何かの感想の時の冒頭の自分語りは、嫌われるらしい。冒頭だけではなく、そもそも自分語りは嫌われる。いつでもだいたい嫌われると思うけど特に何かの感想における「自分」は好まれない。らしい。
確かに食べログなどの日記みたいなレビューは、時々揶揄されたりはするし、まあそんな感じか、とも思うけど、でもそもそも自我を入れずにの感想ならそれは批評にならないか、とも思う。
どう感じた、を言葉にする時点で、それは「わたし」の話になるじゃないか。
と、まあつらつら書いているのは今回、たまらなく好きな本の感想を書きたいんだけどどうしたっていつも以上に日記になるし、なんならそれは最早いつも以上にわざとそうしたい、と思ってる。
そう、「そうしたい」。この本を手にしたあの日のことをまるっと言葉に、可能な限り残していたいので。
そしてそれだけじゃなく、私が今この本のことをこれだけ大切に思ってるのは、今の私だからだ、と思うからだ。
今の私、がどんな自分でどうしてこの本をどうやって手に取ったのか。それが私にとっては大事なんだ。
そして、この本を大好きだ、と思える自分だと思うと、私はほんの少し、私を許してあげられるような、良いじゃん、と言ってあげられる。そんな気がするのだ。
何故こんなに強烈に惹かれてるんだろう。
もともと読書記事が好きだったとはいえ、8月に単行本を買ってから転げ落ちるように惹かれている。
元々オモコロ読者だった友だちに「かまみく」の存在を教えてもらい、そうこうしてるうちに「みくのしん_生」もちゃっかり通販で手に入れて、我ながら「転げ落ちる」とか「ずぶずぶ沼にハマる」という表現がしっくりくらい、好きになっている。
そもそも「本を買う」まで好きなわけではなかったのに、そんな数ヶ月前が思い出せないくらいに生活の一部にかまみくはじめ、みくのしんさんやかまどさんの存在が大きくなっている。
読書本の感想にも引用した、今回の読書本で雨穴さんの協力するに至った経緯が、私はまず、大好きだった。
「俺は人が惨めな思いをするのが一番嫌なんだ」
そしてそれを「今」のみくのしんさんがしっかり感動する。なんだかそのことにひどくやられてしまったのだ。
私事ではあるが、今、仕事とプライベートで色んなことがあって、ありすぎて、我ながら自分のことを全く信用できずにいる。自分の好きなものや自分自身の輪郭がぼやけて、よくわからない。
それは、元々数ヶ月前から積み重なったもので、たぶん、そんな折だったからこそ、みくのしんさんのその言葉やエピソードが響いたんだと思う。
そして、そんなぼやけた私にも真っ直ぐすごい速度で届いて、かつ、適度に「何も考えずに楽しい」とも感じられるかまみくふたりのコンテンツは大袈裟でもなんでもなく、ここ数週間の私にとっての支えだった。
パーフェクト算数教室で笑って、食べ物の話で笑って朗読動画で泣いて、やっぱり笑って。そうしているととてつもなく楽しい。
だから、私はコミティアに行って本が欲しかった。「みくのしん_生」をゲットした時と同じように通販で買うことも考えた。考えたけど、どうしても、コミティアで買いたい。
この数週間、何度も「みくのしん_生」を読み返して諦めそうになることを耐えてきた。
大好きな山月記の読書記事に倣っていえば、今、私は限りなく虎に近い。そんな気がしている。
諦めて、尻尾を身体に巻き付けてどこかに行ってしまいたい。
そう思う度に「でも、トラになったのなら人間に戻れてほしい」というみくのしんさんの言葉を思い出した。
人間の頭に戻る時間、「みくのしん_生」を何度も読み返した。今でも、から始まる文を何度も読んだ。何度も何度も読んで「続け続ける」という言葉を心の中で呟いた。
私もそうしたい、と思った。そうしたい、ということを覚え続けるためにも通販じゃなくて体験として今回は本を現地で買いたい、と思ったのだ。
コミティアで並びながらまだ距離もあるのに聞こえた「コンチャス!」やお客さんと楽しそうに・賑やかに話す姿を見て、ずっと観て聴いてしてきた「かまみく」が地続きに"存在"してる、と思った。
日常と地続きで、おんなじで、でも特別嬉しくて、それでもやっぱり、日常だった。
初めてお会いしたはずなのにまるで友だちに話しかけるみたいに「めちゃくちゃ並んでるからみんな怒ってる?!」と言う。
自分の番になっても全くうまく話せず(緊張しすぎてステッカーを買いそびれそうだったので「ステッカーどうですか?!」って言って頂けたおかげで買えました、まじでありがとうございました)でも、なんか、全然よかった。
たぶん、話せてもどれくらい感謝しててかまみくが楽しくて最高かなんて、言葉にできなかったと思うし。こんなに長々書いてても、全然伝えられる気がしない。
でも、それでも、全然よかった。全然いい。
YouTubeの画面の中だけで存在してるんじゃなくて自分の生活する「ここ」と「あそこ」は繋がってると知れたことだけで、今こうして思い出してても泣きそうなくらいに嬉しい。
全く意味がわからない、分からないけど、そうなんだ。
自分でもよく分からない感情だけど、でも、無理やり言葉にするならまた生活の中で「好き」が増えた実感が、それが絵空事じゃない事実がたまらなく嬉しいのだ、きっと。
そうして手にした本「みくのしん_ちゃあ」を、次の目的地へ向かう電車の中で読んだ。ライトに楽しむつもりだった。だけどやっぱりしっかりブッ刺さってダメだった。
ご飯と大好きなおもちゃについて書かれた文たち。そこには熱量と「これが好きなんだ」に溢れていた。
私にも、好きなものがあって、あったはずで、だったら大丈夫なはずなのに今、こうだ。
そんな黒々した気持ちにマシな風が吹くような気がした。
好きな「ちゃあ」ことピカチュウのおもちゃのこと。その一つ一つ(ああもう個人的には一人一人、もしくは一匹一匹と言いたい)(だってあんなん家族じゃん!)の話をする、あの嬉しそうな声で再生できそうな文たち。
時々冷静になりながらも「これが!好きなんだ!」というみくのしんさんの文がたまらなく好きだった。そうだ、好きだ。
好きだ、でいいんだ。それがあってどうこうとか具体的にとかどうでもよくて「これが!好きなんだ!」なんだよな。
なんか泣きそうになって、でも電車の中で爆泣きするのはまずいから噛み殺して、大阪に戻る新幹線でまた読んで、やっぱり泣きそうになって唸りそうになった。
いい一日だった。この本に出会えて、本当に良かったし、本人から直接買えた、特別な日だった。
今日が終わって、明日がくれば別に特別ハッピーになるわけじゃない。日常はクソだし、なんの問題も解決しない。
だけど、虎のままじゃなくて、人間に戻りたい、とは思える。そんな気がした。好きなものを好きだという、毎日の生活をクソだなーと言いつつ楽しめる、そういう自分に向かって進めるような、そんな気がした。
ぶっちゃけ、一週間経ってやっぱり今も「やだなー」とは思うけど。でも呪文のようにではなく、自分の気持ちと感覚で「続け続けたい」と思ってる。生活も、何かを好きでいることも。
また金曜日がきたらかまみくがあって、きっとそれ以外にも新しい記事もこれからも読めるだろうし、なんならまだ観てない・聴いてないものをたくさん観たりもする。
かまみく以外にも自分の大切な大好きなものを私も「大好き!」と思いながら生活していきたい。いま、そう思ってる。私は何より、そのことが本当に嬉しいのだ。
増えた宝物