えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

せんきゅー2021

今年実は、家を買った。
清水寺の舞台から完全に飛び降りてる。なんなら飛び降りて複雑骨折してる気すらする。



それでも、もしもの時、何かを家族に残せると思うとめちゃくちゃに安心したし、何より部屋に初めて愛着がわいた。
ここに帰ってくるのだ、と思える場所がひとつできたことはかなり私の中で大きかった。



周りに驚かれ、思い切ったね、と言われるたび「いつ死ぬかわからないからね」と返してきたしそう言うたび「まだそんな歳じゃないでしょ」と返される。その時、なんだかもったりとした違和感があった。悪気がないことも分かってるし、私が健康にまだまだ生きていくと思って「願って」くれているからだ、というのはもちろん分かっているんだけど。
今年の1月放送された「俺の家の話」を観た時、だよなー?!と叫んだ。
その物語を観ながら「順番」なんてものはありはしないのだとじくじくする痛みとともになんだか妙な清々しさと嬉しさを持って私は最終回を飲み込んだ。
それは残酷だけど、どこかほっとする事実だった。順番なんてものはない、いつ何が起こるかなんてずっと分からないし、物語はハッピーエンドとは限らない。



ところで、私は自分のテリトリーに他人がいるのがあまり好きでは無い。
団体に属するのが苦手な上にテリトリー意識が人一倍強くてその上部屋の片付けが苦手だからますます人を家に呼ばなくなる。
しかし、今回、家に人を呼んでいる。呼びまくっている(当社比)といっても過言では無いし、なるべくこんな生活が続くといいなあと思ってもいる。


自分のテリトリーにひとりぼっちという時間を去年から今年の夏まで過ごしながらその楽さと自暴自棄を噛み締めて楽しんいた。気楽で居心地が良く、有り体にいえば幸せだった。
そして離れてしまった分、自分がどれくらい色んな人に愛され、大切にされてるかの実感もしっかり手元にあった。
自分を労わらなくていい、大切にしていなくても誰かを傷付けるわけじゃないという身勝手な気楽さを謳歌しつつ、でも、それもわざと視野狭くして楽しようとしてるだけだろ、と思った。思える幸せが、私にはあった。
「つくさんは幸せでいいですね」なんてわざわざ言われるまでもなく、本当に、身にあまるような恵まれた環境に私はいる。



「こんなに幸せになるはずじゃなかった」

不安症はもしかしたらそこからくるのかもしれない。こんな幸せが手元にあることが私はいつまでたってもなれないのだ。



文を書きたいんだ、と今年の年始に気付き、

思いつくまま書きたい時に書きたい文を書いてきた。今年はこの記事を入れるとブログだけで78本書いたらしい。
そうやってコツコツなにかを続けたら何かマシになるかと思ったけど、なったかといえばなったし、ならなかったといえばならなかった。



愛されてるなー!と思って、そんなとき観たコントが始まるというドラマで出会った台詞に私は大きく大きく頷いた。


長くなるけど、引用したい。

こんな仕事じゃ格好悪いとか
こんな金じゃ満足できないとか
一歩も動けなくなる。
まあだから……周りの大切な人を満足させてみようって切り替えた。
もしかしたら周りを満足させる生き方をできた時、
初めて本当の意味で自分を満足させられるような気がしてるんだよ。


頷いて、そうか、と思った。


今年のブログを振り返るとずっと「寂しいということ」を書いていた気がする。そして、他人との関わりについてずっと考えていた。


ブログをひたすら書いたこと。
たくさんドラマを観たこと。
ラジオごっこを始めたこと。



コントが始まるの兄の話、何をすれば幸せにできるのかと考えていたら、自分の顔がわからなくなった。
まだ本当は分かってない。分かる日がくるのか、どうしたらいいのか、分からないんですけど。
でも、なんというか年末マジックか、まあ、良かったんじゃないか、と思っている。もとより、答えなんて死ぬまで出ないと去年だって私は書いていた。
そして、年始の文を書くのだと決めた私も。

なんか、どこを切り取っても楽しいな、でいたいのだ。

何度ものたうち回った今年、書き残した文章がその時々、見ていたこと・聴いていたこと・考えていたことを教えてくれる。
それを振り返って私は、なんだ、楽しそうじゃんと思った。泥だらけでみっともなくても、ずっと、楽しそうに自分がやりたいように生きている。



今年一年、お付き合いいただいた皆様、お読みいただきありがとうございました。
ここに書いた文章が、誰かのためになることが私は全くいまだに想像もできないし、そうなるように整えることもできませんが、来年も、また同じように書ける限り、書き続けたいと思います。

魔女見習いをさがして

おジャ魔女どれみが好きだった。
日曜の朝は姉と弟とテレビの前に集まって、彼女たちの毎日を観るのが日常だった。どれみたちと笑い、怒り泣き、魔法にわくわくした。
彼女たちが「お店」をやるのが好きで、魔法の試験が好きで、毎話毎話、どきどきしていた。


まだ親しくない同世代とカラオケに行くことになったらとりあえず、おジャ魔女どれみの「おジャ魔女カーニバル」を流す。そしたらなんとなく仲良くなれたような気になれるし、とりあえず盛り上がれる。

そんな心の深いところに刻み込まれているのが「おジャ魔女どれみ」というアニメだ。



とは言っても、「魔女見習いをさがして」に出てくるミレ、ソラ、レイカほど熱烈なファンかと言われるとそうでもない。
リアタイをしていたあの頃の記憶だけだし、だから事細かに「あのエピソードが」と全ての話を語れるわけでもなく、自分が好きだったエピソード、台詞を2.3覚えているだけだ。
それでも自分にとって大切な作品だということは間違いなかったのだ。そのことに、オープニングでボロ泣きをかましながら思った。


さすがに、さすがにだ。オープニングで泣く予定ではなかった。
おジャ魔女どれみから数年後の世界、という設定は知っていたけどまさか「放送されていたあの頃から数年後」という意味とは思わず、予想外でびっくりして刺さりまくったというのもある。あるんだけど、いやにしたって、だ。



同じようにテレビを観ていたミレや、少し後に好きになったソラ、レイカが見てきたもの、感じてきたもの。そのそれぞれが「ああ分かるよ」と言いたくなるものだった。
そして、そういう"好きなもの"で友達になっていく彼女の姿もものすごく刺さった。


好きなもので支えられている背中と、裏腹に「なんでこんなにうまくいかないかな」と苦笑いしたくなるような毎日。それは、完全に"覚えのある自分の姿"と重なった。
自分の毎日がものすごく嫌とかじゃないのだ。
でも、どうしてこうなんだろうと時々どうしようもなく落ち込むし、魔法が使えたらなにになりたい?と問いかけられ、無邪気に答えていた自分の見る影はどこにもない。そのことが無性に辛くなる。




おジャ魔女どれみの音楽だし、タッチなんだけど、出てくるものが絶妙に「現実」なのだ。
将来への漠然とした不安とか、属性で笑われたり線を引かれたりすることとかずるずる続けちゃう人間関係とか。



どれみを観ていたときには想像もしなかったような現実がいつも私たちの前にはある。
それを「魔法で解決してみよう」なんて思ってても解決なんてしないし、やな宿題を全部ゴミ箱に捨てるわけにもいかない。
そんな鬱屈としたどうしようもない気持ちで過ごすことがある私は、物語の中、同じように「どれみと友達」だったミレたちの物語がどこに向かうのか、途中から息を詰めるように、あるいは祈るように観ていた。


なにが嬉しかったか、書き出したらキリがない。
好きなことがあること、それを通して友達ができること、それは大人になっても変わらなくて……いやむしろ、大人になったからこそより、あり得る奇跡だということ。
そして、そんな相手と仲直りする方法や、大切にする方法はあの頃からなにも変わっていないこと。

そして、それをミレたちが「おジャ魔女どれみ」を通して知ったように私も、そうなのだ。



どれだけアニメのなかの景色を覚えているか、なんて話じゃなくて、たぶん、それはもう、心の奥底に積み重なって地層になって私の一部になったんだ。



どれみたちは、そしてミレたちは、最後にすごく素敵なことを教えてくれた。そっと私の目の前にある途方もない現実へ歩くための背中を押してくれた。
あの頃の日曜日と同じように「ああ楽しかった!」と叫んで、明日からの毎日を明るく過ごせるような気がする。

推しとか好きとか人生とか

よく「つくさんは好きなものが多い」と言われる。あるいは、熱量を持って好きなものを追いかけてる、と。
私はその度にびっくりするしそうだろうか、とも思うし、だとしたら嬉しいとも、そんなことないんですよ、とも思う。




思えば、「好き」という感情、あるいは「推し」という存在が尊ばれるようになって結構が経つ。
昔は使いづらいとすら感じていた推し、という言葉はいつの間にか身近になり、伝わりやすく使いやすい言葉へと変化した。



好きなことものひとがいることが正しいとされる……正しいというと言葉が強いなら「良いことだ」と言われる世界なんだと思う。何かに熱中してることが揶揄されにくく、なんなら羨ましがられるようになったことに私は今でも時々、新鮮に驚く。



私は学生時代、「自分の好き」に引け目を持っていた。
それはあなたより私の方が好きなんだから好きだって言わないで、と言われた幼少期の記憶やあなたは好きだから頑張れるかもしれないけど私はそうじゃないから無理と言われた高校時代の記憶の積み重ねの結果なんだと思う。
私が好きだと言うことが誰かに拒絶されたり優劣をつけられたり線を引かれる結果になる。そういう事実は私の中で私の好きという感情の価値を大いに下げた。



ところが、社会人になり小劇場でお芝居を観るために遠征して通うようになり、面白かった!と叫びたい気持ちをひたすらTwitterに書き連ね出して状況が変わった。自分が何かを好きだ、と言っていることをいいね、と、言ってもらえるようになった。
好きなものを好きだと言うことに眉を顰められないどころか、肯定される。
それは、好きなことを話し続けることで回復する私にとって革命に近いものだったりした。



それは単に私の環境が変化したんではなく、世間とでもいうものが「推している」ことを肯定する流れになったんだと思う。

単にそうして誰かを応援する姿がどう、というだけではなく、日々いろんなことがあるなかで好きなものがその人の軸になりその人が真っ直ぐに歩けるようになる。そんなことがどれくらい大切かが言われるようになったんじゃないか。



そしてそんな中で各々が"推し"とは何か、を考えるようになり、"推し"についての言葉が増えていく。
私も実際このブログで様々な推しの話をしてきたし、もはやルーティンワークか何かのようにずっと「私にとって推しとは何か」を考えている。
それがしんどくもあり、楽しくもある。
哲学者が延々と哲学について考察するように、というとさすがに怒られるような気がするけど、でも本当にまるで私の人生の中での命題みたいな気持ちで考えているのだ。



そしてここ数ヶ月いろんなことがあるなかで、やっぱりあいも変わらず「私にとって推しとはなんなのか」「推すこと、とはなんなのか」をずっと考えていた。



私はだいたい、役者さんやアーティストを応援している。
それは彼ら自身が好きだ、の前に「彼らが作る表現が好きだ」という前提がある。人間性に惚れたというよりも、作り出すそのものが好きだ。
しかし、そうしているとやっぱり本人のことも気が付けば大好きになっていた。その人がどんな人かを知るたび、人として惹かれていく。
もちろん、それがちょっと行儀の悪い"好き"ではないかとは思っている。
だって当たり前だけど、その人たちは「何かを表現」するために人前に立っている。
その人たち自身含めて商品だ、ということだってできるかもしれないけど、やっぱり私はそうは思えない。表現者、とはなにも自身含めてパッケージ化される必要はないと思う。だって、そこにいるのは特別な人、ではなくて、ただの人なのだ。たまたま、特別な表現を作る人、かもしれないくても。
だからそんな自分までも削って誰かに差し出す必要なんてない方がいいのだ。



ところで、応援しているアーティストがいる、というと「実際のその人はテレビや板の上で観るような人じゃないかもよ」と親切に教えてくれる人がいる。あれやこれやと過去のゴシップまで持ち出して教えてくれる親切な人に出会うたびに私は首を捻りたくなる。


いやだって、誰だってそうじゃないか?


何も、テレビに出る人だけじゃない。私たちだってその時々、TPOに合わせて本心を隠して、良い人に見られるように振る舞っている。
もちろん、メディアに出る人ほどその"善人であれ"と求められる圧はすごいと思うので全くのイコールだ、というつもりはないけれど
でも、なので「本性を隠して良い人に見られようとしてるんですよ」と言われるとある程度誰だってそうじゃないですか、と返したくなるのだ。親切な人たちは、そんなことないのかもしれないけど。



例えば、結婚する前には本性を知りたいから酔わせてからがいい、と以前知り合いが言った時、私は猛烈に抗議してしまった。
だって、その人の前でいい人であろうとしたことはある意味、その人からの優しさではないのか。気遣いのギフトなんじゃないのか。
それを引っ剥がして「ほらこんな酷いやつだ」「ろくでもないやつだ」と指を指すことこそ、酷い話じゃないのか。


もちろん、単なる優しさや気遣いではなくて、騙すため、だって往々にしてあるだろうから全てをまとめては言えないけど。



そして「見えている推しはどこまで本当か」を考えていると私の拗らせた頭は「推しをどこまで肯定するか」という話へと流れていく。
それはつい最近、推しが炎上するところを初めて見たからかもしれないし、今年の私の年間を通しての思考が「正しい表現とはなにか」にあったからかもしれない。



キャンセルカルチャー、という言葉を知った。
著名人を対象とし、過去の言動を告発・そこから批判が殺到し、現在の地位や仕事を失うことを言うらしい。
デジタル・タトゥーという言葉もずいぶんと身近になった。
あるいは、価値観の変化、倫理観のアップデートを通して過去評価されていた作品に対し、エクスキューズを投げる動きも時折見られる。



その線引き、正しさをどこまでとするのかというのを私はこの一年ずっと考えていた。
まるで悪を成敗するかのようなキャンセルカルチャーのムーヴメントには疑問を感じるものの、一方で価値観や倫理観がアップデートされることはすごいことだし良かったな、と思う。
その同時に二つ成立させるには矛盾するような思考をずっとああでもないこうでもないと続けていた。



健全な批判だけできればいいのに、とその度に思うけど、そう考えるといつも、いや人に"健全な批判"なんてできるのか?という疑問に行き着く。
何かの感情を含めず、ただ事実だけを視て考え、批評する。
そんなこと、できるんだろうか。何をどう見るか、どう見えるかなんて全てその人の人生がそのまま反映されるだろうに。



じゃあ、好きになったら全肯定してみる、と考えても見るが自分の性格的にもとてもじゃないがそんなことできる気はしない。
全肯定しよう、も健全な批判をしようも、どっちもかなり高確率で自分が歪んでいく気配しかない。



いやそもそも、だ。
私は本当に推しが好きなのか?
もしかして、ひょっとして「何かを好きでいる自分」にしがみつくために利用していないか?
だって、好きなものがある人は素敵なのだ。それはたぶん、きっと、そうなんだろう。
だとしたら、そこにしがみつこうとしていないとどうして言い切れるだろう。



なんてことを考えるとその途方もなさ、無理ゲーっぷりに怖さすら覚える。だというのに「生身の人」というものを好きでいることは、誰かを傷付けるリスク傷付くリスクが、あまりにも高過ぎる。
なら、手放して好きになんてならない方が、何倍も幸せで優しく過ごせるんじゃないか。



でも私は、そう少なくとも「私」は、何かを好きでいることは、あるいは推しという好きだという気持ちをぐちゃぐちゃに煮詰めて呼ぶその先にいる人々は、自分の毎日を肯定する理由なのだ。そして、言ってしまえば、そんな人たちのおかげで、私はひとを嫌いになりすぎず、毎日にうんざりし過ぎず過ごしている。
別に私の人生は推しのためにあるわけでもないし、そうするつもりはさらさらないけど、大切な軸足の一つなのだ。
疑いはするけど、それでもやっぱり、突き詰めるとそこに至ってしまう。



推し、とひとまとめにして呼んでいるが、私にとってそういう好きな人たち、は自分が進む時の指標にしている"灯台"のような人々と、「ああ大丈夫だ」とその美しさに安心するために見上げる"星座"のような人々がいる。
その誰もが、欠けてしまえば私の人格が大きく変わるような顔つき一つ変えてしまうような、そんな存在だと、思うのだ。それがあまり良くないことだとしても。



私自身がたぶん、人間が好きだなあと思うために推しがいて好きなものを楽しもうとしていてそういう"過剰な物語化"で生活している。それはきっと、間違いない。
そしてそれを自覚しながらも今すぐそれを正すかも、正せるかも正す必要があるのかもわからない。



どうだろう、なんて面倒で無意味な思考回路だと笑われるかもしれない。だけど、自分にとって大切なものだと過剰なまでに頼ってしまっているのは間違いない以上、だとしたら、考え続けるくらいの誠意はせめて、示していたい。
面倒でどうしようもなく、みっともなさすらある思考回路だけど、仕方ない。生きてるのだ。
だとしたらせいぜいのたうち回ろう。せっかく、あなたにもらった今日なのだ。
なら、私は考えて考えて自分の言葉を探したい。それが今の私にできる精一杯、推しに自分の人生のハンドルまでは任せず、自分の人生を生きるという方法だ。

拝啓 コックピットより

一年半ほど、北海道で暮らしていた。
仕事の都合でかつ短期での居住だったので、ワンルームを借りていた。その部屋がコの字だった。キッチンがいっぺんの長い部分にあって、その反対にベッドを押し込んでいた。というか、ベットくらいしか置けないような配置だったのだ。
だから、細長いベッドだけの空間、左右をほぼ壁に囲まれながら約一年半、寝ていた。


ちょうど去年の世界がひっくり返ったような時期での一人暮らし。特に知り合いもいなくて、かつ、知り合いを作りに街も出歩けず
また、多くの人と同じように私もしっかり参って過ごしていたその時間。
眠るのが少し下手くそになった時期、私を自分を取り囲む壁を見ながら「まるでコックピットみたいだな」と思っていた。


世界から切り離されたようなその空間。何も見えない聞こえない。そういえば、雪が降るとやけに街が静かだったからそのせいかもしれない。
使い倒した布団にくるまってじっとする。それは昔、漫画の中で読んだ宇宙船のコックピットに似ていた。



去年、どうしようもなく悲しいことが起こった時、私はほぼ反射的に度数高めのお酒数本と思いつく限りのつまみ、それから次の日のご飯を買った。
行儀の悪い飲み方だということくらい重々承知していたけど、アルコールで理性の箍をなるべく緩めなきゃいけないと思った。
ここでちゃんと泣かなければ「悲しい」と言わなければ、たぶん、私は今この内側にある悲しいや寂しいを後生大事にするような気配がした。



悲しいという感情を内に置いておくわけにはいかない。それはじわじわ、私を削る。


もちろん、アルコールで理性の箍を外さずにそういうものと向き合えることが一番理想的であるけれど、
余計なことを考えそうな頭を黙らせるためには、また悲しいということ向き合うことだけをするためには必要だったのだ。



そうして、計算通り、しっかり理性の箍を外して私はその時、生まれて初めて、目が腫れるまで泣いた。
泣きながら、どれだけ悲しかろうが嬉しかったり好きだったり幸せなことはなくなりはしないのだと思った。泣くだけ泣いてコックピットに逃げ込んだ時、あたたかな布団の中で思ったのは、ああ大事だなというシンプルなことだけだった。




ところで、札幌の夜明けは早い。緯度だか経度だか覚えてないけど、つまりそういうものの関係で4時には明るくなっていく。
めちゃくちゃ早い。しかも眩しい。
朝だ、と私はその光景を見るたびに思った。
暗かった窓がだんだん明るくなる美しさを私は札幌のその個人的なコクピットで知ったのだ。




まるで、示し合わせたかのように今日、めでたい知らせが古い友人から届いた。知ってるかもしれませんが、と書かれていたが寝耳に水でああ良かったと思わず仕事中、通知を見て叫びそうになった。
通知を見て声が出そうになることが、一日の仕事中、二度もあるのは本当に珍しいと思う。



あのコックピットを私は今、思い出している。
ひとりきりの街で唯一私の居場所だったコックピットは、とてもとてもシンプルなものだけあった。
好きなもの、大切にしたいひと、時間。嫌なこと、悲しいことや許せないこと。
取り繕う必要もないことがただあちこちに降り積もっていて、特にそれをどうする必要もなく、眺めて過ごしていたのが、あのコックピットでの時間の意味なんだと思う。



今はただ、このコクピットの中にいたい。
札幌の家を引き払い、短期間での引越しなんて無茶をしてまで手に入れた場所は、たぶん、あのコックピットと同じようにただ私を匿ってくれる。


コックピットにはやがて、朝日が入ってくる。容赦なく「次の日」を私に教えてくる。わかってるから、だから今だけ、ここで過ごさせてほしい。



https://music.apple.com/jp/album/leave-my-planet-feat-%E9%8B%BC%E7%94%B0%E3%83%86%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%B3/1586068083?i=1586068739



別にこの曲を聴きながら書いたからコックピット、という表現を使ったわけじゃないけど、
この曲への好きが増したな。

スパゲティ・コードラブ

Twitterが好きだ。
情報を集めるためにもやってるけど、それよりむしろ私は自分の好きを集めに集めて作り上げたタイムラインが流れていくさまを見るのが好きだ。
今日も何処かで誰かが生きて笑って美味しいものを食べ、好きなものの話をしている。
そんな景色をただぼんやり見るのが、たまらなく好きなのだ。


スパゲティ・コードラブを観ながら、そんなTwitterみたいだな、と思った。
群像劇というのが一番近いんだと思う。


「この人はこういう名前でこういうことをしているこんな人です」


そんな分かりやすい説明はなく、
ただただ画面には彼らの言葉が流れてくる。
その断片からなんとなく彼らを知るだけだし、
知ったけどあくまで"知った"のはその表面、
彼らがそこに映し出したものだけなんだろうな、と思わせる。


それは映し出されるのが断片というのもあるけど、時折交わった他の誰か、から見える世界が
さっきのシーンで本人が言ってたものとがらりと違うものになったりするからだ。



写真を仕事にしている彼の苦しみを、憧れる彼女は知らなかったし
好きな人のお嫁さんになりたいと言う彼女は彼の気持ちがどこにあるかを見ようとしなかったし
こんなみっともないこと知られたらと思いながら占いに縋る彼女は隣人が自分の声を聴いてることを知らなかった。


ここで挙げきれていない数の登場人物たちが交わったり交わらなかったりしながら、映画は進む。

そして観客である私たちは目の前、起こる出来事しか知らない。だけど、気が付けば、そんな人たちのことが大好きになっていた。



いや、大好きというのは大袈裟でちょっと目が離せなくなった、というべきかもしれない。
なんせ、大好きというには私は彼らを知らないのだ。
嫌なやつだなと思う瞬間もあって、愛おしく思う瞬間もあって、ただただ、目の前の光景から目が離せなくなる。



それは"表現したい"ひとたち、表現すること、が、たくさんいたからかもしれない。
イタい、と言いながら思いながら、彼ら彼女らは表現する理由を承認を求めてだという。


承認欲求。
それは、Twitterでも度々話題になる。
何かを創作する理由が承認欲求であることを嗤い、バカにし、でも憧れたりする。
創作活動が崇高なものだなんて思ってないけど、でも、承認欲求だからくだらない、と言われると苦しい。
それでも、好きなことは止めたくない。何かを作りたい。意味があるなんて思い上がる気はないけど、やめられない。


そんな気持ちをぐるぐると思い出した。



それは分からないながらに、みんななんだかしんどそうだな,と思ったからかもしれない。
イージーモードだと言う人も出てきたりはするんだけど、みんな一様に寂しそうでちょっと苦しそうだ。
疲れた顔をすることもある。
それはある意味、私が街を歩きながらよく見る光景でもあるのだ。



何かを作ってても作ってなくても作れなくても。
みんなが一様にそんなもんだと思って諦めて、諦めきれずにもがいてる。



今日も何処かで誰かが生きて笑って美味しいものを食べ、好きなものの話をしている。
そんな景色をただぼんやり見るのが、たまらなく好きなのだ。


そう言ったけど、Twitterに流れてくるのはそれだけじゃない。
どこかであった悲しいこと、自分の好きなひとに起こった理不尽や将来の不安、行きすぎた自意識。
ノイズのようなそれが流れてくるのもまた、Twitterだ。そして街の中だ。私は何度も、SNSや街中、テレビの中で、ああ本当に人ってくだらない、最低だ、と思ったことがある。


ところで私はハッピーエンドが好きなので、
映画や物語を楽しむ時、そこにいる人たちがどんな形になればハッピーエンドだろう、と考えることが結構ある。
そういう意味で、この映画がどうなれば私は"ハッピーエンドだ"と思えるだろうか、と考えていた。

劇中、何人かが口にした通り、画面の中、映し出される覚えのある感情は苦しくてままならなくて、でも、泣き叫ぶほどの悲劇にもなってくれない。だからこそ、しんどい。
生きてるのはいつだってくだらなくて、みっともなくて惨めで苦しい。


だとしたら、生きている、という時点でもう、彼らが幸せになれることはないんじゃないか。
生き続ける限り、ハッピーエンドなんてものはないんじゃないか。
そんな息苦しさを何度も覚えた。なんで生きてるんだろうと軽く口にするテレビのなかの人々に何でだろうねえと呻きそうになった。


一体、この人たちはちゃんと幸せになれるだろうか。生きてて良かったと言えるだろうか。
それは、ほんの少し、自分勝手な気持ちも含まれてる。


だから、映画の中、思いもしなかった光景たちのことが、いま、頭の中でぐるぐると回ってる。
そんなことがあればいいと強く強く願ってる。
そしてきっとそれは、あるはずなんだ。
だってこんなふうに、この映画に私は実際いま、出逢えてるんだから。


だから私は、ひとりでも多くの人がこの映画に出会ってくれたらいいな、と思う。



最後に。
映画の中のひとびとが、これからも自分の道を進みますように、と願ってる。特に、写真を撮る彼やギターを弾く彼女、広告を作る彼女が。
そしてそんなひとひとじゃなく、日々を生きるそれ自体が"表現"だと思うから、やっぱりあの映画に出てきたひとたち、みんなが、思うままに生きていけますように。


イタかろうがわりに合わなかろうが惨めだろうが表現しようとするのは、考えるのは、言葉にするのはそんな"生きていくこと"への猛烈な怒りがあるからじゃないか。
少なくともたぶん、私はそうだ。

おげんさん 第5夜

奇跡みたいな夜だったな、と考えて、今年、何回こうして源さんが夜を変えてくれたんだろうと嬉しくなった。
何回あっても嬉しい、何回でも、噛み締めたくなる。そんな夜がまたやってきた。


おげんさんといっしょは「偏愛的音楽番組」である。
星野源がゲスト共にただ音楽を演奏するのか、と言われると半分イエスで半分ノーだ。私が今更書く必要もないほど人気で有名な番組ではあるけれど。
彼らは音楽を奏でるし歌うし踊るけど、それだけではなく、好きな音楽の話をともかく楽しそうにする。

そう、私がおげんさんが好きなのはここなのだ。楽しそう。もうそれは、ただひたすらに。



かかる音楽は彼ら自身の曲だったり今だから、この人だからの選曲ももちろんあるんだけど「大好きな曲だから」で紹介され、演奏し、歌う姿はなんだかとても幸せな気持ちになる。


音楽って楽しいや好き、があるんだなという当たり前のことを私は嬉しい気持ちとともに噛み締めていた。
次々と面白いことが起こるものだから、「楽しい!」と大はしゃぎして、嬉しくなって、画面を見つめていた。


そして、パペトーーークですよ。
パペトーーーク、凄かった。
ハッチポッチステーションクインテットとのスペシャルコラボ。発表当時から楽しみだったコーナーは、想像を遥かに越えて私の心に刺さりまくった。

ハッチポッチステーションを見ることは、小さい頃私の日常だった。特に意味がわかって見ていたわけじゃない。
なんなら、今回の放送で「そうか、ハッチポッチステーションって洋楽のパロディをしてたっけ!」と思い出したりした。



それがなんの音楽か、どういう内容かきちんとは分かってなかったけど、私はハッチポッチステーションが好きで、そこで流れる音楽が好きで、口ずさんでいた。
大きくなって「洋楽」がちょっとハードルが高くなったりしたけど、でも例えば『ボヘミアンラプソディ』を観て改めて出会った名曲の数々に「ああ!」と感動したこと。
それは、もしかしたらハッチポッチステーションの時間の影響も大いにあったに違いない。


詳しく解説できるほど覚えてたわけじゃないけれど、それでもグッチさんたちのやりとりを観ていると懐かしく嬉しくなったのは、彼らが私の成長と一緒にいてくれたからなんだ。
クインテットはどんぴしゃ世代ではないものの、横目で眺めてはいて、やっぱり懐かしくて、ああそうそう、と頷きながら聴いていた。例え、熱中して見ていなくても一緒に育ったなかで存在した番組はまるで故郷の景色の一つだし、そのキャラクターたちは故郷で出会う人々なのかもしれない。



そして、そんな彼らがうちで踊ろうを歌い踊ること、いつかの幸せは今も一緒に、同じ時代を生きてること。


うちで踊ろうはやっぱりなんというか特別な曲である。
源さん自身が「あの現象自体が作品」と口にした通り、2020年を、そしてそこから続く今を映し出したような気がする。
そして、そこにピリオドを打つために作られた「うちで踊ろう(大晦日)」を彼らが歌い、演奏する。
うちで踊ろう(大晦日)を初めて聴いた去年の紅白、私はわりとボロボロに泣いた。



私にとってこの曲は、どんな状況でも「楽しい」をするのだという反骨と強気な一曲で、
誰かを元気付けるとか、もちろんそれもあるとは思うけど、それ以上に
「絶対に絶望しきってやるか」という地獄で遊び続ける星野源の意地と狼煙のように思える。
そしてそれを口ずさみ続けた私にとって、許せないことや苦しいことも引っくるめて「諦めてたまるか」という曲なのだ。


それを、彼らが歌っていた。演奏して、踊っていた。一緒に。
一緒にただただ楽しい、を繰り返してきた彼らが「疲れたね」も「クソだね」も「僕らずっと独りだと諦め進もう」も口にしてくれること。
そしてそれでも変わらず、あの頃と同じ、
"音楽は楽しい"ということを奏で続けてくれること。




それは、私にとって、奇跡だった。
あの楽しかったころと地続きだという現実は悲しくもあるけど、力強さが圧倒的に勝った。


おげんさんは、そしてハッチポッチステーションクインテット
○○だからダメ、○○だからムリ、じゃなくて
楽しそうだからやってみた、なんだよな。
それが、本当にずっと嬉しかった。


POP VIRUSで源さんが歌ったように、全部の始まりが音楽から始まったならいいな、と願った。
何が正しいとか、何が偉いとかじゃなくて、
そういうのじゃなくて、
楽しいとか面白いとかそういうのがいい。
それは、希望だけ、面白いものだけが見たいって話ではないんだけど、大いにニュアンスだけしかなくて、伝わるか分からない。



言葉にできない
白黒ハッキリできない
伝わらない



そんなものが多すぎるなかで、それでも同じ音楽をまるで"おんなじ"みたいに笑って楽しんで愛せるならその中身に違いがあったとして、それは「ほんもの」だと思うし、
私はそんな瞬間を幸福だと呼びたいのだ。


そしてあの時、あのおげんさんを観ていた時間は、確かにそんなものを感じたような気がする。


創造で締め括ること、ズラして真ん中にして「面白い」ことをしよう、そう笑ってくれる彼らがたまらなく好きだった。
このまま進もうと、根拠もなく思えた。
面白いことをしよう。
そしてそれは突拍子もない「天才」にだけ許された遊びなんかじゃない。当たり前に積み重ねてきた常識をほんの少しずらした、そんな先にあるんだ。



源さんが、パペトーーークを見て泣いてるのが無性に嬉しかった。
彼自身が信じた、面白いを突き詰めたその先がああして形になること、それをああして嬉しそうにしていること、ああもうほんと、ちょっと幸せ過ぎたな。


年の暮れが近づく頃、今年できたこと、できなかったこと、嫌なこと嬉しいこと
そういうのを全部「おつかれ」って言って
しんどいねー、なんて言いつつ
好きなものの話などをして
「だから好きなんだよね」って笑いながら言い合って
なんとか嫌なことばかりな毎日だけど精一杯面白がってやっていきたい。

そんなことを改めて思う奇跡の夜を私は忘れない。

星野源を聴きながら深夜に散歩に出掛けよう

夜中、ひとり眠れない時。もしくは、家に帰ってきたはずなのに落ち着かなくて身の置き所がない時。
携帯とイヤフォンを手に取って出掛ける。
完全にやらなきゃいけないことからの逃避だ。仰る通り、申し開きもできないくらいただの逃避なんだけど、まあ別に良いじゃないか。それくらい、そんな逃避をしたくなるくらい頑張ったんだということにしてほしい。棚上げ満載、自画自賛120%だけど。


そんなわけで、イヤフォンからは無茶苦茶なイントロが流れてくる。



1曲目、Cube


テンションが上がる。
私はこの曲を作るときの源さんの「なんで人間が演奏できるように変えないといけないのかという怒りを感じた」という言葉が好きだ。よくよく考えたらそりゃそうだ、と思う。
そんなわけで、勝手に同調して「なんで夜は寝なきゃいけないんだ」と怒りながら、部屋を飛び出したい。


そんなことをして良いのかとか、明日の朝の自分に怒られるぞなんて不安になってる暇はない。携帯は、すぐさま、次の曲を流してくれる。
星野源縛りで作ったプレイリストは、夜を過ごす私の味方だ。


2曲目、Moon sick

Moon Sick

Moon Sick


せっかくの深夜散歩だ。
どこを歩こう。
普段歩き慣れた道か、それともいつもなら関係ないからと切り捨てる細道か。車道にも車の影はなくて、ほんの少し、そこを歌い踊りたい気持ちになるけど、万が一のことがあるし、そうなってかかる迷惑まで見ないふりをしたいわけじゃないからやめとこう。
歩き慣れた道を歩くとして、きっと家と駅までの往復じゃ留まらない。そっからずんずん、駅を通り過ぎて歩く。歩道を歩いてるし、周りに人はいないし、ちょっとリズムをとりながら踊りながら歩くのくらい、良いだろう。




3曲目、創造



歩き慣れた道すら、印象が変わる。
よく気持ちや状況、一緒に過ごす相手で印象が変わるとは言うけれど、深夜の、しかも好きな音楽を聴きながら過ごす街も、全然いつもと顔が違う。


なんでもできる気がする。


大袈裟な幸せでもないし、夜中で身体はほどほどに日中の疲れを引き摺ってるからわくわくと飛び跳ねるほどの感覚でもない。
でも、アップテンポな楽器の音たちが眠らせまいと何かを叩く。心を、なんてそれっぽくまとめたくないようなそれを見つめながら歩く。




4曲目、兄妹


兄妹

兄妹



夜中の道を歩くとき、もう今は会えない人のことを考えるのが好きだ。
例えば飲みに行った帰り道、ほろ酔いくらいならいつでも会えない人に会える気がする。会える、と思うのは幻を見るわけじゃないし、何かはっきりと思い出を思い出すというわけでもない。
ただ、なんでいないんだよぉーと素直に文句を言うだけだ。夜中で、誰もいないので。
もしかしたら、近くにいるかもしれないけど、見えないなら、いないのと一緒。そう思いながら、それでもなんだかんだ、いやでも寂しいんですよ全くとぶつくさ文句は、言うんだけど。



5曲目、パロディ


パロディ

パロディ


さて、深夜散歩だからって辛気臭くなりたいわけじゃない。というか、なりたかったら外に出てない。家の中の隅っことか布団被りながら見つめる壁の方が辛気臭いって似合うし。
そんなわけで、らーらーらー言いながら歩く。やっぱり、迷惑にはならないように小声で。
迷惑にはならないように、っていうのは、何も優しさとかモラルじゃなくて「迷惑だからやめろ」って言われたくないからだ。迷惑ではないでしょ?という揚げ足取りで、好きなことを邪魔されずに続けたいからだ。
リズムが楽しいからおかしな足取りで歩こう。歌うみたいに歩く、なんて、夜じゃないとできない。夜なら、邪魔されずにできるのだ。ひとりだとしても。



6曲目、フィルム


フィルム

フィルム


きた。
夜にぴったりソングだ。これこそ、やっぱりちょっと歌いたい。というか、この辺りにもってきた曲は全部歌いたい。
歌うなら夜の誰もいない道がいいから、夜にぴったりソングだ、と思うのかもしれない。
ぐつぐつと煮立った気持ちを捏ねるみたいに、私はいつもこの曲を歌いたくなる。


去年ずっと聴いてた曲の一つだからか。
寂しいといやいや平気ですが、が混ざってる。平気ですが、は痩せ我慢とかじゃなくて「だって仕方ねえじゃん」くらいのあっけらかんとした感覚だ。
まだ、と思う。まだ、の続きが浮かばない代わりにワンフレーズ歌いながらのんびり速度を落として歩く。



7曲目、スカート


スカート

スカート



ほっと、息を吐く。
アップテンポな曲たちと跳ねていた呼吸が落ち着く。

方向音痴なので、街にはいくつも目印を決めてる。赤と白の塔。あれはなんだろう、電波塔なのか、分からないけど。
よく行くスーパーとかも、目印ではあるんだけど、そうじゃなくて背の高い何かを見つめて「その街」を理解しようとする癖があるのかもしれない。
ぼんやり、それを見ながら立ち止まる。
そういや曲がご機嫌だったのでせっかくの深夜散歩なのに立ち止まるのを忘れていた。
学生時代から時々、道端で立ち止まることがあった。立ち止まりたくないのに立ち止まることも、わざと立ち止まることもあって、どちらにせよ、ぼんやり立ち止まって空を見るのが好きだ。だいたい、空は曇ってて何も見えないことが多いけど、それでもいい。というか、だから良い。



8曲目、くだらないの中に


くだらないの中に

くだらないの中に


歌声が背中を押すので、歩くのを再開する。
再開しながら、ああ、ガチガチに固めたものを緩めたかったのか、と思う。
のびのびしている、と思うのはどこか窮屈さを感じるからだろうか。この曲の歌声はすごく伸びていくような感覚になるんだけど同時にきゅっと力が入ってるようにも思えて不思議だ。

叫びたい、みたいなことって大体あって。

叫ぶって何かを発散するけど、脱力してるとできない。脱力して声を出しても出るのはノアー…というぬぺっとした声ばかりだ。
叫んで緩めるためには一度、ぎゅっと力を入れないといけない。
そういう意味で、この曲を口ずさむと気持ちよく、力が入ってしかも空振りせず、出したかったものを出せるようなそんな気がする。



9曲目、不思議



吐き出したそれを、放り出さず、目を逸らさずでもそのまま抱えるにはゴツゴツしてるから、そっと毛布で包む。
包んでみると、案外、可愛らしくて生き物みたいだな、と思う。


星野源の音楽に出会ったタイミングもあるんだけど、もういいか、と荷物を下ろせるような、でもそれってべつに自由になるためとかなりたいからじゃなくて、長くそれを持っているために抱え方を変えるみたいな抱えとくことは諦める、みたいな潔さが源さんの音楽を聴くときの私の中にはある。


違うって楽しい、とこの曲と出会ったころ、ずっと考えていた。今でも思ってる。
だけど、同じくらい強く、違うことに傷つき続けてる。でもそれはそれが悪いんじゃなくて、傷付いたこと含めて、楽しいと思いたいし、そんなボロボロの何かをとりあえず抱えて歩くか、の気持ちなんだ。
違う、で傷付いたから同じとき嬉しいし。違うことが悲しいことだって、誰かを想う形の一つだと想うし。


10曲目、日常


日常

日常



深夜の散歩は、非日常だ。嫌な上司も面倒な揉め事の仲裁もしなくていいし、払いそびれたせいでやってきた督促状もないし、返事を先送りにした連絡もない。
楽しかった、と思う。楽しくて、楽しいけど、でもその楽しいは「非日常」だからだ。
部屋に帰れば、重たい荷物を詰めまくった鞄もとりあえず無くさないようにと分け続けたせいでできた書類の山もある。
素敵な音楽を届け続けてくれた携帯は既読をつけるにつけれないまま放置していた連絡アプリを目につきつけてくる。


まあ、それでも、良いか。
非日常ではないし、うんざりすることばかりだけど。
とりあえず今夜も、日常に帰って朝を待とう。





※こちらは、はてなブログ10周年記念のお題「好きな夜に聴きたい星野源の曲10選」に合わせて作成しました。


また、はてなブログ10th Anniversary特設サイトにて「はてなブログ編集部注目ブログ」としてご紹介いただきました。
ありがとうございます。
"ひたすら好きを語る「ラジオごっこ」"とご紹介いただき、なんだかグッときました。
ラジオごっこは最近私が不定期でTwitterでやっているラジオへの憧れを詰め込んだ遊びではありますが、このブログ自体、好きなものをひたすら好きだといい、毎日を楽しみたい思いで書いています。だから、このブログをそう紹介していただけて、すごく、嬉しかったです。

これからも、好きを語り続けて、毎日を楽しみ倒したいと思います。


改めて、はてなブログさん、10周年おめでとうございます!そしていつもありがとうございます、これからもよろしくお願いします。