心理的安全性という言葉が身近になった気がする。もしかしたら個人的な流行りかもしれないけど、何かと「心理的安全性」なんてことを考える。
ちょうど今読んでいる本でマズローの5つの欲求の話から帰属意識の話があって、とどのつまりは「心理的安全性」ってことだよなあ、と思う。
要は「ここなら大丈夫」という感覚である。
自分がいてもいいんだ、という安心感は結構大切だ。「ここにいていいのか?」を自問自答しながら過ごすのはしんどい。
例えばこれを書いている今、なんでか左肩が唸るように痛いのだけどやっぱり痛い部分があると「心理的安全性」は下がる気がする。ちょっと違うかも。
逆に私は朝ごはんを大体決めて食べる。ある程度ルーティンがあるから「いつもの」で過ごす。
そうするとなんか妙に安心する。毎朝のコーヒーもそう。
お気に入りの店もそうだし、お馴染みの友だちとのやりとりも安心する。
美味しいわけではないけど安いだけど居酒屋も行き慣れてると安心する。
聴き慣れたラジオのパーソナリティの繰り返しのおしゃべりが好きなのもそういうのかも。
ずっと苦しそう、と昨日言われた。
そりゃそうだろ、と思ってしまった。ここにいていいのか、ずっとわからない。いや「いちゃいけないんだろうな」ということだけが分かってる、と思う。
そんなことない、と思おうとしても「いちゃいけない」証明の方が容易く感じてしまってダメだな。
無自覚な悪意に気付くのが得意なのかもですね、と違う人に言われた。そうかも。でもそれって結構失礼なことだよな。
楽しいことが下手くそな自覚がある。ずっとなんだか楽しそうなひとが羨ましくて憧れる。
卑屈や悲観は、見ていても心地よくないし。
とはいえ、ネガティブは性質でもあるから早々変わる物でもないだろうし。でもなんとか、楽しいや面白いくらいは探すのがもう少しうまくなりたい。
マイナスのことを考えるのが得意な分、楽しいや面白いことを探して行けたら、と思う。そういうので、なんとかトントンに持ち込めたらいいのに。