えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

続 八王子ゾンビーズを見て考えたこと

昨日感想書き上げて、それからアイスも食べてうだうだ考えてたんだけど思いが止まらず、書き殴ったので、蛇足的にアップする。忘れないために。

 

 


もういっかい、自分にとっての12年がなんだったのか見つめ直す時間だったんだな。

例えば、羽吹くんをこいつを助けたいって思うんです!って叫んだ下田さんのシーンが好きだ。羽吹くんが今まで踊ってきた自分の身体の動き能力と、動体視力を信じて刀を避けるっていうところが好きだ。
それに、あんなん見たら希望を斬る快感、とかどうでも良くなるというか、ああもうじゃあいいよ、になるよね。

平気じゃないだろっていう羽吹くんの台詞は肉体的痛みもだけど「悪いことをしたから何を言われてもいい」なんてことないのだ、というみたいだった。

かえでくんが、最期死ぬ場所を彼らの家にしたこと。あの笑顔で死んでいってしまう姿が焼き付いてて、薬やったんじゃねえだろうな?!って言われる瞬間怯えたように背けた目が切なくて、でも、仁くんたちだけが、俺を殴ってくれたんです、って笑う姿が切なかった。あそこに集まった彼らはみんなそういう人たちで、互いが互いだけを怒って真剣に見てきたんだろうなあ。
アンナチュラルで、犯罪者がどんな人間でどんな生い立ちかなんてどうでもいいって台詞があって、ほんとその通りで。どんな事情があろうが、その罪は許されない。どれだけ後悔しようが、償おうとしようが。だけど、人生は続いていってしまう。
そういうことを思うと、母さん、産んでくれたのにごめんなさいってかえでくんが言ったことが苦しかった。
せっかく産んでくれたのに、って。
道を間違えたくて間違えたわけじゃないし、彼がモデルという世界を受け入れたのもお母さんやゾンビーズたちにいいじゃんって言われたかったからだろうし。だけど、良く生きられなくて、ごめんなさいというのは、きっと、彼の本心だったんだろうな、というか。若くして死んでしまったことも、それまでの色んなことも、どれも嘘偽りないことでそんなことないよ、とは庇えなくて、でも、だけど、最後にありがとうって言ってくれて嬉しかった。
好きな人が100%良い人だってわけがないじゃないですか。そんなん、信じるにはちょっと危ういとだって思うよ。だけど、それ引っくるめて(それは無条件に肯定するということじゃなくて)その人を好きでいたい。
仁さんは決して生きることが良いことだとは言い切らなかったこと、でも、楽しまないとたしかに人生は勿体ないこと。
ゾンビーズ、と、死ぬ前から彼らは名付けていた。自分たちに。
あれは、死んだつもりで生き直そうとしていたのか。死んでしまった方がいいかもしれない自分たちだけど、生きようとしてたというか、生きることに縋り付いて、縋り付くだけの理由を探してたんじゃないか。そう思うのは、感傷的過ぎるだろうか。
生きることは良いことじゃなくて投げ出したいこともあって、死んだ方がいいよお前らなんて言われることもあって、だけど、死んでしまうには惜しい瞬間だって、たしかにあるかもしれないじゃないか。仁さんだって、かえでくんを救ったし、きっと、羽吹くんを救ってくれたじゃんか。
なんか、そういうことなんじゃないの。

そこに至るまでどう生きたかが顕著に問われた舞台だと思った。羽吹くんを観ながら。
諦めることを知ってる。
誰かと踊ることを知ってる、人によって踊りやすい踊りにくいがあること、一番合う振りがその人を輝かせること。
自分が散々苦しんできたことで、誰かを救えるというのは、なんて優しい物語だろう。

ゾンビーズが成仏できるかは、羽吹くんにとっても希望だったし、あのホームレスのおじちゃんにとっても希望だった。だって、彼らの死はあの市長の悪い部分でもあったわけだから。

良いとこもあれば、悪いとこもある。

希望を叩き斬りたい悪だから苦しんでおけって言う彼らこそ残忍に見えたけど、きっとたぶんそういうことでどちらにもそういう節はあって、悪いことは償ったから許される、ということもなくて。
行きすぎちゃダメなんだよな。
ホームレスが、羽吹くんにちゃんと自分の目でみろって冒頭言うけど、ほんと、何事もそうなのかもしれない。自分で見て、決めろ。ちゃんと見届けること。

ゾンビたちが痛みを避けないことにしたこと。
痛い、それが平気なわけじゃない、だけど、避けずに向き合えば道は拓けるかもしれない。
人生は死にたくなるくらいしんどいこともあるけど、生きてるだけでラッキー。
ゾンビーズたちのあの時間は、言わば、ラッキータイムじゃないですか。本来だったらあり得る訳がなかった時間。かえでくんとか特に。
そうして過ごす、物語だから成立する幸福な時間に彼らが何をするのか。

 

生きてるから、舞台が観れるんだな。そしたら、たしかに、生きてるだけでラッキー。

 

間違えても生きろ、とは優しくないメッセージだけど、でも、失ってしまった人々と含めて、手を伸ばし続ける格好良さも含めて、生きろって熱量のある舞台だった。
なんか、私がダンスってパフォーマンスかっけーって思う理由っていつもそこに行き着くんだけど、言葉じゃ追いつかないような熱量を表現するのがダンスだって、ずっと観てるだけだけど思ってる。体の底から湧き上がるのをめちゃくちゃな熱量に変換して、放出していく。
だから、最後のダンス、嬉しかったな。そんで、前を向き続ける羽吹くんが格好良かったなあ。
驚くほど直球なあの台詞に、出会えて良かった。

 

 

八王子ゾンビーズ

信じられるものは、たぶん人生でそう多くはないのだと思う。

八王子ゾンビーズを観てきました。

 


私は元々、たぶん応援上映というものに対して腰が重く(と、最近気付いた)応援上演パートがあります!と聞いた時におお、まじか、とちょっと及び腰になった。
初めてだし好きな人が主演やってるいい機会に見てみるのもいいのではって気持ちといやいやしかしって気持ちがせめぎ合い、ついでに八月の慌ただしさにやられて、ライビュすら、観るかどうか迷っていた。そんな、八王子ゾンビーズを観に行った。


ひとつには、フォロワーさんが初めて観るお芝居でこの舞台を選んで良かった、と言ってたからだ。


お芝居が好きだ。
好きなものはたくさんあるし、人生の全てにおいてお芝居を優先するわけでもないし、お芝居の代わりに他のものをとることもある。
だけど、お芝居が好きだ。
お芝居が好きなところが、自分の一等好きな部分だ。
だから、自分が観た観ていないに関わらず、なんなら、好き嫌いに関わらず、お芝居が愛されているのが嬉しい。
そして、フォロワーさんが楽しそうにしているのを見るのが好きだ(まあだからフォローしてるわけですし)
そんなふくふくのツイートを見て、なら、と迷いに迷い、一度は近所の映画館はチケット全て完売という事態に見舞われながらも、当日起きて諦められず、ギリギリ行ける距離の映画館で残席わずか、の表示を見た瞬間にチケットを取っていた。


見終わって思う。観れて良かった。


ダンスの夢を諦めた羽吹は自己啓発のつもりで新しい自分に出逢おうとダンスを捨て、寺に1ヶ月の体験修行に出る。そこで、ゾンビたちが痛めつけられるところ、そのゾンビたちが成仏したいということ、その為には満月の夜にダンスを月に捧げる必要があるということを知る。


で、羽吹くんがダンスをゾンビに教え始めるわけですよ、悪ふざけするゾンビにちゃんとやれよ!って怒りつつ。夜毎、ちょっとゾンビのことを好きになりつつ。
すげー、それが、楽しそうなの。
わちゃわちゃってしまくって台詞拾いにくかったり(アドリブだから、で役者間で止まっちゃってたのかも)うお、そのネタはネタとしてやるにはどうすっかね、ってのがあったり。全くもやっとしなかったか、と聞かれると、難しい。
のだけど、ゾンビーズが互いに楽しそうに笑うのを見るのは、そしてそうして一度は捨てたダンスを楽しそうに振り付け考えながらやる羽吹くんを見るのは、最高だった。


八王子ゾンビーズ、は彼らの生前のチームの名前だ。どうしようもないロクデナシで、人を傷付け、事故とはいえ、人の死に関わった彼らが、もう一度、誰かを笑顔にしたい真っ当に生きようと集まったチームの。
彼らはたぶん互いに互いを引っ張りながら、悪いことすんなよって見張りあいながら、ふらつきそうになる度、支え合いながら、生きてきたんだろうな、そんなことを、ダンスの練習中のシーンで思った。
正しく生きたいのは、一緒にいるその人たちを、不幸にしたくないからで。
だから、ダンスの練習もする。そうして、自分の大切な人たちがもう終わらない苦しみから解放されるなら。そんで、楽しくなっていく。


それを、見ていた羽吹くんの気持ちを考える。


羽吹くんはセンスあるよ、って言われて夢にしがみついて、そうして続けてきたのに続けることが、才能だって言い聞かせてきたのに、生まれ持っての華だからさ、結局なんて言われて、気が付けば人の悪口だけずーっと言うような人になってて。きっと、ダンスなんてこれっぽっちも楽しくなくなって、あの寺にきたんだろうけど。
振りを昼間の雑用中に考える彼は楽しそうで、じゃあそれぞれの身体に合う振りにしよう、っていう姿は格好良くて幸せそうで。
それって、全部、十数年、辞めたら負けだって思ってたからだよなあ。

 


羽吹くんは、ゾンビーズについて知る度、なんでって聞きにいくじゃないですか。それってどういうことなんですかって聞くじゃないですか。
私は、あれ、出来ないなあと思いました。
出来ないし、出来ないくせに、そうしてくれたらいいのにって思った。そうじゃないんだよ、って答えてる仁さんに、これはそうだけどでもその話にはもう少し続きがあってって話すゾンビーズたちに、ああそうなら良かったって思った。
聞いて、話して、それで納得いくときも悪いときも、たぶん、どちらもそれがあるとないとじゃ違うんじゃないかな。


住職の正義も間違いじゃなくて、許せっていうこともある意味で間違いじゃないですか。
考えてたんですよ、許せって言えるかどうか、言われたらどうか。
私も実際、死んじまえって思うし、死んでそれで許されたって思うなよって思うし。ゾンビーズは、ゾンビーズだから、許してやれって思ったわけじゃん。


そんな中で、届けって願うゾンビーズたちのダンスを見ていた。


かえでくんの話も書きたいんだけど、なんか、その許す許さないとか、悪とか悪じゃないとかのことを考えちゃう。
住職が、俺は変わらないし変えないっていう、あれは、一つの答えだったよね。
そして、そういう意味でも、仁さんの最後の羽吹くんへの言葉はまた違った響きになるのかもしれない。
ツイートから、引っ張ってきてしまうけど、


私が舞台が好きなのは、同じ台詞や段取りをなぞっても人が変われば日が変われば全く変わるからで、その舞台はその瞬間その人その場でしかできないからで、そーいう意味で、羽吹くんはじめ、あの八王子ゾンビーズは、あの瞬間にしかなかった。あーーーもう、ほんと、まじでありがとうございました。

 


ってことを、終演後、思って、というか途中からずっと思ってた。ねえそうでしょ、って生きた人間だからでしょって。

分かんない、答えはでない、もしかしたら数日したら変わるかも、変わっていいと思うし。

 


ダンスってそういう意味でなかなかに最強な表現だね、言葉にしない強さってのはもしかしたらあるのかもしれない。言葉にするとすぐ誤解が生まれるし、同じ単語を使っても絶妙なニュアンスがズレたりするし。

もっとも、ダンスだって受取手によるんだろうけど。隣の芝現象なんだろうけど。

 

 

 

そんな、うまくいくかよってこともそこそこ起こるじゃないですか、八王子ゾンビーズ
台本の甘さといって仕舞えばそうなのかもしんないけど、そんなに信じられるものが多くないとも思うので、なんか、そういうことくらい信じたいとおもった。私は、羽吹くんのダンスを信じたい。十数年しがみついたもんが意味がないわけあるかよって言葉を信じたい。
懸命なあの羽吹くんをかっけーって思った自分の気持ちを信じたい。
その瞬間を、生きるしかない舞台は、受け取る方だって、その瞬間しかないのかも。


私は、お芝居の中でなら悲しいことより楽しいことを信じたい。八王子ゾンビーズのあのダンスでそんなことを考えた。

 


ところで、今日はひときわ、お月様が光って見えますよ。

 

退屈な日々にさようならを

お盆だった。
それは、死んだ人が会いに来たからじゃなくてそうじゃなくて、死んだ人と生きてる人の輪郭が曖昧になるようなそんな映画だったからかもしれない。


十三のシアターセブンは、こういう映画を観るのにとても幸せな会場だと思った。規模感とか、チケットを買う場所の雰囲気とか。
あと、なんか、それぞれ自分の周りの空気にぎゅっとされてる感じとか。


パンバスきっかけで今泉監督を知って、パンバスの台詞が私にとって大切なものが多すぎて、楽しくて嬉しくて、今泉監督特集があると聞いてやっほぅ!って叫びながら観に行った。サッドティーも観たいけど今回見れなかったからまた今度。
なんか、今泉監督の作品は映画館で観たいのだ。いや映画もお芝居も、すべからく、映画館や劇場で見られるように作ってるんだからどれもそこで観るのが一番に決まってるけど。だけど、私の中では特に。

そんな中始まった冒頭の映画の上映会のシーン。
色々相まってうおおおおってしていたんだけど、
清田がどこまで分かって友達想いだね、って言ったか分からないけど、たしかにカントクはすごくあの映画カントクのことを、気に入ってるんだろうな、とは思った。
そういうのがこいつの才能ダメにすんだよ、とはなんか、あーーーあーーーーそうねえ、ってなるし。ただ、あの空間でそれをああいう形で言ってしまうカントクはどんどん映画を撮る環境から締め出されてしまわないか、心配になって、そしてそんな心配、クソみたいだな、とも思う。でも、映画を撮るってことも人間関係だから、仕方ないのか。
ただ、いま思ったけど、清田は友達思いって言ったけど、そんなお綺麗な言葉で語られるのは嫌かもしれない。お綺麗な、と言うのも酷い話だけど。なんか、清田って、いまいちこう、信用できないんだ。
というか、わからないまま、死んじゃったので、清田。


退屈な日々にさようならを、は、分からないまま、がすごく、多いな。

退屈な日々だったのはどちらなんだろう。と思う。私が一番思うのはそれです。
音楽もすごく良くてさ、ああ久しぶりにあったその子が全然知らない顔して笑っててお前もっと汚く笑ってたじゃんって思うあの子は、それが嬉しかったのか寂しかったのか、次に思うのはそんなことです。

太郎にいちゃんがすごく好きでした。穏やかで鈍感で、鬱屈とした感情とか激情から遠そうで、だけど絶望してなくて、ただ希望に満ち溢れてるわけでもなく。そんな中でも、日々を大切にしてそうな太郎にいちゃんが大好きです。
あと、あの水風船でのキャッチボール。あの遊びをして育ったあの兄弟はすごくいいよね。あんな優しい遊びある?めっちゃしたい。
でもあれ、びしゃって割れちゃうとこの切なさもすごいね。もしかしたら、あれ見て、話そうって思ったかもしれない次郎ちゃんのこと。どうか分かんないけど。その前に写真が出てきちゃったから。
ご飯を美味しそうに撮るから今泉監督の作品は好きです。ご飯って大事だから。
ご飯を食べることを大事にしないってのがすごく苦手でそれって、どんな暴力描写よりグロい気がする。だから、ちゃんとご飯を食べてるとああ大丈夫だ、って思う。この人たちは勝手に絶望しないっていうか。
パンバスの姉妹のご飯もそうだけど、何品かあるってのがね、またいいんですよね。あとあそこアドリブで撮ったってのも最高って思ったし、あと、千代さんが実はすごく緊張してたっての、いいよなあって思う。

その太郎にいちゃんを見ていた千代さんのことを書く。
千代さんは、恋をしててだけどそれは可愛かったり柔らかかったり甘かったりするものに見えないかもしんないけど、恋だったんですよ。
太郎さんが、どうかなあ千代はって言ってて、おまえー!おま、おまえー!!!って叫んだわけですが。今泉映画に出てくる誠実だけどとんでもなく惨いこと言う男性たちよ!全くもう!なのに魅力的なのずるいよな!ほんとにもう!
車を見送る、あのシーンの美しさというか胸をきゅっとするあの感じ。あれが、恋以外のなんだというのか。
質問しながら、あのシーンだったらいいなあって思ってました、猫目さんが思い入れあったの。そしたら、ドンピシャな答えを頂いて、まるで映画を通して会話できたような幸せな気持ちになりました。嬉しかった。
ずっと、好きで切実に好きで、そんで一緒になんでもないように笑ってた千代さんが好きだ。綺麗な女の子と歩けて、なんて言ってしまう千代さんが愛おしくて仕方ない。そうだよね、嫉妬するよね。ほんとは、あの元カノだって呼びたくなくて、でも呼んだ方がいいんじゃないって言える千代さんがたくさんたくさん幸せになればいいと思う。
死んでしまえるような恋じゃなくても、一緒に穏やかに生きていけるような、物語みたいにドラマチックに見えなくても、私はその恋が堪らなく好きだった。千代さんと太郎さんたくさん幸せになってくれ。穏やかに笑ってしわしわのおばあちゃんおじいちゃんになるまで一緒にいて。


まともじゃダメか、って思うんですけど。
千代さんと太郎さんみたいに。なんか、こう、激情に狂ってしまえなくて普通に仕事できてしまう、まともに働いて、生活にちょっと苦しみつつもご飯食べて。いいじゃん、そうやって生きても。そうやって生きるのも、しんどいこともあるし、かっけーじゃん、とか。退屈な日々なのか、なのかも、でも特別な日々かも、とか。
なんか、私はそこそこに一生懸命ダサく生きている人が好きなのかもしれない。勝手に親近感がわいて。でもそれって案外難しいんだぜ、なあ、なんて、言っちゃうのかも。

昔、友人が、男じゃないからって理由で亡くなったことがあるんですが。それを、私は数年知らなくて、ある日、なんであいつが死んだのに普通に生きてんのって詰られたことがあって、いや、詰ったつもりはなかったんだろうけど。
だから、映画を観ながら勝手に、その時に戻って。お盆が死んだ人が帰ってくる季節で、そして退屈な日々にさようならを、がお盆に合う作品だとしたら、彼女が帰ってきたのかもしれない。映画と一緒に。そんなことを途中、次郎ちゃんの死について言い合う人たちを見て思った。

生きてるって思えていた方が幸せだったのか、それとも、死んだことを抱えていた方が幸せだったのか。

私は、知った直後知りたかったよなんで言わないんだよって思ったし、それでもじゃあ嘘つくなら最後まで隠し通せよって怒って、まんま、あの台詞の通りだった。
次郎ちゃんも、私の友人も、自分で生きていきたくなかったから死んじゃったんだろうか。いきたくなかった、というか、いけなくなったというか。
勝手すぎるよ、と思う。じゃあそのお前を好きなこっちはどーすんだよ、って思う。
勝手に、重ねてごめんなさいだけども。
次郎ちゃんがあの映像を撮って最後に寝てる彼女のもとに行ったのずるくて優しい。映像残したことも。本当に。本当に次郎ちゃんってば。
だからやっぱり、私は太郎さんが好きなんだけど、ふたりのあの可愛い女性が次郎ちゃん好きなの、分かるよ。
そして、あそこで綺麗な顔して笑った警官の女の子が、ああ言ってくれて、勝手に重ねてた私は嬉しかったよ。

退屈で、どうしようもなくて、特に盛り上がらなくて
それでいっかーって笑ってしまうショベルカーのシーンだった。なんだろうあのシーン。なんか、いっか、ってなるよね。

スタッフさんの死について話すシーンが好きです。それなら映画撮れないって思う太郎ちゃんも、遺族から義人が責められるから死ななきゃって思う次郎ちゃんも、そして、だけど撮るべきだ誰かの希望になったかもしれないのにって思うことも。
私は、観客なので、撮って欲しいと思ってしまう。
届かないかもしれないでしょ、でなくなった作品はきっといくらでもあるんだろうな。だけど、だから、届いた作品が愛おしいし、私は受け取りましたよ、って感想を書きたくなるのかもしれない。
ありがとうの表明と、これからもよろしくの表明として。

ウォークマンの中のヒーローが暴れまわった日の備忘録

どんな気持ちになるんだろうってはじまる直前まで思ってた。どんな気持ちなんだろう。誰かに怒られるんじゃないか、ファンじゃないくせに、とかファンのくせに、とか、兎にも角にも、そんなことを、ただただ考えてた。

お前はいつもそうかーい!
だけど、楽しんで!って言ってもらえて、選んだのに楽しめないの最低じゃん!って思って、テンション上げて日焼けしまくったら、ELLEGARDENのライブが本当に最高だった、という日記です。

たまたま、アニメのファン動画で出会ったバンドだった。歌詞がアニメにも、そして高校卒業直前だった自分にもどんぴしゃで、演奏してるのがELLEGARDENってバンドで、虹って曲だと念じるみたいにして覚えた。
そっから、どうやら姉や弟も好きだって知って家にあったCDを片っ端からウォークマンにいれた。浪人時代のお供だったウォークマンが時々流すたび、画面を見て、珍しく曲名を覚えたりして。

しかし、気が付けばELLEGARDENは活動を休止していた。しっかりと追いかけ出す前に。だけどそんなことにも構わず、私のウォークマンELLEGARDENを流し続ける。

だから私にとってELLEGARDENウォークマンの中のバンドだった。顔も見たことなかった。ただただ、彼等の音楽をずっと聞いていた。シャッフルで漫然と音楽を流すときも、彼等の音楽の時はボタンを押す指が止まった。
そんな、ウォークマンの中のヒーローが、実在した。

ワンオクのたかさんが、目を潤ませながらその瞬間で生き抜いちゃうみたいに声張り上げて暴れ回ってるのを見て、彼らのヒーローっぷりに思いを馳せた。
私の大好きなお芝居についての言葉で、たった一人のために作ったお芝居だからこそ多くの人に届くってのがあって、あの時のワンオクの演奏はまさしくそれだった。ただただ、ELLEGARDENに捧げられていた。あなたたちにどれだけ憧れて、もしかしたら嫉妬したり、励まされたり、そうやってここまで走り抜けて、奇跡のようなステージに立ったバンド少年たちの演奏だった。あああそこは、彼らの夢のステージだ、と問答無用で思った。
ワンオクも、高校時代、ぶすくれながら部活へ向かう車の中、かかっていたラジオで、中指立てるみたいに叫んでる歌だな、と出逢ったバンドだった。あー最高じゃん、歌ってくれよ、って思えてしゃーねえじゃあ部活行こ、と思わせてくれたバンドだった。そんなかっけーバンドが、子どもみたいな顔をして、私たちのヒーローに、ロックスターに歌い続けてくれ、って叫んでる。

それが、だんだん暮れていく空と相まって、出来すぎた映画みたいで、最早笑っちゃいそうになりながら、腕を振り上げていた。

座席が、スタンドの前の方だったので未だかつてないほど近くて、そしてアリーナも2階席、3階席も見渡せて、ああ愛じゃん!って叫んでた。みんな待ってたんだ、あの、すげえバンドのこと、そんなことをふくふくとした幸せの中、思っていた。

ら、もう、1曲目、1音目、ぶん殴られた。
何度も何度も、ウォークマンから流れてきた曲だった、音だった。まるで、アニメの中のヒーローみたいに、存在してるのにどこか幻みたいなヒーローが、目の前で、歌っていた。
そっからは、泣きっぱなしだった。だって、大好きな曲たちが次から次へとやってくるのだ。しかも、それを、とんでもなく幸せだって顔したヒーローが歌ってるのだ。
だいぶ前の失恋した時より、よっぽど泣いた。
ああ私は、好きなものや幸せの方が泣くんだなってしみじみ思った。

本当に、私はこの特別で奇跡みたいなライブに行っていいのかって思ってて、選んで良かったのか、とも思ってた。
やっぱり、それくらいの好きなら来んなよって言葉も聞いたし、じゃあ、私は胸張ってその人たちに好きって言えるかというか、いやそもそも好きって胸張るってなんだよ何曲曲名答えられるか選手権かよ曲名覚えんの苦手なんだよごめんなさいみたいなことを、ずっと、考えていたんだけど。

そんなん全部置いてくくらい、ずっと泣いててあーーーーーー私はこの曲たちが好きだーーーーーって思った。そして、細美さんがMCでたまたまラジオとかCDで聞いててようやく今日ここに来れた、ここにいる半数くらいの初めましての皆さん、俺たちがELLEGARDENです、以後お見知り置きを、って言ってくれて、あーそうか、私も来てよかったのか、好きなんです、すげえ詳しかったり何曲も歌えるわけでもないけどそれでもあなたたちは私の中でヒーローのバンドだったんです、って叫びたかった。

ヒーローがたくさんいる世の中すぎる、私にとって。ヒーローは、そのまま、好きな人たちってことなんですけど。私の毎日、八百万の神さまならぬ、八百万のヒーローに支えられてんだよ。

ツイートを見てくれる人たちには、ご存知の通り。私の行動模範は、好きなエンタメを作り出す人たちです。彼らが言う言葉や示す態度をかっけー、と思いながら、自分を振り返って軌道修正してる毎日です。
そうなると、とんでもない人たちに思えてヒーローでしかなくて、カッケーとこしか見えなくなる。情けなくてもそれ含めて、なんて言えてしまう。
それは、偶像崇拝なのではないか、と時々問いかける。誰かの神格化はとんでもなくその人と自分を突き放すもので、それは、なんか、相手の立場を考えた時にしたくないなあと思う。どんな表現でも目の前の人に届けようとしてるのに、受け取る私が勝手に高いところへと追いやるのは違うだろって。えてして、そうして勝手に高いところへと追いやってしまうとその後に残るのは勝手なガッカリ感だと思ってるからかもしれない。勝手にあげて、勝手に落とす。それだけは、したくなかった。つーか、そもそも、ファンの理想のその人でいることなんて、その人たちの仕事じゃないんだよ。彼らの仕事は最高のエンタメを作ることなんだよ。
今年の春に舞台を観て、ああ私は何してるんだろうと思った。感想を書くことや毎日必死に生きることが私にとっての返事だって言い聞かせてたけど、それがなんだよ、意味ねえよ一人相撲じゃんって思った。思って、思ったから、じゃあ人生が私の舞台です、死んだ瞬間拍手してもらえるような頑張ったねいい人生だったって言われる毎日にしたくて、しかし、それは、なんか、ちょっと違ってて、えーじゃあ、どうすんねん、みたいな。
2018年は、ともかく、たくさんあって上半期を終えたのだ。好きな人達が舞台を降りたり、劇団を辞めたり、いなくなったり、そうだ、好きな役者さんが亡くなって途方にも暮れた。そうなってくると、え、じゃあ、良かったって言われる人生ってなんだよ、なんて、自暴自棄になりたくもなるんだけど。だって、大切なものは増えていく一方なのに、手が二本しかないポンコツっぷりで、どんどん零れ落ちるんだもの。増えていく幸せ以上に。そんなのは、さすがに、神様の設計ミスでしょ。
とかさあ、思ってたんだけど、

いーや、もう、どうでもよくね、って思ったよ。
こんな話をしたのは、細美さんが今日だけロックスターでいていい?って言ってたからなんですよ。だって、ロックスターでしょ、ELLEGARDEN。私たちにとっても、私たちの好きなバンドにとっても。
物販の話題の時点で、あんまり彼らの思ってる彼等像と私たちの中の像は近くないのかもね、なんて言ってたけど、ほんとに、そうなのかもしれなかった。ひとりの人として、ヒーローたちは歌って、演奏してきてくれたのかもしれなかった。

その距離感で、幸せだっておもって、それは彼等の特別な能力なんてものじゃなくてもっとシンプルな何かだった。
そして、私はそれが好きだった。ウォークマンの中で暴れ回ってた彼等の音楽はその結晶だったんだと思う。

とんでもなく幸せでずっと泣いてて、あーこの曲もその曲も好きだって思って
それをあの人たちが何より嬉しそうに演奏してくれてることが嬉しくて、
もう、なら、その心を信じろよ。
お前は何べん言うんだって言われそうだけど、書きながらも思ってるけど、違うんだよ、私はなんべんだってヒーローに殴られたいんだよ。助けられる町の人じゃなかった、私は。倒されるの待ちの怪人だった。そうして、退治されてまじかよ、と思いながら私は少しヒーローに近付きたくて少しでも良い人になりたくて、彼らの真似をしてるのだ。
そんなことを信じてしまうくらい、ウォークマンの中のヒーローが実在する衝撃はすさまじかった。
それを幸せだと笑ってくれる姿を見れたことが、嬉しかった。


今日が最高って思っててもきっとそれは更新されていくから、と言ってくれたことに、明日もじゃあ笑って過ごそうと思った。


積み重ねていった思い出が音を立てて崩れ落ちようが、今日を記憶に変えていけるなら。
かっけーひとたちが、この景色を見れて良かったって笑ってくれるなら私はこれからもたくさん頑張って好きな場所に行こうと思った。
そして、それはできたら、いつか、身近な誰かのヒーローになれる私に繋がってる道ならいいと思ったのだ。だって、私のヒーローが私たちの姿を見てあんな幸せそうな顔をしたんだから。いつか、そんな奇跡だって起きるかもしれないじゃないか。

カメラを止めるな!

馬鹿馬鹿しいほどに笑って、笑って笑って、ほんの少しじんわりした。
夏休みに、親や祖父母に連れて行ってもらった映画でやったみたいに「楽しかったねえ」とにこにこ、映画館を出たような、そんな気持ちで
私は友人と楽しかったねえと笑いながら外に出た。


カメラを止めるな!はたぶん、情報を入れて観てしまうとその魅力を本当には味わえないと思うので、まだ観てない人はこちらでお引き返しください。ネタバレ?おーけーおーけーって普段言う私が!絶対にネタバレを見ずに観てくれ!!!!と叫んでるので、どうか!どうか!!!!!!

 

 

 

 

 


安い早い、出来はそこそこな映画監督が任された無茶苦茶な生放送ゾンビドラマ(何故生放送なのにゾンビという題材を選んでしまったのか
集まったキャストは我儘だったりアル中だったりクセが強いどころかクセしかない。
だけど監督は、仕事の為、家族のため、メガホンを握るのだ。

起きる笑いについての解説は、野暮なのでしない。つーかできない。
だけど、あちこちにある笑いの要素をそれはもう丁寧に余すところなく、徹底的に拾ってはぶつけてくる。
私は、久しぶりに映画館内の空気があんなに一体になるのを観た。しかも、いつも贔屓にしてる程よいキャパの映画館ではなく、そこそこに大きい映画館の大きなスクリーンで。あれは、もう、一種の奇跡だった。みんなが楽しそうにゲラゲラ笑ってる。映画は、いや、映画も、一緒に観るお客さんで大きく表情を変えるんだ、と私は心臓がドキドキした。奇跡みたいだった。

この映画へのいろんな人の愛は、観る前から伝わっていた。たった2館で始まった映画は、前代未聞の広がりを見せた。
きっと、そのニュースに色んなものづくりに関わる人も、そしてそれを楽しみに待つ人も、心が震えていた。
良いものを作れば、それは奇跡を起こす。なんども、物語の中で描かれて、みんなが信じたくて、でも、折れそうになることが現実になった。それが嬉しくて、かつ、作中の彼らにリンクして、きっと、みんな、この映画について口にしたくなるんだ。
有名な役者さんや原作、あるいはスポンサーや資金で左右される宣伝とかじゃなくて、有名アーティストのタイアップじゃなくて、ただただ作品で、広がっていく。映画の規模じゃない。面白いか面白くないか、そして、それを必死に伝え続けられるか。それだけ。

映画はもう終わったとか、日本の映画はクソだとかそういう勝手に諦めてんじゃねーよバーーーーカ!って叫びたくなるようなことに中指を立ててくれてるような気がして、私はただひたすら、スカッとしていた。


監督が、次第に熱を帯びて撮影していく。最初は我儘だったキャストが集中していく。ギリギリで、撮影は絶妙な飛行で、進んでいく。
ヒロイン相手役の、それっぽいこと言ってるだけの俳優さんがもうなんか、必死でって言うシーンがあって。そこが、まず、すげえ嬉しくて。
映画も、演劇も、そうだよなって、なんかもう、なりふり構わずなんだよなあって。
だけど、娘さんの良いから本物をくれよ!と、叫ぶだけじゃうまくいかなくて、あーそうっすよね、分かりましたって納得いかなくても笑わないといけないこともあって
私みたいな受取手が察せないくらい、或いは逆に察してしまうような、仕事として飲み込む瞬間もあって。
だけど、それをぜーーーーんぶ飲み込んで、カメラを止めずに走り抜けるのだ。

 


俺の作品なんだよ!って叫んだ監督の言葉を昨日から何回も何回も、思い出しては泣いてる。それくらい、愛されて意地はって諦めて、だけど手放されず、私の好きな作品は生まれてきたんだって泣いてる。
監督だって、スタッフだってキャストだって、そしてきっと、客だって。俺の作品なんだよ!!って叫んでるのかもしれなかった。


すぐ愛がどうの言っちゃうけど、これは、間違いなく愛だった。嬉しかった。


もちろん、日本には、世界にはまだまだたくさん面白い作品がある。それを、もっかい思って、私はわくわくしてる。わくわくしてていーんっすよね、監督、と私は心の中でつぶやいてる。だって今日も、どこかでカメラは回り続けてるんだから。

お守りにしてきたチケットのことを思いながら、頭に浮かんだことなどを書いた


公演中止という単語に、なんだか妙に縁がある。いらんわそんなもんって感じだけど。
度々、観に行くものや知り合いの芝居が中止になったり、そういうことがあって去年急遽身内の不幸で舞台が観に行けなくなった時はもしかして私はどこかでお芝居の神様を怒らせていて呪われてるんじゃないかと不安になったりした。お祓いにいくの、本気で考えたもんな。


そんな私は、昨日の夜TLに流れてきた公演中止を知らせるツイートを見て、固まった。
脚本が書き上がらなかったため、中止。
(上演延期、上演時期未定)


まじかーと思って、まじかーと思ったまま、1日が過ぎちゃったので、文を書く。

 


本当に申し訳ない、該当の劇団さんのファンなわけでも、更には観に行く予定でもなかった人間が勝手に言葉を使うことへの無遠慮さというか、
お前無関係だろってツッコミは私も100回くらい自分にした。したのに書いてる。
ご容赦いただきたい。

 


まず、感情的に言うと、それを楽しみにしてた時間は絶対存在して
それが急になくなるあのぽっかりとした感情はなったことがある人間にしか分からないと思うのだ。
ずっと、支えに思ってた明日が、急になくなるんだ。あのどこにも思いのやり場がない感覚は今でも時々思い出す。
もちろん、作ってきた人の「納得がいかないまま世に出す苦しみ」を私は知らない。
だから、そうしたことで救われた気持ちについては想像でしか知れない。
し、時々ある「あーこの人このお芝居に納得出来てないのかなあ」って感じるあの瞬間の居心地の悪さや、やりきれない表情をしてる役者しん、あるいはスタッフさんは、覚えがあるようにも思う。
だから、ここは、たぶん、互いに想像するしかできない。

 


あの、どうにも、伝えきる方法が浮かばないんだけど。
あなたの、お芝居でなんとか朝を迎えることがあるんです。夜、どうしようもない気持ちを乗り切る時思い出すチケットがあるんです。
観に行くまで財布を開くたびに見れたら毎日がちょっと好きになれるんじゃないかって思って、財布にお守りみたいに祈りながらチケットいれることがあるんだよ。
そしてこれは、私の感傷的性格のせいとかだけじゃないと思うんだ。
だって、私は、同じように公演までの日を過ごす人たちを知ってる。
想像もつかないかもしれない。
伝えても、オーバーだなあって笑われるかもしれない。
だけど、どうか、信じてほしいんだけど、それを希望にしている人がいるんですよ。
たぶん、産み出されるものは全部そうなんじゃないか。これは願望だけど。
だから、私は全ての舞台の誕生が幸せなものであれって願ってる。

 


・・・うーん、そう考えると、納得のいかないまま愛せないかもしれないという形で生み出さないということも、ある意味では愛なのか、
愛なのかもしれない。
だけど、そうやって思ってた人がいる事実を、頼むから想像してくれ、と思う。
想像したんだろうけど。きっと。公演中止のリスクを軽く決めるはずがないんだろうけど。


いやでも、どうしても。
分かんなかった。分かんなかったから、文にして整理しようとした。
でも、分かんないや。
無関係なのにめっちゃ凹んでしまって申し訳ない。
だけど、私は、どうか、安全上の問題とかそういうどうしようもない理由以外で、どうしようもないって言葉は不適切だな、きっと、今回のことだってどうしようもない、だったんだろうし、命が関わる理由以外で急に生まれなくなるお芝居を見なくて済めばいいなあと思う。
いやでも、私はもう少しその辺への耐性をつけるべきではありますね。反省。

 

「ずっと好きでいる自信も好きでいてもらう自信もない」

「ずっと好きでいる自信も、好きでいてもらえる自信もない」パンバスで、大好きな台詞だ。
2回目を観て改めて思った。たぶん、私はこの台詞に出逢ったからこの映画が大好きなのだ。


もちろん、他にも好きな台詞はたくさんあるのだけど。

 

 


私には、ご存知の通り(?)好きなものや好きな人がたくさん在る。だけど、その全部に自信がない。
自信、というと語弊があるかもしれない。パンバスに則るなら、自信、なんだけど。
明日の自分がどんな奴か、なんて一切分からない、そんな風にも、思ってる。
だから、何かのファンだ、と名乗るのが怖い。そうして、一度でも名乗って「おまえはあの時ファンだって言ったくせに」と後ろ指をさされそうな気がするのかも。
或いは、好きだったとして、「それは好きじゃない」と言われるのも面倒だと思ってる。小学生の頃、となりのクラスの先生が転任しちゃうと聞いて、泣いたことがある。となりのクラスだったけど、穏やかで優しいその先生は友人を訪ねた他クラスの私にも優しくて、それがとんでもなく嬉しくて大好きだったのだ。
でも、泣いた時、友人は、「私より好きじゃないんだから泣かないで」と怒った。いやもう、今思えば小学生の可愛い独占欲というか嫉妬心なんだけど。そうだよね、先生が取られちゃうような気がしたんだよね、と思うんだけど、なんか、その時はああそうか、自分より好きな人がいるのに、それを好きだっていうのは怒られるのか、って思ったことがあって。
もしかしたら、その時の気持ちがなんとなく残ってて、それがいつか好きじゃなくなる日のことへの不安と相まって、気になるのかもしれない。


まあ、そういうことを、時々考えるんですよ。

 


ところが、お芝居の好きだって話をする為だけのツイッターのアカウントを作ってこうしてブログなんかを書くようになったりすると、「そうして何かを好きだという私」をいいね、と言ってくれる方が、ちょっとずつ、現れたりして。これは、中々に、私の中では革新的なことだった。し、有難くて時々、取り出しては眺める宝物みたいな事実だ。


だから、尚更、私は自分の好きに誠実でいたい、と思う。嘘をついて、好きだということも、或いは嫌いだということもやめたい。無理に、好きだなんて、絶対に言いたくない。

 

 


ところで、私はこの夏、ずっと、本公演を出逢ってからずっと、それこそ、仕事をクビになった次の日も観ていた劇団のお芝居を、観に行かなかった。観に行けなかった。


いやもう、行かなかった、なのか、行けなかった、なのか、その結論が、いまだに出ないことが、一つ、私がこんな支離滅裂なブログを書いてる理由なんです。どうなんだろうな、ネット社会。こうして、文を書くことも、誰かに見てもらうことも容易になっちゃって、どうしたって、書いてしまうよね。手帳に書けって思うじゃないですか、思いますよ。でも、たぶん、手帳には書かないんだよ。


理由の全部は書かないけど、一つは限界が来たことだった。身内の不幸があった時を除けば、ほぼほぼ毎月、東京に芝居を見に行っていった。それが、今年に入ってから、色んな意味でガタがきてるな、と薄々チラつき出して、それが、よりにもよってこのタイミングで来てしまった。
でも、なんか、そんなん理由じゃねえじゃん、とも思うのだ。でも、遠いよ、東京。

 


私が何かを好き、じゃなくなる時は、きっと、パンバスで言うところの、「お付き合いした時」なんだと思う。片思いの頃は、ただただ楽しくてあれもこれもきらきらしてて、でも、だんだんそれが形を変えていく。知ったから。
それは何も、恋愛や、人に対してだけじゃないと思うのだ。
それは、本当のところを知った、とかだけじゃなくて。


ちょっと前に、ある呟きを見て、それを見た時、ああこの人にとって作ったお芝居は大切じゃなかったのかな、後悔があったのかな、と思ったことがあった。なんか、それが、すげえ悔しくて。いや、そんなん、観てても分かったっつーの畜生って思って、いやでもあんたもその作品の一部でしょって暴れまわりたくなったことがあった。
あ、もちろん、当たり前ですが、私がずっと追っかけてたその、本公演を観に行けなかった劇団さんではないです。彼らが、そんなお芝居、作るわけないと思うし、そんなん、絶対、嫌だもの。もしそうなら、こんな文、たぶん、落ち着いて書いてないわ。今落ち着いてるかどうかはさておきとしてね。


ともあれ、そんなことがあって、矛盾してるけど、もし、そういうので、このまま、例えば、嫌いになってしまったら、たぶん、身を切るよりしんどいな、とびびってしまったのだ。
私にとって、お芝居への好き、は好きの中でもそこそこにきっと特別で、特に今好きなひとたちのお芝居は、あまりに、今に地続きすぎるので。それを嫌いになっちゃうのは、いや、やっぱりしんどいんですよ。逃げを打ちたくもなるんだよ。
ただ、それは杞憂だったんじゃないかなって公演終わる最後の数日、思ってたんだけど。いや、全くの杞憂だよ。もし、そんな人たちなら、お前、好きにならなかったじゃん、と自分に若干、がっかりもするんだけど。


むしろ、私が好きな人たちはきっと、自分が出てる作品を愛して愛して愛して、そこにのっけてくれる人たちなんだよな、と、気付いたんだけど。それを、気付けたのは、まあ、本当に最高なんだけど。

 


たもつが、ふみの絵を見る、あのシーン。なんだろう。とびきり、愛おしいとも、そうじゃないんだけども、ともごつきたくなる。
訥々とした、あの、空気に触れてる間、私はたぶん、息を止めていた。


絵を完結させること、完結させた絵を美しいということ、そしてそれを寂しいね、とたもつが言ったこと。

 


なんか、私は、あのシーンで、じゃあ好きじゃん大事じゃんって思う。それがお付き合いになるか、とか愛子より、とかはさておき。
いやつーか、別に愛子より、とか必要ないじゃん。一回そこに愛情があることにびっくりして抱きしめる事実では?

 

 


すげえ、寂しいなあ、と思ったんですよ。心臓が、観れなかったってのに、ぎしぎしなったんですよ。
それは申し訳ないことに、作品に、ではなくて、ただ、あの人たちが、あの人が作ったお芝居を、なんだけど、だけど、ああやっぱり、観たかったなあと思ったんですよ。
私は、いま、そのことに安心してるのだ。
あー私、まだ、好きじゃんって思ってるのだ。


観てないものをとやかく言う権利もないし、やっぱりお芝居とか、そういうの、なんか、明け透けな言い方をすれば、お金を落としてこそ、とか
それは置いとくとしても、行かなかったくせに行きたかったと騒ぐことの浅はかさとかは、もう、重々、承知してるんだけど、
いたその人には伝わってると思うって登坂さんもUMPの時に言ってたけど、ちゃんと向き合わないと分からないことってあるしさ。
でも、なのでこれは、完全に私による私のための、私の好きという証明で、逆に誰かに証明しろって言われたらすいませんって思うし、後ろ指さされても石投げられても、もうそれは、そうですよねって思う。


けど、やっぱり、私は私に、好きじゃんか、お前って言ってやりたいのだ。

 

 


こんな文、じゃあ、ブログに書くなって言われそうだけど「誰かが読んでくれるかもしれない文」しか書けないのだ。ごめんな。
パンバスのこと考えてたら、ようやく、言葉になるような気がした。
大泉さんがちょうど忙しくなりだした頃に連載してたコラムで書いた好きなもの嫌いなものの文がすごくすごく好きで、なんか、そういうの書けばちょっとは整理つくかなって思ったってのもある。ついた。

 


好きだ、私は、今も、たぶん、とうぶん先、これからも。
そして例えばもしも、そうじゃなくなっても、今この好きだって気持ちがあったことは消えやしないのだ。出逢って大好きなことが歩かせてくれた道が続いてきたわけなんだから。

 

だから、これからも、肩肘はらず、別に誰かの為じゃなく、私がそう思うから、好きでいてもいいだろうか。


なんだか、私はそんなことに、とんでもなくほっとしているのだ。
大好きだー!!!!!!