えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

「これしかない」と思えなかった私がCreepy Nutsのライブに行く理由

「これしかない」と決めてラップを、DJをやってきたふたり。



そんなふたりのライブを観終わって幸福感に浸りながらビールを飲んで一緒に喋りながら、ふと一緒に行った先輩の呟いた言葉が忘れられない。



「自分にはこれしかない、って自分は思えなかった」





正直ドキッとした。私も、彼らを追いかける度に思う。エッセイやインタビューを読む度、ラジオを聴く度、MCを聴く度。自分にはこれしかない。私もそう思いたかったのに思いきれずに、その覚悟を決められずにそのまま置き去りにしていったものに覚えがある。
そのくせ、当たり前の「真っ当な道」を歩いてるとも思えずにその妙な卑屈さが余計に自分が今どこに立っているかの立ち位置を曖昧に変える。



もしもあの時、自分にはこれしかない、と思えていたら。
手放したくない、と覚悟を決めていたら。

何か変わっていただろうか。

そう思わず想像してしまうくらい今の自分はたぶん「整えられて見る影もない」んじゃないか。




ただアンサンブル・プレイで飛び跳ね、拳を挙げていた高揚感の中で、でもなんか、元気なんだよな、とも思っていた。元気で楽しく、嬉しかった。
あんな風になれなかった、と思いつつもそれは劣等感を覚えているわけでもなくてむしろ、なんだか自然と元気が出るようなやる気がでるような、そんな自分をも肯定してもらえたようなこの感覚はなんなんだろう。
そんな「自分とは違う」ふたりにどうして私は自分を重ねていたんだろう。




それをああでもないこうでもないと考えながら当日のラジオで語られた言葉にそれだ!と叫びたくなって、思わずブログを書いている。



10月17日、名古屋でのライブ後に東京で生放送というクレイジー過ぎるスケジュールで放送された「Creepy Nutsオールナイトニッポン」はスペシャルウィークだった。ゲストに東京03の3人、それから構成作家のオークラさんを招きさまざまなことが語られるなか、来年春に上演される公演が発表され、その企画が生まれる経緯が話された。








オークラさんがCreepy Nutsの武道館を見た時の「こんな気持ちになれることがもう自分にはないのかもしれない」は、私たちの「自分にはこれしかないと思えなかった」にも近い気がした。もちろん、オークラさんは自分の好きを貫き、自分の好きを仕事にしている。
でもその感覚は自分の好きが仕事になっているか、自分の欲しかったものを手に入れられているかとは微妙に関係ない感覚な気もするのだ。



俺の話を音楽にし続け、常に考えて自問自答し、何かを誤魔化すこともせず、いやしたとしてもそれすらも「誤魔化した」と言う。
Creepy Nutsのライブは一つの物語のようだと私もずっと思っているけど、それは単に構成がそうというだけではなくて、そこに立つふたりの感覚、姿があってこそだと思う。
そしてそれを見ていると自然と「自分はどうなんだ?」と問い直してしまう。


だからこそ私は彼らのライブにどうしようもなく食らうのだ。だけど、そうしながらも音楽にのっかり、MCに笑い頷きするその感覚が心地よくてそれを心底好きだと思えることが嬉しくて、2時間過ごした後、気が付けば前を向いている。






Caseという生でようやく彼らの音楽に出逢えたあの日以来、何度も生業やラジオイベントに足を運び、そうして毎度毎度号泣してきた。
そんな私が今回、初めて泣かずに1つのライブを終えられた。



Caseのライブで初めて「勝手に重ねて」自分の言葉や好きなもの、変えられなかったもの、そういうものに「それでもいいじゃん」と思わせてもらってきた。
2020年から……いやもしかしたらそれより前からずっとぎりぎりにすり減らしてきた何かを「それでもこれが大好きで大事でやめられないんだ」と思った。離したくないと思った。そう思っても良いんだとあの日、Creepy Nutsが教えてくれたような気がした。




そうして一年。
ワンマンライブとして、あれから一年分の時間を重ねたCreepy Nutsの音楽を私は笑顔で聴き切った。ずっとにこにこと笑顔のままで、楽しいという気持ちフルパワーで、自分を重ねたり想像したり、ともかく、最高の気持ちで過ごした。
これが好きなんです、と先輩を連れて行けるようになっていた。足を運んだHIPHOPのライブで、聴いた音楽で私も自分の言葉を自分なりの形で綴って良いと思えるようになっていた。いや、良いとか悪いとかじゃなくてそうしたいからするんだ。
それを、なんだかしみじみと噛み締めながら、でもそれ以上にその瞬間瞬間全部が愛おしく楽しい最高の時間だった。
その時間は、切実さとはまた少し違ったけどずっと大切だった。泣くように削るように縋るようにでもなく、ただ静かに、冷静に、でもすごい興奮しながら、正気で、私は彼らが好きだった。
どこまでもシラフだったけど、合法的にぶっ飛んでいた。






Creepy Nutsのライブはこれしかないではない人間をも肯定してくれる。いや究極ひとはみんな「これしかない」なのかもしれないと思い出させてくれる。だって、そこでそれを楽しいと思ったその時点でもう、それがその人の形なんだから。




Creepy Nutsを通して出会った日本語ラップたち。そこで語られる"俺の話"を、"リアル"を楽しみながら、重ねながら、どうあっても変わらないもの、変えられないもの、ブレない軸のことを思った。そういうものに自分を重ねて、そうなんだよな、と言葉や気持ちの出口を知ったことが何度もある。
もういっこ世界ができたような、といつかDJ松永さんが語っていたことをふと思い出してしまうくらい、私にとって日本語ラップを聴く時間は一つの逃避行になった。
そして、その逃避行は深く潜れば潜るほど、日常の中で無理やり整えてきた抑え込むための枠を外してごくごくシンプルな自分の輪郭を確認するための時間のように思うのだ。



その輪郭は、私にとっての楽しいや面白いで出来ていた。これが好きだ、で出来ていた。
言葉にすること、表現すること、自分の好きなこと、やりたいこと。そういうもの全部が自分の輪郭でそれはどれだけ削られようが整えられようが、離れることなく、そこにあった。
私はCreepy Nutsを見て、彼らの言葉や音楽に触れて自分の好きなものを離すもんか、と何回も思った。離さなくても良いんだと勝手に解釈してきた。それが仕事になるとかならないとか意味があるとか他人から見てどう見えるかにも関係なく、ずっとずっと、好きでやりたいことで良いんだ、と思った。それは十分、私にとっての「捨てられないもの」だった。



かつて天才だった俺たちへ、で、あるいはのびしろで歌われた、まだ自分たちには色んな可能性があること、それを日々生きていく中で狭めながら、それでも「草葉の陰でゴンフィンガー」を挙げるその日まで、生きていること。
それを私は、何か大袈裟でもなく「だってそうなんだから」という当たり前みたいな温度感で今、信じることができている。
そうやって毎日を重ねて、またその時の自分でCreepy Nutsにこれからも向き合えることが、心底楽しみなのだ。

MILESTONE OSAKA

楽しいことがあることはすごいことだな。

MILESTONE OSAKAに行ってきた。
すっかり梅田サイファーの音楽が好きになっていて、定期的にあの音楽で遊べる場所に足を運びたくなって今回も行くことに決めたけど、今回も今回とて、幸せで最高で楽しかったな。



DJタイムのあるイベントにも何度か行くようになったけど、あれ、本当に楽しくて最高だな。
なんばHatch、デカいミラーボールがついていてずっときらきら回っていてすげえ綺麗だった。DJブースから遠いところにいたのでじっくり近くで見れなかったのは残念だったけど、かっけーって音楽が流れてくるのをぼんやり聴きながら身体揺らして、照明を眺めるの、最高に良かったな。


てか、今回のイベント、本当に照明天才だった。
DJタイムの時の照明の構成もすげー好きなんだけど、青の映え方もすごく綺麗だったし、ゆらゆら光る影を見るのも楽しかった。
し、何より各アーティストごとの照明が天才。
壁に映った影がゆらゆら楽しそうに揺れてるのを見た時にブチ上がってしまった。本当に綺麗だったな。好みももちろんあるんだと思うけど、シルエットが本当に綺麗で、ものすごく好きだった。



ego apartment
歌声が格好良くてお洒落で心地よかった。
なんだろう、なんか、ほっとするような居心地の良さでそれが単に「優しい音楽」とかではなく、なんだろうな。
ほわっと明るさが灯るような、蝋燭の火を見てるような居心地の良さだった。
の中で、MCが本当に可愛いというか、え、若?!!とめちゃくちゃにビビったし、やっぱり音楽お洒落格好いいし、もうなんか、びっくりした。
そして、ともかく楽しい!って言っててなんかそれが最高に良かったな。音楽をやるのが楽しくて楽しくて仕方ないんだって人の音楽が好きだ。


Shin Sakiura
またこの3人もともかく楽しそうだった。
コロナ禍でストップしたツアーから、大阪でライブができること、いつか観客としてやってきたなんばHatchでライブをしていること。
初めて聴くひとたちだったけど、ここまでの道のりひっくるめて音楽をする姿、本当に格好良かったし、やっぱりこの人たちも楽しそうなんだよな。


ていうか、今回のイベント、本当に全身で「音楽が楽しい!」って人たちばっかりで最高に最高だった。
音楽が楽しい!って感情がステージで爆発して、それが観客席に飛んできて一緒に飛び跳ねるのってなんて心地いいんだろう。


MVもあるって言ってた曲がともかく好きだったから、一回ゆっくり調べようと心に決めながら腕を挙げてた。



どんぐりず
今回実はめちゃくちゃ楽しみにしていたユニット。ラジオの空気感も好きだったし、何よりどんな人たちだろうって聞いた音楽がすげえ好きだった。
そしたら、生で聴くと更に最高に良くてブチ上がってしまった。なんだもうかっけー!
ぴょんぴょん飛び跳ねて、音楽がどんどん飛んできて、なんか、凄かった。凄い、って言葉じゃ足りないくらい、すげえすげえ凄かった。楽しいがずっとそこにあった。
身体を動かしたくなる音楽ってこういうことを言うんだな、と思った。
やべえな、大好きな音楽がまた増えたぞ。


梅田サイファ
もう楽しいの天才集団なんじゃないか?
前回飛び込んだライブから改めてアルバムを聴いて向かった今回。音源も最高だけど、やっぱりライブがかっけーんだな、梅田サイファーの人たち!と嬉しくなった。楽しかった。
というか、ステージ上、人数も多いし色んなことが起こるから情報量がすごい。すごいけど、それがしんどいんじゃなくて気持ちよくて楽しいのが凄い。
わりと梅田サイファーの時は頭空っぽにして踊っていたので逆に記憶がないな。
でも、何回も何回も聴いたバースが目の前でたくさん弾けて、それがすごくすごく嬉しかったのを覚えてる。
音楽で遊ぶこと、なんかそれ以外いらねえなってあの時間ずっと思っていた。
ここに来れば、最高の音楽が聴けるから大丈夫って何回も思わせてくれてありがとう梅田サイファー。


Soulflex
今回の主催の方々だったわけですが、いやーもうかっけー!
そして今回のアーティストの皆さんをめちゃくちゃリスペクトしてるんだな、というのが伝わるし、なんかあああの人たちを「良い」って思う人たちの音楽が嫌いなわけがないよな、って思うくらい好きだった。
柔らかくて格好良くて、優しくてでも最高にクール。なんだろうな。
なんかでも居心地のいい音楽を全体的にたくさん聴いてた気がする中でも、一際、居心地が良かった。
またライブが観たいな、と思ったし、このMILESTONEっていう企画も大好きだと思ったので、また、いつか必ず行きたい。楽しかった。本当に、最高の時間をありがとうございました。





音楽聴いて頭振ってる時、ただ多幸感の中にあるかっていうと私は案外そうじゃなくて
日々色々考えてる嫌なこととかなんでだろうな、ってことが頭の中でぐるぐるすることもあるんだけど、そういうのもまとめてシャッフルされるのが気持ちいいんだと思う。
頭と身体がどんどん真空になるというか、まじで"トランス"状態みたいになってふわふわする。



分からないことがあるな、とライブの合間、思うことがあって、なんかそれにすげえ悲しくもなってたんだけど、でもその後、知らなかった音楽で手を挙げて楽しくなって、そういうことをずっと思い出しているし覚えてたいと思う。



別にクソなことは音楽でどれだけ気持ち良くなろうが楽しくなろうがなくならないんだろうけど、どうせならこういう素敵なもの、楽しいこと、気持ちいいことをたくさん見つけていきたい。いけばいくほど、自分の中にある嫌なことと見つめ合ったりもするのかもしれないけど、それひっくるめて飛び跳ねたいな。



はーーーー音楽が楽しかった。すげえすげえ楽しかった。総合的に見て100点飛び越えて120点逆転ホームランすわ。

否が応でも一日が増えてく

朝焼け直前に家を出て、朝がじわじわくるのを見るのが好きだ。家の位置の関係なのか、私の感覚なのか分からないけどそういう時目撃するのは明確な朝日よりもゆっくりゆっくり夜と朝が入れ替わる空だ。
本当にゆっくり変わる。ああ暗いな、夜みたいだな、というか夜だな、が黒の色が紺に変わり、紺が次第に白っぽくなる。遠くに見える航空障害灯がぼやけていくのを見ながら飲む缶コーヒーは近頃飲んだものの中でもベスト3に入ると思う。




好きな音楽を聴いてるとなお最高に良い。
人が少ないからちょっと口ずさんだりもできるし、なんなら踊ったって良い。



誰かの不在は時として暴力だ。それはこの間観た映画を撮った監督の言葉を自分なりに噛み砕いて咀嚼した言葉だ。
そんなことを繰り返して考えることがある。
それを考える時はそうだよな、と思っている時というより「でもさあ」と考えてる時だ。



死にたいじゃなくて消えてしまいたいと好きなラッパーが歌ってるのを聴いてそうだなあと思うことがある。こんがらがったもの、情けなかったもの許せなかったり許してもらえなかったことを全部ひっくるめてなかったことにしたい。逃げたいし消えたい。嫌なことや嫌なやつを消したり暴力を振るったりできないから、だったらこっちがいなくなる折衷案で手を打たせてほしい。




ただ、そうして選んだ選択がどれくらい人にダメージを残すか、知ってるつもりだ。その不在は、自分が好きだと思うひとほどダメージを受ける暴力に変わる。




自分が誰かにとっての特別じゃない相手だとしても、不在の強さは、そんな関係を飛び越えてその人の人生に染み付く。し、たぶん、自分で言うのもあれだけど、そこそこに私のことを大事に思ってくれてるひとがいるわけだ。
それを認めないのは、そうであった方が自分を投げ出せるという自分のための楽のために他ならない。自分が大事に思われてない方が都合が良いことは時々、往々にしてあると私は思うのだ。




あなたの今の体調不良はきちんと怒るのが苦手で怒ってることを全部なかったことにしたから代わりに身体の不調に変えて身体が訴えてるんですよ、とこないだ病院で言われた。なるほど、とも思うし、でも結構私、怒ってもいるんですよ、とも思う。やっぱりその怒りも私が好きだな、大事だな、と思う人にほど伝わって心配や迷惑をかけてるので、ままならねえな、と思う。



いつだか、夜中に見かけた「あの人はそんなことをするような人じゃなかったのに」という言葉がいまだに自分の中でこべりついて離れない。それはその人の、それこそ決死の覚悟での優しさだったんじゃないのか。それをそれすらを今もないことにされて、理想を押し付けられて生きていかなきゃいけないこと自体、酷い話じゃないのか。




そういう、不意打ちで誰かに話すにはちょっと出し方次第ではただただ誰かを消耗させてしまう話をずっと考えて考えて、考えすぎて何もなくなるくらい考えて、夜明けの道を歩く。歩いて歩いてしてるとだんだん頭の中で言葉が溶けてまあ良いか、に変わる。
気分が良くなって、なんてことはないけど、好きなアルバムも一枚聴き終わって次は何聴こうかな、ってちょっとわくわくしたりもする。





そして、空はいつのまにか完全に朝に変わる。
道を歩くひとの数が増える。すれ違うひとの顔がちょっと晴れやかに見える。ああ、一日が始まるんだな、と思う。






流石に今は早い時間すぎるけど、もうちょっと時間が経ったら友達に連絡しても良いかもしれない。今すぐ遊ぼうなんて予定じゃなくても、先延ばしにしていた約束を取り付けに行っても良いし、特になんでもなく、楽しかった話をしてもたぶんなんでもないまま一緒に話をしてくれるだろう。
そんなことを自然と考えたりもする。
ついでに言えば、誰かからそういう連絡がきたら、それがあなたからなら、私は結構嬉しいんだと思う。



MIU404の感想の中で口にした言葉を思い出してたよ、と友達から言われた。自分のために残した言葉を誰かがそう言ってくれるなら残しておくことはいいんじゃないかと思った(その言葉はラジオごっこで口にした言葉だから、厳密には残してはないんだけど、それはそれとして)
かと言って、やっぱり私は誰かのためにはたぶん、書いてない。自分の言葉で自分のことを雁字搦めにしてそれを命綱だなんて呼んだりするんだ、たぶん。




だからこれは、あなたを励ます言葉ではない。
そもそも、励ますつもりもない。
だって、あなたの不在が誰かにとっての暴力になり得るけどその覚悟があるか、と問い掛けてるようなものなんだから、励ましなんてもののはずがない。
それでもとやる選択を許さないのもなんか、違うんだけど。そしてだから責めたいというのも違うんだけど。もしもの時は、それだって一つの正解だろう。





それでもそれはそれとして、少なくとも今、否が応でも一日が増えてく。ここにいる限り、一日は増える。
積み重なっていくだけに思えるその中で時々、たまらなく楽しい日がある、嬉しくて何回も何回も繰り返し思い出す日がある。
今日はもしかしたら、そんな日かもしれない。

赤福ひとつぶんのしあわせ

朝、起きないという贅沢を最近味わってる。予定を入れないという予定を立ててぽっかり空けた日。ひたすら寝る。目が覚めた時にもその曖昧な感覚を全力全神経で掴んで離さずに眠る。携帯もなるべく確認しない。


そんな風に自分の平日使い果たしたエネルギーを充電する。
自然と目が覚めた時間を確認したら昼前で「まあこの辺にしといたろ」なんて呟いて目を覚ます。


今日の予定は赤福を買うことだった。
ずっと食べたかった。ある日の仕事中、赤福って確か、一人分のやつもあるんだよな、と思い出してからはもうダメだった。ずっと赤福。脳内赤福。実は仕事中もこっそり調べて、記憶の中曖昧だった情報を確実なものに変え、どこだったら買えるかも確認済みだ。


日が落ちて、ぼんやり散歩をしながら店に向かう。耳元では、好きな音楽が流れている。
残念ながら、日暮れを待っていたせいで狙っていた赤福は売り切れていて、ええいままよと八個入りを買った。贅沢だと思う。だけど、そんな日があっても良いじゃないか。
店員さんに二個入りの赤福はいつも売り切れますか、と聞けば、今日何時に売り切れたかを確認してくれて「今度来る時、連絡くれたら避けとけるので」と笑ってくれた。なんだか、それもめちゃくちゃに嬉しかった。



帰り道、少し遠回りして、お気に入りの場所にマックでコーヒーを買って向かった。行儀が悪いなんて百も承知で外でぼんやり好きな景色を眺めながらコーヒーと赤福を味わう。
携帯を操作して明日のライブに向けて、聴き込んでる途中のアルバムを流す。



安心する場所を見つけられるようになったと思った。それはたぶん、自分でそういう場所が作れるようになったという話だと思うし、どういうのが好きで安心できるのかをようやく分かるようになったという話だと思うのだ。
ああ、良い日だったな。

嬉しかったことなど

好きな人が優しかった(PEACE!)って感じだ。



ポップンマッシュルームチキン野郎さんの12月公演のインフォメーション。それを私は仕事終わりに観た。帰りのぼんやりとした電車の中、格安スマホがのろのろとページを読み込むのを見て、一文一文読む度に元気が出た。
それこそ冒頭書いたモー娘。さんの曲を口ずさみたくなる。




私はポップンマッシュルームチキン野郎さんが好きだ。大好きだ。
お芝居自体ももちろん、そこに関わる色んなものが好きだ。



「いい歳した大人が定職にもつかず、
一生懸命一生懸命やっている演劇リターンズ!
熱い冬になりそうだぜ!
いい子も悪い子も、
全ての生きとし生けるもの集まれー!」




公演ページ冒頭、そう書かれた言葉に、そこから続くキャッチコピーにシンプルに泣きたくなった。泣きたくて笑って、なんかもう、ぐちゃぐちゃだ。
12月の公演詳細が出た時から、私の中で日々の生活の添え木のようになっためちゃくちゃに大切な用事は、情報が追加されるたびにこんな幸せな気持ちにさせてくれるんだな。


そう思いながら、増えた公演詳細を眺めた。
そうして、チケットどうしようかな、と考えながらページを見ていた時である。



(ところで、ポップンマッシュルームチキン野郎さんのチケットのシステム「オーダーメイド指定席」がユニークで好きだ。実はそもそもそんなにこの座席!という感覚がなかったんだけど、今回は公演に行けるのが嬉し過ぎるのでこれを頼んでみたいな、とソワソワしている)



インフォメーション、すっかりお馴染みに(悲しいかな)感染対策を確認していた。
その中でもしも、コロナ関係で何かあった際、劇団へ連絡の上、払い戻しがあるという一文にびっくりした。もう本当に本当にびっくりした。


公演が中止になるたび、払い戻しという言葉を見ることに呻いてきたわけですが、同時に公演が無事に打てるかどうか、製作陣はもちろん、観客側にも何かがあるわけで。
今回、ポップンマッシュルームチキン野郎さんの公演では、感染してしまった場合、あるいは濃厚接触者になった場合、その他諸々。そういう「行けなくなった場合」規定の期間内に連絡をすると払い戻しがあるという。


また、この稽古がおそらくまだ始まってないなか、上演時間が提示されていて、
予約日時が変更できて(?!)
一部日程では託児サービスがあり、
プレゼントボックスまで復活するという。



いやもう、大丈夫ですか?
もちろん、観に行く側としては本当にありがたい。
このタイミングでお芝居を見に行く予定を立てるということは結構迷う。それでギリギリに予約することも多い。
でも、例えば客席数を思えば「ええいままよ!」と予約して正直公演2週間前からぴりぴりと健康管理に神経を張り詰めることで度々あるわけで(いやそれは良いことなんだけど)



とか、なんか、書いていたけど。
もう本当に、そりゃ嬉しいし有難いけど公演を打ってくれるだけでもう本当にどこにどう伝えたら良いか分からないくらい有難いのだ。
嬉しい!と思ったサービスのそれぞれは、かなり劇団側の善意だし、そこまで手を尽くして、お芝居を届けようとしてくれるのか、とびっくりしている。




でも、それがない公演に対して「してくれ!」とも思わないんですよ。
例えば、前売り券、当日精算券、当日券の問題もそうなんですけど、払い戻しができるってそれそのままリスクでもあるし、日にち変更って本当の本当に有難いけど、手間だとかその他諸々、いや本当に、なんか、なんか。




だからこそ、「ポップンマッシュルームチキン野郎さんができるなら他でもできるじゃん!」とは全く思わないんだけど、なんかでも、ちゃんとこうしてお礼を言葉にしたかった。
嫌だったことやクレーム、誰かの不手際の時に声高に叫びがちなので(私が)ちゃんと嬉しかったこと、有難いことの時に、ちゃんと言葉にして残しておきたいと思った。



それから。
面白いお芝居を作るというそれ自体が奇跡みたいなものを成し遂げるなかで、ただ作品のクオリティを上げるだけではなく、その体験、そうして過ごすための全ての瞬間が最高になるように創意工夫し続けてくれるポップンマッシュルームチキン野郎さんに改めて愛と感謝をお伝えしたい。
本当に本当に、ありがとうございます。



それからもうあれだ。もう、届けてくれる皆さんがここまでしてくれるなら、もうあれだ。
私も万全を整える。仕事を頑張るし、本気で予定を調整するし、そもそもチケットを取れるように頑張るし、何より健康でいる。元気で、120%の最高のコンディションでお芝居を受け取りに行く。


いつもこんなにたくさん、嬉しいや好きをくれてありがとう。12月まで絶対元気でいるし、きっと12月以降は最高のお芝居でまた元気で過ごせます。



最強最高のお芝居の情報が観れるサイトはこちらだ!

エス・オー・エス

ENGさんの作品を何作か観てきたけれど、ドンピシャ一位で大好きな作品と出会った。
それが、今回はもう無理かもしれないと思いつつ、でもどうしても好きな役者さんが揃ってるところは観たいと配信期限ぎりぎりに購入したお芝居だったことに、結構私はいま、嬉しい!と思ってる。
本当に本当に面白かった。出会えてよかったな、と思う。
それから、S.O.Sというタイトルを噛み締める。
本当に、なんて良いタイトルだろう。



物語は、観光客船が遭難し、無人島に着くところから始まる。
ENGさんはいつも丁寧にキャスト紹介を上演前してくれるわけですが、
今回、それを観ながら「ファンタジー寄りのお話なのかなあ」と思っていた。
剣や魔法は出てこなくても、「現実ではあり得ない」というリアルラインで展開する物語。
そういうお芝居は、結構ENGさんであるし(逆に剣や魔法が出てくる系のお芝居もあるけど)なるほど、今回はこんな感じか!と思いながら観ていた。



自分自身がそんなにファンタジーの解像度が高くないところもあり、それもあって今回どんなテンションで観るんだろうなーと自分自身に思っていたところは正直あった。





そして実際、配信を見出して、あーでも楽しいな!と嬉しくなった。わくわくした。
画面に溢れる個性豊かな人々。いい意味でデフォルメ化された人たちはそれはそれで見ていて楽しくて「現実」を忘れさせてくれる。かつ、ENGさんのお芝居を見るときの心持ちはわりとそこなのだ。そういうところを居心地が良いと思ってる。ENGさんの「現実を忘れる時間でわくわくしてほしい」というスタンスが、私は結構、好きなのだ。それはストーリー傾向がドンピシャ好みとはちょっとズレるけど、それでもここのお芝居は好きだし、この人たちがお芝居をしていると嬉しくなる理由の根っこにあるのかもしれない。




ともあれ。
そんな現実にいそうでいない"濃いひとたち"が自由に舞台上、「無人島に遭難」という設定の中で駆け回る。
ところで、それはいつもすげえな、と思うし今回より濃く感じたんだけど、芸達者な座組み、という言葉に思わず深く頷きたくなるほど、彼らが演じていると"あり得ない設定"があり得てしまうからすごい。
生きてる。いないだろこんな人!と言う前に「居る」確実にそこに「生きてる」。
いやもう、本当に、そんな彼らが私はすごく好きだ。





そしてそんな濃い人たちも、抱えているのはどこか知っているような痛みだ。人数も多いから全てを事細かに掘り下げられるわけじゃない。
だけど、それぞれが抱えている悲しさや寂しさ、劣等感、なんとなくの居心地の悪さ。
それが、笑いの合間に顔を覗かせる。そんな距離感がまた私は居心地が良かった。非日常だからこそ、彼らが口にした「日常の中の閉塞感」に自分をほんの少し重ねて、でも笑えたりわくわくしたり、なんだかもう、それがすごく、見ていて楽しかった。


「なんとかなると思ってるうちは、なんとかなる」

冒頭語られた台詞をそうやって楽しみながら、そうだなあと頷いていた。
今回、ずっとこの「小劇場」と呼ばれる界隈に出会った頃から大好きな役者さんたちが出てて、その人たちが揃ってるお芝居を(共演シーンはほぼなかったけど)久しぶりに見て、すごくすごく幸せだった。
心を大きく揺さぶられる、とかではないんだけど、それこそ「このお芝居がある間はなんとかなる」と思えるような居心地の良さがあって、なんかそれは、言語化できる類のものではない気がするんだけど。
そうだなあ、と思いながら観ていた。
楽しいこと、笑えること。現実的かどうかとかリアルかとかはどうでも良くて、なんかそういう時間がすごく大事だったりするのだ。







とか、思っていたら。思っていたらですよ。物語が大きく核心に迫って心持ちをぐいっと引っ張られた気がする。
「あり得ない」設定はそりゃそうだったのだ。
全て、松木わかはさん演じる主人公が書いた脚本上でのお話なんだから。


なんかもう、そっから、びっくりするくらい気持ちがぐらぐらしてしまった。
し、なんというか、荒唐無稽だろうがなんだろうが、面白いものを描こうとする、生きようとする彼ら、そしてそれを描く姿にどうしようもなく食らってしまった。

松木わかはさんを何度も舞台の上で拝見したことがあるし、ツイートもそれこそ拝見することがあるけど。ああぴったりな役だな、と感じた。
もうなんか、いっぱいいっぱい愛してくれる人だな、と今までの作品で思ってきたし「これが好きなんだ!!!!」というエネルギーに満ち溢れた役者さんだと思うわけですが、その魅力が大爆発していた。
そしてそうして愛されて生み出された登場人物たちをこれまた私の好きな役者さんたち含め、魅力的な役者さんが「これが好きなんだ!!!!!!!」の気持ちで生き抜いてくれる。



もうなんか、こんな嬉しいことってないよ。




どれだけ幸せな物語を見てもどれだけ笑ってもどん詰まりの現実や日常は変わらないかもしれない。だけど、荒唐無稽だと笑われようが「これが好きだ!」と思った「面白い!」と思った、そうして生み出された物語を旅した時間は、絶対に忘れられないものになるから。


そういう時間は、確かに「Save Our Souls」になるのだ。

マイブロークンマリコ

好きな人々が、好きな作品を映画化する。
それは本当にすごいことなんだけどたぶん私が嬉しいのはそういうことじゃないんだよな。




マイブロークンマリコ
ある日Twitterで読み、単行本が出ると聞いて迷いに迷いやっぱり三軒はしごして買ったコミック。
その、大好きで大切な物語とまたもう一度、違う形で出会えたことをずっと反芻している。




ある日、親友が死んでしまった。しかもただ死んでしまったのではなく、自分に一切連絡も寄越さず、自分の手で自分の人生を終わらせてしまった。
この物語は、ある日勝手にいなくなったマリコの遺骨を連れて、シイノが最初で最後の旅に出る物語である。





ところで、これはどこまでもシイノの物語だ。
パンフレットなどでも言及されていたとおり中心にはマリコがいるのに、それでもどこまでもシイノの物語で、マリコの物語にはなり得ない。
不在はずっと不在のまま、勝手に物語の一部にしてしまいながら、シイノの物語がただただ、続く。
シイノが、それを望む望まぬに関わらず、だ。




映画で生身の同じ次元のひとが演じる繰り返し見返した物語に触れて、ふと思った。
居なくなってしまった、いや、「死んでしまった」人にマイナスの感情を持つことは難しい。
恨んだり、憎んだり、うんざりしたり、もっと言うなら「うざいな」「面倒だな」と思うことはきっと、相手が生きていてくれないとできないんじゃないか。ある日生まれた不在はそのまま、その人を美化する。物語にどんどん変えていく。嫌なのに。
あなたのことが大切だったというのは事実だとして、それが一点の曇りない感情だと呼ぶのは、さすがに、別物になっちゃってるでしょうよ、と苦々しい気持ちになった時のことを思い出した。




弔いも後悔も、全部が生きた人間のためだけに存在してしまう理不尽さが、美化されてどんどん零れ落ちていくその人の輪郭が、そのまま映画の中にあるものだから驚いたな。
死んでしまった理由の解明でも、残された言葉を探す旅でもない、ただただうんざりするような長い長い一生つけることもできない折り合いを身体の中に入れて深く深く息を吐く、その苦く苦しい時間を私はこの物語で見た気がする。でもそれが悲劇でもなく、かといって希望なんてものも見せずに。
生きることも死ぬこともどちらも平等にみっともなく惨めで汚くて、柔らかい。




私は原作の平庫ワカさんの絵が大好きなんですが、その絵の感覚と生身の好きな役者さんたちの表現をどちらも今、噛み締めることができる贅沢について、ずっと考えてる。




大好きなマリコのお父さんの再婚相手のおばさんを演じた吉田羊さんのお芝居を観た時もなんだか無性に泣きたくなった。
人間のあのなんでもない感じが画面のあちこちに滲んでいて、だというのに美化も劣化も苛烈な脚色もなく、ただただ、そこにいることが、そこにいて普段飲み込んで蓋をしたものをそのままにストレートに出すことが、私はずっと、好きだったな。



マリコのことを面倒だとも思ったこと。
誰かがいれば死なないなんてことないんだということ。「この人がいてくれれば生きていける」なんてないんだ。そんな感情はあったとして、そんな事実はたぶん、どこにも存在しないのだ。

「死んでちゃ分からないだろ!」と叫んだ、永野芽郁さんの言葉が、歯ブラシを差し出した窪田正孝さんの言葉が、ずっと頭から離れない。
それから、奈緒さんのそうじゃないならなんで、と尋ねる声が。そういうのが全部頭の中に反芻してて、でも映像のひとつひとつがその記憶まるごと、抱き締めてくれているような気がする。



生きてることの肯定なんて話でも、ないんだろう。
大丈夫じゃない、ズタボロのなか、やぶれかぶれのなか、それでもそうやって見えてる私たちが大丈夫に見えたらいいな。
生身の人間が作ったからこそ滲んだいい意味での生臭さは、そのままどうしても生きてしまう私たちのそばにいてくれるのだ。



ところで。
私は、自殺しないと決めている。
日頃の私の言動を知る人からすると苦笑いされるかもしれないが、ずっとや必ずはないとすぐ言う私にしては珍しくぶれず、ずっとずっと、そう決めている。

(そういやこないだ友人にどうしようもなく落ち込んだままでいることを詫びたら、「でもつくは自分で死にはしないから良いよ」と言われた。自分だけの中のルールを誰かに信じてもらえるのは嬉しい)

それは、私の中で絶対で、それを覆すとしたらともかく酒で前後不覚にするくらいの正気を失う必要があるし残念ながら酒にそこそこに弱いのでそこまで綺麗に酔えもしないと思う。だからやっぱり、私は、自殺はしないと決めている。




タナダ監督の作品はいつも、なんとか生きようと思わせてくれる。大丈夫じゃない、破れかぶれだし酷いことばっかりだ、ということは誤魔化さないのに、それでもいつも、生きようと思う。




元々、生きる気しかなかったけど、マイブロークンマリコを観て心底私はああ何とかどうにか、生きていこうと思ったのだ。