えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

まる

妙に印象に残る予告だった。
綾野剛さんが好きなタイプの役を演じるっぽい。もちろんそれも観に行くきっかけの大きなポイントではあったけど、何よりあらすじとその印象的な予告に「ああなんだか、この映画は見たほうがいい気がするな」と思った。

 

 

私の仕事は比較的「成果」が分かりやすい。し、時間をかければ必ず成果が出るというわけでもないし、かといってやらなくても結果が残せる仕事でもない。
だから、思うような成果が出ていないと頭と体、心を搾り切るみたいに動かしたはずなのに「何もやってない」と思う。
さらには、私はこうして趣味で文を書くことが好きだ。文を書いたり、ラジオごっこと称して、何かを表現してる、というにはほんの少し甘い、そんな表現もどきを日々積み上げている。やりたくてやっているけれど、特に何かをリターンとして得る、という類のものでもないから時々「なにもない」と思うことがある。

 

 


なにもなくても、いいのに。
例えば仕事なので、もちろんそれは成果やいい成績をおさめたほうがいい。おさめたほうがいいけれど、たとえ、おさめられなかったとしても、いてもいい。まして、仕事が自分の人生の全てじゃないんだから、それで私の人生の何が決まるわけじゃないだろう。
趣味のことなんてもっとそうで、自分がやりたくてやる、がはっきりしているのだから、誰が喜ぼうが喜ばなかろうが、やりたければやる、でいいはずなのだ。
なにもなくて、いい。
だけど、どうしたって、本音を言えば、そう思えない。
承認欲求と言われてしまえばそうだろう。だけど、なんだか扱いにくいこの黒々としたものはそんな4文字に簡単におさまるようなものでもないような気がするのだ。

 

 

 

この「まる」という映画は美大を出たものの、アートで身を立てられず、かと言ってそれに対して足掻くこともできず、ただただ生きている沢田という男がなんの気なく描いた「まる」が世界中に求められることで、どんどん彼の人生が思いもよらぬことに巻き込まれていくことを描く。

予告でも分かるように本当に何故熱中されるのかわからない○とそれに熱中していく人たちの描写。つかみどころがあるようでない登場人物たちと、どこか「ファンタジー」というか、抽象的な作品のように感じる要素は多い。それこそ、アート的な映画である。
だけど、だというのに、むしろはっきりと生活や私たちの世界に紐付けられていて、それがデフォルメ化されているような、むしろはっきりと直接的に描かれているような、ともかくそんな絶妙なバランスの映画である。

 


私がこの映画に興味を持った理由。それは一つには熱狂される、ということに興味があるからかもしれない。
沢田を演じた堂本剛さんはKinKi Kidsでもあり、輝かしいステージに立ってきた人だ。
私自身が「推し」がいるから、というのもある。今まで何度も色んな人が熱狂され、求められる姿を見てきた。し、実際私が「求めた」こともある。
それは、全てをひっくるめて「不幸」と呼ぶつもりはない。ないのだけど、あの映画のなかで起こった出来事を私は知ってるような気がした。
過度な暴力的な好意だったり、それくらい、といわれのない誹謗中傷だったり。
そこに戸惑い、消耗する沢田を見ながら、なんとも言えない気持ち苦しくなる。
苦しかったのは、たぶん、それだけじゃなかった。
それでも横山の「じゃあ俺がさわだでもいいよね」という気持ちも、分かるような気がしたからだ。

 

 


横山は夜中、唸る。最初、画面の中のことなのに妙に怖いくらいの狂気すら感じる、唸り声。
だけどだんだんと悲しくなっていく。そこにある焦りだったり嫌悪だったり自分への情けなさだったり。
価値がない自分はいちゃいけない。働かない、価値がない自分。そんな自分への不安と、怒り。
それは、沢田と違うように見える。でも、あるシーン、そんなこともないよな、と思う。
沢田と横山は、違う人間だ。相性が合うとも表現されていない。だけど、そこにある感情はなんだか、すごく、近いような気がした。

 


少しつかみどころのない台詞たち。だけど、それで良かった。それが良かった。そこにそっと自分の日々の焦りや寂しさがもしかしたら勝手に重なったのかもしれない。
だから、ふたりのシーン、不思議な気持ちが込み上げて、泣くのを堪えてしまった。泣くよりも、堪えながらそこにある気持ちを噛み締めたいような、そんな気がしたのだ。

それから、沢田と同じコンビニで働くモーのことも、ずっと、考えている。彼や沢田が日々の中で重ねていく少しの消耗(いや、全く少しなんかでは、ないのだけど)を歩きながら考える。なんなんだよ、と過ぎる。その度に彼が笑顔でまあまあ、と声をかけてくる。

 

 

 

本当に不思議な映画だった。どこか覚えがある景色、感情、人々。
やってられないことがあまりに多い毎日の中で、でもどこかに彼らがいる。彼らの世界に繋がっている。
映画の中、何かがすっきりしたか、と言われると難しい。結局、そこにある激情や大切な心すら、勝手に「いい感じ」にされることをくそったれ、とも思う。だけど、でも、なんだか、大丈夫なんだ。なにも、変わってないのに。変わってなくても、確かになんとなく、そんな気がしている。

いのちの車窓から2

楽しみにしていた本で、だというのに読み始めたらゆっくり読み進めたくなってじっくりじっくり、惜しむようにページをめくった。

 

 

 

「いのちの車窓から2」

約7年半ぶりとなる星野源さんのエッセイは、私の中で不思議な存在の本になった。読み終わり、定期的に思い出す文もある。なのだけど、繰り返し繰り返し読むにはなんだかもったいなくて、不思議な距離感で、私はこの本と向き合っている。

 

 

 

恋のヒットをはじめ、大きく人生が変わりだしていく期間、その中での苦しさや嬉しさ、大切な人たちの話からコロナに入ってからの記憶。人生の変化。
7年半という時間がなんなら短く感じるような密度を綴る文章は、以前の源さんの文と比べても軽やかになったように感じる。

 


それこそ、繰り返し読んだ「よみがえる変態」とはまた違う肌感覚なのだ。それは、おそらく、「俺の話」を聴いてほしいと思うよりもただただ、そこにある自分の見た景色、心の中を映し出す文章たち。だから、そこに自分の心や思考が重なってまるで自身の心身を通って体験したような、そんな気がしてしまう。

 

 


実際、自分の心と重なるようなことも、たくさんあったのだ。
ふとこの本を思い出すとき。その多くは「なんで伝わらないんだろう」と思う時が多い。仕事をしながら、あるいは会社のひとと話をしながら、友だちに伝わらなかったと落ち込みながら、そしてその「落ち込むこと」をなんで、と苦笑されながら。

そういう時、私は「いのちの車窓から2」の中で出会った文を思い出す。

 

 


一度、飲み会帰り、同僚に言われたことがあった。アルコールで滑った口が日々の中で傷付いたこと、怒りを覚えたことをぺらぺらと喋ってしまった時だった。


「つくさんは、色々考えちゃうんでしょうね」


そうかなあ、と思う。もっと考えている人はいるし、やっぱりまだ考えは浅かったと自己嫌悪することも多い。なのに「考えちゃうんでしょうね」と言われ「考えすぎ」と指摘される。
あなたがもっと考えてくれたら、と詰りそうになって、それこそ、傲慢だと思って口を閉じた。

 


でも、確かに勝手に傷付いてるんだよな、と落ち込みそうになった時、「いのちの車窓から2」の文を思い出す。
こんな世の中で、ちゃんと怒ったり落ち込んだりするのは当たり前だといい、そのことを押さえつけるんじゃなく、「言葉の排泄」をすることを提案してくれる。
それを思い出しながら「やるじゃん」と落ち込み出した自分を源さんの言葉を借りながら褒める。褒めて、慰めて落ち着くのを待つ。

 

 

 

この本の中で、源さんは自分の喜怒哀楽を描く。喜怒哀楽を描きながらその熱量は適温で、その瞬間を切り取って、というよりかはそれをぎゅっと形をとり、ふれやすい温度へと変えていく。そんな感覚を受ける。
だからこそ、激情に揺さぶられはしないのだけど(逆に私は初期の源さんのエッセイは心がずぶずぶになり、結構な勢いで泣いてしまうことがあった)ただ、気が付けば心の錆びた部分をつるりとされる、そんな気がする。
だから、読んでいて気が付いたら静かに泣いていたりしたのだろう、と思う。
きっと源さん自身、その最中にあって文を綴っているというよりかは粗熱をとり、少し落ち着いた上で書いているからこそ、少し俯瞰のような、それでいて鮮明な描写があったのかもしれない。
削ぎ落とした文章と色んなひとが表現していたとおり、読んでいて心地のいい静けさがこの本にはあった。

 


そしてその静けさが優しかった。読みながら自身をその静かな空間に預けているとほっと安心できる。そんな気がした。

そうして思う。


ああ、この人は、人の優しさに気付けるひとだった。私が好きだと思い、この4年、何度も何度もその言葉で表現で「面白い」と「楽しい」を教えてくれたひとは、そんな人だった。

星野源は、とびきりに優しく、心のあたたかな人だと思う。それはしかも、ただ優しさをたくさん持っているからそうなのではない。それ以上に誰かのもつ優しさや向けられた好意をそっと受け止め大切に抱きしめることができる。
源さんの優しさ、強さは、そんなもののように思うのだ。


そしてその想いはこの本の中で友だちや恩人、そして家族に向けて綴られた文に触れてより強くなった。ああ、この人が好きだ、と改めて思ったし、こんな風に素敵なひとたちと一緒にいることを自分のことのように(勝手ながら)嬉しく感じた。

 

 


出入口だけは開けておこう。
それは数年前からなんとなく思ってる感覚である。自分が内向的な人間だからかもしれない。
ついつい気を抜くと内側にしか目がいかなくなる。新しいことを取り入れることが苦手で、誰かと積極的に関わるのも得意ではない。
だけど、そうも言ってられない。そう思ってる。特に社会に出てからはなるべく社交的にならねば、自分の感覚以外を遮断するのではなく、受け入れねば、と思った。

実際、そうしていると面白いもの、人にもたくさん出会う。
それを意識しすぎていることを「無理しなくて良いんじゃない」と友だちに言われてからはそうか、とほんの少し扉を閉じたつもりだけど、それでもいまだにたまに「開けなきゃ」と開きすぎて疲れたり、今度は閉じすぎて誰も自分の内側にいないことに気付いて愕然としたりする。
塩梅はなかなかうまくいかないが、ともかく、閉じ切る、ということだけはせずにいよう、とずっと思ってる。

 

 

思ってるけど、これが難しい。

 


源さんのこのエッセイへのエゴを削ってという言葉を聞いた時も思った。
俺が俺が、としてしまう。自我もエゴも、あまりにも身近で、そして、そうしているうちは自分の内側に自分しかいないのだ。

 

 

私は、そのことが寂しい。少なくない年月生きてきたはずで、大切なものも、恩ももらってきた愛情もいくらもあるのに、自分の内側、自分しかいないんじゃないか。

このエッセイに触れて、私はそのことに本当の意味で気付いた気がする。

この文の中、源さんの優しい眼差しが色んなところに向けられる。私たちはその削ぎ落とした文を通して、まるで源さんの視界を借りたような感覚で、世界を、源さんからの景色を見た。そんな気がしている。
その世界は、クソなことはたくさんあったけど、愛おしくて、生きていく価値があるような感じた。とても、美しい車窓だった。

 

 

そうか、と思っている。今もまだ、人は圧倒的にひとりだ、と言ってくれることにほっとして、そして同時に、それでも、誰かと手を繋ぐことはできるのだ、ということにとても嬉しくなってる。
この秋、「星の数ほどハッピーエンド」というただひたすら星野源さんが、その表現が好きだ、という話をするためだけの本を作った。その時、LIGHTHOUSEを、感想を書くために見返しながら思ったのだ。

好きな人が笑っていると、嬉しい。好きな人には幸せでいてほしい。それは当たり前で、身近な感覚だった。そのことを克明に意識した。
それは、自分の世界に他人がいる、ということだった。しかも、たぶん、開かれた状態で。

 

 

私の中、まだ「他人がいる」とまでは思い切れない。私はすぐに自分の扉を閉めてしまうしこうして感想を書いていてもすぐに自分の話が顔を出してしまう。だけど、源さんの目を通して見た車窓の景色を愛おしい、と思ったのは、それこそ、私もまた、その誰かが内側にいることで見れる景色を見たことがあったからじゃないか。
時々遊びにきてくれる色んな大切なひとたち、面白いもの。そういうものが心のうちにお邪魔しにきてくれた時の弾む感じ、美しさ、嬉しさ。そのことを、源さんの嬉しいという気持ち、愛おしさを綴る文に思い出した。

 

 

今回、初めての感覚だったのだけど、何度か源さんと目が合ったような、語りかけられたような、そんな気がした。

 

 

人は、もらった愛情で生きていける。結局ひとは、どこまでも一人だ。どれだけ幸せなことがあっても、すぐに出口のない空間へと追い詰められる。
だけど、いやむしろだからこそ、手を繋いだあたたかさの尊さを知るのだ。そのぬくもりがどれくらい、今日を繋いでいく力を持つか、実感している。それがあるから、歩いていける。
そしてこの大切な文たちも、ある意味で一人たつ私の手を握ってくれる、そんな存在のように思う。だから、きっと私はこの本を何度も繰り返し読み返すだろうと、確信しているんだ。

からくりサーカス

 

※根本的なネタバレが多々あります!※

 

 

なんだかずっと、からくりサーカスのことを考えている。43巻の長い長い物語だ。描かれたエピソードはたくさんある何重にも重なった物語だから、その全てを一度に思い出すことは出来ない。だけど、その節々で揺れた心が、気が付けば思考をからくりサーカスへと戻してしまう。

 


物語はカトウナルミが見るからにお金持ちな少年・才賀勝を助けるところから始まる。見捨てるか見捨てないか。その人生の中にある多くの選択肢の中から「助ける」を選んだことで奇妙な運命へと導かれていく。
また、その中であるるかんという人形を使う銀髪の美しい少女であり、勝を助けることを自分の人生の役目だと信じる、しろがねとも出会い、勝の、ナルミのしろがねの運命が大きく動き出す。
何故勝が狙われるのか、という謎は、やがて多くの人の怒りや悲しみ、思いを絡めて、途方もなく大きな物語へと発展する。そこで出会う、何人もの人にも物語があり、役割があり、願いがある。また、中には間違いを犯すこともある。そういうものが積み重なって積み重なって、その構造もまた、愛おしくて私はたまらないんだと思う。

 


人には役割がある。それはなんとなく生活していると自分の中に染み付いてくる感覚である。役割や「分相応」のようなものに気が付いたら操られて自分がどうしたい、を考える間もなく「こうした方がいいらしい」に支配されている。


そうじゃなくて、自分の好きなことをしていいんだよ、と言われてもそれが浮かばない。
そのことを考えるのもきつい。どっちかにしてくれ、と、その質問に鈍く痛む頭で思う。完全に自由を奪うのか、それともなんの役割も与えないか。でもそのどっちか、が無理なことくらい分かってるから、もう黙ってろよ。
役割に縛られたくない、という気持ちと「あなたの役割はこれだよ」と指し示してほしいという気持ちは、矛盾するけれど、両立する。
縛られたくはもちろん、ないはずだけど。だけど、人は「存在理由」を同時にどうしようもなく求めてしまう。
それが地位であることもあれば、愛情であることもある。愛情も愛されることもあれば、逆に愛してもいいのだ、と思えることであることもある。

 

カトウナルミの場合、その欲していた「存在意義」はなんだったのか。物語を通して強さと優しさの象徴でもあり、不器用ながら、誰もが見惚れるようなひとだった彼。
物語の全てを知った後、1話をもう一度観て、私は深くため息を吐いてしまった。
彼の願いは、欲した「存在意義」「役割」は1話からなんだったら、明確だったように思う。
誰かを助けること、笑っていて欲しいと願うこと。人の笑顔を求めるのはゾナハ病の症状があるから、だけで説明するには、からの心はあたたかすぎる。あたたかく優しく、柔らかい。

 

ナルミはある奇病にかかっている。
ゾナハ病と呼ばれるその病気は、人を笑わせないと神経麻痺を起こし、やがて死ぬほど苦しむことになる。そのため、ナルミは最初サーカスの客寄せのための着ぐるみに入って登場する。

 

ナルミは、ともかく人を笑わせる才能がないのだ。この病気に対して相性が悪すぎるのだけど、ともかくセンスがない。だから発作のたびに苦しむのだけど、ひょんなことから助けた勝は、そんなナルミの振る舞いに笑い、嬉しそうに笑顔を見せる。
そのおかげで、ナルミは息苦しさが止まる。その構図の美しさが私は好きだ。

俺のために笑え、という。

その行動は大いにズレていたりするんだけど、ナルミは笑わせようとしたわけじゃない行動で、誰かの柔らかな笑顔を引き出したりする。全編を通してそうだ。ナルミの姿はつい笑顔をこぼしてしまうような、それこそ副交感神経が作用してホッと安心するような、そんな気配に満ち満ちている。
彼は人を助ける。誰かのために、でとんでもなく力を尽くす。だけど、ナルミはずっと一本その理由がぶれないのだ。自分のために。最初からそうだった。ナルミは「ナルミのため」に勝を助けると決める。
そのことを誰よりもナルミは知っているし、それでいいとしている。
そうだ、だからきっと、私は彼が好きでたまらないのだ。

 

笑っていて欲しいと思うこと。誰かのために何かをしてあげたい、と思うこと。
それは時に暴力を生む。これは、からくりサーカスを観る前から度々私が考え込んでしまうことだ。
愛は素敵だ、誰かの笑顔を望むことも。だけど、それって自分の欲望と近くて、だからか、時々とんでもない暴力へと繋がってしまう。

 

からくりサーカスの大切なキーワードである「笑わせる」。
作品の中で、最初に笑わせるために取られたのは思い出すのも恐ろしいような殺戮だった。私は最初読んだ時、あまりにも残酷で何が起きたか分からず、思わずページを戻してしまった。そうして何度もコマを読み進め、細かいところに目を凝らし、気のせいでもなく、見間違いでも勘違いでもないことにぎゅっと心臓が軋んでしまって本を閉じた。
なんてことを。
酷い、という言葉も残酷という言葉も追いつかない。1人を笑わせるために、起こした悲劇。
それは笑いの感覚が違うとか、価値観が違うからとか、そういうことではなく、ただただ、ただ、その根底に怒りと憎しみがあるからだった。
この自分の……そう、たぶん、笑わせたい相手ではなく自分の恨みを晴らしたいという感情。いや、もしかしたら相手の、でもあったのかもしれない。だけど、いずれにせよ「復讐すれば」笑える、というひどく後ろ暗い、うら寂しい、「笑い」じゃないか。

 

読み終わって数日、私はそのことが、無性に寂しい。
誰かを笑顔にしたいというのは、確かに愛のはずなのに。
笑わせたい、笑顔でいて欲しい、幸せでいてほしい。
あるいは。
そうして自分が、幸せでいたい。
そんな、それだけならあたたかなはずの気持ちはだけどいつでも簡単に踏み外す。間違える。

 


何故ひとは生きているんだろう。
私はこの漫画を読みながら何度も考えた。
ゾナハ病に苦しみ、死にたくない、自分の思うように生きたい、と願った人も多く出てくる。
また、人形と人形使いと戦うことや、そもそもがある少女を「笑わせたい」と願ったことが悲劇を呼んだことで「なんで人は生きてるんだ」「何があったら人は人なのか」を考えてしまう。

 

 

人は、笑えば人なのか。だとしたらなんで人は笑うのか。
何度も、作中彼らは問い掛け、同時に問い掛けられる。使命に燃え、命を捨てる人に。どうやったら人になれるのかと悩む人形に問い掛けられることもある。
それを見ながら、気が付けば自分が問いかけられたように感じた。
人とは、なんなのか。

 

魅力的なキャラクターがたくさん出てきて、そうしてその人物たちがいなくなるたび、ああ、いなくならないでほしい、と思ったし、生きていてほしい、と願った。そうして生きているんだなあと思った。
どうしようもなく、生きていた。
ゾナハ病に罹って、死にたくないと願い、でもそうして任された役割に「死ぬ」ことを選ぶこと。

 

ゾナハ病は、そのまま合併症などを引き起こさない限り、死ねなくなる。ただただ、死ねないまま、死ぬような苦しさを味わう。
死ねない、ということは、生きている、ということとイコールではない。
だからか、その病の末の役割を受け入れた人たちが死へと進む描写に分からなくなった。
生きたいと思ってほしい、と思った。
しかし、生きたいと思うことが幸せかは分からない。生きている時間のなか、憎み、恨み、怒りを抱えながら生きていた人たちを見て、どうしていいか分からなくなった。
何があったら生きているのか、人間なのか。どうやって、生きていけばいいんだよ。

 

それでも、ナルミは勝は言う。自分の信じる自分でいること、俺は俺になる、を目指すということ。
思えば、一度は自分がした選択肢を後悔した勝が、「自分の選択を正解にしたこと」これだって、「俺は俺になる」だ。
強くなって、自分の選択を正解にする。
繰り返し、繰り返し繰り返し思い出してる。仕事でやられそうになるたびに頭の中で唱える。ナルミだったら、勝だったらどういうかを考える。過度な自己卑下に逃げ出しそうになった時に「諦めんな」と声がする。

 

怖くてもいい、逃げ出したくなっても、悪態を吐いてもいい。それでも、本当に大事なものを手放しちゃいけない。なりたい自分を、諦めちゃいけない。


ナルミは強い。すごくすごく強く、格好いい。
だけど、その姿に惹かれたのは、冒頭、勝とのエピソードで、自分も昔はヒョロヒョロで弱く、泣き虫だった、という話があったから、というのも大きい。
少年漫画の王道として、弱い人が強くなる、はある。(実際、この漫画の中でも勝はまさしくそんな進化を遂げる)
だけど、既にわりと最強に近い姿を見た後に弱かったこと、今もなんなら怖いことを真っ直ぐに口にするナルミだから私たちは、そして勝やしろがねは惹かれたんじゃないか。

 

勝は、最初、ものすごく弱かった。泣き虫で後悔をして、守られることしかできない子どもだった。
だけどずっと、大切なものを手放さない強さは持っていた。自分がなりたい、と思ったものを口にして一歩を踏み出す強い子だった。
そして実際そのままずんずんと進んで、最後は、本当に格好いい、強くて優しい少年になっていた。

 


強いから平気なのではない。繰り返しにはなってしまうが、自分の大切なひとを守れる「強い人」がありたい自分だから、強くなれる。

 


その事実はほんの少し、私たちの背中を押す。
何より、笑ってくれるひとがいてくれないと困る、守りたいと思う人がいないと困る、だから誰かを助けるのは、笑顔でいて欲しいのは自分のためだ、と言い切る姿を見ているとなんだか、分かったような気がするのだ。

 


思えば、作中、守られるだけだった勝がそうして「誰かを守る」ことができるようになったとき、きっと、あの時に勝は、自分は目の前の人を愛していると確信できたような気がする。
そして「愛している」と確信できることは愛されているということなんじゃないか。

フランシーヌを愛して半ば無理やり奪い取った白金がどれだけ彼女を愛しても愛しても、満足できなかったことからもそんなことを思う。フランシーヌは、白金のことを全く愛していなかったわけじゃない。だけど、彼が欲しい形じゃなかった。彼が渡したい形でもなかった。

たぶん、愛にはそういうところがある。

どっか自分勝手で、だけど誰かのためが自分のためで、そういう表裏一体の混ざり合った、弱くて脆くて、だけど切実なそんな感情を、愛と呼ぶんじゃないんだろうか。

 


それはナルミの、勝の、あるいはしろがねの。
フランシーヌや白銀、白金だけではなく、作中描かれた色んな愛の表現を振り返っても思う。
どこか自分勝手なところはある、あるのだけど、自分すら惜しくなくなるような、そのくせ、だからこそ、自分を軽んじるわけにはいかない、とぐっとお腹に力を入れるような。
そんな確かな熱量の愛情たちのことをずっと考えていると体の奥底からぽこぽこと力が湧いてくる。

 

 

人生は選択の連続だ。いつだって正解を選びたい。選びたいけど、人は間違える。
時には無意識に、時にはこれが正しいと信じ込むことで。


特にからくりサーカスではただ本人だけで間違えるのではなく、間違えた結果、取り返しのつかないような酷いことを他人へとしてしまう。時に、命を奪うこともある。
命をただ奪うだけじゃなく、尊厳を傷付けることもある。


許せない、と思う。
同じくらいの報いを受けろと過った瞬間だってあるし、そうして復讐に燃えたひとも、いた。
だけどまた、許したひともいた。
私は、それにも驚いた。驚いたし、許すだけしなく「自分だって同じだ」と告げたひともいた。それも、少なくない数。


私は、それが無性に嬉しかったのだ。


人は、間違える。間違えない方がいい、傷つけないほうがいい。だけど、どうしたって間違える。
間違えた人間を許せ、というのは、じゃあその人に傷つけられたことをどうするんだ、とも思う。間違えたひとだけ許されたとしても、傷付けられた人の傷が癒えるわけじゃない。癒えるような傷じゃないことは往々にしてある。
だけど、だ。
だけど、私は「幸せになりたかっただけじゃないか」とその間違えを口にした、その心が嬉しかった。

 

悪いことをしたからと言って、人生が終わるわけじゃない。そのまま生きていかないといけない。生きて、償う、というそういう単純なことでもない。
だけどそこにある思いが幸せになりたかっただけだ、と形づけられたことをずっとずっと思い出している。

 

 

愛すること、自分を生きること、強いということ。
そして、人間とは何か。
そんな大切なことを教えてくれたこの『からくりサーカス』という作品は、タイトル通り、舞台であり、またサーカスだった。
私たち読者を心から楽しませるために趣向と工夫が凝らされた物語。


「鑑賞者」のいるサーカス、そこで描かれた物語たち。

 

フランシーヌの最期すら、観る人が変わると解釈が変わる。何を知ってるか知らないかでも変わる。そこに悪意を見出すこともできる。ただ、そこに寂しさや愛情を見出すことだって、できる。

 


フェイスレスは、まるで物語を観るようにある意味で俯瞰して、勝の冒険を見ていた。きっとそこで、人知れず、感情移入をする瞬間もあっただろう。
台詞としては「イライラした」と言っていながらも、観ることをやめられなかった、きっとそれが何よりもの事実なのだ。

 

彼の最後の決断は、そこにだって理由があるんじゃないか。
彼は、心を動かした。勝に、勝の言葉や行動に。自分自身の心を重ねて。何百年と誰からも心を寄せられなかった、その彼が。
自分からその心を寄せたんじゃないか。
だから、勝の言葉が届いたんだ。そう思いたい。

 

わからない。いつだって優しい方に世界を見たいと思っている。そういう観客で、ありたい。
だけど、それ以上にこの世界は悪意で受け取ったほうがわかりやすいことがあまりにも多い。
だけど、思うのだ。私は、私になりたい。そういう私になりたい。
人生が自分の思うように描くべきだというのなら、私の人生がそういう形であってほしいと心から願ってしまう。
あの物語を読んだ後から頭の中、心の中に住み着いた彼らがそれでいいと頷いてくれている。そんな気がしている。

 


からくりサーカスには、ここに書ききれないくらい魅力的なキャラクターたちが出てくる。語り尽くせないくらいの素敵なエピソードが、瞬間が、台詞がある。
全てを語りたい気もするし、語らずに何も知らず、あの形で出会ったあなたと話したいようなそんな気もする。


(と言いつつ、かなり核心のネタバレをしてしまった。どうしてもあの感想の好きなところを話す上で避けられないものだったんだけど、もし読む前にこの記事を読んだ人がいたらどうか忘れて欲しい)

 

きっとあの作品はサーカスなのだ。物語として出会うのが、1番面白い。
そこには笑顔にしたいという、つまりは、幸せにしたいという切ないくらいに強い気持ちがたくさん込められている。そんな作品があることが、私は何より、心強く嬉しく思っているのだ。

 

侍タイムスリッパー

なんでこんなに考え続けているか、と考えて、シンプルに面白いからだ、と思った。シンプルに面白い、それはすごいことだ。

実際、例えばその映画の広がり方や、創意工夫、また、スクリーンにかかるまでの熱量やそこにあるドラマなど、この映画の「魅力」はたくさんある。あるのだけど、でも突き詰めればまず第一に面白かった、なのだ。

 

ところで、私には大好きな映画館がある。
兵庫県尼崎市に昔からある塚口サンサン劇場という映画館で、エプロンでも来れる映画館、というキャッチーな言葉がとても似合う。オレンジを基調とした可愛らしい映画館は映画好きはもちろん、地元の人たちにも愛されている。
特定のジャンルに強い映画館のように見えるが、数年通った私は思う。特定のジャンル、ではなくて、全ての映画をこの映画館やそこにいる人たちは愛している。だから、塚口サンサン劇場は強いのだ。

 

そして、今回私は「侍タイムスリッパー」をその塚口サンサン劇場で観た。おかげさまでもう少し近場の映画館でも上映があったが、どうしても私はこの映画館で観たかった。


「侍タイムスリッパー」を観ようと足を運んだ休日の昼間。映画館のロビーにはたくさんの人がいた。
中でも私が嬉しかったのは「久しぶりに映画館に来た」という会話や空気を味わえたことだった。どこか落ち着かない、そわそわした空気。
小声で囁かれる会話が心地いい。
言葉にしないお約束が通じる「内輪」の、それこそ映画好きが集まる上映回も好きだけど、私はこういう時の映画館も大好きだ。
新鮮にスクリーンの向こうに心を揺らし、驚き、笑って、最後は夢中になって息を飲む。
そんな空気を、この映画館は私の知る中でも1番味わえるのだ。


そんな私の期待通り、その日の塚口サンサン劇場もよく笑い声で揺れ、息を飲んで、最後はみんな、あの景色の中にいたように思う。
その経験含めて最高だったな、と振り返ってふと思うのだ。

 

映画が好きな人も久しぶりに観た人も考察したい人もただただ受け取りたい人も。みんなが揃って楽しんでいた。その光景が本当に嬉しかった。し、それは、まるで、あの映画と地続きじゃないか。

 


侍タイムスリッパーは、コメディだ。
笑いどころもたくさんあって、劇場ではたくさんの笑い声が起こる。スクリーンの中の出来事は全部虚構だけど、それをみんな喜んで、笑って、楽しむ。
それは、劇中、初めて時代劇に触れた時の高坂新左衛門の気持ちと一緒だった。
息を飲んで夢中になり、怒り、笑う。時には、涙を流す。


高坂は幕末の藩士だ。会津の武士で、剣道を嗜み、論語も諳んじることもできて、振る舞いもとても紳士だ。
なんだかんだと現代に彼が馴染んだのは、きっとその人柄の良さもあるだろう。
そしてその彼が、同じように、スクリーンの前、虚構を愛して、映画を愛している私たちと同じように心を動かす。もうそんなの、高坂に夢中になってしまうに決まってるのだ。
劇中で、彼を助けてくれる色んな人たちのことを「ご都合主義だ」と感じなかったのもそこで、彼の真っ直ぐさや優しさは思わず手を差し伸べたくなるところがあった。

 

救われた、と彼は言う。
時代劇を見て、そこにある人の営みに「救われた」と彼は言った。その言葉に、私は救われた気がした。

 

彼は、幕末の世から時代劇の撮影所へと辿り着いた。危うい言葉ではあるけれど、「終わりかねない」時代に、図らずも彼はまた立ち向かうことになる。
そこで彼は、終わりを止める、とかではなく、ただ、ただただ、その時を生きる。
大義や、自分の人生の意味ではなくただ真っ直ぐに自分の信じた、自分が出来ることを精一杯やる。
終わるとか終わらないとかじゃないのだ。大義だとかでもないのだ。ただ、彼が、信じた、「こうせざるを得ない」中で、彼はもがく。

 

そこには何も出来ないまま、「終わってしまった」時代への後悔でもあるように思うし、自分が何をすべきなのか、を問いかけ続けた姿みたいにも思った。いずれにせよ、私たちはそのスクリーンの向こう側の光景に夢中になって真剣に見つめてしまった。
気がつけば、同じところで、私は生きた、そんな気すらしていた。

 

最後、あるシーン。
ああ、きっと、監督やスタッフ、役者たちは「伝わる」と思ってくれたんだな、と思ってしまった。真剣に息を飲みながら、どこか頭の片隅で物語とはまた別軸に、感動した。
このシーンが「伝わる」と思ってくれた。それだけの時間の積み重ねだった、という自信と愛がそこにあった。

 

 

最初から最後まで全力で、映画の世界を楽しんだ。映画館全体があの撮影所にいた、そんなような気がした。
そうして、最後の最後、スクロールが流れる。
そこに、たくさん、あの作中に見た人たちがいた。演者もスタッフもみんなまぜこぜで、みんなで映画を作っていた。
それは、まるでこの映画の物語そのもののような気がした。映画を作って、届ける。それが、こうして広がっていく。
ああほんとに、すごい。しっかりとコメディで愛にあふれた、本当に幸せな映画だった。

 


主人公に特化した感想を「つくのラジオごっこ」で一人喋りしたりしました。声が完全に嗄れててお聞き苦しいですが、それでも語りたくて仕方ない、勢いだけは伝わる気がします。
15分弱の短い音声なので、よければ。

Thalaviaa

Thalaviaaの感想をどう綴っていいか、分からずにいる。本当に苦しくて、でも確かにめちゃくちゃ好きで、でも、と延々と観た時から思い出している。
お芝居として好きな瞬間が詰まりまくっていて、そして物語として飲み込みにくい(面白くなかったわけでも、理解できないわけでもなく、あまりにも悲しくて辛くて)から、きっと言葉が出てこないんだ。

 


オーストラリアで過ごすヴィシュワが結婚のためにインドにいる父と会おうとしたことで自身の父のこと、自分の仲間が置かれている状況を知り「指導者(タライヴァー)」になる物語。

 

 

前半のダンスチーム、タミル・ボーイとしてのステージや練習シーンでたくさんのダンスを観ることができて、その自由さに心がわくわくする。
少し前、ヴィジャイさんのダンスについての評価が話題になっていたけれど、思い出しながら深く深く頷いてしまった。
特に物語の中、タミル・ボーイのステージに様々な人がつい身体が踊りだし、シャツを使った振り付けを自分たちも踊ってしまう、というシーン。わかる、わかるよ!と思いながらニコニコしながら観た。分かる。私はダンスが決して得意ではなく、いや得意じゃないくらい苦手であまり「踊りたい」と思うことはないのだけど、それでも身体が揺れそうになる。あんな風に軽やかに動けないことは百も承知で、それでも身体がリズムを刻む。
そしてそれがある意味で、後半のあるシーン、悲しみにも繋がる。
踊ってるヴィジャイさんが好きだ。踊りで、この人はこんなに人を幸せにするんだ、と思う。
父が言う、「暴力ではなく勝つんだ」という台詞を繰り返し思い出している。

 

 


ふと思う。今回の映画に限らず、父と息子、の息子としてヴィジャイさんの作品をいくつか観てきた。
ヴィジャイさんは強い。めちゃくちゃ強い。それこそヒーロー映画、スター映画という枠があることを含めても、いやでもやっぱりめちゃくちゃ強い、と思う。アクションも綺麗で容赦なく、格好いい。
だけど、そのいくつかの作品でヴィジャイさんは父から言われる。暴力ではなく、正しく勝つこと。その方法で勝ち続けること。それが、もしかしたら私がヴィジャイ映画が好きな理由かもしれない。


圧倒的な暴力や復讐、殺すこと、は描く。描くのだけど、それが「正しさ」とは呼ばない。それ以上に、暴力以外の方法で、圧倒的に勝つということの真っすぐさも描いてくれる。だからこそ、私は安心してこの映画を観ることが出来るのだ。

 

 


そして、だからこそ。ある瞬間の「目の色」の変化が悲しかった。目の色、という表現は比喩として知っていたけどこういうことか、と思う。

(そしてもちろん、あの表現を演じて成立させてみせるヴィジャイさんに改めて惚れ直しちゃうんだけど!)

 


「一度ナイフを握れば、それが守るためであれ、壊すためであれ、手放せない」

 


劇中、繰り返し出てきた言葉が「彼の」言葉になってしまう。それは、いっそ、美しさもあり、また絶対的な力に見惚れそうになるシーンでもある。


また、それはそのまま「指導者(タライヴァー)」になる彼を讃えるシーンへと続く。だけど、どこか、ずっと悲しい。それでいいのだと思う、確かに彼も、彼自身が望んだんだと思う。

 


だけど私は、結局最後まで「どうして」と思い続けていた。

 


祭りのシーン、踊らずにはいられなかった身体も。麻薬ラッシーによってわずかに緩んだ心から漏れた言葉や歌声も。
親友が来てからのヴィシュワの変化が愛おしくて前半なんなら目立つな〜と気を緩めながら観ていた彼の存在に後半ずっと感謝していた(と同時に、だからこそ彼のことだけはヴィシュワは失いませんように、と願っていた)
そんなのお前に似合わない、と言ったあの言葉が、嬉しかったな。だって、本当にあまりにも「指導者」が似合い過ぎるから。きっと誰もが疑うこともなく、ヴィシュワ、ではなく、タライヴァーとして観る。
だけど、確かに彼の近くに指導者じゃなく、ダンスが好きで、いい加減なところもたくさんあって、だけど憎めない「ヴィシュワ」というただの男だってことを知る人がいるのは、本当にかけがえないことじゃないか。

 

 

あの最後を、私はハッピーエンドと呼んでいいのかわからない。ただ、あまりにも血が流れ過ぎていること、また誰かの思いが踏み躙られていることをずっと考えている(彼の決意と車のハンドルを握るシーンが、ヴィジャイさんに纏わるシーン以外では心に深く突き刺さっている。どうして、と理由が分からないという意味ではなく、分かるからこそより、何度も問いかけている。どうして)

 


ただ、あの病院のシーンとそのあとの街のシーンがあったことを、忘れずにいたい。分け与えるのではなく、分かち合う。流れている血の色で、判断できないこと。
あの小さな女の子たちが繋いだ手のことだけは、忘れずにいたい。どう受け取ったら良いか分からないけど、あの瞬間を大切にした方が良いことだけは、分かるのだ。

 

 

 

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400回以上のありがとう

ラジオはずっと、特別だった。なんとなく格好良くて近寄りがたく、特別。
それが当たり前の日常になってからもう4年が経つらしい。更に言えば好きなラジオは8年目、ということはその半分を聴いてきたことになる。
まだまだ新規リスナーだと思っているのに気がつけば「あああったな」と出てくるエピソードに微笑んでしまう頻度も増えた。

 

 


特徴的な唯一無二な企画もノミネートしたしてない関わらずの珍迷場面たちも。何気ないメールも印象的なメールも。
それに対しての源さんの言葉も。
まるで宝物のように降り積もって宝箱がいっぱいになっている。

 

 

 

最初は、radikoの使い方すら実はよく分からなかった。エリアフリーや有料会員もよく分からず24時間以内、や3時間縛りもちゃんとは分からず、結果、YouTubeの公式チャンネルが公開していた過去の放送を何度か繰り返し聴いた。
当時は札幌にいて、札幌だから聴けないのかと思い(そんなことはなかった)大阪に帰った際、ようやく聞くことができて「源さんのラジオが聞けた!」と興奮した回。確か、あれはずんの飯尾さんがゲストで、MIU404の8話の話をしていた。
その回で初めてしっかり「放送」としてラジオを楽しむことができて、それで「ああ、ラジオを私は輪に入って楽しむことができるのか」と感動した。

 

 

はぐれものたちが集まる深夜ラジオ。
そこは結束がどうしても強くなるしそれが魅力だとも思う。だけど「入れない」と思う場所が多い私にとって「開かれた内輪」がどれだけ心強かっただろう。
今は変わったし、また源さんの心持ちも違うとは言われているけれど初めてラジオCMの「友だちの家に遊びにいくように」という言葉を聴いた時に妙に納得したのを覚えている。
まさしくそれだった。
何時に聴いていても。リアルタイムでも、タイムフリーでも。過去の録音やSpotifyの配信を聞き返していても。深夜の気心の知れた相手と一緒にいる時の感覚がそこにはあった。

 

 

 

眠れない夜を、眠らない夜に変えた。やがてそれは一つのラジオ番組だけが好き、だったのをどんどん「ラジオが好き」に変えてくれた。好きなラジオ番組がいくつも増えて、そのうちのいくつかとはお別れしたこともある。
その時、耐え難いような寂しさと痛みに堪えることになって、我ながら少し驚いた。あんなに、縁のない存在だと思っていたのに。
だけど「星野源オールナイトニッポン」が教えてくれた「ラジオは楽しい」に感染し、ラジオの楽しみ方が広がっていったから、それは当たり前といえば当たり前だったのかもしれない。


こんなに辛いなら、好きにならなければよかった、なんて過りかねないくらい好きになったラジオたちを、でもやっぱり自分の人生から跡形もなく消してしまえばそれは、どの番組であってもきっと自分の人生の形を変えてしまうのだと思う。
そんな存在が自分の人生で増えて本当によかった。

 

 

 

星野源オールナイトニッポンが好きだ。前提、源さんのことをアーティストとして好きだから、というのはある。


ラジオで聞けた作品が生まれるまでの工程や作品への思い、それに纏わる思い出を聞けた時にすごく素敵なものを分けてもらったような特別な気持ちになった。

 


だけど、きっと、それがなかったとしても、私は星野源オールナイトニッポンが好きだ。
自分の好きなカルチャーの話じゃなくても、それこそ、何一つ分からないけど自作パソコンの話を楽しそうにしているのを聴けるだけでも、私は嬉しい。
自分の生活の中、源さんの笑い声が響く2時間があること。それは、日々の必需品で、日常で特別なのだ。

 

 

今回、400回記念で、様々な方からのお祝いコメントがあった。その一つ一つに嬉しそうに声を弾ませる源さんの姿が目に浮かぶようで聴いているだけで、本当に幸せな気持ちになった。
そして何より。源さんにとってのラジオの原体験とも言えるコサキンのお二人からのコメント、その自由さに、ああ、このラジオを源さんは聴いてきたんだな、と思った。何も分からなかったけど、妙に腹落ちするような、そんな気持ちがあった。


いつかのエッセイ、源さんが言っていた。メールを送らない、Twitterで実況するわけでもなく、誰かと話すわけでもなく、でもただ、ラジオを聴いている、あなたがマイクの向こうにいる。
その時、源さんのまっすぐな目と目が合ったようなそんな気がした。
だからラジオがこんなに好きになったのだ、と思った。

 

 

 

その時の感覚に繋がった。ああ、ラジオが好きでよかった。私も、源さんも。そして、それがこうして夜と夜を繋いで、時間を越えて、今日に繋がって、本当に良かった。

 

 

 

いつか終わりはくるだろう。だけど、できたら、そんな朝はなるべく遠くだといい。もう少しあの安心できるくだらなくてばかばかしい、だけど大切な夜と一緒にいられますように。
本当に、400回、おめでとうございます!

ジガルタンダ・ダブルX

映画の力を信じたかったのだ。
観終わって、考え続けながらその言葉に行き着いた。この作品を作った人も、劇中の人たちも、そしてこの映画を好きだと思う人たちも、きっとみんな、映画の力を信じたいと思っている。それが、きっとSNSはじめ、熱量のある言葉がこの作品の周りに集まってる理由だろう。


「お前が芸術(シネマ)を選ぶのではない、芸術(シネマ)がお前を選ぶのだ。マイボーイ」


そんな印象的な言葉に惹かれ、この映画を観ることに決めた。またピストルと8ミリカメラを構え睨み合うキャッチは観終わった後見返すと深くため息を吐いてしまう。本当に名シーン過ぎる。


あらすじとしては血を見るだけでも失神してしまうキルバイは警官に内定していたにもかかわらず、冤罪にかけられ、投獄される。そこから再起をかけるため、悪徳警官からギャング・シーザーの暗殺を命令される。
映画監督になりすまし、シーザーの映画を撮りつつ彼に近付くキルバイ。だが次第にふたりの間に変化が生まれていく、という物語。
これだけ読んでもある程度「きっと映画に魅了されていくんだろうな」ということは伝わる。
伝わるのだけど、実際に映画として観て、キルバイとシーザーが映画に魅了されていくこと、またその中でも時折、当初の目的に揺れ動くことなどを含めても「芸術がお前を選ぶのだ」という言葉について考えてしまう。

 

映画を撮る楽しさの前に、そもそもシーザーが映画が好きで、自分の映画を撮るために映画監督を募るシーン。そこにもまず、私はじんとしてしまった。
色黒のヒーローなどいるものか、と言われ、激昂する姿や、キルバイに出会い、クリント・イーストウッドとの思い出を語るシーンなどは無邪気な少年のようでもある。
後に語られることではあるけれど、シーザーは残虐が本質ではなく、あの純真さや好きなものへの真っ直ぐさこそが本質なんだろう、と思う。
そう思えば思うほど、ギャングになるまでの過程や理由を思って、なんとも言えない気持ちになるのだけど。


映画を撮らずにいられない。どんな状況でも、カメラを回せ、というシーザーはもちろん、気が付けばカメラを構え、絵を考えるキルバイもまた、任務を越えて、彼の物語を撮り、作り上げることに夢中になる。
あの瞬間の、彼の決意をただ「友情」と呼ぶのは少し迷う。もちろん、それもあるだろう。だけど、それ以上に自分が撮る作品の終わりはこんなもののはずじゃないという思いがあったんじゃないか。


やがて、物語は深い森に住むシーザーの故郷、仲間であり家族である部族とその人たちを差別し、搾取する権力との構造へとつながっていく。
敵わないもの、変えられないもの、圧倒的な暴力。ピストルとカメラで睨み合った彼らが、「芸術(シネマ)」を、信じる。
信じたかったのだ、と思う。
実際、劇中、クライマックスだけじゃなく、映画だから、の奇跡が起こる、映画を撮りたいと思うこと。映画を通して伝わること。
それを身をもって知った彼らだからこそ、映画を、芸術を信じる。
それは作中の彼らだけではなく、この映画を作った人たちもそうだった、とラストの映画館のシーンを思う。私たち観客が眺めるスクリーンと重なるように描かれた映画の中の白いスクリーンは「届くでしょう」と語りかけているような気がした。
ここまでこの映画を観た、暗闇で目を凝らすように映画に時間を使うあなたならきっと。届く、伝わる。そこにあるもの、いる人のことを想像してくれるでしょう。


私は、映画で伝わらないこともあると思う。どれだけ分かりやすく、緻密に作り上げられた物語や演出も歪んで受け取られたり届かなかったりすることもある。だけど、それでも、伝われ、と祈られることが好きだ。
私が目にする以上に「伝わらない」に向き合ってきただろう創作者が自分ができる全てをもってして、「伝われ」と願うこと、「伝わる」と信じること。それを信じ続けられるということこそ、ある意味で「芸術が選んだ」あなたなのかもしれない。
そして私は、出来るなら、そうであって欲しいと思う。映画が、芸術が、そんなものであってほしい。
言葉や文化背景が違う私にこんなにも熱量が届くんだから。

 

同時に映画は、物語は恐ろしいものだと思う。あの作品を観て、怒り、看板を踏みつける姿を観ながら、感動と共に恐ろしさも感じた。
物語は心を動かす。だけどそれは使い方を誤れば、あるいは使う人間が悪意を持てば、いやなんなら持たなくても暴力へと変えることが出来てしまう。

 

また、シーザーの出身とを重ねて彼が成り上がるには結局暴力しかなかった、という感想を見た。いやでも、そうだったのか?と今日一日中考えていた。
確かに、結果として彼はそれを選んだ。だけど、その中でも映画を観続けたこと、憧れたこと。そのことを私は信じたいと思う。
変えられないことはたくさんある。
たくさんあるけど、映画やスポーツや勉強や、もちろん、それを選べることも特権と言われたらそうだけど、それでも、と思う。
(これは、同じくインド映画である「エンドロールのつづき」や「ビギル」「スーパー30」が好きな私の身勝手な願いではある。それは認める)
それは彼ら自身が、という話でもあるし、私の、という話でもある。
知るということ、同じこと、違うこと、でも、ああして笑い合うこと。美しい景色。私は、それを、映画で知る。
きっとそれにだって、意味はある。
私は、映画の力を信じたいのだ。

 

 

私がこの映画でとびきり好きなシーンは、嘘か本当かは分からないけど、シーザーにとっては真実である、クリント・イーストウッドとの思い出のシーン。
また、それを受けてのレイ先生、キルバイの言葉。私は、本当だといいな、と思う。というか、本当なんだ、それはもはや。
ピストルではなく、カメラが武器だ。そうである、あなたはヒーローなんだ。そのことを、ずっとずっと考えている。そうであって欲しいと、願いながら。

 

 

2024.9.24追記

 

ジガルタンダ・ダブルX、私の好きなヴィジャイ作品とも共通するところなんだけど「自分を誇れ」というメッセージとして私は受け取っており、

どんな立場、背景、関係の人間もそれを否定できないし、させてはいけない。というのとともに「なぜ否定するのか?(否定する権利があなたにあるのか?)」でもあるわなーとか。

メルサルの空港のシーンが私は好きなんだけどそれにも通じる。
なぜこちらが変わらなければいけないのか、という主張。

 

その上で、とはいえ地球は一つしかないし「共存」を目指す時、どんな方法があるのか、には当然なるんだけど、あの映画の中ではそれに対しての答えは明確に出てるよね。なあ、マイ・ボーイ…。