えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

その瞬間、僕は泣きたくなった


3回目のシネファイ。
たまらなく好きだったんだけど、中でも好きだった3つのお話について書く。


正直、私は今回のシネファイを観に行くか迷っていた。
前回、シネファイってこういうことがしたいのかな、というのを分かったような気になってなるほどなあ、と納得しながらもなんとなく「私は顧客じゃないかなあ」と思ったのもあって、二の足を踏んでいた。抽象的なお話がそんなに得意じゃない私にとって、行間を読む映画に対してのハードルが……しかも、それが複数ある構造が……なかなかに高かった。
ただ、タイムラインで語られる熱のある感想の数々に、どうしても観たくなって、映画館へと向かっていた。
何かを好きだ、ということが言葉になるのが好きだ。言葉や絵や、ともかくそういった「形」に変わるのがすごくすごく、好きだ。


そして、観終わって、ああして熱を込めて呟いていてくれた全ての人にありがとう、と言いたくなった。観てよかった、映画館で観たい作品だった。しかも、それを、この作品が好きな人たちの言葉に背中を押されてみることができた幸福は、本当にたまらないな、と思った。

On The Way
ドキュメンタリー映画のような作りの映画だった。
「台詞」として語られる言葉は少ない。
ないわけではない。でも、それよりもそれぞれの表情や行動、目の動きを丁寧に拾いあげていく。

今市さんの感性の柔らかさや優しさについて私は三代目のライブに行くたびに思う。
生きづらくないだろうか、と不安になるくらい柔らかな感性で、歌を紡ぐ彼らしい作品だな、と思った。

ただ、お芝居をしていないわけではない。
だけど、受け取るに振り切ったお芝居をしていたと思う。
今市さんについて考えるとどうしてもブライアンさんと過ごした日々のことをいつだって思い出すんだけど、
彼はその生活や一緒にいる人たちからたくさんのものを受け取って自分の色に変えられるひとだと思う。
そういう意味で、彼自身の良さを活かしながら、かつ、映画にしたこの作品すごくない……?と思うし、
その最後、彼自身が歌う音楽が流れるの、あまりに最高でかつ「CINEMA FIGHTERS」という企画の醍醐味だと思う。
今までのシネファイ1、シネファイ2も観てきたけど、ああこういう作り方もあるのか……と最高の気持ちになった。
彼が作中言う「中途半端に助けるなら最初からこんなことやらない方がいい」という言葉や、そこからの出来事
そして、現地のルールを知る彼の(カタカナ弱過ぎて名前がハッキリしない……申し訳ない)あの悔しそうにエンジンをかける姿、そして、それでもありがとう、と言ったこと。
なんか、あの作品って全体的に言葉は不要で、
言葉が追いつかない、言葉にするときっと意味合いを変えることがたくさん詰まっていた。
それが、きっと、今市さんの涙にもなっていたように思う。

本当に、あの作品大好きだったんですよ。
教会のシーンも、食事も。

丁寧で、優しく、それでも残酷で
そうして彼らは生きていくんだなあ、としみじみした。私は、生きていくんだなあ、と思える作品が好きなんだな。
何かを大きく変えるわけではないことが、もしかしたらすごいことなのかもしれない。

 

GHOSTING

SFが好きだ。それも、宇宙人や異空間が出てくるものが、というよりもむしろ、ほんの少し過去に行ったり未来に行ったり、
心が読めたり、そういうSFが昔から大好きだ。
そういう意味で、GHOSTINGは最初にモノローグが出た時点で絶対に好きなやつ!と拳を握った。

映像の空気感がとても柔らかい映画だった。
バクがメイちゃんを助けるために過去に飛ぶ。
しかしそれは、彼自身が死んでしまったからこそ、最後に与えられた奇跡の時間だ。
なんというか、ショートショートらしい優しさと柔らかさ、懐かしさが詰まってる映画だった。

元々Twitterで見かけた、この作品は「映画館だからこそ」の仕掛けがあるという感想も、
私の観るきっかけの一つだった。

確かに!と膝を打ちながら観たし、実際観て、このストーリーにその仕掛けがある愛情にグッときた。
映画が、好きな人が作った作品だった。

好きなポイントを挙げて話そうとするとどれもネタバレになってしまう。いや、このブログはそもそもネタバレをするところではあるんだけど、なんだろう、とはいえ、単にストーリーを言葉にしたくない。あれはやっぱり、あの映画の色合い、温度感で観てこそなのだ。たぶん。

でも、なんか、伝えたいことを伝える台詞が好きだったんですよ。
未来ってどんなとこ、とか
メイとのあの電話とか

 


なんだろう、シネファイは20分という時間の無限の可能性を教えてくれるんだな、と今回観ながら繰り返し思った。
短い言葉が伝えるもの、音楽や表情や視線が語るもの。
言葉だけでは負けてしまう、きっと描けない空気をただただ、丁寧に描いていく。


だって、GHOSTINGの最後の「彼女」の姿が、
あの二人の行動や感情の答えだった、そんな気がするのだ。
全部全部、あそこに帰着して、それが優しくて大好きだった。

 


海風


絶望的なまでに美しくて、優しい映画だった。
ご飯が美味しそうな作品が好きだ。
食事をする人が好きだ。
そんな私にとって、ここまでダイレクトに刺さって、かつ、心が苦しくなる表現があるだろうか。
直己さんと秋山さんの、寂しさの空気感をとても丁寧に行定さんが切り取っていく。
あの、電気の攻防するところの秋山さんの表情がものすごく苦しかったんですよ。
というか、この映画はたびたび、表情で刺してくるな。
馬鹿にしてる、と叫ぶ、彼女の中にある寂しさについて考えてしまうし、
卵焼きを食べた時の蓮の子どものような表情を何度も思い出してしまう。


彼らは、手を差し伸べて欲しい時に、あるいは差し伸べたい時にそうできないまま、ここまで来て、それが、ようやくそれぞれで果たせたのか。
だから、あんなに、食事のシーンが愛おしかったのか。


行定監督は食事のシーンが撮りたかったのだ、というインタビューを読んだけど、確かにあのシーンは心血が注がれていたように思うし、だからこそ、断片的に描かれていく物語に絶対的な温度感が生まれていた。
かつ、食事を魂を喰らい合う、と表現した直己さんの言葉を何度も噛み締めてしまう。


同じ釜の飯を食う彼ら。
飛んでいってしまった青い鳥、空っぽの鳥籠。
俺の母さんにしていいか、という言葉。
卵焼き、イカと大根の煮物、具がちゃんと入った味噌汁。


モチーフが丁寧にそこかしこに置かれ、それが物語の軸となり太く太く語り継いでいく。


食事のシーンを、魂を喰らい合うと表現した直己さん発案だという、あの遺灰を食べるシーン。
あんなにヒリヒリと焼けるような感覚は久しぶりだった。
だって「魂を食う」というなら、身体であったそれを食べることこそ、そう見えても良いだろうに。
それでも、私には酷く寂しい姿にしか見えなかった。もう二度と食べられない母親の手料理を惜しむように、その代わりのものを強く、悲しいくらい強く求める小さな子どもの手加減ないしがみつく小さな手を見たような気がした。
だとすれば、そのあと、ああして煙草に火をつけ、「大人」として生きる道へと帰る彼が寂しい。
それでも、母親の作った食事は変わらず彼の血肉になりそこにある。なら、きっと彼は生きていくだろう、と半ば祈るような気持ちで想うのだ。