えす、えぬ、てぃ

お芝居の感想など

「ずっと好きでいる自信も好きでいてもらう自信もない」

「ずっと好きでいる自信も、好きでいてもらえる自信もない」パンバスで、大好きな台詞だ。
2回目を観て改めて思った。たぶん、私はこの台詞に出逢ったからこの映画が大好きなのだ。


もちろん、他にも好きな台詞はたくさんあるのだけど。

 

 


私には、ご存知の通り(?)好きなものや好きな人がたくさん在る。だけど、その全部に自信がない。
自信、というと語弊があるかもしれない。パンバスに則るなら、自信、なんだけど。
明日の自分がどんな奴か、なんて一切分からない、そんな風にも、思ってる。
だから、何かのファンだ、と名乗るのが怖い。そうして、一度でも名乗って「おまえはあの時ファンだって言ったくせに」と後ろ指をさされそうな気がするのかも。
或いは、好きだったとして、「それは好きじゃない」と言われるのも面倒だと思ってる。小学生の頃、となりのクラスの先生が転任しちゃうと聞いて、泣いたことがある。となりのクラスだったけど、穏やかで優しいその先生は友人を訪ねた他クラスの私にも優しくて、それがとんでもなく嬉しくて大好きだったのだ。
でも、泣いた時、友人は、「私より好きじゃないんだから泣かないで」と怒った。いやもう、今思えば小学生の可愛い独占欲というか嫉妬心なんだけど。そうだよね、先生が取られちゃうような気がしたんだよね、と思うんだけど、なんか、その時はああそうか、自分より好きな人がいるのに、それを好きだっていうのは怒られるのか、って思ったことがあって。
もしかしたら、その時の気持ちがなんとなく残ってて、それがいつか好きじゃなくなる日のことへの不安と相まって、気になるのかもしれない。


まあ、そういうことを、時々考えるんですよ。

 


ところが、お芝居の好きだって話をする為だけのツイッターのアカウントを作ってこうしてブログなんかを書くようになったりすると、「そうして何かを好きだという私」をいいね、と言ってくれる方が、ちょっとずつ、現れたりして。これは、中々に、私の中では革新的なことだった。し、有難くて時々、取り出しては眺める宝物みたいな事実だ。


だから、尚更、私は自分の好きに誠実でいたい、と思う。嘘をついて、好きだということも、或いは嫌いだということもやめたい。無理に、好きだなんて、絶対に言いたくない。

 

 


ところで、私はこの夏、ずっと、本公演を出逢ってからずっと、それこそ、仕事をクビになった次の日も観ていた劇団のお芝居を、観に行かなかった。観に行けなかった。


いやもう、行かなかった、なのか、行けなかった、なのか、その結論が、いまだに出ないことが、一つ、私がこんな支離滅裂なブログを書いてる理由なんです。どうなんだろうな、ネット社会。こうして、文を書くことも、誰かに見てもらうことも容易になっちゃって、どうしたって、書いてしまうよね。手帳に書けって思うじゃないですか、思いますよ。でも、たぶん、手帳には書かないんだよ。


理由の全部は書かないけど、一つは限界が来たことだった。身内の不幸があった時を除けば、ほぼほぼ毎月、東京に芝居を見に行っていった。それが、今年に入ってから、色んな意味でガタがきてるな、と薄々チラつき出して、それが、よりにもよってこのタイミングで来てしまった。
でも、なんか、そんなん理由じゃねえじゃん、とも思うのだ。でも、遠いよ、東京。

 


私が何かを好き、じゃなくなる時は、きっと、パンバスで言うところの、「お付き合いした時」なんだと思う。片思いの頃は、ただただ楽しくてあれもこれもきらきらしてて、でも、だんだんそれが形を変えていく。知ったから。
それは何も、恋愛や、人に対してだけじゃないと思うのだ。
それは、本当のところを知った、とかだけじゃなくて。


ちょっと前に、ある呟きを見て、それを見た時、ああこの人にとって作ったお芝居は大切じゃなかったのかな、後悔があったのかな、と思ったことがあった。なんか、それが、すげえ悔しくて。いや、そんなん、観てても分かったっつーの畜生って思って、いやでもあんたもその作品の一部でしょって暴れまわりたくなったことがあった。
あ、もちろん、当たり前ですが、私がずっと追っかけてたその、本公演を観に行けなかった劇団さんではないです。彼らが、そんなお芝居、作るわけないと思うし、そんなん、絶対、嫌だもの。もしそうなら、こんな文、たぶん、落ち着いて書いてないわ。今落ち着いてるかどうかはさておきとしてね。


ともあれ、そんなことがあって、矛盾してるけど、もし、そういうので、このまま、例えば、嫌いになってしまったら、たぶん、身を切るよりしんどいな、とびびってしまったのだ。
私にとって、お芝居への好き、は好きの中でもそこそこにきっと特別で、特に今好きなひとたちのお芝居は、あまりに、今に地続きすぎるので。それを嫌いになっちゃうのは、いや、やっぱりしんどいんですよ。逃げを打ちたくもなるんだよ。
ただ、それは杞憂だったんじゃないかなって公演終わる最後の数日、思ってたんだけど。いや、全くの杞憂だよ。もし、そんな人たちなら、お前、好きにならなかったじゃん、と自分に若干、がっかりもするんだけど。


むしろ、私が好きな人たちはきっと、自分が出てる作品を愛して愛して愛して、そこにのっけてくれる人たちなんだよな、と、気付いたんだけど。それを、気付けたのは、まあ、本当に最高なんだけど。

 


たもつが、ふみの絵を見る、あのシーン。なんだろう。とびきり、愛おしいとも、そうじゃないんだけども、ともごつきたくなる。
訥々とした、あの、空気に触れてる間、私はたぶん、息を止めていた。


絵を完結させること、完結させた絵を美しいということ、そしてそれを寂しいね、とたもつが言ったこと。

 


なんか、私は、あのシーンで、じゃあ好きじゃん大事じゃんって思う。それがお付き合いになるか、とか愛子より、とかはさておき。
いやつーか、別に愛子より、とか必要ないじゃん。一回そこに愛情があることにびっくりして抱きしめる事実では?

 

 


すげえ、寂しいなあ、と思ったんですよ。心臓が、観れなかったってのに、ぎしぎしなったんですよ。
それは申し訳ないことに、作品に、ではなくて、ただ、あの人たちが、あの人が作ったお芝居を、なんだけど、だけど、ああやっぱり、観たかったなあと思ったんですよ。
私は、いま、そのことに安心してるのだ。
あー私、まだ、好きじゃんって思ってるのだ。


観てないものをとやかく言う権利もないし、やっぱりお芝居とか、そういうの、なんか、明け透けな言い方をすれば、お金を落としてこそ、とか
それは置いとくとしても、行かなかったくせに行きたかったと騒ぐことの浅はかさとかは、もう、重々、承知してるんだけど、
いたその人には伝わってると思うって登坂さんもUMPの時に言ってたけど、ちゃんと向き合わないと分からないことってあるしさ。
でも、なのでこれは、完全に私による私のための、私の好きという証明で、逆に誰かに証明しろって言われたらすいませんって思うし、後ろ指さされても石投げられても、もうそれは、そうですよねって思う。


けど、やっぱり、私は私に、好きじゃんか、お前って言ってやりたいのだ。

 

 


こんな文、じゃあ、ブログに書くなって言われそうだけど「誰かが読んでくれるかもしれない文」しか書けないのだ。ごめんな。
パンバスのこと考えてたら、ようやく、言葉になるような気がした。
大泉さんがちょうど忙しくなりだした頃に連載してたコラムで書いた好きなもの嫌いなものの文がすごくすごく好きで、なんか、そういうの書けばちょっとは整理つくかなって思ったってのもある。ついた。

 


好きだ、私は、今も、たぶん、とうぶん先、これからも。
そして例えばもしも、そうじゃなくなっても、今この好きだって気持ちがあったことは消えやしないのだ。出逢って大好きなことが歩かせてくれた道が続いてきたわけなんだから。

 

だから、これからも、肩肘はらず、別に誰かの為じゃなく、私がそう思うから、好きでいてもいいだろうか。


なんだか、私はそんなことに、とんでもなくほっとしているのだ。
大好きだー!!!!!!

遠くの花火→もう一回の乾杯

先日、HEP HALLで観た空晴さんのお芝居。

そのDVDを2作観た。

 

関西弁の心地のいいリズムとあるあるの会話。

なんだろうその懐かしさからなのかまるで違和感なくするすると物語に入り込んでいく。

ひとつは、十年祭(10周忌)と10年ぶりの町の花火をきっかけに集まる親戚とお隣さんの、もうひとつはある式を巡っての家族の話だ。

 

人の死、がテーマになっている遠くの花火。

ひとつは10年前の、もうひとつはつい先月の。

もう、なのか、まだ、なのか、やっと、なのか。

出てくる人々はそれぞれにそれぞれの距離感で死に向きあっている。

 

やっぱり印象的なのは、先月亡くなった弟の格好をし続けるあおいちゃんだ。

歪で、違和感のある笑顔と受け答えは、おばさんが「あんたはしんどないんか」と聞いたことで、崩れる。

しんどい。平気になるなら、今すぐその薬ほしい。

そう、言いながら泣き崩れることはできない不器用さというか。ただ、不器用というより、あれは、なんだろう、処理しきれない感情なのかもしれない。

物凄く悲しかったりする時、素直に泣く、とかそういう処理すら追いつかないというか、やってきた感情が大きすぎてそのままにごろん、と横たわることがあるじゃないですか。あのシーンのあおいちゃんはそんな気がした。

 

10年前に妻を失った旦那さんと、その妻のお姉ちゃんと。

再婚のエピソードで「もうですか」とお姉ちゃんが口にした、あれは、本当に。

どれくらい悲しんでるか、どう過ごしてるから悲しんでない、とかそんなの誰一人分からなくて、その人しか、知らないのだ。そして、なんなら、自分だって処理できず横たわる感情をただ呆然と眺めることしかできないかもしれないのだ。

死んだ人との距離はそれぞれで、それは誰とも共有できないのだ、という台詞が耳に残った。

なんか、ほんとそうで。

薬は、明日あげると言い続けるしかないし、ある日急に効果をなくす。夜とか、突然いなくなったその人のことを考えて、叫びだしたくなることがある。

だけど、ただただ、明日って言って生きていくしかない。

私はそのことにとんでもなく途方に暮れてしまう。

 

お父さんが、あおいにもういい、あおいとして過ごしていいと言いながらも夢に出てきたさとしの面影を必死に追ってしまうことも。

大丈夫って言葉も嘘じゃなくて、だけど、大丈夫なはずがないのだ。たぶん、一生、その人がいなくなった穴と向き合って生きていくしかないのだ。そんなん、あんまりじゃないか、と思う。そうやって生きていって、なんになるんだよ、と言いたくなる。

 

大福が入ったパンを思って、いつかくる楽しいを思って、誤魔化し誤魔化し、やっていくしかないのか。

 

無理に立ち直ろうとすることも、支えようとすることも、出来るわけないよなあ、と思う。

だって、その距離感はそれぞれしか分からないんだから。

 

 

と、思うと、同時に上演されていたというもう一回の乾杯がある構成に感嘆するしかなくなるのだ。

もう一回の乾杯、は形が変わろうとする家族が出てくる。結婚するひと、離婚しそうになってるひと。そして、そうして形が変わったのは自分のせいだ、と思っているひと。

遠くの花火を踏まえるなら、いや踏まえなくても作中で言われるとおり、「家族も結局他人」で「どうせ分からない」のだ。

誰かを亡くした苦しさと、昔のしんどいことを突然思い出して叫びそうになる気持ちとか、もう、自分で向き合うしかないんだから。

下手にそれに触れられようとすることは、ひどくお節介で、デリカシーのない行為にすら、思えることがある。

 

だけど、だから、家族やもん、と何度も話そうとするおじさんの姿にあーーーーと思ったのだ。

分からんよ、なんも言えんよ、けど、話したい。

そう言って鬱陶しいほどに話しかける姿に、笑ってしまうし、愛おしく思った。

他人なんだけど。自分じゃないから、共有なんか出来ないんだけど。

明日、って言いながら時間薬しか、効くものはないんだけど。

 

でも、寄り添いたいと思うことや笑っててほしいと思うことは嘘ではないのだ。間違いでも、ないはずなのだ。

 

乾杯、とその場にいる人と笑い合うその姿はとても、素敵だった。幸せだった。

それだけで、叫びだしたくなるような穴を抱えてでも生きていく、その価値はあるような気がしたのだ。

 

 

焼肉ドラゴン

生きることが地獄だって切り捨てられたらいいんですけど、そこでも、笑って生きていくしかないんだなあ、と私は家族がバラバラになったシーンで思ったのでした。

 

焼肉ドラゴンを観た。
あの、大泉さんが出てるってのは間違いなく観た理由だし嬉しいんだけど、
それ以上に私はこの作品にとんでもなく思い入れがあって。

ちょうど、この元となったお芝居が上演された当時、大学1年の春だった(歳がバレるね!
当時、オフィスキューのタレント陣がたくさん見に行ってて、私はその感想にめちゃくちゃ焦がれていた。

熊本に、お芝居がないとは言わない。
なかったら、私はこんな人生を送ってない。だけど、圧倒的に、お芝居やエンタメやともかくそういうものに触れられなかった。ゲキシネが始まった時、その極上の芝居をこんな場所でも観れるなんて!って興奮しながら友人と話したのを覚えてる。

焼肉ドラゴンは、そんな中、大阪に進学する私にとって「手が届くお芝居」だった。
焦がれまくった、目の前で同じ空気を共有して観る、お芝居そのものの好きなところを遠慮なく思い切り、楽しめる。
すぐさま、予約して大阪に行ってすぐくらいに、観に行った。

終わったあと、くらくらしたのを覚えてる。
これから、こんな凄いお芝居を幾らでも観られるんだってことが嬉しくて、今まで気付かないまま見落とした芝居がどれくらいあったのか途方に暮れて。
そして、何より、焼肉ドラゴンの人々が愛おしくて。
終わったあと、友人と合流してご飯を食べたんだけどほとんど喋らなかった気がする。というより、そこから先の記憶がびっくりするくらいない。

ともあれ、そんな大事な作品が映画化するというのだ。しかも、そこに、大好きな大泉さんがいるというのだ。
心臓が、ざわざわした。

 

大阪の片隅で生きる所謂「在日」の家族が営むホルモン屋、焼肉ドラゴン。
物語はそこの長男のナレーションで始まる。
騒がしくてごちゃごちゃしてて、僕はこの街がこの街に住む人が嫌いでした、という時生は大阪の進学校に通うが、虐められて言葉が喋れない(喋らない?
ただぼんやりと、屋根の上、街を見てる。

時代は高度成長期で万博が大阪で始まろうとしていた頃で、凄い勢いで色んなものが戦争から離れていく時代だ。そこから取り残されたようにボロボロな街で、家族とそこの常連たちは騒ぎ、生きる。

 

物語の中で、わりと家族には酷いことがたくさん起こる。
景気なんてちっとも彼らの周りは良くならないし
見下して見下すし
結婚は不倫に変わるし
キャバレーでは殴り合いになるし

ただ、それでも、彼らは生きてる。
別に楽しそうでもない、幸せそうでもない。だけど、生きてる。生きて、時々笑って騒いで、生きてる。


根っこに彼らの苦しさとか遣る瀬無さがついて回るのにそれでも、しんどくならないのはそれ以上の生きる、なんだろうあれは、熱量というか
それは、なんか、綺麗事で片付けちゃいけなくて
根性がどうこうとかじゃなくて、
ただ事実として
誰がどうなろうが、彼らは生きてる。

そんなことを、アボジの台詞に思った。


ちょうど、午前中、シネファイを見ていて、その中のカナリアの中で出てくる台詞にそーなんだよな、と思ったことがあって。
自殺が良い悪いの話ではなく、宗教の話でもなく、なんか、単純に、生きていくしかない、って思っていて。
生きていくしかなくて、でもかといって、生きていっても幸せになれるとも、そもそも幸せがなんだって話で。だって、ずっと幸せなんて、あるわけがないのに。

働いた、働いた、とアボジは言う。
働いた、働いた、色んなものを失っても、家族の為に、一生懸命。そして、彼はここにいる。

時生が、死んでしまうんですが。
あのシーン、芝居だと、街の屋根から落ちるんだよ(視覚として、なのか、それとも物語上でもそうだったかはちょっと記憶に自信がない
私はそれがとんでもなく残酷で悲しいことだと思ったんだけど。

時生が死んでしまったのは、そういう、生きていくしかないこと、に途方もなさを思ったからじゃないかと思って。
自殺は本当に作中に出てくると無になるくらい苦手なモチーフなんですけど、でも、なんか、時生にはそうだよなって思ってしまっている。
虐めくらいで、ってアボジの台詞を責めるわけではないんだけど。
なんか、あの台詞がきっかけだとも思わないし。
なんか、そんなんじゃなくて、あー無理だなあみたいな。そういう。
生きることが、途方も無い闘いみたいに思えてしまって。
別にそこに日本人がとか韓国人がとか、戦争とか格差とか、そういうのが、無関係とまでは言わないけど、関係ないところの話で。ああでも、より、しんどさはあったのかも、しれないけど。でも、彼らの苦しさも、例えば済州島のことも、きちんとは知らないし知ることは出来ても感じる、とは違うことを思うと、そこは私が語って良いところではないと、思うんだけど。


ラスト、家族のシーン。
もしくは、てっちゃんがしずちゃんにそれでも好きだというシーン、あるいは、りか姉ちゃんがキスするシーン。

なんか、それ見て、ああ一人じゃ生きていけないなって時生に話しかけたくなった。
しんどいわ、一人じゃ。
逆に一人じゃなきゃ、生きていかなきゃいかんわ。
嫌だし、途方も無いけど。
だって、君が死んじゃった時のオモニの声聞いたらさ、そら、生きてかなあかんわ。働いて働いて、途方も、ないけど。

でもきっと、それを時生だって分かっとるんでしょう。


ラストの、アボジの叫び声が時生の叫び声と共鳴してるように聞こえた。離れていようが、生きていようが死んでいようが、彼らは家族だった。
あー生きてる、と思った。
それは、アボジの言う、明日は佳い日になると信じられるって言葉によく似た気持ちだったように思う。

君の名前で僕を呼んで

ずっと考え続けてることがあって
どうしようもなく大切な人と出逢えることは果たして幸せかどうか、ということなんだけど。
そんなことを、私はこの映画中ずっと考えていた。

 

静かな映画だった。
避暑地で、17歳と24歳の青年がゆっくり惹かれて反発して、駆け引きして、恋に落ちて触れて、お別れするだけの。
派手なことも起こらなければ明確な何か劇的なシーンがあるわけでもない。
語られる言葉以上に彼らが読む本や、研究する彫刻、奏でる音楽にその気持ちが宿るような。

 


あの、私はこれを愛の物語だ、と思ってですね。恋なら良かったのに、とすら思うんだけど。恋の傷は、いつか癒えると思うし。
ただ、これは、愛だよ。

(三代目さんの新曲で愛になりきれず、恋のまま好きになり過ぎたからお別れする曲があるけど、愛になったってそれがイコール永遠ではないと思うんだよな)(また話が飛びましたね)(はいそうですね)

 

同時に、青年同士の同性愛の話でもあるんですが、私にとってそこは些細というか
同性だったから、結ばれなかった、と言われると、いやそうなんですけど
そうなんですけど
でも、なんだ、ああそうか、そのたらればってまた、全然違うというか。
だって、なんか、あれはエリオでオリヴァーだったから成立した恋で愛じゃん。
なんか、それを異性同士だったならって話しちゃうと、ケーキの話してるときにでもカツ丼は衣が重要だよねって言われるくらい今その話いる?!みたいになっちゃう。何言ってんだ。

 

 

もう、だから、同性愛とか異性愛とかじゃなくて、これは、エリオとオリヴァーの恋で愛になった話だと思う。

 

 

 

エリオが愛されている描写が愛おしい映画だった。
オリヴァーとのあれこれではない。勿論、それも含まれはするけど。
そうではなく、家族や友人、使用人の人が彼に触れるその手のあたたかさと優しさが私はたまらなく好きだった。
ソファでお母さんが小説を読む、あの美しいシーン。
父と母の上に寝そべり、互いの手に触れるあの優しさに私は鼻の奥がツンとした。なんなら今もしてる。

 

エリオの演奏や編曲のシーンは美しくて、彼は、善なるものだなあ、としみじみ、思う。
その彼が大切なものは何も知らないといい、知っていて欲しいから、知りたいからと告げるシーンは、そういう彼に積み重なった美しく、優しくてあたたかなものの行き着く先な気がした。

エリオから、オリヴァーに向ける愛は、どうしようもなく例え肉欲の伴うシーンであっても、切実で泣き出しそうになるくらい、あたたかさに満ちていた。

 

エリオの秘密の場所で、キスするシーンが、とんでもなく好きです。
あそこで、唇を先にくっつけるんじゃなくて、戯れるように、そのくせどうしようもなく性急に、なのにどこかじれったく、唇を合わせるまでの仕草が。
言葉が追いつかない感情ってたしかにあって、でもそれは態度や仕草や触れ合いでも、本当は全然埋まらなくて。
なんか、だめだ、あのふたりについて考えてると何も追いつかないくらい愛おしい気持ちを想像してしまって、私は心がしんどくなる。

 


どこが、恋に落ちた瞬間だったのか、なんて野暮な問いかけじゃないか。
きっと2度目以降観た時、私はそこらじゅうに互いが惹かれていく姿を見つけると思うのだ。

 


夏のシーズンが終われば、いつかお別れしなくてはいけない。
男女なら、とここで散々最初にこれが異性愛ならとか同性愛だから、なんてのが全く関係ない話なのだ、といいながら、書いてしまうんですが、男女なら、あそこで結婚の約束なんかして、或いは近くで住む約束をしたんだろうか。
でも、やっぱり、書いてみても、なんかそれとこれとは、違う気がしてしまうな。
オリヴァーが口にした、うちの両親なら矯正施設行きだ、という言葉や時代背景を思えばそことそれを分けて考えるのが無茶な話だとも、思うんだけど。ただ、付き合って、手を繋いでキスして、セックスして、結婚して、って流れに乗ったなら乗れたらなら、ってそういう、それどころじゃねーんだよ、って思ってしまうこの感情はなんだろう。

 


幸せな時が永遠に続くことはないし、
それはどんな関係でもそうで。
エリオからオリヴァーに向けての感情の話ばかりしてしまうけど
あんなに愛おしい必死な美しい目があるだろうか。そして、その目がずっとそうしているわけにはいけないなんて、ほんと、なんて時間が流れるってのは残酷で野暮なんだろうか。

どくしようもなく愛おしい人に出逢えることを素直に幸せ、と呼べないのはずっと形を変えないものなんてありはしない、と思っているからかもしれない。

 

 


そんな風に考えてしまう私にとって、衝撃だったのは、あのお父さんとのシーンだ。
あのシーンは、すごい。
役者さんのお芝居も、脚本もセットも映像も照明も音響も全てがすごい。

君が今、こういう話をしたいのは私じゃないだろう、そう、言う、あのお父さんもまた、善なるひと、だと思った(ここの英語での表現が知りたいので英語字幕のDVDを買いました、楽しみです

だけど、あそこで、お父さんは彼と話したかったんだよな。それは、エリオを愛しているからだし、そういう愛を信じてるからだ。
友情や、親愛とも形が似た、だけどもっと特別で誰もが手にできるわけじゃない、そういう、愛を。とびきり、痛く愛おしいその感情のことを。


痛みを葬るな、という。私が観た吹き替えでは痛みを切り分けるな、だった気がする。


彼らは互いを自分の名前で呼んだ。


それは、大切なものに名前を書くような所有欲の表れのようにも思えるしもっと切実なもののようにも思った(ベターハーフの元はひとりだった魂の伴侶についてと関連させた感想を見かけた。なるほどなーと思った。
自分が、大切で愛おしい人の一部になったら、それはなんて胸を焼くような幸せなことだろう。
なんか、そういう幸せで切実な願望の詰まった響きに思えた、あの、互いの名前を呼ぶところ。
どうしようもなく、辛い別れがくるというのに。自分が一部になったような、というのは錯覚でしかない。
身体を重ねても、アクセサリーを置いていっても、シャツを交換しても。
ただ、確かに、痛みが残ってる。
心が痛む、それが確かに彼を愛して、愛された証拠だとしたら。
それを葬るな、ということは、なんて残酷だろうと思うし同時に私も葬ってくれるな、と思ってしまう。
耐えきれず、大切なものとお別れすることは容易い。その後はきっと生きやすくなる。何もかも、簡単に見えるかもしれない。
だけど、その大切なものはそんな簡単に手放すにはあまりに惜しい。必ず手にできるものではなくて、出会えたこと、それだけでもまず、奇跡みたいに思うのだ。
だって、あのふたりの名前の響きは、とんでもなく優しかったので。

 

 


なんて、厄介だろう。
愛でお腹が膨れることはないし、雨風は凌げない。だけど、愛がないと生きていくのは苦しいことがある。
どうしようもなく、膿むのに。じくじくと消えない傷を残して、その対処はただそこにあることを抱き締めるか、切り捨てるしかないのに。
痛みを葬るな、と言ったお父さんの言葉を思い出す。

 

お腹を膨らませることのない愛が、きっと彼らを生かすのだ。
今はそこにないというどうしようもない痛みを伴いながら、愛し愛された記憶が彼らを。きっと。

 

ウタモノガタリ

シネファイ、2作目。

素朴な疑問として、ともかく抽象的な作品が多くてそれはなんでだろう、と思う。

まあ、シネファイに限らず何故かショートショートってなると不思議だったり抽象的な話が増える気がする。

 

制限時間があるから、想像の余地で物語を大きくするためかしら。

 

そういう意味では、シネファイはそう作られるということがとてもしっくりくる。

演技と映像と、音響照明と、それに加えて、楽曲の持つストーリーが重要なわけなので。

ただ、だけど、思ってしまうのは、あまりに想像の余地が大き過ぎないかなあ、ということで。

これ、完全に好みの話をしてます。

私は、お芝居とかで暗転長く見せられて「想像してください」って言われるのがすごく苦手なんです。

いやいやいやむしろ集中力切れるわって思っちゃう。その程度の集中力の私にも非はあるね、そう思う。

同時に、行間読みが好きなくせにこれはここは、行間読みするとこですよ、と手のひらを見せられるといやまずそちらで詰めてくださいよ、と鼻白むところがあって、そういう意味で、私は、ある意味、シネファイと相性が悪いのかもな、と思う。

 

でもなーーーー私、LDHの、というか三代目さんとかのストーリー仕立てのMVめっちゃ好きなんだけどなーあっちに張り切るのは無しなんですかねーーー曲流し続けるのがなしだからなし?

などなど、思いつつ、後半のour birthdayとカナリアはとても、あーそういうことか、としっくりきたので、やっぱりただの好みかも。

物語と音楽がしっくりきた、し、抽象的な表現も含めて全部がすとん、と、飾ってなくて、ただただそこにあるものだったから、好きだった。

 

 

あ、でも。

ファンキーの岩田さんが水中で踊りだすシーン。

あれは、あ、そうか、って思った。

言葉や筋書きでは足りない溢れるものをダンスで、表情で、あるいは、音楽で魅せられるんじゃないかってのが、この企画の目指すとこなのかな、そういうのは、とても好きだな。

し、そのまま、抱き締めるお母さんが愛おしかった。表現ってどこにでもあって、その形は決まってないってのは、私にとってはとても好きな考えです。

だから、結局、もし次、またシネファイがあるよ、って聞けばドキドキしながら観に行くんだろうなあ、と思った。タイミングにもよるけどね。

あと単純に監督との相性はあるよな、絶対な。

 

 

山茶花

「きみと一緒でいられる場所へ」

 


ENGさんはともかく、暖かい。

あれはもう、たぶん好きという感情が詰まってる場所なんじゃないか、といつも思う。なんか、あれはもうENGさんというジャンルなんじゃないか、と思ってる。

 

 

 

山茶花、そんなENGさんの中でも特に人気の作品らしく。

情報公開の時からその期待感が色んなツイートから伝わってきた。

もっとも、私は山茶花を観たことがなかつたので、あーよくタイトル聞くやつだ、と思っていたわけですが。

観終わって、なるほど、これは人気なわけだなあ、としみじみ思ったのでした。

 


宮城さんの脚本は、役者さんがそれぞれ「その役をどう深掘りしていくか」がすごくポイントになっていくような気がしてて。いや、正確には私にとって、の話なんだけど。

世界観とか、行動とかの大枠の提示が脚本の大筋で、そこにどれだけ詰まってくるか、みたいな。うまく言えないな。伝わってますか。

楽しかったー!ってなる宮城さんのお芝居はそこで分かれるなあ、と今まで何本か拝見して思うのです。たぶん、2時間でやるには色々と広い物語と多い登場人物だからかも。そこで好みが分かれるなあ、とも思う。

まあ一つには私の中にファンタジーとかの文脈が少なすぎて物語を飲み込むのに時間がかかるせいかもしれないですけども。

でも、なので、役によって、「好き!」ってなるかどうかがいつも以上に台詞以外の目線とか表情とか、何気ない仕草とかにウェイトが置かれる。私の中で。

無駄のない所作とかだけだとさらさらっと流れていくというか、違和感は覚えないんだけど、あとで、え?何で?ってなるというか。

謎!ってならないけどしっくり来ないままで流れていく。

全部は台本内で語ってくれないしね、宮城さんの脚本。なんとなく、印象として。

 


それはさておき。

 

 

 

あらすじ

飛騨の山奥に生息する妖怪「やまこ」

この妖怪 雄しか生まれないため 人間の女をさらい 子を産ませる…

 


やまこの青年「サンサカ」とその弟「ヒゴ」と「シシ」は嫁さん探しのため

妖怪の里から人間界に降り立った

都への道中 山賊に囚われた少女「つばき」に出会う

生まれて初めてみた女に話しかけるつもりが山賊に捕まり

四人が連れて行かれたのは人里離れた森の奥深く そびえ立つ大屋敷

そこは大商人・藤屋源兵衛のハーレムだった

 


山茶花(さざんか)の花言葉は「理想の恋」

 


つばきと出会い やまこにとっては禁断の「ヒトの愛」を知ってしまった

サンサカは 彼女を自由にするために人間達に立ち向かう…

 

 

 

 

 

 

サンサカは、愛されることが第一条件であり今回サンサカを演じた丸山さんはそれを完璧にクリアしていた、とはプロデューサーのぶさんの言葉である。

確かに、と思うんだけど、同時に、誰より愛してた人だ、と思った。丸山さんもサンサカも。

 

 

 

やまこはただ女に子どもを産ませるためだけに人里に降りる。のだ、ということをあらすじで読んで改めて思い至ったんだけど。

だから、人の愛を知ってしまうことは禁忌なのか。

 


あの、この、やまこの行動ってある意味源兵衛と同じじゃないですか。ちょっと乱暴な括りですけど。

恋を「ふたり」ですることだと定義付けるなら、源兵衛の自分の寂しさを満たしてほしいという感情や子どもを産ませる、というやまこの目的は相手がちゃんと存在してない。

 


そういう意味で、恋、という相手、他人、が存在するかどうかの線引きは強烈に彼らの運命を分けたなあ、と思うわけで。

 


茶奴さんも、ゆきのことを結局目を背けた事実はある意味ではずっと、独り相撲だった、と思ってしまうし。

 

 

 

 


サンサカは里でひとりで過ごしたからこそ隣にいる誰かの存在の大切さを知ってたのかな。やまこの三兄弟は、それぞれ独りぼっちになってしまうかもしれない、という恐怖からそれぞれ一緒にいることを自分で選んで大事にしてきたんだろうなあ、と思う、と、なんだか苦しい。

そうできなかった、源兵衛や茶奴について考えてしまう。

あの人たちは選ばれなかった人、なんだなあ、というか。

それを自業自得と切り捨ててしまうのは、と思いつつ、彼らによって傷付いた人たちもたくさんいたわけなので、うーーーーん。

 

 

 

誰かの為に指輪を使うと思わなくて、それもまさか心配かけないために元気だ、と嘘をつくために、だなんて。

いやそれはとんでもなく優しいけど、悲しいじゃん、と思った。

理想の恋、の意味を延々と考えてるんだけどそれは誰かの為に自分の想いとか命を使えること、なのか。

サンサカや椿の、或いは弟たちの恋を想うとただひたすら相手が笑顔でいることを願って行動して、ってことだったように思うんだけど。

いやもう、そこは泥臭く相手と「ふたりで」幸せを掴もうとしてよ、と泣きたくなってしまうし、それを理想の恋と呼んでしまうことの切なさが・・・。ただ、ひたむき、が花言葉の中にあるって聞いて、更に泣いた。そうだね、もう、ひたむきに、ただただ、真っ直ぐ相手の幸せを願ってたんだね、じゃあ仕方ないね。。。

幸せであろうとした、最大限の結果なんじゃないかなあ、と思いつつも、やっぱり、キュッと、切なくなる終わりだったなあ、と思います。

だから、カテコで笑い合うサンサカや椿、やまこの兄弟を見て、あーーーーこのカテコを用意してくれるの優しいー!!!!!って叫びたくなったのでした。

 

 

 

あれが理想の恋だとしたら、それはとんでもなく悲しいと思った。悲しくて、なのに美しくてラストのてんげが降り積もるのをただじっと見ていた。

たしかに、誰かの為に在ろうとした彼らはとんでもなく愛おしく格好良かった。そして確かに、幸せだったろうな、と思うのです。

 

崖っぷちホテル ホテルインヴルサが起こした大逆転

終わってしまった。崖っぷちホテルが、終わってしまった。
今とんでもない喪失感に駆られている。
でも、ツイートだけで発散できずに、ひとまず、ブログを書いている。


3ヶ月。
3ヶ月間、私はこのホテルが大逆転、していくまでを見てきた。その一つの大逆転劇が終わったのだ。

 

 


無事、花火大会とお祝いパーティーを成功させてホテルインヴルサ。
その、成功を見守る宇海さんの表情に不安を感じなかった視聴者が果たしているだろうか?


宇海さんたち明るい系民族は、実は思ってることを口にはしてくれない。ストレートな感情表現、なんて、私たちを気遣ったパフォーマンスでしかなく(なんていうと少し大袈裟だけど)本当に言いたいことはいつでもそのぎりぎりまで言ってくれないんだと思う。


そして、その予感は最終回的中する。


夢を、現実にしてしまった怖さ。
最近好きだ、と思う作品はどれもハッピーエンドか分からない、という話を少し前にツイッターでしたことがある。
生きているから、例えその瞬間が幸せであっても、あるいは不幸であっても、それは瞬間でしかなく、彼らは生きていく。
最近好きだ!と思うのは、そんな、あ、この人たち生きてる、と思う作品ばかりなので、ジャッジが出来ないのだ。


夢を現実にしてしまう怖さ、と聞いて私が浮かぶのはそんなことだった。
この瞬間に終わってしまうなら、それは人生最良の最期の時だ。だけど、続いてしまうなら?
それは、いつか、思い出して切なくなる幸せ、に変わってしまうかもしれない。
あるいは、行き過ぎた幸せは、これ以上はもうないんじゃないか、と過ぎる不安と背中合わせなのかもしれない。

 


わっかんないっすけどね!
宇海さんが言ってたのはちょっとズレてる気もする!うん!ズレてるかも!
夢を現実にする、という意味では!!
ただ、その、ちょうど今日(6月17日)放送のぼくらの時代でも、似た言葉を話していて。
一生、これを好きでいられるのか楽しめるのか、続けたいと続けられるのか、と。
カレー研究料理家と役者たちが話していて。
あー、そうだな、とおもったばかりだったので。


永遠なんて、ないのだ。
そして、それをとんでもない苦しみと一緒に実感するのは、得てして、とんでもない幸せの時なのだ、

 


そして、それを受けて、支配人が夢の場所だって言ってくれたから、と背中を押して見送ること決めるじゃないですか。もう、そんなんさ、泣いちゃうんですよ。


夢、を背負う人たちはどれだけ苦しいんだろう、と他人事みたいに考えちゃう時があって。
そんな期待とか、ともすればやっかみとか、綺麗なものだけ塗り固めて、そういう、なんか、しんどい思いをしてる、夢の、まあ、ここでいうならたぶん職業・仕事の人たち。
それを総支配人は宇海さんがそう私たちのことを言ってくれるなら、って言うわけじゃないですか。


これは、とんでもないことですよ。
いつだか、宇海さんが言ったこの人化け物なんじゃないか、ってめっちゃ思ったよ。
そんなしんどいことを、引き受けるって言うんだよ、この人。


夢があまりに理想的な幸せの形で叶い過ぎたことをこわい、といった宇海さんに、
じゃあ私たちがあなたにとっての夢の場所でいますよ、と宣言すること
だから、あなたは安心してください、と笑うこと。


3ヶ月前に、理由をつけて怖い、不安だと言ってた総支配人がですよ?

 


あなたの夢は守るって、笑ってるようなもんじゃないですか。
そんな怖くて辛いことを、やってのけるって約束するんですよ。しかも、それがここでみんなとならできるって言ってるんですよ。


あの、崖っぷちホテルは、ほんと、夢のように優しいと思うんです。
綺麗事、と切り捨ててしまえばそれまでなんだけど、私にとってはこうであれ、の優しさがたくさん詰まってるです。
だから、さなさんが口にした夢の場所であり続ける、それはみんななら出来ることだ、っていうのはとんでもなく綺麗事かもしれないけど、
こうであってほしい夢で、そんで、「当たり前のこと」なんじゃないか。


だって、ホテルインヴルサは夢の場所なんだから。

 

 


そして、宇海さんを送る会のみんなのシーン。怒涛の勢いで泣くなるポケットティッシュ。泣いてるのを誤魔化す為に食べ続けたイカのツマミ。(関係ない)
いや、もう。
あの、ほんと。

 


正直に言うとね、最初、時貞さんたちのシーンしんどかったさ。明確な悪意で、いやもう、それは協力しろよって苛々したさ、分かっててもね、やなんだよ。どうせ仲間になるんだろってわかってても!
でも、不安から捻れてふて腐れていた、彼らのこと思い出しながら泣きながら、言った言葉聞いてさ
もう、、もれなくこの3ヶ月思い出すじゃないですか。
そもそも、宇海さん見送るって聞いて、レクチャーするってみんなが立ち上がったとこからもうこっちの涙腺は大変ですよ。
あんなに格好いいのある?


ヒーローか?
ヒーローだわ。


前も書いたけど、彼らは職業ドラマに出てくる格好いい職業人なんかじゃないのだ。なかったのだ。
なるべく息潜めて、ミスだけしないように、毎日おもんないなーって思いながらごろごろしてお金だけ貰えりゃいいのにな、って思ってた、私たちとよく似たひとたちなんだ。

 


そのひとたちが、立ち上がった姿の、なんて格好いいことか。


いやそうだよね、半端なことできないよね。
そんで、このまま立ち止まってなんていられないよね。教えられたこと、気付いたこと、考えたこと全部伝えるし、彼ら自身だってこれから、どんどんもっともっと、ワクワクし続けるんだよね。
だって、彼らは、生きてるんだから。
この3ヶ月を、とんでもなく幸せだって思ってるんだから。彼らがこれからも笑いながらず!ーーーっとワクワクし続けるのは、その3ヶ月がどれだけ幸せだったかの証明に他ならないのだ、きっと。

 


もう、送別会、宇海さん聞いてる?聞いてるよね、ってずっと思ってたよ。なんなら、先週からずっと思ってたよ。
ねえ聞いてる?!!!!これ、全部、あなたがきっかけをくれたことだよ!!!!!!!


きっかけをくれて、それぞれが共鳴して少しずつ起きた奇跡なんだよ。

 


あ、そういう意味では、あの密着取材すごく良かった。総支配人にスポット当てて最高だった。宇海さんがきっかけの引き金ではあるけど、全部が相乗効果で高まりあった結果だし、
何より、総支配人があの場にいる全員を想ったからこそ、生まれた引き金で相乗効果なんだから。

 


それでもどーーーしても宇海さんもインヴルサに残ってくれることを、私は往生際悪く、願ってしまったんですけど。
でも、お客様より大切になってしまったあの場所であの人たちと働けない、ということはわかる気もするし、


ワクワクも、楽しいも、一つに絞らなきゃいけない、なんてことはきっとないし。

 


なんか、大丈夫だ、なんて笑ってしまったのだ。気持ちを、たぶん寂しいとか行かないでくれって思う、視聴者の気持ちもぜーーーんぶ引っ括めて、きっと総支配人はその選択を選んだに違いないんだから。
ホテルインヴルサは、たしかに奇跡的な大逆転を遂げた。
そして、その大逆転は紛れもなく人と人が起こしたことに違いないのだ。

 


なんとも、幸福で、元気が出る最高の3ヶ月間でした。
本当に、ありがとうございました。