えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

パンとバスと2度目のハツコイ

思いがけず、映画に心を奪われて掬い上げられることがある。
思いがけずってのも変な表現なんだけど。だって、自分から選んで、その映画を観ているわけだし。

しとしとと、あったかな気持ちが降り積もっていくような中で見終えてひどく幸せな気持ちになった。


「私をずっと好きでいてもらえる自信もないし、ずっと好きでいられる自信もない」と、独自の結婚観を持ち、パン屋で働く市井ふみ(深川麻衣)が、中学時代の“初恋”の相手・湯浅たもつ(山下健二郎)とある日偶然再会したところから物語は始まる。プロポーズされたものの、結婚に踏ん切りがつかず元彼とサヨナラしたふみと、別れた奥さんのことを今でも想い続けているたもつが織りなす、モヤモヤしながらキュンとする“モヤキュン”ラブストーリー。「初恋相手は、今でも相変わらず魅力的だぁぁぁぁあ!!」”恋愛こじらせ女子“の面倒な恋が動き出す!?「結婚」をテーマに、コミカルで人間交差点的な今泉力哉ワールド全開の恋愛群像劇が繰り広げられる。


恋愛映画がそんなに好きではない。
好きではない、というか、進んで選ぶことはない。
んだけど、私はこの映画を大好きだと思った。
恋愛群像劇だ。
だけどそういえば、恋愛、とは人と人の話だったなあ、と見終えてコーヒーを飲みながら思う。


好きな言葉や景色がたくさん出てきて、どんな感想よりもそれをひとつひとつ書き出してしまいたいような気もするのだけど、
そうしてしまうと、きっと、というか当然私の感想ではなくなってしまうので、文にしようと思う。


さみしく在ろうとする、ということがどこまでも広がってる映画で
さみしく在ろうとするのはふみなんだけど、でもみんなそうだ、と思ってしまった。
思ってしまったけど、さみしいことは悪いことではないと思う。
どのシーンも言葉も優しくて優しいけど体温があって、だからそう思うんだろうか。

さとみちゃんが、すごく愛おしくて。
あー彼女はふみが本当に好きだったんだなあ、と思った。
恋情と親愛の違いとかを分けることは難しい。
性愛、を絡めたら分かりやすい気もするんだけど、なんか、この映画に関してはしっくりこなくて。
そもそも、野暮じゃないですか、そこ分けるの。その人にとって恋だったら恋だし、愛じゃん。
そして、さとみちゃんが今幸せ、と言って笑った時に泣いたふみが、ものすごく好きだ。
あれは、そうして自分を好きでいてくれた人が幸せことが嬉しくてほんの少し寂しいような、そんな気持ちなのかな。どうか分からないけど、私はそうだな。
そしてそのさとみちゃんがまたこれからもこうして会おうって言ったことがとても好きだ。
付き合ったり結婚したりしないからずっと一緒にいれるってこともあるんだよ、とは言い得て妙で、残酷でだらしなくてでも、優しい。

孤独のコインランドリーをふみはこれからも必要とするのかもしれないけど、それは不幸でも不誠実なことでもない。
必要としなければ、きてもらえないコインランドリー。
だけどそこに、きたらいいのにねって言うふみが愛おしい。し、そうだねって思う。
何も、必要だけで固めることはないし、必要最低限だけしか持っていけないなんて、そんなことないはずだ。それを守ってくれる男の子のことを考える。

映画を見終わった直後のメモに微睡みの中で聞いた言葉とか見た景色って書いてあった。
それは映画全体に漂う懐かしさがそうだし、彼らの言葉がじんわりと胸に広がっていく感覚がそうだ。
あの2時間弱が私にはものすごく大切で、大好きだった。
この映画は、私の為だ、なんて大袈裟で独り善がりな感想だ。だけど、私はこの映画に出逢えてよかったって繰り返し言いたくなる。

映画って、人と寄り添うものなんだな、なんて思ったりする。うん、どうあっても大袈裟な物言いになっちゃうな、でも、本当にそう思ったから仕方ないな。


ふみが、愛おしいのはその生活感で。
(そういう意味で、彼女がパン屋さんなの、最高すぎると思う)
彼女が、と言ったけどそれはひいては私がこの映画が好きな理由にも繋がってる。
洗濯機を大切に使ってたこと、それをありがとう、と言う業者さん。妹が作った肉じゃがと焼き魚とお味噌汁。
彼らがそれぞれ見せた互いの日常は、体温がある。
幸せそのものみたいなさとみちゃんの家も決して偽物臭くない。
本当かどうかなんか、どうでも良くてそう感じるかどうかだよ、と言う台詞が耳に残ってる。
だとしたら、彼らが本当に私たちの生活の隣で同じように生活してると感じた、それが私にとっての本当だと思う。

たもつと、ふみはちょっとずつズレててほんの少しで、でも使い古された言葉ではあるけど、恋愛で一番大切なのがタイミングだとしたら、それはそういうことなんだなあ、とあの山でのシーンで思ってなんだか無性に泣けてしまった。それは不幸ではないんだけど、でも、やっぱり寂しいと思ってしまった。
の、あとに、あの夕日を見るのがさあ。
ふみの絵をいい絵だってたもつが言うのがさあ。
百点満点で、タイミングがドンピシャじゃなくても自信がなくても、まだあいこのことが好きでもふたりで笑えるんだなあ。
それは妥協とか傷の舐め合いとかじゃなくて、きっと言葉にするもんじゃない何かだと思う。

好きでいいじゃん、みたいな。好きじゃん、みたいな優しくて無責任で、何も解決しないけど、めちゃくちゃ優しい大切な答えがそこにあるじゃないですか。


人はひとりでしかなくて、ままならなくて
さみしく在ろうとすることや、あの青はたぶんずっとそこにあって
でも1+1は2なんだなあ、とあの青い空気の中を歩くふたりを見て、思った。片思いでもなんでも、1+1は2なんですよ。

 

 

マームとジプシー みえるわ

マームとジプシー
みえるわ

川上未映子×マームとジプシー
MUM&GYPSY 10th Anniversary Tour vol.2
「みえるわ」
テキスト 川上未映子
「先端で、さすわさされるわそらええわ」「少女はおしっこの不安を爆破、心はあせるわ」
「夜の目硝子」「戦争花嫁」「治療、家の名はコスモス」「冬の扉」「水瓶」「まえのひ」など

大阪28日夜では
「先端で、さすわさされるわそらええわ」
「少女はおしっこの不安を爆破、心はあせるわ」
「治療、家の名はコスモス」
が上演された。


場所と時によって、それは内容を変えるという。
舞台は生物、とは繰り返し言われて来た言葉ではあるけど、この舞台はまさしくそれだった。

みえるわ、は、生きている。

そして、私はDVDで舞台を観ることもとてもとても好きで、あれは私による私の為だけの公演とすら思ってるんだけど、この作品に関してはきっと、映像じゃダメだな、と思った。いい悪いではなく、事実として。


ハイエース二台で、回る一人舞台。
川上さんが書いたテキストを基に青柳さんが演じる。
演じるというより、叫ぶ、歌う、奏でる。
一人舞台ではあるんだけど、後ろにボクサーがいたり、照明機材がピカピカと光り、回る。
照明がともかく好きで、たまらなく好きで、あまりにあの世界で、でもきっと味園ユニバースでしかなし得ない照明で、でもこの公演は全国を回るわけで、
それは、もはや、別の舞台が生きては死に、生きては死にしてるんじゃないだろうか。

ところで、関西で、しかも大阪、その上なんばで、関西弁の歯切れのいいこのテキストを聞けたことはたまらない贅沢だと思う。途中、江戸言葉が入りはするけど、しかし、上演される直前まで自分たちも使っていた言葉が軽快に踊る様はなんとも幸せな景色で、染み込みやすいような心地がした。

舞台というより、フリースタイルのラップだった、と友人と言っていた。
何を話してるかどんな話なのかは途中からどうでもよく、いやどうでもいいとか言うと怒られそうですけど、でも歯に絹を着せず言うならほとんど聞き取ることを放棄してただ息をしていた。たまに目だって閉じていた。

あれは、なんだったんだろう。

以前、味園ユニバースで上演された時はフラットな舞台でやったと言っていた。それが、今回は二面舞台だ。終演後のアフタートークで落語のような、と演出藤田さんは口にした。
落語、というか、浴びた、というか。

味園ユニバースは不思議なライブハウスだ。
私は妙に懐かしくて泣きたくなるようなニヤニヤするような気持ちで、アルコールを飲んだ。
いやもうねー内装がねーたまらないんですよ。

劇場も然りだけど、ああした場所には記憶が地層のように積み上げられていく、と聞いたことがある。
味園ユニバースはまさしくそんな話を思い出す場所で、マームとジプシーのみえるわ、を観ながらもっと違う、過去のライブの音とかなんだかそういうのを一緒に飲み込んでいたような、飲み込まれていたような気がする。

フラットな舞台では、きっとより身近にあのテキストを、青柳さんの存在を感じただろう。
二面になった舞台で、何が変化したかを私は比べることはできないけど、想像する、たぶん、浴びる、に変化したし、包み込むというと少し違うけど兎にも角にも、そんな風な空間の形成の中にストン、と入り込んだ気がする。
物凄く、感覚的な話をしてますね。

生きる、がきっとその根底にあって。

テキストの中、出てくる女の子たちは酷く生きづらそうだ。
鳩を怖がり、怖いものが入ってこないよう入口を塞いだり、信号だと言われたり、お母さん、の思うままの自分の振る舞いをしたり、蝋人形のようだったり。
でも、そのひとたちどの人も、生きている。

たぶん、私はそれを・・・それってのは、彼女たちのしんどいとか息が詰まる感じとか、治療の家、とか・・・理解できるようなできないような性格をしていて、終演後、ぼんやり考えてた。
理解できようができまいが、彼女たちは生きてる。
私は彼女が言ってることを全部は理解できなかったけど、でも彼女が使った関西弁を私も使ってて、彼女のようにではないけど、私だってたまに疲れたなあと思ってて、なんというか、そりゃそうですよね。解る、なわけではない。だって、私は彼女じゃなくて、彼女は私じゃない。
同一視が必要なわけじゃない、同一視が救うわけでもない。

だけど、終演後アフタートークで語られたサラリーマンの姿を私は想像できたし、理解したいと思ったし、手を伸ばせる気がした。
なんか、存在してくれるだけでいいんだ、と思う。
それが私にとってこの舞台が二面舞台だったことを含めての感想だ。
もしかしたら、この公演をフラットな、同じ目線で見たなら私の物語だ、になったのかもしれない。物語、という言葉はなんとなくこれにそぐわない気もする。言葉、の方がしっくりくる。
だけどそうじゃなくて、浴びて、存在してるな、と思ってその人が作る空間にいながら、あー存在してる、いる、みたいな。
いるなあ、って彼女に思うことは、いるなあって私も私を確認することに似てる。似てる、というか同時並行的に起こりうる。


アフタートークで、印象的だったのは川上さんの言葉だ。
アンチエイジングなんて言うけどそんなことしてる場合じゃなくて、生きてなきゃダメだよ。
青柳さんがこれからも歳を重ねたり、藤田さんが歳を重ねたり。もしくは、場所が変わったり、そして受け取る私たちも歳を取ったり。
きっと、その度にこの公演は色も姿も変えていく。
経験となって降り積もるような、そんな景色が私にはみえたような気がするのだ。

光のお父さん

光のお父さんが、完結した。
特別編を含め、全部見終えたので感想を書こうと思う。
毎週感想あげたかったけど、ツイッターでぼそぼそ感想書くしかできなかったので改めて!

 

マイディーさんのゲームプレイブログを、ゲームパートは実際のプレイ動画を用いてのドラマ化した光のお父さん
噂によると、かなりこのドラマがきっかけでFF14を始めた、戻ってきた人も多いらしい(気持ちはかなり分かる。やりたくなるもの。エオルゼアの風景綺麗だし。


ところで、ドラマの途中で気になってブログを読み始めドラマができるまでを書いた光のぴぃさんを含めて光のお父さん関連を読み漁った。
もう、このマイディーさんのブログがまずめちゃくちゃ面白い。
ゲームに詳しくなくてもテンポがよく、そして出てくる人たちも魅力的ですらすら読めてしまう。なんなら、光のお父さんの最後の方は通勤電車で泣きながら読んだ。たぶん不審者だった。
マイディさんのブログ 光のお父さんまとめ読みページ
http://sumimarudan.blog7.fc2.com/blog-entry-2019.html

そんな魅力をドラマになったらどんな風に描かれるのか。
ドラマから見始めたのに、読みながらこれ、ドラマだとどうなるんだ?とドキドキしたり。

光のお父さんは、親孝行の話ではあるんだけど、
それと同時にオンラインゲームを愛する人たちの話で、そして、前代未聞のゲームプレイシーンを使ったドラマに至るまでの人たちの話だ。
当然、ドラマ化までのストーリーはドラマ内では描かれない。描かれないんだけど、例えばどんどん広がって行く各地の放送局ごとの放送日には必ず告知する公式ツイッターさん、とか、そういう各所にこのドラマへの愛情を感じた。
まるで、お祭りみたいな7週間だったと思う。


そんで、ドラマ自体の話。
ブログを読んでてもFCの仲間たちなど魅力的な人たちにはすぐ愛着が湧くんだけど、
ドラマはそんな、FCの仲間たちに合わせて現実パートの会社の人たちの愛おしさが凄い。
袴田さんを初めとして、もうみんな素敵。
それに、ゲームパートで対面する問題が現実に作用したり、その逆があったり。
1話30分という限られた時間なのでそれはそれぞれ分かりやすい構図なんだけど、観てて本当に気持ちがいい。

光のお父さんがやってきた。
光のお父さんが姿を消した。
光のお父さんにゲームオーバーはなかった。
光のお父さんは1日1時間の戦士になった。
光のお父さんは意外な言葉を口にした。
光のお父さんはすべてを打ち明けた。
光のお父さんは本物の光の戦士だ。


お父さんは、次第に世界にのめり込んで、そこの人々と仲良くなって冒険をする。
1話だけもともとブログに感想をあげていて読み直したけど、中でも1話で好きだったのがマイディさんが大好きなファイナルファンタジーを、エオルゼアを好きになっていくこと、そしてあのゲーム、なかなか楽しいというシーンだ、と書いた。
自分の好きなものを誰かが好きになるのは、とても幸福なことだと思う。
そして、あのドラマが大好きだったのは現実パートを含めて彼らが経験していって変化するその流れだ。
マイディさんのブログで印象的だったことがある。

ちょっとだけ、引用したい。

「お父さん、エオルゼアには僕の大切な人たちがたくさんいるんだ。

ケンカもするけど、大好きな友達がたくさんいるんだ。

何も知らないお父さんが、僕の大切な人たちと知り合い共に冒険を続けてくれた。


そしてその答えが・・・・「また会いたい」なのであれば・・・・

僕が歩んできた道は、間違っていなかったってことでしょ・・・?

・・・・・・お父さん。」


ゲームの世界は、偽物だとか作り物だなんて言う人がいるけど
勿論それを否定はしないけど、そこで経験して出会った人たち。それがNPCであろうがオンライン上の顔は知らない誰かであっても大切な人になり得ることがある。
そして、その中で彼ら親子が親子以外の仲間としての関係を得て、もう一度、親子って形が変化すること。
これが現実に起きたことも本当に愛おしくて、そして現実に起きたことだからただただ感動させよう、なんてことじゃなくて色んなことがあって中にはたくさん笑えることがある。
これは元々のマイディさんの持つ人柄や文章の表現、エオルゼアのFCメンバーやお父さんの個性もある。そしてドラマではそこがパワーアップしてて、会社のメンバーとか鈍感な光生の恋愛模様とか、なんか、ああそうだよなあ、と思ったのだ。
特別なことじゃなくて、当たり前に笑ったり話したりする中で、私たちはいろんなものを見て聞いて考えてる。それはゲームの中でもそうで。
そこから色んな特別が生まれていくんだよなあ。
初めから特別だったんじゃなくて、むしろ当たり前で平凡なやり取りとか何気ないゲーム(ファイナルファンタジー、楽しそうだな、と思ったのは釣りとか海でみんなで遊んだりとか結婚式あげたりとかそういう要素もあること。あそこにはエオルゼアの冒険だけじゃなくて日常があるんだなあきっと)やり取りがあるからこそなんだ。

なんだか、文章にしちゃうと拙くなってしまうのがもどかしい。

ともかく、私は、毎週彼らの冒険が進むのが楽しくて彼らに会えるのが嬉しくて、ドラマを見続けた。

ドラマは、作りものかもしれないけど、きっとそこで感じたことは作りものなんかじゃないはずだ。光生やお父さんがあのエオルゼアでの冒険を忘れることがないように、私の中にも彼らの毎日はこれからだってきっと残っていく。

 

光のお父さんは、宝物になったのだ。

髑髏城の七人

髑髏城の七人の感想という名の捨之助の話です。

ワカドクロから始まり、他団体のワカドクロ脚本の髑髏城を見て、鳥髑髏はステアラにて観劇、下弦の月をライビュで見て
いやもう、髑髏城すごいなーーーー!の気持ち。

ざっくりとしたあらすじとか書いてたんだけど、
なんタイプかの髑髏城を見た上での捨之助を中心とした感想を書きたいな、と思ったので割愛!
たぶん、たくさん凄く緻密な考察とか、詳細な感想とかあるんだと思うんですが、私のこれはただひたすら捨之助好きだなあ幸せになってほしいなあって言ってる文です。

 

そもそもなんでこんなに捨之助が気になるのか。
ワカドクロを初めて観た時、王道エンタメ主人公だ!と興奮した。
色男で、調子が良くだけど締めるときはきちんと締める。腕っぷしも強くて愛嬌もあり、優しい。しかも格好いい。文句なしの主人公だ。
七人ばーん!と並ぶシーンなんかは、あまりに格好良くて震えた。
それまで、メタルマクベスとかどちらかというと悲しくなる新感線を観ることが多かったのもあって尚更そう思った。勿論、そっちも大好きなんだけどね!
ただ、一方で。
捨之助は何がどうしてしたかったんだろうな、と引っかかったような気もした。
王道エンタメ主人公。
あまりにその枠にいる人として理想的すぎて、逆に私の中でデフォルメ化してしまって、人として私にしっくりこなかったのかもしれない。

蘭兵衛はそういう意味では目的も感情もハッキリしてる。
信長への想いも無界屋への想いもどちらも凄く人間臭い。狂おしいくらい強い感情がずっと彼の中にあって、それにどんどん翻弄されていく姿が本当に美しい。

で、捨之助なんだけど。
捨ててきたからこそ、浮世の情も因果もないから、だからあんなに浮いているのか。
情に篤い振る舞いを見せ、行動していても。
髑髏城の本編では彼は空っぽのままで、あの七人での冒険を経て残った葛藤とか鬱屈としたものを浄化してもう一度その空になった自分をいっぱいにしにいく旅に出る、という終わりなのか。あーそんな気もするんですけど。
この解釈はわりと鳥の捨を観た時に、あーーーーーと思った。
鳥の捨之助は私の中で物凄く衝撃的だった。
それは髑髏党への行動が復讐に基づいてる、と感じる設定、お芝居だったからかもしれない。
信長様に纏わる色んなことを昇華しきれてないからこそ、それを終わらせることで本当の意味で「捨之助」として生きようとしてるのかな。


もう一つ、鳥髑髏でああそっか、と違和感が解消された設定というか、シーンがある。
信長様の最期に立ち会えなかった理由、焼かれる村を助けることを選んだ、捨之助の選択。
このシーンを見て、ああだから捨之助はそうなんだな、とハッとした。
蘭兵衛も天魔王も信長様にすごく縛られてるふたりだ。鳥の天魔王は信長様、というか名誉とか地位とかそういうもののように感じたけど。
でも、大筋としての二人は信長様に愛されたくて愛されたままの世界が続くことを願っていた存在だと思う。だからこそ、彼が居なくなった世界でうまく生きられなかったんだなあと思うし。そう思えば思うほど、お前は無界屋を作れたのにな蘭兵衛、と悲しくなるんだけど。
無界屋という、新しい大切なものを作っても信長様への愛がなくなるわけでも嘘になってしまうわけじゃないのにな。
でも、蘭兵衛自身がどこかで信長様がいない世界生きていけてしまう自分への嫌悪というか、ガッカリ感を抱えてたのかな、と無界屋惨殺のシーンの台詞を聞くたびに思う。でも、信長様はあなたのことが大切だからこそその幸せを祈ったんだよ・・・。天魔王から最期明かされる蘭兵衛への言葉が死ぬほどしんどい。
ある意味で、彼自身が信長様の蘭兵衛への祈りを手折ったんだよな、と月髑髏で思ってしまって必死にタオルで口元抑えた。そんなのってあんまりじゃないですか。幸せになれ、って願った思いを信長様を思うからこそ背くとか、も、ほんと、ほんと。
捨之助の今度は迷わず逝けよ、の言葉があまりに優しい。

でも、捨之助は「焼かれる村」を選んでしまったというか、選べてしまったんだ、ということが鳥髑髏への一番の感想だ。

狂ってしまうほど思いを蘭兵衛も天魔王も信長様へ抱えていて、そのふたりと一括りにしての信長様を支える三人、と思うと、捨之助のこの選択は異質だ。

きっと、蘭兵衛は迷いもしないだろう。自分の命よりも信長様が大切な彼は躊躇うことなく村を見捨てて信長様のもとへ走る。
でも、捨之助は村を選べてしまった。

誰に言われたわけじゃない、彼自身の選択ではあるけど、そうしたことの捨之助の絶望を思う。
選べてしまった、信長様以外を選んでしまった。
別にどちらがどう大切とかではなく。
信長様を思ってなかったわけでもない。し、きっと、彼がそういう人間だからこそあの三人の中に彼が居たんだと思うし、信長様は仕事を任せてたんだと思う。
どの表現や思い方が正しいとか一番偉い、なんてことあるはずないんだ。
だけど、こうありたいって自分と実際の自分の行動の結果とを見比べてガッカリして、でも後悔もしてなくて雁字搦めになった捨之助の時間を思わず想像してしまう、そんな鳥髑髏だった。だからこそ、彼は一度全部捨てなきゃいけなかったし、捨て切るための髑髏党討伐だったんじゃないか。


という、前提の感想を抱いたのが昨年の夏。
観た後何度も感想を書いては消し書いては消ししてきた。それはどれだけ言葉にしてもしっくり来なかったのもあるし、もう既に精密な感想もたくさんある作品でまとまってない文を書いてもなあと思ったのもある。
ただ、下弦の月を観て、もっかい衝撃を受けたので書かなきゃ!とスマホでぽちぽちし始めた次第だ。

ライビュで観た下弦の月
ツイートもしたけど、ステアラはライビュとか映像だととても観やすいですね。場転でどうしても(映像や役者さんの動きで補完されてたとしても)集中力が切れてしまった私は、映像だとスムーズに観れた。個人差の話なんですけど。
そんなわけで、かなりスムーズに観れたのもあったし、あと脚本もすごく分かりやすいアレンジがたくさんあって、とても好みだったんだと思う。
極楽太夫と霧丸の描写がその中でも私の中では大きな変化だった。

私の目には下弦の極楽太夫はお母さんに見えた。感想読んでたらすごく情深く恋をしてる人と捉えてる方もいて、千差万別感が面白いなあと思いました(感想)
お母さん、というか家族を作ろうとする人。懐に入れた人に愛情を惜しみなく注いでくれる人。
それは、霧丸への世話の焼き方もそうだけど、蘭兵衛とのやりとりでもそんな風に思って。
度々言うけど、私の中で愛情は注がれる以上に注ぐ人が救われることがあるっていう仮説があって、極楽太夫は自身もそう救われながら蘭兵衛のこともそうして救おうとしたんじゃないかなあ、と思う。
一緒に無界屋を作ってきた、と話す時のその表情や仕草にそんな優しいもし、を考えてしまう。
お母さんであってほしい一つの理由は兵庫のことが私がめちゃくちゃ好きってのもあるんですけど。なんか、いっつも蘭兵衛への極楽太夫の恋愛感情と仮定して見てるとあのラストシーンで切り替え早えな!ってなっちゃうんですよね。
だって、物凄い感情だったじゃないですか、蘭兵衛!!!!!って向かう時。あの鬼気迫るシーンめちゃくちゃ好きなんだけど。
だから、私としては家族、と解釈した方が後半のいろんなシーンをすとん、と受け入れられるのでそんな気持ちです。

そして、霧丸ですよ。
思わず終演後に捨之助子育て編じゃんって呟いてしまったアレですよ。その節は大変すいませんでした。

捨之助については前述の通りな気持ちを抱いてきて、
捨之助はこの冒険の後、生きてはいけるんだろう、と思いながらいまいち彼のその後が浮かばなかった。
お前のための城を作る!という沙霧の台詞もそれぞれのタイプで好きだったけど、でもやっぱりその城に住む捨之助がどうあっても浮かばなくて。

生きていけるということは、イコールで悲しんでないということでは当然なくて。
信長様以外を選べたことは信長様を思ってなかったことにもならない。これは最早サビですね。

どうやって彼は幸せになるんだろうか、といつもどこかハッピーエンドなのに寂しい気持ちがあって、七人がずっと一緒にいてくれたらな、でもそういうわけにもいかないよな、と悶々としていた。
その中で、月で生まれた霧丸という存在が、すごい。

復讐の為に手を汚すな、と言い続ける捨之助の姿は兄のようでも父のようでもあったと思う。
同時に、霧丸への気持ちはもしかしたらあったかもしれないifの解消なのかな、とか、自分や自分の大切な人を重ねてるのかな、と思った。

お前も、辛かったんだよなと霧丸が言った時心が震えた。

そーなんだよ。
捨之助もつらくて寂しくて悲しくて、もしかしたら、もう生きてたくなかったのかもしれない。
それは蘭兵衛もそうだし、もしかしたら、天魔王だってそうだったんじゃないか。それくらい、彼らにとって信長様は大きな存在だったんだと思う。
(そんな中、極のあらすじ読むと信長様って叫びそうになりますね)
ただ、捨之助はその気持ちをきちんと消化して認めてこれたのかって言ったらきっとそうじゃなくて、だって、捨てちゃってるわけですし。
平気だ、と言ってしまえる人だったことが悲しいし、その捨之助に辛かったんだろ、と言える人がいることも生きようとしてくれって言える人がいることも、しかもそれが、彼自身が助けた霧丸だったってことも、最高じゃないですか。

たぶん、捨之助は霧丸を守り続けると思う。
それは、愛情を注ぐことで救われていくことき他ならない。

髑髏城の七人は、みんな色んなものを喪う。もう生きていたくないくらいの絶望を味わうしそもそもスタートから失ってもがいてる。
だけど、それでも生きていけるんだ、そんなお芝居なのかもな、と思った下弦の月でした。

もう誰もひとりぼっちじゃない、そんな安堵感の中、とても幸せな気持ちでその日はお酒を飲みました。
髑髏城の七人、とても好きです。

CINEMA FIGHTERS

全体的には、イメソン大好き人間的にこういうプロジェクト大好きだし第2弾楽しみだなー!の気持ちです。
楽しみだなー!
あと、それぞれ短いし、曲が世界観を助けるのでさくさく気軽に楽しめるのが多い。お手軽に楽しい。

ちなみに、まだそんなに一族さんたちの曲を聴けていないので、知らない曲の方が多いままに見ました。感想も、ほとんど聞かないままに書いているので、きっと曲のイメージがズレてることもあるかと思います。
逆にこっから曲を聴いてまたこの物語に触れたら違った感想も生まれるのかもな、という楽しみを残したまま感想をひとまず書きます。

各ストーリーの感想。


パラレルワールド三代目 J soul brothers from EXILE TRIBE/unfair world)

unfair worldのMVが好きすぎる私は最初んんんんーーーー解釈違いでしたすいませんー!!ともんどりうった。
違うんです、MVのことがちょっと好きすぎるだけなんです。初見のとき、衝撃的過ぎて喉枯らしたくらい好きだったやつなので飲み込むのに時間がかかったんです。
ただ、この作品がある意味、あ、このプロジェクトってこういうことか!と見終わった後考えて一番納得するきっかけをくれた。

この曲をもとに物語を作るならどんな世界を描きたいか、というクリエイターの三次創作なんだなあ。(二次創作、は原型を留めるものが多い気がするので、あえて三次、と表現したい)(飲み込んで、消化してある意味血肉に変えて何を作るのか、っていう。食材として作るのではなくてそれを食べた人が新しい別物を作る感覚)

その一方で、私の中でunfair worldは「触れられないまま見守ることを愛情とした愛の歌」という解釈があります、というもとで感想が書きたい。
本当は触れたいのに、触れられない、あるいは触れないときめた、だけど切ないくらい相手を思う気持ちを抑えきれない愛情。恋、と片付けるには苛烈すぎるくらいの感情があるなあ、とずっと曲を聴きながら思っていた。

ある高校生の甘酸っぱい、胸がきゅっとするようなほんの少しの季節の物語。
ショートショートなので、淡々とシンプルに語られていく。そういえば、この監督は情景描写が魅力って昔聞いたなあ、と思い出すくらい天文部のあの観測する場所の切り取り方が美しい。山田さんのあのぎこちないお芝居も、すごく映像の空気感に合ってた。

うまくいえないけど、邦画独特の空気感というか。


そんで、見終わって前述のとおり、んー?unfair world???ってなったんだけど
家に帰って改めて思い起こしながらタイトルを改めて見て、思った。

MVで、三代目の皆さんが演じる守護霊。
今回、パラレルワールドでラスト山田くんが見た自身の姿はifの姿だったんだ。
あのとき素直に彼女に弱音や自分の状況を、何より彼女への気持ちをもっともっと言葉にしていたら
手を伸ばしていたら
ラスト、山田くんが見てるもし、の自分たち。
それは触れられない、だけど大切な守りたい自分にとっての大切なもの、なのかもしれない。だから、パラレルワールド。幾通りもの、触れられない「もし」を通り過ぎながら、生きていくのかもしれない。


キモチラボの魔法(Flower/白雪姫)
AKIRAさんが兎にも角にも格好いい。二次元的な、スクエアとかで短編連載されてそうなかんじ。ガンガンとかこういう話載ってそう。読み切り連載。
キャラクターの立て方とか、セットとか、ポップでデフォルメ的でこの短い時間だとシンプルに楽しめていい。ライト。
ただこの作品に限らずなんだけど、物凄く台詞がストレートなので、そ、そんなに明確に台詞にしなくても。。と戸惑うところがあるのがなあ。個人的にはほんの少し残念でした。こちらが照れてしまって集中力が切れちゃうのかもしれない。
なんか、伝わってるよー!大丈夫だよー!!ってなってしまう。
まあ、それはさておいても、マスターなAKIRAさんの説得力や少年の真っ直ぐさは愛おしいし、最後の少女の笑顔は綺麗だし、ああ良かったね、と気持ちよく楽しめる作品でした。


Snowman(E-girls/Mr.snowman)
私はこの話が一番好きです。
曲との親和性はわかんない。
手のあかぎれも愛おしい。若い頃の理想と、年老いた彼女を一度は拒絶してしまう現実が交互に進んで、うおおおお残酷、ともんどりうつ。
あとは単純に私が鈴木さんが恋人役してるのが最高だったというのはあります。めちゃくちゃ少女漫画のヒーロー感ある。
でも何より、自身も冷たいカプセルを掃除してみて、手を温めながら彼女が過ごした時間を想像する描写の優しさが良かった。
し、老いた彼女を眠らせて自分も同じくらい待つというのはある意味で、現実的というか。年老いた彼女を若いままの彼が受け入れるファンタジーよりも、余程優しくて好きな選択でした。
彼女が感じた孤独と、それでも愛する人を待つという幸せな時間を同じだけ重ねたふたりがどうかあれから幸せに今度はふたりで過ごせたらいいなあ。


色のない洋服店(DreamAmi/ドレスを脱いだシンデレラ)
これもまたストレートな話。そして寓話的。
ちょこちょこ、ツッコミを入れたくなるんだけどそれは時間的にどうしても仕方ないところはなあ、あるよなあ。
たぶん、この話は曲とか聞きながらだったらもっとすっと入ったのかな?という気はした。
洋服のデザインがたくさん貼られた作業場や、手作り感のある洋服店の描写はとても好き。
いらっしゃいませ、と言い続けるあのシーンが見ててしんどくないのは、演じてらっしゃる彼女の人柄かなあ。
とても寓話的でファンタジーな気持ちにはなる。
どちらかといえば、一番MVみたいな作り(曲をすごく意識して作られた作品)っぽい。どうなんだろう、この曲も敢えて聞いてないけどそんなことないのかな。

 

終着の場所(三代目 J soul Brothers from EXILE TRIBE/花火)
町田くんいつ幸せになるんですかって思わず呻きそうになってごめんなさい。
ほかの作品がめちゃくちゃ直接的に言葉にする作品が多い中で必要最低限な言葉に絞ってた印象を受けたのがこの作品。必要最低限の言葉と、役者さんの表情、それにラスト流れる花火に託したかんじ。
花火で解釈するならふたりにまだ可能性があると思ってもいいのかな。どうかな。
それでも君が好きだよと単純に言ってしまうより、めちゃくちゃ愛情は深いと思うんですよね。だから余計しんどいのか、そうか、そうだな。
隠し通せよ、とおそらく同業のデリヘル嬢が言うあの空気感とかはなんか、とても映像の雰囲気と合ってて好きでした。でも、隠し通せよって言った後には全部暴かれた後なんだよなあ。

彼女はとても迂闊で浅はかだなあ、と思うんだけど、もう、その気持ちのまま向き合ったらいいんじゃないかな、と思ってしまうのは夢見がちだろうか。


SWANG SONG(EXILE/Heavenly White)
世界の終わりの短い話。
これも、必要最低限感があって好き。
短い時間でも曲とかお芝居で十分伝わると思うんだ・・・。
何より雪の描写の圧倒的な感じがとてもいい。あとギター演奏する岩ちゃんさんの空気感もすごくいい。彼のお芝居のあの空気感の作り方はなんだろう。好き。

結局、うみちゃんは、どうなったんだろう。

本当は死んでしまっていてそれをアサヒに知らせるのを選択せず、自分の家に行ったのか。
それともそもそもうみと知り合いというところから嘘だったのか。
そこの結論はまだちゃんとは出せてないんだけど。
でもその想像の余地は楽しみたい。
どちらにせよ、彼女にとって世界は終わるものでそれから、なんてあり得なかったんだろうし、だからもう次の曲なんてない、最後の曲と思ってたんだろうなあとぼんやり思ったので、その女の子にまたもう一曲作れる気がする、と笑ったアサヒの顔を思うと世界は案外と終わらないのかもしれないなあと思ったのでした。

 

おやすみランタン!

おやすみランタン

銭湯で、お芝居と音楽の融合みたいな公演があるけどと誘われて京都までふらりと出かけた。
もうそのえ、それつまりどういうこと?ってコンセプトの愛おしさったら!

ちょうど雨の日で、でもざざ降りじゃなくてしとしと濡れた少し懐かしい銭湯の看板とか
その前に寄った喫茶店の空気感とか

一日丸ごとを抱え込むようなそんな素敵な公演だった。


お話のあらすじはこちら(公式サイトより

場所は京都。木曜が定休日の銭湯「サウナの梅湯」。

浴槽では翌日の営業に向けて掃除をしているバイトのトミーと、
ラジオを聴いているランタン。

夜が深くなってきたとき、
京都に大きな雷がおち、ふたりは大停電にあってしまう!

暗闇をこわがるランタンに、
トミーはちょっと不思議な未来のはなしをはじめるのだが・・・


お話の合間に花柄ランタンさんの歌が生で演奏、歌われる。
音楽は詳しくないので、あの音楽たちのジャンルをどう言えばいいのか分からない。
わらべ歌とかお母さんといっしょとかで聞く曲みたいで、でもなんか、そう、とも言い切れなくて。
可愛らしくて、透き通った歌い手さんの歌を目の前で聞くのは不思議なかんじだった。

何より、そもそも、劇場、銭湯ですからね。
湯船ふたつが舞台。
たぶん普段は体を洗ったりするところが客席。電気風呂の湯船が音響や照明を操作する卓になってるのは、なんとも洒落が効いてて素敵。
なんだろう、お芝居を観たというよりかは、本当にお風呂に入ったみたいな。
小さい子どもも同い年くらいの人も、もうちょっと年上の人も。男性も女性も一緒くたで、ちよっと寒いからコートとかはみんな着たままで、ぎゅっと座って、ひとつ、お芝居を観る。
なんか、それ全部がおやすみランタンなんだなあと帰り道ぼんやりと考えた。

お話は少し不思議な未来の話。
なくなってしまった銭湯の色んなものをなくした女の子の手伝いをしに過去にドライブに行く話。
普通の会話をしながら、淡々とお話は進む。
たくさん笑わせようとか、泣かせようとするのではなくて、
でも寄り添うみたいなそんなお話と、それを色付けていく音楽たち。
難しいことは何もなくて、後悔してそれを拾い上げたら尚更先に進みたくなるような女の子に、話しかけるトミーは、熱すぎなくて、でもそれが彼がどこにでも、とどのつまりは、銭湯っていう、劇場をでてもそこにふらっといそうな空気感で、そんなお芝居にめちゃくちゃ弱い私はとても幸せな気持ちになった。

お話はハッピーエンドだ。
優しい言葉と、あたたかなランタンとの会話でしっとりと、明るく楽しくお芝居は終わる。
子どもたちが嬉しそうに楽しかった!と喋りながら帰るのを眺めながら、友達と楽しかったねーと帰る。
そんな一日をプレゼントしてくれるお芝居だった。

穏やかに幸せだ。

ナイトヒーロー

ナイトヒーローを観終わった。
NAOTOさんが、NAOTOさん役として、しかも実は裏の顔があってそれは悪と戦うソウルマンなのだ!という、ヒーロー大好き人間には最高!と叫びたくなるようなあらすじに、ワクワクして観た。

観て、それはもう、毎話毎話完全にノックアウトされた。しんどすぎて、ビックリするくらい観終わるまでに時間がかかった。


ヒーローに憧れるNAOTOさんはある日たまたま暴行される人を素顔を隠しながら助けたところを栞に見られ、それどころか映像まで掴まれ、これをメディアに露出されたくなかったらソウルマンとして自分と協力しながら悪と戦ってほしい、という。
最初は嫌々協力していたNAOTOさんだったが、みたいなそういうストーリー。


そもそも。
悪ってのが漠然としてて、DV男とか、ヤクの売人とか人身売買とか、悪といえば間違いなく悪だ。だけど、作中も言ってたけど、それは警察とかが対峙するべき悪なのでは?というか。
それに対して、暴力で対抗したところで相手が悪だという事実は変わらなくても、こちらが正義だ、という事実は生まれない。
それはあくまで「ソウルマン」側の都合なわけで。圧倒的にそれが支持されようがされまいが、その事実は変わらない。ただの暴力だ。

それを、正義だ、といい続けられる栞に初めは疑問しか浮かばない。どころか、後味が毎回絶妙に悪いので、不安しかよぎらなかった。
いやこれ絶対、正義じゃないよって。
そんな簡単に、テレビの中みたいに勧善懲悪的な、こっからこっちが悪です正義です、みたいな線引きできるはずがないのだ。

そして、もう一つ不安で仕方なかったのはNAOTOさんがNAOTOさん、という役であることだ。
このへん、主題歌のPART TIME HEROがずるい。
マスクをとってもヒーロー。
いやもう!ほんと、そうなんですよ。
エンタメを初めとする全てをヒーローと思ってる私は尚のこと、そうなんですよ!!!!!!ってこの歌詞を聞くたび叫びそうになる。
目の前の悪事を例えば解決できなかったとして、NAOTOさんを初めとするパフォーマーのパフォーマンスに、舞台に、作品に見ず知らずの、それこそ助けてっていえないままの人たちがたくさん救われて元気付けられて、それはもう、ヒーローじゃないですか。

マスクをとってもヒーローっていうか、マスクも暴力もなくても、ヒーローですからね。

そして、ソウルマンとして活動するってことはそのヒーローからどんどん遠のいていくっていうことだからね。
1話の直己さんの台詞が印象的だ。

何かあったら、今の立場はなくなる。
気をつけなきゃ。

その1話からの怒涛のソウルマンとしての活躍ですよ。胃も痛むってもんですよ。
時々、格好いいアクションや、だんだん強くなっていくソウルマンにあれ、いやでもやっぱりソウルマンはヒーローなんでは?そう思いたくなる。そういうことでいいんでは、そう、思おうとするたび、絶妙なタイミングであくまで、ソウルマンを正義とするのは栞側の主張だ、と現実に引き戻してくるエピソードを入れてくる。暴力はあかん!って叫ぶラストシーンとか、呻くしかなかった。そうだよね、わかってる、わかってるよ。。

そうしていく中で浮かび上がるトカゲ、という裏組織。
そして、栞の本当の目的。
殺された父親の復讐。
トカゲを誘き出すための、ソウルマン計画。


ストン、と腑に落ちた。
ソウルマンが正義じゃないことなんて、とっくの昔に栞は分かっていたのだ。
というより、正義なんてどこにもなくてそんなのを待ってても誰も助けてくれないって心底絶望したからこそ、ゴミクズ同然だって投げ打ってでもソウルマンの計画を実行したのだ。

なんか、栞のあの手紙があまりに心に響きすぎて苦しくてジムで自転車漕ぎながらこっそり泣いた。
ヒーローなんて、いやしないと思った栞が、NAOTOさんをヒーロー、と呼んだこと。
警察も助けてくれなくて、復讐しか考えてなかった彼女の目に、迷ってでも怯えてでも「悪」に立ち向かうソウルマンがどう見てたか想像する。
本当に悪なのか、という問いかけはある意味で泣いてる人にとってはどうでもよくて、それどころじゃなくて、助けてほしいっていうその一心で。
その手を離されて、もう掴む人なんていないって思っていた栞がNAOTOさんと出逢えて良かった。
そして、その栞にそれでも、暴力じゃダメだ、と言えるNAOTOさんで良かった。

正直、EXILE辞めます、のシーンはめちゃくちゃ複雑だった。いやもうだって、マスクをとってもヒーロー、なんだから。そのヒーローを辞めるっていうんだから。

でも、片岡直人さんとして、助けて、といった友人を助けること。
なんか、ヒーローってそういうもんなのかもな、とも思う。
みんなの正義のヒーローでいることで、自分の大切なものを護れないなんて、そういうことの方が残酷だし。
栞との関係性もすごく、いい描かれ方をしてたと思う。
恋愛関係として、というより本当にバディとしての描かれ方だったというか。所謂、椅子の男(栞ちゃんは女の子だけど)とヒーローっていう定番。友人、とか恋人とか、そういうのじゃなく、NAOTOさんと栞ちゃん(と、おじさん)というわざわざ名前付けできないようなそれだけの唯一無二の関係だったと思う。
その名前にも言葉にもならない気持ちがあの雨の中でのアクションにあふれてて、もう、ね。

あーもう好きじゃん、みたいな気持ちでいっぱいだった。
いやもう、好きだよ。
どれだけしんどくても見切ってよかったよ。彼らが戦って迷って悩んで笑ってする姿を見通せて幸せだよ。


あと、直己さんとのラストシーンもすごく、嬉しかった(この救済残しててくれて本当にありがとうございますの気持ち)
片岡直人さんとして、と言ったけど
メンバーにとってだってそうで。
別にマスクをしてるしてないじゃなくて、彼はヒーローなんだなあというか。
JSBって場所にいるNAOTOさんも唯一無二なんだよなあ。
うまくいえないんですが。
なんか、ともかく、最終回が物凄くよかったです。
本当に、格好いい人だなあと思った。
しかもそれが血の通った格好良さというか、迷ったり悩んだりするからこそ、格好いいって種類の格好良さなんだなあ、としみじみ噛み締めたのでした。