えす、えぬ、てぃ

お芝居の感想など

魍魎の匣


※原作未読、一度のみの観劇の記憶のまま書いてます。曖昧な部分やフィーリングが多いかと思いますが、ご了承ください。

一度は、興味を持ったのに忙しさに読み切れず見送った京極堂の世界にまさかこのタイミング、この形で触れることになると思わなかった。
読み切れなかったのに、京極堂は気になる存在だった。たまたま、本屋で見かけた戯曲の落語、死神(あれはどういうコンセプトの本だったんだろう、忘れてしまった、惜しいことしたな、今もっかい読みたい)のお話がたぶん、とても好きだったからだと思う。
たぶん、戯曲だったのだ。だから、どれどれ、と思ってページをめくり、気が付けば引き込まれていた。印刷されただけのはずの文字は、音になりぐるぐると自分の周りを取り囲んでいるようだった。ぞっとするのに、心地いい。
ふと、そのことを観ている間思い出した。
そして今まだ、私はまだあの匣の中にいるのかもしれない。

 

関口くんと、久保くんの話をしよう。
冒頭の彼らのやりとり。
これは、彼ら二人に限ったことではないけど、出てくるひとたちが……それはかなこちゃんたちを含めて……強烈な個性がある。これは別に、何か奇想天外ななにかを持ってるというわけではなくて、持っている人もいるけど、というよりかは、凛とした存在感や人間臭さがダイレクトに漂ってくるようなシーン構成と、キャラクターだった。
(そういう意味で雨宮は没、という個性をある意味で持ってたのかもしれないし、それが更に後々効いてくるのだから痺れる、すき)

ところで、関口くんが好きである。
何故か猛烈に惹かれている。
彼は、ある意味で、京極堂さんでもエノさんでも木場さんでもなり得なかった人だ。ある意味で「ただの人」だった人で、それは久保くんとのシーンで痛切に感じた。
や、ほんと、あんな、あああああやめたげてーーーーってなるシーンあります……?
残酷さと嫌味ったらしさがすごい。
しかもあれ、原作だと更に色々言うそうですね?やめたげて、関口くんのライフはもう0よ。
しかも、姑獲鳥の夏で色々あったから情緒不安定だった頃が魍魎の匣、という感想を読みまして、あの

やめたげて…!!!!!


対する久保は圧倒的な文筆家としての才能があり、その自覚も自負もあり、それを見る関口くんの目たるや、なかなかに心に迫るものがあった。
関口くんはきっと、天才ではないんだろう。とびきりどうのということもなく、ただただ文を書く人なんだろう。
だけど良いじゃん…と私的な思い入れをつい持ってしまって思う。自分のために文を書く人間だから尚更、それでも仕事として求められてる文をどんな形であれ書いているわけで、関口くんだって、関口くんだってなあ……と、関口くんについて、ほぼほぼ知らないのに、勝手に熱くなっていた。


と、いうのに。
そんな、関口くんから見れば非凡な才覚の持ち主であり、「満ち足りている」彼がしてきたこと、彼の生い立ち。そして、匣に魅入られたこと。


なんか、胃の中のものがひっくり返るような痛さがあった。
久保くんが回想の中でお父さんに叫ぶ、そんな奴を慰めるなら!という台詞が蘇る。口の中が苦い。
幸せを比較することはできない、持ち物を比較することはできない、定規が違う。
だけど、それでも、関口くんの痛みを思ってしまう。自分が焦がれるような才覚を持った人間がどうしようもなく「渇いて」「飢えて」「足りない」としたら。
その時浮かぶのは、絶望だろうか、怒りだろうか、悲しみだろうか。
いずれにせよ、きっとその時生まれたひどく暴力的でどうしようもない感情がもしかしたら、「おはこさま」(漢字がでない)を生み出した久保の感情の形かもしれなかった。

ところで、さ。私は関口くんの、あのお母さんの家に行った時、はあーって最後、念を送る様子が好きだった。
彼はどうしようもなく平凡で善良でなんでもない人間で、だから好きだなあと思った。
関口くん……

 


そして、そう思うと雨宮のことがしんしんと悲しくなるのだ。更に。悲しくて、そのくせ、どこかで良かった、と思ってしまう。
なるほど確かに、人が幸せになるのは簡単で、人を止めることなんだろうと思う。
人をやめた彼のようにただ彼の中に存在するかなこちゃんと一緒にいること。
誰と比べるでもなく、驕るでもなく。
いや本当に、あのラストの演出は素晴らしかったなあ。

 


めちゃくちゃ物語に浸ったんだけど、それもこれも全て、もとの物語の圧倒的な力はもちろん、それを演劇としてこれでもか!ってくらい堪能させてくれる土壌があったからだな、嬉しいな、幸せだな、と思う。
舞台上に現れた匣、匣、匣。
くるくる回る椅子、背中あわせ。
背景の舞台美術、開く窓、映し出される文字。
いつのまにか現れてるセット、まるで「生きてるみたいに」
匣の中で、演じられていること。


いやもう……すごくない……?
演劇という力をフルで使い切って、昇華してぶつけてきましたね……?
あの物量のある物語を2時間に納めたのも納得の凄技だった。


そして、そしてですよ。
私は「生の演劇」という生身の人間がリアルタイムで演じる表現でこの話をした一番の強みだ、と思ったのが


橘ケンチさん……


いやもう、天才かと
天才なのではないかと。キャスティングした人、美味しいハムなどをお中元でもらってほしい。

 


京極堂、というキャラクターへの勝手な先入観からもっと陰鬱とした人嫌いをイメージしていた。
もちろん、それは全く見当違いなわけでもないんだろうな、、と台詞の端々から感じる。
感じるけど、観る前と観た後の印象が一番変わったのは彼だ。
京極堂、という名前をぼんやり認識していた存在が「中禅寺秋彦」という人間として、目の前に現れた。


(感傷的になるのは私の悪い癖なので、かなり思い込みなどは、あるかもしれない)


だけど美馬坂とのあの言い合いのシーンを観ながら、この人は人を諦めない、言葉と生きる人なのだな、としみじみと考えた。なるほど、だから古本屋をしているのだろうか、と思ったりもした。
憑き物が落ちなくなってしまった、というシーンの声の温度を覚えている。
そして、彼が彼だからこそかけられた呪いを考えて、そして、橘ケンチというパフォーマーがこの役を演じた奇跡に震えてしまう。


EXILEさんのパフォーマンスは本当に、命全部を燃やすみたいだ、と思うことが何度かある。
その人が、中禅寺秋彦を、しかも「生で」演じること。それは、それだけでなんて美しい物語だろう。
ともすれば、人が嫌になる、人をやめたくなる、どうしようもない、とがらんどうな気持ちになる中で、彼の静かで熱い台詞運びと気迫は、とてもとても良かった。
本当に。


あの台詞の応酬、本だとどんな印象を受けるんだろうな、と思った。京極堂さんの本だから、きつと凄まじい量とエネルギーが、そのページにはあるんだろう、きっと。


それが


演劇、というメディアにのっかって、人が演じ、形にして立体化する中で、ああした形、空気、音になったのは、とんでもなく好きだった。
たぶん、それもあって私は匣の中から帰ってきていない。

 


そして、だから余計にその中禅寺秋彦が、静かに言った「幸せになるのは簡単だよ」という言葉が、耳の奥から離れないのだ。
もしも、「幸せになりたい」と思ってしまった時、と考える。その時、あの「ほう」という声を思い出してしまいそうで、私はなんとも背筋が寒くなる。

トリコロールスター

近頃、クエストさんを観ていると不思議な感覚になる。
物語の深く深くに沈んでいって、最終的に自分とにらめっこするみたいなそんな感覚だ。
うまく言えないけど、私は何となくその感覚ってどうなのかな、と思っていた。

お芝居が好きなつもりだ。
だから、なんか、それは違う、と思った。少なくとも私にとっての話だけど自分のことや演じ手(役者さん、というよりも、そして、というだけでなく、その背景とかへの)…私がやる場合は…邪推みたいな感情移入が何とも妙に、言葉を選ばずにいえば、気持ち悪かった。自分で自分のそういうのが、嫌だった。

だから案の定、トリコロールスターを観て一日どっぷりお芝居に浸って幸せで幸せで仕方なくて、ぐるぐる自身の中の感覚に浸っていたら、やっぱりその自己嫌悪と向き合うことになった。なんかが違う。
その違和感で、見終わって数日、うまく感想が文となって整わないまま、今日を迎えたわけだけど、四天王をDVDで観たらなんとなく言語化まで漕ぎ着けそうなので、書こうと思う。しばらくしたら忘れてしまいそうな些細な感覚だから、尚更に。

 


トリコロールスター
鬼せつない、明日への活力、問題演劇。
驚異の3本立てのお芝居の話をしようと思う。

 


ベニクラゲマン、金と銀の鬼がラインナップに入ってるのを観た時の心臓の跳ねっぷりったらなかった。
ベニクラゲマンは、わりと本当にどん底の時にミハルの人魚と一緒にずっと観ていたお芝居だし、金と銀の鬼は何と言っても初めて生で観たクエストさんの作品だ。
思い入れがすごい。いや、クエストさんの作品で思い入れのない作品なんて、幸いなことに、ないのだけど。


ベニクラゲマン、ほんと、一番しんどかったのが「ああじゃあもう死んじゃおう、寝てる間に死ねますように」(一度しか観てない上に、その台詞の時に心ん中がざわざわして、どうしようもなかったので台詞に自信がないです)ってところで
覚えてられない彼のことを苦しくなった完結編だった。ケイのことも、ピノキオのことも、覚えてないんだなあって思うと悲しくて、何より、それを持たないベニクラゲマンにそわそわしてしまった。

 

 

プリウスだとか、そういうメタな要素が入ったせいもあるけど、一時期たくさん見た「死ぬなら一人で死ねよ」って言葉も思い出して、ものすごく悲しいというかどうしようもない気持ちになって、今も打ってると、うううう、って心臓のあたりが痛くて仕方ないんだけど、
だから、老齢フォルムが俺がもらうよ、引き受けるよ、と言うのにも、覚えてないベニクラゲマンがそれでもケイだけは助けようとするのにも、なんか、スコン、と晴れ間を見たような気がした。
ブラックベニクラゲマンやリュウグウツノカイマンたちのお母さん!って叫びとかにも、なんか、あーそっかあ、とワケもわからず、に近い感覚で泣いてしまった。

 


ベニクラゲマンって、たぶん、めちゃくちゃコメディに見えるし、ギャグっぽいというか、なんだろう、うまい言葉が見つからないんだけど、すごく、あっけらかんとしているんですよね、私の中で。描かれるテーマや主人公たちが抱えてるものって実はわりと重たいのに。重たくて、どうしようもなかったりするのに。
だけど、あのフォルムのベニクラゲマンがもう迷わない!って戦ってくれるから、なら、もう、大丈夫だ、なんて、根拠のないことを毎度思ってしまう。分からないのに。言語化できない感情そのままに、なんか、根っこの部分が、スッキリする。

 


どだい、生きてる限り、生きていくしかなかったんだな、と思う。生きていくために、忘れても許したり憎み続けたりしながら、いずれにせよ、たぶん、生きていくしかない。

 

 

 

 

そして、金と銀の鬼ですよ……。


シロガネのあの、コンジキを連れて行くシーンからずっと、ほんと、顔ぎゅってしながら見てた。というか、トリコロールスター、たぶんほんとに表情筋の運動かな?みたいな顔で見てた気がする。変な顔しててすいません。
金と銀の鬼、大好きなんですが、あのコンジキとシロガネの互いの寂しいの共鳴とか、その上での互いの意味とか、本当に、心が苦しくなるくらい考えて感じて大好きなわけですが、

 

 

シロガネーー!!!!!!
おま、おまえ、シロガネーー!!!!!!!
シロガネーー!!!!!!

 

 

 

もう、ほんと、人形と一緒にコンジキ傷付けたら許さんからな、と心の中でめちゃくちゃ思った。
あとトリコロールスター、鬼の怖さとか倍増してましたね。いろんなシーンを濃縮する中、あえて、村をああして蹂躙するシーンをそれぞれ入れたのがグッとくる。あと、人を殺すとこのクロガネさん顔が怖くてびっくりしました。表情も動作も冷酷すぎてもう。あれは鬼ですね……そしてその鬼にあれはもう人ではない、鬼より恐ろしい、と言われる助佐よ……。
人形も助佐も、増えたシーンで心を寄り添わせてしまって、どちらも心臓がやっぱりぎゅっとした。

 

 

助佐のいらねえよおー!!ってぐるん!って桃太郎たちの顔を覗き込むシーン、怖くて可笑しいから尚怖くてですね…。
あのシーンほんとに…竹内さんの空気ぐるんってするのが……刺さり方がエゲツない。
助佐と緑丸のシーン、もっともっと見たかったなぁって思うくらい、ふたりが揃ってるシーンの空気の、確固たる感じが凄まじくてですね。
語られた言葉は少ないのに、表情が、伝えてくる。
というか、やっぱり、緑丸と一緒にいる時の助佐の柔らかさを思えば思うほどに……語りのシーンの度に思うけど、助佐って別にバカな人でもなくてむしろ理知的な人なんですよね、その人がああして緑丸と無邪気でいたことについて考えて泣いてしまう……迎えが……なかったのが……
なかった、よね?どうですか、ありましたか、むしろあってくれ、なかったように思ってる私の勘違いであってくれ、私は助佐の緑丸……ごめん、が悲しくて悲しくて仕方ないんだ。

 


金と銀の鬼は特に、誰かと一緒にいること、の物語なんだな、と感想を書きながら思う。

 


緑丸と助佐みたいに、コンジキとシロガネみたいに、最高のライム兄弟たちみたいに。
誰かと一緒にいたい、と願って一緒にいる時間を楽しい時間だ、って呼ぶ彼らの話なんだな、と思う。
そして、そう思うと、見ていることしかできなかった人形や動物たちの言葉が分からなくなる桃太郎に、なんとも言えない気持ちになってしまうのだけど。

 

 

 

コンジキの心を勝手に慮って、頼むから、連れて行ったその時言った通り、絶望に叩き落とすようなことは、この無邪気に笑っていた彼を傷付けるようなことは最後の最後、してくれるな、と願って願って、もう半ば祈るように思ってたんだけど

 

そりゃ、そうだよなあ、と最後、殺陣の途中くらいから、思っていた。

 

シロガネの、あのシーンが入ろうがひとりが寂しく、兄とコンジキを慕って生きた彼の魂が変わるわけではないんだよなあ。
そしてそれを、コンジキは全部分かってたんだなあ、と思って、さらに泣いてしまう。
これで良かったといい、弟と村を襲っていた頃を一番楽しい時という、コンジキを想うと、途方に暮れながらそれでも必死に取れてしまったツノを戻そうとする小さな背中が蘇る。

 

 

少し話は逸れるけど、今回「ツーノ!」を聞くたびに、to know、で聞こえていて(もともとどのバージョンでもあった掛詞だと思うけど、わたしには今回が一番刺さるto knowだった)(クエストさん楽しい、と思うのは見るその時の状況、私自身でも全然気になる部分が万華鏡みたいに変わることだ。楽しい、世界は広い)知ること、知るため、とtoの使い方についての中学の英語の授業を思い出していた。知る為のツノ。だとしたら、誰が何を知る為の、だったんだろう。その答えはそれぞれに、優しいと思う。

 

 

 

そして、白である。
なにもない空間の男、である。
自分自身でも、既に観た友人からも、これを見たら大変なことになるのでは、と思っていた作品だった。

 


なにもない空間には、全てがある。

 


観終わって、こんな優しいキャッチコピーがあるだろうか、と思う。


お芝居を作る劇作家の男が語る、物語たち。そしてそこに入る、彼自身の話。
リング舞台でお芝居のワンシーンが生まれ、消えていく。彼の語る、お芝居の話。
あんな贅沢な時間、ほんとに……。
幸せだった、あまりに。
もうまず、大好きな役者さんの喋りを、綺麗な台詞運びをあんなに堪能するというのが最高に幸せで、この時間がずっと続いてくれ、と思わず思ったんだけど、なによりも

 


あの、お芝居が目の前で繰り広げられるのを見る淳さんの表情が、大好きだったんですよ。
お芝居の話をする表情とか、声の穏やかさとか、本当に。
あーお芝居が、好きなんだなあ大切なんだなあ嬉しいなあ、と思ってたらほぼほぼ泣く形になった。

 


例えばプロジェクションマッピングと.5舞台の話なんかも出てきたけど、
あれって別にプロジェクションマッピングや.5舞台が、って話ではないじゃないですか。


お芝居の好きなところなんですけど、私は海だ!って言えば、海が広がる、みたいなお芝居の懐の広さなんですよ。
(話は変わるけど、ちょうど昨日劇シナを観てたら、劇シナにもそんな話がありましたね、好みではあるよね、私はそういう、海だ!って台詞で世界を広げる想像力フルで使うお芝居がより好きです、という話です)


ただ、それをせず、プロジェクションマッピングで説明!だけなら勿体ないなあ、とはたしかに思ってしまう。大好きなんだけどね、プロジェクションマッピング!!お芝居でもイベントでもはしゃぐんだけどね!


だけど、お芝居だから、の何かが欲しくて、.5もただ舞台にあげた、じゃなくて、だから舞台化したのか!と膝を打ちたくなるというか……実際、そういう.5舞台もたくさんある……なんか、そういうことを考えてることがあって、そういう意味で、私はあの台詞たちにそうだなあ、と思った。色んな捉え方があって、あの台詞たちについて話すのも楽しかったなあ。


ともかく、役者がひとりいると、それだけで舞台が生まれることがあるという
そんな、演劇の話の舞台のキャッチコピーが、なにもない空間にはすべてがある、なのは、とてもとてもとても、優しい。あたたかい。

 

 


語られる彼の半生は、苦しかった。
土田さんの穏やかな声で紡がれたとおり、明確な暴力ではなく、その穏やかでしかし間違いなく虐待だったその日々を思う。
識字障害についての、違和感として描かれるシーン。占いや、店の予約。誓約書を読むこと。
あのシーン、彼の表情は空白、だった。嫌悪でもなく、隠したいという気持ちでもなく、空白。存在しない。
表情豊かに芝居について語り、嬉しそうに見ていた彼と同一人物とは思えないほどに。

 


もしも、彼が
お芝居のことを、その生い立ちから憎んだらどうしようと過ぎった。
高田淳という、本人名でのお芝居だったから尚更、そんな描写があったら、ちょっと、かなり、辛いな、と思った。
でも、と同時にそんなことにはならないだろうな、という気持ちもどこかにあった。
それは別に淳さんが演じているから、なんていうファンの勝手な妄想でも贔屓目でもなく、思い入れでもなく、ただただ、舞台上にいる高田淳(役の方)が楽しそうだったからだ。

 


識字障害を指摘された時の、彼の台詞が焼き付いてる。
シェイクスピアをはじめとする彼の中で生きている、彼を生かした物語たち。
演劇、お芝居という、そのもの。

 


それを、才能だと、魔法だと言った、あの光景の光が本当に綺麗だった。
嬉しかった。
私もそう思ってきた。そう思って、何回も幸せだ、と思ってきた。生きてて良かった、と泣いたことだってあった。

 


そうして踊られた、伸びやかで朗らかなダンス。
劇中言われていたとおり、言葉にならないものを伝えてくれるパフォーマンスが、私も大好きだ。
隣で見ていた友人が後半、つくの気持ちがくしゃくしゃになっていくのが横で見てても気配で分かったよ、と言われたんだけど(友人のは好意的だったけど、迷惑かけてないといいな、声とかは出してないと思う……たぶん……気配はうるさかったと思う…ごめんなさい……)
ほんとに、あんなくしゃくしゃに心がされると思わなかった。
そしてそれを、あんな優しい言葉で包んでくれた、あれはきっと、奇跡だったように思う。

 

 


エストさんの物語はわかりやすくない。
なんとなく、見え方が見た人でも少しずつ変わるように思う。もちろん、それはクエストさんの作品に限らず、どんな物語でもそうなんだけど、クエストさんは特に非言語表現が多いことや明文化されない物語の傾向からより、そう思う。
だからこそ、観客である私たちは、自分たちの経験にもとづき、自分の中にある言葉に照らし合わせ、物語を紐解いていく。自分の中に、息づかせていく。
そう思うと、私がここ最近、見れば見るほどに、自分とにらめっこしていたのはそりゃそうか、と腑に落ちる。

 


私は、だけど


よく、気持ちも嘘をつくし考えることを放棄したがるし、それっぽい、で終わらせることもある。
だけど、クエストさんのお芝居を観てる時は幾分か、心が素直に動くように思う。それに、それが、嬉しい。

 

 

音を聞き、色を見て、光に目を細め、風を感じていく中で自分の中の言葉を探していく。

 

 

そもそも、神芝居でウサギさんも言っていた。言葉にすれば、主観が入る。そりゃそうだ。ならば、にらめっこ上等、自分の中に落とし込んで、これからも共に、このお芝居たちが在って欲しいと思う。

 


だってそれは、とんでもなく、優しいことのように思えるのだ。

 

 

そんな日はこないのだけど

ばあちゃんが死んだ。一昨年のことである。

確か、死んでしまう一ヶ月半前、年を越せないと思うし時間はもうないから休みの日にでも帰ってきて欲しいとLINEで連絡があった。秋のことだ。

ただ、私はその頃仕事の試験間近で、当然それは親も分かっていたため、姉と弟は急かしつつ、私には、試験が終わってからでいい、と連絡があった。

 

なんの因果か、ばあちゃんがいよいよ危篤になったのは試験前日のことで、結局私には試験が終わるその瞬間まで伏せられていた。

試験が終わり、電源を入れた瞬間に届いたLINEの通知画面を今でも覚えている。

 

それから結局、急いで実家に帰ったが意識があるうちは、会えなかった。朦朧とした意識の中で、一応帰ってきた、ということはわかったようだった。ただ、会話はできない。分かってるよ、というように握る手が震えたからそう思っているだけだ。

結局、私はほとんど喋らずただただ手を握ってすぐそばで眠った。ばあちゃんが死んだのは少し休んでおいで、と伯父夫婦が私たちを昼食に送り出した、ちょうどその時だった。

 

後悔しているのは、葬式の準備中、ばあちゃんの日記を読んでしまったことだ。私は、ばあちゃんの言葉が好きだった。葉書で何度も手紙をやりとりしたし、昔の私の落書きみたいな物語に添えられた言葉を見つけたときは飛び上がるほど喜んだ。

だから、日記だ、と分かっていながら誘惑に勝てず、読んだのだ。後悔している。

それは、震災直後のばあちゃんの誰にも言えない独白だった。

故郷は、熊本地震に遭った。

祖父母の家は全壊、私の実家も半壊だった。避難生活をしばらく送っていた。その間の誰にも言えない苦しい、寂しい、という言葉たち。

そこには、私たち姉弟、東京にいる伯父夫婦に帰ってきて欲しい、会いたい、と書かれていた。

 

当時、私は大阪にいた。ほぼ無職だった。ほぼ、というのはクビになることは決まっていて契約の都合上ただただその最終勤務日までなんとか籍を置いてる状態だったからだ。

その会社に入る前は完全な無職だった。新卒で身体を壊し、フリーターもどきをしながら好きに過ごしていた。

 

両親からは、度々実家に帰ってくるように言われた。今思えば当たり前だ。都会は、家賃だって物だって安くない。

社会に出た途端身体をぶっ壊した娘がひとりそれでも暮らすというのだから止めるだろう。いやむしろ、止めてもらえて、帰って来いと言ってくれる親は随分、優しいと思う。

 

ただ、それでも、私は帰りたくなかった。

大阪にいたかった。

病気の娘として気遣われるのがどうしても嫌だったしそうなると私は一歩も動けなくなる予感がした。

更に正直に言えば、お芝居を東京に観に行きたかった。熊本は遠い。無職の状態で東京熊本間を行き来するのは無理だろう。大阪にいる時、身体の様子を見ながらそれでも単発のアルバイトを入れてたのはすべて、お芝居を観に行くためだった。色んなことに嫌気がさしていた私にとって、お芝居は残り少ない「それでも何だかんだ捨てたもんじゃない」と思えるものだった。

なんて言えば、格好はつくかもしれないが(いやつかないかも、つかないか)要は、自由に過ごせる環境からも、好きなものからも離されたくなかったのだ。

 

もし、あの時帰っていたら。

この日記に書かれる言葉は減っただろうか。明るい話題に変わっただろうか。一緒だったろうか。

 

 

その後、大阪で仕事を見つけた。ゆっくり探そうと思っていたのを止めて、できたらいざという時、私に任せて休め、と実家の両親や祖父に言える仕事。ちゃんと、身につく仕事。そんな仕事をしようと決めた。そう思って仕事を探した。ほとんど勢いと直感で会社を決めた。それが、今の会社だ。

百点満点ではないけど、あれからずっと、働けてはいる。文句を言うことも弱音を吐くことも多いけど、それでもどうにかこうにか、前を向いてまあ順調ですよ、なんて両親や祖父に伝えてる。楽しく仕事をしてますよ、身体を壊すこともなく、だから、なんかあったら頼ってよ。

 

今でも、あの時の決意が正しかったのか、迷うことがある。なんならここで言うあの時、が両親や祖父の為に、と決めたことなのか、大阪に留まると決めたことなのか、それすら、迷っている。

たぶん、どれもだ。全部。迷ってる。

 

あの日記が、私の決意が違っていたなら内容が変わるのかを確認する術は私にはない。誰にもない。

たぶん、私はばあちゃんに、いつか私の書いた物語に添えた一言を、また言って欲しいのだと思う。あの綺麗な字で、良いお話だったね、と。

全く、身勝手で嫌な孫だと私も思う。

だけど、そう言って欲しい。ばあちゃんが、手を叩いて私の書いた話を読んでくれるのが、私が話す話を聞いてくれるのがそれでも大好きだったので。

 

もっとも、そんな日はこないのだけど。

だからせめて、自分でまあ良かったと思うよ、と言える日だけでも迎えたいと思う。

それくらいは、自分で決めて、実現できると思うので。

 

 

殿はいつも殿


小岩崎さんが言った、「この場にいる全員のこれからの幸せを確約します!」という言葉を繰り返し思い出してる。
それは、本当のことだと思う。
殿(との)がいつも殿(しんがり)を守ってくれるように、たしかにこのお芝居はすぐ後ろで守ってくれるに違いないのだ。

 

あらすじ(公式サイトより)
一人の偏屈な作家が死んだ。この物語は、彼が最後に遺した小説を元に描くものである。
彼は言った。「この小説は真実の物語なのだ。そして主人公の男は、ずっと貴方のそばにいたのだ……」
今から400年以上前。徳川幕府、黎明期。弱小藩主である塩麹宗肉は、大将軍・徳川家康を相手にありえない狼藉を働き、即刻切腹を申し付けられてしまった。
後継者も決めた。辞世の句も書いた。「いざ、切腹!」と相成ったのだが、彼にはとんでもない秘密が隠されていた。それは肉体が傷ついてもすぐに回復する特異体質……すなわち不死身の肉体の持ち主であったこと。
腹を切らねば藩が終わる。しかし切れども切れども、その腹は治るばかり……。
はたして宗肉は切腹を成功させ、愛する家族を、そして民たちを守ることが出来るのか。
偏屈作家の奇妙な遺作が教えてくれた、まだ誰も見た事の無い男のケジメ。


ある一人の小説家が遺した物語と、遺された家族の物語が並行して展開していく。
死んでしまった男と、死ねない男の物語である。


死ねない男、は度々PMC野郎さんの舞台に現れる。
棺桶で二度寝したり、ロボットだったり。
何らかの理由でひとりきりになってしまう、生き続けてしまう彼らの苦悩は常に、印象的に語りかけてくる。
とんでもないコメディ調に死ねないことが描かれることもあれば(あの家康との対決ってば!大好き!!)(頑張ってー!って応援できるの、生だからこそだし、やっぱり気持ち良いんだよね)
どうしようもない遣る瀬無さと恐怖とともに、語られることがある。
野口さん演じるおじさんの「死ねないことへの恐怖」を語るシーンがとても印象に残っている。
どれだけあっても、死ねない。死ぬこともできず、それは徐々にどうしようもなく逃れられない恐怖に変わる。
こんな怖いことがあるだろうか。
終わることを、怖がりがちだけど、私には終わらないことの方がとんでもない恐怖に思える。
終わらない、ということは一生幸せにならないことと同義だと思う。この瞬間の幸せをどうあっても、信じられないと思う。
私は、もちろん、生きていることを出来れば肯定的に捉えたいと思っているけど、でもやっぱりどうしたって「いやいや」と思うことが多いので、なんとなく、ホッとする。吹原さんの、世界で描かれる「生きていくことが単純な幸福ではない」、生きていくことが必ずしも、希望ではない世界に、どこか救われたような気持ちになる。


その方が、そこにある幸せがとんでもない特別に思えてくるのだ。

 

冒頭、このお芝居では残酷な殺戮が描かれる。
村人の皆殺し。俺は異常だ、と語る殺人鬼。
たまたま、最近そういう事件のルポを読んでいたのもあって、妙な寒気と共に、あのシーンを観ていた。


「坊には、親切にされたから、見逃してやる」
(台本が手元にないまま感想を書いているのでニュアンスしか合ってないかと思います)


たまらなく、怖かった。
目の前で、たくさん人が死んでいく中、ああして助かった彼のことを誰とは分からないままぐるぐると後味悪く、思った。
死にたくない、と願ってそれが果たされたとして、あのシーンの誰が、幸せだって思うだろう。
そして、甥と殺人犯を同じ教光さんがやることの意味を考える。

 


HARAKIRI編とOINOCHI編で描かれるのは、突拍子もなくて勢いと謎の熱量のある物語だ。
思い切り、私たちは劇場で笑う。
出てくる人たちはどこか変わってて、ぶっ飛んでて元気で勢いがある。憎めない、ポップンマッシュルーム野郎節とも言えるような彼ら。
たくさん笑って、笑いながらあれ、今何観てるんだ?と思いながら、だけど、笑って楽しくて気にならなかった。


それが、あんなに優しい物語だと気付いた瞬間、心にじんわりと沁みた。

 


このお芝居を好きだ、と最初に思ったのは、冒頭の小岩崎さんと横尾さんのシーンである。
君に呼んでもらえるのが嬉しくて、最後の1ページをいれ損ねてしまった。
あの、愛おしいシーン。
小岩崎さんが楽しそうに本の感想を言うのも、それを本当に嬉しそうに横尾さんが聞くのもたまらなく、愛おしかった。
誰かに、自分の作った世界や文をいいね、って言ってもらえる嬉しさとか奇跡みたいなのは、私も少しだけ知っている気がして、だから、尚更。あそこで、雅彦さんが感じた気持ちが分かるような気がした。


そこから、息子によって見つけられていく、雅彦さんのこれまで。

 


重たく重たく、深く沈められていたその時間を思って、ふとあの喫茶店のシーンを思い出した。
賞を獲ったのは、彼自身の経験に基づく、苦しくて暗い文学小説だという。
赤ん坊と、ふたり、と春子さんが言ってた言葉を思い出す。その登場人物たちに向けられた春子さんの言葉を思い出す。
雅彦さんは、どんな気持ちでその小説を書いたんだろう。どんな気持ちで、青年と赤ん坊が生きていく様を物語に起こして、それはどんな終わりを迎えたんだろう。
分からないけど、春子さんのあの優しい感想が、たまらなく嬉しくて泣きたくなる。雅彦さんの気持ちを想像して、喉が詰まるみたいな気持ちになる。
唯一無二の夫婦、とは、まさに、そうなんだろうな。

 


あの上演時間をかけて紡がれたのは、一人のために紡がれた物語だった。
何も考えず笑えるようなシーンたちは、春子さんへの願いだった。
それは、全編をかけて春子さんに伝えられるありがとうの形だったんだと思う。


その小説が出来上がる過程をみた亮介さんのことを思う。そして、再会するまでの時間を思う。


「大変でしたね、長く、生きてきて」
「ええ」
あの、短い吉田さんと教光さんの会話が震えるほど美しかった。言葉なんて無用なくらい。
だから尚更、そうして生まれた物語が優しく笑える形だったことがたまらなく愛おしい。


生き続ける苦しさを、物語の中で描いたけど
だけど一緒にいるふたり、生き残ってしまったふたりが、色んな人たちとたくさん笑う、あの物語の亮介さんから見た景色をふと想像する。


一人のために紡がれた物語は、亮介さんや息子たちにも届いてて、それはそれぞれの形になって残る。一緒に過ごした時間は、何があっても消えない。それは何も、苦しい時間のことだけではないのだ。

 


そして残った宇宙を共にした仲間たちを思い出して、笑ってしまう。きっと、春子さんは動きはしないけど、まだ生きてる彼らと新しく冒険を続けるのだ。その姿を、きっと、雅彦さんは見てる。
そんなことを想像して、何より、私はたまらなく嬉しくなるのだ。

愛がなんだ

愛がなんだ、なんなんだよちくしょう、と呟きながら劇場を出た。

笑いたいような泣きたいような気持ちがありながらふわふわと歩く。

目の前で、見知らぬ女の子たちが「幸せになりたーい!」と叫んで、

思わず「あー幸せになりてぇな」って呟いてしまった。

 

あらすじ(公式サイトより)

猫背でひょろひょろのマモちゃんに出会い、恋に落ちた。その時から、テルコの世界はマモちゃん一色に染まり始める。会社の電話はとらないのに、マモちゃんからの着信には秒速で対応、呼び出されると残業もせずにさっさと退社。友達の助言も聞き流し、どこにいようと電話一本で駆け付け(あくまでさりげなく)、平日デートに誘われれば余裕で会社をぶっちぎり、クビ寸前。大好きだし、超幸せ。マモちゃん優しいし。だけど。マモちゃんは、テルコのことが好きじゃない・・・。

 

 

恋愛映画が大して好きではない(これ、パンバスの感想の時も書いたな)

好きではないというか、情緒として共感できない部分が多くなりがちできょとんとしてるうちに終わってしまうのであまり見ない。

きょとん、で終わればいいけど「なんでだよ」って苦しくなって2時間を過ごすこともある。

だけど、今泉監督が撮る「恋愛」は無性に居心地がよくて、観たいと思う。

 

そんなわけで、私の中でテルコやマモちゃんは苦手な分類の人たちに入る。

もう特にテルコはドストライクで苦手だ。

いやいやいや、お前はどこにいんだよ、と思ってしまう。

好きな人に全部を合わせられるということは、とても幸せなんだろうし、

馬鹿だなって思う。思うけど、やっぱり可愛いとも思うし、幸せなのかな、だろうな。

だからあの、公園の同僚と話すシーンがたまらなく好きだった。

 

愛でも、恋でもないというか

そんな名前をつけるのが野暮なんだと思う。野暮というか、そもそも、ないんだよね、テルコの中には。

マモちゃんが好きってこと以外、ないんだろうなぁって思う。

好き、好きなのか…?好き…?

混乱してきたぞ。

 

 

ナカハラくんが好きです。ナカハラくんのことを決して好きにはならない、葉子さんが好きです。

テルコの気持ちは分からなかったけど、ナカハラくんの気持ちは少しわかる気がした。

叶えたくない、なんてことはなくて、でもそもそも叶えるも叶えないもなくて。

当たり前みたいに自分の真ん中を占領されてるようなあの気持ちを知っている気がしたし「寂しいって時に毎回じゃなくてもいい、いつか、思い出してあ、ナカハラいるじゃんって思われたい」ってすごくすごくすごく、分かるよって思った。

恋に限った話ではなくて、私はよくそんなことを大切な人に想う気がした。

でもだから、終わりくらい自分で決めたいと思った彼が好きだったし

ナカハラくんが撮った写真が好きだった。

本当に好きだったな、あの写真。

 

葉子さんの「寂しい時くらいあるに決まってるじゃん、私のことなんだと思ってんの」もすごく、すごく、苦しくて。

 

不思議だよね、あんだけそれぞれ寂しいのになんで一緒にいれないんだろう。

お互いでいいやって幸せになれないんだろう。

好きな人が自分を好きになる、なんでだろうそんな簡単なことが一生かなわない気がする、とはハチクロの山田さんの言葉だけど

私はそれをずっと映画を観ながら考えてた。

でも例えば、マモちゃんがテルコのこと好きになってさ

その理由が「自分のことを自分以上に好きでいてくれるから」だったとして

それはマモちゃんどころか、テルコだって幸せになりやしないんだろうなと思う。

そういうことじゃないんだよね、だったらよかったのにな。

ただただ「幸せになりたいっすね」って気持ちでしかないのだ。

それでもなりたい、っていうくらいなのできっとそれがどこにもないかもしれないことをきっと私たちは知ってて、だから金麦を歩きながら飲むしかないし、時々はダサいラップを口ずさむんだと思う。

 

スミレさんがすごく好きなんだけど、きっとあれは、テルコ視点の物語だからで、

スミレさん視点で見るとさ、きっとおんなじような世界なのかもなぁって思う。

 

「マモちゃんが好きだということだけが、テルコのアイデンティティだった」という感想を読んでどきりとした。

覚えがあった。

好きなもののことを考えてそれについて話したり考えたりしながら毎日を私は生活している。

私にとっての色んな好きなものとテルコにとってのマモちゃんはきっと、おんなじなのだ。

それが一人の人に向けられているか不特定多数に向けられているかの違いだけで。

そう思うと、あそこまでいろんなものを投げ出してしまうテルコの気持ちはわかってしまうし、分かってしまうからなおさらしんどくなった。

お前はどこにいるんだよって、思ったけど、そもそも「自分」なんてものがある人間が一体どこに、どれくらいいるんだろう。

 

それが分からなくて、たまたま見つけられた「そうだったらいいな」っていう自分の中の感情を宝物みたいに大事にして、それを守るために他の何かをおろそかにすることもあったりして

そうやって、それでもひたすら、幸せになりてぇなって思ってる。

愛がなんなんだよちくしょう、と思う。

正解が分からない、分かるはずがないんだろうとも思う。

それでも、最後のテルコのシーンはなんだか笑えてしまえるような気がして、それが妙に好きでした。

 

愛がなんだってんだよ。

 

未来切符


切符を手渡され、また次の誰かに手渡していく。
その物語がとてもとても、美しかった。


劇団6番シードさん、47都道府県を旅していく企画第1弾である滋賀公演、未来切符を観に行った。
ミライ編とカコ編に分かれ、更に3話の物語に分かれる。濃密な物語に共通するなら未来駅行きの切符というただひとつだけ。


ミライ編→カコ編
立ち向かう話と逃げる(逃げても良いから生きろという、生きるために逃げろ、という)話
私には、それぞれ、ミライ編とカコ編がそんな風に思えた。
思ったのは、カコ編のジュリアナ犬を観た時だった。
設定もコメディだけど、会話のテンポもバブル!なぶっ飛んだ台詞も、コメディなんだけど、私は途中、ちょっと、おあ…と考え込んだ。
ジャンプしたらいいのよ、バブルは終わらないのよ。
そう、言うけれど。
バブルは終わるし、ジャンプには限界がある。

ミライ編は、1話終わる毎に未来へと進む。
カコ編は、1話終わる毎に過去へと進む。

だから、カコ編はどれだけ時間を進めても過去になるだけだ。そして、そこで描かれるのは、それからどうなるか知ってる時代の物語だ。
パチンとバブルがはじけて色んな人が途方に暮れたことを知ってる私には無邪気に産んじゃえ産んじゃえ!逃げちゃえ!とは思えなくて、でも逃げてもほしくて、ぐるぐるした思いのまま、お立ち台で踊る3人(2人と1匹)を観ていた。

どうやら、ミライ編とカコ編はずいぶん様子が違うぞ、とこの時思った。

でも2話、3話と進むうちに、そのどちらのラストシーンも、あまりに晴れやかで驚いた。(そしてよくよく考えれば、1話だって晴れやかだったのだ、たぶん)


ところで、それについて書く前にカコ編が演出がめちゃくちゃ楽しかった話が書きたい。
短い時間内に舞台セットがコロコロ変わり、段差も使って視界がずっと楽しい1話
題材のうまみが全力で生きる、落語を舞台にのっける面白さが光る2話
時間の経過が照明で浮かび上がる3話
2話!そう2話の落語の演出……特に私、これが嬉しかったんですよ…!!
落語自体、たまに聞いてはニヤニヤしてるしお芝居と落語に通じるものがあるなあ、と思いつつ
それが単純にどちらに飲み込まれてしまうと、おや……?ってなるんですよ。
時々、落語を舞台や映像に、ってのがあるんだけど、もちろんそれ自体はすごいことだと思うし、これは完全に好みなんだけど、落語をそのまま舞台で演じるのは…なんか……なんか……違和感なんですよ……。
そういう意味で、この枕の意味、はどんな風に映るかな、とわくわくしてたんだけど
めっちゃくちゃ面白かった!
し、なんだろう、落語を聴く時の次々に場面や人が変わることの面白さをあんな舞台ならではの視覚化ってもうー!!!!もうー!!!!
漫才コンビ漫談家も、落語家の師匠も「い、いるー!こんな人いるー!!」って叫びたくなるのもめちゃくちゃ好き。
そうして、土屋さん演じる彼の落語が佳境に差し掛かる、そこからの「夫婦」に届けられる落語が大好きだ。ストレートで、シンプルで笑っちゃうような単純さで、言ってくれる。
もう、言ってくれる、なんですよ。そんな簡単に言ってくれちゃってまあって苦笑いしたくなるくらい晴れやかな顔してね、言うんですよ、土屋さんが。
未来は変わったんだ〜!
これ聴いて、あー!あーー!!って叫びそうになった。
カコ編で過去にどんどん話が進んでいくのが面白くてだけど、たしかに彼らの未来は変わっていくんだなあって思ったし、それがミライ編にも繋がるのすごく見事だなあ、好きだなあとしみじみ思った。

 

物語を味わうミライ編と、演出を味わうカコ編と。
驚くほど、そこで魅せられるものは違う。何なら同じミライ編・カコ編であっても全く違う。一つ一つが濃厚で、それだけで2時間のお話が見たいと思うほど力強い。

そう思うと、ミライ編最初の35メートル地点の奇跡、の本を読むような美しさは、このお芝居の企画全体で一貫してあったように思う。
あの切符をあてて、本を読み上げるところ。
あれ、本当に、美しくて大好きだったし、目の前にいくつもいくつもお母さんの言葉が降ってきた。綺麗だったなあ。
6Cさんのお芝居って時々、目の前で異次元に飛ぶ。繰り広げられるお芝居がぐんと広がって色や光を変えて違うところに連れて行ってくれるような錯覚を見ることがある。

そして、バトンを受け渡された2話、絶滅した男。
きっとこれはどちらかといえばコメディの立ち位置のお芝居だろう。
たぶんそうだ。だけど、私はこの話の中盤から泣きっぱなしだった。全オタクに観て欲しすぎた。

だってこんな残酷で苦しい話あります…?

私は、神楽坂さんの2億貢ぐほど、全部人生投げ出しちゃうほどのミライちゃんへの愛が苦しくて苦しくて仕方なかった。それでも名前を覚えてもらっていないことが、本当に辛かった。笑えなかった。
だけど、その表現が好きだった。
観れてないけど、ガチ恋沼のお芝居に抱いた感情と似てるというか。
苦しいよーーーー分かるよーーーだけどさあ、だけどさあ、うわあんって泣きたくなるような。

ファンとアーティスト(広くアイドル、役者、その他の表現者の総称として)の関係って複雑で面倒で、愛おしいと思う。
良いファン、なんて話がどんな界隈でも定期的に湧く。湧いて、揉めたり傷付いたりきな臭くなったりする。たぶん、それくらい身近で切実で、言葉にならない感情なんだと思う。
それで、まあ、こうしてブログとか書いてる人間からすると、尚更。個人的には良い、なんて定義が野暮で無茶だし各々、人を傷付けたりしない限り、好きなように好きなものを好きでいたら、と思ってるけど。
でもやっぱり、神楽坂さんが、サイリウム投げたのは「分かって」しまうんだ。
我儘で、間違ってて独り善がりで勘違いだと知ってる。知ってるけど、なんで、どうして、ってぶつけたくなってしまうことは、理解してしまう。それは、正しくは、ないけど。
僕が、やりました!からもう本当に耐えられなかった。
色んな感情が渦巻いてぼろぼろ泣いていた。
だから、あそこで、ミライちゃんの歌とコールにどこか救われるような気持ちだった。気付いてくれた、きっと、そう思ってる。長い時を経て、昔話として話せるようになった、そんな優しい話だと、信じてる。

ミライ編はたぶん感情の中心に感情移入した結果、立ってしまう話が多くてカコ編はそういう意味では(かついい意味で)客観的に観客でいれる話が多かったのかもしれない。個人的に。

ミライ編3話、エッフェル塔は燃えているか。
オートゥの物語なんだけど、ある意味で1番感情豊かだったこの作品。
空気と色と音と全部で感情(情感)を楽しんだ。オートゥだからこそ、人間臭かった。
触れて変化して、感情的になって。あと、台詞ひとつひとつが綺麗。
生で触れたからこその感覚がたくさんあって大好きだった。ストーリーも、SF要素とあったかさの同居が心地いい。

空気で楽しむという意味では、カコ編3話のポンコツ玉砕隊もそうだ。あの話も明確な台詞で描かれるシーンの方が少ない。
演出としての面白さは先述の通りだけど、
中でも私が好きだったのはティモと出逢うまえ、ひとり自害しようとする瞬間だ。しようとして、できず、生きることにする。
樋口さんの中には物語が詰まってる、とよく思う。しかもその物語は大きな声で吹聴されたりは絶対しない。ただそこにあって、じんわりと染み出してくる。ポンコツ玉砕隊は特にそんなことを楽しむお芝居だった。
ティモと二人、ほとんど意味の通じ合う言葉は交わさない。ただ、思い思いに話す。だけど、あの光景の優しさは、ふと、このお芝居そのものについて考えさせる。カコ編、の意味を考える。
逃げてもいい、と言ったこと。
それが、あの二人が大きく手を振ったあの場所に通じるんだろう。
あのひとりずつ死んでしまう演出はすごく悲しかったんだけど、だから尚更、あそこに行き着いたふたりが大きく手を振る姿が、本当に優しくて、大好きだった。生きてるからあそこに行き着くんだよな。


良き友と、良き旅を。劇団6番シードさんはこれから日本中で何かをするという。漠然と、だけど確実にわくわくするその企画が、私は楽しみでならない。きっと、それは「良き旅」になる。
願わくば、私もその旅を目撃できる「良き友」になれたらいいなあ。そんなことを、美味しかったご飯やビールを反芻しながら思った。

僕に、会いたかった

忘却は罪ではないよ、という話に思えた。


あらすじ(公式サイトより)
池田徹(TAKAHIRO)は、島で一二を争う凄腕の漁師だったが、12年前に漁をしている最中に嵐と遭遇して、目覚めた時には全ての記憶を失っていた。
事故後、徹は一切漁に出ることなく、失った記憶に怯えながら日々を生きていた。過去を振り返ることも、未来へ動き出すこともできないまま葛藤していたのだ。そんな息子の姿を見て、母親の信子(松坂慶子)も苦しい思いを抱えている。

一方、島のフェリー乗り場には木村めぐみ(山口まゆ)、福間雄一(板垣瑞生)、横山愛美(柴田杏花)、の高1の留学生が到着する。県立隠岐島前(どうぜん)高校では「島留学」と称し、都会から越境入学で生徒を受け入れているのだ。
「島留学」では、単身やってくる生徒に島で親代わりになってくれる世話役を島内から募集して、生徒ごとに「島親」としてあてがい、島で生徒たちが快活に生活できるようサポートしている。 池田家もこの取り組みに賛同し、雄一の「島親」になった。徹は漁協の休みに釣りに出かけ、距離を縮めていく。高校では生粋の島生まれの生徒と島留学できた都会育ちの生徒が悩みや葛藤をもちながらも、それぞれ将来への夢や希望に向かい、絆を深めていく。

そんな高校生たちとは対照的に、徹は依然、未来への一歩を踏み出せずにいた。船着き場に佇む徹を見つけた信子は心配そうに声をかけるが、徹は「大事なことを忘れてしまっている。いや、その大事なことすら何か分からない……」と苦しい胸の内を吐き出す。
ある日、信子は徹の記憶を取り戻そうと、ある計画を実行する。果たして徹の失った時間は蘇るのか、また、止まった時間は再び動き出していくのか?

 

終始、静かな映画である。
静かに島の生活を写す。
TAKAHIROさんの雑誌インタビューでも度々言われていた通り、徹は動かない静の芝居で進みその胸中は語られない。ただ揺れる目線に彼の感情が僅かに滲むだけだ。
そして、それはほかの人物たちにも同様のことが言える。
島留学の学生たちも島の子も、徹の周囲の人々、お母さんも、何も言わない。
時々、断片的にその心情をうかがわせる言葉や表情を見せるだけだ。


ただ、その心情の発露が少ないのとは対照的に生活描写についてはわりと丁寧に描かれる。
食べられる食事、仕事、島のひとたちの掛け合い、店…島の景色。
具体的に誰が何を思い、何をするかは描かれない。
だけど、彼らがどんなところで生きているかはわかる。
そんな、映画だった。


巷で、ホラーに思えるという感想をたくさん読んだ。田舎特有の物語、というツイートもたくさん観て、私は少し覚悟していた。

田舎出身の私にとっては田舎が良いところに描かれ過ぎるのは恐怖だ。
田舎特有のホラーについては実感も含めて、苦手意識がある。
だから私は、もしもそういう話だったならかなり苦手な類だなあと思った。観た作品でコンディションが大きく左右されるので、観に行く日は慎重に決めた。

結果としていうなら、私にとってはホラーではなく、でも、これがとんでもなく怖い話に思える人もいるだろうな、と思った。

巷でホラーと言われる理由は、あの徹のためになされた選択が本当にそれでいいの?と思えてしまうからだと思う。
忘れられた人にとっても、忘れた人にとっても、それでいいのか。そうして十二年間を生きることは身勝手じゃないのか。
それを「優しさ」として描かれる違和感はあるのかもしれない。
島のひとたちの行動……特に、母親の行動にもしかしたら人によっては嫌悪を抱く人もいるかもしれない。嫌悪、と書くと言葉があまりにも強いけど。身勝手だ、と感じる人もいると思う。
解決になってない。
ある意味で、そうかもしれない。

徹は大切なことを忘れている。島のひとたちは、それを見守ってる。特に何を言うでもなく、見守り受け入れ、十二年生きてきた。


島留学の子たちはそれぞれに何か思うところがあって島にくる。それがはっきり解決された、ともされてない、とも描かれていない。
いや、雄一くんはその中だとわりとハッキリと思いを口にして変化が描かれてるんだけど……。

この島は、一人にしてくれないと雄一くんが言ったことを考える。それをただ優しさ、田舎の暖かさ、というのは何となく私もうーん?って迷うところだ。
だけど、人はきっと一人では生きていけないし、生きていけるかもしれないけど、それはわりと虚しいんじゃないかなあとぼんやり、考える。
虚しかったんだろうな。だから、畑を耕して、糸を通して、真鯛を釣るんだなあ。
あのシーンのTAKAHIROさんの台詞や空気感はとても多彩だった。


語らない映画が好きだ。映画というか、作品が好きだ。
言葉にすることも大好きだけど、同じくらい、空気だけそっと触れさせてくれる作品が好きだ。
だって、日常では滅多にはっきりと言葉を交わして感情を交換することはない。そんなドラマみたいなことはなかなか起こらない。
ただ「察してください」の映画ではないと思う。ただただ、そこで生きているひとたちを映した映画だった。生きていくしかないひとたちを、映していた。


特に、ご飯や仕事の描写の時間が多く丁寧で私は大好きだった。生きてる人たちの描写が好きだった。
特別美味しそうに映すんじゃなくて、彼らが食べてるもの、その為にしている生業をただただ描かれる時間は心地良かった。


徹は、大切なことを忘れている。忘れてしまっている。
ただ、忘却は罪ではない、と徹とお母さんが過ごした十二年間について考えながら思う。
生きていくしかない。
もしもその為に、忘れてしまったならそれは罪ではない。忘却は罪なんかじゃない。

生きていくことは別に派手な何かがあるわけでもなく、起きてご飯を食べて働き、誰かと話してまた眠って次の日を待つ。

僕に、会いたかったはそんなシンプルな映画だった。私にとっては。
大きく悲しむこともできず、滲むような寂しさと優しさの中で生きて生きて、生きていたら、誰かに会えたりする。
それは忘れてしまっても、なくなるわけじゃない。


ホラー、ということについて、観た直後いろんな人の感想を読んで考えた。ホラー。
何より、エゴ、という言葉が合うのだと私は思った。
エゴではある。めちゃくちゃエゴだ。
お母さんをはじめとする島の人たちはただただ、徹の幸せを願っていたんだと思う。他の何でもなく。徹が苦しまずに生きていって欲しかった、幸せになって欲しかった。
それを、悲劇的に描くでもなくただ生活の描写の中に織り交ぜたのはすごく好きだった。
それがもしかしたら徹には苦しかったかもしれない、と思う。もしかしたら、じゃないな。確実に。燃やされた文集について考えながらそう思う。嫌だったろうな。もしも、本当に忘却を許して彼の幸せを願うなら、いっそ島の外で生きる選択をあげても良かったんじゃね?とも、思うし。極端な話。
まあでも当然、それじゃダメなのだ。

徹にも、お母さんにも、島の人にも、私はああ生きてるなあ、人だなあ、と思う。
私はそれが好きだと思う。生きてる人のズルさとしてそういうのがあるだろうと思う。
めぐみちゃんのことを思うと酷いな、と思うけど。
でも、それを本当に酷いとするかは彼女が決めればいいことで、かつ、それは過去のめぐみちゃんではなく今のめぐみちゃんが判断することだ。そういう意味であの釣りのシーンが彼女の答えだろう。

松坂慶子さん演じるお母さんの台詞を、噛み締めてる。
ご飯を食べて笑って泣いて、そうして生きていく。
その中で、忘れてしまうこともあるのかもしれない。
だけど、消えるわけではない。消えたりはしない。そうして生きていく中で時折、目の前に現れてくれたりする、一歩近くに来てくれたりする。
そんな感覚に、生かされてる。

そんなことを、エンディングを聴きながら考えていた(あの曲めちゃくちゃ良いですね)