えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

遠くの花火→もう一回の乾杯

先日、HEP HALLで観た空晴さんのお芝居。

そのDVDを2作観た。

 

関西弁の心地のいいリズムとあるあるの会話。

なんだろうその懐かしさからなのかまるで違和感なくするすると物語に入り込んでいく。

ひとつは、十年祭(10周忌)と10年ぶりの町の花火をきっかけに集まる親戚とお隣さんの、もうひとつはある式を巡っての家族の話だ。

 

人の死、がテーマになっている遠くの花火。

ひとつは10年前の、もうひとつはつい先月の。

もう、なのか、まだ、なのか、やっと、なのか。

出てくる人々はそれぞれにそれぞれの距離感で死に向きあっている。

 

やっぱり印象的なのは、先月亡くなった弟の格好をし続けるあおいちゃんだ。

歪で、違和感のある笑顔と受け答えは、おばさんが「あんたはしんどないんか」と聞いたことで、崩れる。

しんどい。平気になるなら、今すぐその薬ほしい。

そう、言いながら泣き崩れることはできない不器用さというか。ただ、不器用というより、あれは、なんだろう、処理しきれない感情なのかもしれない。

物凄く悲しかったりする時、素直に泣く、とかそういう処理すら追いつかないというか、やってきた感情が大きすぎてそのままにごろん、と横たわることがあるじゃないですか。あのシーンのあおいちゃんはそんな気がした。

 

10年前に妻を失った旦那さんと、その妻のお姉ちゃんと。

再婚のエピソードで「もうですか」とお姉ちゃんが口にした、あれは、本当に。

どれくらい悲しんでるか、どう過ごしてるから悲しんでない、とかそんなの誰一人分からなくて、その人しか、知らないのだ。そして、なんなら、自分だって処理できず横たわる感情をただ呆然と眺めることしかできないかもしれないのだ。

死んだ人との距離はそれぞれで、それは誰とも共有できないのだ、という台詞が耳に残った。

なんか、ほんとそうで。

薬は、明日あげると言い続けるしかないし、ある日急に効果をなくす。夜とか、突然いなくなったその人のことを考えて、叫びだしたくなることがある。

だけど、ただただ、明日って言って生きていくしかない。

私はそのことにとんでもなく途方に暮れてしまう。

 

お父さんが、あおいにもういい、あおいとして過ごしていいと言いながらも夢に出てきたさとしの面影を必死に追ってしまうことも。

大丈夫って言葉も嘘じゃなくて、だけど、大丈夫なはずがないのだ。たぶん、一生、その人がいなくなった穴と向き合って生きていくしかないのだ。そんなん、あんまりじゃないか、と思う。そうやって生きていって、なんになるんだよ、と言いたくなる。

 

大福が入ったパンを思って、いつかくる楽しいを思って、誤魔化し誤魔化し、やっていくしかないのか。

 

無理に立ち直ろうとすることも、支えようとすることも、出来るわけないよなあ、と思う。

だって、その距離感はそれぞれしか分からないんだから。

 

 

と、思うと、同時に上演されていたというもう一回の乾杯がある構成に感嘆するしかなくなるのだ。

もう一回の乾杯、は形が変わろうとする家族が出てくる。結婚するひと、離婚しそうになってるひと。そして、そうして形が変わったのは自分のせいだ、と思っているひと。

遠くの花火を踏まえるなら、いや踏まえなくても作中で言われるとおり、「家族も結局他人」で「どうせ分からない」のだ。

誰かを亡くした苦しさと、昔のしんどいことを突然思い出して叫びそうになる気持ちとか、もう、自分で向き合うしかないんだから。

下手にそれに触れられようとすることは、ひどくお節介で、デリカシーのない行為にすら、思えることがある。

 

だけど、だから、家族やもん、と何度も話そうとするおじさんの姿にあーーーーと思ったのだ。

分からんよ、なんも言えんよ、けど、話したい。

そう言って鬱陶しいほどに話しかける姿に、笑ってしまうし、愛おしく思った。

他人なんだけど。自分じゃないから、共有なんか出来ないんだけど。

明日、って言いながら時間薬しか、効くものはないんだけど。

 

でも、寄り添いたいと思うことや笑っててほしいと思うことは嘘ではないのだ。間違いでも、ないはずなのだ。

 

乾杯、とその場にいる人と笑い合うその姿はとても、素敵だった。幸せだった。

それだけで、叫びだしたくなるような穴を抱えてでも生きていく、その価値はあるような気がしたのだ。