※根本的なネタバレが多々あります!※
なんだかずっと、からくりサーカスのことを考えている。43巻の長い長い物語だ。描かれたエピソードはたくさんある何重にも重なった物語だから、その全てを一度に思い出すことは出来ない。だけど、その節々で揺れた心が、気が付けば思考をからくりサーカスへと戻してしまう。
物語はカトウナルミが見るからにお金持ちな少年・才賀勝を助けるところから始まる。見捨てるか見捨てないか。その人生の中にある多くの選択肢の中から「助ける」を選んだことで奇妙な運命へと導かれていく。
また、その中であるるかんという人形を使う銀髪の美しい少女であり、勝を助けることを自分の人生の役目だと信じる、しろがねとも出会い、勝の、ナルミのしろがねの運命が大きく動き出す。
何故勝が狙われるのか、という謎は、やがて多くの人の怒りや悲しみ、思いを絡めて、途方もなく大きな物語へと発展する。そこで出会う、何人もの人にも物語があり、役割があり、願いがある。また、中には間違いを犯すこともある。そういうものが積み重なって積み重なって、その構造もまた、愛おしくて私はたまらないんだと思う。
人には役割がある。それはなんとなく生活していると自分の中に染み付いてくる感覚である。役割や「分相応」のようなものに気が付いたら操られて自分がどうしたい、を考える間もなく「こうした方がいいらしい」に支配されている。
そうじゃなくて、自分の好きなことをしていいんだよ、と言われてもそれが浮かばない。
そのことを考えるのもきつい。どっちかにしてくれ、と、その質問に鈍く痛む頭で思う。完全に自由を奪うのか、それともなんの役割も与えないか。でもそのどっちか、が無理なことくらい分かってるから、もう黙ってろよ。
役割に縛られたくない、という気持ちと「あなたの役割はこれだよ」と指し示してほしいという気持ちは、矛盾するけれど、両立する。
縛られたくはもちろん、ないはずだけど。だけど、人は「存在理由」を同時にどうしようもなく求めてしまう。
それが地位であることもあれば、愛情であることもある。愛情も愛されることもあれば、逆に愛してもいいのだ、と思えることであることもある。
カトウナルミの場合、その欲していた「存在意義」はなんだったのか。物語を通して強さと優しさの象徴でもあり、不器用ながら、誰もが見惚れるようなひとだった彼。
物語の全てを知った後、1話をもう一度観て、私は深くため息を吐いてしまった。
彼の願いは、欲した「存在意義」「役割」は1話からなんだったら、明確だったように思う。
誰かを助けること、笑っていて欲しいと願うこと。人の笑顔を求めるのはゾナハ病の症状があるから、だけで説明するには、からの心はあたたかすぎる。あたたかく優しく、柔らかい。
ナルミはある奇病にかかっている。
ゾナハ病と呼ばれるその病気は、人を笑わせないと神経麻痺を起こし、やがて死ぬほど苦しむことになる。そのため、ナルミは最初サーカスの客寄せのための着ぐるみに入って登場する。
ナルミは、ともかく人を笑わせる才能がないのだ。この病気に対して相性が悪すぎるのだけど、ともかくセンスがない。だから発作のたびに苦しむのだけど、ひょんなことから助けた勝は、そんなナルミの振る舞いに笑い、嬉しそうに笑顔を見せる。
そのおかげで、ナルミは息苦しさが止まる。その構図の美しさが私は好きだ。
俺のために笑え、という。
その行動は大いにズレていたりするんだけど、ナルミは笑わせようとしたわけじゃない行動で、誰かの柔らかな笑顔を引き出したりする。全編を通してそうだ。ナルミの姿はつい笑顔をこぼしてしまうような、それこそ副交感神経が作用してホッと安心するような、そんな気配に満ち満ちている。
彼は人を助ける。誰かのために、でとんでもなく力を尽くす。だけど、ナルミはずっと一本その理由がぶれないのだ。自分のために。最初からそうだった。ナルミは「ナルミのため」に勝を助けると決める。
そのことを誰よりもナルミは知っているし、それでいいとしている。
そうだ、だからきっと、私は彼が好きでたまらないのだ。
笑っていて欲しいと思うこと。誰かのために何かをしてあげたい、と思うこと。
それは時に暴力を生む。これは、からくりサーカスを観る前から度々私が考え込んでしまうことだ。
愛は素敵だ、誰かの笑顔を望むことも。だけど、それって自分の欲望と近くて、だからか、時々とんでもない暴力へと繋がってしまう。
からくりサーカスの大切なキーワードである「笑わせる」。
作品の中で、最初に笑わせるために取られたのは思い出すのも恐ろしいような殺戮だった。私は最初読んだ時、あまりにも残酷で何が起きたか分からず、思わずページを戻してしまった。そうして何度もコマを読み進め、細かいところに目を凝らし、気のせいでもなく、見間違いでも勘違いでもないことにぎゅっと心臓が軋んでしまって本を閉じた。
なんてことを。
酷い、という言葉も残酷という言葉も追いつかない。1人を笑わせるために、起こした悲劇。
それは笑いの感覚が違うとか、価値観が違うからとか、そういうことではなく、ただただ、ただ、その根底に怒りと憎しみがあるからだった。
この自分の……そう、たぶん、笑わせたい相手ではなく自分の恨みを晴らしたいという感情。いや、もしかしたら相手の、でもあったのかもしれない。だけど、いずれにせよ「復讐すれば」笑える、というひどく後ろ暗い、うら寂しい、「笑い」じゃないか。
読み終わって数日、私はそのことが、無性に寂しい。
誰かを笑顔にしたいというのは、確かに愛のはずなのに。
笑わせたい、笑顔でいて欲しい、幸せでいてほしい。
あるいは。
そうして自分が、幸せでいたい。
そんな、それだけならあたたかなはずの気持ちはだけどいつでも簡単に踏み外す。間違える。
何故ひとは生きているんだろう。
私はこの漫画を読みながら何度も考えた。
ゾナハ病に苦しみ、死にたくない、自分の思うように生きたい、と願った人も多く出てくる。
また、人形と人形使いと戦うことや、そもそもがある少女を「笑わせたい」と願ったことが悲劇を呼んだことで「なんで人は生きてるんだ」「何があったら人は人なのか」を考えてしまう。
人は、笑えば人なのか。だとしたらなんで人は笑うのか。
何度も、作中彼らは問い掛け、同時に問い掛けられる。使命に燃え、命を捨てる人に。どうやったら人になれるのかと悩む人形に問い掛けられることもある。
それを見ながら、気が付けば自分が問いかけられたように感じた。
人とは、なんなのか。
魅力的なキャラクターがたくさん出てきて、そうしてその人物たちがいなくなるたび、ああ、いなくならないでほしい、と思ったし、生きていてほしい、と願った。そうして生きているんだなあと思った。
どうしようもなく、生きていた。
ゾナハ病に罹って、死にたくないと願い、でもそうして任された役割に「死ぬ」ことを選ぶこと。
ゾナハ病は、そのまま合併症などを引き起こさない限り、死ねなくなる。ただただ、死ねないまま、死ぬような苦しさを味わう。
死ねない、ということは、生きている、ということとイコールではない。
だからか、その病の末の役割を受け入れた人たちが死へと進む描写に分からなくなった。
生きたいと思ってほしい、と思った。
しかし、生きたいと思うことが幸せかは分からない。生きている時間のなか、憎み、恨み、怒りを抱えながら生きていた人たちを見て、どうしていいか分からなくなった。
何があったら生きているのか、人間なのか。どうやって、生きていけばいいんだよ。
それでも、ナルミは勝は言う。自分の信じる自分でいること、俺は俺になる、を目指すということ。
思えば、一度は自分がした選択肢を後悔した勝が、「自分の選択を正解にしたこと」これだって、「俺は俺になる」だ。
強くなって、自分の選択を正解にする。
繰り返し、繰り返し繰り返し思い出してる。仕事でやられそうになるたびに頭の中で唱える。ナルミだったら、勝だったらどういうかを考える。過度な自己卑下に逃げ出しそうになった時に「諦めんな」と声がする。
怖くてもいい、逃げ出したくなっても、悪態を吐いてもいい。それでも、本当に大事なものを手放しちゃいけない。なりたい自分を、諦めちゃいけない。
ナルミは強い。すごくすごく強く、格好いい。
だけど、その姿に惹かれたのは、冒頭、勝とのエピソードで、自分も昔はヒョロヒョロで弱く、泣き虫だった、という話があったから、というのも大きい。
少年漫画の王道として、弱い人が強くなる、はある。(実際、この漫画の中でも勝はまさしくそんな進化を遂げる)
だけど、既にわりと最強に近い姿を見た後に弱かったこと、今もなんなら怖いことを真っ直ぐに口にするナルミだから私たちは、そして勝やしろがねは惹かれたんじゃないか。
勝は、最初、ものすごく弱かった。泣き虫で後悔をして、守られることしかできない子どもだった。
だけどずっと、大切なものを手放さない強さは持っていた。自分がなりたい、と思ったものを口にして一歩を踏み出す強い子だった。
そして実際そのままずんずんと進んで、最後は、本当に格好いい、強くて優しい少年になっていた。
強いから平気なのではない。繰り返しにはなってしまうが、自分の大切なひとを守れる「強い人」がありたい自分だから、強くなれる。
その事実はほんの少し、私たちの背中を押す。
何より、笑ってくれるひとがいてくれないと困る、守りたいと思う人がいないと困る、だから誰かを助けるのは、笑顔でいて欲しいのは自分のためだ、と言い切る姿を見ているとなんだか、分かったような気がするのだ。
思えば、作中、守られるだけだった勝がそうして「誰かを守る」ことができるようになったとき、きっと、あの時に勝は、自分は目の前の人を愛していると確信できたような気がする。
そして「愛している」と確信できることは愛されているということなんじゃないか。
フランシーヌを愛して半ば無理やり奪い取った白金がどれだけ彼女を愛しても愛しても、満足できなかったことからもそんなことを思う。フランシーヌは、白金のことを全く愛していなかったわけじゃない。だけど、彼が欲しい形じゃなかった。彼が渡したい形でもなかった。
たぶん、愛にはそういうところがある。
どっか自分勝手で、だけど誰かのためが自分のためで、そういう表裏一体の混ざり合った、弱くて脆くて、だけど切実なそんな感情を、愛と呼ぶんじゃないんだろうか。
それはナルミの、勝の、あるいはしろがねの。
フランシーヌや白銀、白金だけではなく、作中描かれた色んな愛の表現を振り返っても思う。
どこか自分勝手なところはある、あるのだけど、自分すら惜しくなくなるような、そのくせ、だからこそ、自分を軽んじるわけにはいかない、とぐっとお腹に力を入れるような。
そんな確かな熱量の愛情たちのことをずっと考えていると体の奥底からぽこぽこと力が湧いてくる。
人生は選択の連続だ。いつだって正解を選びたい。選びたいけど、人は間違える。
時には無意識に、時にはこれが正しいと信じ込むことで。
特にからくりサーカスではただ本人だけで間違えるのではなく、間違えた結果、取り返しのつかないような酷いことを他人へとしてしまう。時に、命を奪うこともある。
命をただ奪うだけじゃなく、尊厳を傷付けることもある。
許せない、と思う。
同じくらいの報いを受けろと過った瞬間だってあるし、そうして復讐に燃えたひとも、いた。
だけどまた、許したひともいた。
私は、それにも驚いた。驚いたし、許すだけしなく「自分だって同じだ」と告げたひともいた。それも、少なくない数。
私は、それが無性に嬉しかったのだ。
人は、間違える。間違えない方がいい、傷つけないほうがいい。だけど、どうしたって間違える。
間違えた人間を許せ、というのは、じゃあその人に傷つけられたことをどうするんだ、とも思う。間違えたひとだけ許されたとしても、傷付けられた人の傷が癒えるわけじゃない。癒えるような傷じゃないことは往々にしてある。
だけど、だ。
だけど、私は「幸せになりたかっただけじゃないか」とその間違えを口にした、その心が嬉しかった。
悪いことをしたからと言って、人生が終わるわけじゃない。そのまま生きていかないといけない。生きて、償う、というそういう単純なことでもない。
だけどそこにある思いが幸せになりたかっただけだ、と形づけられたことをずっとずっと思い出している。
愛すること、自分を生きること、強いということ。
そして、人間とは何か。
そんな大切なことを教えてくれたこの『からくりサーカス』という作品は、タイトル通り、舞台であり、またサーカスだった。
私たち読者を心から楽しませるために趣向と工夫が凝らされた物語。
「鑑賞者」のいるサーカス、そこで描かれた物語たち。
フランシーヌの最期すら、観る人が変わると解釈が変わる。何を知ってるか知らないかでも変わる。そこに悪意を見出すこともできる。ただ、そこに寂しさや愛情を見出すことだって、できる。
フェイスレスは、まるで物語を観るようにある意味で俯瞰して、勝の冒険を見ていた。きっとそこで、人知れず、感情移入をする瞬間もあっただろう。
台詞としては「イライラした」と言っていながらも、観ることをやめられなかった、きっとそれが何よりもの事実なのだ。
彼の最後の決断は、そこにだって理由があるんじゃないか。
彼は、心を動かした。勝に、勝の言葉や行動に。自分自身の心を重ねて。何百年と誰からも心を寄せられなかった、その彼が。
自分からその心を寄せたんじゃないか。
だから、勝の言葉が届いたんだ。そう思いたい。
わからない。いつだって優しい方に世界を見たいと思っている。そういう観客で、ありたい。
だけど、それ以上にこの世界は悪意で受け取ったほうがわかりやすいことがあまりにも多い。
だけど、思うのだ。私は、私になりたい。そういう私になりたい。
人生が自分の思うように描くべきだというのなら、私の人生がそういう形であってほしいと心から願ってしまう。
あの物語を読んだ後から頭の中、心の中に住み着いた彼らがそれでいいと頷いてくれている。そんな気がしている。
からくりサーカスには、ここに書ききれないくらい魅力的なキャラクターたちが出てくる。語り尽くせないくらいの素敵なエピソードが、瞬間が、台詞がある。
全てを語りたい気もするし、語らずに何も知らず、あの形で出会ったあなたと話したいようなそんな気もする。
(と言いつつ、かなり核心のネタバレをしてしまった。どうしてもあの感想の好きなところを話す上で避けられないものだったんだけど、もし読む前にこの記事を読んだ人がいたらどうか忘れて欲しい)
きっとあの作品はサーカスなのだ。物語として出会うのが、1番面白い。
そこには笑顔にしたいという、つまりは、幸せにしたいという切ないくらいに強い気持ちがたくさん込められている。そんな作品があることが、私は何より、心強く嬉しく思っているのだ。