twitter.com/tsuku_snt/status/1215275952906747908?s=21


同じひととして、そして決してずっと正しくて格好良かったわけじゃなくて迷ったり悩んだりしながら歩いてきたおみさんが、大好きだなあと思った。
(私、アナザースカイの時に日本に帰りたくねえなあって言ってたって語ってくれたエピソードがめちゃくちゃ好きです)


そんなひとが、自分を見失いそうになる時もあった、ということに触れながら、それをコンセプトに作ったアルバムですよ。
そんなん、もう、やばいでしょ。
分かってたし、何度もなんなら悩んでも進んできたことを口にしていたはずなのに、改めてガツンと殴られたような気持ちになった。


それから続々とMVがアップされていく。
Who Are You?のこれまでの楽曲MVなどを素材として作りながらの演出にはめちゃくちゃに唸ってしまった。


https://youtu.be/iKZf6LeH6Mw


SEVEN/7の、フルでYouTubeにアップすることに拘っていた登坂さんのシーンが大好きだ。
自分の音楽は「今」聴かれるための曲だ、というのが格好良くてたまらなく好きだ。
聴き継がれることをではなく、作ったその瞬間、今を共有しようとする彼の音楽はたしかにその時その時にマッチしていく。


グッズの話で香りと記憶についてインスタで登坂さんが回答していたけど、
登坂さんの作る音楽はそれに近いものがある。
瞬間に寄り添い、焼きつくから聴くとその曲を聞いていた時のことを思い出すきっかけになる。


だからMVがフルで公開されるたび、自分の信じたやり方を突き進む姿を見せてもらってるみたいでたまらなく嬉しくなるし、楽しみにしてるんだけど


Who Are You?は中でも演出が最高すぎるし、お芝居も最高だし曲も良すぎて、もう、脳の処理が追いつかなかった。
「本当に知らない」と繰り返しながら始まる音楽。
困惑しながらこれまでの自身の作品に覚えがないように振る舞う「登坂広臣」の姿。
壊し、進んでいく姿。


そして、そんな曲から始まるアルバム。


いやもう、このアルバム、最早一冊の物語ですよ。
答えを探す、と言って歩き出したひとりの青年の物語じゃん…。
かつ、2曲目で「解き明かしてみせる」と高らかに歌うの、あまりに登坂広臣節すぎる。
すごい。
そして早々にNobody knowsぶつけてくるじゃないですか。
この曲名が発表された時、締めにくるのかなってぼんやり思いはしたんですけどまさかの3曲目。さすが登坂広臣、めちゃくちゃに強い。
かつ、インスタの質問コーナー曰く、写真集時点でこの曲作りたいって思ってたというじゃないですか……。
いやもう……まじかよ……。
まじかよ……。


迷った、本当の自分がどんな姿か分からなくなった、という登坂広臣さんが歌う「誰にも触らせない」「色褪せないMy soul」って、もう、
あーーーこの人のことずっと好きだな、と思った。


単純な葛藤の吐露ではなく、ましてや弱音なんてものではなく、
自身のプロデュースとしてWho Are You?というアルバムを作り出すアーティストとしてのHIROOMI TOSAKA、あまりに格好良いし、こっからもこの人の作品が見たいというその一言に尽きる。
揺らが無い、と思った。揺らいでも迷っても、それをこの人は作品に昇華するんだな、とめちゃくちゃ痺れた。
だから、揺らが無い。
外野が何を言おうがおみさんは自分の信じるものを信じ続けるし、そのために歩き続けるひとなんだと思う。
そんなひとだから私はこの人の曲が、好きなんだよな。


そして続く恋愛曲もまた……。
NAKED LOVEからのOVERDOSEにはめちゃくちゃ拍手しちゃうし(この2曲のMVも天才だと思う)(仕掛け含めて楽しい)
OVERDOSEからのOne Way Loveとか物語として美しすぎる。


https://youtu.be/rbPUcsF9UAs


特にOne Way Loveはここ最近のMVの中では静かで穏やかな印象を受けるからこそ、いったんここでアルバムとしても一つの区切りになるというか
章立てが本当に美しいアルバムだなあ……。
おみさんの恋愛への価値観は、私の中にはないそれなんだけど、
だから余計に、物語的に楽しんでしまうというか、かつ、ここまで作品に作り込めるのすごく好きだなあと思う。
EGO(ライブパフォーマンスの方)とか大好きなんですよね。
恋を楽しむ人だからこそ作れる作品だと思う……。


最後の曲が、SUPERMOONなの、まじか、と思いながらブログを書いている。
おい勘弁してくれ、と呟いて頭抱えたいくらいの気持ちだ。


「君が待ってる夜空は 
どんな色に照らして欲しいのか教えてよ」


いや、もう、待ってください。
登坂さんまってください、この曲順、あまりにも天才的過ぎるし苦しくなるしめちゃくちゃ格好良いじゃないですか。
LION KINGからのUNDER THE MOONLIGHT、そんでSUPERMOON……
絶対的王者じゃん……とオタク特有の感想に落ち着いてしまった。
いやでもだって、あまりに……。


全部自分だ、と見つけて揺らが無いと宣言して、その上で「君はどんな色が見たいの?」と語りかけてくるんですよ……。


みんながどこにいても見える虹であれたらいいと思う、と三代目のライブMCで口にした彼は、
ソロ活動でも、「月」として見えるところにいてくれるわけですか…。
その上その時、「私たち」が見たいものを勝手に見ることを分かった上で何が見たい?と聞くおみさんの姿に最早感嘆の声しかでない。


怖くないんだろうか、と歓声に関して冒頭書いた。
怖くないわけではないかもしれないが、彼はそこにある「身勝手な願望の投影」すら背負って、その上で彼自身の道を彼の力で進むんだろうな。
どんなことがあろうが、変わらない、揺らが無い、絶対に触れさせ無い魂と一緒に。
触れさせ無いってのは別に断絶ではなくて、むしろ私はそんなところに妙に安心すらして、ああ好きだなあ、と思う。
そして、やっぱりこの人の作るものを見続けてなるべく長く好きでいたいなあと思うのだ。

 

遠くて近い

TAKAHIROさんのファンクラブイベント、道の駅が終わった。
TAKAHIROさんのファンにとってイベント期間中はとても幸せな時間だったと最近ずっと思っている。そして、自分もその「ファン」なのだ、と思えることが幸せだと何度も何度も思い返してはついついにこにことしている。

ファンということについて考える時間だったように思う。
「ファン」あるいは、「推し」「○○担」とは色んな定義が色んな界隈でされるし、
しばしばそれについて燃えることもあるわけだけど、それもあり、私は「ファン」も「推し」も自分を紹介する際に○○さんの「ファン」とか○○さんは推し、と話すのが苦手である。
ただ、特に文字だけのコミュニケーションであれば同じ言語(語学的な意味ではなく、ネットスラングとかそういう意味で)を使うことはスムーズだから、使うことが多い。
が、TAKAHIROさんの道の駅を通して、TAKAHIROさん自身がファンへの想いを口にしてくれるのを実際見たり、聞いたりしたうち、だんだんと考え方が変わってきた。

ちょうど、好きなフォロワーさんとお酒を呑んだのもある。だいたい私はいつも自分の好きについてうだうだと考えているのだけど、
その度に好きで良いと思います、と背中を押してくれる人で呑んだ時もそんな話もしていた。

それから一番好きな役者さんの舞台を観に行き、また自分の好きに関して怯みそうになったんだけど、道の駅の出来事や、フォロワーさんとの会話を思い出しながらいやいや、好きなんだよなあ、と思っていた。

他人の定義なんてものと関係なく、好きだということ、好きでいても良いこと、というか、良い悪いでもないことをのんびり考え、
道の駅をはじめ、今までそれが奇跡的にも相手に受け取ってもらった時のことを思い出していた。

ファン、をあんな風にあたたかく表現してくれる敬浩さんに私は何度もびっくりしていた。
そして、幸せだと思った。
今まで何年も応援してきた人や、熱意を持って愛情を持って応援してきた人たちが幸せとそれを受け取ってきた人の幸せの交換で、
それってすごいことだ、と思っていた。私も、その一人なのか、という事実にも愕然とした。
その時、いやでも私なんか、と思うことはもしかしたらものすごく、敬浩さんに失礼なことかもしれない。そんなことに、思い至った。


人間関係の形には色んなものがあって、
家族や友人、恋人、仕事の人……その中にファンとアーティストもあるんだな、それってすごいな、ハッピーだな、と思っていた。
逆に距離が遠い(のに、あんなに身近に感じたんだけど)から尚更冷静にこうして考えているけど、思えば、ずっと応援してきた舞台の役者さんたちもそうだったのだ、と思う。そしてなんなら、私はそれを既に知っていたはずだった。今までも。

直接、互いの人生に関わるわけではない。ないけれど、大きく人生に影響は受けている。そして、なんとも驚くべき事実だけど、どうやら、ファンだって、与えてるらしい。
まだうまく表現する言葉を見つけてはいないけど、そんなことを繰り返し考えていた。素晴らしい一冊の本とか、映画とか、お芝居とかのように、アーティストその人自身も、そんな存在なんだな。

そんなことを、わざわざこうして文にしているのは、道の駅やその直後観たお芝居をきっかけに動いた心を忘れたくなかったというのともう一つ、友人と話していて、ものすごくそれを実感したというか、なんなら「経験した」とすら思ったからだ。


友人は、私と似ているところもないでもないが、どちらかというとそんなに共通項は多くない。感覚としては絶妙に違う友人である。
なんなら、第一印象はそこそこ悪かった(お互いに)
新卒の内定先の研修で出会った彼女は互いに「ああこいつとは合わないな」と喋る前から思っていた。それがひょんなことから似てるところを見つけ、お芝居という共通の……かつ、なかなか人と共有しにくい……好きなものを発見して、仲良くなった。
もうお互いその会社では働いてないが、今でもかなり仲が良い方だと思う。


そんな友人とは今までもお芝居や映画を一緒に観てきた。
ハイローも、ひたすら勧めて見てくれて、なんならザラを気に入って買ってくれたりもした。
元々は敬浩さんのことがあまり好きではなかったという彼女が、それでも敬浩さんの話を聞いてくれて、色んなことを乗り越えてきたんだねえ、としみじみ言ってくれた時、泣いたこともある。以来、道の駅の話も聞いてくれたり、何かあるたびに一緒に楽しんでくれる友人である。

その友人も含めて、ハイローを三人で観に行った。
HiGH&LOW THE WORSTである。

初見は私は個人的に色んなことをぐるぐると考えて、友人たちが興奮気味にアクションや役者さんたちについて話す姿を見ていた。
なんなら、二人が楽しそうにしてるのを観て、ホッとしていた。一人で落ちてたので、なんか、どちらかとだけと観てたら水を差してしまってただろうなあ、と思ったので。

その時一緒にいた二人それぞれに対して「同じように感じなくてもいい」というのは、
とんでもない安心だな、と思った。
同じものを同じように好きだととても楽しくはあるけど、別にそれはマストじゃないんだな。

そんな中、仕事が忙しそうでしんどそうだったので、じゃあ、もっかい一緒に行く?とザワを誘った。私自身、リベンジしたかったのもあった。

ら、友人がとんでもない勢いで沼った。
もうそれはもう、「沼った」というのが一番しっくりくるくらい見事な「沼落ち」だった。

 

ザワという作品に対しても、そこに出ている役者陣に対しても、そしてTHE RANPAGEのみんなにも沼っていく姿は、感動すらした。

少し前に書いた通り、元々はLDHが苦手だった人だ。
もちろん、ハイローは好きになってくれていたし、LDHに対してもある程度好意的に楽しんではいてくれたけど、当然、沼ではなかった。し、私はそれでいいと思っていた(ライビュはどっかで一緒にいけたらいいな、とは思ってたけど)

好きなものを大切にする子ではあるし、
エンタメを楽しむ姿勢も似ているので、何かを心の底から楽しむ姿は何度でも観てきたつもりだけど、そんな私にとってもそうしてコンテンツやアーティストを楽しむ姿勢はとんでもなく、嬉しいものだった。

それからしばらくして、一緒にご飯を食べに行った時のことだ。
塩野さんやらんぺさんの話をしながら、何度も彼女自身、驚いてるし戸惑ってる、と口にした。


こんな風に好き、であることの戸惑いや
色んなメディアを通して彼らを知るたびそれらを通して、
自分の今までやこれからについて考えたり悩んだりしてること
そんな話をご飯を食べながらしていた。


私はその話を聴きながら、とても幸せな気持ちになった。

 


好きなものの多い友人である。
今までだって、熱量を持って色んなものを好きで居てきたことを、私は近くで見ていて知っている。
だから誤解のないように……それは恐らくこの文を読んでる本人に対しても……書いておきたいのは、それまでのものとの「好き」の優劣の話ではないということだ。


ただ、彼女の世界になかったものを知って、
大きく変わっていってるそれだけの話なんだと思う。
なかったもの、というのはジャンルがどうこうの話ではなく、「それ」自体だ。

 

触れて、変化すること。し得ること。
それは、そこに人がいることの他ならない証明だなあ、と聴きながら思っていた。
この人は、目の前のアーティストや作品にめちゃくちゃ真剣に向き合って好きになってるんだな、という事実が私にはとても素敵なことのように思えた。


そもそも、好きになった対象一つ一つに対して抱く「好き」はそれただ一つというか、二つとして同じものはないんだ。
「友人」と言っても同じ友人関係がないように、ラベリングすることはかろうじて出来たとしても突き詰めてしまえば、その人とその人の関係でしかない。

 

 

 

時々、好きな役者さんやアーティストの話をしてると、「別に恋人になれるわけじゃないよ」とか「友達とか家族でもあるまいし」と言われるけど、
そうじゃないんだよなあ、と思った。
そうじゃないんだよ、だし、別にただ「消費」してるんじゃなくて、そうじゃなくて、私は、彼らに出逢ってるつもりなんだよ。


別にそれは接触だ認知だなんていう細かい話ではなくて、そんなちっぽけな話じゃなくて、もっとなんか、なんかさあ


そう、ぐるぐる考えてた。
以前、ハチミツとクローバーという漫画で竹本くんがはぐちゃんに振られ、紆余曲折あった後、「終わってしまった恋に意味があるのか、ずっと考えていた」とモノローグで語るシーンがあった。
泣きながら、はぐちゃんに手渡されたサンドイッチを食べながら、竹本くんは言う。


「意味ならあったんだよ、ここに」


その意味、はもうハチクロを読んでもらわないと伝わらないと思うんだけど、ここで言いたいのはそれに近い、「意味ならあったんだよ、ここに!」と叫びたい気持ちだったということだ。

 


会えるわけでもない、自分の人生に身近な人間として存在するわけでもない人にそんな思い入れ持ってどうするんだよって笑ってきた色んな人たちに悩んだり楽しそうに彼らの話をする友人の姿を見ながら言いたくなった。

 


意味ならあったんだよ、ここに!!!!!!!

 


何かを好きになること、誰かの活動に触れたい、と思うこと、触れること


そうして、考えたり心を動かしたりすること。
それは、こんなに素敵で奇跡的で、幸せなことじゃないか。

 


敬浩さんの道の駅の話に戻るけど、
私たちは、そういう「会うわけではない」「直接的に関わるわけではない」なのに、確かに自身の人生の1ページに存在するという不思議な関係の中にいるんだな、と思う。


身近なわけではないけれど、笑っててほしい、泣かないでほしい、幸せでいて欲しいと祈りあってるんだな
それから、毎日の生活や思考の中で、彼らの影響を受けたりしながら過ごしてる。
なんだか、それは、とても面白くて幸せなことなような気がする。

 

 

ON THE WAY 〜愛の光〜

優しいメロディは、私たちへの、そして彼らの中での約束なんだと思う。

 

https://youtu.be/fEurHWFXdu8

 


道の駅に行ってからしばらく経つ。
私は、道の駅でもっとだばだばに泣くものだと思っていた。案外平気そうだね、と実際言われもしたし私も思った。
だいたい言葉の許容量を越えたり感情の処理を越えて泣き出すことが多い私にしては(泣きはしたけど)冷静だ、と思った。


だけど、刺さらなかったわけじゃない。
それはたぶん、直後書いた道の駅のブログを読んでいただければ伝わると思う。伝わるといいな、と思う。


http://tsuku-snt.hatenablog.com/entry/2019/11/04/134948

 


そして、今日、0時に「ON THE WAY 〜愛の光〜」の配信とMV公開がされた。
それを見て、なんで自分が立たなくなるほど泣かなかったか、理解した。


今回のコンプリート、と銘打たれた道の駅を過ごしながら生まれたという曲だという。
だから、聴きながら歌詞や優しい歌声に彼からのメッセージを、感じてしまうのは仕方ないことだと思う。
そして何より、長い旅の中、楽しそうに旅をするバンドメンバーと共に作った音楽であるということ。


バンドメンバーのこと、気がつけば、めちゃくちゃ好きになってたんですよね。
インスタやモバイルで見てて、どんどん好きになって道の駅に行った時見て、ああ!あの人たちだ!と興奮するくらい。
そして、ああ彼らと音楽をするのが楽しいんだなって思える瞬間がたくさんあって、それで更に好きになって。

 


なんだろうな、誕生した、この音楽が作られたことが全部嬉しいな。

 


音楽を聴く時、泣いてる時も笑ってる時もあって
助けて欲しい時も別にそうじゃない時もあるけど、敬浩さんはどんな時も音楽で手を差し伸べてくれてるんだな。


なんか、色々考えてたんだけど、大丈夫だ、と思ったというのが一番しっくりくる。根拠もなく、なにに対してか分からないような気持ちで、何度も思った。大丈夫だ、大丈夫なんだ。

 


音楽や、エンタメは、この為にあるんだなって最近、好きなものに触れるたびに思っては泣いてる気がする。


なんか、この場所で会おうね、って約束がものすごく嬉しい。
こんなに柔らかく幸せそうに敬浩さんが歌ってることが嬉しい。いやめちゃくちゃ嬉しいな。


楽しかったですか、幸せでしたか。これからも幸せでいてくれますか。
いやだって、こんな優しいものを、私たちにくれるんだもんな……。
またね、って楽しかったね、幸せだったねって手を振ってくれることが本当に心強くて、幸せだと思う。


また、会えるのだ。
長い長い旅路を彼もバンドメンバーも、私たちも歩くかもしれないけど、あんな優しい景色を知ってる私たちはまた笑って、会えるのだ。


さよならは、寂しいけど、その後にもらったまたね、があまりにぽかぽかと胸を温めてくれている。

 

 


はーーー!
今日の道の駅も、きっと幸せなんだろうな。みんなみんな幸せなんだろうな。
私はその場所を知ってる。
願うように祈るように、次の約束までの幸せを歌ってくれた敬浩さんも、どうかどうか、幸せでいてくれますように、と願わずにはいられない。

その瞬間、僕は泣きたくなった


3回目のシネファイ。
たまらなく好きだったんだけど、中でも好きだった3つのお話について書く。


正直、私は今回のシネファイを観に行くか迷っていた。
前回、シネファイってこういうことがしたいのかな、というのを分かったような気になってなるほどなあ、と納得しながらもなんとなく「私は顧客じゃないかなあ」と思ったのもあって、二の足を踏んでいた。抽象的なお話がそんなに得意じゃない私にとって、行間を読む映画に対してのハードルが……しかも、それが複数ある構造が……なかなかに高かった。
ただ、タイムラインで語られる熱のある感想の数々に、どうしても観たくなって、映画館へと向かっていた。
何かを好きだ、ということが言葉になるのが好きだ。言葉や絵や、ともかくそういった「形」に変わるのがすごくすごく、好きだ。


そして、観終わって、ああして熱を込めて呟いていてくれた全ての人にありがとう、と言いたくなった。観てよかった、映画館で観たい作品だった。しかも、それを、この作品が好きな人たちの言葉に背中を押されてみることができた幸福は、本当にたまらないな、と思った。

On The Way
ドキュメンタリー映画のような作りの映画だった。
「台詞」として語られる言葉は少ない。
ないわけではない。でも、それよりもそれぞれの表情や行動、目の動きを丁寧に拾いあげていく。

今市さんの感性の柔らかさや優しさについて私は三代目のライブに行くたびに思う。
生きづらくないだろうか、と不安になるくらい柔らかな感性で、歌を紡ぐ彼らしい作品だな、と思った。

ただ、お芝居をしていないわけではない。
だけど、受け取るに振り切ったお芝居をしていたと思う。
今市さんについて考えるとどうしてもブライアンさんと過ごした日々のことをいつだって思い出すんだけど、
彼はその生活や一緒にいる人たちからたくさんのものを受け取って自分の色に変えられるひとだと思う。
そういう意味で、彼自身の良さを活かしながら、かつ、映画にしたこの作品すごくない……?と思うし、
その最後、彼自身が歌う音楽が流れるの、あまりに最高でかつ「CINEMA FIGHTERS」という企画の醍醐味だと思う。
今までのシネファイ1、シネファイ2も観てきたけど、ああこういう作り方もあるのか……と最高の気持ちになった。
彼が作中言う「中途半端に助けるなら最初からこんなことやらない方がいい」という言葉や、そこからの出来事
そして、現地のルールを知る彼の(カタカナ弱過ぎて名前がハッキリしない……申し訳ない)あの悔しそうにエンジンをかける姿、そして、それでもありがとう、と言ったこと。
なんか、あの作品って全体的に言葉は不要で、
言葉が追いつかない、言葉にするときっと意味合いを変えることがたくさん詰まっていた。
それが、きっと、今市さんの涙にもなっていたように思う。

本当に、あの作品大好きだったんですよ。
教会のシーンも、食事も。

丁寧で、優しく、それでも残酷で
そうして彼らは生きていくんだなあ、としみじみした。私は、生きていくんだなあ、と思える作品が好きなんだな。
何かを大きく変えるわけではないことが、もしかしたらすごいことなのかもしれない。

 

GHOSTING

SFが好きだ。それも、宇宙人や異空間が出てくるものが、というよりもむしろ、ほんの少し過去に行ったり未来に行ったり、
心が読めたり、そういうSFが昔から大好きだ。
そういう意味で、GHOSTINGは最初にモノローグが出た時点で絶対に好きなやつ!と拳を握った。

映像の空気感がとても柔らかい映画だった。
バクがメイちゃんを助けるために過去に飛ぶ。
しかしそれは、彼自身が死んでしまったからこそ、最後に与えられた奇跡の時間だ。
なんというか、ショートショートらしい優しさと柔らかさ、懐かしさが詰まってる映画だった。

元々Twitterで見かけた、この作品は「映画館だからこそ」の仕掛けがあるという感想も、
私の観るきっかけの一つだった。

確かに!と膝を打ちながら観たし、実際観て、このストーリーにその仕掛けがある愛情にグッときた。
映画が、好きな人が作った作品だった。

好きなポイントを挙げて話そうとするとどれもネタバレになってしまう。いや、このブログはそもそもネタバレをするところではあるんだけど、なんだろう、とはいえ、単にストーリーを言葉にしたくない。あれはやっぱり、あの映画の色合い、温度感で観てこそなのだ。たぶん。

でも、なんか、伝えたいことを伝える台詞が好きだったんですよ。
未来ってどんなとこ、とか
メイとのあの電話とか

 


なんだろう、シネファイは20分という時間の無限の可能性を教えてくれるんだな、と今回観ながら繰り返し思った。
短い言葉が伝えるもの、音楽や表情や視線が語るもの。
言葉だけでは負けてしまう、きっと描けない空気をただただ、丁寧に描いていく。


だって、GHOSTINGの最後の「彼女」の姿が、
あの二人の行動や感情の答えだった、そんな気がするのだ。
全部全部、あそこに帰着して、それが優しくて大好きだった。

 


海風


絶望的なまでに美しくて、優しい映画だった。
ご飯が美味しそうな作品が好きだ。
食事をする人が好きだ。
そんな私にとって、ここまでダイレクトに刺さって、かつ、心が苦しくなる表現があるだろうか。
直己さんと秋山さんの、寂しさの空気感をとても丁寧に行定さんが切り取っていく。
あの、電気の攻防するところの秋山さんの表情がものすごく苦しかったんですよ。
というか、この映画はたびたび、表情で刺してくるな。
馬鹿にしてる、と叫ぶ、彼女の中にある寂しさについて考えてしまうし、
卵焼きを食べた時の蓮の子どものような表情を何度も思い出してしまう。


彼らは、手を差し伸べて欲しい時に、あるいは差し伸べたい時にそうできないまま、ここまで来て、それが、ようやくそれぞれで果たせたのか。
だから、あんなに、食事のシーンが愛おしかったのか。


行定監督は食事のシーンが撮りたかったのだ、というインタビューを読んだけど、確かにあのシーンは心血が注がれていたように思うし、だからこそ、断片的に描かれていく物語に絶対的な温度感が生まれていた。
かつ、食事を魂を喰らい合う、と表現した直己さんの言葉を何度も噛み締めてしまう。


同じ釜の飯を食う彼ら。
飛んでいってしまった青い鳥、空っぽの鳥籠。
俺の母さんにしていいか、という言葉。
卵焼き、イカと大根の煮物、具がちゃんと入った味噌汁。


モチーフが丁寧にそこかしこに置かれ、それが物語の軸となり太く太く語り継いでいく。


食事のシーンを、魂を喰らい合うと表現した直己さん発案だという、あの遺灰を食べるシーン。
あんなにヒリヒリと焼けるような感覚は久しぶりだった。
だって「魂を食う」というなら、身体であったそれを食べることこそ、そう見えても良いだろうに。
それでも、私には酷く寂しい姿にしか見えなかった。もう二度と食べられない母親の手料理を惜しむように、その代わりのものを強く、悲しいくらい強く求める小さな子どもの手加減ないしがみつく小さな手を見たような気がした。
だとすれば、そのあと、ああして煙草に火をつけ、「大人」として生きる道へと帰る彼が寂しい。
それでも、母親の作った食事は変わらず彼の血肉になりそこにある。なら、きっと彼は生きていくだろう、と半ば祈るような気持ちで想うのだ。