えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

魔女見習いをさがして

おジャ魔女どれみが好きだった。
日曜の朝は姉と弟とテレビの前に集まって、彼女たちの毎日を観るのが日常だった。どれみたちと笑い、怒り泣き、魔法にわくわくした。
彼女たちが「お店」をやるのが好きで、魔法の試験が好きで、毎話毎話、どきどきしていた。


まだ親しくない同世代とカラオケに行くことになったらとりあえず、おジャ魔女どれみの「おジャ魔女カーニバル」を流す。そしたらなんとなく仲良くなれたような気になれるし、とりあえず盛り上がれる。

そんな心の深いところに刻み込まれているのが「おジャ魔女どれみ」というアニメだ。



とは言っても、「魔女見習いをさがして」に出てくるミレ、ソラ、レイカほど熱烈なファンかと言われるとそうでもない。
リアタイをしていたあの頃の記憶だけだし、だから事細かに「あのエピソードが」と全ての話を語れるわけでもなく、自分が好きだったエピソード、台詞を2.3覚えているだけだ。
それでも自分にとって大切な作品だということは間違いなかったのだ。そのことに、オープニングでボロ泣きをかましながら思った。


さすがに、さすがにだ。オープニングで泣く予定ではなかった。
おジャ魔女どれみから数年後の世界、という設定は知っていたけどまさか「放送されていたあの頃から数年後」という意味とは思わず、予想外でびっくりして刺さりまくったというのもある。あるんだけど、いやにしたって、だ。



同じようにテレビを観ていたミレや、少し後に好きになったソラ、レイカが見てきたもの、感じてきたもの。そのそれぞれが「ああ分かるよ」と言いたくなるものだった。
そして、そういう"好きなもの"で友達になっていく彼女の姿もものすごく刺さった。


好きなもので支えられている背中と、裏腹に「なんでこんなにうまくいかないかな」と苦笑いしたくなるような毎日。それは、完全に"覚えのある自分の姿"と重なった。
自分の毎日がものすごく嫌とかじゃないのだ。
でも、どうしてこうなんだろうと時々どうしようもなく落ち込むし、魔法が使えたらなにになりたい?と問いかけられ、無邪気に答えていた自分の見る影はどこにもない。そのことが無性に辛くなる。




おジャ魔女どれみの音楽だし、タッチなんだけど、出てくるものが絶妙に「現実」なのだ。
将来への漠然とした不安とか、属性で笑われたり線を引かれたりすることとかずるずる続けちゃう人間関係とか。



どれみを観ていたときには想像もしなかったような現実がいつも私たちの前にはある。
それを「魔法で解決してみよう」なんて思ってても解決なんてしないし、やな宿題を全部ゴミ箱に捨てるわけにもいかない。
そんな鬱屈としたどうしようもない気持ちで過ごすことがある私は、物語の中、同じように「どれみと友達」だったミレたちの物語がどこに向かうのか、途中から息を詰めるように、あるいは祈るように観ていた。


なにが嬉しかったか、書き出したらキリがない。
好きなことがあること、それを通して友達ができること、それは大人になっても変わらなくて……いやむしろ、大人になったからこそより、あり得る奇跡だということ。
そして、そんな相手と仲直りする方法や、大切にする方法はあの頃からなにも変わっていないこと。

そして、それをミレたちが「おジャ魔女どれみ」を通して知ったように私も、そうなのだ。



どれだけアニメのなかの景色を覚えているか、なんて話じゃなくて、たぶん、それはもう、心の奥底に積み重なって地層になって私の一部になったんだ。



どれみたちは、そしてミレたちは、最後にすごく素敵なことを教えてくれた。そっと私の目の前にある途方もない現実へ歩くための背中を押してくれた。
あの頃の日曜日と同じように「ああ楽しかった!」と叫んで、明日からの毎日を明るく過ごせるような気がする。