えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

まうしずむ

観終わって私の顔は、引き攣っていたかもしれない。後半、もうこの物語が悲劇にしかならないことは分かっていた。いやそもそも、始まりだって悲劇ではあったのでそれは「ずっと分かっていた」ことではあったけど、どこかに救いはないか、明るい何かはないかと観ながら探していて、でも物語が進みながら「いやどこにもないのか」と思った。

 

 


なかった、もうそれは、壊滅的に。あらすじを読んだ時から分かっていたけれどそれでも、と思った希望を一つ一つ丁寧に潰していく、いや燃やしていく、そんなお芝居だったようにも思う。
もちろんハッピーエンド以外は認めない、というハッピーエンド至上主義ではないし、なんなら悲劇は悲劇で好きなつもりだ。と思いつつこうして感想を打ちながら私はもしかしたら悲劇との付き合い方は下手なのかもしれない、と思い至った。そうかも。あんまり悲劇自体の数も見ているとは言えない気もしてきた。

 

 

 

このまうしずむというお芝居はあらすじを語るのが難しい。それは何構造にも重なった綿密なストーリーであることもそうだし、小説なとで行われる叙述トリックのような仕掛けもされているため、言葉だけで話していくと「???」と混乱するのだ。

 

 


ただ。
なんとなく「ダンス公演で良かった」と思った。
不思議だ。なんか、悲しかったのに、ああやだなと思うのになのに何故か「良いものを見た」が残っていた。
私は良い話を見たいのか、とその感慨に思ったし、そんな自分の価値観を越えて「良いもの」と思ったこの公演を不思議に思った。
個人的には熱量が爆発するように「良いもの!」となってるわけじゃなくて「なんだか今、大事なものに触った気がするのでちょっと考えたい」とずっと思っていた(なので見終わった後、ぼんやりしていた)

 

 

 

ところで同時にこの公演が「ダンス公演だから」こそ、私はこのお芝居をどう受け取るか迷っていた。

 

「死ぬまで踊り続ける」

 

それはこの物語の中で描かれたある意味で恐ろしい呪いのようなものである。
なのだけどこの座組で発せられる「死ぬまで踊り続ける」は決してただネガティブなだけのものじゃないようにも思った。
この「ココロ踊ル」企画は役者でありダンサー・振付師でもある松本稽古さんを中心としたプロデュース公演である。
またダンスがかなり大切な役割を果たすので揃えられた役者さんたちも皆、ダンスがめちゃくちゃにうまい。


演出でも見せるとはいえ意思に関係なく『踊り続ける』恐怖や異様さをあそこまで体現していたのは間違いなく役者陣のダンス力だとも思う。
そしてだからこそ、これは私の感傷も大いに含みはするんだけどその彼女たちが「死ぬまで踊り続ける」というのは願いなようにも思えたし、なんというか、明るい話なようにも思えた。

 


キャッチコピーに添えられた踊りとは、祈りだ、もそうだけど、『踊り』というものの尊さやエネルギー、ともかくそういった肯定したくなる魅力をそれこそ彼女たちに教えてもらってきたのだ。だからこそ「踊り続ける呪い」と結びつかなかった。
もちろんこれはメタ的な感想ではあるし、個人的な思い(例えば彼女、彼らの踊りに少なくない回数心を震わせ、励まされ、楽しんできた思い出たち)もあってのことだとも思う。
だけど観劇後、ずっと繰り返し考え続けてアンバランスだという思いよりもむしろ「あの人たちだからこそ」死ぬまで踊り続けることや異様で悲しく、苦しいあの表現も成立し得たんじゃないか、と今は思っている。

 

 

 

まうしずむはいわゆる因習もので、戦争ものだ。あらすじから察することができるくらい、そこそこに悲惨のタネがあちこちにある。
劇中何度も、人間はここまで残虐になれるのか、とも思った。

 


どの人も魅力的できちんと立体的な「ひと」だったのに、それでも何故か、「個人」として好きなキャラや魅力を語りたくなっていないのは、魅力的じゃないから、というよりもむしろ物語の中、ほとんどの登場人物たちが「自分」としてではなくてイエやムラやクニに自分を重ねて自分を打ち消そう打ち消そうとしていたからな気がしている。

 


もちろん、複数回観ればそこに打ち消しようもない人間臭さのようなものが見えて、個としての魅力に気付けるかもしれない。だけど、一回きりの私には無性にその「個を打ち消すかなしさ」のようなのっぺりとした、いい意味での後味の悪さが残ってあのうすら寂しい村のことをついつい考えてしまう。
時代が、地域が、という言葉であれをただ「異質」と呼ぶには、どこか知っているような恐ろしさもあって、だからなんとなく、私は彼ら、あの世界との距離感を測りかねているのかもしれなかった。

 


その中でも個人として印象に残ったシヅは、小指がなく、吃音持ちで、だから村からも距離を取られている。ネズミだけが家族であり友だちであり、そして、仕事である。その一つ一つのシーンであまりにも悲しく可哀想で愛おしくてぐっと奥歯を噛んでしまった。
若い女の子にネズミの世話なんて退屈だ」とサボったことを責めず、ただ寂しそうに呟いていたシヅ。
恨み言もなく、ただただ自分も同じような頃があったはずなのに、いや、あっても良かったのに決して得ることができず、「ネズミの世話」をやり続けていたらシヅ。
そのシヅが報われることなく、どころか誰も気にかけずに大きく傷ついた。そのことがたまらなく苦しいし悔しい。増やせと言ったから増やした、という言葉の、あの血の滲むような言葉は、「母」の言葉だったのかもなあ、と物語の時代背景を思いながら考える。銃を持たせて戦わせるのか?なんて呟いていたけどきっとそれだって、シヅは嫌だったんじゃないか。だって、そりゃ、そうでしょ。
親で、子どもで、友だち。そのネズミが誰かを殺すことを、死ぬかもしれない場所に送ることを、誰が望むだろう。

 

 


そう考えるとイエのため、ムラのため、クニのため。死ぬこと、殺すことだけじゃない、心を殺す、望まない人生を、歩む。そんなことを一体誰が大切な人に望むんだろう。
でもそれを「当たり前」にしなくちゃいけないこと。当たり前だとすること。それは、あんまりじゃないか。
そんな時代じゃなくてよかった、と思ったけど、きっと、時代のせいだけじゃなくて、今がそうじゃない、と私は言い切れるだろうか、とTwitterに感想を書いた後に思ってしまった。

 

 

 

何が正しいのか、正しくないのか。
誰が、悪かったのか。
どこでならやり直せたのか考えていたけど私にはやり直せるタイミングが見つからなかった。一人だけなら、助かるかもしれない。だけど、その「助かる」が本当の意味での「助かる」かは、分からない。
そんなのは、政子のことを思えばそうじゃないだろう、と思う。
絶妙に好きなキャラクターがいなかった。共感できなくて、いや、したくなくて、それが悲しいし、でも、いいな、と思った。

 

 

腑に落ちた気がする。私がまうしずむが好きなのはダンス×演劇だからこそだ。
それは善悪、正しい正しくない、そういう「台詞」や「言葉」で処理できない、一色じゃないものを「踊り」という色んなことが詰まりに詰まる表現に託していて、
だから「踊りは祈り」なのか。死ぬまで踊り続ける。それはあの物語で私には不幸なことに思えて、そこと稽古さんはじめ作り手が思う「一生踊りたい」と結びつけられなかったんだけど、そう思うとちょっと分かる気もする。

 

 


言葉が行き過ぎる、あるいは足りない間や時間を繋げられる。そう信じてる。その祈りか。
確かに、私はまうしずむでみんな「好きだ」とは思えなかった。だけど、圧倒的なダンスに、心が突き動かされた。容赦なく心が満たされて、それで、あの景色をずっと思い出してる。
三日三晩、薬湯を飲んで初夏は踊っていた。ストリップで人を楽しませる。そこにも、狂気はある。あるのだけど、あの村の狂気に比べたらそれはなんて、幸せで、美しい狂気なんだろう。
あの美しくてどこか切ない、ダンスを思い出す。村の最後のダンスも覚えてる。

 


戦争はいけない、とか、なんか、例えばそこに無理にメッセージを見出すことは違った気がする。言葉にはできないだけど確かにそこに大切なものがあった。

 

 

そういえば、私が今回阿墨の1番の罪は、あの村のことを最初「物語」として楽しんだことだとずっと思ってる。
結局、祖父のやったことに恐怖と嫌悪を覚えて初夏には、嘘をついた阿墨。だけど、それまでは「こんな物語が書きたい」と思っていた。
そこにある人々の苦しみを「面白い」(おぞましさは理解はしていたけど、それ含めて楽しんで)いたことの怖さや罪を思ってしまう。
だけどその度に思う。私だってこの物語を「楽しんで」いるんだよなあ。

 

 

人は、物語だから動かせる心があると思う。
現実でなら、身近なことで起きたことなら動かせない心も、物語なら動く。
ああ、でもそっか、そういうことか。
阿墨にとっても、最初、そうだったのか。だけど、初夏と出会って、それ以上にのめり込んで、彼はああなったのか。

 


そう、思いながら最後。弁護士事務所の「薬漬けの作家の言葉は信じられない」という会話。
あの意味を考えている。どこからが本当なのか、と疑う余地があるのか。それとも本当なのに「信じてもらえない」という罰なのか。
そう考えていること自体も「楽しんで」いるんだよなあと少し後ろ暗さを感じながら、それでも、考え続けている。だって、間違いなく、あの物語で私は心を躍らせてしまっているのだ。

繰り返し観ること

好きな映画を、何回観るだろうか

小説は?ラジオは?漫画は?芝居は?

 

 

私はわりと「同じものを何度も」の人間である。

それは元々がそう、というのもある。誦じられるくらい楽しむ、が好きなのもある。

私の日常生活の中に「覚えている」心強さはたくさんある。何かって拍子に言葉がよみがえる。

あああの時のあれだ、と思いながら頭の中でまた唱えられる心強さは、信じる強さだとも思う。

 

 

それが、ここ数日は特に「知らない」への億劫さが増していて、疲れている時に無理をするのも違うだろうとも思って好きなものばかりを観て、聴いている。

時々無性に心配にはなる。新しい好きが増えないことは色んなことへの不安にも繋がる。

だけど、安心して楽しむことができる好きが幸いにも多いので半分気付かないふりをして、繰り返しを楽しんでいた。

 

 

 

今日、2回目の作品を劇場で観た。

知っているからこそ拾えた台詞、引っかかって飲み込めなかった物語の味わい方をしみじみと映画館の中で噛み締めた。

なんだか無性に幸せだと思った。

同時にそこにあった心強さが、毎日の中で楽しいなと思っていることに他ならないんだな、と確信した。

好きはなくならない。

ポジティブ下手の横好き

好きなお茶屋さんがある。

パッケージも味もコンセプトも、その他諸々、大好きなお茶屋さんだ。

 

近頃では「ただ商品が好き」で無邪気に楽しむには躊躇うことがあるけれど、今のところはそういうこともなく、ただただひたすらに「このお店が好きだ」と思えるお店だ。

 

私はそこに時々行く。

会員登録しているのもあるし、その会員案内で「あ、ぼちぼち買い足そうかな」と思うこともあって定期的に行く。

 

 

 

今日はちょうどそんな周期で、お店に行った。

むしゃくしゃしていたのもあって何個か気になった商品を買った。

「お茶の香りを確認されますか?」とか、

「この買い方もお得ですよ」とか、

そういう細やかな声掛けに嬉しくなる。

個人的に、店員さんとのコミュニケーションはコンディションによる。お喋りが楽しい瞬間もあるけどそっとしてて欲しい、と思うこともあるし、仕事柄か「喋る仕事をしている人」を見ると体が変に身構えてしまう。

そんなわけで適度に放っておかれつつでも最初に声をかけられたことで「何かあったらまた声をかけてください」という言外のコミュニケーションを関係が生まれるのはありがたい。

ほっとして過ごせる。

 

 

そうして買いたかったものを買って、家に帰った。

 

ぶっちゃけ、だ。

ぶっちゃけ今日は最低な日だった。朝イチから結構しっかり腹が立ち、珍しく静かに怒ってることを外で示してしまい、そんな自分にオエーっとした。謝りはしたし、怒ってないと受け止められたけど、そういうことではない。

家に帰って仕事をしてても頭が変に疲れているし、相変わらず1日も長い。

 

 

いくつか仕事をこなしながら来週の予定を確認して、それでもモヤモヤしてる。

それに対して「もうなんとかしてえな!」の気持ちのまま、そのお店の入ってるテナントの問い合わせフォームにお礼の連絡をした。初めてじゃなかった、何かプラスになればいいな、と思う。せめて、何かプラスを生み出したという自信は自分のためにもなる。

 

 

数時間後、電話があった。テナントの担当者からだった。

連絡が嬉しかったこと、普段はクレームなどがやはり多いこと、担当してくれた方がとても喜んでくださったこと。

 

「当たり前のことではあるのですが」

その方はそう言った。丁寧な接客をすること。お客さんが喜ぶように考え、接すること。仕事だから。それはまあ、その通りだ。

当たり前、仕事だから、対価を受け取ってるから。

だけど、思う。

当たり前ではない。誰かが働いていること。

お金を払ったから、「客」だからで成立しているわけじゃない。そこにある私に向けられた好意こそ「当たり前」として受け取ってはいけない、と思う。

それは優しさでも正しさでもなくて「当たり前」と扱われた時になぜかぞんざいに扱われたように感じて、傷付いたことがあるからだ。

感謝すればいい、というわけでもない。ないんだけど、でもせめて、感謝くらいはしたい。

だってそれこそ、当たり前なんだから。

 

 

 

 

喋ってる途中、泣きそうになって、こちらこそ、とお礼を言って切った。

こちらこそだった。あまりにも。でも、やっぱり、こんなのがいいな。

時計の針

1日が長い。

4時に起きるつもりが6時に目が覚めた。ただ「起きるつもり」はあくまで起きるだろうな、であって用事があったわけじゃないのでコートを着て、念の為にネッグウォーマーも着けて散歩に出かけた。

まだ冬ではないから6時だと明るい。

 

 

1日が長い。

仕事をフルでしていたら9:30には仕事をはじめて、仕事して仕事して、ジムに行き買い物をしてと、帰り着いてからもなんやかんや家事をすれば、ご飯の前に座るのが23時を越えたりする。

いくら炭水化物を減らし、脂質を減らししてもこんな時間に食べれば痩せるわけがないわなぁと思いながらなんとか楽しいを取り戻そうとラジオやドラマ、SNSを楽しんで就寝。

 

そんな頃と比べると驚くほど、1日が長い。今までの休みは一瞬で過ぎると愚痴っていたのに驚くほど長い。

やらない方がいいけどやりたいわがままを通した仕事をひっそりやってる時だけ、また時間がぐるぐる動く。

 

 

 

時間があるなら、やれなかったことをやったらいい。見切れていないドラマを観るでもいいし話題になってた映画を配信で観るでもいい。

普段いけないスーパーへの買い出しも、片付けも、なんなら模様替えも出来る。

だけどそのどれもやらずに、どころかルーティンのラジオも再生しきれずに、ただ長い1日を持て余してる。

 

このままじゃいけない、と時間を区切るために漫画喫茶に行って3時間過ごした。

普段なら漫画を読んだりフリードリンクを楽しむためにいくその空間はなんだか今の私には「3時間」を味わうためにあるような気がした。

もっとも、読んだ漫画はすこぶる面白かった。読めて良かった。美しくて熱量の高い漫画で心を動かすのが好きだ。

平日の人の少ない漫画喫茶なので遠慮なくぐすぐすと泣いて、私は3時間を味わい尽くした。

 

 

 

1日が長いので、イベントを入れるようにした。昨日からの反省でもあったし、たまたま今日が大好きなお店の間借り営業の日だったのもある。

実はひっそりと好きで、もう3年ばかしの付き合いだけど本当にひっそりとだったし第3形態目の今のお店には今日が初めていけたくらいのいっちょがみファンだ。

ただ平日の変な時間にふらりと現れたからか、少しだけ店員さんたちとお話できた。

そんな展開予想してなかったから野暮ったさに輪をかけた格好で行ったことを後悔しながら2.3話をした。

出してもらったコーヒーが美味しかったこと、ずっと好きでまたこうして味わえることが嬉しいこと。またあの時のカレーも食べたいこと。

 

嬉しそうな店員さんから来年、お店を出すことを聞いた。飛び上がるほど嬉しく(なんならもしかしたら飛び跳ねたかも)絶対に行きます、と力を込めて言った。嬉しそうに笑ってもらえて私も嬉しい。

初めて、その人たちに「わたし」として名乗ってばいばいした。

来年。

当たり前みたいに、私は来年の約束をした。

 

 

 

変わらず、1日は長い。だけど確実に進んでる。

 

ボールペンインクの有効性

手帳を本格的に書くようになったのは2020年以降な気がする。何があったかなんてわざわざ書く必要もないくらい明確で我ながら わかりやすくて呆れもする。でもそういえば、ブログを本格的に感想以外の、こういう自分の感情や考えを書くツールにしはじめたのも2020 年だった。
そう思うと、分かりやすすぎるきらいはあるものの、あの2020年が大きな節目になったのはたぶん間違いないだろう 。

 


もともと手帳は大好きだったし、学生時代から毎年書いてはいたけど、振り返って開く、自分にとって「血の通った手帳」になったのはあの年以降。
だけど、やっぱりそもそも手帳という存在自体が好きなんだろうな、と思うのは実家にも今暮らしている家にもちらほらそれ以前の手帳があることだ。

 


とはいえ、私の手帳はそんなに凝ってはいない。
性分もケチだから高価な手帳も使っていない。 数年前までは特定のメーカーのものを使っていたけど
それもやっぱり(これは偶然だけど)2020年からは手づくり手帳に移行した。
真っ白な手帳にカレンダーだけ貼り付けて、後半のページは真っ白。

 


私はそこにいろんなことを書き殴る。見に行った映画やお芝居のチケット、旅先での切符も貼る。
圧倒的に多いのは好きだと思った言葉や台詞たちだ。
ライブのMCを映像で観ながらメモしたこともあるし、ラジオで好きだった回を繰り返し書きながらメモしたこともある。
そういえばそうしているとパーソナリティによって息つぎの癖や話題の区切り方が違っていてすごく楽しい発見もあった。

 


それだけじゃない。
もやもやしたこと、嬉しかったこと、覚えていたいこと、 仕事で悩んでいること。そういうことをアウトプットし続ける。
文章として成立させることを意識することもあるし、図解して書くことも、プロットみたいにまとめることもある。

 


それを、今日何冊か読み返していた。
まさしく年輪みたいにぼわぼわになったページに刻まれていた… 書いた、というより書き殴ったその字たちは刻む、という表現のほうがしっくりくる… 文字たちは記憶よりも生々しくその時の感覚を教えてくれる。
それと同時に矛盾もするけど、どこか客観的な気持ちで、 ああわかるよ、とも思う。
分かる、覚えてる、その時そう感じていたこと・考えていたこと・ 心を動かしていたこと。

 


思えば、もう何万回目の気付きではあるけど、 私はそういう理由で「言語化」が好きで、夢中になっているんだな。

 

 


今日、「頭の中に残しておかずに、紙に書いてみてください」 と言われた。
言われてそういえば、最近は紙に書くことも減っていたな、と気付いた。
減っていたというか、書けなかった、が正確なところではあるけど。
でも、確かに、そのほうが良いなと思いだした。 だって私はそれが効くことを知っている。

 


なんならそれは、手帳に書くだけでもいいんだけど、 きっとそれだけだとまた私は忘れそうだから(とは思いつつ、習慣化させるためにもそれ用の手帳も買い足そうとも思っているけれど)こうしてブログも書いていこうと思う。

 


そういえば、 3月に誕生日のわがままで毎日ブログを書いていた頃は落ち込んでいたわりに元気だった気もするし。
そんなわけでなんてことない日記だ。だけど、 そういう文を今私は書きたい気がするのだ。

 

2023年に書き殴ったやつ。ジャンルバラバラで、楽しくなったから途中でどんどん色を変えていた

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2024年、映画の感想。うん、でもそうだね。

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カッティ 刃物と水道管

なんだか台詞の端々に「よく知っている」と感じる瞬間が多かった。ヴィジャイさんの作品はいつだってそうだ。遠く、インドの物語だけど、私はいつもそこに自分や自分の生活を見る。
それをうまく言葉にできないまま友人と2回目を見て、感想を語り合いながら友人の言葉にハッとした。

 


「カディルは違ったけど、お金で人の命を奪えるってそういうことなんだね」

 

 

 

それは「カディル」の話だったけど、やっぱり、「ああそうだよな」と思った。
カッティを観て感じた既視感、そしてだからこそ彼が、いや彼らが「解決」を目指す物語を愛おしいと思ったのかもしれなかった。

 

 

『カッティ 刃物と水道管』という一見ピンとこないタイトルは、見終わった後、これ以上ないタイトルのように感じた。
詐欺師で泥棒であり、脱獄した男・カディルが出会った自分と同じ顔をした男。実は社会活動家であるジーヴァが襲撃事件で殺されかけたところを助けた彼は、そのままその同じ顔をした男と入れ替わることで自由になろうとするが、そのジーヴァが関わる、戦っている状況を知り、変化し、彼自身がそのジーヴァの敵対する相手と戦うことになる。
それは、農村と多国籍企業との戦いに身を投じることだった。

 

 

本当に不思議だ。インドのおかれている状況の話であり、インドのある農村の物語。
そのはずが、なんだか自分の知っている世界の話のような気がした。農村の再開発。搾取や、村が立ちいかなくなること。その地で作られる農作物に食生活はじめ、様々な場面で支えられているはずなのに都会の人々も多国籍企業の人たちも無関心だ。
どころか、「そんなところを選んだのは自分が悪い」「知らない」「だったら出ていけばいい」と素知らぬ顔だ。
メディアを頼ろうとしても、そんなことに興味はないという。
もっとセンセーショナルで、あるいは悲劇的な、エモーショナルな「物語」にならなければ、「私たち」が興味を持つ理由にはならないと恥ずかしげもなく言い放つ。

 

 


カディルは、悪党だ。
ヴィジャイさんの作品をいくつか観たが中でも一番……言葉を選ばなければ、小物である。
カッティ劇中でもお金を前に、その背景を知ろうとせず飛びつこうとするし、そもそもが詐欺師で泥棒だ。
だけど、じゃあ、何故彼がそうなのか。
そんなことを物語の端々の描写に考える。そうしていると悪党だ、と思う感情以上にそうだった彼が、一線を越えなかったこと、知ったからとはいえ、また理由があったからとはいえ、あの選択を選んだことになんとも言えない気持ちになる。何よりそこにラヴィがいたことが、どれだけ大きかっただろうと少し、ほっとする。

 

 


例えば農村だったように、そしてきっといつかのカディルがそうだったように。誰かがいつか、誰かを見捨てた。そこは自分と同じ地続きにあるのに、関係ない、そいつが悪い、自己責任だ、面白くないと、観なかったことにした。
そのことを、考えてしまう。そうなって、そうなったからこそ、じゃあ、と誰かを見捨てることにした誰かを、どうして責められるんだろう。
こちらの声が届かない、と思うけど、最初に彼の声を無視したのは自分たちじゃなかったか。

 

 


そんなことを思いながら2回目、なんだかいろんなシーンで無性に泣けてしまった。
一心に村のために、ジーヴァの心を引き受けて戦うカディルの幸せを祈った。そしてあるシーン、そもそも、カディルにジーヴァの声が届いたからなんだ、と思っていよいよ泣いてしまった。じゃあ、カディルの声が(ジーヴァを演じるカディルの、じゃなくてカディル自身の声が)届くのはいつなんだ、と苦しくなった。

  

 

 

だけど、大丈夫。届く、と信じている。そう信じられる熱量と優しさのある映画だった。
一人二役のワクワク感、普遍的な物語や訴えかける熱量。この映画を語る上で挙げたい好きな点はたくさんある。だけどきっと、何より好きだったのは、そこなのだ。

 

 

誰かの声が届くこと、自分の声を受け止めてもらうこと。その心強さをこの映画は書ききったように思う。それは、その声が踏み躙られることの悍ましさや悲しさ、苦しさと表裏一体で。
そうして声を受け止めてもらえる、ということは帰れる、ということでもある。帰る場所がある。それは、立っているためにも必要だ。
だとしたら、きっと大丈夫。
そう思うことができるこの映画は力強く、優しい。そう思う。

おくりもの

どうにも、最近落ち込んでいる。

今回ばかりはちゃんと原因がはっきりしている。

仕事は決して調子がいいとも言えないし、プライベートでもいろいろありぎりぎりで保っていたつもりの色んなものがぽっきりとまた折れている気がする。

 

 

とはいえ、季節の影響も大きそうでこんなに寒暖差が大きく、気圧も上がったり下がったりでとんでもない。そりゃあまあ落ち込むだろ、とも思う。

だけどやっぱり「だから仕方ないよ」と言われたところで「諦める理由じゃなくて、この気持ちをどうにかしたいって言ってんの!」と地団駄を踏みたくなってしまう。

もうそっからは無気力。完全に何もしたくない。やりたい、楽しい、へのアクセスも億劫である。

気が付いたら、半日ぼーっと好きなYoutubeの配信を流しながら布団の上でぼんやりしてしまった。

 

例えば休みの日。

ちゃんと休んだほうがいいし、それは肉体的にもそうだし気持ち的にもそうだし、となると結構むつかしい。

気持ち的に回復することを優先すると体力の消耗を回復できなかったりするし

かといって、体力回復のためじっとしてたらなんだかもったいなかった気がする。

そう思うと、今日は終わった時点でよかったと思うのか、もったいないなと思うのか、どっちなんだろう。

 

なんとなく落ち込んでいる理由は分かっている。

はっきりしている原因の話だけじゃなくて削られてきたものが復活していないから、というのが一番な気がしている。

仕事でよく上司から「ちゃんと自分をほめないとだめだよ」と言われるが(私個人に、というだけじゃなく全体発信として)褒めるきっかけを探しすぎると虚しさを増してしまうので難しかったりするんだよな。

自分が頑張っていないとは思わないし、だけど、でも、褒める場所が見つからない。

 

なーんてことをいちいち考えていると、そりゃ元気なわけがないわけである。

 

 

そりゃそうだわ、と思いながら、昨日久しぶりに友だちに会った。

なんでもない流れでハグをして「あー学生時代はよくハグしてたな」なんて思った。

ハグは、人のストレスを半減する効果があるらしい。帰ってきてなんとなく虚しさが減っているような気がして、あの言説は本当なんだなぁと思った。

 

それから、不意打ちでおじおばから美味しいケーキが送られてきた。

美味しかったから是非と思って、というメッセージに、この間地元に帰ったときに買ってきたとっておきのコーヒーを挽こうなんて気持ちになった。

ごりごりとコーヒーが粉になるのを観ながら「ありがたいな」と思った。

別にどうこうしようと思っていたわけじゃないけど、自分に何かあったら、こういう心を動かしてくれた人の気持ちをほんの少し、損なうことがあったりするんだよな、と思った。

 

贈られたのはとてもおいしいリンゴのケーキだった。

ちょうど季節のものを食べたいなと思ってたからうれしい、と思いながらお礼の連絡を打つ。打ちながらおいしいものを食べたときに「食べさせたいな」と思ってくれたんだなぁということをちょっと嚙み締めた。

 

相変わらず元気はない。ないんだけど、落ち込み続けるつもりもない。

自分にできる範囲で自分の機嫌をとったり諦めてひたすら寝たり。そういう風にして、やっていく。

ご褒美みたいなとびきりの嬉しいがくることもあれば、カイロみたいにほこほこと嬉しくなることもあるだろうし。

 

なんでもない日記だ。だけど、いつかこれを読み返して元気になることもあると思う。

学生時代に書いた日記や文を、この間たまたま読んだ。

「同じようなことを悩んでるな」とか「これでもちょっと悩むのに酔ってもいそうだな」となんだかほほえましくなってしまった。

いずれにせよ、ちょっと元気が出た。なんだか安心したのだ。

覚えていない記憶が、大丈夫、と言ってくれたような気もした。

 

そんなわけで、このブログも500記事目らしい。早いな、とも思うし、意外にまだ書いてないな、とも思う。

これからも、文を書きたい。書いていたらこんななんでもない日記も「大丈夫」といつかの私の肩を叩いてくれるかもしれない。

何より書いた今、ちょっとだけすっきりもしているんだ。