えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

りさ子のガチ恋♡俳優沼(小説版)

彼女は虚構を愛したんだろうな。
それは舞台の上がどうだとかファンが見ている虚像だとかの話ではない。

特別な誰かから愛される特別な自分、だ。

そしてそれが虚像なのは何も彼女がどうだから、というのもほんの少し違う。


平凡で仕事も適当にしててルックスに自信もなく、そのくせプライドだけはそこそこにあって、だからブサイクにも底辺にもなれず、それなり、でつまんなくてセピア色の影のほうに申し訳程度に居心地悪そうにしている彼女が愛されるわけがない、と言いたいわけでもない。


いやというかこれ結構悪口だな。普通に打ってて自分で落ち込んだぞ。落ち込むよ、だって分からなくもないのだ、りさ子のことが。

だからきっと、私は彼女が苦手だ。

彼女が愛しているものは虚像だ、と思うのは、そこから彼女が踏み出すつもりがないだろうな、と思うからだ。
踏み出して「誰かに愛される自分」を得ようとするのは疲れる、消費する。だから、彼女は、夢を見続けられる場所を愛している。だとしたらそれは、虚像だ、と思ってしまう。

別にここで、よくある努力がどうの、という話をするつもりはない。
というか、私はりさ子の選択の方が絶対しんどいと思う。世間一般の努力はしないかもしれないけど、とうってて気付いた。いや、してんだよな。
推しに貢ぐためのお金も必死に稼いでその為に色んなものを我慢して、そして最終的には整形だとかもやりだして……。

あれ、努力してんじゃん、りさ子。

それでもやっぱり、変わるための努力、というのとはなんだか少し違う。なんだろう、きっとこの「少し違う」の違和感が気になってしまって読んでから1週間、気を抜くと考え込んでしまっている。

りさ子は、自分の為に他人がいるんだなあ、とアリスやたまちゃんたちとのやりとりで思った。
ただ、だというのに、そうまでしながらじゃあその「自分」は誰なの?どんなひとなの?と考えたときに途端にりさ子の顔が私には分からなくなるのだ。


ガチ恋とか推しへのクソでか感情とか、当てはまりそうな言葉はたくさんある。あるが、私はどれもなんとなく、しっくりこない。

知って欲しかったのは、
愛される「特別な自分」
だっていくら知ってもらおうとしたところで、彼女は知って欲しい「自分」なんていないんじゃないだろうか、と思う。

特別な誰かを好きになってその好きを自分の名刺代わりにしてなんなら顔にまでして。
だけど悲しくなるのはその「特別好き」が刻々と変わっていくことだと思う。うまくいかなければ、次、といってしまう。

って考えてて気付いたんですが、いやお前もじゃんって自分にツッコミをいれてしまった。
ここのブログだって芝居のことばかり書いてた時からLDHが入り、源さんの話が入り
それこそ客観的に見れば私は「推しをころころ変えるひと」である。
その理由が私の場合は自分の内面にあって、彼女は外面にあっただけで。
更に言い訳を重ねると、推し変をしたわけじゃやく増えただけです、という気持ちなんだけど、それは一旦置いておく。りさ子のその変化の時の気持ちが分からないように、ここではその詳細まではあまり関係ないので。


りさ子のガチ恋俳優沼を観るきっかけはjamという映画だったんだけど、

りさ子のガチ恋俳優沼はある意味比べると容赦がない。
jamは最終的には「音楽」というそもそも「推した」理由に帰着したように私は感じていた。
りさ子についていえば、むしろそれを「本当に?」と問いかけてきた気がする。
更に言えば、なんなら役者側にまで「芝居」というものをすることについて、そこにあるドロドロしたものや自意識その他諸々をほら、と見せているような気がするので、それはもういっそホラーというか、決して芝居を観ることを辞めはしないけど、一瞬、ああもうやだなあ、と思ってしまった。

それはお芝居が悪いとかなんならそもそもこの作品が悪いなんて話ではなくてもうまじでただ純粋に人間ってきらいだなあ、くらいのラフな感想なんですが。

変な言い方をすれば、誰が幸せになるんだ?!みたいな気持ちになって、同時にいや、作品が誰かを幸せにする必要は必ずしもねえから、と冷静に自分をなだめてしまった。ないない、幸せにする必要はない。したい人がそうしたら良いだけだ。

しかし、私が徹底してりさ子の肩を持てないのは同族嫌悪なのか、と自問自答してしまうのはなんだか面白い。というか、りさ子のガチ恋俳優沼は上演当時から観には行かなくてもわりと感想は読みに行ってて、結構、りさ子に間違ってるよ、と言いつつ同情というか、多少の共感の感想が多かったように記憶している。

(蛇足的な補足だけど、共感するしないが良い悪いの話ではない。どう感じたか、だけの話でそれ以上でも以下でもない。当然ながら!(

なので、むしろ匂わせ女であるるるちゃんの方にいいぞいったれ、と思いながら読んでいた自分がわりと謎だ。匂わせはあったま悪、と思いはするものの、どっちかというと追い詰めていくシーンの方にぐっと力が篭ってしまった。小説でるる視点で読めたってのもあるだろうな。
あと、私自身が推しの恋愛事情で所謂匂わせ的なことを体験したことがないってのもある。もうこれはただただ運が良かった、なんだと思う。
あと、お芝居版だとラストのあの.5を踏み台にして俺は広いとこ行くっていう彼のオチがないんですね?!たぶんないんだな?!!


え、良いな!!!!!!!!!!(良いな?)


しょーたくんのあの会話のシーン
身を切るような痛みをありつつ、私は綺麗なシーンだなって思ったんですよ。
りさ子の胸の内を知らないからだけど。更に言えば、それは私が綺麗事、に逃げたからかもしれないけど。
なんか、匂わせするのはアホだしそんなアホのこと好きなの観る目ねえわー無理だわーの気持ちもすげえ分かるけど、分かるんだけど、
「知らない」んだよね。
りさ子もしょーたも。それを知りたい、知って欲しいと思って、思いながら会話する、
あれは正解ではないし、自分はそんな機会一生ないと良いなと思うけど(そんな機会を得るということはいろんなものを失うということなので)
でも、会話、のシーンだ、と思って素直に、それをなんか、りさ子、って肩を叩きたいような気持ちになったんですよ。それこそjamで徹底的に会話してもらえずにボロボロになったまさ子を知っているので。

会話をしない、は1番だって、辛いじゃん。

と、思ったら。思ったら、その後の怒涛の展開。もう完全にホラーだと思った。し、あれがあったからりさ子が欲しかったものは何だったんだろう、と思ってる。
知って欲しかった、すら、本当に?と思ってしまう。
まるで、役を演じる役者さんのように次の顔を選んで特別にしていくりさ子が、いつか穏やかに幸せになれる日はくるんだろうか。そこに彼女が好きだと言っていたお芝居はあるだろうか。あるといいな。せめて。あって欲しい。


もうやだなあと思いはしたけど、私は相変わらずお芝居を観るのが好きだ。お芝居を観たら元気になるし芝居の予定がある時間が何より楽しい。

知りはしないし、知ってもらうこともないけど。

ただそれでも、例えば舞台上と客席が何か大きいもので覆われるみたいな、あ、今、たぶんなんか溶けたな、みたいに感じる奇跡は思い込みでも感傷でもないといいなあと思う。
自分の人生のままならさを「推し」に肩代わりさせてる可能性に胃を痛めながら、自分がとてつもなく好きだと思っている作品が誰かの冷めた気持ちと一緒に作られた可能性を飲み込みながら、
それでも、と思う。思ってしまう。だから私はやっぱりりさ子に同族嫌悪に近い気持ちで呻いたりしながら、今日もお芝居を観る。
作品を通してした「会話」は嘘でも虚構でもないと良いなあと、独り善がりな願い事を呟きながら。