えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

推しとか好きとか人生とか

よく「つくさんは好きなものが多い」と言われる。あるいは、熱量を持って好きなものを追いかけてる、と。
私はその度にびっくりするしそうだろうか、とも思うし、だとしたら嬉しいとも、そんなことないんですよ、とも思う。




思えば、「好き」という感情、あるいは「推し」という存在が尊ばれるようになって結構が経つ。
昔は使いづらいとすら感じていた推し、という言葉はいつの間にか身近になり、伝わりやすく使いやすい言葉へと変化した。



好きなことものひとがいることが正しいとされる……正しいというと言葉が強いなら「良いことだ」と言われる世界なんだと思う。何かに熱中してることが揶揄されにくく、なんなら羨ましがられるようになったことに私は今でも時々、新鮮に驚く。



私は学生時代、「自分の好き」に引け目を持っていた。
それはあなたより私の方が好きなんだから好きだって言わないで、と言われた幼少期の記憶やあなたは好きだから頑張れるかもしれないけど私はそうじゃないから無理と言われた高校時代の記憶の積み重ねの結果なんだと思う。
私が好きだと言うことが誰かに拒絶されたり優劣をつけられたり線を引かれる結果になる。そういう事実は私の中で私の好きという感情の価値を大いに下げた。



ところが、社会人になり小劇場でお芝居を観るために遠征して通うようになり、面白かった!と叫びたい気持ちをひたすらTwitterに書き連ね出して状況が変わった。自分が何かを好きだ、と言っていることをいいね、と、言ってもらえるようになった。
好きなものを好きだと言うことに眉を顰められないどころか、肯定される。
それは、好きなことを話し続けることで回復する私にとって革命に近いものだったりした。



それは単に私の環境が変化したんではなく、世間とでもいうものが「推している」ことを肯定する流れになったんだと思う。

単にそうして誰かを応援する姿がどう、というだけではなく、日々いろんなことがあるなかで好きなものがその人の軸になりその人が真っ直ぐに歩けるようになる。そんなことがどれくらい大切かが言われるようになったんじゃないか。



そしてそんな中で各々が"推し"とは何か、を考えるようになり、"推し"についての言葉が増えていく。
私も実際このブログで様々な推しの話をしてきたし、もはやルーティンワークか何かのようにずっと「私にとって推しとは何か」を考えている。
それがしんどくもあり、楽しくもある。
哲学者が延々と哲学について考察するように、というとさすがに怒られるような気がするけど、でも本当にまるで私の人生の中での命題みたいな気持ちで考えているのだ。



そしてここ数ヶ月いろんなことがあるなかで、やっぱりあいも変わらず「私にとって推しとはなんなのか」「推すこと、とはなんなのか」をずっと考えていた。



私はだいたい、役者さんやアーティストを応援している。
それは彼ら自身が好きだ、の前に「彼らが作る表現が好きだ」という前提がある。人間性に惚れたというよりも、作り出すそのものが好きだ。
しかし、そうしているとやっぱり本人のことも気が付けば大好きになっていた。その人がどんな人かを知るたび、人として惹かれていく。
もちろん、それがちょっと行儀の悪い"好き"ではないかとは思っている。
だって当たり前だけど、その人たちは「何かを表現」するために人前に立っている。
その人たち自身含めて商品だ、ということだってできるかもしれないけど、やっぱり私はそうは思えない。表現者、とはなにも自身含めてパッケージ化される必要はないと思う。だって、そこにいるのは特別な人、ではなくて、ただの人なのだ。たまたま、特別な表現を作る人、かもしれないくても。
だからそんな自分までも削って誰かに差し出す必要なんてない方がいいのだ。



ところで、応援しているアーティストがいる、というと「実際のその人はテレビや板の上で観るような人じゃないかもよ」と親切に教えてくれる人がいる。あれやこれやと過去のゴシップまで持ち出して教えてくれる親切な人に出会うたびに私は首を捻りたくなる。


いやだって、誰だってそうじゃないか?


何も、テレビに出る人だけじゃない。私たちだってその時々、TPOに合わせて本心を隠して、良い人に見られるように振る舞っている。
もちろん、メディアに出る人ほどその"善人であれ"と求められる圧はすごいと思うので全くのイコールだ、というつもりはないけれど
でも、なので「本性を隠して良い人に見られようとしてるんですよ」と言われるとある程度誰だってそうじゃないですか、と返したくなるのだ。親切な人たちは、そんなことないのかもしれないけど。



例えば、結婚する前には本性を知りたいから酔わせてからがいい、と以前知り合いが言った時、私は猛烈に抗議してしまった。
だって、その人の前でいい人であろうとしたことはある意味、その人からの優しさではないのか。気遣いのギフトなんじゃないのか。
それを引っ剥がして「ほらこんな酷いやつだ」「ろくでもないやつだ」と指を指すことこそ、酷い話じゃないのか。


もちろん、単なる優しさや気遣いではなくて、騙すため、だって往々にしてあるだろうから全てをまとめては言えないけど。



そして「見えている推しはどこまで本当か」を考えていると私の拗らせた頭は「推しをどこまで肯定するか」という話へと流れていく。
それはつい最近、推しが炎上するところを初めて見たからかもしれないし、今年の私の年間を通しての思考が「正しい表現とはなにか」にあったからかもしれない。



キャンセルカルチャー、という言葉を知った。
著名人を対象とし、過去の言動を告発・そこから批判が殺到し、現在の地位や仕事を失うことを言うらしい。
デジタル・タトゥーという言葉もずいぶんと身近になった。
あるいは、価値観の変化、倫理観のアップデートを通して過去評価されていた作品に対し、エクスキューズを投げる動きも時折見られる。



その線引き、正しさをどこまでとするのかというのを私はこの一年ずっと考えていた。
まるで悪を成敗するかのようなキャンセルカルチャーのムーヴメントには疑問を感じるものの、一方で価値観や倫理観がアップデートされることはすごいことだし良かったな、と思う。
その同時に二つ成立させるには矛盾するような思考をずっとああでもないこうでもないと続けていた。



健全な批判だけできればいいのに、とその度に思うけど、そう考えるといつも、いや人に"健全な批判"なんてできるのか?という疑問に行き着く。
何かの感情を含めず、ただ事実だけを視て考え、批評する。
そんなこと、できるんだろうか。何をどう見るか、どう見えるかなんて全てその人の人生がそのまま反映されるだろうに。



じゃあ、好きになったら全肯定してみる、と考えても見るが自分の性格的にもとてもじゃないがそんなことできる気はしない。
全肯定しよう、も健全な批判をしようも、どっちもかなり高確率で自分が歪んでいく気配しかない。



いやそもそも、だ。
私は本当に推しが好きなのか?
もしかして、ひょっとして「何かを好きでいる自分」にしがみつくために利用していないか?
だって、好きなものがある人は素敵なのだ。それはたぶん、きっと、そうなんだろう。
だとしたら、そこにしがみつこうとしていないとどうして言い切れるだろう。



なんてことを考えるとその途方もなさ、無理ゲーっぷりに怖さすら覚える。だというのに「生身の人」というものを好きでいることは、誰かを傷付けるリスク傷付くリスクが、あまりにも高過ぎる。
なら、手放して好きになんてならない方が、何倍も幸せで優しく過ごせるんじゃないか。



でも私は、そう少なくとも「私」は、何かを好きでいることは、あるいは推しという好きだという気持ちをぐちゃぐちゃに煮詰めて呼ぶその先にいる人々は、自分の毎日を肯定する理由なのだ。そして、言ってしまえば、そんな人たちのおかげで、私はひとを嫌いになりすぎず、毎日にうんざりし過ぎず過ごしている。
別に私の人生は推しのためにあるわけでもないし、そうするつもりはさらさらないけど、大切な軸足の一つなのだ。
疑いはするけど、それでもやっぱり、突き詰めるとそこに至ってしまう。



推し、とひとまとめにして呼んでいるが、私にとってそういう好きな人たち、は自分が進む時の指標にしている"灯台"のような人々と、「ああ大丈夫だ」とその美しさに安心するために見上げる"星座"のような人々がいる。
その誰もが、欠けてしまえば私の人格が大きく変わるような顔つき一つ変えてしまうような、そんな存在だと、思うのだ。それがあまり良くないことだとしても。



私自身がたぶん、人間が好きだなあと思うために推しがいて好きなものを楽しもうとしていてそういう"過剰な物語化"で生活している。それはきっと、間違いない。
そしてそれを自覚しながらも今すぐそれを正すかも、正せるかも正す必要があるのかもわからない。



どうだろう、なんて面倒で無意味な思考回路だと笑われるかもしれない。だけど、自分にとって大切なものだと過剰なまでに頼ってしまっているのは間違いない以上、だとしたら、考え続けるくらいの誠意はせめて、示していたい。
面倒でどうしようもなく、みっともなさすらある思考回路だけど、仕方ない。生きてるのだ。
だとしたらせいぜいのたうち回ろう。せっかく、あなたにもらった今日なのだ。
なら、私は考えて考えて自分の言葉を探したい。それが今の私にできる精一杯、推しに自分の人生のハンドルまでは任せず、自分の人生を生きるという方法だ。