えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

Re:call

既に、観た直後に感想もどきを書いてるけど、千秋楽も終わり台本もゲットしたので、ネタバレ含めて、感想を書きたいと思う。
舞台としても、物語としても沁みた今回のお話。書きたいことがたくさんある。

あらすじはこちら

あらすじ

色とりどりのイルミネーションに彩られたクリスマスの東京
そこで過ごす一組の親子に暴走した車が迫る
男は捨て身で娘を守る その次の瞬間
気がつくと男は一面白に包まれた雪原にいた
そしてそこに現れたのは 20年以上前に死んだはずの母親だった

時の流れを遡って「呼び戻された」男

気がつくと雪原にいた。そこは1992年の山形県だった。
その時その雪山では色んなことがあった。
想いを寄せる女の子との会話。好きなのに幼い頃につけたあだ名は「モンスター」
反抗し続けた母。その母の死に関わる可能性がある実の父。

「もしも自分が誰かに呼び戻されてそこにいるとしたら」

第一回公演「レプリカ」で全席満席の大好評を頂いたディー・コンテンツが満を持してお送りする第二回公演は、演劇界に於いて変わらぬ快進撃を続ける企画演劇集団ボクラ団義の幻の第一回公演を久保田唱が全編リライト!

現在は劇団でも販売されていない

「時の流れを遡り呼び戻された幻の作品」

を現在の久保田唱、そして豪華キャスト達がじっくりと創り上げます!


観終わった後、とても興奮していた。
もうそれは一つ前のおおよそまとまってないブログを衝動的に書いてしまうくらい、興奮していた。
2017年最初の作品が、Re:callで良かった、と心底思った。しんしんと降り積もったお芝居に頭がぐるぐるしていた。

好きな理由は挙げるとキリがないけどあえて絞って挙げるとすれば、
・笑いと苦しさと哀しさのバランス
・舞台に立ってるひとがみんな生きて見えたこと
だと思う。


前半は笑いがふんだんに散りばめられ、バタバタと小さな違和感を残しながらも進んでいく。
桜と祐一の会話はもちろん、サークルメンバーや大人組の飲み会など、笑いどころも多い。大学生たちの淡い(多少暴走気味の)恋模様も、観てて楽しい。
後半で明かされる真実が苦しいだけに、その前半に物凄く救われた。

終演後、全てを知って思い出すと心がじくじくするオープニング。
雪がいいものみたいにはしゃぐ祐一。
あのシーン、本当にかけがえのないシーンだったんだ、と思う。そして物語に引き込まれる独白があがって、やがて、緊迫のシーンが始まる。
緊張して、そのあと、お母さんとのやり取りや森宮さん、桜、とのやり取りに肩の力が抜けて。
さっきも書いたけど、ほんと、この絶妙さ!どっちかだけじゃ絶対にしんどいもん、この時間。
久保田さんは緊迫したシーンでも笑いを取り入れるけど、そういうところなのかも。魅力。

どたばたと楽しく進む中、落ちる影。確実に起きた1992年の何か。
それを暗示させるのが津川さんたち、そして幸太郎さんだ。
どれだけ博多弁コンビが和ませても、恋する組にきゅんきゅんしても、
はっとした瞬間、空気が歪む。
誤魔化しきれない深い津川さんの哀しさや、幸太郎さんの歪み。
その空気に何度ゾッとしたか。
特に、幸太郎さんの違和感は凄かった。
基本的には陽気な人なのに、時々怒鳴ったり歪んだ笑顔を浮かべたり。アンバランス。

やがて、1992年の事故に物語は進んでいく。

陽子さん、幸太郎さんの会話が印象的だった。
どうしようもない人間でもうこれしか方法はない、と言う幸太郎さんに、陽子さんは言う。
死んでも、綺麗になんてならないよ。
この、言葉の重さ。
陽子さん自身、あの亡き夫との思い出から逃げて、東京にいき新しい家族を作った。死んでしまって、亡くしてしまったからリセットしたんじゃなくて、むしろより深く残ってしまったからこそ。
幸太郎さんの、罪が死んだところでなかったことにはならないのと同じように。
本当に悲しくて息苦しい台詞なんだけど、同時に優しい、と思うのは水さんと一緒にいる陽子さんの表情を思い出すからだ。
水さんは気にする。ここに来たかったのは、本当は俺とじゃないんじゃないか、って。その水さんに陽子さんはいっぱい色んなところにいって色んなことをしようと言う。
死んでも綺麗になんてならないけど、残ってしまうけど。
その続きは描ける。
なかったことではなく、続き。それを踏まえての、新しい出来事。
そうして生きてきた彼女だからこそ、あの台詞は刺さった。

根本的な、解決にはならない。
結局陽子さんは死んでしまうし、幸太郎さんは生き残る。
罪をいくら償っても、津川さんは帰ってこない。奥さんや妹が望む形での幸せはもう、たぶん、どこにもない。

 

「奇跡を体験したことがあるか」

祐一の台詞の中でも特に好きな台詞だ。
奇跡。
根本的解決も、本当に彼らが欲しかった幸せも手に入らないかもしれないけど、
それをだから無意味だ、というには、あまりに寂しい。そう、ラストシーンを思い出して思う。

 

Re:call、はやり直すという意味があるらしい。
なんだかその意味をしみじみと終演後、噛み締めていた。なんだか役者さんたちがみんな、その役として舞台上で生きてたような気がしたからだ。
よく言う、表現ではあるんだけど。その役として生きる。でも、今回は特にそれを肌として感じた気がする。
例えば、子どものため自分にとって1番愛おしい人や自分を投げ捨てでも動いた水さんや、祐一。

「理屈だったんですか」
「あなたは」
「息子を助けようと走った時、あなたの頭の中は」

事故直後の大人祐一と水さんの会話の中でも特に印象的だったやりとりだ。
家族ものを、観るたび思うんだけど。
理屈で家族を説明できるならもっと傷付く人は減るし、逆に息苦しくなる人もいると思う。
ここで祐一を助けずに陽子さんを助けたら陽子さんは悲しむ、とか
千枝里を助けたら自分が死ぬかもしれない、とか
そんなの、たぶん、理屈として存在しないというか。
起承転結で綺麗に家族の関係を説明できたりはしないんだろうなあ、とおもう。
でも、お芝居って、前提として、作られたお話なことが多いわけじゃないですか。
でも、その理屈じゃないこと、を表現する。それが伝わる。
のが、たまんないなあ。と見て思って。
役者さんからしてみれば、とても失礼な感想なのかもしれないんだけど。
でも、水さんや陽子さんや祐一の子どもを見る目が、千枝里や子ども祐一の親を見る目が、本当に家族を見る目に思えて、だから台詞ひとつひとつがあんなに沁みたんだなあと改めて思ったりして。
当たり前、と言われてしまうかもしれないけど、当たり前、は当たり前じゃないから。
お芝居を作る上で作った筋が見えなくて、そこにはRe:callのそれぞれのひとがただただ真摯に立ってた。それがともかく、心地よかった。

役者さんが、もし色んな人生を何度も生きてるとして。
そもそも同じ役を稽古、本番含め何度も生きてるということになるわけで。
でも、観てる私はその瞬間の一度きりがその役の人生だ。それきり、だから台詞ではなくて、空気が焼き付いて、いつまでもあの雪山のことを考えてるんだとおもう。
誰かを好きだということ、それが時々コメディになるほど暴走すること、家族のこと、誰かたいせつな人のこと。
それらが何度も繰り返したマンネリじゃなくて、その瞬間だった。


なんて、もはやこれは感想から少し離れてる気もするんだけど(笑)
ただ、Re:call、とはそういうことだったんじゃないか。
時巡りは基本的に、根本的な解決にはならない。後悔の場に行ったり果たせなかった場に立ち会うことはできても干渉できない。
だけど、登場人物も観客も、あの時巡りには意味があったと思う。
それは、その瞬間、そこにいて、感じて考えたことで変わったこと残ったものがあることを知ってるからじゃないだろうか。

 

ところで、話は少し変わるけど。

今回の公演を幸せだと思ったもうひとつの要因が関係者、観客どちらからも熱い愛情を感じたことだった。自分の好きなものが大切に愛されてるのは、うれしいし幸せなことだ。
twitterやそもそもの終演後の空気感。ほんとに、思い出すだけで頰が緩む。
そして、それはたぶん、感傷的な思い入れだけじゃなくてそれを成立させるだけの技量や準備やなんだかそういうものが土台にあって初めて出来上がるものなのかもなあ、とパンフレットなどを見返すたびに思う。
見知った役者さん、スタッフさんも多く出てて、
そうした人たちの好きな作品はたくさんあるけど、Re:callはとりわけ、特別ないつもとは違う、を感じた気がする。こんな素敵なお芝居に出逢わせてくれて、ありがとうございます。と思う。
もちろん、それは優劣の話じゃなくて、もっと、絶妙な何かの違いだ。
そして、それは空気感や肌触りといううまく言葉にはできないけど、確かなものとして私の中に残ってる。そのことが、うれしい。

そしてその、いつもと違う特別、はこれからも更新され続けるんだと思う。
あんなにすごい舞台を作る人たちはこれからも瞬間瞬間を、生きていくのだから。それが、本当に楽しみだ。

 

Re:callの感想をネタバレなしで書くことにした

Re:call、初日を観てきました。
まだ今日、土日と舞台が続きますのでネタバレ感想はまた千秋楽後にとっておこうと思うのですが、
観終わってから仕事をしてても家族と話しててもあの雪山がちらつくので、
ネタバレを一切なしで感想を書いてみようと思います。
ちなみに、今日27日であればまだお席があるとのこと!明日明後日の当日券はどうだったかな!公式さんアナウンスをぜひご確認ください。

で、色々書いてたんだけど、
感想書いたらどうしたってネタバレに関わってきて、
それを避けるとなんか余所余所しい文になって書きたいことからズレるので
もう本当に、ザックリ書きます。

今回、終演後、こんなことを呟いてました。

https://twitter.com/tsuku_snt/status/824254721485508608


もうほんとに、終盤、話の展開に心がざぶざぶなりながら、
強く思ったのはだからお芝居が好きだ、ということでした。
それをあんなに強く思ったからこそなおのこと、まだ私は雪山から帰ってきてない気がします。
それを成立させてくれたのが、役者陣や脚本や、スタッフワークなんだと思う。
お芝居を観る理由って色んなものがあると思うし、あるからこそいいと思うんだけど。
例えば日常生活、誰かを思って必死に話すことがどれだけあるだろう。
家族に、やりきれない気持ちとか、伝えるにはなんだかオーバーな想いとか
告白だってそんな、日常茶飯事ってわけがない。
それが舞台にはぎゅっと詰まってる気がする。
でも、それが特別なことなんじゃなくて、
地続きで、あそこにいる人は同じ人間なんだなあってのが、たまらなく幸せだと思うんです。

非日常の話ではなく(ジャンルやあらすじじゃなくて)
そこにいるのは、普通の人で、普通の人がああして感情を出して誰かを思う姿がもう、本当に胸を締め付けてくる。
それを、成立させてる役者さんたちの技量って、もう、どれほどのものなんだろうってドキドキする。

そんなドキドキさせてくれる役者さんがたくさんいる、というか、もう全員がそうっていう、この!幸せ感!

ものすごく、技術のある役者陣、そしてそれ以上にものすごく熱量のある座組でした。

もうつまり、ほんと、Re:callはいいぞっていう
そして、お芝居ってすごいな、好きだなあっていう、お話なのでした。

ロストマンブルース

2016年の観劇納めだった。

去年・一昨年と上演されてる作品で人気もある、ロストマンブルース。
私にとってもロストマンブルースは、思い入れのある作品である。

あらすじはこちら(見つけられなかったので、2015年版のものを引用


無くなるライブハウス
集まった無くした人たち
間もなく無くなるライブハウスに訪れたとある中年のバンドマン
思い出深いその地に時を同じくして訪れた
同じく思い出深い筈の人間達は
皆一様に何かを無くしてしまっていた

 

久保田さんの作品である、どんでん返しで物語は大きく変わっていく。
ライブハウスをなくさないために必死だった男・朝倉こそ、本当に大切な記憶をなくしてしまっていて、
他の集まった人が、それをなんとか取り戻そうとする話だ。

二度目目線、という言葉が話題になった。一度目は妙な違和感しか残らない序盤の会話や視線、不自然な対応が実は全て意味があったという仕掛けである。
もうね、2015年版をアホほど観ていたので、初見が最早二度目目線。しかも無駄に思い入れがあるもんだから、わりと最初から号泣。

思い入れがあったのは、これがライブハウスの話だからだ。
といっても、私は音楽を嗜んだことがない。
だけど、私にはこの劇中語られる音楽への言葉がそのままお芝居に置き換えられるような気がしてならない。
音楽にそんな力があるなら、誰も音楽をやめませんよ。
序盤でシェリーをなんで諦めるんだと主人公朝倉に詰られたオーナーが叫ぶ。
これは、2015年版から好きだった台詞。
なんども頷いて頷きながらすごく悲しくなっていた台詞だった。
2015年版は佐藤修幸さんが演じていた。演劇がただ好きなんです、と度々語る佐藤さんが言うこの言葉が本当に好きで。役の頼りない感じと切実さがすごくいいバランスだったと思う。

ところで、再演ものあるあるだと思っているんだけど、思い入れのある作品の別バージョン(同団体、他団体含め)を見るのって個人的にはすごく怖いことだ。
作品のクオリティ以前に「自分の観たあれと違う」と頭が勝手に判断して拒否しちゃうことがあるからだ。
台詞を覚えちゃうくらい観てしまっている作品のともなると、緊張感がすごい。
なので、あえて観ないことを選ぶこともある。お芝居を観る時はできればその作品に対してだけ誠実に向き合いたいからだ。
ただ、わりと今回は安心して観に行けた。
それは今回、観るのが初めてのキャストさんも多い中で、観たことがあるキャストの方々が、役を自分のものに落とし込むタイプの人が多い、と思ったからだ。
ダブルキャスト、とかもそうなんだけど。
同じ役でも、演じる人が変わればそれは全くの別人になる。
私はそこにお芝居っていいなあと最高にわくわくする。
今回、出演していた、何度も拝見した役者さんたちは、みんなそんなお芝居っていいなあとわくわくさせてくれる素敵な人たちばかりだ。

オーナーを演じた図師さんもそうだった。
コミカルな演技と自然な台詞。そして、それが高まって、感情的に叫ぶシーン。一気にこのオーナーも大好きになった。
特に図師さんのお芝居で、私が好きなのが楽しいことを一生懸命話すというものだ。今回だと、真実を知った朝倉に、シェリーの由来を話すシーン。
それはもう、楽しそうに話す。まるで少年みたいなその顔が、本当に素敵だった。


そして今回幸せだったのは、初めましての役者さんもまた、魅力的だったことだ。
年齢差の大きな役を見事に演じた、玉川さん。歌声と迫力がたまらなかった若林さん。
このふたりは、朝倉の娘さん役だ。
自分の父親が物心ついた時には記憶障害を持っていて、自分たちのことすらはっきり認識してくれないってどういうことなんだろう。
この二人のお芝居は、ふとそんなことを考えさせてくれた。
もう、ともかく可愛らしい。可愛らしいのに、エネルギッシュ。それが、より、ああこの人たちは朝倉さんの娘なんだな、と思わせてくれて、かつ、その必死な叫びがこの家族が失い続けたものを思わせた。
朝倉と、妻として対峙する玉川さんの耐える横顔は耐える痛みがあって(Twitterでも呟いたけど、本当に玉川さんは誰かのお芝居を受けての所作や表情がめちゃくちゃ魅力的だった。すき。
シェリーという歌手として、歌について話す若林さんの目は色んな気持ちが詰まってて。そして、歌声が本当に。素晴らしかった。ただうまいんじゃなくて、冬子さんがいかにロストマンブルースっていう曲やファッキンピーポーというバンドが好きで尊敬しているかが伝わるいい曲だった。
そして、本当の奥さんであるさくら、と名乗っていた椎名さん演じる晴海さん。
序盤、何も知らない朝倉が他の面々と話すのを聞いているときの表情。堪え切れなくなって流す涙。
やーもう、泣いた。

そういえば、今回、わりと分かりやすく違和感、が描かれていた気がする。
晴海さんの悲しみら岡林さんの誤魔化し方とか。私が単純に二度目目線が初見(ややこしい)だったから、とかではなく。わりと、あざとく、多分、最初から彼女たちを観てたら真相には気付きやすそうというか。親切設計。
それはさておき。

たったひとりで、家族を支えていた晴海さん。もう、ひたすらいい人である。
記憶障害はともかく、そうなる前も、お世辞にもいい旦那さんではない。お世辞にも、っていうか、いい旦那さんではない。
事故の日、関係を考えたい、と切り出しはしてたけどそれでもよく耐えたと思う。
ただ、それをただいい人、というのは少し違うのかなと思うのが、晴海さんがひとり、サスの下で気持ちを語るシーン。
ミュージシャン、と朝倉のことを言う。それで稼げてはほとんどいなかったけど、それを含めて、ミュージシャン、と。
朝倉はライブハウスにほとんど晴海さんを連れて来なかったそうなので、演奏してるところをどれだけ彼女に見せていたかは分からない。分からないけど、たぶん、演奏を見なくても、彼女は朝倉にとっての音楽がどれくらい大切か、どんな風に彼を形作ってるのか本当に理解していたんだと思う。
そして、そんな朝倉のことを愛してたんだと思う。
だから、気持ちを語るとき、笑ってたんだろうか、と私は思う。

そして、この朝倉家のこれまでを思うと、バーテンの修一さんが幸せの象徴に思える。
今回演じた細井さんは役者が本業ではないそうだが、これが、また良かった。もう最高だった。
台詞を話す姿が、誠実そのものだったからだ。
こなれた感じではなく、一言一言、大切に話す。それは、修一さんらしかった。
だって、相手は自分の大切なひとのお父さんで。
しかも記憶障害を持ってて自分や彼女のことを理解してくれない、と分かってても会いたいと言っていた修一さんだ。
朝倉さんとバーカウンターで話す姿に心があたたかくなった。あの小さなやり取りは今回、お気に入りのひとつだ(DVDにも映ってるといいなあ)

さて、空気を柔らかくしてくれていたといえば、萩原さんと舘内さんコンビだ。
もうこのふたりには素直に楽しく笑わせてもらった。そして和んだ。
舘内さんの不思議な力強さ。坊ちゃんに負けないグイグイ感。それに納得いかないような萩原さんの表情。
たぶん、この二人がいなかったら私は泣きすぎて色々大変なことになってた。感謝です。
ピアノ演奏してる坊ちゃんと、指揮をする守子さん、可愛かったなあ。


入り組んだ話を綺麗に引っ張っていってくれた、青柳さん演じる上條さんも素敵だった。精神科医の役で、台詞も多い。
でも聞き取りやすく、そして朝倉さんに負けない力があった。
娘さん組が炎のような強さだったのに対して、上條さんは静かな強さだ。
記憶を取り戻す作業は、あの場の人々にとって辛い作業に違いない。実際、何度もみんな、耐えるような顔をする。
だけど、上條さんが、それを立ち止まらせない。何故なら、記憶を取り戻さなければ、ずっと彼らは悲しいところにいなくてはいけないからだ。
その力強さがあって、とても素敵だった。

朝倉家の悲しさはもちろんだけど、2015年版の頃から観るたび、感情移入ではなく心をぎゅっと締め付けてきたのが戸越銀座夫婦だ。
事故で亡くなったバンドメンバー廣瀬に似てるという理由で参加する夫とそもそも事故の原因になった女性の娘である妻。
つまりは、この件においては、加害者だ。言葉を選ばないなら。
事故から何年後にこの治療が始まったのかは劇中描かれない。だけど、そもそも事故から20年経ってる。その間、ずっと、朝倉さんたちに関わってきた彼女と、それを支えていた旦那さん。
岡林さんが言う。散々話し合った、と。
つまり、と思う。つまり、気持ちの整理が(いまだって、本当に整理がついた、とはいえないだろう)つくまえ、詰られることだってあったんじゃないか。なかったとしても、朝倉さんや廣瀬さん、服部さんという事故の被害者やその関係者にあうのはどれくらい勇気のいることなんだろう。
それでも、彼女が目を逸らさず悲しむ姿に、この20数年を思わされたりして。
あと、個人的に添田さんの女性を守る所作って優しくて綺麗で好きです。
今回のお芝居、添えられる手や目線が魅力的なひとが本当に多かったなあ。


さて、最後に書きたいのがファッキンピーポーのことだ。そして誰より、朝倉一義のことだ。
元々淳さんのお芝居が好きだ、というのもある。あるんだけど、今回ともかく魅力的な岡林さんだった。
バンドや音楽がどうでも良くなったのか、と朝倉さんに詰られるがそんなことない、とその朝倉さんを見守る目線に思った。
し、音楽を辞めた、といいながらベースはしっかり弾けることに、好きで手放したんじゃないという言葉に、彼のこれまでや朝倉さん、ファッキンピーポーへの気持ちが溢れてて、もう、観ててそらぁもう、泣いた。
ギターボーカルをしてた男はもう昔の彼ではなく、ドラムのメンバーは亡くなっていて。彼にとってのあの事故は、晴海さんたち家族とはまた違った苦味というか、苦しみがあったと思う。あんまり考えると、ほんと、いまだに泣く。

そうして、ここまで書いて、本当に朝倉一義という男がいかにみんなにとって大切で、愛されている男か、実感する。
そして、そんな彼が私も大好きだと思う。
それは2015年版からそうだった。朝倉さんの言うことは無茶苦茶だ。現実を見ろと思うし、奥さんのこと考えてやれよとも思う。だけど同時に、一生現実なんて見てくれるな、とも思う。それは、シェリーに集まる人々や、私たち観客の一種、そうありたかった姿だからだと、思うのだ。そして、それはあながち私の感傷でもないんじゃないか、と晴海さんの笑顔や岡林さんの目を思い出して、思う。
で、それを、あの夢麻呂さんが演じたということが本当に何回言っても足りないほど、最高なんだ。
夢麻呂さんは本当に熱い。ツイッターを見てて、お芝居を共演者やスタッフさん、そして観客をどれくらい愛してるかが伝わってくる。
それと、お芝居の中の朝倉一義が重なって、リアルになる。
もう、お芝居の醍醐味が極まった、と言いたい。大好きな朝倉一義を演じてくださり、ありがとうございます、が終わった瞬間の気持ちだった。

朝倉一義が一種理想だ、って書いたけれど、
夢麻呂さんはそれを理想じゃなく、現実にする力がある。
最後まで、シェリーを満員にしようと、それこそ本当に心身を削って向き合う姿に、
改めて、ロストマンブルースを大切に想う人間として、お礼が言いたい。

発表当初から、チケット代の件などで、物議をかもしてきた。
もう、それについては野暮だし、私の書く範疇ではない気がするので割愛する。
いろんな人のいろんな想いや事情がある。
ただ、あの人たちのお芝居が、ひとりでも多くの人に届きますように、と思った。
そして、そんないろんなものを巻き込んで、駆け抜けた夢麻呂さんたちのお芝居をいろんなことがあった今年の締めに観ることができたのは、とても幸せな事実である。

ヴルルの島

映像配信のパダラマ・ジュグラマで生で観たい!と思ったおぼんろさんの!舞台に!
行けたよーー!

そんなわけで、行ってきましたヴルルの島。
会場について、その人の多さにびっくり。そしてその人たちみんながうきうきそわそわしてて、その幸せ空間っぷりにびっくり。
開場は押してしまっていたけど、なんだか特別で幸せな空間でした。

まずはあらすじ。公式サイトさんより。
                       
「暗闇の風から現れた醜い怪物め。俺をその手で捻り潰そうと言うのか?」

昔々か、もしくは遠い未来か、いま現在のどこかの物語り。
物心ついた時から独りぼっちだった孤独な盗人はある日、追っ手に追われて命からがら港に泊まった船に乗り込んだ。
積み荷ごと船を奪って逃げようとした盗人だったが、それは世界中のゴミが捨てれれる島に向かう船だった。
広すぎるほど広い海を渡りようやく辿り着いたのは、見渡すゴミの山が広がるヴルルの島だった。そこで盗人は、誰かに何かを贈りたいと願う怪物に出会った。島の星たちに見降ろされ、傷ついた者たちの奇妙な生活が始まる。
そして、島にまつわる悲しく残酷な過去が明らかになり始める・・・。

 

 

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物語の始まりが本当にまず素敵。
語り部さんが各キャラクターへと変わる線がすごく曖昧なんだけど、それがまた愛おしい。
ゆっくりゆっくり、物語のなかに入っていく。

ホシガリ、と名乗る青年になった末原さんはさっきまでにこにこと可愛らしい顔をしてたのにすっかり冷たい疲れた、ギラギラした目に変わっていた。

おぼんろさんの物語はジャンルでいえばファンタジーなんだけど、ギャグに勢いもあって、それがいい塩梅で入るので実はファンタジーがあまり得意ではない私も楽しめて好きです。

それぞれ事情がありそうな、ホシガリ、ジャジャ、シオコショウ。
そしてそのそばにいる、少し変わった存在のアゲタガリとトリツキ。
パンフレットにあったもらってあげる人も優しい、という言葉が印象的だ。
誰かにあげたい、と思うこと。誰かを想うこと。

ホシガリとジャジャはふたりとも、ひとりぼっちの人たちだ。
家族を知らない。奪われた人たち。
だれも彼らに愛を与えてはくれなかった。そのふたりが、笑い合うシーンはとても優しい。
優しいからこそ、その後の真実が残酷なのだけど。


その真実がなければ、ふたりは友達になれた。

戦争の記憶がある、シオコショウの叫びや記憶がある意思に取り憑かれたトリツキの言葉は鋭いナイフみたいだ。おそらく、彼らは今もどろどろと血を流している。その先は無関係なはずのホシガリやジャジャや、トリツキだ。

おぼんろさんの話はファンタジーだ。
ファンタジーなんだけど、そこに描かれる世界はどこか、である話だ。
未来で、過去で、あるいは今もどこかで。
戦争のために作られたアゲタガリは挨拶をする。笑い合って手を取り合う人の夢を見る。その人たちと笑い合う自分を夢見る。
アゲタガリの優しさをホシガリは初め拒絶する。
今、ふと思ったのは、ホシガリは受け取る余裕なんてなかったんだな、ということで。
誰も彼に与えてこなかったから、ホシガリはそれを知らないし自分がそもそも何が欲しいかを知らない(或いは知りたくない)
その、ホシガリが最後にアゲタガリから受け取れること。
奪うばかりで何かを得ることを知らなかったホシガリが、アゲタガリに笛を渡すこと。
それを、ファンタジーと私は呼びたくない。

血を流していた彼らが行き着いたのは幸せになってほしい、という結論だった。

嬉しいと鼻歌を歌うこと。
幸せになってくれと祈ること。
それが、当たり前のことだといいなあ、と思う。

 

 

御家族解体

DVDを購入して、少し観て、これはじっくり観たいぞ、と思って時間を置き、観て、

そんでまた、PMC野郎さん好きの友人さんとご飯を食べつつ、もっかい観た。

不思議なお芝居だ。

観終わった後、うまくまず言葉にできない。

大きな山場もない。

友人と言っていたのは、何かの折に流していたいお芝居、ということだった。

流していたいお芝居なんだけど、でも、初めて観た時私はこれはじっくり観たいぞ、と思い、実際2回目も感想を言いつつではあったけど、断然、黙ってじっと見入ってる時間の方が長かったと思う。

 

あらすじはこんな感じ(公式サイトより)

 

 

これは、東京の下町で仲睦まじく暮らす、とある御家族の解体の物語である。
一風変わった性格の優しき父。商店街の草野球に命をかける長男。スピード狂でトラック野郎の次男。度重なる浪人生活で絶賛情緒不安定中の長女。全人類の神経を逆撫でするオシャマな三男。
彼らは母親不在の家庭を切り盛りしながら幸せに暮らしていたが、父のリストラを皮切りに発生した同時多発マネートラブルが、そんな幸せな日々を崩壊寸前に追い込んでいく!
やがて、トラブルに次ぐトラブルが物悲しき過去を暴き出したとき、御家族解体の時がやってくるのだった…。

演劇界の恥才・吹原幸太が人生で初めて書き上げた長篇作品にして、ブラックホームコメディーの傑作「ぽっぷん息子」が、11年の時を経て、まさか×2の大復活!
・・・この物語を観れば、あなたはきっと家族と話をしたくなる。

 

先述の通り、ものすごい盛り上がり、はない。

小さな山場がたくさん、小気味いい少し毒を含んだ会話で繋げられてやってくる印象。

相変わらずテンポや間はほんとに楽しい。

 

PMC野郎さんを初めて観たのは開運ポップン上映団のうちの犬はサイコロを振るのをやめた、だったんだけど

その頃から、空気感の魅力的な劇団さんだな、と思っていた。

劇団員間、あるいは劇団員とお客さんの、ということではなく(もちろん、それらだって魅力的ではあるんだけど)

お芝居の中で流れる空気が時々ビックリするくらいリアルなのだ。

で、今回も、それを改めて再確認した。

 

基本的に、特に前半は笑いっぱなしだ。

出てくる人たちはわりと(自業自得面も大いにあるんだけど)絶望的な状況に立たされてる。

立たされてるんだけど、可哀想じゃない。かと言って、いい人、だからという感覚もない。酷いことや、暴言もわりと吐く。

んだけど、彼らはとてつもなく愛おしい。

途中、前向きだから、という台詞があって、それがしっくりくる感じ。

どうしようもない状況にいても、絶望はしない、悲観もしない、笑っとけ!と言ってのける。絶望的な状況だろうがなんだろうが、彼らはただただ生活をする。さも当たり前みたいに。

 

空気感をつくる、を1番感じたのはラストの抱きしめるシーン。

言葉だけで聞いてると正直、私、この落ちわりと、納得いかないのだ。

いやいやいや許しちゃダメじゃない?!みたいな

受け入れられるか?!みたいな

それはある意味では粗、なのかもしれないし、

それをぶっ飛んでいいじゃん!という作品、なのかもしれない。

 

そこはまだちょっと消化できてないんだけど、

ただ、抱きしめるところを観て、何もかもを理屈では片付けられないかあとも思う。

家族が関係性の中で1番、とは言わないけど、

でもやっぱりある種特別な関係性で、理屈が入り込めないものが、血縁ってのにはあって。

それに縛られる必要はないけど、

切り捨てる・切り離すことはできないわけで。

理屈として、筋として、父や兄姉を許せるか、受け入れらるか、はうまく言葉にならないけど、

あの吹原さんとの抱擁を見ると、もう無条件でそうだよな、と思う。

思わせるこの人たちすごいなあ、としみじみもした。

お芝居の中での積み上げ以上に彼ら自身の持つものの積み上げな気もする。

そして、生身の人がその場で演じる(映像で観た、ではあるんだけど、収録を途中で止めたりはできないので、この表現を使いたい)お芝居だからこそ成立する話だな、とも思った。

 

大泣きしてスッキリ、とかただただ笑った!という作品ではないけど、

なんか少しくたびれた時とかにこのお芝居のことを思い出せるというのは、すごく心強い。なんだか、そんなことを終わった後ぼんやりと思った。

キネマと恋人

キネマと恋人を観てきた。
フォロワーさんに勧めてもらってこのお芝居に出逢えた、まずもう、それがなんともこのお芝居に合ってて、最高に幸せなことだと思う。ハッピー!

公演概要

世田谷パブリックシアターが、KERAとタッグを組んでお届けするのは、シアタートラムの小さな空間での、ひとつひとつを大切に紡ぐ、手作り感覚いっぱいの作品。『キネマと恋人』は、ウディ・アレン監督の映画「カイロの紫のバラ」にインスパイアされた舞台である。設定を日本の架空の港町に置き換えて、もう少しだけややこしい展開にすると――。
映画への愛あふれる、ロマンティックでファンタジックなコメディが、息づきはじめる。


ほとんど前情報なしで見ることにした。
映画好きの女性がでること、妻夫木さんが出てること。
最初に知ってたのは、それのみ。

まず、もう、ケラさんお洒落ー!が一幕の感想。
映像と、振付で進んでいく物語や舞台転換。
最高にわくわくする。
そして、お洒落。もう、圧倒的に、お洒落。
私の中で、ケラさんお洒落なイメージが更に確立した。
あと、世田谷の劇場は行ったことがないんだけど、
キャパ250の劇場だそうで。あーそれはこのお芝居に合ってただろうな、と羨ましくもなった。梅田芸術劇場は広い。
しかし、天井が高いので、照明が美しかった。幸せ。
役者さんにスッと降りる照明の美しさ。


映画に毎日を色付けられながら生きる、主人公ハルコ。

彼女に自身を投影して観たお客さんは多そうだな、と思ったし
実際感想を見てると、とても多い。
そのハルコが、映画への愛情を受け止められ、彼女自身を愛されていくストーリーは心がきゅっとなる。
もちろんそれは自己投影以上に、方言や仕草、表情の可愛らしさと、
彼女の薄幸さに幸せになってー!と叫びたくなるような愛おしさを感じるからなんだけど。
特に好きだったのがふたつ。
ひとつが、紐で表現された枠とともに、ハルコがゆらゆらと揺れる演出。
乱暴者の亭主に詰られ、浮気され、彼女は揺れる。
世界を模る紐とともに、ゆらゆら。
それは世界の揺らぎで、歪みだ。
だけど、彼女は活動写真とともにその形や線を取り戻し、笑う。
この感じ。
おそらく、共感した人も多かっただろうな、と思う。
少なくとも私は共感した。
世界がゆらゆらと揺らいで自身も分からなくなる、その瞬間。
世界の線を取り戻せるのは、人によってはとるに足らないものかもしれないけど、彼女(あるいは、私たち)にとってはかけがえのない映画や物語だ。
もう、本当、愛おしい。

そしてもうひとつ。
嵐山に弄ばれたと諭され、泣き喚くハルコの妹のシーン。
もう死んでやる!と泣き喚く彼女が、ハルコに娘のきみこの名前を出され、
きみこの話はしないで、と言うところ。
ハルコは悪戯っぽく笑って、きみちゃんがいれば大丈夫だから、
お姉ちゃんいくね、という、そのシーンのあたたかさ。
どうしようもない失恋、大きな彼女の世界の悲劇が
生活で、戻っていく。
その感じ。もう、たまらなく好き。

映画や物語、お芝居という非日常がかたどって、
娘や姉という家族にその手を繋がれる人たちのなんと愛おしいことか。


ハルコは劇中言う。
現実はみんな悲しかったりしんどかったりすることばかり。
映画の中の人たちは最高。
その、象徴のような、物語のラスト。
乱暴者の亭主の言う通りだ。
現実は活動写真のようにはいかない。
高木が言った台詞のような言葉は、そのまま、台詞のように偽物として、果たされない約束として落ちていく。
だけど、それでも、ハルコは傷付いても、また活動写真を観て笑うのだ。
それは自分たちの生活と地続きで、ほんの少し、私たちの背中を押してくれる。


そういえば、妻夫木さんの映画に一時期ハマり、
その出演作をひたすらレンタルショップで借りたことがある。
そう言う意味では私にとって妻夫木さんはまさしく映画の憧れの人だ。
その人がこの物語を演じるところに、生で触れられたのはなんとも幸せなことだな、と帰り道ちょっとだけ思った。

この世界の片隅に

この世界の片隅に、を観てきた。
小さめの映画館ということもあるんだろうけど、立ち見が沢山出てた。
でも、この作品は、こういう映画館で観たいな、と思った。


あらすじ
18歳のすずさんに、突然縁談がもちあがる。
良いも悪いも決められないまま話は進み、1944(昭和19)年2月、すずさんは呉へとお嫁にやって来る。呉はそのころ日本海軍の一大拠点で、軍港の街として栄え、世界最大の戦艦と謳われた「大和」も呉を母港としていた。
見知らぬ土地で、海軍勤務の文官・北條周作の妻となったすずさんの日々が始まった。

夫の両親は優しく、義姉の径子は厳しく、その娘の晴美はおっとりしてかわいらしい。隣保班の知多さん、刈谷さん、堂本さんも個性的だ。
配給物資がだんだん減っていく中でも、すずさんは工夫を凝らして食卓をにぎわせ、衣服を作り直し、時には好きな絵を描き、毎日のくらしを積み重ねていく。

ある時、道に迷い遊郭に迷い込んだすずさんは、遊女のリンと出会う。
またある時は、重巡洋艦「青葉」の水兵となった小学校の同級生・水原哲が現れ、すずさんも夫の周作も複雑な想いを抱える。

1945(昭和20)年3月。呉は、空を埋め尽くすほどの数の艦載機による空襲にさらされ、すずさんが大切にしていたものが失われていく。それでも毎日は続く。
そして、昭和20年の夏がやってくる――。


もはや、良さ、についてはたくさん話されている映画だけど、せっかくなので、このぎゅっとした胸のいたさを残していたいから感想を書こうと思う。
魅力はたくさんある。
柔らかな絵柄、優しくて悲しい音楽、美しい背景、ころころ表情の変わる愛おしい登場人物たち。
そして、クラウドファンディングで作られた、という、この物語を私たちが選んだ、というのもきになる人が多い理由なのかな、とも。勿論、今劇場に足を運ぶ人の多くは、私も含め、映画ができてからその存在を知ったんだけど。
でも、この物語を選んで切望した人がいる、っていうのはこの作品の大きな魅力なんだろうな。
その上で、だけど、これは特別視される話ではなくて、もっと、当たり前の隣にある優しい話、とも思いたくあるんだけど。

「どこにでもある毎日のくらし。
昭和20年、広島・呉。
わたしはここで、生きている。」

ポスターのキャッチフレーズ。なんて素敵で、この映画の魅力のぎゅっと詰まった言葉だろう。
戦争がテーマではある。
しかも呉だ。大和の母港で、空襲もたくさんあった街。そして、広島、は原爆が落とされた街。
ただ、あくまで、戦争はメインのテーマではなくて、すずさんの生活がメインテーマであり、その中にどうしても関わってくる、そこにあるのが戦争、という印象だった。
多くの人が喪われ、喪う描写もある。し、それがとてつもなく(登場人物たちが魅力的なのも相まって)心を締め付ける。
だけど、それらはすべて、すずさんの生活の中にあって、観てるひとたちはその生活を愛おしく思ったから、きっと、胸があんなに痛んだんだと思う。
主演ののんさんが、私は生活をするのがとても下手だけど、生活するっていいな、と思った、とあるインタビューで答えていた。
作中で描かれる食事や洗濯、ご近所付き合いはすごく丁寧で、懐かしくてあたたかい。
優しい絵にあてられた声はどれも体温があって、優しく生きていた。
戦争、というと凄惨で非日常なイメージがついて回るけど、あの映画は圧倒的に日常が描かれていて、だからこそ、それを時々急に黒く黒く塗り潰す戦争が憎い。
そして、塗り潰されても、続く日常が悲しくて愛おしい。

劇的な台詞がたくさんあるわけではないけれど、じわっと染み込む映画だった。
し、これは映画館のたくさんの人のたくさんの気持ちの中で観れてよかったな、と思う映画だった。
たぶん、私は、あの生きてる人たちに会いに、映画館に行ったんだと思う。