えす、えぬ、てぃ

お芝居の感想など

二度目の蝶々は遠回りして帰る

二度目の蝶々は遠回りして帰る。
このタイトルが、とても好きだ。繰り返し思い出している。ふとした瞬間に。遠回りして、帰る。


私は、観終わってから2週間、いやもっとだな、しょっちゅうあの診療所のことを思い出していた。
トンチャイのことがきっと大きい。
人形だった、と気付いたのはお芝居が終わって駅への道を歩いている時だった。たまたま、目の前に同じく観劇帰りの人がいた。

「あれってつまり、人形だったってことだよね、初めから」

やけにそれが鮮明に聞こえた。
その瞬間、立ち止まりそうになって心臓がバクバクなって、しかし久しぶりに一人でお芝居を見ていたので、必死に飲み込んで足を動かした。
あーーーー本当だーーーーと叫びだしたくなった。そうだーーーーー。

それは、勿論、気付かんかったんかい、って話なのかもしれないんだけど、それ以上に私は、あの時の彼ら……タイチームのみんなの目線を思い出してノックアウトされてしまったのだ。
すごく、優しい顔をしてたんですよ。いましたよね?って聞かれたとき。優しくて、あったかい顔をみんながしてて、だけど何にも言わないんですよ。
あの場にいるみんなどこかおかしくて、不具合があって「それが治らないとして」彼らはそれを取り沙汰すわけでもなく、ただ穏やかにそれはそれとして、受け入れてるのが、本当に。

あんな、優しいこと、あります?

今こうして思い出しながらやっぱり泣きそうなんだけど。
ダニーの「家族ってこういうことを言うのかな」の優しさがたまらないのだ。


葵くんの人生は散々じゃないですか。お母さんを亡くして、罪を犯して友人に裏切られて父親は最低で愛する人を失ってひとり寂しく老人として生きてて。
なんか、ほんとに、嘘でしょってくらい苦しいんだけど、でも、生きてると困ったことに往々にそんなことってあって
コムタンたちが抱えてる「ちょっとした不具合」もみんなどっか、そういうとこがあって。
あるんだよな……あるんですよ……物語にすらならない降り積もるような不具合が。
それを全部引っくるめたら尚更、家族ってこういうこと、とか、遊園地とか、そういうのが全部愛おしくて優しくて……うう好き……。
そして、それを大きく騒ぐでもなく残酷に突きつけるでもなく、一緒にいる彼らが好きだ。
治さなきゃと騒ぐことも、責めることも、同情なんて全くなく「ただそういう人」として受け入れる彼らが好きだ。


ポップンさんのお芝居は、全然優しくないしわりとどうしようもなく酷い事が起こるのに、すごく楽しく笑わせてくれるから気が付けば何度でも観たくなるし、何度でも脳内で再生してしまう。

ポップンさんはわりと不謹慎も暴力も下品もあるし、だけど、なんか、それが心地いいというか、いやなんか語弊あるな。良い人なだけじゃないのが、良いんだよなあ。

 


そんな風に観終わった時につぶやいていた。

描く残酷さも、奇跡も、どこかあり得るかもしれないそれなのだ。あんだけとんでもない設定がたくさんだけど。

 

 

 

先生と彼のラストシーンが、胸に残ってる。誰より、自分が責めていたからこそ見えた幻。

ちょっとだけ不幸だと、生きやすいことがある。

というか、幸せ、って難しくてすごく楽しくてもどっか……例えば次の日からの仕事とかこっそり見ないフリをしてる誰かとの不和とか……そういうので、120%の幸せって難しいし

どうしようもない悲劇の後の幸せって居心地が悪い。

どんな顔していいか分からないからかもしれないし、もっと他の何かかもしれない。

許さない方がきっと、往々にして楽なんだと思う。誰をって、自分を。

 


だけど、だから、あの最後、笑ったふたりがとんでもなく素敵で優しくて奇跡みたいだった。

 

 

 

とんでもないハッピーは来ないかもしれない、劇的な救いなんてものはなくてやっと見つけた居心地のいい誰かを失ったり、病気は治らないのかもしれない。

だけど間違いなく、あなたと食べるオムライスは美味しい。そして、劇場で出会うポップンマッシュルームチキン野郎のお芝居は、面白い。

 

 

UNFADEDで色褪せようもないことに直面した

12月30日にライブにいって、三重のファイナルがまだある!!!!って姉とふたり、震えながらチケットを取った。

UNFADEDの話だ。


※一部演奏した曲の話をしています。
ネタバレ注意お願いします。

 

今回のライブのコンセプトにだいぶやられた。
色褪せない、という意味のツアータイトルを何回も噛み締めた。
しかも、色褪せんじゃろ!という提示ではなくて、どうかな?色褪せないと思うんだけど、っていう、その柔らかな共有が。

そうして、流れていく音楽のあちこちに自分のこれまでの時間とかぶるものがあって、それはとどのつまり、彼らの音楽が一緒にいてくれた時間とイコールだった。

ポルノグラフィティの曲の歌詞について、ふとした瞬間によく考える。
最初からハッピーエンドのラブストーリーや、運命の人だ、と宣言した瞬間別の誰かを好きになることとか。
抜き出すと恋愛のことが多いな。
でも、なんか、色々。
それで、今回のライブは不意打ちで耳に飛び込んだフレーズにただひたすら、ああ、そっかあ、とぼんやり、呟き続けていた。そっかあ、そっかあ。
それは、いつか聴いた曲のひと部分で、忙しい日常の中で落としてきたいろんなものだった。


ポルノグラフィティと出会ったのは姉との相部屋で過ごした数年間の中でだ。それは熱心に聴き込むのとは程遠い、むしろ、日常のBGMからのストーリーだった。
だけど、カラオケという選択肢を遊びの中で得た時、真っ先に覚えたいと思ったのも、彼らの曲だった。言葉を覚える時に、親の言葉を真似るところから始めるみたいだ。


そんで、そんでですよ。
ライブのたび、そうやって彼らが当たり前としていてくれた時間を考えていたんだけど、去年。
因島のライブ、直前にシャトルバスに乗るその瞬間に、中止の知らせを受けた。
残念ながら、私は度々、何かしら大きな楽しみが直前になくなるということに関して妙な縁があって、ちょっとだけ慣れ始めてもいるんだけど、それでも、やっぱりショックが大きくて、っていうかそんなもん慣れてたまるかだな?!いや慣れてないです嫌ですアレのたんびに気持ちがぼろぼろ落っこちるから!嫌!

ちゃうねや、そんなん、ええんや。


そんで、12月末、行って、あーーー、ってなったのです。
彼らの音楽が聴ける特別と歌い続けてくれることについて、ひたすら考えてたんですけど。
それで、こうして、ブログを書いている理由なのですが

ライラが、さあ。
やばい曲なんだろうな、とは悟っていた。友人の言葉に、あーそれはなんというか、と思って実は何ならちょっと聴くのも歌詞検索も避けてた。
んだけど、もう、真っ向からライブではノックアウトされるわけですよ。

歩き疲れたら、ってさあ。
歩き疲れたらって歌詞、ずるくないですか。

歩き疲れたら帰っておいで 懐かしい唄など歌いましょう。
が、まさしく突き刺さりすぎてビックリした。

疲れたよ、歩いて歩いて歩いて、だから、疲れたよって、呆然としてしまったし
そこで昭仁さんがあんなに優しく力強く、歌いましょう、って歌ってくれるの、さあ。
まるで、ファンタジーの歌ってMPとか回復してくれる魔法じゃん、と立ち尽くしていた。
そんでもって、なんてこった、と思った。

歩き疲れたら、と
人生なんて途方も無い暇つぶし、だと言いながら
唄ってくれる彼らはそれでも、立ち止まっていいとは言わない。
華々しく死ぬことを夢と言いながら、唄ってくれるのだ。
唄ってくれてしまうのだ。歩き疲れただろうと労いながら、それでも、また歩く力をくれるだけなのだ。


常々、私は音楽をはじめとするエンタメに生かされてると口にしているけど、
なんか、ここで、ああ、生きなきゃじゃんか、と途方に暮れた。
それは、なんか、どうしようもなさとどうしようもないことを知る人のとてつもなく残酷な優しさだと思った。
そう思うと、果たして、そうして生かされることは幸せなのか。と、なんだか思ってしまう。
だってそうだよ、歌詞の中で歌われるとおり、明日があるからと慰められても土台しょうもない今日の続きなわけで。


そんなん、どうなんだろ、とやさぐれたくもなるのだけど。


そこんとこがエンタメというのがずるいところなんだけど、どうしようもないと言いながら笑わせられてるんだ、気が付いたら。
ああもう全く、しょうがない。どうやら生きるしかないらしい。
ならせめて、歩き疲れたらここにまた帰ってくるから、その時はどうかまた、優しい唄で迎えてほしいとほんの少し、ベソをかきつつ、私は思うのだ。

死が二人を分かつまで愛し続けると誓います


死が二人を分かつまで、愛し続けると誓います。
あらすじを読んで、もう一度、タイトルを見るとその時点で肌がざわつく。
死んでしまってる。死が分かつまで、と決められた期限をこの二人は越えてる。だけど、一緒にいる。

だとしたら、二人はいつ分かたれるのか。
いつまで愛し続けると誓い続けなきゃいけないのか。
そんなことをまず、考えた。


あらすじ
『死が二人を分かつまで愛し続けることを誓います』(主演:小岩崎小恵)
死後、幽霊となって帰ってきた男・大介。妻の夏子は霊感があるゆえに、彼の姿を認識出来るが、もう二度と二人は触れ合うことは出来ない。
幽霊の夫と、幽霊を見ることが出来る妻。それでも変わらぬ愛を誓い今まで通り暮らしていく二人だが、無情にも時間はその関係を歪めていった……。
哀しき宿命を背負い、必死に永遠の愛を模索した夫婦が辿り着く、死と愛のワンダーランド。

 

教授の選択が正しかったのか、それとも大介の選択が正しかったのか。
同じように愛していて、同じような願いを持ってて。
どっちが、正しかったんだろう。


まずは、吹原さんの演じる家族たちの「あーポップンにきたぞー!」という爽快感。
ポップンさんは、わりと遠慮なくえげつなくどうしようもなさを提示してくるけど、こういうとこが大好きで、いやなんでやねんっていう、その心地良さ。
こんな不謹慎さや下ネタで笑うこともないなってくらい笑った。そこでゆきさんが「せめて今の時代大学くらい出てないとね」ってまって、やめて、そんなちょっと前のスペシャルドラマでありそうな台詞言うの頭が混乱する!!!みたいな…その、この、空気感。
ここから、幽霊たちまでひたすら走りっぱなしである。もう何が来ても受け入れるしかない。ポップンさんを観る時の私の基本姿勢は「受け入れる」だ。
目の前でこうだよ、と言われたらどんなトンデモ設定だろうがそっかあ!で受け入れる。これ大事。素直はいいこと。
と、安心(?)しつつも、やっぱり気持ちはざわつきだす。

「こうあるべき」「相応しい」「べき」

実は、このお芝居の根本的なところのぐるぐると考える部分はこのパートで動く心が教えてくれたりする。
こうあるべき、相応しくない。
じゃあ、死んだ人間が生きた人間の近くにいることは「相応しい」ことなのか。

と、言いつつも、私はこのパートがぶっ飛びが楽しいからというだけではなくとんでもなく好きなのです。
吹原さんが喪主をやること、絵が贈られてきたこと。そもそも、それだけ関係を築いた吹原さん→夏子への感情を考えると心臓のあたりがぽかぽかする。
若干前後した感想にはなるけども。
彼が昔、幽霊が見えた頃、唯一受け入れてくれた夏子さんを思うと、あんなに一生懸命走り回った気持ちも分かる気がする。
当たり前に「そう」であることを肯定されたこと。
それは、単純な話に留まらなくて、その人の軸みたいになって支えてくれたりする。そうした人の幸せを祈るのは、自然だし、そうやってお互い、祈りあってるのかもしれない。
ひとりぼっちになったかもしれない、と分かった時の吹原さんの表情が大好きだった。
そんなわけない、「ずっと旦那さんと共に過ごす」幸せの中にあったはずだ、と願う彼が大好きだった。
互いに好きだ、幸せでいて欲しいという気持ちを願い合うの本当に愛おしくないですか。
そして、夏子さんを特別に思う旦那さんの気持ちを理解する奥さん本当に愛おしくないですか。
あの夫婦本当に大好きでした。
ゆきさんと、吹原さんのあの空気感はなんなのか。いや、ポップンマッシュルームチキン野郎の人たちはみんなそういうとこある。そういうとこあるよ…!
なんか、なんだ、信じたくなるあの優しさの形とか温度とか。

大切な人の大切な人を大切にできる人が好きだよ…。

そして、「大切な人の大切な人」を大切にした幽霊の話ですよ。
教授…!もう、あの、教授…!

残酷なのは彼らが幽霊であることなんだよね。原始人の彼も落ち武者の彼も、ギャグとして彼らの死を語りはするけど「彼らは成仏できていない」
生になのか、死になのか、納得がいかずにさまよってる。納得して、巡り会い続ける蝶々とかの話が対になってるの本当に…えぐいことするなあ。

教授の素朴なまでの愛情が可愛くて愛おしくて、だからこそブローチを粉々にするまでの彼の気持ちを思った。そうしてなくなったものにするのは、どれだけ、と思う。
しかも多分、初めての憑依ですよね?
初めて、生きる・死ぬの感覚の違いを理解して、それこそ、もう一度触れられる可能性を理解して徹底的に彼は自身のもし、を叩き潰すわけじゃないですか。
本当に…もう…。
彼女に触れる為じゃなく、彼女を救う(と少なくても彼は思ってる)行動を選ぶ教授が苦しかった。し、だから尚更、彼の本音である「ここにいるよ」が。
幸せになって欲しかった。だけど、死んでしまった彼は、彼が幸せになることは選ばなかったんだな。楽しく過ごすことは選んでも。

悲しいことだし、それを正しいと切り捨てないのは、当然、彼らが成仏しなきゃいけないことの前提があるとして。
死んでもなお、生きてる人間に縋ることは間違ってるかもしれないとして。
それを、さみしく思うのは勝手だろうか。

 

何が正しいか、もう一度考えてごらん、というのは意地悪でも何でもなく、むしろ優しさなんだろうし。
触れられないままそばにいることを無邪気に幸せと呼ぶのも酷いと言えば酷いのかな。


当たり前に、何も変わらず過ごそうって亡くなる前の大介さんと夏子さんは約束してたじゃないですか。
そんで、たぶん、二人は何も変わらず、死後も過ごしてる。ああ、あの約束の延長か、と思った。思って、でも、回想じゃ二人飲み物を飲んでて、大介さんの「一緒にお茶も飲めない」にめちゃくちゃ泣いた。
ワーーーンって泣くんじゃなくて、心がくしゃってしたかんじ。
決定的に、変わってしまった。
大切なものが。

 


だから、大介さんの選択は苦しいけどそうとしかならなくて。
死が二人を分かっても、愛し続けているし、そう誓い続けてるのに、その世界はくっつかない。

 


教授の選択が正しかったのか、それとも大介の選択が正しかったのか。
同じように愛していて、同じような願いを持ってて。
どっちが、正しかったんだろう。


でも、ずっと辛かったわけじゃない。たくさん笑いもした。
何より、不思議と、抉られるような痛みは今回なかった。いい意味で。
死ぬこと、はみんな等しく降ってくるからかな。不思議だ。
くしゃ、とした心はしかし理不尽な暴力にさらされてるわけでもなかったのでしとしとと、寂しかったんだけど。お父さんの言葉に毛布とお茶を差し出された気がした。


好きなら好きでいい。
相応しいとか可笑しいとか、そんなの、どうだっていい。


どっちが正しかったか、なんて、そんなの、無いに決まっていた。結論を出すことでもなかった。
正しいか、なんて何にも意味がない。
ただ、好きだ、と思ってること幸せをたくさんたくさん祈ってること。
そこに、ふたりがいること以上に、意味があることなんて多分ないのだ。
死が二人を分かとうが、愛し続けると誓った二人は何も変わらないのだと。
それを悲劇とも、喜劇ともジャッジする資格なんて無いのだ。むしろそんなの、馬に蹴られてしまえと思う。
ただ、私には。いいよ、と笑って言えるくらい好きなことはとんでもない奇跡で、幸せだと思うのだ。

 

劇作家と小説家とシナリオライター

どんな感情になればいいのか分からなかった。観終わって、それは多い情報量に頭が混乱していたというのもあるし或いは今まで観てきた松本さん脚本はシンプルな、というよりかは感情移入の先がハッキリしていてしかし今回は観ている自分の感情がどこにあったか分からずに気が付けば終演していた、というのもあるのかもしれない。
ともかく、分からなくて分からないまま浮かぶ言葉をそのままアンケートに書いていた。書き終わって、ひとまず分かったのはこれは物凄い愛情の籠ったラブレターだ、ということだった。


公式サイトあらすじより
とある会議室に三人の作家が集った。劇作家と小説家とシナリオライター。ジャンルの違う場所で「物語」を作ってきた三人の作家は、企画会議を繰り返しながら、共同で「或る物語」を作ろうと奮闘する。
「ダイナミズムこそ物語の根幹だ」と劇作家は語る。
「言葉のディティールに物語の息吹が芽生える」と小説家は語る。
「リアリティがすべて。その中からしか物語は生まれない」とシナリオライターは語る。
着地点の見出せない「或る物語」の「登場人物」達は、様々な試行錯誤により「物語の中」で右往左往する日々。
締め切りの迫ったある日、三人の作家の前に舞台監督、編集者、ドラマプロデューサーが現れる。追い込まれた三人の作家が生み出す「或る物語」は、三人の想像を超えた世界へと飛躍していくが…。


物語は、制作現場と彼らが描く物語の二つの軸で進んでいく。しかもそれが時々、交差するという複雑な構成になっていく。
ただ、一シーン一シーンの緊迫感が瞬間的に盛り上がり、しかもそのまま次の瞬間にはがらりと色を変える。たぶん、この辺にも私が見終わった時の頭の混乱はあったと思うんだよな、ストーリーが分からなくなる混乱ではなくて、思い切り心が瞬間瞬間、すごい運動をしたので物凄い疲労を感じたのだ。
古本屋の小さな、だけど大きな影を落とす事件。
看板役者が辞めるある劇団の公演。
私の中で、特にこの二つは、心の渦がぐるぐると起きた。

赤川次郎にその値段はあり得ません」

この台詞、すげえ、と思った。
呻きそうだった。
赤川次郎さんは、とてつもなく人気で、素朴で絶対的に面白く親しみやすい作家さんだ。ただ、確かに「買取価格」としてあり得ない。全国展開している古本屋での値段はだいたい100円か、よっぽど綺麗なハードカバーで300円くらいな気がする。感覚の話だけど。
この何気ない台詞が「小説家パート」で出てくるのはすごくないですか。これこんな事細かに書くことではないのかもしれないけど、私はあの台詞で小沢さん演じる小説家、が好きになったのだ。そして同時に、そんな人が働くにはそこは辛いよ、としんどくなった。
「綺麗な言葉を使いませんか」
そういう彼は、現代的ではないというか、ああきっと、そんなの、こんな酷い言葉が溢れてて、しかもその言葉が大した意思を持ってないインスタントなそれだっていうくそったれみたいな(あー綺麗じゃない!)このご時世にきっと辛いんじゃないか、と思った。というか、観てる私は辛かった。
そしてその対称にいる店長と社員の構図が…本当に…。嫌な現実、の見せ方がともかくこの二人凄くて、私はぐるぐる唸ってた。心の中で。黒く、しかもクレヨンみたいなので塗りつぶす感じが、本当にともかく苦しくて。

そして、劇団のパート。
これは、もう、あの、本当にですね。
淳さんが引退するtwoを演じた、というのもあるのだけど。いやまあ、それは「私が観た劇シナ」の話をするなら絶対的に切り離せないんだけど。
土屋さんの言葉一つ一つがさあ。
そうだよな、決めたなら決めたって言うなら覆したり出来ないよな。
それに、何だろう、、もっと引き止めろ、とかあの大学生の子がしたことのようなのって、なんか、追いつかないというか、出来ないよなあと思った。
ただそこにある事実でしかないというか。結局、私はここの感想が全くまとまらない。ただただ、心がぎゅーーーっと締め付けられていた。飲み会終わり、何気ない会話からなく主宰が、そして、それをただ黙ってる彼が、愛おしくて苦しくて仕方なかった。あそこに、きっと彼らの過ごした幾層もの時間があって、それだけが事実だった。

引退公演のカーテンコール、正面席から観た横顔が、忘れられずにいる。ファンを名乗りたい人間として。いやもう、本当に…。

そういう、ものすごく濃厚な、しかしワンシーン切り取られたストーリーが重なっている。ただあくまで「切り取られた」なので、全部を知ることは出来ない。大きく言えばどんな物語も結局はそうなのかもしれないけど、瞬間的な空間だけが描かれてる今回、尚更、そんなことを思った。
そして、それでも物足りなさを感じないのは、劇作家、小説家、シナリオライター、そして「私」が心血を注いで生み出そうとするその熱量にあてられるからだ。
もう、あれは、あてられる、だと思う。
土屋さんのじゃなきゃ登場人物たちが可哀想だ、という台詞をはじめ、彼らは(プロデューサー、編集さん、ぶかんさんも)みんな、虚構の世界である登場人物たちに本気になる。
本気で、幸せにしようとする。全うさせようとする。
それは登場人物たちの世界と響き合って共鳴する。


全ては、受取手に届く瞬間のために。


劇作家や小説家、シナリオライターたちは自分の言葉を信じて感覚を信じて、そしてそれが時折、ぶつかって削られて、ってしながら。
これは、本当に、すごいことですよ。
擬似的に自分たちの大好きなお芝居が生まれていく世界を経験するような形じゃないですか。しかも、擬似的に、なの。感覚に細胞に沁みるみたいにそんなことを思ったんですよ。もう、これは、本当に。
そら、見終わった時どっと疲れてるわけだわ。


言葉、も、物語も大切にされてて、それが受取手の観客をその少し先に置いてくれてて、受け取って、って差し出されることが私はたまらない奇跡みたいに思えた。


そんで、その上で、ですよ。
私が、びっくりしたのは、ラスト。
劇作家が役者にここ一番の見せ場として長台詞を書くシーン。あそこは、もう本当に愛おしくて嬉しくて。
言葉なんて出てこないよな、というか、引き止めたりそんなんじゃないんだよな、とあのなんとも言えない感情を飲み込んで飲み込みきれず苦しいまま息を止めたから尚更。
一緒に芝居を続けたかった、も彼が決めたならそのまま進めばいいと思った、もどちらも本当ででも少し違うくて、じゃあ何かといえば、あのシーンが全てなんじゃないかな、と思った。


そして。
そしてですよ。
ラスト、ゼロの、心が動くシーン。そして、私たちの心が動くシーン。
あれが、台詞が一切なく図師さんのお芝居それだけで描かれた時、もう我慢ができなかった。耳鳴りすらしそうだった。
あれは、もう、ラブレターですよ。
みんなで積み上げたものを図師さんがギュウッてして、渡す感じ。そして、それを「わたし」が受け取って更に色付いて輝くあの、景色。


印象的なことがあって。
前説、夢麻呂さんが「今回アドリブをほとんどしてない」って話をしてて、それを聞いて、観て、ああ、信頼の形なんだな、というか。
それはアドリブがあるお芝居がダメだとか劣るだとかそんなつまんない話をしたいんじゃないのだ。
ただ、今回は少なくとも互いが互いを信じて、それぞれの持ち場を託せるという
それだけあなたが好きだ、というラブレターのように思えたのだ。助けるよ、もラブレターであり愛でもあるけど、そこは君の場所で、そこには君が思う存分やった方がステキなものが生まれる、と信じるのは、本当に、ラブレターじゃん…。


そして、それが観客のために、「わたし」の為に生まれること。
きっとそれは、「わたし」を信じてくれているからだ、ということ。


25年間お芝居を作ってきた劇団の記念公演で打たれるにはなんて優しくて愛おしい公演だろう。
この感覚は言葉にならなくたっていいのだ。あの瞬間、劇作家がここに台詞はいらない、といったように、そんな必要はないのだ。
それでも互いに、伝わっていると。そんな奇跡を、信じられる気がした。

 

 

FULL MOON埼玉ライビュで夢みたいな景色と共に愛で満たされたので幸せを噛み締めてる話

LDHのパフォーマンスを観ていて、ダンスや歌って、きっと感情を表したりそういう、言葉じゃ追いつかないものを表すためのものなんだって感動してからもう1年くらいが経ってるんですが、登坂さんの歌は、本当に、それなんだなあ、と昨日の埼玉FULL MOONをライビュで観ながらひたすらに考えていた。

愛されてて、そしてなによりも愛してる人だ、とずっと思っていた。
それは、太陽に照らされて輝く月、をモチーフに掲げる登坂さんらしくて、そう思うとこのライブのコンセプトはなんて素敵なんだろう、と思う。

今月8公演目だったという昨日のFULL MOON。
歌い出しや途中、あれ、今日ちょっとしんどそうだな、と過ぎった。

登坂さんにとっての音楽が、生きてることそのままの気持ちとか思い出とか記憶とか言葉とかそんなもの全部をのっけるものなんだ、と思ったのはどのタイミングでだったろう。
歌、は彼自身に寄り添う友人なのかもしれなかった。そんなことを、本気で思った。
いつも通り、っていう歌い方をそもそも登坂さんがするのかどうかパフォーマンスとしてライブ、で歌うところを観るのが2回目なので判断がつかないけど、途中、「今日の登坂さん」の歌い方に変わった、と思った。
歌うことを仕事にしてる人だけど、それ以上に歌うこと、を血肉にしてる、と思って、ぐすぐすになってしまった。
そもそもそれは静岡でFULL MOONを見た時の衝撃が忘れられないからかもしれない。ハモりと、メインパートの歌い方というか、ああ、音楽についての知識とか見識がなさ過ぎてもどかしいんだけど、ともかく「彼が今日歌う曲」だとどの曲を聴いても思って、私にはそれが衝撃的だった。音楽は、そんなこともあるのか、と震えた。

メロディも歌詞も決まってはいるんだけど、それでも、同じようになぞることが歌うこと、ではないんだろう。

お芝居が、とここでまたお芝居の話をしてしまうけど、とんでもなく好きだ、観れて良かった、と心が震える瞬間はいつも「その時」しか存在し得ない表現に触れた時だ。
相手が変わっても、演じるその時が変わっても、普遍的に供給されるものではなく、何か一つが少しでも変われば色合いも表情も変わる。私はそういうことが好きで、お芝居が好きなんだけど
FULL MOONで、登坂さんの歌を聴いて、それだ!と思った。この人のこの音楽は今この瞬間にしか、聴けないんだと思った。
だから、出にくいのかな、と過ぎるような表情を見ても不思議と心地良いというか、いや、苦しそうなのは心臓がギュッとするんだけど。そうじゃなくて。
生きてるその人にしか奏でられない音楽で、その時の「最高」を詰め込んだものが、登坂さんの音楽だ、と心の底から感じるのだ。
それは、彼にとっての音楽という存在の尊さを感じさせるし、そんなに大切なものをこうして触れさせてもらえる幸せに心の奥があったかくなった。

そして、です、ね。

ゲストが出てきた瞬間、ですよ。
色が増えて、表情が変わって、なんだろう、あれ。
ああ、彼は三代目J soul brothersのボーカルなんだ、と鳥肌が立った。音楽だけじゃなく、そこにパフォーマンスが加わって互いに輝いてきた、そのステージに立ち続けた人の音楽だった。誰かと歌い続けた人だった。
もう、それは「月」そのものだった。
ああ、この人の作るものが全て誰かと共有するものなんだ、というか。
ひとりぼっちじゃ存在しないものなんだなあ、と思って嬉しくなった。それはひとりで歌える歌えないの話じゃなく、全く感覚の話で、うまく言えないんだけど。

なんというか、愛で全部成立するようなそんな気がしたのだ。
前回、静岡でそこにはいない一緒に歌う相手を想っている姿があまりに美しくて、これは彼が相手をリスペクトしているからだな、みたいなことを書いたけど、それは突き詰めれば愛だよな、と思ったのだ。

そんで、歌われる「君となら」なんだけど。
あれ歌えるようになってたらいいと思う、と勧められて静岡前にひたすら聴いてたおかげで大好きになったこの曲の歌詞を初めて読んだとき、これ歌う登坂さんを観たら泣いちゃうのでは、と思ったわけですが(そして初見はこの曲に限らずほぼその全てで泣いたわけですが)
あの歌詞を、埼玉公演はより深く感じてしまった。
あの時、胸に手を当てて歌える限りの力で、疲れとか緊張とか諸々をねじ伏せてでも伝えようとするみたいな表情で、あの歌詞を、歌ってる姿を見て、みんなとなら、って言い換えるのを見て
あの、記憶違いなら恥ずかしいんだけど、あれ、みんな、の回数増えた?って思ったら、もう、ダメだった。
一緒に本気で最高の思い出を作ろうとしてくれてるし、私たちと一緒ならそれが出来るって信じてくれてるんだ、と思った。
そんなん、愛じゃん…あの瞬間ライビュ含めてみんなで綺麗な海見ながらキャンプファイヤーやったでしょ…(アコースティックの演出イメージ、キャンプファイヤーってのを聞いた瞬間、最高すぎて泣き崩れそうになった)(と言いつつ、昨日のライビュは本当に、頭がずーーーーっと処理中!って叫びそうな感じだったので、延々とタオル口元にあててフリーズしていた)


もう、ずっとどの瞬間、どこを切り取ってても登坂さんが愛されてて、そして彼自身の愛をそこら中に感じた。

 


TAKAHIROさんがでてきて、柔らかく楽しそうに歌ってて、ああデビュー前に憧れた人とこうしてアンコールでふたり、映画のあの曲を歌うのは素敵で奇跡みたいな構図だな、と思った。
「俺たち雨宮兄弟!」の名乗りの格好良さよ…。


いつか、終わる瞬間の話や、愛されてるんじゃないかな、と登坂さんが口にしたこと。それが、この青くて美しい海みたいな星空みたいな景色の連続した先にあることが、とんでもなく、嬉しい。
生きて、誰かと笑いあって、だから余計一人になる瞬間が切り取られることもあるんだろうけど、それでも、ああして優しく柔らかく笑うところを観たら、ああ生きるのって最高だ、と思った。
そして、やっぱり、この人の音楽がついてる、と思えることの心強さよ。きっと、本当の寂しさなんてこない。きても、大丈夫だ。
音楽も、パフォーマンスも、きっと、その為にあるんだ。
願わくば、それをこんな美しい奇跡と一緒に教えてくれたこの人の音楽を一秒でも長く、好きでいれますように。そして何より、登坂さんが沢山沢山笑う幸せな毎日でありますように。

 


そんな、ポエムなことを本気で、思ってる。

 

 

 

何事にも理由があって欲しい


小岩崎小企画の告知を見た時から私は妙にこの公演を楽しみにしていた。なんだか、無性に、ワクワクしてた。
うまくも言えないし、理由も分からないけど、別にそのどちらも別に必要ないか、と思う。


下北沢亭は役者さんとの距離が近い。目の前でお芝居が観られるから涙が徐々に目に薄い膜を張るのとか、そういうのが事細かに見えて、なんだか堪らない気持ちになる。


「白い象のような山並み」
核心の台詞はなかなか来ないんだけど、その台詞の端々にあるふたりの事情に心臓をぎゅっと掴まれたまま進む話。
台詞が核心に触れない分、仕草がすごく雄弁。貧乏揺すりとか、相手への目線とか。
あ、これ最前列で観れるのやばいな、と思った。それを1発目、このお話だからガツンと実感する感じ。
「あなたはもう私が面白いと思うことで面白いと思わないのね」って台詞(うろ覚えだけど)がとても綺麗で、切ない。嫌いなのね、とか終わりなのね、よりもよっぽど、ぽろぽろ落ちていく彼女の気持ちが迫るような。
太田さんがまた綺麗な方なんです。この方、初めてお芝居拝見したんだけど、作品で綺麗、の理由ががらりと変わる、佇まいの愛おしい方だな、と思った。
そして野口さんの苛々のお芝居が、ね、も、最前列で苦しいくらいだったんだけど、目が好きだなあ、とずっと思っていた。


「解体」
楽しみにしていた一人芝居!ヤッター!!
真田ともっくんがほんとにいたような気がする、振り返ると。
ラストの数分の小岩崎さんの美しさ…!
黒バックのシンプルな舞台だから、役者さんだけがダイレクトに飛び込んでくるのすっっっごく贅沢で最高だった。
未練あるやん、ってよぎったからこそ(いやもちろん、ありもするんだろうけど)ぽつり、と漏れた台詞に心がぎゅっと跳ねた。小岩崎さんの美しさは知るたびにぶん殴られるような途方に暮れるような気持ちになる。

 


「物騒な話」
大好き過ぎた。話が、もう、大好きすぎた。
殺しちゃったら忘れられなくなるよってのも、勿体ないよ、ってのも、あーーーーもーーーーーって叫びだしたくなるくらい愛おしかった。
竹岡さんが、竹岡さんがですよ(この方も初めてお芝居拝見した、初めまして、って最高に幸せ)神様、とか背骨直すやつで笑ったあとで、ラストのシャツのシーンが…!
短編集だからか、ほんと、ラストシーンの美しさがどの話も堪らなくて、これは凄えなあ、ってハッとした。
みんなで美味しく生姜焼き食べて欲しい。
彼はいなくなってしまったけど、素敵な友人ができた、というので、どうだろう。幸せってことにならないかな。

 


「殴る蹴る」
そして私はこの話でダダ泣きしてしまったんですよ。
この話、途中でお母さんとお腹の中の子の会話だ、って気付く仕掛けになってるじゃないですか、もう、気付いた瞬間から涙がダラダラ出て仕方なかった。止まらないんだもん、どうしたって。
小岩崎さんと野口さんの、優しいお芝居と静かさを堪能するお話。これはすごい。
お母さんの台詞が優しくて大好きだ。産まれる、ってずっと思ってて、思いながらこの公演が産まれて良かったなあって思って更にべそべそに泣いた。
空気感がたまらなく好きで、ふたりの不安への震えだったり目の潤みだったり、すごい、生で間近で観るにはとんでもなく、奇跡的に美しくて優しい。
このお話はあまりに優しくて心のポケットにしまってたい。居て欲しい、ポケットの中に。どうしようもなくなった時に出てきて欲しい。

 

 


「何事にも理由があって欲しい」
野口さん竹岡さんにノックアウトである。
そもそも、殴る蹴るのラストでまだ気持ちがぐちゃぐちゃだったのに、そのまま笑って笑って最後にヒッて締められた感じ。
短い話のテンポの良さとか瞬発感がまず観てて楽しいな、ったのが全体の感想なんだけど、そしてでも地に足がついてて、ひとつひとつがじわじわ浸み出してく感じ。伝わってください。
「分からないからこうして調書をとって聞いてるんです」「でも本当は薄々どこかで分かってるんです、自分で考えて感じたことじゃないと意味ないって」
どこまでもうろ覚えで申し訳ないのですが、小岩崎さんの描く台詞の胸の奥にいきなり飛び込んでくる響きはなんなのか。
私にとってお芝居を観る、のは、調書なのかもな、としとしとと切なくなった。
彼らが、それでも調書を取り続けるのを見ながら、あー私も、お芝居見続けよう、と思った。

 


昔、母に連れられた喫茶店に3000円のコーヒーがあった。それは何となく私の憧れだった。そこで飲むふつうのコーヒーが、まず、とんでもなく美味しかったので。いつか、あのコーヒーを買うぞ、買って飲んで幸せになるぞ、と思って居た。企んでいた。
途中、ぐるぐるとお芝居の空気に飲まれながら私はあのコーヒーのことを思い出した。図らずも、今回のお芝居は3500円、うち500円はドリンク代なので、実質、3000円なのだ。
あ、こんな素敵な味なのかもしれない。と、ぼんやり思って、今度実家に帰ったらあの喫茶店に行けたらいいな、と思った。
ひとりきりの贅沢というか、誰かが大切にしているものに触れさせてもらえる幸せはとんでもなく、優しかったので。

 

FULL MOON静岡1日目に浸っている話

FULL MOON静岡1日目に行ってきた。私にとっては初参戦ふるむんであり、初めて生で観る登坂さんだった。


生で、観れて聴けて、全身で彼の作る音楽を、そしてライブという表現を体感できて本当に良かった、と思う。


登坂さんの音楽は生で聴くとCD音源と全く違った。歌い方も、表現も、歌うところも違った。
それは自身のハモリ音声を流しつつ歌ってるから、という物理的な違いもあるんだけど、表現が違った。

彼は彼自身のエッセイ「NOBODY KNOWS」で音楽・ライブについて、毎回違う音楽であって欲しい、音源通りに歌えるアーティストのライブでは、すげえ!とはならない、それより音を外しててもその日しか聴けない音楽が聴きたいし自分が作るものもそうでありたい、と言っていた。(出先で打っているので要約である、もっと熱量のある良い文なのでみんなそっち読んで…)
そして、上手に歌うことよりも何かを伝えられるその時の感情とか想いを伝えられる歌を歌いたい、って、書いてあったわけですが。

それを、ここまで体現するのか、と。
も、頭が途中痛くなるというか熱量が凄まじくてあれ?これ熱出てない?私もしかして??って困惑した。立ってた私偉い。
歌詞がですね、全然違うように聞こえたんですよ。恋の歌だ、と思っていた曲が、あの会場にいた私たちに手渡す曲に変わるんですよ。いやもう、あの、これからSmile Moon Night聴く度思い出して泣いちゃうじゃないか、って打ってたらタイミングよく流れ出すのやめて、出勤しながら打ってるから化粧崩れるからほんとやめて。

「星のない夜には君を照らす為」
とか、さ。
たぶん、本当にこの人の曲はずっと、そこにあって私たちのことを見ててくれるんだな。この夢みたいな時間はたぶんそこに在り続けてくれるんだな、って信じられると思った。それだけでなんか、大丈夫だな、って思ってしまった。
というか、登坂さんあんな優しい顔で歌を歌う方なんですね…いやもうそこそこ遠かったんですけど、モニターで見たからというより、空気感全部が優しい曲の時柔らかくて優しくて、なんか、ほんと、さあ…!
あなたの曲を、好きで良かったって心の底から思った。し、あの時私はこの人の音楽が好きで、そこに反映される彼の人となりが好きで、アーティストの登坂広臣が何より(あの整いまくった顔とか言葉とか部分としてというよりその全てが集結したものとして)好きなんだなあ、と悟ったというか、腹落ちしたのでした。

そして、LUXEをはじめとする他の人と一緒に歌う曲がですね、映像で本人を流しつつ音声を流しながら歌う演出だったんだけど

いた。
もう、いた。
召喚していた、登坂広臣。召喚魔法使える系の人だった。

いやだって見えたもんCrazy Boy!トトロみたもんの勢いで主張したい!Crazy Boyいたもん!
ほんとに、多分、相手の呼吸や音を体に染み込ませてるんだなあ、と思った。
相手のパートを聴く時の楽しそうなあの様子ですよ…足でリズムとってるの死ぬほど可愛かった…音楽が本当に好きなんだなあって幸せになったし、一緒に音楽を作ってきた人たちのことを心底リスペクトしてるそんなところが大好きです。

本当にね、ずっと楽しそうなんですよ。音楽っていう表現が楽しくて楽しくて仕方ないみたいな顔で歌い続けてるんですよ。
しかもそれが最高に気持ち良さそうなんですよ。
そんなん、そんなん、さあ…。
全力で歌ってる姿を見てたらもう全然、頭ぐるぐるしてしまって延々と泣いてた。久しぶりにほぼ全曲で泣き続ける羽目になった。ぐすぐすうるさくてごめんやで。
いやでも本当に。この表現があって良かった。そしてそれに、こうして触れられることが奇跡に思えて仕方なかった。
ああいう奇跡が起こるから、私はなんとなく人生とか世界とかにうんざりしきれないんだよ、って思った。すぐ人生規模で考えるぅー。

人生で、初めてペンライトを振ったんだけど。
すげー近くで観たい(見れたら嬉しいけど)ということにこだわるわけでもないし、こっち観て欲しい、ってのも人よりあんまり思わないと思うんだけど、
でも、ああして楽しそうに歌う彼の目に映る青色の一つで表現できることは最高に幸せですね、と思った。なるほどなペンライト文化…素敵じゃねえの…。


登坂さんが、ENDofLINEの時のMCで言った言葉をずっと考えている。
私はあのMCがとんでもなく嬉しかった。音楽やお芝居や映画が、小説がだから好きなんだ、と思った。
個人としての彼は知らないし、知りたいとも思わないけど。
アーティストとしての彼の作品が自分の人生の中にあること。
それは別に例えば職場の面倒な人間関係を解決してくれるわけでも、ぎくしゃくした友人と仲直りさせてくれるわけでも素敵な恋人を生み出すわけでもないし、家庭円満なんてものをもたらしてはくれないんだろうけど(まあ、きっかけになることはあるかもしれないけどね)
人生のそういう遣る瀬無さの直接的な解決ではないんだけど、でも、登坂広臣さんの音楽があることは、確実に私の人生を最高にしてる要素の大切な一つなんだ、と思った。
別に私一人がどうこうということは当然ないんだけど、あのとんでもなく美しい青色の一つではたしかにあったのだ、というのが、物凄い幸せなことなように思えるのだ。
そして、それは当たり前じゃなくて、ああしてライブにいることも当たり前じゃなくて、だから、忘れずにいたい。忘れずに、忘れそうになったならまた音楽を聴いて、自分の人生に胸を張って、そうして、一日でも長く、あの人の音楽を好きでいられたらいいな、と思うのだ。

 


なんか、アーティストとファンってそう思うとすげえ関係だな、と思う。
一と一として関わることはないし、関わりたいとも思わないけれど、でも確実に沁み入るみたいに影響しながら、何かを残していく。そうでありたいな、と思う。受け取れるように受け取って、またちゃんと自分の人生を自分の足で、歩けるように。