えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ハッピーエンド、星の数だけあれよ

推しが結婚した。
仲睦まじい写真ではなく、仲睦まじい動画が公開された。
仲良くアイスを食べてキスをする、それはそれは幸せそうな優しくて甘ったるい動画だった。
ああ幸せなんだなあと思いながら、
SNSに上がるおめでとうの言葉や寂しいという気持ちを読みながら、私も何度もツイート画面を開いては閉じ、開いては閉じしていた。



嬉しい、と思う。
好きな人に好きな人がいてその人と「一緒にいたいね」と言い合えることはとんでもなく嬉しい。当たり前のことなんかじゃ、ないと思う。
嬉しい、なのに、その言葉を打てば打つほど嘘をついてる気持ちになるのは何でだ。
この言いようもない……正直な言葉をそのまま当てはめるなら、もう二度と、少なくとも当分、その人の表現に触れるのを控えたくなってる、これはなんだ。
ガチ恋なのか?いや全然違う、強がりではなく、そうじゃない。
そうこうしてる間にハッとしたら、「目を覚ます」
ああそうか、夢か、と思ってちょっと突拍子もない夢だなあと苦笑してTwitterを開くと、やっぱりトレンドにはその人の結婚があがっている。現実だった、と思ってまた私は自分の気持ちをお祝いとして…それが出来ないならせめて寂しさも含めてもいいからなんか、言葉にしようと考える。考えて考えて、出てこなくて呻いていると、また目が覚める。



そんな、安いSFのようなループを4.5回繰り返していた。
今朝の夢のことである。
本当の本当に夢だった。推しの結婚も何もかも。恐る恐る覗いたTwitterのトレンド欄にも、ニュースサイトの芸能欄にも、推しの名前はなかった。
ほっと息をつく。


そこでようやく、何故私が夢の中でツイートできなかったのかに思い至った。
たぶん、私は推しが誰かとの幸せ、を選んだことが苦しかったのだ。


幸せになってほしいと思っている。それは、心の底から思ってる。穏やかで、優しいものが推しのもとに届けばいいと思ってる。


だけどそれと同じくらい、いやもしかしたらそれより強く、推しが誰かとの幸せになるのが怖いのかもしれない。
それは別にガチ恋に近い感情ではなく、
どうしようもない孤独感だとか虚無感をその人の表現に触れて感じるたび、どこか救われたような気がしてきた自分の身勝手なエゴだ。

それに気付いた瞬間、もう今日の予定全てをキャンセルして布団にくるまりながら自分を罵り呪いたくなった。
さすがにここで仕事をサボったらもっと自分を呪いそうだったのでなんとかオエオエしながら弁当と朝ごはんを作り身支度を整えた。ルーティンをこなしながら、考える。

まだガチ恋の方がいい。

勝手な投影と仲間意識で、相手に対してそういうことを考えた自分にがっかりしたし、あーーーークソだなあと頭を抱えた。
夢見が悪かったここ数日の中でも、1番寝覚が悪くてその感じで、ああどうしようもなくこれは自分の本心だなあとも思った。
当たり前の「一般的な」幸せを手にすることを選んだその人を見たとき、どうしようもない寂しさに覆われた。


一般的、が分からない。
一般的に仕事で着る服はこういった服が好まれて、とか。
一般的にこういう時は誰かと会いたくなるでしょう、とか。
一般的に誰かと特別愛したり愛されたりすることは人生における幸福でしょう、とか。


まあ一般的が分からないと言いながらじゃあ輝くような個性を持ち合わせているか、というと肩身を狭くするしかないし、
若造ながらそこそこ生きてはいるので「こうすることが一般的らしい」をなんとなく習得して、無理が出ない範囲、息を詰まらせてしなないくらいの遊びの幅を効かせながら「一般的」な振る舞いをするのはわりと得意な方だ。
「ちょっと面白い良い子」くらいのところのポジショニングで、毎日をどうにかこうにか過ごしている。


芝居やダンス、音楽に触れるにつけ、ひとりじゃない、と思うことがある。
それは柔らかだったり物凄いエネルギーを持ってることもあれば、どこかひんやりとしたぽつんとした場所にたどり着くこともある。
私は最近、そんなぽつんとした場所でぼんやり過ごすのが好きなんだと思う。
そして、推しはそんなぽつんとした場所を「まあこれはこれで楽しいじゃん」と作ってくれるような気がしていた。それをそのまま肯定するわけではなく、あくまでそれは寂しいと言いながらも、だ。寂しいことを楽しめ、なんて無茶な話ではなくて、だ。そんなことの居心地の良さを私は何度も受け取ってきた。
だからこそ、夢の中の出来事に、勝手に凹み落ち込んでいた。

寂しいことはいけないことなのか。

例えば、死なないでくれ、という言葉がある。
生きていてほしい、長生きしてほしい。生きることは悪いことじゃない。
そのどれも、本当だとは思うけど、なんというか、それだけが真実なのかなあ、と考える。
長生きすることが正しいのか、やりたいことをやれるだけやって終えることは不幸なのか。
健康的に生きることを目的に「無理をしない」生き方が正しいのか。

いやまあ、生きてる限りやり直せる、色んなことを始められるとすれば、
なるべく長く生きている方が良いに決まってるんですけどね。
でも、色んな人がいるじゃん、と思うし、その上で生き方を選びたいなあ、とも思うわけで。


なんかこう、もしかしたら言葉を選ばずにいえば、あんまり頑張って幸せになりたくない瞬間があるんですよ。
幸せになるために無理やり今幸せになったんじゃねえか、と疑いたくなるというか。すげえ、幸せという言葉がゲシュタルト崩壊しそうだ。

そもそも私はクソ生意気かつ性格の悪い子どもだったので、不登校の友人を卒業式の日だけでも登校させようとした先生たちに「終わりよければ全て良し的な思い出の整え方して意味あるんですか?」って聞いてめちゃくちゃ怒られた子どもだったんだけど、
このことを思い出すとなんか、いまだにあの小学6年生のメンタルを引き摺ってるのかもしれない。


嫌なものを無理やり飲み込んだりするくらいならちょっとずっとしんどい、みたいな、そこにある寂しいだとか嫌だとかから目を逸らさない方がマシじゃん、という酷く子どもっぽい理屈をいまだに引き摺っている。
逆に全てのことを不幸だ間違ってる、と言われるのも嫌いなんですけどね!
どんだけ嫌なことがあろうがご飯は美味しいとか、それこそ推しの何かは嬉しいとか、そういうことはあるから「全部この世が悪い」とか「不幸しかない」って言われるとどこがだよ!つて反論もしそうになるんだけど



一点の曇りもない幸せも不幸も、同じくらい気味が悪くて怖い。どっちも欲しくないと思う。



しかし同時にこうして考える自分が「わざと不幸でいようとしてるんじゃないか」という疑いは晴れないし、
更に言えば、こういうことをうだうだ考えて悪態吐いてる姿は友達からすると気分の良いものじゃないだろうな、と全ての連絡をたって引き籠った後、反省してるポーズをとりたくなるような恐ろしい気持ちになりもする。
まあそんなことをすればいよいよ構ってちゃんわーい!!!!と自分の頭を力いっぱいどつきかねないが。



こうやってろくろを回せば回すほど分からなくなってたんだけど、今、なんか、分かった。
そっか、私はあの趣味の悪い夢を通してたぶん「これが幸せだ」と世間一般で言われるところの場所から外れている自分を責められること、が苦しかったんだな。
なんか、推しが幸せなことが、じゃなくて、
それを幸せと呼ぶことで幸せの幅が狭まるような、そんなことが怖かったんだな。


なんで幸せになろうとしないんですか、ってこないだ聞かれて、幸せになろうとしてくださいって頼まれて、いやそれはもう、間違いなく、私のためなんだけど
なんか結構それに傷付いてたんだな。


みんな、それぞれ勝手に幸せでいたら良いな、と思う。というか、私がそういたい。
きっと、やってらんねえよクソってボヤいたりもするんだろうし疲れたなあって空を仰いだり布団に逃げ込んだりもするんだろうけど。
なんかそれでもさ、結構幸せだったり好きなこともたくさんあってそれだって嘘じゃなくて、
正しくないかもしれないんだけど、
私は今、すげー寂しくてでも同じくらいすげー幸せなんですよ。
それを、誰かに強がりだとか嘘だとかいわれたくないよな。
そんなことを確認する為にあんまりな役割を推しにさせたのはなんかもうちょっと反省するけども。

このブログは、お芝居とかの感想を書くためにあるんだけど、でもなんか、こういうのちゃんと一個一個、確認して言葉にして自分のものにしたいんですよ。一々しみったれてんな、と言われればそれまでだけど、私は自分の人生を全部、自分の言葉にして味わい尽くしたい。
今年はそこそこにしんどいけど、しんどいならしんどいってことを味わって味わって、見据えてそれっぽいハッピーなんかで誤魔化さずにただ隙あれば最高の一年だったって年末に言えるように足掻いていたい。そのための、しんどいや寂しいを味わい尽くす時間だって思ってる。



だって私は、私だけのハッピーエンドを信じている。
それは結構、楽しいことだったり、するのだ。