えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

英国王のスピーチ

なんの映画を観た時だったろう。その予告を観て、観たいと思った。思いながらもその頃は今のようにしょっちゅう映画を観るような習慣がなくて、結局、映画館に足を運ばなかった。
だけど、強烈に「この映画はきっと好きだ」という予感がしていた。
いくつかの賞の受賞のニュースを観た時はうんうんと、観てもないのに頷いた。好きな人が面白かった、と感想を書いてるのを見た時はうれしくなった。


もしかしたら、楽しみにしすぎてしまったのかもしれない。頭の中で勝手に出来上がった「好きなもの」に実際に触れる時はいつもドキドキする。


そんな風に観るタイミングを探していた映画「英国王のスピーチ」をついに観た。
そして、その映画は間違いなく、想像以上に好きな映画だった。それがまず、本当に嬉しい。



あらすじ(Wikipediaより)
吃音に悩まされたイギリス王ジョージ6世コリン・ファース)と、その治療にあたったオーストラリア(大英帝国構成国)出身の平民である言語療法士ジェフリー・ラッシュ)の友情を史実を基に描いた作品。




時代の舞台は第二次世界大戦直前。あらすじでは、ジョージ6世……この感想では、バーティと書く……バーティは王、とあるが物語の初めではまだ即位していない。彼のお父さんが王であり、なんなら兄もいる。しかし、父は高齢、兄は自由奔放で「王位」はいつかバーティが継ぐ必要があることはひしひしと画面から伝わってくる。
ちょうど、ラジオなどの技術が発達していた時代。
そして、そもそも世界が揺れていた時代、演説のうまさ……言葉の説得力やカリスマ性がリーダーには求められる。しかし、バーティは吃音でうまく話せない。話そうとすればするほど、言葉は詰まり、苦しそうに顔を歪める。


この、バーティを演じるコリン・ファースさんのお芝居で最初に惹かれたのはその目だった。もう、すごい。目が。
言語療法士であるライオネルの診療所や自室で揺れる目に言葉にならない彼の心のかけらを見たような気がする。その目の雄弁さを思うと、彼が言葉にできなかった、音にならないまま握り潰された言葉について思いを馳せてしまう。



あるシーンで口にされた「聞いてもらう権利がある」という言葉が印象的だった。



ライオネルは、診療のはじめ、彼の生い立ちから知ろうとする。
吃音の専門的な知識について、私はほとんど持ち合わせていない。あるのはこの作品や他のドラマから得た断片的なフィクションの世界で描かれた知識だけだ。だから生い立ちがイコールで吃音という症状に繋がるのかどうか、ということは分からない。
だけど、バーティにとって今まで何度も握り潰され、あるいはその結果どうせ聞いてもらえないと握りつぶした言葉がどれほど大きなものたったか、考える。



繰り返しいう、聞いてもらう権利がある、という言葉。
話す権利、ではないのだ。
聞いてもらう権利、なんだ。言葉は、受取手がいて、初めて存在する。
その受取手は他人であったり、自分であったりする。だけど、いずれにせよ、受け取られて初めて、存在するのは間違いない。受け取られないならそもそも出てくることすら、出来ないのかもしれない。

一言一言紡がれる、彼の言葉が胸に迫ったのはそんなことを思ったからかもしれなかった。目の奥に沈んでいた言葉が、受取手の存在で溢れていく。そのシーンは、本当に美しかった。