えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

疲れと『夜』と詞の話

疲れている。疲労困憊を通り過ぎて頭の中でずっとカーニバルと喧嘩が繰り広げられてる気がする。その上、段取りが下手くそすぎてやることがいつまでたっても片付かずろくに寝れない。


休むということの大切さを叫ばれるように久しいけど、でも実際「やるべきこと」はたくさんある。それこそ、食事すらエネルギーや手間暇がいるし、寝るのだって体力がいる。
とどのつまりは休む、も体力やエネルギーがいるわけで、それって結構詰みじゃないのか。休んでいい、なんて状況、全方面が順調な時にしか成立し得ないボーナスステージ的なものだと思うんだけどどうだろう。



なんてことを延々と頭が考えている。考えなきゃいけないこと、リカバリーの方法、次の段取り。そういうもので頭がいっぱいになるとそれを考えたくない頭が皮肉屋を脳内に作り出し、延々と行儀の悪い、性格の悪いことを喚き散らしたり、かと思えば驚くようなポジティブ野郎がはしゃぎだしたりする。いずれにせよ、忙しくてしんどい時の頭には負荷が大き過ぎるので、落ち着いてくれと説得することになり、やっぱり体力を使う。



しかしたぶん、今、「元気120%、幸せいっぱい」という状況を維持することは私に限らずどんな人にもかなり難しいんじゃないか。私だけじゃなく、周りも、テレビやネットを通して見えるものもどこか苛立ったり悲しんだり疲れ切ったりしてる。もちろん、楽しいも面白いも変わらずにあるし、そんなものだってたくさん、見はするんだけど。
でもなんだか、「言ってはいけないこと」が増えていってるような気がする。それは、実際にだというのに言ってしまった、を見て思うのか、それとも飲み込んだ言葉や飲み込まれた気配を感じて思うのか、自分でも良くわからない。
ただなんとなく、頭の少し上、あるいは首のすぐしたぐるぐると溜まっていくなにかを見ているような気がするのだ。


増えていく嫌いなものへか、許せなくなった好きなものへか、
続けなきゃいけないいつもの日常と続けられない当たり前の齟齬からくる虚しさか。
なんか、そういうのがもうずーーーーっとあって、それがもうなんというか、しんどいよな。



そんな世界のイレギュラーに自分のごく個人的なイレギュラーもこれでもかというくらい重なり続け、
クラス替えをすれば毎年人見知りを発動して胃炎になり、
引越しのための内見をすれば新生活のプレッシャーに落ち込む私はもうなんというか、疲労困憊なわけです。
こんな意味のないような与太話をブログに書くくらいには。
でも、なんというか、忙しくてしんどくて訳分からなくなればなるほど呟きたくなる自分から察するに、たぶん言葉にすることで収まりを私はみつけたいんだろうな、と思う。



頑張りたいことも大事にしたいこともたくさんあるのに、もうやだって気持ちもずっとあって、それがしんどくて寂しいな。そういうことをぐるぐると限界を越えてにっちもさっちもいかなくなった頭で考えていた。
それでも数年生きてればこれが疲れによるものだとは気付いてるし、なるべく早く寝ようとApple Musicのライブラリの中からなるべく穏やかな曲が多いプレイリストを再生して、目を閉じた。



そんな中、星野源さんの「夜」を聴いた。
Yellow Dancerは持っているし何度か再生しているはずなのに、初めて聴いた気がした。



許せないこととか嫌なこととか不安なこととか、そういうのが溶けて、溶かしてもよくてその向こう側、それでもなくならなかった好きなものに困ったなあって笑いたくなる。そんな気持ちになったんだけど、言葉にすればするほど、聴いた瞬間、見えたものとズレちゃって困る。
見えた、って言っても具体的に心象風景として広がったわけじゃなくて、
どちらかといえば、「それを見た時の気持ちになった」が近い。見てないんだけど、見た、そんな気がする。





音楽に叶えようもない憧れを持っている。
音痴でリズム感のない私にとって、音楽は決して自分のものにならない"素敵なもの"だ。
そんな音楽のことを考えている時々、感情や意味の真空パックみたいだな、と思う。メロディにのった詞は、ただ言葉としてだけ触れた時よりも受け取りやすかったり違う響きになって、私の元にやってくる。
それが面白くてそして言葉をこうして書きたがる人間として羨ましくて、すごいなあと噛み締めたくなるような詞に出逢うたび、じっと言葉を追いかけてしまう。



もしかしたら、源さんの言葉を聴いたからというのもあるかもしれない。
最近、言葉にうんざりすると、私はその話を聴きにいく。

Apple Musicのショートラジオ(正しくはなんというのがいいんだろう、分からない)で、源さんが歌詞の話をした短いトークが大好きだ。


あと、星野源オールナイトニッポンに興味を出した頃聴いて大好きになった2020年の6月9日の放送の中での「選曲」の話も。



圧縮され、聴き手のもとに届いてそれぞれの花を咲かせ、実をつける音楽。
あるいは、誰かが選んだ曲を聴きながらそこにある気持ち」考えを想像すること。



言葉で直接「こう思う」と伝えてしまうことはシンプルだ。だけど、シンプルすぎて、伝わらなかったりすることが多い。言葉はだって、万能ではないんだ。


でもだからこそ、その「伝えること」や「言葉」は、すごく素敵に思えた。そうして受け取ってきた色んなものはひとつひとつ、宝物になっている気がする。
一方でそれは「誤訳」の可能性を大きく孕んでいる。
その人を通して自分の主義や主張、思いを代弁させかねないし、そこまでじゃなくても「自分の中のその人への理想像」を押し付けた「解釈」になって、いつのまにかそこにいたはずのその人を跡形もなく無くしてしまうことだってあるかもしれない。
でも、同時に物凄い明るく素敵なものの可能性も詰まっていて、だとして、それを信じたくなる。



どちらにせよ、私は「伝わりますように」と願った、そこにある気持ちが嬉しかったのかな。
そんなことを、夜を聴いて勝手に受け取ってしまったのかもしれない。なんだか、聴いてるとやけにオールナイトニッポンのことを考えてしまったので。
周波数を合わせて(radikoだから、この表現は正しくはないんだけど、ニュアンスや気持ちとして、だ)顔も見えない、声だけのその時間。どんな顔で話しているか聴いているか互いに想像しながら過ごすその時間は、対面で話す時とはまた違うやさしさが、あるようなそんな気がする。



妙に言葉に傷付いたり傷付けたりせず、ああそうだよなって、そんなことを、私は思い出していたいんだ。
そして、そういうことを見失わないように形や輪郭を確認しながら、言葉を使いたい。だって私は音楽を作りたい、と思うことは多分、ない。言葉をそのまま伝えることをしたい、と思うんだろう、きっと。伝え切れるか分からなくても。疲れて嫌になって言葉を振り回したくなる今だから、余計に、そう思えたことがすごく、嬉しかったので、ブログに書き残しておく。