えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ドーナツ理論

ドーナツが好きだ。
正確には、ミスドが好きだ。




今もぎゃあぎゃあ騒ぎながら日々の生活を送ってしまってる自覚があるけど、学生時代はもっとダメな感じだった。


友人曰く、自分ごと以外の理不尽だのにもいっこいっこブチギレてた、らしい。
らしいと言いつつ覚えてもいる。今よりよっぽどしんどくて感情に振り回されてて(今より!)大事にしたいものが多くてそのくせ大事にもできずにされずに確かにひたすら怒っていた。
そんな私が覚えている言葉がある。



「人はドーナツを食べている時、悲しい話を話せない」という言葉だ。

もしかしたら、細部は違うかもしれない。ともかく、ドーナツを食べてる時、悲しい顔や怒った顔じゃなくて人は笑顔になるのだという言葉がトレイに敷かれた紙に印刷されていた。



その日もやっぱり怒り悲しくなり、やってられないと友達に話を聞いてもらっていた。なんでかは覚えてないけど、怒ってたことは覚えてる。その合間、ドーナツを食べて「おいっし!」と笑った瞬間、その言葉が目に入った。


確かに、と思った。あんだけ怒ってたのに、悲しくて悔しくてやってられないと嘆き倒していたというのに、私はドーナツを食べた瞬間、笑っていた。そんな瞬間に見た言葉にたしかに!と納得してしまい、やっぱり私は笑った。やばい、素敵すぎる。




それ以来、私はこのドーナツ理論をひたすら唱えている。たぶん、あの紙に書かれたコピーを書いたひとはまさかこんな風に一言一句正しくじゃないにしろ、10年近くドーナツ理論と名前まで付けて唱えてる人がいるとは思っていないんじゃないか。
でも確かに、私はあの日何気なく出会ったその言葉がとても好きになった。お守りのような、と好きないろんなものに修飾語を着けがちだけど、それこそまさしく、「お守り」の言葉で理論なのだ。


私は、なので落ち込みそうな時、もしくは何か頑張った時、必ずドーナツを買う。
さらにそれはちょっと迷惑な瞬間もあるのでは、と不安になるけれど、友達に元気になって欲しい時もミスドのギフトを送ってしまう。それは、どうしても、私の中でミスドのドーナツ理論はかなり効果的だからだ。



全部を解決するわけじゃないのがいい。
ドーナツを食べてる時、と限定されてるのがいい。どんだけ落ち込んでても美味しいものを食べると笑顔になってしまったり満たされたりすることは虚しかったり、あんまりだなあと思ったりもするけど、私はでも、そういうことに妙に安心するのだ。



ここ最近、またもやひたすら落ち込んでいた。最早、今年に入って落ち込んでいない瞬間がない気もするんだけど、毎度新鮮に落ち込み倒している。
怒ることはずいぶん減った気がする。でもそれはいわゆるアンガーマネジメント的な話ではなく、じわじわと落ちた体力や積み重なった諦めの話なのだ、きっと。そう思うと、より落ち込む。



それでも、落ち込み倒しても意味がないとずっと言い聞かせていた。
前みたいに怒れなくなったのはこのどうしようもなさは騒ぐものでもないからだと知ったからでもあるし、騒いだどころで何が変わるものでもないのだと知ってしまったからでもある。

ついでに言えば「こんなに辛い!」と嘆いて、たとえば解決するために頑張れば、と言われたら「人生を辞めるしかないのでは」という極論くらいしか見つからない。そういうことを言う必要はないんだと言い聞かす。言えば、無闇矢鱈とひとを傷つけるし、だからそういうことしか考えられない自分に余計に腹も立ち、呆れるしうんざりもする。



八方塞がりの負のループ。
仕事の調子の悪さか気候かコンディションの悪さかどれか一つでも変わればケロッとするはずだと念じながら虚しさに折れないように自問自答を繰り返していた朝だった。
友達から、ドーナツギフトが届いた。



いつか、ドーナツ理論などという意味のわからない理論を聴いてくれた友達だった。



なんかそれが、本当に嬉しかった。
ものをもらったから嬉しい、という話ではもちろんない。ないんだ。
そうじゃなくて、なんというか、どうしようもない虚しさとか苛立ちだとか、爆発すらさせられないような、ただただ歯を食い縛って這いつくばって耐えるしかないのだという途方もない心細さがじんわり溶けたような気がした。



ドーナツ理論だ。
根本の解決だとか霧が晴れるだとかではない。
でも、そうして大事な友達が一瞬、心を寄せてくれたことが、無性に、キてしまった。
美味しくて甘い、優しいお菓子を口にした時みたいな一瞬のでも物凄い心強さがあった。



心配されるのが、あるいは無理するなと言われるのが苦手なのだとずっと思っていたし、そう公言していた。それだって本心だった。
だけど、こういうどうしようもなさに人を巻き込むことの居心地の悪さに向き合う覚悟がなかっただけだった。どうしようもないことを誰かとどうしようもないねえと笑い合う強さを持ち合わせてないだけなのだ。
心配させていることへの申し訳なさに押しつぶされるのが怖かっただけで、本当はたぶん、心配されたかったんだろうな、と思う。
それは、解決してほしかったわけでも、共感してほしかったわけでもない。可哀想にと慰められたかったわけでもない。
でも知ってるよ、と言ってもらえることは、たったひとりで歩いてるわけじゃないんだ、と思えて、それがこんなに、喋り倒したくなるくらい、書き残したくなるくらい、嬉しかった。



そしてそれをこうして書き残すのは、覚えていたいからだというのも一番だけど、ドーナツ理論みたいにならないかな、とほんの少し、思うからだ。
解決にはならない、でもほんの少し一瞬笑う方法を、それが言葉になっていることが私は嬉しかったので。だって言葉になれば、誰かに渡せる。ついでに言えば「在った」ことになる。
あのキャッチコピーを書いた誰かがきっと想像もしてないドーナツ理論を私が呟き続けてるみたいに。
友達にドーナツ理論を伝えたときの私が想像してもなかった励ましを友達がくれたように。




さすがにそれを願っちゃうのはやりすぎだろうか。
まあいいや、ドーナツを食べて上機嫌過ぎるので、そういう夢みたいな大袈裟なことを願っても良いと思う。