えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

アースクエイクバード


人生に意味があることなんて起きない。最近よくそんなことを思う。
意味は勝手に生きてる人間が生きてるうちに拵えるだけで、その実結局、意味なんてたぶん、無い。


アースクエイクバードの後半の展開を観ながらそんなことを考えていた。

 

 


あらすじ(Netflixより)
1980年代の東京で、日本人写真家と恋に落ちた外国人女性。だが、やがて彼女は三角関係に心乱され、行方不明だった友人殺しの容疑までかけられる。

 


淡々と進んでいく物語の中で、モノローグも台詞も少ない。また時間軸もジグザグと進む展開で、途中、あ、これ真っ直ぐ時間が進むわけじゃないんだな、と気付いた。


陰影が美しいと思った。それは、写真が題材の一つだったからだろうか。
水とか、黒の艶感、重たさが酷く印象的な映画だった。


こうして感想を書きながら、たぶん私はあの映画に込められたものの何万分の一かにようやく触れてるか触れてないかなような気がする。
キャッチコピーを今改めて読んで、しっくり来なかったから、というのが一番そう思う理由ではある。し、なのでレビューなどを読んで自分の感想を整理したいような気がする。
だけど、私にとってのラストシーンの意味は私にしか書けないし、きっとそれは他の感想を読んじゃうとブレるので、このまま書く。

 


ジグザグと進む時間軸と、語られたり語られなかったりする心境、切り取られる表情のもと、物語は行ったり戻ったりを繰り返す。


この映画に興味を持ったのは直己さんのお芝居が観たい、と海風を観て思ったからだけど、
インタビューで語られていた、「禎司」という男へのアプローチが面白いと思ったからだ。


物語はだいたい、登場人物たちの人生を切り取って語られるわけだけど、その中で彼は語ること語らないことがあり、その中にはわざとなこともあれば、そうでない(無意識)もある。
そして、それは何も禎司に限った話ではなく、ルーシーやリリーもそうだ。

 


その中で分かること推測することを繋ぎ合わせながら、映画を観ていた。

 


なんなら私はルーシーが何を考えているか感じているか、分かるようでわからない心地がしていたから必死に目を凝らしていたような気がする。


結局私はどれくらいあの映画が分かったかなんて分からないし、なんなら少しも分かってないのかもしれないけど、


ラストシーン、数分がとんでもなく頭をぐらぐらと揺さぶってる。


自分には死がついて回ると言ったルーシー。
禎司が言った「いつか話して」という言葉。
禎司はなんで、ルーシーに惹かれたんだろう。
ルーシーが感じたこの人だけは私の全てを受け入れてくれた、は本当だったのか。
リリーと地震の後のあのシーンは「リリーの中ではなかったこと」になっちゃったのか。
(花のくだり、怪我したはずの指の傷がないことを思うと彼女の幻覚の可能性もある……?)


ただ、そのどれもが、ラストシーンのあの女性との会話で、スコン、と落ちたような気がするというか、
上に並べたことへの疑問は私が「意味がある」と思ってるから感じたことだ。
ルーシー自身が周囲で起こった死には意味があり、それは自身が引き起こしたと思っていることだ。


ただ、それは本当にそうだろうか?
山本さんの死、は誰のせいなのか。その死の意味はなんなのか。


たぶん、ないんだよなあ、と思った。
ない。少しも。人生にも、その中で起こりうる死にも意味も責任も、ほとんど、無い。残念ながら。


ただ、それは、残念ながら、と言いながらなんかそうだよな、と妙にほっとした。
意味は勝手に生きてる人間が作る。たぶん、そもそも、この映画の感想もそうだ。勝手に受け取って、勝手に飲み込んでいくか、吐き出すかするだけだ。


地震の後のあの鳥の鳴き声は、本当だったんだろうか。本当だとしたら、その意味はなんだろう。
もしかしたら、それだって無い、と言われたらああそうかもしれない、と思う。
そこに意味を持たせたいなら勝手に持たせたらいいんだろう。