えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

まうしずむ

観終わって私の顔は、引き攣っていたかもしれない。後半、もうこの物語が悲劇にしかならないことは分かっていた。いやそもそも、始まりだって悲劇ではあったのでそれは「ずっと分かっていた」ことではあったけど、どこかに救いはないか、明るい何かはないかと観ながら探していて、でも物語が進みながら「いやどこにもないのか」と思った。

 

 


なかった、もうそれは、壊滅的に。あらすじを読んだ時から分かっていたけれどそれでも、と思った希望を一つ一つ丁寧に潰していく、いや燃やしていく、そんなお芝居だったようにも思う。
もちろんハッピーエンド以外は認めない、というハッピーエンド至上主義ではないし、なんなら悲劇は悲劇で好きなつもりだ。と思いつつこうして感想を打ちながら私はもしかしたら悲劇との付き合い方は下手なのかもしれない、と思い至った。そうかも。あんまり悲劇自体の数も見ているとは言えない気もしてきた。

 

 

 

このまうしずむというお芝居はあらすじを語るのが難しい。それは何構造にも重なった綿密なストーリーであることもそうだし、小説なとで行われる叙述トリックのような仕掛けもされているため、言葉だけで話していくと「???」と混乱するのだ。

 

 


ただ。
なんとなく「ダンス公演で良かった」と思った。
不思議だ。なんか、悲しかったのに、ああやだなと思うのになのに何故か「良いものを見た」が残っていた。
私は良い話を見たいのか、とその感慨に思ったし、そんな自分の価値観を越えて「良いもの」と思ったこの公演を不思議に思った。
個人的には熱量が爆発するように「良いもの!」となってるわけじゃなくて「なんだか今、大事なものに触った気がするのでちょっと考えたい」とずっと思っていた(なので見終わった後、ぼんやりしていた)

 

 

 

ところで同時にこの公演が「ダンス公演だから」こそ、私はこのお芝居をどう受け取るか迷っていた。

 

「死ぬまで踊り続ける」

 

それはこの物語の中で描かれたある意味で恐ろしい呪いのようなものである。
なのだけどこの座組で発せられる「死ぬまで踊り続ける」は決してただネガティブなだけのものじゃないようにも思った。
この「ココロ踊ル」企画は役者でありダンサー・振付師でもある松本稽古さんを中心としたプロデュース公演である。
またダンスがかなり大切な役割を果たすので揃えられた役者さんたちも皆、ダンスがめちゃくちゃにうまい。


演出でも見せるとはいえ意思に関係なく『踊り続ける』恐怖や異様さをあそこまで体現していたのは間違いなく役者陣のダンス力だとも思う。
そしてだからこそ、これは私の感傷も大いに含みはするんだけどその彼女たちが「死ぬまで踊り続ける」というのは願いなようにも思えたし、なんというか、明るい話なようにも思えた。

 


キャッチコピーに添えられた踊りとは、祈りだ、もそうだけど、『踊り』というものの尊さやエネルギー、ともかくそういった肯定したくなる魅力をそれこそ彼女たちに教えてもらってきたのだ。だからこそ「踊り続ける呪い」と結びつかなかった。
もちろんこれはメタ的な感想ではあるし、個人的な思い(例えば彼女、彼らの踊りに少なくない回数心を震わせ、励まされ、楽しんできた思い出たち)もあってのことだとも思う。
だけど観劇後、ずっと繰り返し考え続けてアンバランスだという思いよりもむしろ「あの人たちだからこそ」死ぬまで踊り続けることや異様で悲しく、苦しいあの表現も成立し得たんじゃないか、と今は思っている。

 

 

 

まうしずむはいわゆる因習もので、戦争ものだ。あらすじから察することができるくらい、そこそこに悲惨のタネがあちこちにある。
劇中何度も、人間はここまで残虐になれるのか、とも思った。

 


どの人も魅力的できちんと立体的な「ひと」だったのに、それでも何故か、「個人」として好きなキャラや魅力を語りたくなっていないのは、魅力的じゃないから、というよりもむしろ物語の中、ほとんどの登場人物たちが「自分」としてではなくてイエやムラやクニに自分を重ねて自分を打ち消そう打ち消そうとしていたからな気がしている。

 


もちろん、複数回観ればそこに打ち消しようもない人間臭さのようなものが見えて、個としての魅力に気付けるかもしれない。だけど、一回きりの私には無性にその「個を打ち消すかなしさ」のようなのっぺりとした、いい意味での後味の悪さが残ってあのうすら寂しい村のことをついつい考えてしまう。
時代が、地域が、という言葉であれをただ「異質」と呼ぶには、どこか知っているような恐ろしさもあって、だからなんとなく、私は彼ら、あの世界との距離感を測りかねているのかもしれなかった。

 


その中でも個人として印象に残ったシヅは、小指がなく、吃音持ちで、だから村からも距離を取られている。ネズミだけが家族であり友だちであり、そして、仕事である。その一つ一つのシーンであまりにも悲しく可哀想で愛おしくてぐっと奥歯を噛んでしまった。
若い女の子にネズミの世話なんて退屈だ」とサボったことを責めず、ただ寂しそうに呟いていたシヅ。
恨み言もなく、ただただ自分も同じような頃があったはずなのに、いや、あっても良かったのに決して得ることができず、「ネズミの世話」をやり続けていたらシヅ。
そのシヅが報われることなく、どころか誰も気にかけずに大きく傷ついた。そのことがたまらなく苦しいし悔しい。増やせと言ったから増やした、という言葉の、あの血の滲むような言葉は、「母」の言葉だったのかもなあ、と物語の時代背景を思いながら考える。銃を持たせて戦わせるのか?なんて呟いていたけどきっとそれだって、シヅは嫌だったんじゃないか。だって、そりゃ、そうでしょ。
親で、子どもで、友だち。そのネズミが誰かを殺すことを、死ぬかもしれない場所に送ることを、誰が望むだろう。

 

 


そう考えるとイエのため、ムラのため、クニのため。死ぬこと、殺すことだけじゃない、心を殺す、望まない人生を、歩む。そんなことを一体誰が大切な人に望むんだろう。
でもそれを「当たり前」にしなくちゃいけないこと。当たり前だとすること。それは、あんまりじゃないか。
そんな時代じゃなくてよかった、と思ったけど、きっと、時代のせいだけじゃなくて、今がそうじゃない、と私は言い切れるだろうか、とTwitterに感想を書いた後に思ってしまった。

 

 

 

何が正しいのか、正しくないのか。
誰が、悪かったのか。
どこでならやり直せたのか考えていたけど私にはやり直せるタイミングが見つからなかった。一人だけなら、助かるかもしれない。だけど、その「助かる」が本当の意味での「助かる」かは、分からない。
そんなのは、政子のことを思えばそうじゃないだろう、と思う。
絶妙に好きなキャラクターがいなかった。共感できなくて、いや、したくなくて、それが悲しいし、でも、いいな、と思った。

 

 

腑に落ちた気がする。私がまうしずむが好きなのはダンス×演劇だからこそだ。
それは善悪、正しい正しくない、そういう「台詞」や「言葉」で処理できない、一色じゃないものを「踊り」という色んなことが詰まりに詰まる表現に託していて、
だから「踊りは祈り」なのか。死ぬまで踊り続ける。それはあの物語で私には不幸なことに思えて、そこと稽古さんはじめ作り手が思う「一生踊りたい」と結びつけられなかったんだけど、そう思うとちょっと分かる気もする。

 

 


言葉が行き過ぎる、あるいは足りない間や時間を繋げられる。そう信じてる。その祈りか。
確かに、私はまうしずむでみんな「好きだ」とは思えなかった。だけど、圧倒的なダンスに、心が突き動かされた。容赦なく心が満たされて、それで、あの景色をずっと思い出してる。
三日三晩、薬湯を飲んで初夏は踊っていた。ストリップで人を楽しませる。そこにも、狂気はある。あるのだけど、あの村の狂気に比べたらそれはなんて、幸せで、美しい狂気なんだろう。
あの美しくてどこか切ない、ダンスを思い出す。村の最後のダンスも覚えてる。

 


戦争はいけない、とか、なんか、例えばそこに無理にメッセージを見出すことは違った気がする。言葉にはできないだけど確かにそこに大切なものがあった。

 

 

そういえば、私が今回阿墨の1番の罪は、あの村のことを最初「物語」として楽しんだことだとずっと思ってる。
結局、祖父のやったことに恐怖と嫌悪を覚えて初夏には、嘘をついた阿墨。だけど、それまでは「こんな物語が書きたい」と思っていた。
そこにある人々の苦しみを「面白い」(おぞましさは理解はしていたけど、それ含めて楽しんで)いたことの怖さや罪を思ってしまう。
だけどその度に思う。私だってこの物語を「楽しんで」いるんだよなあ。

 

 

人は、物語だから動かせる心があると思う。
現実でなら、身近なことで起きたことなら動かせない心も、物語なら動く。
ああ、でもそっか、そういうことか。
阿墨にとっても、最初、そうだったのか。だけど、初夏と出会って、それ以上にのめり込んで、彼はああなったのか。

 


そう、思いながら最後。弁護士事務所の「薬漬けの作家の言葉は信じられない」という会話。
あの意味を考えている。どこからが本当なのか、と疑う余地があるのか。それとも本当なのに「信じてもらえない」という罰なのか。
そう考えていること自体も「楽しんで」いるんだよなあと少し後ろ暗さを感じながら、それでも、考え続けている。だって、間違いなく、あの物語で私は心を躍らせてしまっているのだ。