えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

仕事に負けないためのCreepy Nuts10曲リスト、あるいはただの仕事の愚痴

仕事がつれえ。
何が一番つらいかって仕事をしないともっと辛いということを直近で痛感してるので辛えけどももっと辛いことはあるぞ、と自分が一番思ってることだ。逃げ場がない。



いやでも別に辛くもない気がする。
楽しくもある。憧れた仕事なんてなかったし今の仕事も別にやりたい仕事として決めてなかったけど、数年社会人をしてる中で「これをしよう」と決めたことではあって、間違ってなかったと思おうとしている仕事なのだ。
でもやっぱり間違ってなかった、と思いたいだけなのか。思い込ませてるだけなのか。




とか。思ってると。仕事出来なくなっちゃうじゃないですか。
あーーーーー全部やだ、しちゃうし、そうなるとやってられなくなるわけで。というか仕事しないと生活していけないし。何より、止まることは大事だけど止まった後もっかいエンジン吹かすことの方がしんどい。
やってらんねえと叫びそうになる時は、だいたいCreepy Nutsを聴くのだ。



Lazy Boy


だいたい無理!ってなってる時って忙しい。部屋は荒れまくってる。ギリギリの衛生面を保って服を畳めないまま山にしてるしフローリングに埃の気配を感じている。分かってるけどやれないし、なんならそもそも休む時間を削ってるのに丁寧な生活なんてできるわけねえだろと悪態吐きたくなる。
まあ、このLazy Boyの彼らには釣り合わないような忙しさなんですけどそれはそれ。比べる必要はないわけだ。
私がこの曲を好きなのは忙しい、3分だけでも時間が欲しい、寝たい、という言葉の中、でもこの状況を「夢にまで見た」それだと歌うところだ。ずっとこうなりたかった、でも本当は怠け者で引きこもってるのだって平気だ。


そんなことを交互に、忙しい休みたいでもこうして過ごしかったでもしんどい。
それを緩やかなテンポで聴けるのがなんだか居心地良くて暴れ回ってる頭が落ち着くような、腹の底、覚悟が決まる、そんな気がする。


おっしゃ、一旦落ち着いてモード入れていこうと思う。



シラフで酔狂

シラフで酔狂

シラフで酔狂


めっちゃ好き。いきなり言葉を失くすけど本当にこの曲が好きだ。実はそもそもCreepy Nutsを気になったきっかけの曲だったりするので、思い入れだってある。

この曲を仕事前に聴きたくなるのは、この曲の成り立ちが大好きだからかもしれない。



R-指定とDJ松永 Creepy Nuts『シラフで酔狂』を語る




もうなんか、この曲は書くことないな。聴いて、みんな。




スポットライト


どこまで頑張ればいいのか、とかそもそも「ここは頑張る場なのか」みたいなことを考えることがある。
別に大した仕事をしてるわけじゃない、騒ぐほどのことじゃない。
そうやって自己卑下をかまして自分を隅っこに追い込んで、そうすればそうするほどに自分のしんどさみたいなのが情けなくてまんまと袋小路にハマる。
みたいなのダッセーと思わせてくれて、良いからやれよ、と思わせてくれる名曲。
MV見てなかったとこのブログ書きながら気付いたのでとりあえず観ます。


「俺のゲーム、俺だけのステージ」
そんな言葉を聴いて、足元を見る。



爆ぜろ


営業という喋る仕事を好きになったきっかけをくれた人に言われたことがある。営業やってるとその人の人としての弱点がそのままその人の営業の弱点になるんだよ。
最近そのことを考える。人付き合いが苦手なこと、素で喋るのが苦手なこと、すぐ思い詰めるネガティブ思考なところ。それを隠し切ることも曝け出しきることもできないところ。
情けなさに吐きそうにもなるけど、「言いたいこと言え」「好きなように生きろ」もハードルが高すぎるから、たまに爆ぜる、くらい許して欲しい。


素直になるんだとしたら、それでもやっぱりこうしてジタバタ足掻くのが好きなんだと思うから、なんかもうやってらんねえなって思う。
それはちょっとだけ清々しくもあったりする。



板の上の魔物


ちょっと清々しくなったところで気合をもっかい入れ直したい。
この音楽の頭、いっこいっこ確認するような言葉とそれに合う音が気持ちいい。一つ一つ自分の中のリズムを確認するような、そんな気がする。
軽やかで、でも歌ってることはちょっと容赦なくてそれを全部まとめて吹き飛ばすようなそんな気分になる。
なんだろうな。なんかこう、爽やかやったー!ではない。むしろ、胃液の苦さみたいなのはより鮮明になるんだけど、まあもうやったるわい、みたいな気持ちになれる。



生業


自分がダメなやつだと思ってた方が気が楽なことがある。でもそれじゃ立ち続けられない。
大したことないって自虐じゃいけない場所があるし、自分で自分を落として得することなんてたぶん、ない。
HIPHOPは「かまし」の文化である。
この生業はストレートにCreepy Nutsかまし、の音楽だ。
フロウはRさんのスキルも言葉遊びも堪能できるし、松永さんのスクラッチがたまらなく気持ちいい。


格好つけるのは怖いけど、格好付けてかまさないといけないところだってあるのだ。
負けてたまるかよ、と思う。


パッと咲いて散って灰に


勝つことって負かすことだ。自分がここに立ってるのは、誰かを押し退けた結果だ。
勝つこと、なにかを目指すことを美化されて、みんな目指すけど実際それをやってみると聞いてねえよ、みたいな居心地の悪さと出くわすことがある。別にわざと誰かに酷いことをしようとしたことはないはずだけど、たぶんきっとそうだと思いたいけど、でももしかしたら、と過ぎる居心地の悪さをなんとなく知っている。
私はこの曲を聴くたび、それをはっきり言われることに安心する。それでもそこに辿り着きたかったのは誰よりも自分の欲だと自覚して落ち着く。
美化もできない、でも諦めもできない、どうしても辿り着きたい場所を思い出せたら、折れずに仕事ができる気がする。



2way nice guy


自分のことを天才だと思ってる人ってどれだけいるだろう。天才だな、と思う人はたくさんいるけれど、その人たちを知れば知るほど、その人たちだって同じように悩み苦しみ自分のしょうもなさにがっかりしてる。
そのステージが全然違うよ、と言われればそれまでだけど、でも勝手にステージが違うからと特別視するのはやっぱり、違う気もするのだ。
そうして、じゃあその人たちがそれでも"天才"なのは自分の使い道を見つけたからなんだよな、と思う。
自分にやめろと言われようが、無駄だと言われようが「こうしたいんだけどな」を貫いた人たちを天才だと呼ぶんだとしたら、それはただの奇跡と呼んで片付けるには惜しいんじゃないか。
自分の適材適所、なんて見つけてないけど、まさかってとこにハマる、その奇跡を起こせるのはたぶん自分だけだ。


ところで、そんな楽曲のMVコンセプトが「人生最期の打ち上げ」なことが本当にたまらなく好きで、最近色々嫌になるたびに思い出してるのでどこかでその話をしたいと思う。



紙様

紙様

紙様


とかなんとか、言ってきましたけど。あんまり思い詰めても仕方ない。
仕事ってそれでもやっぱり「お金を稼ぐ手段」なわけで。
そういう線引きを忘れると削っちゃいけないところまで削ってしまいそうだ。
佐久間さんが「ずるい仕事術」の中でも言っていた給与の分だけ働いたら十分プロ、を時々ちゃんと思い出すようにしてる。
とはいえ、成果物に支払われるタイプの仕事なら「これだけの量をやったから確実にこの成果が出る」なんてことはないわけで、じゃあやっぱり頑張れるだけ頑張れ、なんて思い詰めかねなくて慌ててもっかいこの曲を聴く。


生きてるだけで丸儲け、生きてるだけでいい。そう言うわりには法外なチャージ料金まじでかかりすぎだし生きてるだけでお金がかかって罰ゲームも良いところじゃん、なんて言い捨てたくはまあ、なるんだけど。


なんか、この曲は落語のだめなひとを聴いてるような安心感がある。だめはひとのまんま終わったりもするけど、そんな愛すべきひとの姿を見て、ほんのちょっと安心して自分のダメなところをまあしゃあない、と言えるような。あいもかわらず、私も昔からコレに縁はないけど、頑張ろうかな、と終わる頃には笑えるから不思議だ。




風来

風来

風来


とかなんとか。思い切り肩に力入れて足踏ん張って、歯を噛み締めて。そうやって限界のその先、アクセルが空ぶかしして燃えてんじゃねえか、みたいな一週間を過ごしてはいるけど。
バックレる時はバックレようまで、歌ってくれるCreepy Nutsの音楽を頼りに今日も家に帰る。電車に乗り込む。
いっっっっっや、疲れた、疲れたな。なにも残せてないけど、ここからうまくいく保証はないけど、とりあえず今日はもう、よくやったって言って終わって良いんじゃないかな。



自我もりもりの文章ではあるけど。それでも、今日もぎりぎりまで頑張ったあなたにも、届いたらいいな。別に届かなくても良いんだけど。それでもやっぱり、どっか、同じようにちくしょうって言いながら生きてるあなたがいることに私は安心しながら生きてるよ。
とりあえず今日はおつかれさん。ゆっくり休も。

今はちょっと、ついてないだけ

自分の人生を「どこで間違ったのか」と思ったことがたぶんない。第二の思春期と言われる年齢のせいか、近頃相談で自分の人生のこれから、みたいな話を聞く機会が増えた。
仕事を選ぶのか、その仕事も何をするのか、結婚は、子どもは。そういう話を相談される。いやたぶん、あれは相談ではない。
言葉を尽くして、自分の持っていた可能性捨てた可能性、取りこぼした可能性を並べ、それでも自分のいる今、手の中にある可能性がそう悪いものではないのだと思うための思考の整理なんだと思う。




なんか嫌味な書き方になったけど、別にそれが嫌だと言いたいわけでもなくて、そもそも私が普段やってる言葉にすること、もそんなものだと思う。
何より私だってそういう相談を受け入れるのは結局、そういう話を聞きながら「私は私の人生どこで間違えたかなんて思ったことないな」なんてことを確認したいからの可能性が大いにあるわけだ。嫌なやつだな、と思うけど、まあ実際、そんなやつな気がする。




自分の人生を肯定するためには、何があったら良いんだろう。
例えば書いたような誰かの悩みに「ああ自分は違うな」なんて安心するようなクソみたいな肯定の仕方ではなくて。というかそんなもの、肯定でもなんでもない。




この映画の中にはいろいろな自分の人生が思うように進まない人々が出てくる。
バブル崩壊で自己破産まで追い込まれたある時代のヒーローだった男。
家庭も仕事も失った男
口下手なせいで夢に進めない女。



他にも、さまざまな「ちょっとついてない」人たちが出てくる。しかしそれは苦味たっぷりというよりかはどこかぎこちない、"ちょっと"のズレだ。でもその"ちょっと"があるから、決定的に自分の人生を肯定、することが難しい。



そんな中、また「ちょっと」のきっかけで彼らは出会い、一緒の時間を過ごしていく。



私がこの映画が好きなのは「決定打」がないからだ。
そもそも前述した彼らの持つちょっとのずれ、で何に苦しんでるのか、それに対してどう思ってるのか、みたいなものはハッキリ描かれない。いなくなってしまったひと、失ってしまったものはあるのに、それが具体的に示されたりそこに向けた彼ら自身の悲しみ、苦しみははっきりとした言葉で示されない。
なんだか私はそうだったから、彼らのことをまるで身近な、すぐ目の前にいるひとたちのように感じた。
決定的な華やかな幸せも救いも描かない代わりに、決定的な不幸も描きはしない。こうして並べた時、私がより「容赦ないな」と思うのは、華やかな幸せも救いも描かないことではなくて、決定的な不幸を描いてくれないことだ。
どん底で、憎たらしくて自分が許せなくて、それでも、生きていけてしまうくらいの「ちょっとついてない」に、片付けてしまう。




思えば、悩みを私に告げた友達、知り合いたちも普段はにこにこと笑っていたり悪態こそ吐いても、「なんでもない」顔をする。そうして、なんとか生活してなんでもないふりをして、でも時々どうしようもない気持ちに飲まれて飲まれたというのにそれを出すことも飲み込むこともみっともないのだ、と突き付けられるようなしんどさが私には時々ある。このブログだってそうだ。わざわざ言う必要もないこと、形にすべきじゃないこと、自意識自己愛自己顕示欲、そういうものを煮詰めて煮詰めて、なんかこう、何やってんだろうな、とにっちもさっちもいかない気持ちになる。




そんなことを思いながら、この映画の中で描かれる「今はちょっと、ついてないだけ」という言葉の優しさにお腹がぽかぽかと温められるような心地がした。
別に「優しい映画」なんて括りをするつもりはない。
優しくはない、解決策も分かりやすいハッピーエンドもくれない。生活や人生のほんの一部。だから私は、彼らのことをこれまでとこれからのことを、何も知らない。でもあの映画を通して触れたほんの数日、少しの期間の中のある瞬間瞬間のことを知ってる。なんだか、それで充分だった。




写真を撮ること、化粧をすること、笑わせること、誰かを支えること。誰かにとって「見たことない景色」を観るための方法、生きてて良かったと思える手段の描き方が本当に美しい映画だった。



大団円なんてものでは、ないかもしれない。幸せを約束するものでもない、だけどほんの少し、上を向ける。
それを信じられるような、優しくて確かな手触りがある時間の積み重ねを私はちゃんと覚えていたいと思う。

みんなちがってみんないい

書きたいことがいくらでもある。映画の感想も書けてないし(なんなら、読もうと思って積んでる本もドラマも映画もいくらでもあるし)この間の星野源オールナイトニッポンを聴いた時の感覚やずっと好きだといいなと願った話も書きたい。17歳の帝国、あれだけ楽しみにしてたのに1話の10分しか観れてないし、鎌倉殿であれだけ心を揺らしたのだから手帳にでも良いから言葉を残していたい。



夜に起きてられないくらい日中、動いて考え尽くしているからなんだろうな、と思いつつ、文や言葉を残せないのはわりと困る。ツイートはしてるけど、ツイートとこうしてブログに書く言葉やラジオごっこで話す言葉は違うのだ。
ところが、じゃあそんな毎日にイライラしてるかといえば、わりと興奮もしていて、その上で楽しいことも全部やってやるからな、と持ち前の負けん気をくすぐられている。



のだけど、同時にどうだろうな。
それって、本当は結構不安だったり、合ってるのか心配だからこそ、負けるかこなくそって自分の時間を必死に「意味のあるもの」に変えようと足掻いてるだけな気もするのだ。
じゃあその意味ってなんなの、って話をするんだとしたらそれは「幸せ」なんじゃないかと思う。




私の好きな表現者の中には「劣等感」を口にしてくれる人たちがいる。結構な割合で。
うまくいかないこと、マジョリティになれないこと、お前は違うと言われること。
それを「なんでだよ!」と跳ね返したり自分に真ん中を持ってきて歩く人たちが、私はたまらなく好きなのだ。
そしてたぶん、"世間"も好きなんだと思う。
劣等感を口にして表現していた彼らはいつの間にか、ポップと呼ばれ、世間からの人気者に変わった。
そんな姿に「置いてかないで欲しい」「彼らは幸せになってしまった」なんて表現したりされたりすることがあるわけだけど。


いやじゃあ幸せってなんだろうね。



結婚できないことをぼやきながら、仕事で成功できないことをぼやきながら、私はいつも強烈な違和感を感じる。




どこまでいっても幸せになりきることはないのだと、たぶんあの年知ったんだと思う。
ひとがいなくなること、それが順番でもなく意味でも価値でもないこと。いつか、必ず死ぬのだということだけが決まっていること。




毎朝、朝4時、延々と朝日で白くなる部屋をぼんやりと眺めたあの年、ずっとじゃあなんで生きるのかを考えていた。感傷的だったり自虐的だったりする答えを安易に出すことは自分に許せなくて、だから考え続けなきゃいけないとずっと思って、ずっとずっと、考えていた。


思えば、そんな中に星野源の音楽はお芝居は、表現は飛び込んできた。
清々しくてちょっと陰りもあって、でも優しくて、近寄りがたさと親しみをごちゃまぜの闇鍋にしたような、分かりやすいような底知れないようなその表現に触れたあの真夜中を、私はたぶん、ずっと忘れない。
シンプルにただただ、寂しくて疲れていたのだということを思い出させてくれた、愛してるもくそったれも同じ場所で歌ってくれた彼のこと。



Creepy Nutsは、自分が仕事でギシギシと己を削ってた頃に出会った。人の顔色の変化をしっかり見て、タイミング良く相槌を打ち、求められてる成果を打ち返し、をやりながら何やってんだろうなってウンザリしてる頃、ラジオに笑って、曲にそうだよな、と頷いた。
好き勝手やってるんだ!と振る舞うことにも、「足りない」と言われ、「HIPHOPじゃない」と言われることを全部うっせえと蹴散らしてきてげらげら彼らの道で笑ってる姿にそうしよ、と決めて、私は自分の人生も仕事も諦めないことにした。



彼らが、結婚したり、成功したりするのを見て、寂しくなるかと思ったこともあった。いや正直、成功については知ったタイミングでかなり有名だったから、表現に迷うところだけども。
ただなんか、私は今、なんとなく、今でも同じような気がしてるのだ。
それは別に彼らの幸せを否定するつもりもないし、というか私がどうこう言う話でもない。幸せか不幸か、快か不快かを決めたくもないし、正しいも正しくないも、そんなの、話す話ではないのだ。




それでも、どこまでいっても満たされることはない。別にそれは悲しい話として言ってるわけじゃない。
相変わらず壊れかかった星でふざけた生活を続けてるし、生きてる限りは勝ち逃げできない。
それでもその時々で怒ったり笑ったりする、彼らの表現に私はこれからも頷いたりそうだよな、と勝手な共感を寄せるんだろうな。
それから、私はこうして意味もない言葉を重ねていつかの自分がそうだよな、と頷けることを祈ってる。
どこまでも幸せにはならないし、思ってることがぴったり重なることはないけど、そうやって時々の頷きでなんとか、重たい身体を引きずって、たまに身体が軽くなったりするような気がするので。



まあでも、こんな文を書くくらいには疲れてるので、今日はちゃんとお風呂を溜めて「まあよくやってるよ」と自分を労ってやろうかね。




UCC主催「COFFEE CREATION ‘My Blend’ EXPERIENCE

仕事の昼休みに見た「当選メール」から信じられない気持ちで迎えた本日。
UCCさんの「COFFEE CREATION ‘My Blend’ EXPERIENCE」に行ってきました!!!

イベント趣旨は自分の好みにブレンドされたコーヒーを味わえるというもの。
UCCのアンバサダーである星野源さん好みにブレンドされたコーヒーが飲みてえ!という思いとよく分からないけどコーヒーが好きだ!の気持ちだけで行ったこのイベント。


街をドキドキしつつ、気持ちを高めようと星野源プレイリストを聴きつつ、方向音痴だから間に合わなかったらどうしよう、遅刻して参加できなかったらどうしよう、と緊張のピーク。
ところが、UCCさん、物凄く分かりやすく看板を出してくださり、スムーズに入場。
入って当選メールを確認してもらって中に入るも、緊張しすぎてイヤフォン落とすわ半泣きのまま、準備が整うまでフロアに待機。




写真を撮りながら周囲の人たちももちろん写真を撮っていたり源さんの話をしていてなんだか不思議な気持ちになる。
本格的に好きになったのがコロナ禍以降、MIU404きっかけなので(ユニクロのコラボなどはあったものの)源さんのファンの人たちが源さんの話をしている場所、に行くのがなかなかなくて、なんだか、すごいな…と感動してしまう。
別に同じ人を好きだからといって特別仲間意識を持つタイプでもないし、だから仲良くなれる!とは間違っても思えない性格だけど、何か一つこの人たちと同じ、があるのだということも、でもきっとその好きの形、経緯は人それぞれ、その人の数だけあるんだな、と考えてると呼ばれて、2階のブレンドスペースへ。


豆がたくさん並ぶ棚の前、一人(ひと組)につきひとりのバリスタさんがついてくれます。


もう嬉しさやら緊張がすごいし流れてる映像から源さんの声が聞こえるしでプチパニックな中、担当のバリスタMさんが優しく今回の流れを説明してくださる。


その上「星野源さんのファンですか?」と緊張を解すような話をしてくれたり(と言いつつその気遣いが嬉しくて更に緊張したんですけども)
同じく源さんファンだというMさんがイエマガの話を振ってくれたりと
美味しいコーヒーが飲める上に合法的に(?)源さんの話が堂々とできてしまう?!!!と嬉しさパニック。



まずはGCCこと源さん好みのブレンドを。
飲みやすくて美味しい。それがどういうブレンドなのかを図を使いつつ説明してもらう。
ラジオなんかで好きなコーヒーの話を聞くこともあったので、ブレンドマップで見ると「あ、こうなるんだ?!」と新鮮な気持ちに。



思えば、「酸味」「苦味」とか豆の名前とか色んな区別の仕方があるわけですが。
グラフやフレーバーで分けて選んで、ってコーヒー豆のことを考えるのははじめての体験ですごく楽しい。


フレーバーを二つ選んで飲み比べ。


コーヒー豆を粉にする時は豆のブレンドの仕
方、測り方の話を聞いた。


(たくさん並ぶコーヒー豆に見たことのある名前を見かけてついにこにこする)



その上、ミルは簡単ですよーと少しだけ触らせていただく。




かつ、普段コーヒー飲む時の淹れ方の話を聞いてくれて、それに合わせたやり方のアドバイスとか、それがどうしてそうしてるのか、まで教えてくださる…楽しい…。
コーヒーのことを知れるのもだけど、Mさんの話が楽しい&色んなことを質問させてもらえてひたすら楽しい!面白い!の大興奮。





このブレンド体験の場合はまず好きな香りを複数の選択肢から選んで飲み、そこから苦味や酸味、ライト、ストロング、と四つに分けたグラフの中、どこが一番自分好みか調整しながら飲んで、と絶妙に選んでいく。
自分好みのブレンドを作ってもらうの、どうしようか物凄く悩む。
自分の好みを追求するのも源さんの飲んだやつ体験するのもどちらも楽しいと思いますがどちらになさいますか?とにこにこ聞いていただくも、それかなり究極の選択だな?!と物凄く考え込んでしまった。
結局、私も苦めのガツンとしたやつ好きだしな、と同じフレーバー、苦味ストロング強めのやつを選択。自分好み&源さんの飲んだスタートのやつが飲めるという一石二鳥にわくわくする。


この「味」を分解して好みを選んでいくという体験がすごく面白かった。
匂いはどんなのが好みか、酸味?苦味?ライトなやつストロングのやつ?と「好き」を要素に分けて、いっこいっこ確認して考えて合わせていく。
そうしてると一言に「好きな味」と言っても、色んな要素が合わさって構成されてるんだな、と思う。一個にまとまっても、その中には色んな物が入ってるんだな、としみじみしながらブレンドしてもらったコーヒーを一口。
飲み比べると「全然違う!」と叫んでしまう。
本当に全然違う。あと匂いが違うと酸味・苦味、ライトストロングが同じだとしても全く味わいが違ってすごく面白かった…。
許されるなら何時間でもやりたくなるくらい奥が深いぞコーヒー…。



GCCと飲み比べ(源さんが当初「これが好みかも」とフレーバー&グラフから淹れたコーヒー)を飲み比べながらCMを見てのんびり過ごしてイベントは終了。

イベントのお土産としてGCCのコーヒー豆やシャツ、グラスと色んなものをいただいて幸せなままふわふわ歩いて帰った。すごいいい天気の中、やっぱり帰り道も源さんのプレイリストを再生する。


COFFEE CREATION ‘My Blend’ EXPERIENCEに行った帰り道、なんだか無性に嬉しくて泣きそうだったしなんならちょっと泣いていた。
それがずっとなんでか考えていて、考えているとイベントのことを記憶するためにレポートしたい私と、この泣き出したいくらいの幸せな気持ちを言葉にしたい私とが同時に喋り出し、ちょっと待って!と叫びたくなった。



覚えているためのレポートは書ける限り書いたので最後は泣き出したいくらい幸せだった私に思い切り喋らせたい。



例えばそれは、コーヒーという「なんとなく好き」なものの知らなかったことを知れたことが嬉しかったということでもある。
それは、なんとなく好きのまま・理屈は分からなくても知らなくても十二分に幸せでそれで良い、のものだ。
でも、今回、バリスタの方に豆の選び方、違い、淹れる時の動作ひとつひとつの意味、それを変えるとどうなるかを聞きながら「そうなのか」とわかることは嬉しかった。それにそれを分かったとしても、まだまだ知らないこと、つまりは「これから知れること」がいくらでもあることにわくわくした。
コーヒーをじゃあ私が学ぶか、と言われるとそれは分からないんだけど、あの約一時間弱の時間はこれから私がコーヒーを淹れる時、飲む時、きっと滲むのだ。




それから、やっぱり源さんと同じ体験が出来たことも楽しかったんだと思う。
この間ラジオごっこで憧れの人(あるいは好きな人)に対してのアクションで「同じようになりたい」と思うのか「その相手から愛して欲しい」と思うかの行動がある、という話をしていて、
私は圧倒的に同じ景色を見れること、に感動するのかもしれないな、と思った。


全く同じではないし、実際、全く同じ、をしたいわけでもない。ただ、例えばこれを見た時、口にした時何を考えたんだろうその目にはどんな景色が映ったんだろうと想像するのは(本当に勝手ながら)楽しいし、
あと結局私はそこで「私の景色」しか味わうことはできないけど、むしろ、私はそれを経験したいんだな、と思った。



そして何よりも今回、コーヒーを淹れてくれたバリスタのMさんはじめ、スタッフの方たちの笑顔が本当に素敵で、コーヒーが好きなんだなってこととか、あと星野源さんが好きだってことが伝わってきて、なんかそれが本当に、めちゃくちゃに嬉しかった。
好きなものが詰まった空間って本当に幸せなんだよなあと思うし、担当してくれたMさんが本当に素敵な方で、私は本当に嬉しかった。
色んなことを教えていただけたこともそうだし、ガチガチに緊張してる私に「星野源さんのファンですか?」と聞いていただいたり、イエマガの話をしたり、コーヒーの話をしたり、楽しく過ごせるよう色んな話をしてもらったこと。
源さんのCMについての思いとか、そういうことをああして笑顔で話してもらえて、とんでもなく満たされているんだと思う。
ちょっと書いてもいいか聞きそびれてしまったし、だからあの時の言葉とかは自分の心の中に大事にしまっておこうと思うんですが、でもともかく、言葉選びひとつひとつも、コーヒーの話も、笑顔も全部覚えてたいな、と思うくらい幸せで素敵なものに触れさせてもらったな、と思う。




もう物凄く格好良くて緊張し過ぎて全然思ってる話が出来なかったことだけがほんの少し後悔ではあるけど、美味しかったです、と伝わるといいなあと思いながら、この文を書いてる。
というか、後からUCCのサイトを読んで知ったのですが、Mさん、同郷の方だった。うわあ、知ってたらな…!とも思うし、なんか、余計に担当していただけて良かったな、と噛み締めてる。



本当に、美味しいコーヒーをありがとうございました。


何かを「味わう」ってすごいことだな。
去年、物凄く疲れ切って色んなことが嫌になった時、すごく大切に淹れられてるコーヒーのお店に連れて行ってもらったことがあって、そこでも「誰かの手で大切にされたもの」を口にできること、それを身体の中に入れること、になんだか新鮮にびっくりしたのを覚えてる。
食べたり飲んだりは生命維持活動そのものでもあるんだけど、心のためにも本当に必要なんだな。
帰り際いただいた源さんの好みに合わせてブレンドされたGCCを、丁寧に淹れようと思う。きっとその時、私は今日のことを思い出して笑顔になるんだろうなって思っている。


佐久間宣行 ずるい仕事術

仕事って好きだろうか?
私は好きだ。
好きなんだと最近心底思う。「仕事やだよねー」と言われると相槌を一瞬迷う程度には、仕事が好きだ。休みも好きだ。休みをめいいっぱい楽しみたいのでやっぱりそう思うと仕事はあってくれた方が具合がいい。

仕事は1日、あるいは週の大半を使ってやるからどうせなら楽しみたい。私にあるのは使命感だとか仕事を好きだと思う感情だとかではなく、ただただそれだけだ。自分の人生を最初から最後まで面白がりたい私にとって仕事が楽しめないということは1日の大切な時間の浪費になる。ので、単に負けず嫌い的に毎日を面白がろうとしているだけなのである。



とはいえ、じゃあ仕事だけに邁進してたら良いかと言われるとそうでもない。そもそも仕事以外に好きなものがたくさんあるからというのは前提として、それ以上に、そういう私を心配してくれる人たち、というのがいるのだ。
その事実を私はたぶん、4.5年かけて理解した。それは自身に向けてもらった心配やお叱り、自分が大切なあの人が自分を削って削って仕事をしていることで覚えた不安の先にようやく掴んだ事実だ。


まあでも事実だけ知っていても仕方がないわけで、その事実を踏まえてどうするかが大事なんだけどうまいこと調整って難しい。そう思っていた私にとって、佐久間宣行さんの「ずるい仕事術」は物凄く出逢って良かった1冊になった。



この本は佐久間さんの20年以上の社会人生活で考えてきたこと、気付いたことを62の方法としてまとめてある。それをさらに6章に分け、それぞれジャンルごとにまとめられているので通して読むのも面白いし、読み返したい時にその時の気分・状況で好きなところを開くのも楽しい。


私が好きなビジネス書は、その人の仕事への目線が見えてくるものである。こうしたら良いよというHow toの有用性はもちろん大切なのかもしれないけどむしろ、どちらかといえば良いな、と思える人たちが仕事を通してみてきたもの考えてきたものをまるで居酒屋や喫茶店で聴くような気持ちで読めるものに出逢うともれなくテンションが上がる。
そしてこの本は、まさしくそんな1冊なのだ。



例えば、人間関係編。
「褒める」は最強のビジネススキルから始まり、「陰口はコスパが悪い」、会社に「友だち」はいらない、「付き合いの悪いヤツ」でいいと続く一連の文章があまりにも好きで何度も読んだ。
仕事をする上で、いや仕事だけじゃない。何か自分がしたいことを実現しようとするとき、そこで友達や恋人を作ろうとする他人とぶつかることが今まで多かった。今思えば、私に幼すぎるところはあったし、自分と違う目的の人を間違ってる、ダメだ、と決め付けて拒絶していたのはあまりにも人としての器が小さすぎるけど、一方でいまだに、少なくとも「私は」友達が欲しいわけじゃないんだ、と切なくなることがある。
私もあなたの目的を否定しないから、どうかあなたの目的も私に押し付けてくれるな、と切実に願ってしまう。


そんな私は、佐久間さんのこの一連の章にそうだよな!と頷いたり、ああ、そうしたら良かったのか、と目の前が開けるような気持ちになったりした。
そしてそれは単に私が共感できたから納得した、というよりかは佐久間さんの語り口の柔らかさの効果だったように思うのだ。


佐久間さんは、ラジオもそうだけど喋り方が丸い。笑わせることが好きなんだろうな、面白いことが好きなんだろうな、と思うし、かつ、誰かを傷付ける手段をわざと選んだりしないのだということに安心する。

そしてそれがただ優しい、だけではなく絶妙な計算と「絶対面白い自分の好きなものを作る」という強さのようなもので成立しているから私は最高に好きだし、かっけーと思うのだ。
そして私はかっけー、と思うと、私も負けねえ!とするので、もう、そりゃ、この章を何万回も読むに決まってるのである。



そうした自分のため、とあとは何かを好きだと思うことの見ていて心地いいものがすごいバランスで居る佐久間さんの話が本当に好きだ。



仕事は手段だ。仕事が目的になって自分を削ってしまえば、悲しむ人がいる。でもだからこそ最大限に「たかが仕事」「手段」と思いながらしっかりそれを面白がりたい。できたらそれが誰かの嬉しいや楽しいに繋がったら良い。
そう思っても良いんだということ、そしてその方法のヒントに出会えたことが私はこの本を読んで得られたことの1番嬉しいことである。



最後に。この本を読みたいと1番思ったきっかけの「はじめに」の文の大好きな締めを引用したい(ちなみにこのはじめに、佐久間さん自身がTwitterで全文掲載しているのでみんな読んで欲しいし、できたらそのまま本も読んで欲しい)

面白いものが世界に増えたら僕の人生が豊かになる。

そして、あなたの仕事で世の中がおもしろくなったり
便利になったりしてくれれば、
僕の人生も楽しくなるので最高です。




面白いや楽しいを求め続けるこの人が仕事にこうした言葉を綴っていることは、社会人をしている私にとって、とんでもない希望の1つなのだ。

生業 大阪公演

大阪の生業に行ってきた。
元々、RHYMESTERのパフォーマンスを観たかった生業大阪公演。
さらに私にとっては、半ば衝動で行った生業札幌公演で心の底から満足したからこそ「ふたり揃ったCreepy Nutsを観たい」という気持ちが乗っかった大阪公演。



生業を観てから、ずっと心が落ち着かない。幸せで、ひたすらに幸せで、なんというか「私はこういう状況に幸せを感じるのだ」というのをひたすら噛み締めていた。



話したいことがたくさんある。
音楽が最高だったこと、友達と観る好きな光景の幸福度が半端なかったこと、誰かが夢を叶える瞬間というものに立ち会った気がしたこと、
それからやっぱり、本当に音楽がただただ、気持ち良かったこと。

本当になんか気持ち良くて最高だった。終わった後飲んだビールがあまりにも美味しくて、こんなにうまいビールって早々飲めないんだよなって噛み締めてしまった。
叫び出したいような、でも言葉にして違うものに変わってしまうのが惜しいような、そんなものを抱き締めている。それでも、忘れたくなくて、そのものは残せなくても近い何かを残したいので、書く。



RHYMESTERが本当に楽しくて。
そりゃあもう、好きな人たちのHIPHOPに大きな影響を与えたという時点で大好きになるだろ、という気持ちなのだけど

そもそも宇多丸さんの映画の話はガッツリ聞かないながらに、ハイローはじめなんとなく身近にあったし
以前のMUSIC BLOODを観てから気になってことあるごとに何曲かダウンロードしていた曲をガッツリ今回予習がてら聴いて、ものの見事にぶっ刺さったり。


好きなものと好きなものが繋がっていく、その美しく心地いい感覚が最高に嬉しかった。


そして、実際に生で見るRHYMESTERは最高に格好良くてイカしてて最高だった。
最高を二回も使っててアホっぽいことこの上ないが、それでももう、そう言うしかないのだ。



日本語ラップCreepy Nutsきっかけに好きになって興味を持つ中で、でもやっぱり未だに、自分の「似合わなさ」に怯むことがある。

ただその中で、RHYMESTERの表現は触れやすく飲み込みやすい。私もこれが好きだと躊躇わず口にできる気がする。
(こういうことを考えるのも、そもそもRHYMESTERCreepy Nutsが今までの道のりで積み上げてきたもの的に反しているのでは、と思いはするけどどうしたって感じてしまうからそれを無理に否定するのも、なんか違う気がする)


しかし、そのとっつきやすさ、私もこれを好きだ!と叫びたくなるような親しみやすさは彼らの大いなる武器の一つなんじゃないかと思った。
「自分たちと同じだ」という大いなる勘違いが距離を縮める。そんなある意味では行儀の良さ、屈託のなさで近付いたところでぶん殴られる。



なんか怖そうだから、理解できないからと生まれる壁をそもそも取っ払った状態で、でも彼らの音楽は彼らの話を容赦なく、加減なく届ける。

強い言葉は使っていない。暴力だって奮っていないし、変な言い方だけどRHYMESTERのパフォーマンスは怖くない。
でも怖くないからこそそれは、絶対に届けるのだという強い意思のようにも思ったし、それはそもそもの音楽・表現の強さだと思った。



HIPHOPの「ワルの音楽」以外の側面、でも別にそれは優しいだとか行儀がいいなんて話じゃない。
クスリもしない女遊びだとか派手な話はないかもしれない。だけどそれ以上に我の強さみたいな、譲らない拳の硬さは紛れもない事実だ。


キャンセルカルチャーについてこの一年ずっと考えているからというのもある。ちょうどCreepy Nutsを聴く時がたまたまそういうことに煮詰まった時なことが多く、私の中でCreepy Nutsだけではなく、HIPHOP日本語ラップがそういった「間違った(良くないとされる)表現」に対しての疑問と結びつきやすいからかもしれない。




間違った表現をしないため、だけに表現し続ける息苦しさ、そもそも「その表現は正しくない」と断罪することの傲慢さについてもずっと考えている。
ただ、それでも表現が誰かを大きく傷付けるのを観た時のしんどさがあって、にっちもさっちもいかなくなる。
そんな私にとって、RHYMESTERのそしてCreepy Nutsの表現はすごく、格好いいものなのだ。
それは別に、彼らが「間違えていない」からじゃない。彼らを「清廉潔白」だと思ってるからでもない。




ただ、RHYMESTERのパフォーマンス中の怒りを込めろという煽りが耳に残っている。
私はなんだか、その言葉を聴いた時嬉しかった。ああそうだよ、ずっと怒っていたよと思った。それをぶつける先があることにも、それが誰かを傷付ける形ではなくこんな気持ちのいい形であることにも本当に心の底から安心した。



「傷付けないから正しい」わけではなくて、でも無闇矢鱈と傷付けず、届く形を探し続けている人たちの表現の強さと格好良さ、そしてそれを自分が心底好きなんだということに私は嬉しくて安心して、最高に興奮していた。




そんなわけで、RHYMESTERのターンが終わった時点でだいぶ食らっていたわけですが、その上その後、Creepy Nutsが登場するのだ。
一発目、札幌の公演のセットリストとは全く違う構成に鳥肌が立つ。
一曲一曲の音楽としての表現だけではなく、構成でぶん殴るという私の大好きなCreepy Nutsがそこにいた。
言葉よりも雄弁なセットリストと、そして間に入るMC、曲の入れ方。



その上今回は、RHYMESTERからのCreepy Nutsという文脈までもをしっかりと楽しめるものだった。
各ターンでもそれぞれのメッセージ・表現が完結しているなかで、全体を見るとより大きな文脈、物語が見えてくる。



RHYMESTERを聴いていると聞き覚えのあるフレーズを聴くことがある。それはRさんも言っていたように、彼らがRHYMESTERから受けた影響がいかに大きいかということだろう。
もちろん、HIPHOP日本語ラップではお馴染みの良く使うフレーズ、表現だからそもそもある程度被るのは当たり前、と言えばその通りかもしれない。
しかし、だとしてもどのタイミングでどんな時、どういう意味合いでその単語を用いるかの


まさしく「オマエらのRootsはあくまでオレだとは言っ・て・お・き・たい・ぜ!」だ。



コロナによる延期・中止を経て、憧れの人たちとのツーマンライブを実現したCreepy Nuts
なんか、終わった後しみじみ、ああ彼らの夢の一つを叶える瞬間を私は観ることができたんだな、と思うとなんか嬉し過ぎて堪らなくなった。なんなら今もこれを打ちながら泣いてる。
大好きなひとたちのステージを観てもう満足したから帰ろうと口にした彼らにどれくらいRHYMESTERのことが大好きなのか分かる気がして、帰られたらもちろん困るけれども、なんか、そんな瞬間を見れただけで今日ここにいれて良かったと思った。


そして札幌公演を経て、大阪公演を見た時に、私はふたり揃ったCreepy Nutsがめちゃくちゃめちゃくちゃ好きなんだなと思った。
それぞれでも最高で、どんな時でもどんな状況でもCreepy Nutsを成立させられるすごい人たち・すごいチームだと札幌で思ったからこそ、それでも二人揃った時の強さとか格好良さを噛み締めてしまった。


本当に好きなんだよなあ、Creepy Nutsが。
めちゃくちゃにわかだけども、それでも、彼らのステージが大好きだということは紛れもない事実なんだよな。




すげえステージで、それは私にとってはもちろんだけどきっと彼らにとってもそうなんだな、と伝わるステージだった。
そしてそんなすごいステージを魅せてくれた彼らがこれからも「エンドロールのその先」を観に行くんだろうな、と思えて最高に嬉しかった。
私もその道の先を観たいと心底思った。
そして何より、自分の人生だってそう捨てたもんじゃないと思った。諦めずに、この人生を掴み続けたいと思えた。
そう思わせてくれる音楽に出会えた私の人生は既に結構かなり、ラッキーなんじゃないか。




土産話

土産話



ザ・グレート・アマチュアリズム

ザ・グレート・アマチュアリズム

RED PHOENIX 4月27日大阪追加公演


※一部、曲バレがあります






どんな気持ちになるんだろうとずっと思っていた。
正直、ほぼ勢いで決めた公演で、何より前日からの周囲の動揺で「本当に今観ていいのか?」という疑問もあった。それにそもそも、「ライブに行くこと」を自分の中でまだ飲み込めていない気もした。
ライブも行き、芝居も観ているくせに何をいけしゃあしゃあとと言われそうだし、実際私もそう思っているけれど、それでもそれぞれがただ「ライブ」「お芝居」ではないのだ。それぞれが「EXILEのライブ」というように名前がついてる。とどのつまり、私はまだ自分が「EXILEのライブ」と向き合う覚悟ができていない気がしたのだ。
私が観に行きたいんだ、と言い切れるほどの自信がなく、ないどころか日に日に失っていくような状況だったので、ある意味でNAOTOさんの動画を観て、あ、行こうと衝動で観に行ったのは、正しかったのかもしれない。



そんなわけで、私は、EXILEのライブを観に行った。



観ながらああそうだ、これがEXILEのライブだった、と思い出した。客席で揺れるフラッグ。派手な演出(それも今回はかなり抑え目なようには感じたけど)
ちょうど、EXILEの音楽について始まる前に友達と話していた。私はどちらかといえば音楽を歌詞で聴くタイプで、そういう意味ではEXILEの楽曲は音楽としては正直に言えば馴染みが薄い。
ライブ前後は聞くし、実際に好きな曲もあるけれど、普段からリピートしていることはどちらかといえば少ない方だった。
ただ、ライブに行くと思う。パフォーマンスと合わさった時のEXILEの楽曲はすごい。もちろん、曲だけで未完成なわけでも足りないわけでもない。曲だけでも強いのだ(前述したのは、あくまで好みの話で音楽としての良さがあるのはもう本当に間違い無いのだ)
歌う、踊る。人が踊ることのエネルギー、そしてそれと音楽が合わさることで相乗効果がどんどん増していくこと。そんなことを肌全体で感じていた。
そして何より、私がEXILEのパフォーマンスが好きなのは、それが人を笑顔にするのだと彼らが信じていることなんだと思う。
時々、怯んでしまいそうになるほどの真っ直ぐさで彼らはエンタメを創る。信じる。そして何より、それを信じるための努力を怠らない。
私はその強さが、きっとずっと好きなのだ。



EXILEを好きになる前。
顔がいい人たち、スタイルがいい人たちが歌って踊っているんだろうという偏見混じりの感情を打ち砕かれた日のことを思い出した。
もちろん、顔もスタイルもいい。でもそれだけじゃない。鍛えて、準備して初めて生み出せるエンタメを彼らは作っている。それが大好きで、その力を信じて。



そして今回、衝動のきっかけになったNAOTOさんのダンスを観れたことが本当に本当に嬉しかった。
私は、NAOTOさんのダンスが好きなのだ。なんでだとかどこがだとか、そんな理屈を捏ねたく無いくらい、好きで好きで仕方ないのだ。
NAOTOさんが踊っていると重力の存在を忘れる。アニメや漫画を見て憧れたヒーローが目の前にいるようなそんな気持ちになる。
楽しいこと、格好いいこと、面白いこと。
そんな私の「好き」が詰まった瞬間が、NAOTOさんのダンスを見ていると毎秒毎秒、訪れるのだ。



ところで私は、ライブやお芝居、映画を観ながら違うことを考えるのが好きだ。
集中していないとかじゃなくて、それを観ている時の幸福感の中で日々の色んなことを考えるのが本当に好きで仕方ない。
今回も気が付けばずっと考えていた。
2年前、当日に失った「楽しい」こと、友達のこと、この数週間のこと、数年のこと。目の前の人たちについて考えていたこと、世界のクソなところ、わざと捻くれて見ていたこと考えたこと。





そうしてそうしながら、TAKAHIROさんの歌声はいつもその瞬間、寄り添ってくれるんだなと思った。
まるで会話しているみたいに自分の考えていること考えたくなくて逃げていたことに応えるみたいな歌詞が次々、あの優しい声で届けられて泣きながら笑ってしまった。
疲れて観たTHE FIRST TAKEの「もっと強く」で、それでも私もTAKAHIROさんが好きなのだと言いたいと思った日のことを思い出した。いつも、TAKAHIROさんの表現は私と会話してくれるような、そんな気がする。
それはただ、彼の表現をきっかけに私が自問自答をしているだけの話である。でも、それがあるから、私はまっすぐ歩こうと思えるのだ、たぶん。




本当に、なんか聴いてる歌詞がいっこいっこ、自分にリンクしてしまって、びっくりしたな。
その上、それを丁寧に踊る人たちまで目の前にいるからすごい密度で私の頭に飛び込んでくるんだもん。



LDHを好きでいるときにうまく距離を掴めなくなることがある。
自分にそこまでの熱量があるのかすぐ自問自答してしまうこと、一番追いかけていた頃と感覚は確実に変わっていること、
何より基本的にすぐに性悪説を唱える自分と彼らの思考は結構ちぐはぐになることもある。
大きなグループだからこそ、全部は好きでいれないな、と思うことだってある。
彼らが呼びかける「みなさん」に入りきれていない違和感だってあった。



でも別に、それでも良いんだと今回のライブを観て思えた。ずっとぐるぐると考えていたことを笑い飛ばしたくなるくらいにスッキリした。
そして、それは賛否があることだと思うけれど、彼ら「EXILE」という物語を紡いでいるからかもしれない。
その物語を全部、全要素愛せなくても理解できなくても、好きだという事実は変わらないのだと思った。なんなら私はその違うこと、好意的に受け取れないこと、それでも好きだということの方がなんだか嬉しいとさえ思った。全部を好きになろうと頑張りすぎていた時よりも、ずっとずっと、強く好きだと思えた。




そんなことを考えていたらSomedayが流れてきて、極め付けが凄かった。
私は私らしくていいのか。そうしている間も彼らは変わらず、彼らの信じる形を作って、歩き続けるのか。だとしたら、それが時々交わったら楽しいじゃん。
生きていて、私も彼らもそれぞれの道を歩いていてそれが時々交わったり眺めたりしながら、そうやって生きていけたら楽しそうだなと思った。
きっと彼らはこれからも自分の信じるものでひとを笑顔にしていく。そんな彼らに恥ずかしくない自分でいつでも彼らのエンタメに向き合えるように、私はとりあえず今日も真っ直ぐ、歩いていこう。次に彼らと道が交わる日を楽しみにしながら。