えす、えぬ、てぃ

お芝居の感想など

未来切符


切符を手渡され、また次の誰かに手渡していく。
その物語がとてもとても、美しかった。


劇団6番シードさん、47都道府県を旅していく企画第1弾である滋賀公演、未来切符を観に行った。
ミライ編とカコ編に分かれ、更に3話の物語に分かれる。濃密な物語に共通するなら未来駅行きの切符というただひとつだけ。


ミライ編→カコ編
立ち向かう話と逃げる(逃げても良いから生きろという、生きるために逃げろ、という)話
私には、それぞれ、ミライ編とカコ編がそんな風に思えた。
思ったのは、カコ編のジュリアナ犬を観た時だった。
設定もコメディだけど、会話のテンポもバブル!なぶっ飛んだ台詞も、コメディなんだけど、私は途中、ちょっと、おあ…と考え込んだ。
ジャンプしたらいいのよ、バブルは終わらないのよ。
そう、言うけれど。
バブルは終わるし、ジャンプには限界がある。

ミライ編は、1話終わる毎に未来へと進む。
カコ編は、1話終わる毎に過去へと進む。

だから、カコ編はどれだけ時間を進めても過去になるだけだ。そして、そこで描かれるのは、それからどうなるか知ってる時代の物語だ。
パチンとバブルがはじけて色んな人が途方に暮れたことを知ってる私には無邪気に産んじゃえ産んじゃえ!逃げちゃえ!とは思えなくて、でも逃げてもほしくて、ぐるぐるした思いのまま、お立ち台で踊る3人(2人と1匹)を観ていた。

どうやら、ミライ編とカコ編はずいぶん様子が違うぞ、とこの時思った。

でも2話、3話と進むうちに、そのどちらのラストシーンも、あまりに晴れやかで驚いた。(そしてよくよく考えれば、1話だって晴れやかだったのだ、たぶん)


ところで、それについて書く前にカコ編が演出がめちゃくちゃ楽しかった話が書きたい。
短い時間内に舞台セットがコロコロ変わり、段差も使って視界がずっと楽しい1話
題材のうまみが全力で生きる、落語を舞台にのっける面白さが光る2話
時間の経過が照明で浮かび上がる3話
2話!そう2話の落語の演出……特に私、これが嬉しかったんですよ…!!
落語自体、たまに聞いてはニヤニヤしてるしお芝居と落語に通じるものがあるなあ、と思いつつ
それが単純にどちらに飲み込まれてしまうと、おや……?ってなるんですよ。
時々、落語を舞台や映像に、ってのがあるんだけど、もちろんそれ自体はすごいことだと思うし、これは完全に好みなんだけど、落語をそのまま舞台で演じるのは…なんか……なんか……違和感なんですよ……。
そういう意味で、この枕の意味、はどんな風に映るかな、とわくわくしてたんだけど
めっちゃくちゃ面白かった!
し、なんだろう、落語を聴く時の次々に場面や人が変わることの面白さをあんな舞台ならではの視覚化ってもうー!!!!もうー!!!!
漫才コンビ漫談家も、落語家の師匠も「い、いるー!こんな人いるー!!」って叫びたくなるのもめちゃくちゃ好き。
そうして、土屋さん演じる彼の落語が佳境に差し掛かる、そこからの「夫婦」に届けられる落語が大好きだ。ストレートで、シンプルで笑っちゃうような単純さで、言ってくれる。
もう、言ってくれる、なんですよ。そんな簡単に言ってくれちゃってまあって苦笑いしたくなるくらい晴れやかな顔してね、言うんですよ、土屋さんが。
未来は変わったんだ〜!
これ聴いて、あー!あーー!!って叫びそうになった。
カコ編で過去にどんどん話が進んでいくのが面白くてだけど、たしかに彼らの未来は変わっていくんだなあって思ったし、それがミライ編にも繋がるのすごく見事だなあ、好きだなあとしみじみ思った。

 

物語を味わうミライ編と、演出を味わうカコ編と。
驚くほど、そこで魅せられるものは違う。何なら同じミライ編・カコ編であっても全く違う。一つ一つが濃厚で、それだけで2時間のお話が見たいと思うほど力強い。

そう思うと、ミライ編最初の35メートル地点の奇跡、の本を読むような美しさは、このお芝居の企画全体で一貫してあったように思う。
あの切符をあてて、本を読み上げるところ。
あれ、本当に、美しくて大好きだったし、目の前にいくつもいくつもお母さんの言葉が降ってきた。綺麗だったなあ。
6Cさんのお芝居って時々、目の前で異次元に飛ぶ。繰り広げられるお芝居がぐんと広がって色や光を変えて違うところに連れて行ってくれるような錯覚を見ることがある。

そして、バトンを受け渡された2話、絶滅した男。
きっとこれはどちらかといえばコメディの立ち位置のお芝居だろう。
たぶんそうだ。だけど、私はこの話の中盤から泣きっぱなしだった。全オタクに観て欲しすぎた。

だってこんな残酷で苦しい話あります…?

私は、神楽坂さんの2億貢ぐほど、全部人生投げ出しちゃうほどのミライちゃんへの愛が苦しくて苦しくて仕方なかった。それでも名前を覚えてもらっていないことが、本当に辛かった。笑えなかった。
だけど、その表現が好きだった。
観れてないけど、ガチ恋沼のお芝居に抱いた感情と似てるというか。
苦しいよーーーー分かるよーーーだけどさあ、だけどさあ、うわあんって泣きたくなるような。

ファンとアーティスト(広くアイドル、役者、その他の表現者の総称として)の関係って複雑で面倒で、愛おしいと思う。
良いファン、なんて話がどんな界隈でも定期的に湧く。湧いて、揉めたり傷付いたりきな臭くなったりする。たぶん、それくらい身近で切実で、言葉にならない感情なんだと思う。
それで、まあ、こうしてブログとか書いてる人間からすると、尚更。個人的には良い、なんて定義が野暮で無茶だし各々、人を傷付けたりしない限り、好きなように好きなものを好きでいたら、と思ってるけど。
でもやっぱり、神楽坂さんが、サイリウム投げたのは「分かって」しまうんだ。
我儘で、間違ってて独り善がりで勘違いだと知ってる。知ってるけど、なんで、どうして、ってぶつけたくなってしまうことは、理解してしまう。それは、正しくは、ないけど。
僕が、やりました!からもう本当に耐えられなかった。
色んな感情が渦巻いてぼろぼろ泣いていた。
だから、あそこで、ミライちゃんの歌とコールにどこか救われるような気持ちだった。気付いてくれた、きっと、そう思ってる。長い時を経て、昔話として話せるようになった、そんな優しい話だと、信じてる。

ミライ編はたぶん感情の中心に感情移入した結果、立ってしまう話が多くてカコ編はそういう意味では(かついい意味で)客観的に観客でいれる話が多かったのかもしれない。個人的に。

ミライ編3話、エッフェル塔は燃えているか。
オートゥの物語なんだけど、ある意味で1番感情豊かだったこの作品。
空気と色と音と全部で感情(情感)を楽しんだ。オートゥだからこそ、人間臭かった。
触れて変化して、感情的になって。あと、台詞ひとつひとつが綺麗。
生で触れたからこその感覚がたくさんあって大好きだった。ストーリーも、SF要素とあったかさの同居が心地いい。

空気で楽しむという意味では、カコ編3話のポンコツ玉砕隊もそうだ。あの話も明確な台詞で描かれるシーンの方が少ない。
演出としての面白さは先述の通りだけど、
中でも私が好きだったのはティモと出逢うまえ、ひとり自害しようとする瞬間だ。しようとして、できず、生きることにする。
樋口さんの中には物語が詰まってる、とよく思う。しかもその物語は大きな声で吹聴されたりは絶対しない。ただそこにあって、じんわりと染み出してくる。ポンコツ玉砕隊は特にそんなことを楽しむお芝居だった。
ティモと二人、ほとんど意味の通じ合う言葉は交わさない。ただ、思い思いに話す。だけど、あの光景の優しさは、ふと、このお芝居そのものについて考えさせる。カコ編、の意味を考える。
逃げてもいい、と言ったこと。
それが、あの二人が大きく手を振ったあの場所に通じるんだろう。
あのひとりずつ死んでしまう演出はすごく悲しかったんだけど、だから尚更、あそこに行き着いたふたりが大きく手を振る姿が、本当に優しくて、大好きだった。生きてるからあそこに行き着くんだよな。


良き友と、良き旅を。劇団6番シードさんはこれから日本中で何かをするという。漠然と、だけど確実にわくわくするその企画が、私は楽しみでならない。きっと、それは「良き旅」になる。
願わくば、私もその旅を目撃できる「良き友」になれたらいいなあ。そんなことを、美味しかったご飯やビールを反芻しながら思った。

僕に、会いたかった

忘却は罪ではないよ、という話に思えた。


あらすじ(公式サイトより)
池田徹(TAKAHIRO)は、島で一二を争う凄腕の漁師だったが、12年前に漁をしている最中に嵐と遭遇して、目覚めた時には全ての記憶を失っていた。
事故後、徹は一切漁に出ることなく、失った記憶に怯えながら日々を生きていた。過去を振り返ることも、未来へ動き出すこともできないまま葛藤していたのだ。そんな息子の姿を見て、母親の信子(松坂慶子)も苦しい思いを抱えている。

一方、島のフェリー乗り場には木村めぐみ(山口まゆ)、福間雄一(板垣瑞生)、横山愛美(柴田杏花)、の高1の留学生が到着する。県立隠岐島前(どうぜん)高校では「島留学」と称し、都会から越境入学で生徒を受け入れているのだ。
「島留学」では、単身やってくる生徒に島で親代わりになってくれる世話役を島内から募集して、生徒ごとに「島親」としてあてがい、島で生徒たちが快活に生活できるようサポートしている。 池田家もこの取り組みに賛同し、雄一の「島親」になった。徹は漁協の休みに釣りに出かけ、距離を縮めていく。高校では生粋の島生まれの生徒と島留学できた都会育ちの生徒が悩みや葛藤をもちながらも、それぞれ将来への夢や希望に向かい、絆を深めていく。

そんな高校生たちとは対照的に、徹は依然、未来への一歩を踏み出せずにいた。船着き場に佇む徹を見つけた信子は心配そうに声をかけるが、徹は「大事なことを忘れてしまっている。いや、その大事なことすら何か分からない……」と苦しい胸の内を吐き出す。
ある日、信子は徹の記憶を取り戻そうと、ある計画を実行する。果たして徹の失った時間は蘇るのか、また、止まった時間は再び動き出していくのか?

 

終始、静かな映画である。
静かに島の生活を写す。
TAKAHIROさんの雑誌インタビューでも度々言われていた通り、徹は動かない静の芝居で進みその胸中は語られない。ただ揺れる目線に彼の感情が僅かに滲むだけだ。
そして、それはほかの人物たちにも同様のことが言える。
島留学の学生たちも島の子も、徹の周囲の人々、お母さんも、何も言わない。
時々、断片的にその心情をうかがわせる言葉や表情を見せるだけだ。


ただ、その心情の発露が少ないのとは対照的に生活描写についてはわりと丁寧に描かれる。
食べられる食事、仕事、島のひとたちの掛け合い、店…島の景色。
具体的に誰が何を思い、何をするかは描かれない。
だけど、彼らがどんなところで生きているかはわかる。
そんな、映画だった。


巷で、ホラーに思えるという感想をたくさん読んだ。田舎特有の物語、というツイートもたくさん観て、私は少し覚悟していた。

田舎出身の私にとっては田舎が良いところに描かれ過ぎるのは恐怖だ。
田舎特有のホラーについては実感も含めて、苦手意識がある。
だから私は、もしもそういう話だったならかなり苦手な類だなあと思った。観た作品でコンディションが大きく左右されるので、観に行く日は慎重に決めた。

結果としていうなら、私にとってはホラーではなく、でも、これがとんでもなく怖い話に思える人もいるだろうな、と思った。

巷でホラーと言われる理由は、あの徹のためになされた選択が本当にそれでいいの?と思えてしまうからだと思う。
忘れられた人にとっても、忘れた人にとっても、それでいいのか。そうして十二年間を生きることは身勝手じゃないのか。
それを「優しさ」として描かれる違和感はあるのかもしれない。
島のひとたちの行動……特に、母親の行動にもしかしたら人によっては嫌悪を抱く人もいるかもしれない。嫌悪、と書くと言葉があまりにも強いけど。身勝手だ、と感じる人もいると思う。
解決になってない。
ある意味で、そうかもしれない。

徹は大切なことを忘れている。島のひとたちは、それを見守ってる。特に何を言うでもなく、見守り受け入れ、十二年生きてきた。


島留学の子たちはそれぞれに何か思うところがあって島にくる。それがはっきり解決された、ともされてない、とも描かれていない。
いや、雄一くんはその中だとわりとハッキリと思いを口にして変化が描かれてるんだけど……。

この島は、一人にしてくれないと雄一くんが言ったことを考える。それをただ優しさ、田舎の暖かさ、というのは何となく私もうーん?って迷うところだ。
だけど、人はきっと一人では生きていけないし、生きていけるかもしれないけど、それはわりと虚しいんじゃないかなあとぼんやり、考える。
虚しかったんだろうな。だから、畑を耕して、糸を通して、真鯛を釣るんだなあ。
あのシーンのTAKAHIROさんの台詞や空気感はとても多彩だった。


語らない映画が好きだ。映画というか、作品が好きだ。
言葉にすることも大好きだけど、同じくらい、空気だけそっと触れさせてくれる作品が好きだ。
だって、日常では滅多にはっきりと言葉を交わして感情を交換することはない。そんなドラマみたいなことはなかなか起こらない。
ただ「察してください」の映画ではないと思う。ただただ、そこで生きているひとたちを映した映画だった。生きていくしかないひとたちを、映していた。


特に、ご飯や仕事の描写の時間が多く丁寧で私は大好きだった。生きてる人たちの描写が好きだった。
特別美味しそうに映すんじゃなくて、彼らが食べてるもの、その為にしている生業をただただ描かれる時間は心地良かった。


徹は、大切なことを忘れている。忘れてしまっている。
ただ、忘却は罪ではない、と徹とお母さんが過ごした十二年間について考えながら思う。
生きていくしかない。
もしもその為に、忘れてしまったならそれは罪ではない。忘却は罪なんかじゃない。

生きていくことは別に派手な何かがあるわけでもなく、起きてご飯を食べて働き、誰かと話してまた眠って次の日を待つ。

僕に、会いたかったはそんなシンプルな映画だった。私にとっては。
大きく悲しむこともできず、滲むような寂しさと優しさの中で生きて生きて、生きていたら、誰かに会えたりする。
それは忘れてしまっても、なくなるわけじゃない。


ホラー、ということについて、観た直後いろんな人の感想を読んで考えた。ホラー。
何より、エゴ、という言葉が合うのだと私は思った。
エゴではある。めちゃくちゃエゴだ。
お母さんをはじめとする島の人たちはただただ、徹の幸せを願っていたんだと思う。他の何でもなく。徹が苦しまずに生きていって欲しかった、幸せになって欲しかった。
それを、悲劇的に描くでもなくただ生活の描写の中に織り交ぜたのはすごく好きだった。
それがもしかしたら徹には苦しかったかもしれない、と思う。もしかしたら、じゃないな。確実に。燃やされた文集について考えながらそう思う。嫌だったろうな。もしも、本当に忘却を許して彼の幸せを願うなら、いっそ島の外で生きる選択をあげても良かったんじゃね?とも、思うし。極端な話。
まあでも当然、それじゃダメなのだ。

徹にも、お母さんにも、島の人にも、私はああ生きてるなあ、人だなあ、と思う。
私はそれが好きだと思う。生きてる人のズルさとしてそういうのがあるだろうと思う。
めぐみちゃんのことを思うと酷いな、と思うけど。
でも、それを本当に酷いとするかは彼女が決めればいいことで、かつ、それは過去のめぐみちゃんではなく今のめぐみちゃんが判断することだ。そういう意味であの釣りのシーンが彼女の答えだろう。

松坂慶子さん演じるお母さんの台詞を、噛み締めてる。
ご飯を食べて笑って泣いて、そうして生きていく。
その中で、忘れてしまうこともあるのかもしれない。
だけど、消えるわけではない。消えたりはしない。そうして生きていく中で時折、目の前に現れてくれたりする、一歩近くに来てくれたりする。
そんな感覚に、生かされてる。

そんなことを、エンディングを聴きながら考えていた(あの曲めちゃくちゃ良いですね)

名探偵ピカチュウを見てきたんだけど解決できないこの気持ちの答えを教えてくれ

ピカチュウを観てきた。

とても良かった。

確かに、ポケモントレーナーに憧れた人にはたまらない世界でかつ、ポケモンへの愛情が詰まった作品だった。

細部にいるポケモン一匹一匹にも、台詞にもにやっとさせられる、すごい演出だった。

 

んだけど、実は一つしっくりこなくて苦しんでるのでブログに書かせてほしい。

考えてるし聞いてみたけど答えが見つからなかった。

これはもう寝かして考えるしかないのではないか。

 

 

 

 

※以下、ネタバレあり

 

 

 

 

ピカチュウとテイムのやりとりすげーーーーー好きだったんですよ。

事前にネタバレを読んでしまってたんだけど(我慢できなかった)あの、技の指示無視されるところとかさあーーーもうすげえ胸熱じゃん?

ああ、あのとき私がプレイしたゲームの中でポケモンきっとこんなこと思ってたんだろうなあーみたいな。痛えからやだよ、とか疲れるからやだよ、とか。

あと、テイムがリザードンから立ち塞がってピカチュウを守るところも「ピカチュウ」がテイムを傷付けるかも、と手を離すところも最高に良かった。

 

話せるというスペシャル設定はあれど、テイムとピカチュウの間にあったのは、ポケモンとひと、という一つの綺麗な美しい関係で、わあーーーーー好きって感じだった。

パートナーなんだよな。利用するとかしないとか、上とか下とかじゃなく、肩並べるパートナーなんだよ、って現実に一匹相棒連れるなら誰が良いかな、なんて考えてる小学生だった私はじいんとした。

 

 

ので、あの

 

ラストが

 

ちょっと

 

消化できない

 

 

いや綺麗でめっちゃ良い話だとは思ってるんだよ頭では!!!!!!!!!

父と息子っていうテーマで、ラストシーンなんて良かったね、としか言いようがない。

何より私は間に合った話、は好きだ。特に小さい子が見る可能性の高さ的にも間に合って欲しいと思う、思うよ。

 

思うんだけどさーーー!!!!

けどさーーーー!!!!!

 

じゃあピカチュウとテイムの間のアレコレは父と子だったからってこと……?

種族を越えた、じゃなくて単純に「腹の底が感じた」シンパシーだし、なんならそもそも種族越えてないどころか同種族な上に血が繋がってますからね……

 

そりゃな……

 

 

 

そりゃなってなっちゃうじゃん?!!!!(半泣き)

ピカチュウただの媒体でしかないやん?!!!!!!!

 

それ、っ、それ、それはさあー!それはさああっ?!

 

 

 

……いや分からん

 

そもそも、ミューツーがあの行動取ったのはピカチュウとお父さんの友情やお父さんの正義ありきだろうし

なんならピカチュウの意思としてもあれは解決策というか作戦だったのかもしれないし

 

だからその……ピカチュウとテイムの関係性っていうのはその……その…………

 

……いやでもやっぱりさあ……。

違うじゃん……

 

ピカチュウとかわした、と思っていたあの会話たちが実は親子の会話だったんだ、というのがなんか、あああ、ああああ、そうか、ってなってしまってる。

 

言葉を交わさなくても、ポケモンと人は意思が通じるって思ってた。

思ってたんだ。

それでも、言葉を交わせることの幸せな景色がすごく好きだった。

だからこそ、なんとなく、あの会話がピカチュウと話したわけではなかった、ということにショックを受けているんだと思う。

ピカチュウ、と思っていた色んなものがそうではなかったのか、と頭が混乱してる。

あと、ピカチュウの意思はどうだったんだ、ってのもぐるぐるしている。

 

……もしかして、なんか大事なものを見落としているのでは?と思ってブログを書いた。

今度ほかの友達にも聞こう……。

 

 

誤解されたくはないのですが、私は名探偵ピカチュウ、すごく好きだったんです。

ほんとに、良い映画だった。

ポケモン愛にも溢れていたし、細かい演出も素敵でそれぞれのお芝居もすごく良かった。

 

だから、考え込んでいる。

 

二度目の蝶々は遠回りして帰る

二度目の蝶々は遠回りして帰る。
このタイトルが、とても好きだ。繰り返し思い出している。ふとした瞬間に。遠回りして、帰る。


私は、観終わってから2週間、いやもっとだな、しょっちゅうあの診療所のことを思い出していた。
トンチャイのことがきっと大きい。
人形だった、と気付いたのはお芝居が終わって駅への道を歩いている時だった。たまたま、目の前に同じく観劇帰りの人がいた。

「あれってつまり、人形だったってことだよね、初めから」

やけにそれが鮮明に聞こえた。
その瞬間、立ち止まりそうになって心臓がバクバクなって、しかし久しぶりに一人でお芝居を見ていたので、必死に飲み込んで足を動かした。
あーーーー本当だーーーーと叫びだしたくなった。そうだーーーーー。

それは、勿論、気付かんかったんかい、って話なのかもしれないんだけど、それ以上に私は、あの時の彼ら……タイチームのみんなの目線を思い出してノックアウトされてしまったのだ。
すごく、優しい顔をしてたんですよ。いましたよね?って聞かれたとき。優しくて、あったかい顔をみんながしてて、だけど何にも言わないんですよ。
あの場にいるみんなどこかおかしくて、不具合があって「それが治らないとして」彼らはそれを取り沙汰すわけでもなく、ただ穏やかにそれはそれとして、受け入れてるのが、本当に。

あんな、優しいこと、あります?

今こうして思い出しながらやっぱり泣きそうなんだけど。
ダニーの「家族ってこういうことを言うのかな」の優しさがたまらないのだ。


葵くんの人生は散々じゃないですか。お母さんを亡くして、罪を犯して友人に裏切られて父親は最低で愛する人を失ってひとり寂しく老人として生きてて。
なんか、ほんとに、嘘でしょってくらい苦しいんだけど、でも、生きてると困ったことに往々にそんなことってあって
コムタンたちが抱えてる「ちょっとした不具合」もみんなどっか、そういうとこがあって。
あるんだよな……あるんですよ……物語にすらならない降り積もるような不具合が。
それを全部引っくるめたら尚更、家族ってこういうこと、とか、遊園地とか、そういうのが全部愛おしくて優しくて……うう好き……。
そして、それを大きく騒ぐでもなく残酷に突きつけるでもなく、一緒にいる彼らが好きだ。
治さなきゃと騒ぐことも、責めることも、同情なんて全くなく「ただそういう人」として受け入れる彼らが好きだ。


ポップンさんのお芝居は、全然優しくないしわりとどうしようもなく酷い事が起こるのに、すごく楽しく笑わせてくれるから気が付けば何度でも観たくなるし、何度でも脳内で再生してしまう。

ポップンさんはわりと不謹慎も暴力も下品もあるし、だけど、なんか、それが心地いいというか、いやなんか語弊あるな。良い人なだけじゃないのが、良いんだよなあ。

 


そんな風に観終わった時につぶやいていた。

描く残酷さも、奇跡も、どこかあり得るかもしれないそれなのだ。あんだけとんでもない設定がたくさんだけど。

 

 

 

先生と彼のラストシーンが、胸に残ってる。誰より、自分が責めていたからこそ見えた幻。

ちょっとだけ不幸だと、生きやすいことがある。

というか、幸せ、って難しくてすごく楽しくてもどっか……例えば次の日からの仕事とかこっそり見ないフリをしてる誰かとの不和とか……そういうので、120%の幸せって難しいし

どうしようもない悲劇の後の幸せって居心地が悪い。

どんな顔していいか分からないからかもしれないし、もっと他の何かかもしれない。

許さない方がきっと、往々にして楽なんだと思う。誰をって、自分を。

 


だけど、だから、あの最後、笑ったふたりがとんでもなく素敵で優しくて奇跡みたいだった。

 

 

 

とんでもないハッピーは来ないかもしれない、劇的な救いなんてものはなくてやっと見つけた居心地のいい誰かを失ったり、病気は治らないのかもしれない。

だけど間違いなく、あなたと食べるオムライスは美味しい。そして、劇場で出会うポップンマッシュルームチキン野郎のお芝居は、面白い。

 

 

UNFADEDで色褪せようもないことに直面した

12月30日にライブにいって、三重のファイナルがまだある!!!!って姉とふたり、震えながらチケットを取った。

UNFADEDの話だ。


※一部演奏した曲の話をしています。
ネタバレ注意お願いします。

 

今回のライブのコンセプトにだいぶやられた。
色褪せない、という意味のツアータイトルを何回も噛み締めた。
しかも、色褪せんじゃろ!という提示ではなくて、どうかな?色褪せないと思うんだけど、っていう、その柔らかな共有が。

そうして、流れていく音楽のあちこちに自分のこれまでの時間とかぶるものがあって、それはとどのつまり、彼らの音楽が一緒にいてくれた時間とイコールだった。

ポルノグラフィティの曲の歌詞について、ふとした瞬間によく考える。
最初からハッピーエンドのラブストーリーや、運命の人だ、と宣言した瞬間別の誰かを好きになることとか。
抜き出すと恋愛のことが多いな。
でも、なんか、色々。
それで、今回のライブは不意打ちで耳に飛び込んだフレーズにただひたすら、ああ、そっかあ、とぼんやり、呟き続けていた。そっかあ、そっかあ。
それは、いつか聴いた曲のひと部分で、忙しい日常の中で落としてきたいろんなものだった。


ポルノグラフィティと出会ったのは姉との相部屋で過ごした数年間の中でだ。それは熱心に聴き込むのとは程遠い、むしろ、日常のBGMからのストーリーだった。
だけど、カラオケという選択肢を遊びの中で得た時、真っ先に覚えたいと思ったのも、彼らの曲だった。言葉を覚える時に、親の言葉を真似るところから始めるみたいだ。


そんで、そんでですよ。
ライブのたび、そうやって彼らが当たり前としていてくれた時間を考えていたんだけど、去年。
因島のライブ、直前にシャトルバスに乗るその瞬間に、中止の知らせを受けた。
残念ながら、私は度々、何かしら大きな楽しみが直前になくなるということに関して妙な縁があって、ちょっとだけ慣れ始めてもいるんだけど、それでも、やっぱりショックが大きくて、っていうかそんなもん慣れてたまるかだな?!いや慣れてないです嫌ですアレのたんびに気持ちがぼろぼろ落っこちるから!嫌!

ちゃうねや、そんなん、ええんや。


そんで、12月末、行って、あーーー、ってなったのです。
彼らの音楽が聴ける特別と歌い続けてくれることについて、ひたすら考えてたんですけど。
それで、こうして、ブログを書いている理由なのですが

ライラが、さあ。
やばい曲なんだろうな、とは悟っていた。友人の言葉に、あーそれはなんというか、と思って実は何ならちょっと聴くのも歌詞検索も避けてた。
んだけど、もう、真っ向からライブではノックアウトされるわけですよ。

歩き疲れたら、ってさあ。
歩き疲れたらって歌詞、ずるくないですか。

歩き疲れたら帰っておいで 懐かしい唄など歌いましょう。
が、まさしく突き刺さりすぎてビックリした。

疲れたよ、歩いて歩いて歩いて、だから、疲れたよって、呆然としてしまったし
そこで昭仁さんがあんなに優しく力強く、歌いましょう、って歌ってくれるの、さあ。
まるで、ファンタジーの歌ってMPとか回復してくれる魔法じゃん、と立ち尽くしていた。
そんでもって、なんてこった、と思った。

歩き疲れたら、と
人生なんて途方も無い暇つぶし、だと言いながら
唄ってくれる彼らはそれでも、立ち止まっていいとは言わない。
華々しく死ぬことを夢と言いながら、唄ってくれるのだ。
唄ってくれてしまうのだ。歩き疲れただろうと労いながら、それでも、また歩く力をくれるだけなのだ。


常々、私は音楽をはじめとするエンタメに生かされてると口にしているけど、
なんか、ここで、ああ、生きなきゃじゃんか、と途方に暮れた。
それは、なんか、どうしようもなさとどうしようもないことを知る人のとてつもなく残酷な優しさだと思った。
そう思うと、果たして、そうして生かされることは幸せなのか。と、なんだか思ってしまう。
だってそうだよ、歌詞の中で歌われるとおり、明日があるからと慰められても土台しょうもない今日の続きなわけで。


そんなん、どうなんだろ、とやさぐれたくもなるのだけど。


そこんとこがエンタメというのがずるいところなんだけど、どうしようもないと言いながら笑わせられてるんだ、気が付いたら。
ああもう全く、しょうがない。どうやら生きるしかないらしい。
ならせめて、歩き疲れたらここにまた帰ってくるから、その時はどうかまた、優しい唄で迎えてほしいとほんの少し、ベソをかきつつ、私は思うのだ。

死が二人を分かつまで愛し続けると誓います


死が二人を分かつまで、愛し続けると誓います。
あらすじを読んで、もう一度、タイトルを見るとその時点で肌がざわつく。
死んでしまってる。死が分かつまで、と決められた期限をこの二人は越えてる。だけど、一緒にいる。

だとしたら、二人はいつ分かたれるのか。
いつまで愛し続けると誓い続けなきゃいけないのか。
そんなことをまず、考えた。


あらすじ
『死が二人を分かつまで愛し続けることを誓います』(主演:小岩崎小恵)
死後、幽霊となって帰ってきた男・大介。妻の夏子は霊感があるゆえに、彼の姿を認識出来るが、もう二度と二人は触れ合うことは出来ない。
幽霊の夫と、幽霊を見ることが出来る妻。それでも変わらぬ愛を誓い今まで通り暮らしていく二人だが、無情にも時間はその関係を歪めていった……。
哀しき宿命を背負い、必死に永遠の愛を模索した夫婦が辿り着く、死と愛のワンダーランド。

 

教授の選択が正しかったのか、それとも大介の選択が正しかったのか。
同じように愛していて、同じような願いを持ってて。
どっちが、正しかったんだろう。


まずは、吹原さんの演じる家族たちの「あーポップンにきたぞー!」という爽快感。
ポップンさんは、わりと遠慮なくえげつなくどうしようもなさを提示してくるけど、こういうとこが大好きで、いやなんでやねんっていう、その心地良さ。
こんな不謹慎さや下ネタで笑うこともないなってくらい笑った。そこでゆきさんが「せめて今の時代大学くらい出てないとね」ってまって、やめて、そんなちょっと前のスペシャルドラマでありそうな台詞言うの頭が混乱する!!!みたいな…その、この、空気感。
ここから、幽霊たちまでひたすら走りっぱなしである。もう何が来ても受け入れるしかない。ポップンさんを観る時の私の基本姿勢は「受け入れる」だ。
目の前でこうだよ、と言われたらどんなトンデモ設定だろうがそっかあ!で受け入れる。これ大事。素直はいいこと。
と、安心(?)しつつも、やっぱり気持ちはざわつきだす。

「こうあるべき」「相応しい」「べき」

実は、このお芝居の根本的なところのぐるぐると考える部分はこのパートで動く心が教えてくれたりする。
こうあるべき、相応しくない。
じゃあ、死んだ人間が生きた人間の近くにいることは「相応しい」ことなのか。

と、言いつつも、私はこのパートがぶっ飛びが楽しいからというだけではなくとんでもなく好きなのです。
吹原さんが喪主をやること、絵が贈られてきたこと。そもそも、それだけ関係を築いた吹原さん→夏子への感情を考えると心臓のあたりがぽかぽかする。
若干前後した感想にはなるけども。
彼が昔、幽霊が見えた頃、唯一受け入れてくれた夏子さんを思うと、あんなに一生懸命走り回った気持ちも分かる気がする。
当たり前に「そう」であることを肯定されたこと。
それは、単純な話に留まらなくて、その人の軸みたいになって支えてくれたりする。そうした人の幸せを祈るのは、自然だし、そうやってお互い、祈りあってるのかもしれない。
ひとりぼっちになったかもしれない、と分かった時の吹原さんの表情が大好きだった。
そんなわけない、「ずっと旦那さんと共に過ごす」幸せの中にあったはずだ、と願う彼が大好きだった。
互いに好きだ、幸せでいて欲しいという気持ちを願い合うの本当に愛おしくないですか。
そして、夏子さんを特別に思う旦那さんの気持ちを理解する奥さん本当に愛おしくないですか。
あの夫婦本当に大好きでした。
ゆきさんと、吹原さんのあの空気感はなんなのか。いや、ポップンマッシュルームチキン野郎の人たちはみんなそういうとこある。そういうとこあるよ…!
なんか、なんだ、信じたくなるあの優しさの形とか温度とか。

大切な人の大切な人を大切にできる人が好きだよ…。

そして、「大切な人の大切な人」を大切にした幽霊の話ですよ。
教授…!もう、あの、教授…!

残酷なのは彼らが幽霊であることなんだよね。原始人の彼も落ち武者の彼も、ギャグとして彼らの死を語りはするけど「彼らは成仏できていない」
生になのか、死になのか、納得がいかずにさまよってる。納得して、巡り会い続ける蝶々とかの話が対になってるの本当に…えぐいことするなあ。

教授の素朴なまでの愛情が可愛くて愛おしくて、だからこそブローチを粉々にするまでの彼の気持ちを思った。そうしてなくなったものにするのは、どれだけ、と思う。
しかも多分、初めての憑依ですよね?
初めて、生きる・死ぬの感覚の違いを理解して、それこそ、もう一度触れられる可能性を理解して徹底的に彼は自身のもし、を叩き潰すわけじゃないですか。
本当に…もう…。
彼女に触れる為じゃなく、彼女を救う(と少なくても彼は思ってる)行動を選ぶ教授が苦しかった。し、だから尚更、彼の本音である「ここにいるよ」が。
幸せになって欲しかった。だけど、死んでしまった彼は、彼が幸せになることは選ばなかったんだな。楽しく過ごすことは選んでも。

悲しいことだし、それを正しいと切り捨てないのは、当然、彼らが成仏しなきゃいけないことの前提があるとして。
死んでもなお、生きてる人間に縋ることは間違ってるかもしれないとして。
それを、さみしく思うのは勝手だろうか。

 

何が正しいか、もう一度考えてごらん、というのは意地悪でも何でもなく、むしろ優しさなんだろうし。
触れられないままそばにいることを無邪気に幸せと呼ぶのも酷いと言えば酷いのかな。


当たり前に、何も変わらず過ごそうって亡くなる前の大介さんと夏子さんは約束してたじゃないですか。
そんで、たぶん、二人は何も変わらず、死後も過ごしてる。ああ、あの約束の延長か、と思った。思って、でも、回想じゃ二人飲み物を飲んでて、大介さんの「一緒にお茶も飲めない」にめちゃくちゃ泣いた。
ワーーーンって泣くんじゃなくて、心がくしゃってしたかんじ。
決定的に、変わってしまった。
大切なものが。

 


だから、大介さんの選択は苦しいけどそうとしかならなくて。
死が二人を分かっても、愛し続けているし、そう誓い続けてるのに、その世界はくっつかない。

 


教授の選択が正しかったのか、それとも大介の選択が正しかったのか。
同じように愛していて、同じような願いを持ってて。
どっちが、正しかったんだろう。


でも、ずっと辛かったわけじゃない。たくさん笑いもした。
何より、不思議と、抉られるような痛みは今回なかった。いい意味で。
死ぬこと、はみんな等しく降ってくるからかな。不思議だ。
くしゃ、とした心はしかし理不尽な暴力にさらされてるわけでもなかったのでしとしとと、寂しかったんだけど。お父さんの言葉に毛布とお茶を差し出された気がした。


好きなら好きでいい。
相応しいとか可笑しいとか、そんなの、どうだっていい。


どっちが正しかったか、なんて、そんなの、無いに決まっていた。結論を出すことでもなかった。
正しいか、なんて何にも意味がない。
ただ、好きだ、と思ってること幸せをたくさんたくさん祈ってること。
そこに、ふたりがいること以上に、意味があることなんて多分ないのだ。
死が二人を分かとうが、愛し続けると誓った二人は何も変わらないのだと。
それを悲劇とも、喜劇ともジャッジする資格なんて無いのだ。むしろそんなの、馬に蹴られてしまえと思う。
ただ、私には。いいよ、と笑って言えるくらい好きなことはとんでもない奇跡で、幸せだと思うのだ。

 

劇作家と小説家とシナリオライター

どんな感情になればいいのか分からなかった。観終わって、それは多い情報量に頭が混乱していたというのもあるし或いは今まで観てきた松本さん脚本はシンプルな、というよりかは感情移入の先がハッキリしていてしかし今回は観ている自分の感情がどこにあったか分からずに気が付けば終演していた、というのもあるのかもしれない。
ともかく、分からなくて分からないまま浮かぶ言葉をそのままアンケートに書いていた。書き終わって、ひとまず分かったのはこれは物凄い愛情の籠ったラブレターだ、ということだった。


公式サイトあらすじより
とある会議室に三人の作家が集った。劇作家と小説家とシナリオライター。ジャンルの違う場所で「物語」を作ってきた三人の作家は、企画会議を繰り返しながら、共同で「或る物語」を作ろうと奮闘する。
「ダイナミズムこそ物語の根幹だ」と劇作家は語る。
「言葉のディティールに物語の息吹が芽生える」と小説家は語る。
「リアリティがすべて。その中からしか物語は生まれない」とシナリオライターは語る。
着地点の見出せない「或る物語」の「登場人物」達は、様々な試行錯誤により「物語の中」で右往左往する日々。
締め切りの迫ったある日、三人の作家の前に舞台監督、編集者、ドラマプロデューサーが現れる。追い込まれた三人の作家が生み出す「或る物語」は、三人の想像を超えた世界へと飛躍していくが…。


物語は、制作現場と彼らが描く物語の二つの軸で進んでいく。しかもそれが時々、交差するという複雑な構成になっていく。
ただ、一シーン一シーンの緊迫感が瞬間的に盛り上がり、しかもそのまま次の瞬間にはがらりと色を変える。たぶん、この辺にも私が見終わった時の頭の混乱はあったと思うんだよな、ストーリーが分からなくなる混乱ではなくて、思い切り心が瞬間瞬間、すごい運動をしたので物凄い疲労を感じたのだ。
古本屋の小さな、だけど大きな影を落とす事件。
看板役者が辞めるある劇団の公演。
私の中で、特にこの二つは、心の渦がぐるぐると起きた。

赤川次郎にその値段はあり得ません」

この台詞、すげえ、と思った。
呻きそうだった。
赤川次郎さんは、とてつもなく人気で、素朴で絶対的に面白く親しみやすい作家さんだ。ただ、確かに「買取価格」としてあり得ない。全国展開している古本屋での値段はだいたい100円か、よっぽど綺麗なハードカバーで300円くらいな気がする。感覚の話だけど。
この何気ない台詞が「小説家パート」で出てくるのはすごくないですか。これこんな事細かに書くことではないのかもしれないけど、私はあの台詞で小沢さん演じる小説家、が好きになったのだ。そして同時に、そんな人が働くにはそこは辛いよ、としんどくなった。
「綺麗な言葉を使いませんか」
そういう彼は、現代的ではないというか、ああきっと、そんなの、こんな酷い言葉が溢れてて、しかもその言葉が大した意思を持ってないインスタントなそれだっていうくそったれみたいな(あー綺麗じゃない!)このご時世にきっと辛いんじゃないか、と思った。というか、観てる私は辛かった。
そしてその対称にいる店長と社員の構図が…本当に…。嫌な現実、の見せ方がともかくこの二人凄くて、私はぐるぐる唸ってた。心の中で。黒く、しかもクレヨンみたいなので塗りつぶす感じが、本当にともかく苦しくて。

そして、劇団のパート。
これは、もう、あの、本当にですね。
淳さんが引退するtwoを演じた、というのもあるのだけど。いやまあ、それは「私が観た劇シナ」の話をするなら絶対的に切り離せないんだけど。
土屋さんの言葉一つ一つがさあ。
そうだよな、決めたなら決めたって言うなら覆したり出来ないよな。
それに、何だろう、、もっと引き止めろ、とかあの大学生の子がしたことのようなのって、なんか、追いつかないというか、出来ないよなあと思った。
ただそこにある事実でしかないというか。結局、私はここの感想が全くまとまらない。ただただ、心がぎゅーーーっと締め付けられていた。飲み会終わり、何気ない会話からなく主宰が、そして、それをただ黙ってる彼が、愛おしくて苦しくて仕方なかった。あそこに、きっと彼らの過ごした幾層もの時間があって、それだけが事実だった。

引退公演のカーテンコール、正面席から観た横顔が、忘れられずにいる。ファンを名乗りたい人間として。いやもう、本当に…。

そういう、ものすごく濃厚な、しかしワンシーン切り取られたストーリーが重なっている。ただあくまで「切り取られた」なので、全部を知ることは出来ない。大きく言えばどんな物語も結局はそうなのかもしれないけど、瞬間的な空間だけが描かれてる今回、尚更、そんなことを思った。
そして、それでも物足りなさを感じないのは、劇作家、小説家、シナリオライター、そして「私」が心血を注いで生み出そうとするその熱量にあてられるからだ。
もう、あれは、あてられる、だと思う。
土屋さんのじゃなきゃ登場人物たちが可哀想だ、という台詞をはじめ、彼らは(プロデューサー、編集さん、ぶかんさんも)みんな、虚構の世界である登場人物たちに本気になる。
本気で、幸せにしようとする。全うさせようとする。
それは登場人物たちの世界と響き合って共鳴する。


全ては、受取手に届く瞬間のために。


劇作家や小説家、シナリオライターたちは自分の言葉を信じて感覚を信じて、そしてそれが時折、ぶつかって削られて、ってしながら。
これは、本当に、すごいことですよ。
擬似的に自分たちの大好きなお芝居が生まれていく世界を経験するような形じゃないですか。しかも、擬似的に、なの。感覚に細胞に沁みるみたいにそんなことを思ったんですよ。もう、これは、本当に。
そら、見終わった時どっと疲れてるわけだわ。


言葉、も、物語も大切にされてて、それが受取手の観客をその少し先に置いてくれてて、受け取って、って差し出されることが私はたまらない奇跡みたいに思えた。


そんで、その上で、ですよ。
私が、びっくりしたのは、ラスト。
劇作家が役者にここ一番の見せ場として長台詞を書くシーン。あそこは、もう本当に愛おしくて嬉しくて。
言葉なんて出てこないよな、というか、引き止めたりそんなんじゃないんだよな、とあのなんとも言えない感情を飲み込んで飲み込みきれず苦しいまま息を止めたから尚更。
一緒に芝居を続けたかった、も彼が決めたならそのまま進めばいいと思った、もどちらも本当ででも少し違うくて、じゃあ何かといえば、あのシーンが全てなんじゃないかな、と思った。


そして。
そしてですよ。
ラスト、ゼロの、心が動くシーン。そして、私たちの心が動くシーン。
あれが、台詞が一切なく図師さんのお芝居それだけで描かれた時、もう我慢ができなかった。耳鳴りすらしそうだった。
あれは、もう、ラブレターですよ。
みんなで積み上げたものを図師さんがギュウッてして、渡す感じ。そして、それを「わたし」が受け取って更に色付いて輝くあの、景色。


印象的なことがあって。
前説、夢麻呂さんが「今回アドリブをほとんどしてない」って話をしてて、それを聞いて、観て、ああ、信頼の形なんだな、というか。
それはアドリブがあるお芝居がダメだとか劣るだとかそんなつまんない話をしたいんじゃないのだ。
ただ、今回は少なくとも互いが互いを信じて、それぞれの持ち場を託せるという
それだけあなたが好きだ、というラブレターのように思えたのだ。助けるよ、もラブレターであり愛でもあるけど、そこは君の場所で、そこには君が思う存分やった方がステキなものが生まれる、と信じるのは、本当に、ラブレターじゃん…。


そして、それが観客のために、「わたし」の為に生まれること。
きっとそれは、「わたし」を信じてくれているからだ、ということ。


25年間お芝居を作ってきた劇団の記念公演で打たれるにはなんて優しくて愛おしい公演だろう。
この感覚は言葉にならなくたっていいのだ。あの瞬間、劇作家がここに台詞はいらない、といったように、そんな必要はないのだ。
それでも互いに、伝わっていると。そんな奇跡を、信じられる気がした。