えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

プラージュ 〜訳ありばかりのシェアハウス

許せないことってあるだろうか。
私は考えてみたんだけど、許せない、以上に「あーきっと、許してもらえてないな」の方が多い。もしくは許されないだろうな、だ。
いずれにせよ、許す・許さないを考えると思い切り呻きそうになるな。



プラージュはサブタイトルに「訳ありばかりのシェアハウス」とついているように、『プラージュ』というシェアハウスに住む「犯罪者」たちの物語だ。
主人公、貴生が思わぬことから覚醒剤に手を染めてしまい犯罪者に
更に追い討ちをかけるように住んでいたアパートが火事になり、
プラージュに住むことになることから物語は始まる。


貴生くんもそうなんだけど、みんな住人の誰もが好き好んで罪を犯したわけではない。
どうしようもなく、あるいは咄嗟にとった行動一つで「犯罪者」になってしまっただけだ。
それでも、彼ら彼女らが犯罪者であるという事実は、大きくそれぞれの人生をねじ曲げ、影を落とす。


でも確かにそれってきっと、多くの「犯罪者」がそうじゃないのか。ふと、そんなことを思ってしまう。
そうしたくてそうしたんではなく、
「そうしないといけなかった」「そうなってしまった」から、そうした。
だとして、罪を許されることにはならないんだけど。


プラージュに住む人たちはそこそこ癖は強い。でも、まあ普通の人たちだ。どこにでもいる。
更にその中でも主人公の貴生はめちゃくちゃ普通の人だ。なんなら、「犯罪」や「覚醒剤」というところから縁遠そうないい意味での「しょうもなさ」がある(ギリギリ褒めてる)
物凄く良いやつではないし、かと言って極悪人でもない。そこそこに小心者で、ちょっとダメなところもある、だけど優しい「普通の青年」なのだ。


WOWOWドラマらしく結構容赦ない暴力シーンもあったりするんですが、
でも、一気見してしまったのはそれ以上に描かれる日常や人々が丁寧に優しく描かれてたからだ。
プラージュはカフェ兼定食屋さんのようなこともしているので、朝と夜にご飯が出る(羨ましい、めちゃくちゃ住みたい)
そこで住人たちは喋ったりご飯を食べたりする(楽しそうだし羨ましい、やっぱりすげえ住みたい)



その様子は本当に、どこまでも穏やかで「普通」で楽しそうなのだ。
だからこそ、その合間に落ちてくる「前科者」の影が息苦しくなる。
普通に生きていく。
"ご飯を食べて笑って"生きていく。


ただ、彼らが罪を犯したことは変わらない。
そしてその「罪」には被害者がいる。
失ってしまった人が、傷付けられた人がいる。
事情を知ると「それは殺されても仕方なくない?」と思ってしまう。プラージュの住人たちを知ってるから尚更。
だけど、同時に「殺されても仕方ない」人間なんていないはずなのだ。
作中出てきた「誰も、遺族の気持ちなんてなれるわけないんですよ」という台詞が耳に残ってる。
本当に、喪ってみないとわからない。想像しようが寄り添おうが、それは「こうなんだろうと思った」でしかなくて、「遺族の気持ち」ではないのだ。
そしてそれは、何も遺族に限った話じゃない。
誰に対してもそうで、本当の意味で「誰かの気持ち」を知ることはない。そりゃそうか、自分の気持ちだって分からなくなるんだから。



だけどそんな「気持ち」を考えてるとますます、じゃあ、人はいつ許されるんだろう、と思う。


許されていいのか、とも。だけど許されて欲しいし、許されたい。自分が許せるかは分からないくせに。それでも。



どうしても題材的にアンナチュラルやMIU404を思い出してしまうんだけど、
「どこなら間に合えたか」を考えれば考えるほど、どこなら、が分からなくなる。
だって時々、「生まれた瞬間」から所謂詰み、に入ってしまうことだってある。

それだって紐解いていけば「この時こうしていれば」が見つかるかもしれないんだけど、でも同時に「こうしていれば」っていくら考えても、「こうする」ことはもうできない。過去は変えられないんだから。
そんな無力感というか、虚無感に襲われてしまうことがある。


潤子さんの台詞を考える。私は人を信じることができるだろうか。ご飯を食べて、笑って生きていけるか。生きていってほしいと思えるか。



プラージュの人たちを好きになったのは、
きっと貴生が「コミュニケーション」を取ったからで
私はきっと貴生の目を通して彼らのことが好きになったのだ。
だとしたら、コミュニケーションをとれば、とも思うけどそれだって毎回必ず、うまくいくわけじゃない。いくら心を砕いてもコミュニケーションが取れない人間はいるし、
ついでに言えば「いつだって誰にだって」心を砕いてコミュニケーションを取ることができる人間だ、とも自分に対して思えない。
そうありたい、とは思うけど、そうあれないから、変な話「そうありたい」のだ。


最後、どんどん物語が進んでいくにつれ
その苦しさは大きくなって目の前が暗くなるような気持ちになっていく。


観ながら、どうしようもなく苦しくなって書き殴ってた感想に
「もうさ、許せる人同士でやっていきませんか。
ダメか ダメなのか。
全部は無理でもダメか」
ってのがあって
なんか、もう、わかんないなー!!!!
そう放り出したくなったんだけど。
貴生が選んだ言葉や行動、表情を見ながら
それでも、正しくあろうとすることをやめるわけにはいかないか、と思った。


答えは見つからない。
許せるか、許されるか、わからない。
きっと答えなんて、ない。万能で全てにぴったり当てはまる定規なんてこの世のどこにもない。
それでも、なんか食べて笑って綺麗なものを見て、生きていくしかない。


プラージュ、好きなドラマだったな。
とりあえずあれだ、今日も、美味しいご飯を食べて誰かの優しいに気付けたらいいな。

推しは推せる時に推せと言うけれど

みにくいと 秘めた想いは色づき
白鳥は運ぶわ 当たり前を変えながら


言わずと知れた、星野源さんの楽曲『恋』の歌詞である。
私は、それをラジオで聴きながら泣いた。なんでかわからないくらい唐突に泣いた。もう何度も聴いた歌詞である。逃げ恥だって観て、MVも何回も観た歌で。でもまあ、音楽ってそういうことがある。


そしてこれは、やっぱり何万回目かの私の「好き」についてのろくろである。
最早このブログではもうお馴染みになりすぎてるしお家芸みたいになりつつあるけれど、書く。


私は私の「好き」を基本的に信用していない。
好きだ、と自覚するのも時間がかかるし、好きになってからも本当に?と疑うので、
何度も何度も「いや好きだな?!」と驚くことになる。わりと何に対しても誰に対してもそうだ。


と同時に、だ。


私にとって「好き」は"ふっかつのじゅもん"である。
わりとどんな時も好きなことについて話せばある程度回復する。好きについて言葉を尽せなければすごい勢いで枯れるタイプの人間だ。
好きなものの話をしているのが、何より一番楽しいとよく思う。

だというのに、何で好きだという気持ちをこうも持て余すのか、いやむしろ、だからこそ、なのか。



"好きでい続けることは難しい"


それは、いつも思う。
自分の中の気持ちや思考回路に足を取られるからでもあるし、
自分にはどうしようもないことで変化し続けたりするからでもある。

例えば、相手が思ったようなひと/ものじゃなかったら。
裏切られた、と思うようなこと……まあ、そこまで強い言葉じゃなくてもどうしても「納得できないこと」があったら?

「全てを肯定できなければ好きではない」なんてことはとんでもなく傲慢だとは思うけど、
かといって、好きな人のことを否定するのは難しいししんどい。

し、なんでしょうね、人間って面倒なもので
一歩間違えると過剰に肯定したり否定したり、
なんかそういうところに足を踏み入れちゃうじゃないですか。
だからそうしないようにって用心深くいるとそれはそれでめちゃくちゃ疲れるわけですよ。

更には「好きだから」「好きだけど」「好きなのに」みたいな
好きを条件としたさまざまな「こうあるべき」の主義主張なんて始めるともう地獄絵図だなあ、と思う。
まあそれもこれも他所のこと、と割り切ってそれぞれ好きなものは好きなようにいようぜ、と思うけど
それだってまあ、簡単ではないし。
たとえばそれが単なる他人の行動とかで過敏になってるならまだしも、
なんならたまに過去の自分だとか未来の自分だとかと比較したり、みたいな思考の迷路に陥ると
「あれ、私は何考えてたんだっけ?
なんか分からんけどしんどいぞ」ゾーンに陥る。


もうそうなるとダメなのだ。
面倒臭くなるし、ふっかつのじゅもんはいつの間にか、毒の効果みたいなのを発揮しだす。
真逆だ。


更には
「もっとああしてたら良かった」みたいな、後悔はきっと好きなもの/人に対して
いつだってついて回りかねない不安感がある。


めっちゃ好きだって言う方なんですよ、私たぶん
前半と矛盾しますが。
感想とかも黙ってらんないし、好きだと思ったものはすぐに好きなんだー!って言いたくなる。
そうやっていても「もっとああしていたら」「もっと伝えたかった」ってなるんだよなあ。

昔、国語の授業で毎晩愛犬に好きだと伝えていたからいつかの時に後悔はなかった少年の話が出てきたけど、
あれ、めちゃくちゃすごいことだな。
その境地に至れる日ってくるのか?と
ほぼ「来ないな」という確信を持って思っちゃうんだけどどうだろう。


「推しは推せる時に推せ」は真理だ。
いつなくなるか……それは生死だとか活動するしないだとかだけの話ではなく、そもそも「好きという感情」も含めて……分からないんだから。


とはいえ、今まで書いたような思考の迷路に陥った状態だと自分の好きという感情の面倒臭さに「嫌だあああ!」と叫びたくなる。
いらねええええ邪魔あああああ!と"ふっかつのじゅもん"と呼んだ手のひらを高速で返してそのままお引き取り願おうとしてしまう。
だって、宝物であればあるほど、その感情がいつか、凶器になってしまう可能性があるのだ。


そんなことを考えてなんとなく、距離を掴み損ねてしまったものが一体今まで人生の中でいくつあるだろう。
きっと私は、そういう意味では「推せる時」を自分から手放して失くしてしまったのかもしれない。

自分の身勝手でみにくい思い込みや不安によって。


みたいなことを、最近考えていた。
どうにも、好きなものを楽しむ体力が落ちてたりしていて。
それが単純にその対象への興味が薄れたのか、とかしたくもない仮定をしたり、
その他諸々考えて、そして考えれば考えるほどに嫌になって、
そんな中、火曜深夜に恋の歌詞がぶっ刺さって泣いた結果、こんなろくろを回している。


なんでか分からんけど唐突に、と冒頭書いたけど
本当は少しわかってる。
こないだ、大泉洋さんのアナザースカイを観た。
大泉洋さんも私にとっての"ふっかつのじゅもん"の一人である。
同時に「好きと呼んでいいか迷ってるひと」のひとりだ。
それはかつて堂々と好きだ!と言っていたからこその迷いだ。例えば、バラエティの追っかけ方だとか出演作の見方だとか。
そういうのが、不安になりながらもじゅもんとして唱えまくっていた時期と変わってしまった。
それでも、好きだとは思っているけれども。
どうしても自分の中で引っかかって小骨みたいなものと好きだ、という言葉を飲み込むことが増えた。


ただ、そんな中観たアナザースカイで、
なんかめちゃくちゃ素直に「あーすきだ」と思った。
だからとかだけどとか、うっせー!って思う暇もないくらいただただ「あーこの人が好きだ」と思った。良いとか悪いとか知らね、って笑ってしまいそうだった。だってなんかもう、好きなんだもん。

そう思うと私の好きはずっとそこにあったんだろう。形を変えようがそこに。
どうしたってずっと、ふっかつのじゅもんなのだ。そしてそれは、唱えるたび、血肉になって今もすぐそばにある。


推しは推せる時に推せ。
推せる時、はきっと「好きだ」と思った時だ。迷っても良いし、不安になっても良い。
「離れた」なんて思うこともあるかもしれない。
だけどどうなろうが、好きだった時間は消えやしないのだ。足りないとか足りたとか、そんなこともどうでもいいんだ。
ただ、そこに在っただけなんだから。


『恋』の歌詞はこう続く。

胸の中にあるもの いつか見えなくなるもの
それは側にいること いつも思い出して


なんだか、そんな歌詞がなくなったりしないのか、とほっとしたばかりの私にはいつもと違って聴こえて、べそべそ泣いた。
きっと、今日のこの『恋』を好きだと思った気持ちもまた、明日の私の一部になる。


だからやっぱり今日も私は、好きな人が・ものが、たまらなく好きで好きで仕方ない。

影裏

知らなかったあなたを、愛していたと言ってもいいか。
知っていた、少なくとも自分は差し出していた、そう思っていた関係性が崩れる時、それはどれくらい怖いことだろうか。



「哀しみも過ちも、大切な人のすべてを愛せますか?」

これは、影裏のキャッチコピーの一つである。



あらすじ(公式サイトより)


今野秋一(綾野剛)は、会社の転勤をきっかけに移り住んだ岩手・盛岡で、同じ年の同僚、日浅典博(松田龍平)と出会う。慣れない地でただ一人、日浅に心を許していく今野。二人で酒を酌み交わし、二人で釣りをし、たわいもないことで笑う…まるで遅れてやってきたかのような成熟した青春の日々に、今野は言いようのない心地よさを感じていた。

 夜釣りに出かけたある晩、些細なことで雰囲気が悪くなった二人。流木の焚火に照らされた日浅は、「知った気になるなよ。人を見る時はな、その裏側、影の一番濃い所を見るんだよ」と今野を見つめたまま言う。突然の態度の変化に戸惑う今野は、朝まで飲もうと言う日浅の誘いを断り帰宅。しかしそれが、今野が日浅と会った最後の日となるのだった—。



もともと、思えば予告で何度か見かけて、観たいなと思っていた作品の一つだった。それをなんだかんだと観る機会を逃し、綾野剛さんの魅力にハマり作品をいくつか見ていく中で、勧められて再会した。

言葉が少ない作品である。言葉、というのは台詞のことで、画面いっぱいにきっと表現は溢れている。役者たちの表情や動き、画面越しの空気感も、音も、そして何より映し出される景色や色がこれでもかというほど、伝えてくる。


まず、なんとなく、予告から得ていたイメージと違っていた。
今野に対する印象は特に見ながら少しあれ?と戸惑うほど違っていた。しかし、別にそれも、予告から裏切られたということではなくて、
かつ、なんなら予告などで殊更に「事前情報」が入っていたら損われるものも多かっただろうな、と思う。
そう思えるくらい、一つ一つが丁寧に「言葉」以外の全てで尽くされ、語られていく。
それはとても、居心地の良い時間だった。

そして同時に思うのは「こうして受け取ったと思ってることは『正解』なんだろうか」ということだった。つい、そう思って…特に後半のあるシーンについて「あれ、こういうことであってる?」と思い立って…ネットでいくつか感想記事や考察を読んだ。読んで思った。

どっちでも良くないか?


もちろん、制作側の「正解」はあるだろう。これを撮りたいという目的や表現したかった隠喩表現もたくさんあるんだろうな、と思うくらい、表現豊かな映画だ。だからこそ、私はつい考察サイトを開いた。だけど、そうしながら、いや、違うな、と思い直した。


”一番心を許せると思っていた相手が、
自分の知らない一面を持っていたらどうするか"


これはこの映画の一つの大きな主題である。
自分が知っていると思っていた、好ましいと思っていた相手に知らない一面があったら、
いやむしろその「知らない一面」こそが、相手の『本質』だったらどうするか。


ところで、私は同時になら、と思うんだけど。そもそも「相手の全てを知ってる」あるいは、「相手に包み隠さず自分の全てを曝け出してる」こと、そのことをイコール愛だ、というのはいかがなものだろうか。
いかがな、っていうか、まあ、私はなんとなくそう言われるとつい反論したくなるという話なだけなんだけど。


離別の川のシーン。
日浅は何をしたかったんだろう。
彼の恋心は虚像だと笑いたかったのか
自分の罪を晒して断罪されたかったのか。

そのどちらでもあるように思うし、どちらも違うような気がする。
なんなら、日浅自身「何がしたい」なんて分かっていたんだろうか。


観れば観るほどに、進むほどにわからなくなる。分からなくても良いか、と思う。目線の意味は言葉になる一歩手前でぐるぐると喉を詰まらせてる気がする。
雨の中、焼けつくような彼の表情を見てそれでも思った。


知らなかったあなたを愛していたと言ってもいいか。確かに心が軋んだ、それは、紛れもなく、本当だ。


それもこれも、そう思いたいだけの感傷かもしれない。だけど、それでもいいじゃないか。

佐々木インマイマインの感想、あるいは今と高校時代の話

高校時代が、たぶん一番個性的な人間に出会った時だと思う。
片田舎の進学校もどきによくもここまで、とも思うしだからこそだとも思う。記憶のフィルターが美化してるところもあるだろう。だけど、私にとって衝撃的だったのは事実だ。おかげで私は平凡コンプレックスを拗らせたし、その個性的な人たちとやっていくために、かつ、その個性的な同期に囲まれる中でも先輩に忘れられないようにツッコミを磨き、自分のポジションを確立しようとした。
わー…なんか、文にしてると落ち込みそうになるな。



この物語は「クソみたいな今を生きる俺」の話であり、ずっと爆発してるような無茶苦茶な高校時代の友人佐々木の話である。



鳴かず飛ばず、どっちつかずの悠二は、役者になるために東京にやってきた。しかしうまくいかず、元カノとずるずる同棲を続ける。後輩で「うまくいってるように見える」須藤の目線には居心地悪そうに身動いで、同級生の「正論」には腹を立てる。



閉塞感なんて表現したくないような、むしろ、そこに行き着くこともできないような苦しさを感じたのは、なんか、きっと今の私の居心地の悪さのせいなんだろうな。

漠然とした不安、みたいなものを感じない人はいないんだろう。こんな時だから尚更。
そしてその漠然とした不安を裏付けるみたいに「こうなってしまうかもしれない」という恐怖を煽るifは生活のあちこちにある。


高校時代は、馬鹿なことばかりやっていた。
会社のクソみたいなこととか住民税とか、洗いそびれた皿とかもなくて、
日がな一日だらだら明日になったら忘れそうな話をして別々の漫画を読んだりだとか、よく分からない口癖が流行ったりとか。


佐々木インマイマインのことを考えて、考えて考えて文にしようとするたび、
自分の学生時代を思い出した。製作陣の多くが同い年だということを差し引いても、
気が付けば自分のことを考えていた。
一緒にいた友人や、やった酷いこと、やられたどうしようもなく許せないこと。


佐々木コールや、おっぱいの感触だなんて馬鹿なことをいってげらげら笑いながら漕いだ自転車。
バラバラのことをしながら過ごした誰かの家。
適当にそれっぽく理由をつけて口にした好きだとかそういうことや、
クラスの他愛もない噂話。
覚えてないのに、残っている色んな景色が画面上にずっとあって、呻きながら過ごしていた。



綺麗なものも、形が整ったものもない。それは記憶の中にも関係性の中にもない。
1番の親友なんて、クソみたいな言葉に落としてたまるか。
誰かにとっての「幸い」なんてことはない。絶対。
人生の意味なんて下らないもの、あなたの生命は素晴らしいなんてクソみたいな言葉で顕さないでくれよ。



何万回あの時を繰り返してもきっと同じ毎日を過ごす。過ごしたい。だけど、そのうち一回くらいあの時言いそびれた言葉をかけれたりしたらいいな、とも思う。いや、やっぱり無理かな。


高校時代から何か変わったのかと言われれば、何も変わってない。何一つ。
だから、昔は良かったなんていうクソみたいな郷愁も、美化も全部全部糞食らえだと思う。
どうせ、死ぬまで生きていくしかないんだ。今日は昨日の続きでしかないし、昨日はただの昨日だ。
それでも、例えば、きらりとひかるあの時間に目を焼かれることはある。それを、美化なんてしてやるかよ、と、思うし、ホームランを打った佐々木のことを思い出すたびにだよな、って笑ってしまうのだ。だって、今日も生きてるわけだし。

フード・ラック! 食運

昔、得意料理は何かという話になって特に浮かばなかったことに焦った私は「得意なのはおいしく食べることですかね」と誤魔化したことがある。それを聞いた一人から、それってすごく素敵ですね、と声をかけてもらったのが照れ臭くて、嬉しくて妙に記憶に残ってる。
そんな時のことをふと思い出した。
美味しく食べることが得意。そう言えるのは、もしかしたらものすごく、幸せなことなのかもしれない。




フード・ラック! 食運は、フリーのライターである良人が母の味を探す物語だ。
今はない幻の人気焼肉店「根岸苑」
そこの一人息子であり、母の味に触れてきたことで食に対して奇跡の「食運」を持つ良人が
母の余命が僅かであることを知り、
母の味を求めて様々なお店をめぐっていく。

「もし焼肉が最高の演技をしたらどうなる?」がそもそものコンセプトにあり、劇中、かなり丁寧に「肉」の演技が描写されていく。
そう書くと随分と所謂「トンチキ映画」にとられそうだけど、そんなことはないというのは試写会時点からかなり話題になっていた。



フード・ラックで焼肉たちが最高の演技をして伝えようとするのは「食べること」だ。
そしてその「食べること」のためにはまず「作る人」がいるのだという、当たり前といえば当たり前の、だけど大切なことをジモン監督は丁寧に描いていく。


大学時代、個人経営の焼肉屋さんで働いていた。第二の家だと思うようにと鷹揚に笑った店長は、面接といって初めての時は一緒に焼肉を食べる。
食べながら、主に店長の話を聞いたり、普通に世間話をしたりする。それから、良いな、と思ったら「予定カレンダーに書いて帰り」というのだ。
その判断基準は結局最後の最後まで分からなかった。ともあれ、そうしてそこで働くことになった私は何度も何度もお肉を捌き、盛り付ける店長のお仕事を見てきた。
何かに夢中になるとご飯を食べるのを忘れがちな私をバイトがない日にも呼んで、ご飯を一緒に食べようと言ってくれる人だった(これは私が特別、ということではなくて、バイトにはみんなそんなふうに接してくれていた)
厨房でこんがらがった頭を整理しながら雑談をして、店長の仕事を見て、お客さんにお肉を持っていく、時々お客さんとも話す。
そんな何気ない時間が私はすごく好きだったな、ということを映画を観ながら思い出していた。


焼肉ってお肉を切って出して、お客さんが焼いて、ってする、そんなシンプルなものなんだけど
お店ごとのカラーがあって、それこそ切り方一つ、焼き方ひとつでがらっと変わっちゃうんですよね。ああそうだな、そういうの、面白かったんだよな。
そんなことをこの映画を観ながら思い出した。どんな店でもそれぞれに方法があり、工夫をもって、料理が提供される。
その様子が物語上必要だからという理由だけで片付けるには勿体ないくらい丁寧な描かれ方をする。
ともかく見ていると「料理」が好きなんだろうな、と伝わってくる。美味しい料理も、それを作る人も、堪らなく好きで好きで仕方ないんだという視線が見えるようだった。



そして食べるというどんなことがあろうがなくならないその……時々は面倒にすらなってしまうそのことを、そんな風に愛している人の目を通して見るのはすごく、なんかもう、良かった。
誰かの一手間が入って、差し出される「ご飯」も、それをそれはそれは幸せそうに食べる姿もあまりにも最高だった。


母の味、というと「愛情」や「祈り」みたいな話になるけれど、
フード・ラック!で徹底的に描かれるのはそれ以上に「一手間の仕事」だ。美味しくなるのは、奇跡や魔法ではない。誰かの仕事の結果だ。
そしてそれは矛盾するようだけど、あなたが笑ってくれますようにという極シンプルな願いからできてる。



大学を卒業して、仕事で身体を壊したことを報告しに行った時、情けなさでぐちゃぐちゃだった私に店長はいつも通り、ご飯を食べようと言った。結局、難しい話なんて何一つせずに、ただいつものようにご飯は「いただきます」で始まって「ごちそうさま」で終わった。
ただ、つくちゃんご飯はちゃんと食べや、と店長が言ったのだけは覚えてる。



美味しいと思うこと、誰かが……それは自分も含めて「おいしくなりますように」と手を動かしてくれたこと。
そんな美味しいご飯が作った身体で、今日も過ごすこと。
フード・ラック!は、誰かを「成敗」する話でもなく「情による魔法」を訴えるでもなく、最後の最後まで「毎日生きて続ける人」を肯定する、明日のご飯が美味しくなるための魔法みたいな映画だった。

何万回も同じ答えに行き着くのだ

ふと、読んだよ、という話をしてもらって、過去のブログを読み返していた。


もちろん、書いたことは覚えていたんだけど読み返しながら数ヶ月でまた色んなことが変わっていてちょっと新鮮だった。
なんなら、途中の「しんどい思いをした方が良いんじゃないか、という焦りからだった」という一文を読んで「お前のせいかい!!」と思わずツッコミを入れてしまった。いやお前っていうか自分なんですけど。
さらに言うと、今年のいろんなことはだいたい厳密にはそもそも仕事上の都合だし、全部が全部私に決定権があったものではないので、アレなんだけど、にしたって「この野郎おかげさまで今めちゃくちゃしんどいわ去年の私見てる〜?!」と胸ぐらを掴んで締め上げたいくらいの気持ちにはなったし、
その時点でなんというか、ブログを書いといて良かったな、と思う。人間は忘れる生き物だ。
そんなわけで、ひとまず、この週末のことを忘れないために書く。



それで、辿り着きたい場所が見つかったか、という話なんだけど
ブログを読んでもらって「辿り着きたい場所は見つかりましたか?」と聞かれて、そうか、そういや、考えてなかったと気付いた。
なので、この土日、辿り着く場所について考えてみた。正直、「辿り着いてない」ことは間違いないんだけど、せめてその概要というか、大きな枠とか見えないだろうかと考えてみたくなった。

で、考えてみたんですけど、ところがどっこい。
これが困ったことに見つからないんですよね。
というか、薄々、いや無いな?これ、という結論が出つつあって。無い気がする。
辿り着きたい場所、はこれからどれだけ考え続けても何をやっても、きっと見つからない。


そもそも「着く」がない気がする。だって到着って一個のゴールで、ゴールだというなら、きっと死ぬまで、なんなら死んでも自分と関わった人が生きてる限り終わらない。
かつ、死ぬ瞬間なんてものは自殺を選ばない限り決められないし、
そういう意味で「辿り着く」が成立しないじゃないか。

なら帰る場所は、と考えてちょっと落ち込んだ。
今年あったいろんなことの結果、個人的に「帰る場所」はなくなった、と思う。
もともと過ごしていた場所はもうないし、実家も育った空間とは少し違う。
「空間」としての場所の話をするなら、私に帰る場所はもうないんだなあ、と思う。
なのでどこに帰るんだろうね、というアンナチュラルの台詞を聴きながら「どこに帰るんだろうね〜」と頭を抱えてしまった。どこに帰るんだろう。無縁仏になりそうだな、って話もそうだけど、なんかそうではなくて。

「帰ってきたなあ」と思える、その瞬間はいつか、くるんだろうか。



ただこれは別に私に限った話ではないんじゃない気がする。そう思うのはちょっと横暴だろうか。
無縁仏云々とか、家族やパートナー、友人の有無ではなくて、きっとみんな帰る場所がないなあ、みたいなのってあって、
でも同時に時々「あ、ここだ」みたいな錯覚もあって
それは日々、更新されるんじゃないか。


更に言えば、そもそも辿り着いてない場所が欲しい、と書いたさっきのブログの中でもこう書いている。

『だとしたら、私が考えるべきは場所どうこうよりも何をしたいのか、なのかもしれない。』


じゃあ自分への質問を変えて、何をしたいか、と考えて、通話中、エンタメに触れることや文字を綴ることの話を聴いてもらった。
お芝居や映画を観ること、そしてそれで思い切り心を動かして、自分の言葉になおしていくこと。
それが、たぶん、この一年、かなり私の支えになっていた。気心の知れた相手に会えず、一人の狭い空間の中で、時間だけ有り余ってひたすら考え事だけをしていた私にとって、それが、一番楽しくて満たされた時間だった。


そんで、思ったんですけど。
私は誰かと話すのが物凄く好きだ。聴いてもらうのはもちろん、誰かが話してくれる色んな話に物凄くワクワクしてしまう。


読書で得た財産は、誰にも盗めない財産だ、という言葉が大好きなんだけど
わりとその感覚が、近いかもしれない。
物語が好きだ。それはフィクションという意味でもだし、不誠実極まりないことをいうなら、人が生きてるだけで紡がれる物語も含めて好きだ。
というより、そうならないと人に興味をもてないという良くない話かもしれない。だからこそ、そういう突っ込んだ話をできない環境では面白く無くなって、退屈してしまう。うーん、言葉にすると最低だー!って気がしちゃうな。


それでも、そう思っちゃうんだよな。


そうやって、色んな物語に触れてそれで心底、綺麗だとか楽しい・面白いって思って、そのたびに「もしかしてちょっと、人生って面白いんじゃないの?」って思ったりする。

ここまで考えて、いやきっとこれ、今までも何回も思ってきたな、と思う。色んな物語に触れるにつけ、あれ、生きてるの結構、いやクソなところは間違いなくあるけど、もしかして、愛おしいんじゃないかって、びっくりしてきた気がする。

私は、この同じ結論に何万回も辿り着くんだと我ながら呆れてしまう。人生を放り出したいくらいうんざりして、明日も当たり前に今日がくる可能性に嫌気がさして、それでもそれを越えるための「物語」に触れて、ああちくしょう仕方ないと朝を迎えるんだろう。
そしてその度にああそうかそうだった、と思い出す。
それは馬鹿馬鹿しいようにも思えるし、なんだかとんでもなく幸せなようにも思える。そうやって何度も「出逢える」話があることはわりと、幸せだということなんじゃないか。


そう思うんだけど


さあどうだろう、例えば明日、私が目を覚さなかったとして私の人生は良い人生だったろうか?
それはたぶん、私には判断できない。最終的には誰かが判断する。そこから先は私の物語ではなくなってしまう。
だけど、今日の私は少なくとも「明日終わるとしても良い人生だ」と私が思う為に何かをすることがきっとできる。
そんなことを、思ってる。それを少しでも、形として悪あがきしたいという、たぶん、それが辿り着きたい場所なんて見えないままに歩く私の最後の意地なのだ。そして、人間は忘れてしまうので、忘れた時用に、こうして言葉にしておこうと思う。
もしその文を、まるで私が大好きなたくさんの物語のように「ああそうだった」と思い出すきっかけの一つにできたなら、それはたぶん、めちゃくちゃ幸せだろうな。

RED PHOENIXを続くことが苦手なオタクが聴いた話

突然ですが、続くことって怖くないですか?


例えば、映画だってだいたい続編って面白く無くなって酷い時にはファンの間でなかったことにされるし
連載漫画だって大人の事情によって無理に長引かされたことによる悲劇、みたいなのってよく聞く。
なんか、続くって、ポジティブに捉えられがちだけどどう考えてもネガティブな側面の方が多くない?と思うことが多い。
それは、昔から何かを続けることが苦手な私の僻みも入ってるとは思う、思うけど、ともかく、続くことって昔から怖い。
「このままが続いたら良いのになあ」と口にすることは多いけど、それは「続かないからこそ」言えるのだ。というか、続いてしまうから言う。続いてしまうことは、変わることだ。
変わることは、意志として変わると決めたこともあるけど勝手に変わることだってある。

そんなわけで、やっぱり「続く」って怖くないか?終わったら、もうなにも変わらないんだぞ?と思ってしまうのだ。



EXILEの新曲が、出た。
「新生EXILE!」「新体制!」と早速テレビでは紹介される。
当然ながら、それはATSUSHIさんの不在のためだ。一時の留学ではなく、これからの時間として、道をそれぞれに選んだ。
「続いていく」中で「変わった」わけである。
それだけではなく、今年世界は大きく変わった。というか、変わり続けている。
去年の今頃の写真をみてびっくりするくらい、もう何年も前のものに思えてしまうくらい、世界は変わった。
予定されていたものはなくなり、常に「どうなるか分からない試行錯誤」が求められている。

そんな中で、改めて思う。
変わることは、怖いことではないか。続くことはどうしようもなく「変わり続ける」ことだ。
ものすごい幸せも愛おしさも嘘ではないだろうけど、失くなるものだとも思う。



そんなともすれば、カビすら生えかねない物思いをRED PHOENIXは吹き飛ばしてくれた。
「新生」と銘打たれる大きな理由は「ボーカル体制の変化」である。それは間違いない、
実際、あの発表以降"新生EXILE"に一切の不安がなくても、どこかドキドキと心配のようなものを感じていたのは事実だ。
痛いほどの不在を感じてしまうのは怖い。それはその不在が物語になってしまうことへの居心地の悪さかもしれない。


ただ、そんなものは全て杞憂だった。


"新生"は不在からの変化だけを指すのではない。手のひらを急に返すようだけど、そう思った。

将吉さんのドラム、ネスさんのギター、亜嵐くんのDJブースでの姿…
全てが新しかった。それは、新鮮だとかという話とはまた少し違う。
かつ、上に名前を挙げた人以外のメンバーもそうで、この数年…それは具体的ないつからいつ、という時期の話ではなくてもっと長い目での話だけど…のソロや「EXILE外」の活動の時間を思わせるパフォーマンスをぶちかましてくれた。
技術だとか、実際に見せ場として具体的なら「そういう演出」が全員にあるわけではない。ないけれど、あのMVの中で笑って見せる彼らはみんな、それぞれの時間を経た、EXILEだ。



元々、EXILEとは同じ振りを完全に揃えて踊ることで魅せるというわけではなく、それぞれのらしさが出る、という話を哲也さんが「三つ編みライフ」でしていた。
そういう意味では、そのそれぞれの時間が濃密にでる今回のパフォーマンスはEXILEの魅力そのものであり、「いつもどおり」かもしれない。
だけど、同時に大きく変わったなかで「彼ら」が「彼らの活動を経て立っている」のは、まさしく今回の「新生EXILE」だからなんじゃないか。
なんかもうめちゃくちゃ感覚的な話になってきたけれど。ただ、観ながらひたすら生き生きとその瞬間を彼らは生きてるんだな、と呆然とするように見ていた。



MV公開当日、こう呟いていたんだけど、結局行き着く先はここなんですよ。たくさんの0で、変わったところからのリスタートでもあり、続きでもあり、続いていくものでもあり、0なんだけど、1なんだよな。

なんか、1ってなり得ないじゃんというか、積み上げたものは簡単に変わったりなくなったりするじゃん、と思うし、実際往々にして、そうなんだけど、この14人を観てたら、なんか、そうだよな、と思う。
全てを感じていたい希望も絶望の痛みも、と歌い上げる姿に格好いいなあ、と呟いてしまう。



目を一切背けることなく、変わって0になるかもしれないことも含めて、ただそこに真っ直ぐに立っている。
どうしようもなく生きて想って歌って踊る。そうし続ける。変わらないものなんて、何もないなかで。
それを、楽しそうにぶち上げる姿がたぶん、私はとても好きだ。
そしてそれは続くの怖くない?なんてことを口にするのがちょっと野暮に思えてしまうくらい、格好良い。

怖いなんて言ってる暇はない。

だって次の瞬間には、「今」の続きがやってくる。目を逸らさずに迎えた続きがあんなに格好良いなら、なんかそれはちょっと「続くのって良いじゃん」と相変わらず掌を返して、思ってしまいそうになるのだ。